「猟犬がダメになる」とは

前に、「ペットの犬は使役犬にならない」、と書いた。
いわゆる、「使役犬」とは、人間が使役する犬のことで、警察犬や軍用犬、猟犬、あるいは麻薬取締犬から、盲導犬までさまざまな「使途」がある。

「愛玩」という「使途」の犬が、ペットだけれども、あたかも人間と同格に置かれた犬には、人間の想像以上のストレスがかかって、気の毒にも精神病を発症してしまうこともある。
ペットも人間界の住人だから犬を支配するのは人間でなければならないのにもかかわらず、犬が主人であると勘違いしてしまうことが原因だとされてる。

だから、ペットの犬には、正しいペットにさせるための調教・訓練が必要になるのだけれど、このことの重要性すらしらないから、その方法に興味もない飼い主がたくさんいる。
それでもって、犬をコントロールできなくなって、「動物愛護センター」における殺処分が絶えないのである。

酷いめにあうのは、「いつも」犬の側なのだ。

猟犬は、犬の特徴・特性となる能力を人間が利用するために訓練される。
一口に「猟」といっても、いわゆる、「獣(けもの)」と「鳥」に分類できる。
獣には、鹿やイノシシが、鳥には、やまどり(キジの仲間)や鴨が代表的な獲物である。

犬の特徴は、まずは「嗅覚」である。
そして、「聴覚」。
さらには、運動能力であって、狩猟・闘争本能もある。
もちろん、背後には人間への忠誠心も求められる。

すると、猟犬にも二種類ができて、獣用と鳥用となる。
なぜなら、獣の臭いと鳥の臭いがことなるからだ。
当然、獣の臭いのほうが強く、鳥の臭いは弱い。

だから、鳥用の訓練をした犬を、獣が多く棲息する山に連れて行くと、獣の臭いに負けてしまう。
鳥を追わずに、獣を追ってしまうのだ。
これで、鳥用とした訓練も台無しになる。

こうして、猟犬がダメになるのである。

だから、鳥撃ちの猟師は、獣が多く棲息する山を嫌う。
やまどりは、そもそも滅多にお目にかかれない鳥なので、やまどりを狙う猟師は、ただ獲物がとれればそれでいい、という感覚はない。

犬が獣の臭いに反応したら、とにかくその場から犬も一緒に離れないといけない。
獣の収獲に興味がないのだ。
むしろ、これまでの訓練がダメになることをおそれる。

猟犬がダメになるとは、餌代が無駄になるという意味になる。
猟犬は、けっしてペットではない。
けれども、ダメになったからといって、動物愛護センターに連れて行く猟師もいない。

そうなると、猟犬の子どもを得るために使うのである。
信頼ある猟師同士で話し合って、自分の犬を掛け合わせる。
優秀な猟犬にも、血統があるのだ。
この信頼に、動物愛護センターを利用しないという意味もある。

ちゃんとした猟師は、犬を犬死にさせない。

そのかわり、狩猟目的という一線もけっして超えないから、ぜったいにペット扱いしない。
この「けじめ」を、犬も理解している。
猟場に到着したら、犬も勝手に狩猟モードにはいる。

すなわち、お仕事モードにちゃんとなって、それなりの緊張とハッスルを開始するのだ。

あるメスの老犬は、歩くのがやっとで、腰をふらつかせながら山で人間に追い越されるざまだったけど、それでも人間に獲物のありかを必死に教えていたのは、嗅覚は衰えていないからだ。
獲物を前にした記念写真には、腰が曲がった座り方で猟師の脚に寄りかかって映っているものの、顔はどこか満足げである。
彼女は、その夜に自宅犬小屋で静かに死んだ。

こいつは精いっぱいの仕事をしたと、猟師も自慢して目を細めた。

この意味で、猟犬は単機能なのである。
この単機能を維持させることも、人間の責任になっている。

やまどり撃ちの猟師は、獣の猟師が減って、害獣化による被害が増えることを深刻にかんがえている。
一方で、獣の猟師は、山で獲った獣を無駄にしない。
虐殺をしているのではないのだ。

ただし、こちらはこちらで、獲物が大型であればあるほど、獲れた獲物の運搬に体力をつかう。
山に分け入るだけでも体力が必要で、獲れたら獲れたで体力がいる。
そんなわけで、猟師の高齢化問題は、すでに絶対数の減少になっている。

猟友会に依頼する従来の「害獣駆除」が、猟友会から断りを入れる事態も発生しているのは、会員の高齢化と人数がいない、という理由ばかりだ。
地元住民のがっかりは、絶望へと変化している。
加えて、コロナ禍は、狩猟免許の講習会も中止させた。

なんだか、海洋で起きていることに似ている。
わが国は、排他的経済水域を含めると世界第6位の面積になる「大国」なのに、海洋生物の資源管理ができていない。
沿岸漁業の衰退も、魚が減って、漁師では食えないからである。

獲りすぎと、河川の汚染、それに山の荒廃によるミネラル補給の減衰が原因とされる。
山の荒廃には、林業の絶望もある。
山を管理する人間の手が、経済価値を失ってしまった。

山国で海洋国家であるわが国は、資源管理の二方面作戦を強いられる宿命がある。
猟犬がダメになる、レベルの話ではない危機がある。

新政権に真っ先に期待すること

新政権の最初の大仕事は、新型インフルエンザ等対策特別措置法での指定から「新型コロナウイルス」を真っ先に「解除」することである。
春先に、慌てて「指定」したのは、どんな病気なのかよく分からない状態だったのだから、仕方がないといえば仕方がなかった。

安倍氏はわが国を「道義国家」と呼んでいた。
「道義」とは、やさしくいえば、「道徳」のことである。
つまり、道義国家とは、世界に道徳性で優る国という意味であり、この分野でのリーダーとなることをいいたかったはずである。

すると、第一に、国内において、新型コロナウイルスが原因だとされている病気とは、いったい何なのか?
という基本について、あまりにも説明不足が政府にもある。
これにマスコミが扇動的な「報道」を仕掛けたので、まったく収拾がつかなくなった。

