失敗ができない悲惨

「失敗は許されない」

むかし観ていた、『科学忍者隊ガッチャマン』とか、『仮面ライダー』とかで、悪の親分が手下の怪物に、ヒーローたちを倒せと命じるときの常套句だった。
あるいは、外国のスパイ物とかでも、同じように命じて、失敗したら仲間内で厳しいリンチ処刑が実行されるものだった。

これらの共通に、「硬直した組織」という状態がある。

あるいは、上からの命令は絶対、とか、最近では、ミッション、とかとも言っている。
それで、命じる側もたいていが、組織内昇格したひとの場合がおおい。

では、「失敗」の定義とはなにか?

万事を尽くしても、所期の目的を達成できなかったときのことだ。
だから、評価者が問うのは、「万事を尽くしたのか?」となる当然がある。

しかしながら、そんな中身の評価はそっちのけで、表面上の「結果」しかみないのである。

たとえば、「結果こそがすべてだ」と、言葉にできる人物がトップだと、組織は硬直化をはじめる。
ビジネスの場なら、「結果こそすべてだ」はあり得ず、「プロセス管理こそがすべて」なのである。

そうでなければ、「改善:カイゼン」すべき仕事のやり方も発見できない。

ところが、どんなにプロセス管理に気を配っても、未知への挑戦ならば、結果の「失敗」はあり得る。
ここで、「表面しかみない」か、「中身をしっかりみようとする」かで、大違いとなるのだ。

プロセス管理に問題がないのに所期の目的を達成できなかったとき、というものには、中身に新しいノウハウが修得できた、「経験値」という、金銭では買えないような価値が形成されているものだ。

つまり、組織活性化のタネができている。

よって、再挑戦ができるのである。
これが、進歩のメカニズムの基本なのだ。
なぜなら、科学がそれなりに発達した現代では、たとえ紙一重でも、ひとりの天才ではなく、組織としての「経験値修得」がえらく重要になってくるからである。

世にある失敗の9分9厘が、「手抜き」によるもので、定義にある、万事を尽くしていないから、それは失敗ではなくて、サボタージュというのが本当なのだ。
プロセス管理の中身をみれば、すぐにわかるものを、みない上司も手抜きに加担しているのである。

「これは最新技術」だと消費者にアピールする宣伝はまだしも、技術の現場の本音では、この30年、新しい画期的な技術は誕生していない。
この「殻」を破った者が、次世代の成功者となる。

この意味で、「失敗」を認めるか、認めないかという「方針」のちがいが、分かれ道となるのである。

許されない、ではなくて、もっと厳しい、「失敗を許さない」世界の典型が、「官需」にある。
例えば、「原子力ムラ」とか、「宇宙ムラ」とかとよぶ、「ムラ(村)社会」がそれだ。

どうしてそうなるのかは、簡単にして明瞭で、「税金」という名目の、「公金」が投じられるためだ。

しかし、公金の所有権は、広く国民にあることになっているので、じっさいは誰のものかがわからなくなって、これらの事業に関わるひとたちは、みな、「自分のカネ」ではないために、「占有権」を行使している。

それだから、余計に、「公平性」だとかいう、綺麗事を先にたてて、そのえらくテキトーな運用を誤魔化すのである。

この誤魔化しのプロフェッショナルが、たいがい東大法学部を優秀な成績で卒業して、国家公務員総合職試験を優秀な成績でパスした高級官僚たちなのである。

小学校からとにかく勉強づけで生きてきただけの生物だ。

文部省が定めたカリキュラム(「学習指導要領」)の範囲内だけが、このひとたちの優秀さの根源であって、この範囲を超えることは、思考もできない。
なぜなら、思考せずに(疑問をもたずに)、ひたすら決まった範囲内での正答率を高める訓練しか受けてこなかったからである。

戦後日本人の、致命的な勘違いによる悲喜劇は、こんなひとたちを、「優秀」とか、「頭がいい」とかとプロパガンダされて思い込まされてきたことにある。

それでもってこれまた、役所に就職したら、「行政法」という巨大法典の範囲「だけ」で生きていくことになっている。

いつも、「範囲」があって、これを超えることがはじめから想定外なのだ。

しかし、チェックすべき国会が機能しないように、「小選挙区・比例代表制」なるインチキに選挙制度を変えたから、以来、明治期よりも酷い国家資産の私物化・簒奪・窃盗を白昼堂々行っても、一切お咎めなしの役人天国になったのだった。

それゆえに、学校の成績が一生の財産であると、こんどはウソのような思い違いをして、「官尊民卑」を貫こうとするのだ。

残念ながら、「官需」という世界だけに、カネを出すのも「官」なので、「民」は奴隷のような扱いとなる。
しかし、そこは悪代官と御用商人の結託で、おおいに「手抜き」が容認されるのである。

「官需」では、一般人には知る由もない、高度な技術だからだといって、「一品もの」の部品を特注する。
しかし、どうして汎用製品ではダメなのか?についての証明は無視される。

これで、万倍もの単価になっても許されるのだ。

その理由は、これまで問題なかったから、とか、無事故だったから、ということでの「信頼」なのである。

なんと、技術の話が、「有職故実」になっている。

 

もっといえば、汎用品を試すのが面倒だし、一品ものだから得られる利益にならない。
役人の方は、「大型プロジェクト」から、「大型」がとれたら、手柄にならないのだ。

国民が参加しない民主主義体制なので、役人は経費削減を要求しない。
まったくもって、サボタージュで潰れた「ソ連型共産主義」をわが国は採用している。

国民は失敗の原因すら正確には知らされない(たとえば、ロケットの打ち上げ失敗原因とか、フクシマの事故原因がいまだに「津波」だと誤魔化す)で、また、「失敗」ではなく「手抜き」だったとしてもなにも知らないままでいさせられるので、適当にガス抜きができたら元の木阿弥の繰り返しなのである。

そうやって、後術開発をしている風情で、技術の化石化(有職故実化)がはじまる。

旧東ドイツが90年代まで製造していた、「迷車」とは、「トラバント(Trabant)」だ。
東ドイツは、技術開発予算を投入していたのに、製品までいかないのは、「官需」に吸い取られたのである。

そんな風習が、民間の深いところにまで拡散して、格好良く、「失敗は許されない」という阿呆経営者が後を絶たないでいるのは、日本経済の悲惨にまでなっているのである。

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