効果は「95%」の意味

「誤解」を「誤解とも思わぬ」なら、勘違いを通り越してなにやら「悲惨」な気分になるものだ。

しかしながら、何故かくも大勢のひとが「誤解している」のか?を問えば、やっぱりだれも「報じない」ことに原因がある。
もちろん、自分でかんがえることが重要なのだけれど、分業化がすすんだ「現代社会」に報道が必要な所以でもある。

そして、国民の多数がこんな状態にあることをしらないはずがない「政府」も、とうとう「だんまりを決め込む」態度をとり続けている。
したがって、政府も立派な「共犯者」になるのだ。

ところが、
「ワクチンの有効性は95%です」。
と、政府がいっている。
すると、「報道」が鵜呑みしてこれを報じる、という構造になるから、じつは国民が誤解していることの「主犯は政府」なのだ。

そこで、学問(数学)的にはどうかんがえるのか?を解説したい。

まず、誤解の誤解たる解釈から。
「ワクチンの有効性は95%です」。
すると、分母はなにか?ということをかんがえないといけない。
この「文章から」は、ワクチンを打ったひとを分母にしている、とかんがえてしまうのだ。

つまり、ワクチンを打ったひと100人中、95人が罹患せず、5人が罹患する確率だ、と読んでしまう。

ほんとうはどういう計算だったのか?
まず、計算した時点での「事実の数字」を使っていることに注目しよう。
・ワクチンを打ったけど、罹患したひとが8人いた。
・ワクチンを打たなくて、罹患したひとが162人いた。

よって、
8 ÷ 162 × 100 = 4.9% ≒ 5%
1 - 5%(0.05) = 95%(0.95)
ということで、「なんだそうだったのか」になればいい。

ここで面倒なのは、「罹患した」ということが、従来なら「発症した」ということでの社会的コンセンサスがあったけど、今回は、人類史上初めて「PCR陽性」をもって、無症状でも「感染者」と定義したことだ。

何度も書くが、わたしは、このこと自体が「医療崩壊」だとかんがえている。

基本的に、新型コロナによる病気とは、広い意味の「風邪」のことである。
だからふつう、発熱や咳、あるいは関節痛、味覚障害などの「症状」があってから、医療機関におもむいて、医師から「診断」を受ける。

この「診断」をもって、「罹患したひと」=「患者」と認定されて、指定病であれば地元保健所に報告義務が医師に課せられていたのだ。
しかし、今回は何故か?(これもだれも説明しない)「PCR検査」なるものが突然登場し、医師の診断より「正確」ということになった。

もちろん、医師は自分で診断し、目のまえに出現した「患者」に対しては知る限りの医療行為を駆使して、患者を治療する義務を負う。
ところが、医師の診断よりも、検査の方が上になった。

ここに、「専門」としての逆転がある。
人間の医師よりも、検査技術を上に置くのは医師の存在の否定だ。
おそらく、「AI」もこうして「のさばる」ことになるだろう。
けっして、人間型ロボットの世界ではない。

そういうわけで、民間医療機関(主に開業医)でつくる医師会は、公共の医療機関に「偽性の患者」を振って診療を拒否しているのは、「一理ある」ということになってしまったのだ。

すなわち、「検査陽性者=感染者」を診療拒否する、という、そのままでは医療倫理に抵触するような「異常事態」になったのだけど、だれも文句をいえないのは、根底にあるこの病気の認識が、はなからおかしいからである。

さて、計算にもどる。
「95%」の意味がわかったところで、次があるのだ。

上記の8人とか、162人とかは、調べた対象者という集合のうちの、という意味がある。
では、何人を調べて、そのうちの8人やら162人だったのか?

18,000人なのだ。

すると、分母には、18,000人を用いないといけない。
8人 ÷ 18,000人 = 0.0004(0.04%)
162人 ÷ 18,000人 = 0.0090(0.9%)

この数字の意味を分かりやすくするには、1(100%)から引く。

・ワクチンを打ったけど、罹患したひとが8人とは、99.96%のひとがワクチンを打って罹患しなかったひと、ということ。
・ワクチンを打たなくて、罹患したひとが162人とは、99.1%のひとがワクチンを打たなくて罹患しなかったひと、ということ。

すると、ワクチンを打つことの効果は、これらの「差」から求めることができる。

99.96% - 99.1% = 0.86%

文章にすると、「ワクチンを打って罹患しない効果の確率は、ワクチンを打たないよりも 0.86% 上がる」、ということである。

この確率を高いとみるか、低いとみるか、はたまた、副反応の確率とくらべてどうなのか?を判断するのは、本人の価値観による。

例によって、こうした解説を高校数学教師がやっている。
おそらく、予備校講師もやっているはずだ。

高校理科では、『科学と人間生活』という科目ができている。
実生活に科学がどのように応用されているのかを学ぶことで、科学の有用性を先に学習し、生徒に興味を持たせようという趣向だ。