緊急事態宣言を出したのは「仕方ない」としても、解除の基準をいわない。
だから、解除自体が、政府・官僚・政治家の恣意的な判断だと国民は受けとめたのである。
これに乗じたのは、ポピュリズム政治家である知事たちで、勝手な「政治判断」がまかり通ることを許した。

PCR検査というものに、いつの間にか「全面的信頼」をするようになって、「診断」という医師の最大存在理由が冒された。
このブログでは、このことを「医療崩壊」と呼んだ。
しかも、医師会はこの崩壊に抵抗しなかった。

「利権」というカビ菌のようなものが、どんどん内部に浸透して、とうとう一般国民にまで届いてしまった。
これを、「脳が冒されるウィルス」と表現するひともいる。
つまるところ、「疑心暗鬼」である。

科学的知見とただの利権が交差して、とうとうこれを、「分離」できない世の中になったのである。
それで、検査をどんどん増やしたら、陽性者もどんどん増えた。
ふつうは、分母と分子の割合を気にするはずが、「陽性者の実数しか」いわない。

これをもって「第二波がきた」といって、政府に二度目の緊急事態宣言を出させようと意図したのは、「破壊活動」である。
政府はこれをしなかった、けれども、例によって「根拠」に関する科学的知見をいわないで官僚出身の大臣が「いまは宣言を出すような事態ではない」とまるで恣意的に繰り返したから説得力がない。

こうして、「納得できない」というひとたちも、陽性者の実数しか繰り返さないので、議論は平行線をたどる。
しかし、平行線をたどるようにしているのだから、そうみえるだけである。
厄介なのは、煽る側の根拠が「数字(実数)」だから、毎日これを見聞きすれば、すっかり洗脳されて政府を怪しむようになるのである。

民主主義は、政府を怪しむのを是とするのではあるが、扇動された結果なら、これはまずい。
その扇動者が、ほぼ全部のマスコミになったのが、今回の騒動でわかったことである。

新総理になることが決まった、いまの官房長官は、記者会見における特定の記者とのバトルが有名になった。
この記者を描いたという映画『新聞記者』が、2019年の日本アカデミー賞最優秀作品賞になっている。

なんだか噴飯物の作品がここまでおだてられると、しらけるものだけど、他にこれといった作品がなかった、ということなのか?
だったら、「該当作品なし」という選択肢もありそうなものである。

けれども、こうした特定の思想をもった記者(実際は活動家)との不毛なバトルに、耐えた、ということが、派閥をもたない政治家を総理にさせたのであろう。
大手新聞社が活動家を正社員の「記者」にしていることも、バレている。

困ったことに、わが国のマスコミは、それでも「公正中立」を言い張るので、国民の思考の軸がズレるのである。
これをふつう、プロパガンダという。
一定の政治思想に寄せる役割が、新聞社やマスコミの存在意義になっていて、これも利権にもなっている。

結局のところ、科学も道議も利権にさらされて、混沌としたのがいまの状態である。

ひとつの内閣でこれを払拭することはできないので、そんな期待はしていない。
しかも、与党がなにか変わることもないだろう。

ならば、やっぱり、コロナを指定解除することだけでもやってほしい。
どうせ、科学的根拠なんて問題にならないのだから。
この一点だけ、それで、たとえ一ヶ月で政権崩壊しても、歴史に残る業績の内閣になることは間違いない。

これこそが、道義国家のことで、安倍政権が口先だけで果たせなかったことの「継続」なのである。

キリスト教とトランプ政治

先週のUAE(アラブ首長国連邦)に続いて、昨日はバーレーンもイスラエルとの国交正常化を発表した。
これは、ひょっとしてアラブ諸国が、雪崩を打って変化しているということではないのか。

不可能といわれてきた歴史がうごいている。

困ったことに、わが国のマスコミは「アラブ諸国の反対」として、あろうことかトルコとイラン外務省の発表を報道し、エジプトの賛成を報道しない。

アラブの定義は、アラビア語を話してイスラム教を信仰していることだから、トルコ語のトルコとペルシャ語のイランは、ぜんぜん「アラブ諸国」にあたらない。ちなみにエジプトの正式国名は「エジプト・アラブ共和国」である。

アラブとは関係ない「外野」をアラブと呼ぶ、このポンコツな報道は、なんだろうか?
無知な国民を啓蒙する気概もなく、ただの「嘘」をたれ流す。
総務省に影響力がある、次期首相には、放送法の厳格な執行と、意図的な誘導には、「詐欺」同様、放送免許に関する罰則を追加すべきだろう。

さてさてそれで、バーレーン側も発表しているように、仕掛けはやっぱりアメリカ・トランプ政権である。
9日、ノルウェーの国会議員が、トランプ氏を「ノーベル平和賞」に推薦する書簡をノーベル委員会に送ったと表明した。つまり、トランプ氏は、ノーベル平和賞にノミネートされたのである。

この議員は、「前に受賞したオバマ氏は口先だけで何もしなかったが、トランプ氏にはめざましい成果がある」とインタビューでこたえている。
もちろん、この発言もわが国マスコミは報道せず、受賞に否定的だ。
どうなるか?受賞自体よりも、マスコミの「正しさ」に興味がわく。

トランプ氏とは何者なのか?
前回の大統領選挙から、今日までも、わが国のマスコミが報道することは、トランプ氏を「異常者」扱いすることばかりである。
日本国民はトランプを憎み、民主党を贔屓するように誘導されている。

ところが、東アジアにおいてあからさまな人権侵害があって、これを強力に阻止しようとしているのがトランプ氏の政権だから、なんだか日本人でも気がつくひとは気がつきだしている。
まずいのは、当事国の支配者とアメリカ民主党の方だ、と。

民主党の支持者が、東西の海岸エリアに多数なのは、世界貿易や国際金融取引をつうじて生計を立てているからである。
一方、共和党の支持者が多数なのは、内陸部で、こちらは内向きの反グローバリズムであるだけでなく、熱心な「福音派」(プロテスタントの聖書信仰)であることでも内向きなのだ。

なお、共和党の最初の大統領は、エイブラハム・リンカーンである。

イエスの教えの「真髄」といわれている一節のひとつには、『マルコによる福音書』2の22、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」がある。(新共同訳)

