科学が暴走する構造

日本における「科学史」の第一人者といえば、村上陽一郎氏である。
もう20年前の出版になる『科学の現在を問う』(講談社現代新書)は、コロナや地球温暖化をいう「今こそ」一読の価値がある。

この本には、「総力戦」としての「第二次大戦」を前にした、アメリカの「戦争準備」の一環としての科学政策という観点がある。

そもそも、近代の戦争における「総力戦」の概念は、日露戦争をもってはじまりとする説が有力である。
ゆえに、日露戦争を別名「第0次世界大戦」という表現さえあるから、現代の戦争の「原点」となっている。

もちろん、絶対的勝利を目指すのが戦争だ。
この点に集中すればナポレオン一世の戦争は、史上初の総力戦であるといえる。
しかしながら、「何かが足りない」と感じるのは、兵器において未だ「伝統的」だったからである。

およそ、「近代兵器どおし」の戦いではなかった。

それが、日露戦争で一変したのである。
陸に海に、戦場が同時点で水平展開して、兵士の肉弾だけでなく、装備の「物量=資金」を一大消費する消耗戦が、国家経済=国民経済を直撃するに及ぶし、勝利の「秘策」ならぬ「秘密兵器」も投入された。

この「秘密兵器」こそが、「科学」の賜物なのである。

しかし、「兵器」だけに限らず、あらゆる分野の科学を統合し、「総力戦」を準備したのは、1932年(昭和7年)にMIT(マサチューセッツ工科大学)の「工学部」を整えた、ヴァネヴァー・ブッシュ学部長であった。これまでは、技術校的であったけど、今に続く大変身を遂げたのである。

「工学部」とはいうけれど、傘下の学科は以下のごとし。
土木・建築学科、金属・鉱山学科、造船・造艦学科、電気・電力学科、民生・衛生学科、化学学科、経営学科、などである。
この時点で、経営は工学であったことにも注目したい。

すでに、MITは「総力戦の臨戦態勢」なのだ。
なぜなら、この年、日本では5.15事件、満州国建国があり、翌年にはヒトラーが首相になって、日本は国際連盟を脱退する「ご時世」だった。

そして、このブログで何度も触れている、わが国の「敵」だった、アメリカ民主党・ローズヴェルト政権が誕生すると、ブッシュ氏は新設された国防省科学研究開発局の初代局長に就任すると同時に、国防研究会議を発足させてその責任者にもなった。

なんだか近衛文麿のブレーン集団、「昭和研究会」がずいぶんな「後付け」の権限に乏しい脆弱な組織にみえてくる。

ここで彼が打ち出したのが、「国家」による「科学研究成果」の収奪だった。
原爆開発で有名な「マンハッタン計画」を遂行した、「ロス・アラモス」も、ブッシュから見たら末端の一研究所に過ぎなかった。

戦争の趨勢が見えてきた1944年、ローズヴェルトはブッシュ宛に書簡を出して、いくつかの質問をしている。
それは、科学を戦時という緊急事態を理由に国民の承認もなく「総力戦」に利用したけど、「戦後」になったら、国家は科学をどうしたらよいのかを問うものだった。

後に「ブッシュ理論」といわれる、彼の回答『科学-この終わりなきフロンティア』報告書の内容は、ズバリこれまでの「継続・維持」なのであった。
すなわち、国家は科学研究の成果を今後も収奪すべきだと。
この「科学」の中には、「流行り病克服のための研究」も明記されている。

これが、いまの騒動の「源流」なのである。

ソ連には、イデオロギーと独裁者を利用して、科学アカデミーの議長にまでのぼりつめた、ルイセンコという「エセ科学者」がいたけれど、アメリカにも似たようなひとがいた。
ただし、ルイセンコは自己のため、ブッシュは国家による科学の収奪のためだった。

科学を題材にしたアメリカの国家プロジェクトでなんといっても有名なのが、ケネディ大統領(民主党)が推進した、アポロ計画である。
ここで、NASAが一躍脚光を浴びたけど、NASAすら彼の組織の傘下にある。

そして、今話題のファウチ博士がレーガン政権で任命されて以来その地位にある、のも同じ「構造・枠組み」の中の話なのだ。

我が国では、1997年に全会一致で可決した「科学技術基本法」によって、国による「5ヵ年計画」が始まった。
この法は、行政機構に科学技術を収奪することを「義務づけている」のだ。
まさに、スターリンや毛沢東の「5ヵ年計画」が思い起こされる。

著者の村上氏は、昨今の「自己責任社会」を「チャンス」と見ている。
それは、個人が参画する様々な組織が、行政に代わって科学研究の成果を収奪することへの期待があるからだと説明している。

なるほど、ではあるけれど、社会人には必然的に科学を見る目がひつようになる。
現代社会とは、高度に社会化された科学を備えた社会だからである。

コロナ・ウィルスしかり、地球温暖化しかり。

つまり、「非理系」にこそ、科学リテラシー(基礎的な理解力)がひつようで、一方「理系」には、社会を見るリテラシーがひつようになる。
これをできないように「努力」しているのが、文部科学省による「文系・理系」の早い時期(いまや中学)での「分離」なのだ。

これで、国民は専門家の「虜」となる。
だから、自己責任を問われる個人は、自分で勉強しないと「永遠に騙され収奪される」ことになっている。
ときには、「命」さえも奪われる。

おそるべきことなのである。

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