2025年問題まで1年

「2025年問題」とは、わが国の人口構成の、いよいよ3分の1が65歳以上の高齢者になる年だという意味だ。

すでに女性は、50歳がひとつの境界線になっていて、ここで女性人口が半分になっている。
つまり、日本人女性の年齢中央値は50歳を超え始めている。
全体では、48歳で、すでに世界一(人類一)の高齢社会になっている。

外国と色々比較するときに、このことをついうっかり忘れて、日本が「遅れている」とかという習性が抜けないでいるけれど、いろんな人生の経験値を積み上げて、「先行しすぎている」ともいえるから、単純比較すると痛い目にあう。

たとえば、「先進国」という自負も、80年代からのバブルで世界最高峰を極めたが、その後の衰退で、もう「途上国」になったのだけど、今でも先進国だという思い込みをしているので不始末が起きる。

ちゃんと、国権の最高機関である国会(第169回:2008年)で、大田弘子大臣の歴史的「経済演説」での、もう経済でも一流ではないと記録に残してくれている。
15年も前のことなのである。

それから、日本経済が一流に戻ったことはない。
この演説内容を理解できるのが、経済学部2年生か3年生なら、いま35歳ぐらいになっている。

なので、これより若い世代は、日本が先進国だと本気で思っているはずがなく、バブル期に豪遊した後期高齢者とは、おなじ国民とは思えないほどのギャップがあるはずだ。
しかしてそれは、特攻で散ったひとたちと、戦後生まれ(団塊の世代)のギャップに等しいともいえる。

そんなわけで、人口動向(予測)は、数学的な予測がかなりの確度で計算できる。

わたしが二十歳になった頃には、40年後の高齢社会が新聞の一面を飾るほど大々的に報道されていたものだ。

それであるとき、同級生たちとの話題で、『嫌だね年寄りばかりの国になる』とかいう仲間がいたから、自分の年齢に40を足していなかったの?と聞いたら、えらく驚いたのでこちらが驚いたのを覚えている。

俺のことか!

永遠なるもの、というのは、例えばクレオパトラが「永遠の命の薬」を求めていたとか、始皇帝も言い方はちがうが同様に「不老不死の薬」を求めさせて、やってきたのが日本だったとかというのはみんな、おとぎ話かと思っていたものだ。

石でつくった遺跡が、永遠の都を思わせるのも、おそらくすさまじい技術で建造されていたからであろうけど、形あるものは皆失われるの言葉通りで、例えば、ニューヨークの摩天楼だって、千年後にどうなっているのかはわからない。

その廃墟の衝撃を映像化したのが、『猿の惑星』(1968年)だった、

企業には、ゴーイング・コンサーン(継続性の原則)があるというけど、現代世界に現存する世界最古の会社は、大阪の天王寺を聖徳太子からの発注で建てた「金剛組」が、飛鳥時代から続くのであって、それからしたら、千年続く企業は現代世界に存在しない。

ヨーロッパ人たちがだんまりを決める分野なのである。

株式会社ならよほど継続するだろうというのも、あんがい見せかけで、株式会社「だから」寿命が短いかもしれないのである。

なので、千年前のひとたちから今がどう見えるのかを想像すれば、例えば、外国人で再びあふれかえるようになった京都の「御所」(いまでは「御苑」ということも含めて)が、まさか一般開放されてしまうとはかんがえも及ばないことだし、町全体の壊滅的な状態だって、応仁の乱からの「復興」とはぜんぜん思えないにちがいない。

ならば庶民はどんな気持で生きていたのか?について、わかるものが残っていない。

あの『万葉集』だって、明治政府のプロパガンダだという説もある。
わたしは、この説は、山本七平の『現人神の創作者たち』と並べて妙に腑に落ちた。

そんなわけで、あれから40年を足した時間がとっくに過ぎて、数学的予測通りの「超高齢化社会」を迎えることになっている。

ところが、40を足すことをしなかったひとたちが大多数のようなのは、それがどんなことなのかについての覚悟も何もないからである。
これは、多くのひとを非難したいのではなくて、それがまた千年前からも同じだといういいたいのである。

美空ひばりの生前に間に合った、秋元康作詞と見岳章作曲の『川の流れように』(1989年:平成元年となったばかりの1月11日発売)が、驚くほどの時代の節目と合致して、しかもひばり自身も同年の6月24日に52歳の若さで他界したことは、宇宙の配列としか思えない。

ヨーロッパには、千年に一人といわれる歌姫、フィリッパ・ジョルダーノが、バチカンのサンピエトロ広場でクリスマスを盛り上げたけど、おそらく、それに匹敵するのは日本では間違いなく美空ひばりである。

その最後の楽曲が、まさに「川の流れように」人々の心のなかを流れていって、そのままなのである。

「歌は流れるあなたの胸に」ではあるが、ときもなにも流れていく。
まさに、浮き草のごとくゆらりゆらりと流されていくのが人生だ。

その流れが、エネルギー・レベルになると、「生命」ということになるので、なるほど福岡伸一先生のいう通り、われわれの中もエネルギーは流れているだけなのであった。

ここで、虚無主義をいいたいのではないけれど、そんなものだ、ともいえるし、それに抵抗するのもまた人生で、どうやら抵抗したい方が性に合っていることに気がついてきた。

そうすると、大河の流れにとにかく身を任せてしまおうというのが、自民党政治で、もっと早く行き着くところ(舵はないけど)にエンジン全開で行くのだ!といっているのが、おそらく河野太郎氏などなのである。

これを総じて、日本的エリートというのだから、やっぱり抵抗したくなる。

バイデン氏の子息は、議会からの召喚状(出頭命令)を無視して議会侮辱罪を適用されるのが「得」だと、損得勘定したようで、その議会は、正式にバイデン大統領弾劾調査の開始を議決した。

これで、ホワイトハウスの官僚、外国の金融機関、外国の企業なども議会が調査できる権限を得たので、上院で弾劾決議がされなくとも、その「罪状」がアメリカ人だけでなく世界中に晒されることになった。

一部マスコミが「流れ」を読んで、トランプ非難からバイデン民主党への攻撃を開始している。

選挙は来年だが、政権交代は25年1月なのだ。

高齢化して生産力が落ちると決めつけているひとたちは、政府が金を配ってやるという社会主義の甘い汁を国民にまこうとしたら、その甘い汁の源泉をじぶんたちでしゃぶっていたことがバレたのだから、25年に向けて国民の目が覚めるようになるかにかかっている。


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