これは、旧約聖書の律法(モーセの十戒)を厳守するひとたち(「ファリサイ派」ともいう)と、イエスの論争の一コマなのである。
人間がつくった古いしきたりや法によって、人間ががんじがらめになることへの「拒否」がこの言葉なのだ。

モーセによる古い契約(旧約)を、全人類が新しい契約(新約)にあらためる、という思想的根源である。(わが家は天台宗の檀家である)

この当時、ぶどう酒は羊の革袋にいれて発酵させるのが常識だった。新しいぶどう酒をつくるために古い革袋にいれると、硬くなった革が発酵ガスによって裂けてしまう。だから、新しい革袋でなければならなかった。

イエスは、この「革袋」を、「制度」に見立てたのである。
そして、このことがファリサイ派の怒りをかって、とうとう十字架にかけられた。

トランプ氏は、内陸を拠点にする「共和党」の政治家である。
なので、東西の海岸を基盤とする「民主党=グローバリズム」に対抗する立場にあるし、実際に対抗している。

ちなみに、社会主義や共産主義は「国際共産主義運動」ということもあるように、「グローバリズム」の本筋である。
グローバリストが批判する、「新自由主義」はぜんぜん「グローバリズム」とはちがうけど、これをすり替える作戦が成功している。

その共和党には、二派があって、一般に「(共和党)主流派」と「(共和党)保守派」といっている。
「主流派」には、ブッシュ親子が代表され、「保守派」にはレーガンが代表されて、トランプ氏は「保守派」である。

主流派は武器をふくめた貿易を重視するので、グローバリズムに近い。だから、「ネオ(新)」をつけて、「ネオコン(新保守)=じつは主流派」といって、もとからある「保守派」と用語を分けたのだ。
パパ・ブッシュが再選されなかったのは、福音派の支持を失ったからである。

逆に、保守派は「反グローバリズム」なのである。
では、なにを「保守」しているのか?
それは、キリスト教福音派の信仰なのだ。

トランプ氏は、徹底的に「新しい革袋」をつくっている。
これは、人間優先の思想でもあるから、人権侵害を許さないのである。

わが国でも、官僚主義に対抗する重要な意味をもっている。
がちがちの法によって縛りがきつくなっている。
経済衰退の元凶がここにある。

新しい政権に、果たして新しい革袋は作れるのだろうか?

官僚と政治家の「ふるさと納税」

9月10日、おもしろい記事がでた。
週刊朝日の『菅官房長官に意見して”左遷”された元総務官僚が実名告発「役人を押さえつけることがリーダーシップと思っている」』である。

この「告発」をしたのは、2014年当時の元自治税務局長である。
このひとは、「ふるさと納税」を総務相時代に創設表明した菅氏が控除の限度額を倍増させたことを問題にして、直接「意見」したところ、翌年に自治大学校に異動になったという。現在は立教大学で特任教授を務めている。なお、記事では、次官候補のひとりだった、ともある。

詳しくは、記事そのものをお読みいただきたい。
なかなかの「ねじれ」が散見されて、じつに興味深い内容になっている。

この話の発端になっている「ふるさと納税」について個人的見解をコメントすれば、「国民総乞食化計画」としかおもえない。
「納税」のはずが、「返礼」のほうが多額になるからである。
だから、ふるさと納税をしないと「損」をする。

「税」そのものが、納税者にとって直接損得勘定の対象になるとは前代未聞の大発明である。
権利ばかりを主張して、けっして義務を果たさない、そんな破廉恥を国民に奨励するようなものだから、わが家では税に詳しいひとにどんなに勧められても、「行使しない」ことにしている。

これが、国民の矜持というものだ。
なので、堂々と批判できるのだ。

この点で、記事の元官僚の主張に異議はなく、まったく正しい。
それに、こんなポンコツな税制を推進したひとが、次期首相とは情けないと思う。
なんだか胡散臭い人物のような気がしてならない理由のひとつである。

けど、待った。
地方税だからといっても、ひとりの政治家だけに責任を還元できる話なのか?
与党の存在はどうなっているのか?

菅氏は与党内で派閥の領袖をしているわけでもない。
これは、今回の「総裁選」でも明らかだ。
つまりは、「ふるさと納税」を強力に推進した政治家だけど、もっと多くの賛同者が与党にいた、ということだ。
逆をいえば、与党に反対者がいなかったから実現したのである。

民主主義の原則からすれば、あくまでも官僚は行政当局のひとであって、決して政治家ではない。
政治の決定に従うのが、行政の本分である。
すると、この元官僚は、どこかズレている。

この「ズレ」が、左遷という結果になったなら、それは「左遷」といえるのだろうか?
むしろ、当然の人事なのではないのか?
それに、どうして「ズレ」ているひとが、次官候補といえるのか?なにかの勘違いではないか?

現実に、次官になれなかったのは、本人には不本意かもしれないけれど、行政と政治との近代民主主義の仕組みからすれば、「正解人事」なのだといえるのではないのか。

ただし、本人がどこか気の毒なのは、意見したのが「正論」であったからである。
これをどう観るのか?

やっぱり、わが国政府・政治体制の「非近代性」が浮かび上がるのである。
これは、与党にかなりの責任がある。
「近代政党」として、党内に「シンクタンク」がないばかりか、半世紀以上も前の「保守合同」以来、延々と党内にシンクタンクを設立する努力をせず、官僚機構にこれをやらせた。

だから、官僚が政策立案をし、それを立法化する手はずまで整える。
まったくもって、与党も議会も必要としない構造を、与党がつくりあげてしまったのだ。
「本来なら」、この元官僚の主張のように、担当部署の官僚が「異見」したら、この構造をそのまま適用して、その案に政治家が従うべき状態になるのがこの国の「ふつう」なのだ。

官僚が政治を支配する、という「ふつう」からしたら、そうならないのは「異常」なのでこの「告発」になっている。
みごとな「ねじれ」がここにある。

しかも、告発者はこのねじれに、いまもって気づいていないという、「もうひとひねり」のねじれもあるし、民主主義が大好きな新聞社系雑誌も記事掲載にあたってこれらに気づいている素振りもなく、冒頭のタイトルキャッチを掲げるというねじれがある。

