国勢調査ができないといいことがある

5年に一度の「全数調査」が、『国勢調査』である。
なんでも「全数検査」せよとか、「全国民にワクチン接種の希望を聞け」とかいうひとがいるけれど、驚くべき手間がかかるのが「全数調査」なのである。

手間がかかるというのは、費用もかかるという意味になる。
自治体の小間使いになっている、町内会や自治会の役員が、もちろん無償の活動で調査票を各戸に配ったとしても、回収や、肝心の集計にもたいへんな労力をつかう。

それでもって、10月7日の期限をむかえたので、今回の回収率が発表された。
62.6%
5年前の前回が、86.9%だったというから、なかなかの「落ち込み」である。

これの中身がどうなっているかを知りたいところだが、集めた数しかわからないから、どういうことなのかがわかるには時間がかかる。
仮説としては、
・コロナの影響
 ネットでも郵送でも、という選択肢が選択できないとか?
・外国人居住者の未回答
・まさかの個人情報開示の恐怖
とかが浮かぶ。

むかしは「義務感」があったから、なにがなんでも提出するのは当然で、きっかり10月1日という日付だけでなく、時計をにらみながら午前0時「きっかり」に記入していた。
空襲を経験したひとたちは、何が起きるかわからないと、期限のその瞬間まで記入をしなかったのだ。

これは大震災を経験していてもおなじだとは思うけど、肝心の「義務感」が薄れてきたことは確かだろう。
念のために書けば、国勢調査は「統計法」で「国民の義務」とされていて、「50万円以下の罰金」まであるから、忘れているひとは提出に「まだ間に合う」ので注意したい。

ところで、人口は増える、という前提に立てば「国勢調査」とは、いいかたもしっくりくるけど、人口が減るといういまの前提なら、「国衰調査」となるので、あんまり気分はよくない。だからといって、このことが回収率を下げているとはおもえない。

この調査は、「国及び地方公共団体における各種行政施策その他の基礎資料を得ることを目的としている」との説明が総務省HPで公式にされているように、「各種行政施策の基礎資料」となることに注目したい。

ここにも、三権分立の概念が怪しいわが国の姿が現れるのだ。

たとえば、アメリカ合衆国の「国勢調査」は、連邦下院議会の議員定数の割当を定めることにある。
わが国の下院(衆議院)ように、議院内の政治の都合では決められず、憲法に規定されている方式の実施のためにある。

ちなみに、アメリカの連邦上院議会は、各州から2名の議員を選出するとされているから、50州で100人の議員となっている。

もちろん、アメリカは行政府が各種施策を勝手にすることはなく、かならず議会を通過(賛成多数)した施策を実施するように定められている。
だから、わが国なら、国会内の会派によって国勢調査の調査結果が各種施策に利用され、それがさまざまな「法案」となるイメージになるから、現実はアメリカとぜんぜんちがってかけ離れているのである。

国が違うのだから、政治制度もちがうのは当然である。
しかしながら、たまには、外国がどうなっているかも知っていて損にはならない。

ましてや、敗戦によって全否定されている、明治憲法下でのわが国はどんな仕組みで運営されていたのかさえ、もうわからなくなっている。
徳川幕府を倒した政権だから、その統治コンセプトは、「反幕府」なのは当然としても、統治者の身分は「武士」のままだったとは以前に書いた。

それが、「下級」であっても武士の矜持だったし、士族からの役人登用が間に合わないとなって、農家出身でも東京大学卒業生を「新しい武士階級」と認めたのである。
後に、軍でもこれを真似て、将校養成学校を出たら「新階級人」になれた。

すべては、「お国」あってのことだった。

しかし、教育・研究者の最高峰であるはずの「学術会議」における体たらくを見れば、「反日」という思想でないと国内では「偉くなれない」という逆立ちが、見事に国民教育に反映されて、国勢調査にすら関心がない国民をつくっている。

これは、わが国政府には一大事である。
国家が作れと各界から要請される、さまざまな「国家戦略」の基礎となる統計の信用がゆらぐ。
すなわち、「日本版・計画経済」の基礎が揺るぎだしているのだ。

果たして、学術会議のみなさまのおかげで、計画経済ができなくなるというのは、まさに巨大ブーメランだ。
しかし、計画経済をうたいながら、改革開放で大成功した隣国は、その4000年の歴史で一度も国勢調査をやったこともない。

自国のどこに何人が暮らしているのかを知らなかったから、IT技術で把握を図り、たちまちにして個人情報を得たのがつい最近である。
なるほど、そうかんがえたら、わが国もいっそ隣国の真似をして、国勢調査なんか放り出し、改革開放をやればいい。

個人データがたっぷり埋蔵されているスマホを、国民が購入できる生活財力があるうちでないと、手遅れになりますぞ、とでも学術会議が提言すれば、すこしは役立つものかと国民も納得するだろうに。
噴飯物の「レジ袋の有料化」を提言した。

ところが、政権はもう先手を打って、スマホ利用者からのヒヤリングを総務大臣が直々に行っている。
わが国の学者は、なにを勉強しているのだろうか?

