コロナ・パラダイム・シフト

「パラダイム」というのは、既存の概念=常識とか枠組みのことを意味する。
それが「シフト(入れ替え)」することを「パラダイム・シフト」という。
ここでいう、「コロナ・パラダイム・シフト」とは、感染症診断のための「コッホの4原則」に当たらない「社会が作った心の病」が社会という枠組みそのものを入れ替えてしまうことである。

つまり、ありもしない病気が、実在する社会を変革してしまう。
そんなことがあるのか?
いや、むしろ当然なのである。
人間社会とは、人間の心によってできているという当たり前が、ここにきて前面に出てきただけなのだ。

20年前、大ヒットした映画『マトリックス』は、その後の2作で、いよいよ「哲学映画」の様相が深まって難解な展開をみせた。
来年の21年公開予定と発表されている『マトリックス4(仮称)』では、いったいどんな「主張」が飛び出すことか?

生身の人間と仮想空間という対象を、「脳」そのもので電気的に接続され、それがコンピュータで操られているアイデアは新しかった。
これは、「実体二元論」という哲学が表現されたのだった。
そして、もう一方では組織社会という人間がつくる社会が作品の「あるある」を支えた。

以前、『マトリックス』と『ダビンチコード』の類似性について書いたのは、この「組織社会」をキリスト教社会の歴史に含めたからで、そこには入れ子状態になった支配の構造としての「金融批判」があったからである。

要するに、リーマン・ショック(2008年9月)で崩壊したという、金融機関=虚業による実業の支配が、いまだぜんぜん終わっていないことが問題なのである。
虚業と実業の葛藤は、そのまま「実体二元論」になることにも注目してほしい。

リーマン以降、金融機関は弱ったけれど、それ以上に実業も弱ってしまった。
これが、わが国の失われた30年の正体である。
そして、史上最長政権は、何とかのひとつ覚えで、金融緩和という虚構の政策しかせず、実体経済の衰退を止められなかったという「実体二元論」による現実がここにもある。

すると、波状攻撃のように実体社会に出現した「ありもしない病気=虚病」が、ひとびとの「脳」をコントロールしたのだから、映画の『マトリックス』が、実社会に出現したともいえるのである。

そういう意味で、いま、改めて過去の三部作を鑑賞する意味がある。

陰謀論はさておいて、自分たちの「脳」を疑う、という作業をしておくことが、社会の怪しいシフトを防止する唯一の方法なのである。

人類の経典宗教のはじまりは、イラン北部にうまれた「ゾロアスター(拝火)教」だ。
明と暗、善と悪、白と黒。
これが、「二元論」のはじまりなのである。

つまり、「単純化」のことを意味する。

現代社会は複雑になって、どうなっているのか解らなくなっている。
その裏返しとして、単純化すると、「楽」になる。
すなわち、堕落でもあるのだ。

そんなわけで、いまの世の中には、意図的に単純化された「架空」がはびこっている。
この「架空」こそが、本来の仮想空間である。
コンピュータが仮想空間をつくりだすのではなく、人間の楽をしたいと欲求する脳がつくりだすのである。

そして、ありもしない病気が蔓延するという「現実」が、集団で働くことや集団での移動を妨げてしまった。
これによって、大打撃を受けているのが「農業」などの一次産業も同じである。

しかも、一次産業では「人手不足」=「後継者不足」から、実態として外国人労働者をとっくに受け入れてきた。
そこで、わが国の農林水産省は、「農業労働力確保緊急支援事業」として、今年度補正予算では、46億円以上を計上している。

人的サービス業からの、「労働力シフト」が視野にあるのである。

さらに、水害と蝗害で、大打撃を受けている「はず」の中国では、食料危機に備えてか、食べ物をムダにしないキャンペーンもはじまった。
また、米中経済合意で、大量のアメリカ小麦を購入する約束もある。

ほぼ半年前の3月31日には、国連食糧農業機関(FAO)や、世界保健機関(WHO)だけでなく、世界貿易機関(WTO)の各事務局長が「食料品の入手懸念が輸出制限につながり、国際市場で食料品不足が起きかねない」と共同声明を出している。

注目すべきは「輸出制限」という人為なのである。

記憶に残る「危機」では、1993(平成5)年の「米騒動」があった。
このときは、冷夏というはっきりとした自然現象が原因だった。
緊急輸入したタイ米と抱き合わせでないと、国産米を購入できなかった。

けれども、わが国はタイ米を世界価格より高額なカネをだして買い占めたので、貧しいアジア諸国では深刻な食糧危機になった。
そのタイ米を「不味い」といって廃棄する日本に、バングラデシュなどは、「不道徳である」と声明をだしたが、わが国マスコミはこれを無視した。

耳障りがよく、いかにも「善人」を装って、「コロナとともに」とか、「あたらしい日常」といっているのは、自らを「安全地帯」に置いてからの発信にすぎない。

「コロナ・パラダイム・シフト」とは、「不道徳」にシフトする、という意味である。

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