だけど、ふるさと納税の場合、与党も「イレギュラー」を決め込んだのである。
ところが、この「イレギュラー」は、近代民主主義国家なら「レギュラー」なことなのである。

それでもって、「問題」となれば、国民が反対の声を上げ、これを報道することで政治家に影響を及ぼす。
もし、国民が「乞食扱いするな」と多数が怒っているとなれば、次期選挙で落選の憂き目にあうかもしれない、という「近代国家ならふつう」のストーリーになる。

ところが、国民がこぞって「得する」として、この「撒き餌」にむらがったのである。
みごとな「非近代性」を国民が示している。

菅氏は横浜市に選挙区がある。
その横浜市は、ふるさと納税によって、おどろくほどの市民税収入を失った。
わが国最大数の横浜市民が、横浜市に納税しないからである。

税収を失った危機感が、カジノ誘致のインセンティブになったのだ。
ところが、世界のコロナ禍を受けて、世界最大のアメリカのカジノ業者が横浜進出を断念した。
残るは、中華系しかない。

国民を乞食にした、ふるさと納税の顛末はまだ先だけれど、近代民主主義が成立していないこの国の中での主導権争いも、とうぶん続くしかない。
それは、国民不在という中での争いで、しかも多くの国民がその争いの結果に興味すらなく、検察人事であったように、政治家よりも官僚支配に信頼をよせているふしがある。

国民の不幸は、やっぱり自業自得なのである。

菅氏が時のひとになる理由もここにある。
元官僚は、大学教授になって凄いことを教えてくれた。
本人の意図とはちがうだろうけど。

アカデミー賞のあたらしい選考基準

現代の人類がもっている数々の「賞」のなかでも、アカデミー賞というのはきらびやかさで他の追随を許さない。

それでも「賞」なのだから、選考基準が公表されているので信用があるのだ。
どんな「賞」でも、目立つのは「授賞式」となるけれど、ほんとうは、かなり前に発表される「選考基準」が重要なのである。

だから、選考基準が事前に公表されていない「賞」には、残念だがなかなか「権威」がともなわない。
選考にあたるひとたちの「好み」とされたら、それは選考者の肩書きだけに頼ることになるからである。

それで、「選考理由」という話になって、あたかももっともらしくすることがある。
すると、主催者は選考者を選考するという事前選択で失敗ができない。
その道の「権威」というひとは数少ないので、似たような賞に同じひとが選考委員になったりするのはまずいから、選考者から選考されて、それが賞の淘汰にもなる。

選考基準に合致している、という理由が書けるのは、事前に公表された基準があってのことなので、基準がないなら作文しかなくなるのである。
だから、選考基準が公表されていて、選考者にも選考された賞ならば、それがその分野で「最高」ということになる。

するとこんどは、「最高の賞」に選考者として選考されることが「最高」になる。
だから、選考者にとっての最大関心事項は、賞の選考をすることになる。

科学的業績なら、成果をみることができるし、それには「論文」という成果も含まれる。
機械的ではあるけれど、論文の引用数という基準もあるのは、論文という成果を数値化できて、客観的になるからである。

文化・芸術の分野の賞は、客観的という部分で困難をともなう。
そもそもが「主観的」であるからだ。
この矛盾をどうするのか?が問われるのである。

さて、アカデミー賞のあたらしい選考基準とは、具体的に「作品賞」でのことをさす。
2024年以降、以下4つの基準のうち2つ以上を満たさないとノミネートもされない。なお、キーワードは「多様性」である。

・主要な役に少なくとも1人はアジア人や黒人などの人種的小数派を起用すること
・プロデューサーや監督、撮影などの製作スタッフのトップのうち、2人以上は女性や性的マイノリティー、障がい者などの中から起用すること
・機密フォームを提出し、多様性の数値を開示すること
・配給会社または金融会社が、過小評価されているグループに機会を提供していること

ハリウッドでは、賛否が分かれているという。
米映画芸術科学アカデミーは、社会的議論だけでなく関係者からもさまざまな表明が巻き起こることを承知で決定し、発表したはずである。
日本だったらどうするのか?

しっかり「事前に根回し」をしてから発表するのだろう。

この「順番」のちがい。
これは、決める側がリスクをとるか?とらないか?の「ちがい」なのである。
ここでいうリスクをとるとは、理論武装もしている、ということを含む。

また、アメリカ人は米映画芸術科学アカデミーという民間団体に、政府や政治家の関与をよしとしない。
わが国では、「文化庁」という役所がしゃしゃり出る文化がある。

日本アカデミー賞協会の設立時の名誉会長は、初代文化庁長官、今日出海氏(今東光大和尚の実弟)だった。
おそらく、本人はかつぎだされたのだろう。

それはそうと、選考基準をもって経営に誘導を図る、というやり方は、アメリカでは、低迷していたアメリカ経済を復活させたと定評の『マルコム・ボルドリッジ国家品質賞』という賞がある。
共和党レーガン政権時代に創設されたもので、尽力した当時の商務長官の名前を入れている。

「国家品質賞」なので、アメリカでは珍しく国家が関与している賞だ。
授賞式はホワイトハウスが会場で、大統領から直接授与される。
よって、最高峰ともいえる経済賞になっている。
この賞の「選考基準」は、アメリカの国家プロジェクトだった日本の経営・経済研究の「成果」がつかわれている。

パパ・ブッシュを破った民主党クリントン政権で「途切れるか?」と心配されたけど、クリントン氏も積極的に支持して継続され、政権党にかかわらずいまに至っている。

宿泊業界にこの賞が影響を与えたのは、「選考基準」にある社内システムを、リッツ・カールトン・ホテルが独自に工夫した『クレド』でしられる。
「サービス品質」という概念も、この賞が打ち出したものだ。
下地にされた日本の業界に、「サービス品質」が根づかない不思議がある。

日本生産性本部が、逆輸入してつくったのが『日本経営品質賞』だ。

つまり、日本からアメリカに渡り、また帰ってきたようなものだから、太平洋を往復している「賞」である。
経営品質協議会という組織が、ちゃんと「選考基準」を定めている。

受賞目的だけではなんだか動機が不純だけれど、「選考基準」には、経営の品質を上げるためのヒント(手順)が示されているようなものだから、挑戦してみる価値はある。

コロナ禍なのだから、より一層重要になったとかんがえるべきなのである。

タバコとコロナ

野党第一党といっても巨大与党に対して影響力がほとんどないから、空疎ないい方ではある。
多数決なので「数」における影響力が絶対ではあるけれど、少数意見の尊重として尊重したくなる意見をいったためしもない。