この趣旨からすれば、上記の「計算」は、数学が実生活に役立つという「証明」にもなる。

しかしながら、政府・文部科学省という役所に「忖度」すれば、こんな事例の計算問題を入試で出題する根性がある学校はない。

げにおそろしきは、やっぱりコロナではなく政府なのであった。

素晴らしき「きたなシュラン」

見た目は汚いけれど、料理は美味しいレストラン、というアイデアを「お笑い番組」でやったことが見事だった。
世界的レストランガイドに引っかけた、「ネーミング」も見事で、フランス人には意味がわかるまい。

じつは、一種の「ドキュメンタリー」なのである。

これを真似て、自分の個人的人生経験から、勝手に「きたなシュラン」を見つけて、勝手に認定する、ということもできる応用が効くことも、あんがいとうれしいことになる。
これは自分の「秘め事」にすることだから、SNSで紹介したりはしない。

前にも書いたけど、わたしはネットのレストラン・ガイドをみない。
みても、もっぱら場所と営業日・時間の確認であって、本来の「書き込み」は「みない」ということだ。
「参考にならない」というのが、結論になっている。

なので、自分で「書き込み」もしない。

たとえば、「ものすごく美味い」とたくさん書かれているからといって、「ものすごく美味い」とはおもえなかったり、その逆に感じることがある。
また、インスタントラーメンの方がよほど美味い、という書き込みがあるのに、ぜんぜんちがうこともある。

書き込むひとの正直さがわからないけど、最初に疑うのは「味覚」である。
それでもって、書き込んだひとの正直さも疑うことになるから、最後は日本人の劣化を嘆くことになって、なんだか大袈裟になるのが嫌なのである。

まぁ、どうしょうもない日本と日本人を「これでもか」とこき下ろしながら、だからこそ「伸びしろ」がある、という希望的観測を書いているひともいらっしゃるから、やっぱりひとそれぞれなのである。
むしろ、フランスのように何度も革命で世の中がひっくり返るような、グダグダを経験しないといけないとした、小室直樹の方がわたしの性に合うのも、「好み」なのだ。

それでもって、前から気になっていた店に行ってみた。
何度も前を通過しているのだけれど、コンサバなわたしは遠くの行き慣れた店に入ってしまっていたのである。
しかし、今日はちがう。

腹が減って、いてもたってもいられない。

まるで、『孤独のグルメ』の主人公になったようだ。
いまいる場所から、最も近いのが、「あの店」である。
駐車場は幸いにも1台分だけ空いていた。
それにしても、「近接」して気づいたのは、入口の窓に貼ってあるメニューの「値段」だった。

あまりの「安さ」に、気が引けるだけでなく腰が引けた。
300円台からある。
しかし、もうどうでもよくなって、ままよっと入店した。
なるほど、常連とおぼしきひとたちの店であった。

そこに、妙に人懐っこい親父さんがやってきて、自分ひとりで切り盛りしているから時間がかかる、なので、無料だからコーヒーでも飲んで待っていてくれという。
ちゃんとしたコーヒー・マシンが、きたない店内の奥にあった。

セルフなのでとりあえず、アイスコーヒーを選んだけど、それが「ふつう」のアイスコーヒーなのに、すこしだけ驚いた。
ふつうの喫茶店のように「うまい」のである。
なんだか、異空間である。

壁には、緑のメッシュのジャケットが掛けてある。
「◯◯小学校」と背中にあるから、登下校時の「緑のおじさん」をやっているのだろう。

メニューから「最高額」の「トマト・ラーメン650円」が目に飛びこんだ。
「ソース焼きそば400円」、ぜんぶ税込みである。

両方とも注文した。

先に出てきたソース焼きそばは、意外なボリュームで、しかも、意外な美味さだった。
またまた、ふつうのソース焼きそばなのだ。
具材もちゃんと入っている。

すると、おもむろにトマト・ラーメンができた。
自分でとりにいくと、匂いが「イタリアン」なのである。
スープは、バジルが効いた、およそラーメンどんぶりに入っているとはおもえない、濃厚なトマト・ソースである。

そこに、ラーメンが沈んでいる。
しかしながら、この麺に腰があって、けれどもパスタではない、不思議な感覚だ。

気がつけば、親父さんが横にいて、「トマト・ラーメン初めて?」という。
いやいや、この店が初めてでしょうと内心おもったけれど、構わずに出てきた言葉が、「セットの半チャーハン」だった。
この味にチャーハンはないとおもったら、案の定、ご飯と粉チーズの「スペシャル・セット」があるよ、という。

この際だから、一通り経験しておこう。
たしかに、このスープというかソースにご飯をからめたら美味そうである。
それで出てきたのが、小皿に山盛りの粉チーズとご飯だった。
「リゾットみたいでしょう?」

おっしゃる通りである。
壁の写真にある、特製ピザは昼でもできるかときいたら、うれしそうに、大丈夫、パリパリで美味いよという。
どうやら、親父さん本人がイタリアン好きのようである。

ならば、どうして中華食堂なのか?

