「次世代育成」の順番

人材教育という場面で、必ずでてくるテーマに、「次世代育成」とか、「若手育成」がある。

経験と技術を習得した、「ベテラン」やら、管理職から経営者に社内昇格した、「安全地帯」のひとたちが、あたかも上から目線で語るのが定番なのである。
だいたいの共通に、「今どきの若いものは」という、古典的な一言で表現するものだが、自分たちが若かったときのことは、しっかり棚に置いている。
また、多くのばあい、自分の努力で習得したのだ、という感覚が強いことも特徴だ。

だから、「今どきの若いものは」には、暗に自己研鑽が足りない、という不満の意味が隠されている。

しかしながら、はたして企業内における「育成」とは、あたかも植物が勝手に成長しているように、自然と育ったものなのか?
むしろ、個人的には付ききりで指導してくれた先輩は存在しなかったのか?
その先輩が、後輩の指導をすることに、組織として命じるとか、組織として意図的にやらせることはなかったのか?
などと問えば、勝手に育って一人前になった人材などほとんどいないと気づくのである。

すると、経営トップがいい出す、「次世代育成」の意味とは、その企業組織における次世代育成のノウハウが欠如しているのではないのか?を疑わざるを得ないのである。

ここで注意して欲しいのは、「組織がもっているノウハウ」と書いたことである。
もっといえば、上に書いた、ベテランとか管理職、あるいは管理職から経営者に社内昇格した人たちの「層」が、ひとくくりとして組織になったときのノウハウのことだ。
たまたまそこにいる、個人の思い、ということではない。

なぜならば、日本企業における「人材育成」の主流は、OJTだからだ。
つまり、業務を実際に行いながら訓練を受ける形式が、ふつう、だからで、だからこそ、訓練を施す側にこそ、訓練を受ける側に「わからせる」ためのノウハウが必要になる。

たとえば、製造現場だとこれを、「TWI(Training Within Industry」という、戦後にアメリカ軍が持ち込んだ「訓練ノウハウ」がしられている。
このプログラムのモットーは、「部下ができないのは、わたし(上司)が教えていないからだ」と明記されている。
つまり、ぜったいにできるようにするための、上司の側の訓練なのである。

こうして訓練された上司が、新人や後輩を意図的に教育することで、短期間で、対象者全員をできるようにする。
端的にいえば、時給換算しても最も合理的に安価で済ませる方法だともいえるのだ。

こうしたノウハウが、組織運営全般で機能させるのにも、訓練が必要で、それがまた、米軍による、「MTP(Management Training Program)」であった。

すなわち、マネジメント層全員が、組織マネジメントのノウハウを共有している状況(環境)が意図的に作られてから、はじめて新人や若手に組織運営の手法を教育訓練することで、それが確実に浸透するのである。
逆に、このような環境あるいは、「組織風土」がない状態で、若手や新人に組織運営のノウハウを訓練しても、上司たちマネジメント層にばらつきがあるのなら、その組織は組織的に運営することができないともいえるのである。

すると、あらかじめマネジメント層に訓練を施すことが、「時給換算」しても、最も合理的で安価となることがわかるのである。

しかしながら、奇妙なことに、最も企業内で時給単価の高い、マネジメント層から、たとえば、「MTP」の実施を提案しても、たいがいが「多忙」を理由に不可能だということになる。

このことは、皮肉にも本稿冒頭の「特徴」と合致するのである。

すなわち、「次世代育成」とか、「若手育成」をいいながら、自社において最も合理的かつ安価な方法を理解しないマネジメント層が原因で、その企業内における、「次世代育成」とか、「若手育成」を阻んでいることになっている。

この漫画のような状態が、深刻な組織運営上の問題の原点なのだということにも気づかないのは、悲劇的だ。
どんな商品企画をしようが、なかなか思うようにいかないのは、テクニカルな問題よりもずっと組織としての問題の方が大きいものだと、製造業の世界では常識になっている。
失敗でろうが成功であろうが、製造業ではその原因をきちんと追求することを常としており、どちらにせよ、最大のポイントに「ひと=組織」が存在することはわかっているからである。

ゆえに、製造業では、「ものづくりはひとづくり」が合言葉になっている。

人的サービス業とは、基本的なサービス商品は、ひとがつくりだすしかないにもかかわ、「サービスはひとづくり」のレベルになく、もっぱら「個人の資質」に原因をおいているものの、その個人をどのように鍛えるのかさえも、個人の責任にされているのである。

にもかかわらず、「チームワーク」とか、「一丸となって」という言葉がマネジメント層から絶えないのは、原因の追求をやったことがないと告白しているようなものだとも気づかない。

これは、もはや「組織運営」とか、「経営;ここでは「マネジメント」という」の域に達していないことになって、もはや「ごっこ」の世界ではなかろうか?

「おもてなしの国」に、世界的な「人的サービス業」が存在しないことの理由は、まさにこれ、なのである。

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