それが、支持率で一ケタを維持して、選挙結果の議員数になっている。
民主党政権が崩壊して分裂し、また合流しようにも、なんで合流するのかがわからない。
昭和の合従連衡を、令和の時代に野党がやっている無様である。

この原因は、与党にあって、連立する与党の左傾化(極左化)で野党の居住空間がなくなったのである。
それが、共産党の縮小にもあらわれている。
与党の政策が、なんと共産党の主張も呑み込んでしまったからだ。

昨年のアメリカ大統領選挙にかかわる、野党・民主党の予備選挙で、過去二回も頑張った、バーニー・サンダース上院議員(78)以下の候補者のほとんどは、現地で「左翼」とか「極左」といわれているひとたちだった。
いまや英語でも「Liberal」は、自由主義よりも進歩主義の意味になってしまって、言葉の本来の意味が逆転している。

ところが、極左という評価のサンダース氏の主張よりもっと「左」なのが、わが国与党の政策だから、むかしの「計算尺」をスライドさせたような状態で、わが国はこの位置を「保守」という目盛り表記になっている。
その意味で、あろうことか、わが国は「翼賛政治」になりつつある。

あたらしい自民党総裁=首相が誰になるかはしらないが、もうちょっと目盛りを「左」にすれば、野党を窒息させることは可能だけれども、それで国民が幸せになれるか?とは関係がない。
この一点で、自民党は中国共産党と似たもの同士なのである。

だから、わが国には、本来の「Liberal=自由主義」政党がマーケティング的にも必要なのだが、残念なことに存在していない。
この「選択肢のなさ」が、巨大な無党派層を形成しているのに、である。
個人的には、ネット界隈で今年4月に誕生した「参政党」に期待している。

そんなわけで、窒息寸前の弱小野党の党首が、議員会館の自室で「喫煙した」のが大問題になった。
これがきっかけになって、参議院議員の有志が、参議院議長に「禁煙徹底」を申しいれたことが「ニュースになった」。

なんだか、まじめを装った偽善者たちが、お母さんに悪い奴らを叱り飛ばして欲しいと訴えたようで、じつにつまらない話だが、頼られたお母さんがまんざらでもなさそうなので、どういう家庭環境なのか?と疑いたくなる。

「違法喫煙をやめろ」ということが趣旨である。
「違法」になったのは、2018年7月に成立した『健康増進法の一部を改正する法律』が、今年の4月1日より全面施行されたからである。

この「排除の論理」が、「法」になってしまったのは、国会議員が賛成したからだから、「先ず隗より始めよ」という『戦国策』の教えに文句はいえない。
だから、「正義」になるのである。

しかしながら、「排除の論理」を「法」にしてはいけない、と誰もかんがえなかったのか?ということになると、皆無だったからこうなった。
何のことはない、自業自得なのだ。
けれども、立法にかかわったからいえる話で、国民はどうなるのだ?

批判を浴びて詫びを述べたこのひとは、官房長官経験者にして弁護士でもある。
その前は、いわゆる「左翼の活動家」であったのだ。
「法」の専門家であるはずが、「法」によって裁かれた。

なぜかといえば、「排除の論理」を「法」にすることに違和感がないひとが弁護士になれる、ということもある。
けれども、「禁煙」が「法」になったのは、「受動喫煙防止」という目的があるからだ。

果たして、受動喫煙防止がどうしてそんなに重要なのか?について、科学的根拠がない、という問題が隠されている。
「医者がいっている」ということしか根拠がない。

肺がん患者の発生と、喫煙の関係があたかもいわれているけれど、統計的な相関は「ない」ばかりか、「逆相関」になっているのだ。
「逆相関」とは、一方が減ると一方が増える、という関係を統計的に示すものだ。

つまり、喫煙者が減ると肺がん患者の発生が増えるのである。
ましてや、受動喫煙によって肺がんになるという根拠もないのは、受動喫煙をどのくらいするとがんになるのか?というデータすらない。

すると、可能性をなくす、という意味にしかならない。
これが、国民を縛る立法の根拠となりうるのか?
せいぜい「注意喚起」か「警告」レベルの話である。

まったく同じ現象が、コロナだ。
コッホの原則にあたらないものを「感染症」とし、これを「法」にした。
よって、「可能性」しか示さない「PCR陽性」をもって二週間も隔離する。

左翼政権のフランスではマスク着用を義務化し、同じく民主党政権のニューヨーク州では、義務化を画策している。
特にフランスは国家として、わが国連立与党の支持母体を「カルト認定」し、それが政権与党であることを理由に、わが国を「カルト国家」としている国である。

「お互い様」ではないか?
と言い返す外交官も日本にはいない。

くれぐれも、「禁煙の徹底」は、ナチスの基本政策だったことを忘れてはならない。
「よかれ」が昂じて国民に命令する法となることに鈍感になれば、なんでもが「法」にされてがんじがらめになる。

こうして、全体主義ができるのである。

地図の上下を横にする

日本をふくむ東アジアの地図を横にして、西を下、東を上にしてみる。
中学校や高校の「世界地図帳」があるなら、地図帳ごと横にすればよい。
すると、ユーラシア大陸が下になって、日本列島がまるで「蓋」のように連なっているかに見える。

この、「かに見える」ということが、思考の役に立つ。
地政学という学問を引っ張り出さなくても、ユーラシア大陸から見たら、日本列島が広大な太平洋の堤防のようにも見える。

演歌だと、「日本海の荒波」が詩情や風情をかきたてるのだけれども、太平洋の荒波に比べれば、内海となる日本海はどっこい静かな海なのである。
だから、江戸時代は、日本海の「北前船」での海運が盛んだった。
裏日本が繁栄したのは、この「物流体制」のおかげだった。

現代でも、太平洋側の宮城県金華山沖に発生する三角波によって、大型船が沈没の憂き目にあう危険がある。
それで、南に目をやれば、「台湾海峡」が重要になっている。

台湾の太平洋側も、航路として危険なので内海の台湾海峡しか通行できない。
もしも、台湾海峡が封鎖されたら、我々はアメリカから来る以外の、ほとんどの物資が入手不可能となる状態で生きている。