恥の上塗りとはこのことである。

私学医学部イジメ再び

今度は、聖マリアンナ医科大学の入試に対して、文部科学省が「不適切」と結論づけたと報道された。
過去に8校あって、どちらも私学助成金が全額不交付になったり、減額されているという。

指摘は、現役男子に偏った「高得点」だというから、これも以前にあった通りである。
すなわち、女子と浪人が「低得点」になる、ということなのだろう。

他校の以前の例では、「伸びが違う」ということを教授陣が認めていた。
すなわち、傾向として、「高得点ではなかった男子」が、入学後に「伸びる」から、医師国家試験の合格結果が「ちがう」ということをいっている。
すると、「高得点だった女子や浪人」は、伸びないということだ。

学校側が主張することを、統計的にでも示してくれるとありがたいのだけれども、残念ながら「言葉だけ」になっている。
こうしたことの発表すら許されないのだろうか?
現代医学に統計はつきものなので、きっとちゃんとした専門家が学内データの分析をしているはずである。

世間から、「解剖学者とされている」という、養老孟司氏は、東京大学医学部教授という職にいた。
わが国では、大学を最高学府というけれど、その中の「最高」といわれているのが「東京大学」だ。

けれども、東京大学内にあっての「最高」は、「医学部」とされている。
受験戦争の象徴とされる、「偏差値」において、70以上どころか80レベルでないと合格しない難易度は、とにかく飛び抜けていることは確かだ。
一世を風靡した、受験マンガ『ドラゴン桜』においても、「東大医学部に合格するのは宇宙人だ」というセリフがある。

「偏差値」とはなにか?を確認すれば、まず「正規分布」がわからないといけない。
正規分布というのは、グラフにすると、きれいな左右対称の「山型」になる分布をいう。

たとえば、試験の結果なら、横軸は「点数」、縦軸は「人数」を示す。
何点のひとが何人いるかをグラフにしたものだ。
だから、山の頂上にあたるのは、「もっともたくさんいる」ということと、「平均点」を示している。

典型的に「正規分布」するのは、小中学生の身長をとったグラフで、全国で百万人規模の身体測定データをあつめてグラフにすると、みごとに「正規分布」する。
横軸は「身長」、縦軸は「人数」としたグラフだ。

これは、なんの操作もなく「正規分布」する例なのだけど、じつは「大学受験」の試験結果だと、そのままではあんがい「正規分布しない」。
出題する問題側にバラツキがあると、結果も歪むからである。
そんなわけで、「正規分布する」ように、「配点を調整する」のである。

それで、正規分布させたら、頂上(最大人数で平均点を示す)を中心にして、山の左側と右側の「稜線」をじっくり眺める。
左側は平均点「未満」となって、右側は平均点を「超えた」ひとの人数を表している。

すると、このグラフの「山の面積」が、そのまま人数の分布をいうことがわかる。
山全部の面積が、グラフの対象となった人数の合計となる。
であるから、平均から左側、あるいは右側のひとたちが、どのように分布しているのかも、その面積でわかるのだ。

「正規分布」の山の場合、どのくらい平均から離れると、面積がどうなるかが決まっている。
山の全部の面積を100とすれば、それぞれを「%」で表せるのだ。

このとき、平均点をとったひとたちを、「50点」として、左側なら「49」から数が減り、右側なら数が増えるように調整して計算すると、「偏差値」となるのである。

たとえば、偏差値30と偏差値70は、平均から左右の距離はおなじだけれど、その意味は面積にするとそれぞれ、「2.275%」しかいない。
偏差値30とは、自分の下に全体の2.275%しかいないという意味だし、70ならその逆になる。

ある意味、「異常値」的な出来の「悪さ」と出来の「よさ」となる。

養老氏によると、かつてのご同僚が、「入学時には最優秀だったはずなのに、卒業時にはバカになる」と怒ったというけど、先生は「偏差値を血圧に置き換えると『治療しなきゃいけない人たち』なんだから、バカになるように補正して世の中に出さなきゃいけない」とこたえている。

さて、2018年に文部科学省は、「朝ごはんを食べると成績がよくなる」として、「早寝早起き朝ごはん運動」なるものをはじめた。
この運動の元になったのが、「全国学力・学習状況調査」で、成績がよい子は朝ごはんを食べていることがわかったのである。

しかし、これは、「統計」における「因果関係」をひっくり返している、典型的な、やってはいけない「間違い」である。
こんな初歩的な間違いをしでかす、文部科学省が、「私学」という「私塾」に対して、余計なことをし、「助成金支給」で脅迫している。

医学生の出口には、厚生労働省が行う「医師国家試験」がある。

縦割り行政の、奇跡的な「メリット」がここにある。

「EPN」と「アジア安保枠構想」

ついに菅新政権初の外交相手として、アメリカのポンペオ国務長官が来日した。
「ついに」というのは、7月にアメリカの対中戦略を変更したと公言して、世界を驚かせて、双方の当事国があの手この手で味方につける競争を開始したから、「コウモリ君」では「ついに」すまされない事態がやってきた、という意味である。

しかしながら、「コウモリ君」ではなくて、確信的に親中の幹事長が与党にいるから、政府と与党が「股裂き」になることが予想される。
それで、アメリカは政府の息のかかっているシンクタンクの「研究レポート」として、安倍前政権での首相秘書官だったひとと一緒に、「名指し」するという先手を打っている。

この「一手」に対して、わが国は、名指しされた秘書官を内閣官房参与に横滑りさせ、さらには共同通信で「執拗な安倍政権批判」を繰り広げた、論説副委員長を「首相補佐官」とする、ウルトラC級の人事技を二連発で立て続けに披露した。

また、一方で、昨日書いたように、韓国に「安全保障上の問題」として、「輸出管理規制強化」の説明をしないのと同じ説明で、日本学術会議の人事を拒否しているから、「人事技」でいえば、こちらは、「従順」のウルトラC級をだしている。

はたして、「コウモリ君」をやり遂げて、このあとに続くあちら様の外務大臣を迎えるのか?
じつは、かなりの「正念場」なのである。

「戦略の変更」を公言している相手に、戦後このかたの「従来通り」で対処しようという魂胆がなんだか透けて見えるけど、こうした「変化」に対応できないのが「官僚制」の特徴なので、政治家と官僚の内輪のバトルがどうなっているのか?も、アメリカにはじっくり読まれるのだろう。

来日早々、さっそく、ポンペオ氏は、大技の一手を打ってきた。
アジア安保枠の構想を披露したのである。
ヨーロッパには、かつてのソ連圏に対抗した「NATO」が、いまでは「ロシア」をにらんで健在である。

日米印豪の4カ国外相があつまって、「クアッド」だという程度のはなしではない。
どこまで事前に知らされていたものか?
3国の外相に驚いた様子がないのは、ポーカーフェイスなのか?