「井之頭五郎」のごとく、おおいに食べ過ぎたけれど、美味かった。
しかし、パルメザンチーズをあんなに出して、原価と見合うのかが心配になる。
こんなに食べて、これだけの価格。

だれにも教えたくない、「きたなシュラン」を発見した。

12歳~の接種を親が認めるか?

わが国の「親」(いまは「保護者」という)、の「知見」と、子への「思い」が試されることになった。

いわゆる、「孫」がかわいいのは、祖父・祖母からした「無責任」の軽さがそうさせる。
自分の子ではないということでの、どうでもよさが、とにかくかわいい、に転換される。

国民のほとんどが「戦後教育」か「戦後生まれ」となったので、これに「個人主義」がひっついた。
夏目漱石が、違和感を示した欧米の個人主義が、無条件にもてはやされてきたのである。

伝統的日本人の系統にある、漱石からすれば、欧米の個人主義は神経衰弱になるほどに受け入れられない。
すると、欧米の個人主義が「ふつう」になった、いまの日本人は、伝統的日本人とは「別系統」にあるということでもある。

漱石のこの文章を、「現代国語」という科目で習った。

わが国には、「哲学」という科目はなく、せいぜい「倫理社会」にとどまっている。
本来ならば、「自由主義」は、哲学として必修にしないといけないのに。

それもこれも、大学受験の仕組みが変だからである。

それでいま、近所だけでなく地域の病院に行っても、高齢者が気にしているのは「ワクチン接種」のことである。
どんな薬なのかをしらずとも、早く打って楽になりたい。

ついでにいえば、家族全員が接種をしないといけないと、「テレビ・ウィルス」に脳が冒されて、どうなっているのかという質問を看護師に迫っている光景をみることができる。
テレビこそが危険なのであるとよくわかる。

いまどきの「家族」で、どの程度が三世代同居なのか?住宅事情があるから都心ほど少ないはずである。
だからこそ、家土地の大きさに余裕のある「地方」ほど三世代同居はあるだろうし、そんな地方ほどまたテレビをよく観ている。

そんなわけで、祖父・祖母世代のみならず、親世代もテレビ・ウィルスに冒されている可能性がある。
それだから、12歳~のワクチン接種に熱心かもしれない。

厚生労働省を英語では、「Ministry of Health, Labor and Welfare」と「正式」にはいう。
しかしながら、「薬害」が相次いだとき、日本に住む外国人は、「Ministry of Kill(殺人省)」といっていた。

このいいまわしは、『1984年』における、「真理省」のパロディである。
国民に嘘しかいわない、宣伝をする役所のことである。

日本の厚生労働省(旧厚生省)がやってきた、「悪さ」は歴史的にいろいろある。
「森永ヒ素ミルク事件」や「サリドマイド事件」などの教訓を活かしているのか?

となると、がぜん怪しくなる。
なかでも「薬害エイズ」の問題では、ときの厚生大臣(橋本内閣:自社さ連立:1996年)だった菅直人が、原告から「土下座」を要求されてこれに従ったことがあった。

穿ってみたら、菅本人からすれば他人がやったことの始末に、土下座しても心の痛みはなかったかもしれない。
それが、「カイワレ事件」にあらわれたのだったけど、役人による「説明責任(アカウンタビリティー)」を一般化させたという、彼が意図しなかったものの、結果としては評価できることもあった。

しかし、この手の「よい点」が、有職故実になって前例主義の「前例」になかなかならないのが、わが国官僚制の確信犯的問題なのである。

それが、「子宮頸がんワクチン」の被害である。
残念なことに、おおくの女子高校生が被害者となってしまい、取り返しのつかない副反応を誘発した。
このときも、政府は、「説明責任」を果たしてはいないばかりか、因果関係を「調査中」といっている。

接種をとにかく「推奨した」のに。

安全性=裏返せば危険なリスク情報について、表裏一体となった「説明」が事前になかった、ということである。

PCR検査の現在の状態は、5個のウィルスの「付着」をもって、「感染」と報じている。
これを、政府は「正そうともしない」でいる。
マスコミ各社に、「誤解をまねく」旨の注意をいうべきだ。

発症には1万個程度の「増殖」が必要なのだ。
ウィルスの増殖とは、体内における自身の細胞分裂を「乗っ取られる」ことによる。
宿主の細胞をもちいて増殖するしかないのが、ウィルスなのだ。

いかに感染症でも、感染にあまりにも敏感な対応をしながら、ワクチン接種における「リスク」には、あまりも無頓着すぎる。
これが、政府の「ふつう」なのである。

だからこそ、国民自身が「慎重」に判断しないといけない。
残念ながら、「副反応」の被害者は国民個人にやってきて、補償金で治るものではない。

祖父や祖母ではなく、親が叡智を絞らないといけない状況になっている。

「自己責任」という冷徹な時代がやってきた。
お国を信じて従えばいいのだ、という時代は、完全に過去になった。

これはこれで、困った時代になったものだ。

グローバルダイニングは勝てるか?