いま話題の、東シナ海も南シナ海も、台湾海峡とおなじく、海上交通の要衝なのである。

相手のかんがえることが、どういう発想からなのか?とか、どんな事情かをかんがえないと、トンチンカンなことになって、かえって傷口を大きくすることがある。
だから、相手がトンチンカンだとやっぱり困る。

トンチンカンにはトンチンカンな対応になるので、結果もトンチンカンになりやすい。

すると、トンチンカンな相手には、早い段階でそれがトンチンカンだと教えてあげないといけない。
これが、国家間になれば、こちら側の国民がふだんから「まとも」でないといけないのはいうまでもない。

ところが、自由主義というものは、「まとも」と「トンチンカン」がどうしても混在するので、全体主義が「強固な結束」に見えるのである。
これを勘違いして、自国民に情報統制を行えば、「まとも」ばかりになって相手に対抗できるとかんがえたりする。

そうやって、気がついたら自国も全体主義になっていた、ということになりかねない。

そんなわけで、地図を横にして見るのは、自分と相手を交互に見つめるための工夫である。
たまには相手の立場になってかんがえる。
すると、相手の論理が見えてくるのだけれども、それがどういう意味なのかをさらにかんがえると、平和ボケしていられない事情もわかるというものだ。

これを、こないだ話題にした「クレー射撃」でいえば、「スキート」という種目がこれにあたる。
麻生大臣が、前回の東京オリンピックで出場した種目でもある。

簡単に説明すると、半円形のフィールドの直径にあたる場所それぞれに射台を置いて、円周に沿っても射台を置く。半円の中心にも射台を置いて、全部で8カ所とする。
クレーの射出口は、直径に対して2カ所だけで、それぞれ同じコースにしか射出しない。

つまり、放出される皿のコースはたったの2通りだけど、射手である側が移動して違う角度からこれを撃破する競技なのである。
やってみればわかるが、見る角度が違うと、同じコースに皿が飛んでいるとはおもえない。

人間の感覚とは、こんなものなのである。

だから、地図を横にしても意味がない、ということはない。
地図を横にする意味の方がわかるのである。

子ども時分によく参加した、オリエンテーリングでは、地図と磁石を渡されて何カ所かある経由地をチェックポイントにして、いちはやくゴールしたものが勝とされる。
会場がずいぶんな田舎でないといけないのは、地図と磁石に頼る競技だからである。

このとき、地図に磁石をあてて方角を確認し、じぶんたちがどこにいるのかを意識しないと、チェックポイントにすらたどり着けない。
時間も計って、歩いた距離も考慮するひつようがある。
だから、地図をグルグル回して、実際の地形も見ながら、いまいる場所の見当をつけるのがコツなのだ。

Apple Watchの宣伝に、子どもたちの指導者のおとなが確認したら全員がその方向に歩き出すグループの場面がある。
こうした活動が、課外授業になるのは、ただ地図の見方を学べるからではない。

おなじ情報しかないのに、ちがう判断をするひとがいることも学ぶのである。
こうして、トンチンカンを抑制することが、社会教育としていることに注意したい。

たかがハイキングなのではないのである。

たまには地図と磁石をもって、出かけてみてはいかがだろう?

コロナ・パラダイム・シフト

「パラダイム」というのは、既存の概念=常識とか枠組みのことを意味する。
それが「シフト(入れ替え)」することを「パラダイム・シフト」という。
ここでいう、「コロナ・パラダイム・シフト」とは、感染症診断のための「コッホの4原則」に当たらない「社会が作った心の病」が社会という枠組みそのものを入れ替えてしまうことである。

つまり、ありもしない病気が、実在する社会を変革してしまう。
そんなことがあるのか?
いや、むしろ当然なのである。
人間社会とは、人間の心によってできているという当たり前が、ここにきて前面に出てきただけなのだ。

20年前、大ヒットした映画『マトリックス』は、その後の2作で、いよいよ「哲学映画」の様相が深まって難解な展開をみせた。
来年の21年公開予定と発表されている『マトリックス4(仮称)』では、いったいどんな「主張」が飛び出すことか?

生身の人間と仮想空間という対象を、「脳」そのもので電気的に接続され、それがコンピュータで操られているアイデアは新しかった。
これは、「実体二元論」という哲学が表現されたのだった。
そして、もう一方では組織社会という人間がつくる社会が作品の「あるある」を支えた。

以前、『マトリックス』と『ダビンチコード』の類似性について書いたのは、この「組織社会」をキリスト教社会の歴史に含めたからで、そこには入れ子状態になった支配の構造としての「金融批判」があったからである。

要するに、リーマン・ショック(2008年9月)で崩壊したという、金融機関=虚業による実業の支配が、いまだぜんぜん終わっていないことが問題なのである。
虚業と実業の葛藤は、そのまま「実体二元論」になることにも注目してほしい。

リーマン以降、金融機関は弱ったけれど、それ以上に実業も弱ってしまった。
これが、わが国の失われた30年の正体である。
そして、史上最長政権は、何とかのひとつ覚えで、金融緩和という虚構の政策しかせず、実体経済の衰退を止められなかったという「実体二元論」による現実がここにもある。

すると、波状攻撃のように実体社会に出現した「ありもしない病気=虚病」が、ひとびとの「脳」をコントロールしたのだから、映画の『マトリックス』が、実社会に出現したともいえるのである。

そういう意味で、いま、改めて過去の三部作を鑑賞する意味がある。

陰謀論はさておいて、自分たちの「脳」を疑う、という作業をしておくことが、社会の怪しいシフトを防止する唯一の方法なのである。

人類の経典宗教のはじまりは、イラン北部にうまれた「ゾロアスター(拝火)教」だ。
明と暗、善と悪、白と黒。
これが、「二元論」のはじまりなのである。

つまり、「単純化」のことを意味する。

現代社会は複雑になって、どうなっているのか解らなくなっている。
その裏返しとして、単純化すると、「楽」になる。
すなわち、堕落でもあるのだ。

そんなわけで、いまの世の中には、意図的に単純化された「架空」がはびこっている。
この「架空」こそが、本来の仮想空間である。
コンピュータが仮想空間をつくりだすのではなく、人間の楽をしたいと欲求する脳がつくりだすのである。