しかし、今年の6月に、アメリカはもっと先手を打っている。
それが、「EPN(経済繁栄ネットワーク)構想」である。
これはわが国では、「化学業界」の話題になってはいたが、初耳の方も多かろう。

この構想の狙いはズバリ、「グローバルな供給網の脱中国」なのである。
そこで、対象となる供給網とはなにか?をかんがえると、さいしょに思いつくのは、産業の米である「半導体」である。
ここにきてアメリカが、アメリカの技術をつかった生産方式でつくられた半導体の供給規制を開始したのは、この「構想」を「実施」しているからである。

さらに、トランプ氏は、「G7」とか「G20」ではなく、「G10」あるいは「G11」という国際協調の枠組み構想まで発言している。
もちろん、この「10カ国」あるいは「11カ国」のなかに中国はカウントされていない。

けれども、意外な国がカウントされている。
それが、「韓国」なのである。
彼の国民が、この構想に大喜びしていると伝えられているのは、「先進国」の中に入ったということである。

しかし、肝心の政府・あるいは政権は、先月の国連総会での「核放棄なき戦争終結」を突然発言したように、果たしてアメリカからの離脱を図っている。
つまり、「コウモリ君」ではなくて、あちら側に行くことを宣言したようなものだ。

トランプ氏が来月、再選を決めたなら、いきなり「米韓関係」が注目される。
その意味で、今回、国務長官の韓国訪問がキャンセルされた意味は、「深い」のだけれど、これは、わが国の地図上の立ち位置からも「大問題」である。

何のために、日清日露の両戦争で日本人が血を流したのか?が、振り出しに戻ってしまう大事態である。
つまり、わが国周辺の「流動化」が著しいのである。

アメリカが韓国を誘ったのは、サムソンの半導体を確保したいからであろう。
残念だけど、わが国がこの分野で直接誘われることはない。ただし、サムソンの技術はわが国の技術である。

そんなわけで、ものすごくダイナミックな戦略構想が立てられていて、これを着実に実行しているのがアメリカなのだ。
これを侮ってはいけない。

だから、わが国でいう「ウルトラC級」が、そのダイナミックさからすると、爪の垢ほどに見える。

アメリカ人の用意周到は、かの戦争でもそうであったように、相手を「雪隠詰め」まで追いつめることにある。

すると、次のダイナミックは「台湾承認」だ。
なんと、国民党がアメリカと国交回復せよと台湾議会に提案し、これが通過した。
ポンペオ氏は、もしや、今回の帰りがけに、台湾訪問というサプライズをやるかもしれない。

ちまいところでは、与党幹事長を検察が逮捕するという事態だってありうる。
アメリカに逆らった、二階氏の師匠、田中角栄氏がどうなったかを忘れたわけではあるまい。

おビックリは続く。

もしや「輸出管理規制強化」だった?

政府とは行政府のことをいうから、もともと事務的なのが当然だけれど、それでも「今回」の政府の対応がなんだかすごく「事務的」なのである。

今もつづく韓国へのフッ化水素などの輸出管理規制強化をはじめたときと、まったくおなじ用語が使われている。
当初、あちら側は、勝手に「経済制裁」だといいだしたけれど、わが国政府の説明は、韓国政府による重要物資の輸出入管理事務ができていない、ということを理由に、日本側からの管理強化をするにすぎないとした。

軍事転用できる物資の、輸入量と使用量が合わず、韓国国内での貯蔵をしていないなら、必然的に第三国への輸出(密輸になる)が行われていることが疑われる。
この疑問についての政府間での問い合わせに、返答をしない、という態度をとられれば、せめて書類審査を強化するのは当然だろう。

なぜなら、下手をすると製造元のわが国が攻撃されることだってありうるから、自動的に安全保障上の問題になるのだ。
これを放置して、本当に被害を被ったら、わが国はずいぶん「間抜け」なことになってしまうのだ。

冒頭の「今回」とは、日本学術会議の人事についてである。
総理が「法律に基づいて厳粛に対応している」としか説明しないのは、どこかで聞いたことがある言い回しではないか。

いま、世界情勢は「米中の闘い」の最中なのである。
アメリカ合衆国の議会は、与野党とも「反共」を露わにしている。
何度も書いたように、アメリカ合衆国という国は、わが国と違って三権分立しているから、政府よりも議会が主導権を握っている。

わが国の、政府が主導して国会が従属するという姿は、ぜんぜん民主主義の本分とは違うのだ。
だから、わが国の勘違いは、あたかも「トランプ政権が」といいたくなるのだ。

そうではなくて、議会からトランプ政権が「やれ」と命令されているのである。

そのトランプ氏が感染した。
「もしも」をかんがえれば、副大統領が政権を引き継ぐけれど、投票まであと一ヶ月を考慮すると、その「もしも」のタイミング次第で共和党大統領候補がペンス氏となれば、副大統領候補を立てなければならない事態となる。