東京都を損害賠償で訴えてから、もうすぐ2ヶ月になる。
果たして、原告は勝てるのか?

ところで、この裁判、ロックオンされたのはなにも「東京都(知事)」だけとは限らない。
周到な「仕掛け」がこめられているのである。

このことをしるには、本件で2月1日衆議院内閣委員会で足立康史議員の質問に立った近藤正春内閣法制局長官の「カミソリ」のような、キレのある答弁である。
これを、倉山満氏と弁護士の横山賢司氏が指摘、解説している。

要は、「新型コロナ特措法案」にある、「過料などの強硬措置」に対して、「国家賠償」を問われ、「敗訴」することはないのか?という、たいへん「よい質問」への、これまた「よくできた答弁」なのである。
その全文は以下のとおり。

「過料を科するということで、特に今回、わたしの方からお願いしましたのは、これまでの措置の、都道府県知事が行われる前に、特に専門家の方の意見を再度聞くようにということを法律で義務づけていただきまして、より科学的知見で、不用意に広がらないように、本当に疫学的な見地からここはどうしてもやらなきゃいけないというところにある程度絞っていただくというところで、より過料との見合いで、厳重、慎重な発令というものをお願いするように今回の条文ではなっております」

本題にはいる前に指摘しておきたいのは、これが、「わが国法治だ」というおそろしい「現実」のことである。
つまり、「内閣法制局」という、法律製造所がある、ということの「問題」である。

それが、「わたしの方からお願いしました」、つまり「加筆した」ことなのだ。

国会が「唯一」の「立法府」なのだから、国会が法律製造所でなければならないのに、本当は、内閣法制局にその機能を奪われているというのが現実なのである。
しかも、ここは、各役所から出向した「官僚の巣窟」なのである。

現・長官職の近藤正春氏も、元は「通産官僚」(昭和53年入省)であった。

だから、この「質疑」がおかしいのは、質問者の足立議員も、元通産官僚(平成2年入省)だから、後輩が先輩に質問して、先輩が後輩を諭すような答弁をした、という、まことに「内輪話」ともとれるところが滑稽でもあることだ。

さらに、コロナ担当大臣の西村康稔氏も、元通産官僚(昭和60年入省)だということを覚えておきたい。
じつは、「防疫」担当の厚労省の影がうすく、なんだかコロナ対策が経済政策になることの原因がここにあるのだ。

本題に戻る。
近藤長官がかんがえて構築した本法の、「コンセプト」は、倉山・横山両人が指摘しているように、「4つの基準」をもって「過料」の正統性を確保する建て付けになっている。

1.専門家の意見を再度聞く
2.科学的知見、疫学的な見地
3.必要最小限(どうしてもやらなきゃいけないというところにある程度絞っていただく)
4.量刑比例の原則(より、過料との見合いで、厳重、慎重な発令)

そして、重要なのは、この4つをすべて充たさないといけない、ということだ。
もし、ひとつでも欠けると、「違憲」もしくは「違法」となる、と「説明した」のである。

さて、国会が立法府である、ということに戻ると、「国会答弁」自体が「法解釈」となることにも注目したい。
つまり、議員からの質問に、国会で答えた内閣法制局長官の言質とは、べつに内閣法制局長官でなくとも「法解釈」として「正式」なものとなるのだ。

これが、「2月1日」であった。
グローバルダイニング社が訴えたのが、「措置命令書」が発出(3月18日)されたあとの「3月22日」なのである。

ここに、原告弁護団の「用意周到」を感じるのはわたしだけではあるまい。
権力の行使にだけ邁進する、東京都の「脇の甘さ」もあるけれど、原告がロックオンしているのは、東京都の担当部署の役人ではなく、「都知事」そのひとにある。

また、内閣法制局が「可」とした法律である、とした「形式上」の正統性「しか」いわない、西村大臣もロックオンしている。
彼の脳内は、官僚のままであって、国会議員・政治家脳に進化していない。

もし、このひとに議員・政治家としての「読解力」があれば、法制局長官というよりも、通産省の大先輩が諭してくれたことの意味を重く受けとめるはずだからだ。
都知事とおなじく、権力行使に陶酔しているから気づかないのだろう。

そんなわけで、内閣法制局がからむ「行政訴訟」における、裁判所の「忌避行動」(原告が負ける)は、今回、いつもとはちがうことになる可能性がある。
いつもなら、地裁勝訴 ⇒ 高裁逆転敗訴(被告勝訴) ⇒ 最高裁棄却(高裁確定)なんだけど。

つまり、かなわないと裁判官が内心おもう、内閣法制局の論理が、その長によって「解説され」て、大ヒントになっているのである。
しかも、原告弁護団は、かならず「4つの基準」を突いてくるはずだ。
なにしろ、専門家の代表が「エビデンスはない」と、公共放送で公言してしまったのだから。