そして、ありもしない病気が蔓延するという「現実」が、集団で働くことや集団での移動を妨げてしまった。
これによって、大打撃を受けているのが「農業」などの一次産業も同じである。

しかも、一次産業では「人手不足」=「後継者不足」から、実態として外国人労働者をとっくに受け入れてきた。
そこで、わが国の農林水産省は、「農業労働力確保緊急支援事業」として、今年度補正予算では、46億円以上を計上している。

人的サービス業からの、「労働力シフト」が視野にあるのである。

さらに、水害と蝗害で、大打撃を受けている「はず」の中国では、食料危機に備えてか、食べ物をムダにしないキャンペーンもはじまった。
また、米中経済合意で、大量のアメリカ小麦を購入する約束もある。

ほぼ半年前の3月31日には、国連食糧農業機関(FAO)や、世界保健機関(WHO)だけでなく、世界貿易機関(WTO)の各事務局長が「食料品の入手懸念が輸出制限につながり、国際市場で食料品不足が起きかねない」と共同声明を出している。

注目すべきは「輸出制限」という人為なのである。

記憶に残る「危機」では、1993(平成5)年の「米騒動」があった。
このときは、冷夏というはっきりとした自然現象が原因だった。
緊急輸入したタイ米と抱き合わせでないと、国産米を購入できなかった。

けれども、わが国はタイ米を世界価格より高額なカネをだして買い占めたので、貧しいアジア諸国では深刻な食糧危機になった。
そのタイ米を「不味い」といって廃棄する日本に、バングラデシュなどは、「不道徳である」と声明をだしたが、わが国マスコミはこれを無視した。

耳障りがよく、いかにも「善人」を装って、「コロナとともに」とか、「あたらしい日常」といっているのは、自らを「安全地帯」に置いてからの発信にすぎない。

「コロナ・パラダイム・シフト」とは、「不道徳」にシフトする、という意味である。

自己満足を消費する

わたしたち夫婦の共通の趣味に、「クレー射撃」がある。
このブログでは数度書いたことがある。
この春に撃ったときは調子よく、スコアもそれなりだったのだが、コロナ禍で休んでいたら大変なことになった。

久しぶりに射場へ行って、いつものようにプレイしているのだが、ぜんぜん当たらない。
果たして、これまでどうやっていたのか?
ぜんぜん思い出せない。

1ゲームで25枚のクレー・ピジョン(皿)を、1枚当たり2発まで弾をこめて撃つことができる。
調子がよければ30発も使わずにゲームを終えることができたものが、50発消費しても散々なスコアなのである。

近代オリンピックの最初(1896年)から射撃競技自体はあったのだけど、クレー射撃が正式種目になったのは、1900年の第二回大会からである。

そもそも、皿に「ピジョン」という名称があるのは、そのむかし、本物の鳩を飛ばして的にしていたからである。
当然ながら、こういうことをするのは、ヨーロッパの貴族たちだった。
鳥を狙った猟から派生した「娯楽」でもあったのだ。

高額な散弾銃を購入し、散弾の弾を購入し、これで標的となる皿を粉砕するのだから、まったくの消費ばかりでぜんぜん生産的ではないように思える。
つまるところ、何が面白くてこんなことに熱中するのか?

こたえは、粉砕したときの満足感が欲しいのである。
あるいは、失中したときの残念が悔しいのである。
だからこれは、一種の「中毒」なのだ。

すると、まったくの消費にしかみえないものが、じつは、中毒症状を呈している満足感を得るためにしているとかんがえると、人間にとってのふつうの「消費行動」と大差ないのである。
食欲だって、物欲だって、本人にとってみれば満足感を得るためのものにすぎない。

しかも、射撃はすべて自分の判断による結果なので、怨むのは自分の不甲斐なさだけである。
そのために、入手できる最高性能で最新の銃を求め、世界のアスリートが使用する散弾を使うことにこだわる射手もいる。

結果を銃や弾のせいにせず、自分の腕前だけに還元させるためである。

わたしはそこまでストイックではないけれど、これだけ「当たらない」を経験したのは、初心者以来初めての経験で、これを「スランプ」とはいいたくないほどの「壊れ方」であった。
もっとも、一番慌てたのは師匠である。

師匠はかつて二回、日本選手権での優勝経験があり、アジア大会にも出場した、この界隈で知らないひとはいないほどの有名人であり、先代から引き継いだ銃砲店の主でもある。
そのひとが、わたしの射撃姿勢をみて、クビをかしげた。

どこも悪くない。

どこも悪くないのに当たらないという事実だけがある。
だから、どこかがおかしいのである。
そのどこかが、師匠をしてわからないというのだから深刻である。
仲間も動揺しているのは、自分もあんなになるか?という恐怖でもある。

師匠の動揺は、顧客たちの動揺が広がることにある。
自身の指導の限界となっては、名の知れた専門店の沽券に関わる。
しかし、師匠の判断は速かった。
リセットして、初心者がおそわる基本のやり方に戻すことを指導された。

クレー射撃(なかでも「トラップ射撃」という)の、基本は飛び道具をつかう「弓道」とおなじく、「構え」にある。
そもそも鉄砲は、戦国時代の後期に伝来したのだから、日本の素地に弓の道は完成の領域にあった。

名人、那須与一の逸話は源平戦のむかし。
それは、信長の時代からもはるかむかしだったのだ。

そういえば、アメリカには有名な圧力団体としての「全米ライフル協会」がある。
この団体の保守性(日本では「右翼」として)は、おりがみつきだけど、「安全」という前提のルールを保守する、ということからしたら、組織全体が保守化するのは当然である。

たしかに、この団体とて銃の乱射事件を望んでいるわけではない。
秀吉による「刀狩り」の歴史をもつわが国と、憲法修正条項をもつ彼の国の違いは、かんたんに埋まる話ではない。

それはそうと、いまさらながら改めて「基本」に戻すことをした。
すると、基本の銃さばきの意味がはじめて理解できた。
それは、理由はどうあれ「2+3×4」の計算方法をならった小学生が、中学や高校で、この計算の「論理」の重要性を習うようなものだろう。

もっとも、中学や高校でこの「論理」を習った記憶はないけれど、どうしてそうなのか?をしることで強固になる。

それは、わたしの師匠への質問とその答えについての理解度が、かつてない程度の違いになったのである。
自分の上体を、どうしたら滑らかな回転運動として動かすことができるのか?