ちなみに、アメリカの副大統領は、「閑職」というイメージがあるけれどそんなことはなく、上院議長を兼務する。
もし、副大統領「にも」もしもがあれば、下院議長が大統領職を引き継ぐのである。すると、トランプ氏を弾劾した「民主党のペロシ氏」となる。

国務長官を筆頭とする、「閣僚」に大統領職のお鉢が回って、序列が決まっているのではない。
もしものときに、閣僚から総理を決めるわが国とは根本的に制度が違う。
大統領の両脇に、上下両院の「議長」が控えとしての順位を確保しているのは、「選挙」の重みと「議会の優先」が思想にあるからである。

数々の対中締め上げ法案が通過している議会にあって、当然だが「同盟国」にも「要請せよ」と政権に命令するのは必然である。
これを、「外交」として実行しているのが、国務長官なのである。
そのポンペオ氏が、本日6日、来日する。

どのような「調整」が、事前に日米の政府間でおこなわれているのかしらないけれど、「日本学術会議の人事」が、ちょうどよい「見せしめ」になったのは果たして偶然なのか?

「学問の自由」を盾にして、政府に原案通りの任命を要求しているし、任命拒否の理由を説明せよ、と迫るのは、本稿冒頭の韓国の例によく似ているのである。

しかして、この「学術会議」は、数度も「軍事研究を禁止する」と決議していて、およそ「学問の自由」を自ら放棄している組織である。
それが、「特別職の国家公務員」なのだ。
さりげなく、官房長官がこの組織の「予算内訳」を発表した意味はなにかをかんがえればよい。

現在の科学技術は、もはや「軍事と民生」を区別できない。
わが国を代表する叡智の集団が、これをしらないはずはない。
すなわち、もはや「特定政治団体」なのである。
しかも、人民解放軍の下部組織である、あちらの科学団体との「提携」を文書で結んでいて、留学生受け入れを積極化しているのだ。

もちろん、こうしてやってくる留学生の「身元確認」など、するはずがない。
軍や党に籍を置くかどうかにかかわらず、「学問の自由」を優先させる。
すなわち、日本国を挙げて軍事転用できる「知識」を輸出しているのだ。
つまり、これは、「知識の敵国への輸出管理規制強化」の意思表明なのである。

特定国の留学生にビザを出さない、という方法ではなく、教師側に制裁を課す、うまい方法だ。

一部の学者たちは、すでにSNSをつうじて、「単なる左翼の政治団体」であると批判している。
また、元職の「議長」がその肩書きをつかって、共産党の街宣車で選挙応援をやっている画像までネット上には公開されている。

つまるところ、どうにもならない集団なのである。
しかし、こんな下世話なひとたちが、文部科学省の国家プロジェクト計画を、事実上決める権限をもっている。

学術会議も文部科学省も、廃止の方向で決定されるのが望ましい。

研究予算を思うままにする横暴をやめさせれば、少なくても、民間の研究が盛んになるという効果を期待できる。
国民福祉に貢献するという「学術会議」の目的は、消滅してこそ達成できるのだ。

まさに、オルテガ・イ・ガセットが指摘した「大衆」がここにいる。
彼がいう「大衆」とは、一般人のことではなく、堕落した「専門家たち」を指すのである。

「規制」が当たり前の国

民間企業ではたらいていれば、なんだか「変な規制」に当たることがある。
まるで、「犬も歩けば棒に当たる」のような感じだが、あんがい笑っていられない。
よく調べれば、自社のビジネスに多大なる影響が発生することに気づくからである。

当然だけど、ビジネスにおける「規制」で発生する「多大なる影響」とは、たちまちコスト増になる。
だから、いままで出ていた「利益」が減ってしまうので、別の分野での方策をかんがえて対策にすることと、この規制によって発生した影響の対策と、かならず二方面作戦を強いられることになる。

しかし、世間は「規制」の議論しかしないので、企業内でのもう一方の努力については誰も気づかない。
株主だって、直接的な規制の影響だけに興味があるから、なんだかなぁ、なのである。

それで、株主を安心させようと、株主から経営を委託された経営者は、「ご心配をおかけして申し訳ありません」と頭をさげる。そのじつは「自分には関係ないし、だってしょうがないじゃん」なのである。
けれども、利益確保のためのもう一つの対策については、あんまり説明しない。

次期決算で、その効果がでなかったら、「経営責任」を問われるからである。
むしろ、次期決算でそのもう一方の対策が効果をだせば、お手柄として名経営者になれるかもしれないから、事前にいわない方がよい。

そんなわけで、こうした企業情報を報道する記者も、聞いていないことは質問しないから、報道しない。
こうして見事に、対策立案の当事者以外は誰も識らないことになるのである。

これが、社内官僚の仕事であるし、悲哀でもある。

しかし、いったんできた規制は、ほとんど緩むことがないから、規制が「ある状態」がふつうの状態になって、とうとう、規制そのものが「なかったかのように」なる。
いわば、「生存条件」になるからである。

むかしは、経済界も規制に「敏感」で、官僚出身だったのに「歴史的名経営者」になった石坂泰三氏や、苦労人の土光敏夫氏は、それぞれ経団連会長として、政府に異見をはっきり示していた。

その「異見」とは、「規制反対」だったのである。

わが国における、「自由経済」の守護神でもあった。
また、経団連とは一線を画し、その「理論武装」でならしたのが「日経連」で、こちらは労働組合との交渉における「窓口」となっていた。

日経連が経団連と合併したら、ライバルの労働組合も弱体化したようにみえるのは偶然ではあるまい。
よきライバルを失うと、それは自らの指針を失うことにもなるからである。
だから、本当はよきライバル同士は、親友関係でもあるのだ。