業界人は、よくよくこの「論理」を研究すべきである。
目が離せない裁判なのである。

地元密着スーパー

簡単そうで難しいことのひとつである。

そもそも「地元密着スーパー」とは、地元の銘品を地元で販売する店のことをいう。
だから、地元に銘品がないといけない。
それに、それが銘品だとしっていても、地元の住民が買える価格でないと売れない。

「銘品は高いです」ではなくて、納得の価格設定が必要だ。
すると、仕入れ値との関係から、すぐさま赤字になることもかんがえられる。

ましてや、スーパーという業態は、基本的に食品を扱っているから、おおくが「生もの」になる。
売れ残ったら、たちまち「廃棄」の決定をしなければならない。
すると、いかほど「売れる」という量の「予測」を正確にする必要もある。

単価 × 数量 の数式内にある「項」を突きつめることができてこその「地元密着スーパー」なのである。
だから、あんがいと「地元密着スーパー」はすくない。
真似ようとしてもなかなかできないのだ。

それで「ふつう」の店は仕方がないので、低価格に走ることをやってきた。
いつからかといえば、顕著になったのはバブル崩壊以降の「デフレ」からである。
もちろん、価格破壊の代名詞だったのは、流通革命をやりとげた「ダイエー」だった。

しかしながら、全国規模の大企業にして、メーカーに仕入価格をいわせない価格決定権まで持ったのに、「多様化」という価値観の発散についていけず、とうとう消費者から「買いたい物を売っていない店」という評価になって世の中から消えた。

わずか30年あまり、文字どおりひと世代の「うたかたの夢」であった。

にもかかわらず、街の「ふつう」の中小スーパーは、「ダイエー・モデル」の「低価格路線」を真似てしまって、ずいぶんと破産・倒産・廃業した。
「安い」という「だけ」の地元密着スーパーの悲惨である。
買い物客は別の店に行けばいいだけなので、なくなってもあんまり困らないということも特徴にある。

ここが、小売商売のいちばん難しいところなのである。

さて、一方で、もっと業態として辛酸を嘗めることになったのは、「問屋」であった。
「複雑な流通経路」のなかの「無駄」という位置づけにされたからである。
基本的に、問屋は「B to B」なので、卸先がまたべつの「問屋」だったりした。

そうやって、だんだんと小売店に近接する。
この流通の「整理工程」上に、いくつかの問屋があったのは、それはそれで役割があった。
しかし、問屋を通過する都度にかかる「手数料」は、最終消費者の負担でもあったから、「無駄」と批判されたのである。

だから、流通に詳しい問屋からしたら、何も知らない消費者の横暴な言い分に聞こえたにちがいない。
この問屋を経ないで直接仕入れる、というやり方を「大量発注」の名分でやって、手数料を安くしたぶん売値を下げるというモデルが、ダイエーであった。

すると、ダイエーが行き詰まったのは、その有利とした「大量発注」が原因だとあらためて認識できるのである。
ところが、これまでの時間軸のなかで、こんどは問屋がいない時代になった。
「淘汰」という言葉のなかで、ほんとうにやめてしまった。

そんなわけで、小売に問屋の機能が必要になったのである。

これを、「情報化」といっている。
問屋は、その筋の情報屋でもあった。
品物の変化だけでなく、取引価格や取引先の変化も把握していた。
いわば、流通の要としての情報を問屋に行けば教えてもらえたのである。

問屋がない今、これを自社でやらないといけなくなった。
つまり、「小売」における要求機能は、30年前のそれとはおおきく違う。
難易度がより高度になっているので、おいそれと「実店舗」を開業できないのである。

これが、サイバー商店花盛りとなった理由である。

ところが、サイバー空間「だけ」では、消費者が満足できない。
人間とは、そういうものなのだ。
そこで、情報機能を併設した「地元密着スーパー」が繁盛する。

あそこに行けば、なにかある。
それが、必要品でなくていい。
生活の彩りとなる、「なにか」であればいいのだ。
その「発見」こそが、存在意義なのである。

だから、小売店には発見がないといけない。
つまり、消費者に「発見させる」ための「仕込み」という手間を売っている。

必要品ならなるべく安く買いたい。
それが、サイバー空間でも違和感がないのはこのためだ。
でも、「発見」がないことに飽きがくる。
これを、サイバー空間で追求するひとはすくない。

天気もいいし、たまには電車に乗って、ちょっと遠いけど「地元密着スーパー」にでも行って、地元民になりきってみる。

これも、リアルな観光なのである。

古語の「音」がわかった

むかしの記述は、残っている書類をみればわかる。
高校での「古語」の範囲が、平安時代から江戸時代までと、えらく広い時代をカバーしているのも、基本的な「記述」が似ているからである。

しかし、どうやって読んでいたのか?
これは意外な落とし穴であった。

たとえば、『枕草子』の有名な冒頭。
高校生はテストに出るから暗記させられているものだけど、その「読み方」が当時とぜんぜんちがう。

春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は、夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

