「時代」をつくる世代とは

いつでも、現役のバリバリと指導者が組んで時代をつくる。
キーになるのは、指導・管理する世代がじっさいに時代をつくっていることだ。
それは、かつて若さとバイタリティーで、上司をものともせずバリバリはたらいていた世代が、指導・管理しているからである。

そういう意味で,「時代」は「生命」に似ている。
わたしたちの細胞は、じつは毎日のようにあたらしい細胞がふるい細胞と入れ替わって、数ヶ月で完全に入れ替わる活動をしている。
髪の毛も、歯も、内臓も、すべてあたらしい細胞にコピーされているのである。

白髪は白髪のままに、虫歯も虫歯のままに、コピーされるから、入れ替わっているという実感はない。
しかし、これは間違いのない事実なのである。

さらに、食物として体内に取りこんだ物質を、「消化」というエネルギー変換をおこなって、分子レベルで吸収し、体内での化学反応によって分子レベルでの不要物質だけを排泄している。

したがって、福岡伸一博士によれば、生命とは「エネルギーの流れである」という定義になる。
だから、このエネルギーの流れが停止し、細胞の活動が停止した状態を「死」というのである。

個体としての人間があつまって、集団をつくると、社会がうまれる。
社会の細胞は、個々の人間であるが、さだめられた寿命によって、ふるい人間とあたらしい人間が入れ替わっている。

これを、「学校」というくくりでみれば、小学校6年、中・高3年とは、厳しい「定年制」が実施されているともいえる。
ことしの新入生も、いつしか卒業するから、たえず学校は人間という細胞が入れ替わっていながらも、あたかもおなじ姿をしているように見える。

企業組織もまったくおなじだ。
組織を構成する人間は、人生の大半をこの組織のなかにうずめて、生計をたてるが、やがては組織から引退することになる。

だから、引退手前の「頂点」のときに、指導者の地位をあたえられたひとたちが、そのひとたちの人生経験にもとづく「時代特性」があらわれて、それをおおくのひとがたんに「時代」とよぶのである。
天才・中島みゆきの「時代」における歌詞は、まさに以上のことをあらわしているから「すごい」のである。

「高度成長期の」昭和をつくったのは、明治の気骨だった。
財界をけん引していた、文字通りの財界総理は、石坂泰三氏そのひとだ。
明治19年(1886年)生まれにして、経団連会長だったのは昭和31年(1956年)から昭和43年(1968年)だ。
なお、昭和50年(1975年)に鬼籍にはいっている。

わたしがおもう最後の財界人、土光敏夫氏は、10年おくれて明治29年生まれ、昭和49年(1974年)から昭和55年(1980年)まで経団連会長をつとめ、第二次臨時行政調査会会長になったのが翌年の1981年だった。

石坂が30歳になるのが大正5年(1916年)、土光が1926年(大正15年・昭和元年)である。
敗戦の昭和20年(1945年)は、石坂59歳、土光49歳だ。

厚労省が発表している平均寿命で、もっともふるい昭和22年では、男50.06歳、女53.96歳だ。
「平均」のこわさをしったうえで、石坂と土光はすでに「長命」の部類に入る。

石坂は昭和13年に第一生命の社長になっているから、52歳のことだし、土光は昭和21年に石川島芝浦タービンの社長になったが、それは50歳のときだった。

いまでも、50歳のはじめで大企業の社長になるひとがいるから、寿命を無視しても、このひとたちが「時代をつくっている」のである。
いま本人たちに、その意識があるかどうか、はわからないから残念な時代ではある。

すると、30年でおわる「平成」の時代をつくったひとたちとは、ざっくり50年を引き算すると生まれ年がわかる。
つまり、まちがいなく「昭和」になるのだ。

すると、平成元年は昭和64年だったから、昭和10年代(よくいう昭和フタけた)生まれのひとたちによって、平成がつくられたことになる。
すなわち、戦争孤児や「ギブミーチョコレート」世代であって、教科書が墨で塗られた心神に傷を負わされた世代でもあるのだ。

そしてなによりも、あのバブル期を組織の指導者として仕切ったひとたちである。
わたしは、平成の停滞とは、このひとたちの人生や経験といったレベルまでさかのぼってかんがえないといけないとおもっている。

つまり、社会に出たときは高度成長に「なっていた」ので、それに便乗した世代でもある。
そういう意味で、ラッキーでもあり、経済は拡大するものと信じたひとたちだ。

これが、国家依存という弱い精神を呼びこんだのではないか?

「令和」とて、昭和からのがれることがしばらくはできない。
しかし、「令和」の途中で、「平成」世代がでてくることになる。

さて、バブル崩壊以降にうまれた平成世代は、浮かれた景気をいちども経験したことがないという特徴がある。
このひとたちは、アンチ昭和をただしく導くことができるのか?

「哲学」が問われる時代をむかえている。
ところが、1980年代からはじまる30年にわたる「ゆとり教育」世代でもあるのだ。

この世代をつくったおとなたちは、どの世代なのか?

もはや祈るしかない。

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