1980年、土光後の経団連は、稲山嘉寛に引き継ぐけれど、「我慢の哲学」で知られるこのひとは、「暖かすぎた」。
それは、「協調」なのではあるけれど、「妥協」とも見えてしまった。
躊躇なく敵に塩を送れたのは、わが国経済に自信があったからだろう。

さて、1977年に中日新聞社に入社した長谷川幸洋氏が、自身のユーチューブ・ニュース番組で、赤裸々にその経歴を語っているのをみつけた。
彼は、東京新聞論説副主幹の肩書きもつかって、東京MXテレビ『ニュース女子』の司会者をつとめていた。

この番組で、なんども自らを「元左翼」といっていたけれど、沖縄の基地問題の実態を放送したことが「事件」となって、新聞社の「論説副主幹」から降格されるという「事件」にもなった。
新聞社の論説方針とちがうことを、その肩書きをつかって「外部」で発言したことへの「懲罰」らしい。

こういう「懲罰」が、「報道の自由」を主張する新聞社内でまかり通ることに、強い違和感をおぼえるものの、個人的にこの新聞を買ったことがないので、この件は横におく。

彼の発言で、「そうか!」と気づかされたのは、「記者」とても、大学卒業後にそのまま「入社」して社会人になるので、じつは「社会をしらない」のである。
それに、社風が「社会主義容認」なら、左翼にシンパシーのある学生を選ぶだろう。

すると、長谷川幸洋氏が、人生のどこいらへんで「元」をつけるに至ったかはしらないけれど、社会主義的現状の肯定と、資本主義的現状の否定を追求するように上司・会社から要求され続けたことは、容易に想像できる。
きっといまもそうであるにちがいない。

氏は、カミングアウトしたので、現役記者当時、政府の規制に反対するという意識すらなかった、と告白している。
むしろ、正義の政府がする「規制」は、正しい、という認識だった、と。

そちら方面から見て、「正義の政府」とは、左巻きの政府という見え方であったともいっているのだ。
いまさらに、正しい認識である。
自民党は社会主義政党だし、官僚も東大というその筋の大学出身者で固められているからである。

しかしながら、あるときから、政府の規制の多くが、その裏に役人の「天下りがセット」になっていることに気がついた。
つまり、「国民のため」という規制「ではない」規制がはびこっている。

氏は、新聞社を定年退職されている。
やっと、定年後に自説をいえるようになったともいえるけど、わたしたちは、なるほど世間知らずの記者が書いた記事を買わされつづけているのだ。

規制が当たり前の国なのは、官僚と政治家だけでなく、マスコミの記者も、惰性で記事を書いているからであった。

でもやっぱり、経済界が情けない。

国威発揚の古さと胡散臭さ

「米ソ冷戦」時代は、いわゆる西側と東側の間に、ほとんど交流がなかった。
ひとの行き来だけでなく、ものの行き来も、情報の行き来もなかった。
「鉄のカーテン」によって分離されていたからである。

自由体制ゆえに、なかなかまとまらないようにみえる「西側の結束」に対して、「一枚岩」を強調していたのは「東側」で、それが西側への心理的な圧迫にもなっていたし、そうした圧迫をすることが目的でもあった。
情報がないから、西側は東側の強固な結束をおそれたのである。

一般人がこれらの国を観光旅行するには、ビザの取得だけでなく、およそ「自由行動」が許可されないので、先方政府指定の「団体ツアー」にならざるを得なかった。
すなわち、先方の一般市民との「隔離」をもって原則としていたのである。

ところが、30年前の「崩壊」によって、ぜんぜん「一枚岩」どころか、バラバラの国家群を、親方であるソ連が「ジャイアン」のように睨みをきかせて、むりやりまとめていたという「演出」あっての「一枚岩」だとわかった。

それでも、ソ連を仕切っていたひとたちは、知恵を働かせて、「国際分業」までも「計画経済」に取りこんだ。
ミサイルを製造する国、軍事でも産業用でもトラックを製造する国、自家用車を製造する国を指定して、これらの国との「水平貿易」をしていた。

ただし、決済にはルーブル紙幣ではなく、ソ連製の武器で支払ったから、事実上の「物々交換」である。

たとえば、農業国なのに、いきなりむりやり工業化への投資政策をして、これに大失敗したチャウシェスクのルーマニアは、借金返済に農産物で引き渡すことになったから、農民は自分がつくった作物をいっさい口にすることができなくなって、巨大な「一揆」に発展し、政権崩壊となった。

この意味で、新冷戦は「冷戦2.0」とかいうけれど、前のときとぜんぜんちがう。
西側のあらゆる生活に溶け込んだから、おいそれと「排除」できない。

こうした「やり方」は、うまいやり方である。
相手の懐に飛びこんで、ゆっくりと増殖し、寄生する。
取りこまれた方は、なにも気づかないままに、徐々に脳まで冒される。
脳を冒されれば、自覚症状もないから、最後は完璧な支配に成功する。

「トロイの木馬」の物語は、現代でも有効なのだと教えてくれる。
そう考えると、国民党を「乗っ取った」岩里政男(李登輝)氏は、北京の戦略を自ら実施していち早く成功した。
ただし、目的がぜんぜんちがうから、あちらは強烈に「敵視」している。

こんな方法を、どうやって習得するのか?
すなわち、究極的な「詐欺」や「偽装」だからである。
おそらく、近衛文麿内閣が手本になるし、戦後では田中角栄内閣が挙げられる。

30年前に生き残った、ソ連と仲間割れをした国は、わが国の「やり方」をしっかり学んだはずである。これを、わが国の学術のひとたちが「教授」したにちがいない。
基点にする思想が、どちらも「計画経済」なのであるから、ここに「二重らせん構造」もうまれた。