まず、「やうやう」を「ようよう」と読むように教わるし、「飛び違ひたる」の「ひ」も「い」と読むように教わる。
しかし、当時は「言文一致」だったので、仮名の通り読んでいたという。
それは、一切の書き間違い(例外)が「ない」ことで証明される。

どうして当時の「音」を再現できるのか?
これには、ちゃんと理由があって、数々の「文献」が残っているからだ。
驚くのは、安土桃山時代にやってきた「宣教師」が書いた、日本語の教科書で、当時の発音を「ローマ字」で記載していることだ。

日本人を信者にしないといけないから、宣教師は現地の言語に通じないと職務を果たせない。
だから、なによりも現地語の習得は重要な任務だった。
なので、秀逸な教科書を作っているのだ。

そして、なによりも「ローマ字表記」であることが、決定的に「音」を再現しやすい。
ただし、ポルトガル人の耳を通した当時の日本語の「音」である。

ちなみに、ポルトガル人が日本にやって来たけど、スペイン人ではなかった理由は、1494年にローマ教皇承認のもとに締結した、「トルデシリャス条約」によっている。
大西洋に線を引いて、西がスペイン、東をポルトガルの支配地と決めたからだ。

その後、両国はアジア支配をめぐって争ったので、1529年に「サラゴサ条約」を結んだ。
トルデシリャス条約で決めたことを「本来」というなら、フィリピンはポルトガルだけど、なんだかスペインに取られた。

なお、フィリピンの由来は、当時のスペイン国王の名前「フェリペ」からつけられた。

さて、宣教師の教科書を補足するのが、ハングルで書かれた日本語の教科書である。
ハングル文字とは、発音記号が組み合わさったものなので、「音」の再現に適している。
それに、漢字で書かれた日本語の教科書も残っている。

そんなわけで、あんがいと平安時代の日本語発音は、解明されてきた。
ただし、文学として残っているのはほぼぜんぶ「王朝文化」のたまものなので、平安貴族たちの話し言葉としての「音」になる。
庶民はいったいどんなふうに会話していたのか?興味はつきない。

そこで、あらためて音読している「はちあ」というひとがいる。
これぞ、ネット時代の恩恵だ。
発音のベースは、京都弁。
あたりまえだが、江戸時代末まで京都が首都だったから、「京都弁」ということも本来ではない。

京都のひとが、江戸言葉を「関東なまり」というのは、「標準語」の正統性としての問題である。
だけれども、平安貴族が京都の発音・音韻だったのは「当然」すぎる。
今よりも、もっと強烈に「はんなり」しているのである。

50音図で習う現代語が、古語になると「いろは歌」になるけれど、これを50音図にして比較すると、現代との「ちがい」がはっきりする。
それが、「さ行」と「た行」、「は行」、「わ行」にあらわれる。
「あ行」の母音は、現代の「え」が「や行」に飛んで「いぇ」になる。

以下は、文字と(発音)を示す。

さ行は、さ、し(すぃ)、す、せ、そ。
た行は、た、ち(てぃ)、つ(とぅ)、て、と。
ハ行は、は(ふぁ)、ひ(ふぃ)、ふ、へ(ふぇ)、ほ。
わ行は、わ、ゐ(うぃ)、-、ゑ(うぇ)、を。

さらに、濁音は、
ざ、じ(んずぃ)、ず、ぜ、ぞ。
だ、ぢ(んでぃ)、づ(んどぅ)、で、ど。
「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は、発音がぜんぜんちがうので書き分けた。

これが、「ローマ字表記」における、「ヘボン式」と「訓令式」の違いに影響している。
「ヘボン式」は、ヨーロッパ人の発音表記なのに対して、「訓令式」は、日本語の音韻表記なのである。

そもそも「音韻」とは、漢字の「音」のことだ。
音声としての違いがあっても、意味が変わらなければよしとする。
それが、「サ行」の「shi」・「si」、「ji」・「zi」、「タ行」の「tsu」・「tu」、「ハ行」の「Fu」・「hu」のちがいになっている。

たとえば、「富士山」は、「Fujisan」なのか「Huzisan」なのか?

すでに、外来語の侵入によって、現代日本語には、50音図に追加すべき「行」があるともいわれている。
それが、「ハ(H)行」に対して、「F行」を加えるという案である。

漢語が公式文書に採用されて以来、言文不一致が明治までつづいた。

21世紀になって、「言行不一致」がますます問題になってきた。
このときの「行」とは、50音図の「行」であってほしいものである。

境界のない「自然」

「自然」がだいすきだ。

ところが、「自然」とはむずかしい言葉で、なにをあらわすのかよくわからない。
その都度ちがう場面で、「自然」をいう。

たとえば、明治期の「自然主義文学」。
フランスのエミール・ゾラを源流にするけれど、日本人はこれをすっかり「日本化」させて、ゾラの魂胆とはちがう方向へといって、それをまた「自然主義」だと言い張った。

