ペットの犬は使役犬にならない

おなじ犬種であっても,家庭のペットとして育った犬の子は,おどろいたことにもう猟犬にはならないという.
これは,ひとりの人間が過去に,好みの犬種をつくった,ということからもうかがえる.
つまり,ひとの一代で犬の数世代をかければ,あたらしい「犬種」ができるのだから,わずかひと世代でも,「進化」や「退化」をしてしまうということなのだろう.

だから、たとえば「猟犬」なら,「猟犬」の子をわけてもらって育てることが重要になる.
おなじ犬種でも,けっしてペットショップで販売されている犬を「猟犬」にすることはない.
「経験者」の談によると,闘争本能が退化して,猟場においてどんなに訓練しても,おはなしにならないという.

どんなふうに「おはなしにならない」のか?
それは,圧倒的に体力の差であらわれる.
日本の猟場は,ほとんどが人里離れた深い山林であるから,山谷を駆け上ったり駆け下りたりと,それはハードな運動量が要求される.
一度家庭犬となった犬の子は,その運動能力が,すさまじく退化してしまっているという.

猟師は,猟をビジネスとしてかんがえる.
猟犬がいなければ「猟」にならない.
しかし,猟犬はけっしてペットではない.
だから、猟犬の維持費(おもに食費)はできるだけ削減する.それで,はげしい運動能力をやしなえば,肥満になる犬などいない.

猟犬の犬種である家庭犬が,老いると腰が抜けて歩けなくなったのを見かけることがある.
それは,山谷を駆け巡ることがなかったために,つくべき筋肉が若い時期につかなかったことが原因になるらしいから,気の毒も二乗になる.

猟犬が老いると,もう猟にいけない.
これは,猟師にとっては価値のないコストばかりが発生することを意味する.
だから,家庭犬としてほしいひとが見つかれば,躊躇なくひきわたすという.
しかし,引き取り手のない元猟犬は,コストばかりがかかるのを承知で最期まで面倒をみる.
猟師は,パートナーへの責任とこころえている.

中年をすぎた猟犬のメスが,体力なく数匹しか出産せず,また自身の乳の出がわるいと知ると,子犬をみずから食べてしまうという.
わが子を喰らう「魔王」のはなしは,ここからでたのか?
しかし,これは,犬の価値観における究極の愛情なのかもしれない.

授乳期の子犬は,母犬の乳がなければ生きられない.
それを放置すれば,ただ天敵そのたの餌食になるか腐敗するだけである.
もし,腐敗となれば,群れで生活する犬たちのねぐらが敵にばれる.
群れの安全確保と,自分の分身を自分で始末するその態度は,野生ということばだけで表現できるものなのか?と.

水戸黄門の黄門役ですっかり好好爺の印象が焼き付いた西村晃の主演映画に,1982年作の「マタギ」がある.
子犬の愛犬が,マタギ犬に成長する物語が補助線となってえがかれている.
ここにも,ペットではない犬がいる.

すると,ほんらい犬は使役犬だったことに思いあたる.すべての犬の先祖はオオカミだ.
家の中で人の子以上に過保護にくらすペットという使役の役回りは,犬にとって,もしかしたらもっとも過酷な使役なのかも知れない.
それで,犬がノイローゼや統合失調症を発症するのだと理解できた.
「魔王」は,やはり人間のほうなのだろう.

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