わが国の「計画経済」の成功例は、なんといっても「満州国の経営」である。
これを仕切ったのは、満州国次官の岸信介ら(昭和研究会)で、その綿密さは、ロシア人の荒っぽい仕事からではけっしてできない。

ここに、激烈な受験戦争と、それがつくりだす学術のヒエラルキー、さらには「官尊民卑」と結合した、「優秀な官僚」という「神話づくり」がどうしても必要になる。
東京大学の卒業生が、東大以外には目もくれないのは、そうした社会訓練の結果なのである。

そんなわけで、計画経済の本質は、国民生活のあらゆる部門で「計画」をはじめることにある。
すなわち、「漏れ」のある部門から、「計算不能(計画不能)」になるのだと信じているからである。

こんなときだけ、宗教家になったごとく「神は詳細に宿る」といいだすご都合がある。
そして、大真面目に、あらゆる生活に国家の計画が入りこむのである。

「計画経済」の基礎となる計算と計画が「成り立たない」ことは、とっくにミーゼスの研究がこれを証明している。
わが国の学術のひとたちは、ミーゼスのこの研究を「無かったことにする」し、さらには「満州での成功」も無かったことにする。

満州にまつわる話を「帝国主義」として、一刀両断し、議論させないのは、一定の成果をだすことができたという、「秘密」を厳守して、いまの世の中に密かに浸透させたいからであろう。

そのわかりやすい例が、「スポーツ庁」という役所である。
初代長官の鈴木大地氏から、このたびレジェンド室伏広治氏に代わった。
なんのための「役所」かをかんがえれば、スポーツを楽しむ国民を縛るためしかないことに注目したい。

室伏氏は、「頑張る」といったけど、どうか「頑張らないで」ほしいし、できれば「不要論」で頑張ってほしい。

「国威発揚」は、じつはオリンピック精神にも反している。
オリンピックは、国別対抗の形式をやめるべきだ。
「参加することに意義ある」とは、選手個人のことなのである。

「国立アカデミー」という発想

日本学術会議は、わが国の「国立アカデミー」である。
「会議」だから、「議員」がいる。
これら議員は、特別職の公務員とされ、任期は6年で3年ごとに入れ替えとなるけれど、210人の会員は再任できず、2000人の連携会員は2回まで再任できるから、回数が決まっている制約付きの参議院のようなもの、だ。

まぁ、なんであれ「公務員」なのである。

学者たちの「会議」だから、さぞや「論文審査」を経てのことだとおもったら、あんがいちがう。
いまは、内輪の学者たちが「お仲間」を推薦しているし、「成果の評価」も、内部事務局が行っている。

「いまは」なので、「前は」論文があるすべての学者が、会員選挙の「投票権」を有していた。
この変化は、「学者」といえども「欲望」にまみれた人間だということで、それが「権威主義」となったことを伺わせるから、なんだかちょっと「チャーミング」なのである。

「権威づけして偉くなりたい」

要は、学会で威張りたい、という幼児的な感性のリニアな表現を、研究者という立場を超えて実現できる、政府がつくった「飴」なのである。
この「飴」に、血相変えて群がる姿が、あまりにも人間的だから、「チャーミング」といったのだ。

けれども、こうした欲望まみれのひとたちだから、権威のためならなんでもやる、という傾向がむき出しになるのも必然だ。
それが、学術研究予算への関与である。
こうして、学者の世界にピラミッド型のヒエラルキーがうまれる。

年寄りによる、若手へのイジメ、すなわち「ハラスメント」製造装置と化すのである。

発足は1920年の「学術研究会議」をはじまりとし、戦後の1949年に「日本学術会議」となった。
学術研究会議は、第一次大戦による連合国側がつくった国際組織として「万国学術研究会議」への参加を目的に、加盟各国の国内に設立要請されたことにある。わが国は、当時、連合国側の「戦勝国」だった。

つまり、「敵」として抜けたドイツとオーストリア外しの一環が、「万国学術研究会議」という「国際機関」だから、ぜんぜん「万国」ではない。
看板を変えたのも、昭和にすれば24年のことだから、GHQによる占領中のことである。

すると、なんとなくモデルは、「ソ連科学アカデミー」ではないかと想像するのである。
その「ソ連科学アカデミー」は、ときの独裁者スターリンにおもねった、遺伝学者のルイセンコが仕切る暗黒があったと前に書いた。

彼の政治力は凄まじく、スターリン批判をしたフルシチョフ政権によっても安定した権威を保てたが、その後のブレジネフ時代に追放される。
何人の科学者が、ルイセンコによってシベリア送りになったかは不明だけれど、少なくとも「遺伝学」では、ロシアは50年遅れていると、いまでもいわれる元凶である。

彼が、権力者に好まれたのは、その「遺伝理論」にある。
社会主義の農夫と社会主義という環境は小麦を成長させるが、資本主義の農夫と社会環境では小麦は育たない、という「理論」である。
そんなばかな、と学会で発言でもしたら、突然逮捕されてシベリアに送られたのは嘘ではない。

このたび、日本政府が会議からの推薦を無視して、6人を拒否したのは、いかなる理由であるかと大騒ぎになって、あたかも「研究の自由を奪う」という話になっているけど、研究の自由を奪ってきたのがこの「会議」なので、ルイセンコのアカデミーによく似ている。

国立大学は、国立大学法人になって、良くも悪くも「稼ぎ」がひつようになった。
その「稼ぐ」ためのマネジメントが学者にできないものだから、相変わらず「象牙の塔」のままである。