「わたしは自然が大好きだから、自然のなかで馬に乗る」ということを、「自然派」をうたう企業の宣伝で流している。
あたかも、出演している女優の「素顔」のような表現をしている。この女優にはなんのうらみもないけれど、言葉をよくかみしめれば「意味不明」だ。

「自然」という言葉が、なんとなく「自然」に耳に入る。
でも、馬術クラブらしき背景映像と合致しない。
整備された馬場で馬に乗ることが、自然が大好きだから、といわれても、ちょっと意味がわからない。

もちろん、「自然」といえば、「自然科学」がある。
人間の手が及ばない世界の生きものたちやら、現象を「科学」する。
典型的「理科系」の世界でもある。

日本庭園の「自然」は、おそるべき「設計」と「作庭技術」とによって、人工的につくられているのに、鑑賞者はこれを決して「すばらしい技術」とはいわず、かならず「理想的自然美」といって礼賛する。
それが、「盆栽」や「箱庭」としてヨーロッパが輸入した。

世界帝国をつくったイギリス人は、その豊かさをもって真似たのが「ガーデニング」で、オリジナルの日本庭園とは似ても似つかぬものとしたのは、「自然主義文学」の逆パターンである。
それで、「英国式ガーデニング」が輸入されて、日本家屋の庭を飾っている。

日本の「盆栽」や「箱庭」の専門家からしたら、「逆輸入」なのだけど、趣味の世界に目くじらを立てる気はない。
それよりも、日本庭園の「人工」に驚くのである。
アスファルトの道路から、塀一枚を隔てるだけで別世界がある。

これを、意図して作っている。

自然に放置して、日本庭園ができるわけではない。
たとえば、「棚田(千枚田)」をみると、ひとは農業で暮らしてきたDNAが感情を湧き起こして、感涙にむせぶほどに感動する。

そこには、何年もかけて作り上げた作業の重みと、これを維持する作業の重みがかさなって、「米を得る」ための執念を読みとるからだろう。
すると、「水」はどうやって確保したのか?とか、畑じゃダメなのか?とか、さまざまな憶測が浮かんでは「粉砕」される。

人の手による「立体的造形美」がパノラマとなって、圧倒的な迫力となるからである。
10や20世代ではない時間の継続性も、追い打ちをかける。

だからいま、機械を入れられない、上部の小さな面積の「棚」ほど、耕作放棄されていると聞けば、農作業の辛さをしらない都会人は、「傷つけている」と残念がるのである。
しかし、おそらくその「棚」からの収穫は、「これだけー」なのである。

すると、農家の経済として、投下する労働力と収穫の見合いから、「放棄」という結論が出たものに、外部の「景色」を楽しむひとから文句をいわれても、対処の方法がないとしていた。
しかし、それならと、外部のひとに「耕作募集」をかけている。

水は高いところから低いところに流れるのは、「自然」である。
すべての「棚」に引く水をコントロールするには、最上部が重要なのだ。

いま、人類は聖書で懲らしめられた驕り高ぶった人々のように、「科学万能」に酔っている。
ところが、肝心の科学のレベルを、一般人はしらない。
それで、専門家のいうことを鵜呑みにすることになった。

専門家は嘘を言わない、ということが「信仰」になったからである。
ところが、あらゆる分野・業界の専門家は、研究予算というおカネがないと生きていけない。
それでもって、とうとう「魂を売って」しまった

はてさて、水が高いところから低いところに流れるのは、「重力」がはたらくからである。
しかしながら、人類はいまだに「重力」がなんだかわかっていないのだ。
りんごが木から落ちるのは、「万有引力(重力)だ」まではいい。

それがどうして「力」になっているのかがわからないから、重力をコントロールすることができない。
「自然」まかせなのである。

あと何年したら、重力をしることができるのか?
1000年ぐらいだろうか?

その前に、耕作放棄地の雑然を、「自然」だとおもわないことの反省がいる。

あんがいと、「自然」は「醜い」ものなのだ。
「美」と「醜」の境界はなにか?
それは、人間側の事情できまることであって、「自然」はお構いなしなのである。

だったら、いまでは死語になったように使わないけど、「天然」という概念が前面にでてきていい。

天然ガスの天然だし、天然ボケの天然である。
自然は「愛でる」ものだけど、天然は?

「理念」が間違っている

新聞社やテレビ局の経営が厳しを増してきた。
どういうわけか、どの社も同じ「理念」に取り憑かれているように見える。
それが、「社会主義」だ。
この「主義」が、ここにきて貪之神のように取り憑いているのである。

「商業主義」も批判の対象になって久しいけれど、もはや商業主義すらかなぐり捨てて、「社会主義」実現の夢を夢遊病者のように追いかけはじめたようだ。
だから、赤字をものともしない。

昔、盛んに言いふらしていた「社会の木鐸」とか、「啓蒙主義」は、ぜんぶウソだった。
民衆が拍手喝采する記事ばかりでも困るけど、瓦版のことを「読売」といった江戸っ子の、本質をついた言い方がなんだか正直の申し子という気にさせる。