それには、下半身はもちろん、「体幹」が重要でかつ、バランスが確保された回転軸が必要という知識はあっても「どうやるか?」がなかった。
この「発見」があっての「体得」になるのだろう。
試してみれば、「当たる」ことがわかった。逆にいえば、当たらない理由の発見だ。

なんだか小学生を卒業できた気がしたのである。
この自己満足には、それなりの対価(じつは大層なコスト)を要したのだけれど、ひとつの壁を越えられたことはどうやら確かである。
周辺の仲間の再びの驚きと、師匠の安堵と自信の顔が物語っている。

人生の豊かさを実感した、といったら大袈裟か?
いやいやどうして、人生だってしょせん、自己満足なのである。

トランプ氏にノーベル平和賞を

ノーベル賞のなかでも「平和賞」というのは、「経済学賞」とおなじくらい不思議な賞である。

そもそも、経済学賞はノーベル財団が認めていないから、「ノーベル賞」といっていいのかさえも怪しいのだけども、正式名称の「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」といわれることはめったになく、強引に略しているのである。

平和賞は、ノーベルの遺言にあるので、経済学賞ほどのあやしさではないはずだけど、「科学」というノーベル賞の基本からかなりの距離があることは否めない。
それに、(一応経済学賞もいれて)6部門のうちこの平和賞だけ、選考はスウェーデンではなくて、ノルウェー・ノーベル委員会になっている。

これは、1905年まで、スウェーデンとノルウェーが「同君連合」として、おなじ王様の国だった名残でもある。最初の授賞式は1901年だった。
まぁ、事情もさまざまな各賞で、そこに受賞という名誉が「ある」のだから一般人が文句をいってもはじまらない。

コロナ禍、日本のお盆の時期に欧州歴訪した中国の外相が、香港の自由を求める活動家に、もしやノーベル平和賞を差し出すのではないかと懸念して、ノルウェー政府を恫喝してしまったのがニュースになった。
こういうことが、「嫌われる」ことに気づかないことが、相手から本気で嫌われる原因になる。

どういう神経か?と。

もはや、ヨーロッパは話題のベラルーシを除いて、すべてが自由と民主主義の国ばかりになったので、この恫喝のニュースは全ヨーロッパを敵に回す「嫌われる努力」となったし、旧社会主義国の国民にかつての自国の記憶を鮮明に蘇らせる効果ばかりとなった。

なので、「ヨーロッパ最後の独裁者」といわれるベラルーシ大統領に対抗する大規模デモに、周辺国民の支援にも熱がはいっているのは、完全に「反面教師」に対する反抗心の表れとしての「効果」にもなってしまったのだ。

なお、ここでいうヨーロッパにロシアは含まないので念のため。
ちなみに、ベラルーシの「ベラ」とは、直接的には「白」を意味するけど、深いところで現地では「南」のことである。「ルーシ」はロシアが訛ったから、直訳で「白ロシア」、現地の感覚では「南ロシア」をいう。

むかしいってた「白系ロシア」は白人が多いという意味に捉えたひとがいたけれど、そうではない。
ただし、ファッション界のモデルが国家資格になっている国なので、ファッション系でいう「美人大国」であることは間違いない。

中国の外相をここまで追い詰めたのは誰だっけ?ということは脇に置いて、最近驚愕したニュースは、イスラエルとUAEの国交樹立のニュースであった。

UAEとは、アラブ首長国連邦のことで、アラビア半島南東に位置する、7つの首長がいる小国の連邦である。
「アラブ」がつくから、アラビア語を話してイスラム教を信仰しているひとたちの国だ。

地図を見ないといけないのは、7つも国が集まった理由を知るためにも必須だからである。
いまでも「アラブ連盟」は健在で、21カ国が加盟(シリアは資格停止中)していて、本部はエジプトのカイロである。

イスラエルに対抗して「アラブの大義」が声高にいわれたけれど、アラブ各国が集合した「アラブ連合」は、かつてエジプトのナセル大統領が提唱し、実験はしたもののうまく実現していない。
部族社会が歴史的本筋なので、一本化できないのである。

そんなアラブのなかにあって、UAEの結束があるのは、対岸の国を見ればわかる。「ペルシャ湾」に面しているから、イランが目先にあるのである。
ここで、敵の敵は味方という論理が成り立つ。
ならば、もっと前にイスラエルと国交を結べばよかったじゃないか、というわけにはいかない。

その理由が、アラビア半島の大石油産油国、サウジアラビアの存在である。
けれども、いまだってサウジアラビアはある。

では、なにが変化したのか?
アメリカの中東からの撤退という「流れ」なのである。
これは、トランプ政権になって鮮明になった。
彼の票田は、シェールオイル事業者だから、石油価格の適度な維持が重要なのである。

すると、サウジにとって、アメリカの撤退とは、イランとイスラエルとの二方面作戦を強いられることになる。
トランプ氏の婿殿は、バリバリのユダヤ人(=ユダヤ教徒)だから、政権が発足してすぐに、イスラエルのアメリカ大使館をエルサレムに移転させた。

戦後のなかで、アメリカ大使館との距離がある日本大使館は、戦前の一等国の名残であった。なので、戦後の日本大使館は、アメリカ大使館のご近所に必ずある。
これが、イスラエルで破られている。日本大使館は、いまだテル・アビブにあるのだ。戦後日本の、覚悟のなさの象徴ともいえる。

じっさいに、中東和平はトランプ政権になって進展している。
半世紀前の中東戦争によるイスラエルの占領地を「固定させる」という提案は、時間経過の中で、アラブ側にも同意できる環境となっている。

中東の従来秩序を破壊したら、和平が見えてきた。

誰のために?
国家のメンツではなくて、そこに住んでいるひとのために。
これを徹底追求したら、中東と、ヨーロッパ、それに東アジアで、平和の鐘が鳴りそうなのだ。

これは、あたらしい名誉革命なのである。