ならば、いいかげん、こんな「役立たず」の会議を廃止して、完全民営化する方向を目指すのが、「今様」である。
国家があらゆる部門の研究を支配する、という発想が古すぎる。

研究の自由を第一義とするなら、むしろ、国家から距離を置くべきなので、今般の任命から漏れた「6人」こそ、誇り高く「職」と「会議体」の存在を「否定」して筋が通るというものだ。
にもかかわらず、任命されなかったことの「不名誉を不満」として、政府批判をするとは、論理として成り立たない。

つまり、自分を「公務員にせよ」と、政府に要求しているからである。

果たして、国民として、これら呆れた輩をみて、「任命しなかった」政府を褒めることも感心しない。
そもそも、研究の自由をいうなら、学者が自ら研究の自由が保障される組織をつくってからいって欲しい。

こうした組織を運営するにはカネが要る。
それを、政府におんぶに抱っこしておいて、ノーリスクでできると信じることが学者らしくなく、甘いのである。
すなわち、政府とは関係なく、「寄付」による金集めを必然とすることで、その立場を主張できるというものだ。

もちろん、そうやってかんがえれば、文部科学省なる行政府の機能も、不要なのである。

政府に全面依存しながら、自由な研究などできるはずもない。
わが国を代表する学者たちが、これを「しらないはずもない」。
ならば、やっぱり「権威がほしい」という、世俗にまみれたひとたちの集団だということが、国民の結論になるのである。

ロボットのバカの壁はぶ厚い

小学生の頃の、『ロボットくんのハイキング』(コロムビア)という歌がなんだか耳についているのは、モダン・バレエをやっていた妹が神奈川県立音楽堂での発表会で踊った曲だからだろう。
頭にアンテナを付けて、キラキラした銀色系の衣装で、ガクガクと歩いていた。

中高年にはいまもあんまり変わらない、ロボットのイメージそのものだった。
上述の歌を鑑賞したいなら、国立国会図書館で聴くことができる。

『マグマ大使』はロボットなのか何なのかよくわからいでいたけれど、『ジャイアントロボ』は、そのものだった。ただし、人間(少年)がその都度命令することになっていたから、『鉄人28号』と大差ないようにもみえる。

人間型ロボットの「完成形」を観たのは、1978年公開の第一作『スターウォーズ』の「C-3PO」が最初だったとおもう。
「親友」という設定の、「R2-D2」の方がはるかにロボットらしいけど、ローラーの脚で砂漠とかどこにでも滑らかに移動できるのが不思議でもあった。

もちろん、「人工頭脳(AI)」としては、カメラと音声それに計算ユニットとして表現された、『2001年宇宙の旅』(1968年)がある。
もっとも、この作品を初めて観たのは、何度かあった「リバイバル」で、高校生の頃だったと記憶している。

小学校低学年のころに、初公開された映画とは到底おもえない映像美に驚愕したものだ。
原作者のアーサー・C・クラークが、試写を観てあまりにも原作と違うことに怒ったという話は、原作を読んで「なるほど」と合点した。

彼は、イギリス人で、スリランカの高級茶畑で有名な地域に移住していて、都会のコロンボに出てきては宿泊した、「ゴール・フェイス・ホテル」のロビーには胸像が置かれている。
ちなみに、このホテルには1921年、皇太子だった昭和天皇も滞在している。

さて、現実のロボット開発はどうなっているのか?
日本車の工場で、溶接工程に導入されたロボットが産業用ロボットでもっとも有名になった。
これは、天井からの「腕だけ」だったから、人間型を期待したらいけない。

もう二足歩行ができるようになったし、四足のものはかなりの運動能力をもっていて、その速度だけでなく、段差をものともしない。
それで、一部は軍事用に開発が進んでいる。
こんなものに殺されたくはない。

ただし、これらのロボットには、大弱点がある。
それは、「脳がない」ことだ。
プログラムされた通りに動くけど、人間の言語によるその場の命令も理解できない。だから、人間からの音声命令を理解して戦う、「ジャイアントロボ」は、いまも実現化できていない「超最先端」なのである。

集積回路の処理能力は確実に高まっているけれど、それは、「速い」ということに集約されているので、単純化すれば以前から「反応が速くなった」にすぎない。
つまり、「SF」作家が表現した、人間型で「C-3PO」のようなロボットは、「F:ファンタジー」のままなのである。

昨年の「ビジネス書大賞」を受賞した、『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』は、ファンタジーであることの理由を解説している。
著者の専門は、数学である。
すなわち、数学の限界を教えてくれている。

このことは、「科学の限界」をも意味する。

するとこのことは、じつは「人間の可能性」の証明でもある。
人間にはあらゆる可能性がある、というのは、ファンタジーではない。
このときの「人間」とは、その「頭脳」を指す。
いわゆる、「脳科学」が進んでいるとはいっても、全部が解明されたわけではない。

人間の「思考」こそが、唯一の理想的コンピュータの結果なのだ。

あらゆる経営資源のなかで、「ひと」だけが価値を創造するということの真実がここにある。
だから、どんな職業でも、ひとの能力を最大化させる方策を常にかんがえることの継続が、結果を支配するのだ。

「ビジネスは結果である」とはいうけれど、そのための「アプローチ(手順)」が正しくないと、よい結果にならないし、なりえない理由である。

日本経済衰退の最大の理由がここにあるとかんがえる。

だれが「ビジネスは結果」だといいだしたのか知らないが、「ビジネスは結果」だという「結果がある」ことを忘れては、実務はできない。
すなわち、適切な目標設定と、その達成のための適切なアプローチがなければ、「目標通りの」結果をだすことはできない。

