道徳的に立派な目標は失敗する

わが国の戦前における大陸進出がそうだったように、あるいは、戦後なら、アメリカが行ってきた二極(米ソ)代理戦争だったベトナム戦争のように、あるいは、ソ連なき後の一極覇権下におけるイラク戦争など、その失敗を挙げるのに枚挙にいとまはない。

むかしなら、「米帝反対」と叫んでいたサヨクの視線があったろうに、いまは、グローバル全体主義のなせる業だとわかった。
そうしたら、共産党までがウクライナ支援に賛成するという、「逆神の大ヒント」があるのに、だれも気にしなくなったのは、みんなでグローバル全体主義に染まっているからである。

だから、いろんな「もの」や「こと」がなぜ失敗するのか?をかんがえると、その答えは簡単で、世界の価値観が全体主義に統一されてきているからである。

その実験場で、平時にしていま最悪の状態にあるのが、英国で、次がわが国だ。
英国のばあいは、北海油田を棄てて「風力発電依存」をして、自分から経済を破壊したし、わが国の場合は、ワクチンなる毒薬をもって、政府が国民を殺傷している。

厚労省が、HPにあげたわかりにくい数値は、「詳しくは自治体にきいとくれ」という、かつての「駅前留学」の宣伝文句のようにして、全体を隠す全体主義をやっている。

かつては、欧米とわが国の価値観もぜんぜん違うものだった。
これを、敗戦によって完全に「標準化」を謀る再構築をされてしまったのが、いまのわが国の姿なのである。

もちろん、善意を装った悪意であって、戦勝国たちは自ら突きつきた、「ポツダム宣言」を、勝手に拡大解釈とねじ曲げをやって、「国際法なんてない」ことことがわかるほどの、古代ローマ張りの「征服者」として振る舞ったのである。

それが、ダグラス・マッカーサーという特異な性格の人物をシーザーと同格に据えた、文民統制の文民側(アメリカ民主党)の意図なのである。

まっ先に180度の転換を強いたのが、わが国の教育制度だったのは、「あたらしい日本人」を生産するためで、いわゆる受験エリートたちは、新「体制派」にならざるを得なかった。
自ら、この体制の申し子だからである。

その矛盾が、「全共闘」になって、いっそうの撹拌をやったのだった。

しかし、誤解されては困るのは、戦後の「体制派」とは、なにも当局の与党だけを指すのではなくて、既存政党や既存組織すべてに籍をおく人たちぜんぶをさすことにあるのだ。

たとえば、もっともアウトローに分類されるはずの、志位和夫日本共産党委員長だって、ちゃんと「東京大学卒」という意味の体制派なのであるし、祖父は志位正人陸軍中将という「体制」そのもののひとだった。

いいたいのは、共産党云々ではなくて、「公党」としてあれば、「体制派」に含まれる、ということである。
ようは、当事者の意志とは関係なく、体制にまるごと呑み込まれるようにできているのである。

すると、人間の頭でかんがえる、「理想社会とはどんな社会なのか?」も、体制からの発想という意味になって、最初から矮小化するものだといえる。

西尾幹二渾身のシリーズ、『GHQ焚書図書開封』(全12巻)は、戦前の、「大日本帝国」における体制の中で書かれたものが、戦後のGHQによる、征服を受けて、体制転換した我が国には向かないとして、「焚書(没収・発禁)」された図書の記録である。

つまり、いまの体制からしたら、間違いなく「反体制」の図書類なのである。
これらになにが書いてあったのか?は、「公平・公正・中立」をいうなら、嫌でも目を通しておかないといけないのである。

卑近な例になるが、いつの間にか、「エロ本」の定義が変わって、「ヘアー解禁」なる変事がふつうになったのは、ただの「時代の流れ」だけが理由なのか?

あるいは、「チャタレイ事件」(昭和26年)では、『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳した伊藤整と出版元の社長に、「わいせつ物頒布罪」が問われ、最高裁判所は上告を棄却して、東京高裁の有罪が確定したのだったが、1996年(平成8年)に、「なし崩し」で完訳本が新潮社から出版されている。

最高裁の決定はどうなったのか?
どうして、新潮社にはおとがめがないのか?これも、「時代の流れ」だけが理由なのか?

いまの「AV」と比べたら、わが国初のハードコアだった、武智鉄二監督作『白日夢』は、谷崎文学を映像化した、まったくの「文芸映画」にちがいない。

どうしてこうなったのか?は、GHQが設定した、当初の「体制」が、もともと無理と邪悪だったために、「革新」と「反動」の揺れもどしで、地震でいう「液状化現象」が、社会で起きた結果といまだ進行中の、目視できる姿なのである。

要は、「3S政策」の仕上げに入ったのではなかったか?

別の例をいえば、フィリピン・プレートに乗っている、「伊豆島」が、本州とぶつかって、「伊豆半島」になったけど、いまだに本州を圧していて、それでできた南アルプスが、地球最大の隆起(4mm/年間)をしているのと等しい。

ちなみに、インド島がユーラシア大陸に衝突してできたヒマラヤの隆起は、2mm/年間だから、数億年後には、南アルプスがヒマラヤを超える高さになるのは、確実なのである。

そんなわけで、最初の設定を間違えると、たとえそれが数ミリとか、角度でいえば数秒もなくとも、長い時間のうちに、どんどん離れていくのは、なにも物理現象だけでなく、人間のつくる社会もおなじなのである。

だから、まともな理想論とか、むかしからの道徳をかざすと、GHQが勝手に設定した「原点と方向性」との違いとなって、たいがいが失敗の憂き目を見るのである。

ところが、それならGHQが設定したオリジナルを忠実に実行すれば成功するにちがいない、とはならないのは、わが国の歴史から民族性からなにからなにまで、無視して設定したのがこの「オリジナル」だから、これも成功しようがない。

なんのことはない、わが国は、八方塞がりなのである。

それなら、初めから、を設定し直す必要があるという結論になるのは、子供でもわかる。
でもできないのは、それ自体がもう、「反体制」の話になる必然があるからだ。

だから、八方塞がりなのである。

すると、この八方塞がりを国民の常識にすることからはじめて、ようやく「体制の殻を破る」話ができる状態になるのである。
残念ながら、相当に「痛い目」にあわないと、八方塞がりだとも感じないから、困ったものなのである。

先日書いた、全米自動車労組のストライキに、トランプ氏が労組幹部と会合を持つと発表したら、その会合の直前にバイデン氏が慌ててデトロイトにやってきて、「このストライキへの全面的な支持」を表明するやいなや、ワシントンにとんぼ返りした。

トランプ氏の方は、演説会を用意していて、労組のひとたちが多数参加し、「バイデン批判」に拍手喝采を浴びせていた。

自分の政権がやった四年間の業績を改めて自画自賛すると、聴衆は「そうだった!」と思い出したのである。
この意味で、バイデン政権とは、もしや「消える前のろうそくの輝き」なのかもしれないし、「悪政」による「痛み」を国民が知り、目覚めるチャンスだったのだともいえる。

すると、このバイデン政権にベッタリの自公政権の輝きの意味も見えてきた。

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