わたしは、部下に「ビジネスは結果」だと言い切れるひとは、ビジネス・マンではないとかんがえている。
間違いなく、よきビジネス経験や体験を積んでいない。
もしそのような経験や体験をしていたら、かならず「ビジネスは段取りだ」というはずだからである。

囲碁や将棋の勝負師たちには、「一手」を打つたびが「ビジネスの結果」であって、その集積が「勝敗を決する」のだ。
すなわち、「考慮時間」のなかでなにを思考しているのか?ということが「すべて」なのである。

いかなる名人をコンピュータが負かしても、コンピュータは「一手ごと」での「最適」しか計算しないしできない。
どのタイトルをいえばいいのかわからない、羽生善治氏は、電脳将棋を「人間から見ると時系列がつながらずに全部が点」、「非常にまばらに見える」と、まさに「デジタル」の本質を盤面に見ている。

これぞ、「人間」なのである。

「ばかなことはおよしなさい」

赤の他人に対して声をかける。
かけられた方も、ふつうに対応する。

むかしの日本人は、こういうひとたちだった。

たとえば、クーラーがまだない電車の蒸し蒸し状態で、窓側に座っているひとに、「窓を開けてください」とふつうにいえたし、そんなこといわずにも窓を開けてくれた。
赤ちゃんを抱っこしている母親に、しらない男性が「かわいい坊ちゃんですね」と声をかけて、「いいえ娘です」、「これは失敬」とは実話である。

それで、なんだか経済状態がよくなってきたら、だんだん他人との距離ができて、しらない女の子に声をかける、「ナンパ」だけが生き残っている。
他人に道を聞くのもはばかれるものだから、スマホのマップでナビしてもらうことにもなった。

それは、むかしの映画にたっぷり残っていて、時代劇も現代劇も違いはない。
すれ違った登場人物が、ふつうに他人に声をかける。
けれども、いいことばかりではなく、あんがいお節介もある。

町内には、世話好き、というひとがかならずいた。
下町の「人情」といえば情緒があるけれど、見ようによっては面倒なひとでもある。
他人の家に上がり込んで、説教をはじめたりするからである。

ところが、上がり込まれた家でも、追い返すどころかお茶を出したりして、ちゃんと話を聞いている。
時間に余裕があった、ということであるし、一応は聴く耳もあった。
いまなら、玄関先で追い返されることもない。

チャイムのボタンで、モニターに映る姿を確認すれば、簡単に居留守ができる。
それでも入って来ようものなら、警備会社か警察に通報される。

「個」が「個」として確立すれば、これを、「アトム(原子)化」という。

「個」は他人との接触を避けるきらいがあるので、磁石の同極同士が反発するように、距離を置く。
その意味で、むかしは「個」が主張していなかったから、磁石の対極同士でくっつきたがったのだろう。

いったん「アトム化」すれば、なかなか元にはもどれない。
けれども、人間はやっぱり「孤独」が嫌なものだから、なんらかのコミュニティに参加したりする。
それは、隣家や町内をかんたんに越えた、別空間でのコミュニティであることがおおい。

町内だと、「反発力」が残るからで、距離があっても趣味や価値感がおなじ他人とのコミュニティだと居心地がいい。
こうして、居心地のよいコミュニティに、政治が侵入してきて、それも居心地のよさを提供すれば、たちまちに強大な勢力になる、と警告したのは『全体主義の起源』を書いた、ハンナ・アーレントである。

彼女の描いた「モデル」は、20世紀の全体主義(ドイツやソ連)だった。

すると、他人との距離感と時間の概念が、適度に「緩い」社会が、じつは「健全」なのだということになる。

夏目漱石の『草枕』冒頭。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。」
明治にしてこれかと想う。

発表は明治39年(1906年)だから、日露戦争のころの作品である。
もう100年以上も前になる。
いまは、「コロナとの闘い」と、「米中の闘い」が併存している厄介な時代になった。

すでにこの頃にして、「西欧化」が「胃痛」の種なのである。
すると、とっくに西欧化どころか西欧になったいまの「住みにくさ」は、当然といえば当然である。
裏返せば、漱石にして「日本」を懐かしんでいる。

草枕の冒頭には、次の一文が続く。
「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」
果たして、いま、詩や画は生まれているのだろうか?なにも、主人公が芸術家の設定だから、だけがこの文を書かせたわけではないだろう。
漱石のいうとおりなら、まだ「悟っていない」ということになる。

「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」

「人でなしの国」とはどこか?
当時は欧州列強、いまなら米中の「どちら」なのか?
どちらも、「人でなしの国」ではないのか?
この中に、わが国だって、うっかり入ってしまっていないか?

「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」

名言である。
「寛容(くつろげ)て、束の間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」のは、本来は政治の仕事でもある。
「規制」ばかりで、国民を締め上げるいまの政治は、なっちゃない。

一方で、「人の世を長閑(のどか)に」するのは、国民の側である。
「個」の自己主張ばかりでは、「のどか」にはならない。
「のどか」だから心が豊かになるのである。

東京メトロが、抗ウイルス・抗菌処置を実施しているのを、「ばかなことはおよしなさい」といえる社会がいい。
そんなことはぜんぜん「重要」でないし、費用を負担するのは利用者なのだ。
世の中で、地下鉄「だけ」が抗菌とは、笑止である。

走っているとき「だけ」が電気なのを、「ゼロエミッション」というのとおなじだ。
その電気は、どうやって発電しているのかをかんがえない。
くつろいでかんがえれば、子どもにもわかる。

秋分を過ぎたから、もう「秋の夜長」である。
今日から10月。
今年もあと三月でおわる。

のどかな気分で、『草枕』でも読みましょう。