買う側が言った「読売」を、売る側が言ってウソになった。

売る側が「権威」を意識したからである。
所詮「売文」だから、暇つぶしなのだという買う側の用途を忘れて、大上段から見下して「そら、すごいだろ、記者は優秀だろ」とひとりよがりに耽っていたら、とうとう読者が見切りだしたのである。

それがついに、魚の仲買人がネットではじめた「放送局」でおきた仲違いになって現れた。相手は、政治部一筋40年のキャリアをもって自認する「ご意見番」だ。
原発から出る水を薄めて海に流すと魚はどうなる?と、あろうことか仲買人本人に質問した。

それで聞かれた仲買人がブチ切れた、という次第である。

あまりにもあんまり。
自分の頭で考えろ。
しかしここで仲買人もハタと気がついた。
新聞記者は、自分の頭で考える訓練を受けたことがない動物なのだ、と。

ましてや、政府がいうことはぜんぶ「記者クラブ」という談合制をもって仕入れるから、取材とは、広報担当の役人が書いた紙をそのまま書き写すこととなっている。
こうして、一社が出し抜くことを「防止」しているのである。

だから、「ピューリッツァー賞」のような賞がない。
わが国の「新聞協会賞」というのは、お行儀がよい記者が選ばれることになっている。

読者からしたら、受賞歴のある記者ほど、質が悪いことを現するという皮肉がある。
例えば、救急医療についての取材で、若くして受賞した現・神奈川県知事のように。

そんなわけで、売れるなら何でも書く、という必死さがどの新聞にもなくなった。
「飽食の時代」とは、「文屋」や「聞屋」も絶滅させた。

ところで読者は、自分の意見と同じ記事を読みたいのである。
「正しい」情報がほしいのではない。
そんなものは、ネットにいくらでもある。

コロナでさえ飽きてきたのは、「どうも変だ」という感覚を追認させる記事がないからである。
おなじ系統の記事ばかりとなって、売る側のリスクは「売れない」リスクに変容してきた。

その「穴」を、ネットが埋めている。

ほんとうに、ネットが情報の入手場所になったので、ネットに公開している「新聞」も観る必要がなくなった。
まもなく、新聞の終わりがやってくるのは確実である。

おなじことが、「銀行」でおきている。

4月30日、みずほ銀行のHP更新で、今月17日より、全店舗で外貨両替の停止を案内している。
外国送金、トラベラーズチェックの買取等は、一部の店舗で継続実施するとある。

高級ホテルのフロント窓口で行ってきた、外貨両替サービスはどうなるのか?
お客から受け取った外貨を、ホテルは銀行に持ちこんで両替していたのだ。

メガバンク(都市銀行)にして、この体たらく。
全国の都道府県に一行ある、地銀のやばさは、半端がない。

銀行とはなにか?という定義の問題になってきたのだ。

経済哲学的な議論に基盤をおいて政策を立案し、実行したのが、サッチャー政権下のイギリスでやった「金融ビッグバン」(1986年)だった。
なにごとも「哲学的要素を欠く」のが、わがエリート官僚を育成する「最高難易度」といわれる大学である。

だから、教授陣ばかりか学生・卒業生に「哲学的要素を欠く」のは当然で、これが政策立案の元になっている。
すなわち、わが国の政策は、ことごとく哲学的要素を欠く、「その場しのぎ」か、外国事例を引きだして「流行に追随」することになる。

それが、「日本版」という「枕詞」がつくものになる。
古典でならう「枕詞」には、とくに意味はないと教わったけど、「日本版」には意味がある。
それは、「本家」と似ても似つかぬ「変化」を持たせた、「鵺(ぬえ)」のような変異をしたもの、という意味だ。

そんなわけで、1996年(平成8年)、本家イギリスに遅れることちょうど10年、わが国で「日本版金融ビッグバン」という、正体不明の政策が実施された。

これが、日本人が知っている「銀行」を定義している。
もちろん、イギリス人が知っている「銀行」を意味するものではない。

気の毒だけど、日本で銀行に就職すると、酷いめにあう。
「気の毒」なのは、自社のビジネスの根本理念を、自社で定義できないからである。

「日本版」を取り払わないといけないのだけれど、これがまた、貧乏神として取り憑いているのである。

反面教師ナチスに学ぶ

民主主義国家として、国民の素養を高めることは「死活問題」のはずだけど、これを積極的に「しない」のは、民主主義を本気で継続される意志がないからではないか?とうたがう。

民主主義とセットになっている「自由主義」についても同様のことがいえる。
それぞれに「主義」がついているから、「別物」なのだ。

たとえば、われわれの「細胞」は人間なら、ひとりひとりが60兆個の細胞で個体をなしていて、その1個1個の細胞にある「ミトコンドリア」は、古代の原始生物時代に取りこんだ「別生物」であることがわかっている。

二分割した受精卵がさらに46回分裂すると、70兆を超えるまでになる。
成人になるまで、おそるべきスピードで細胞分裂の回数をこなしている。
ちなみに、PCR検査におけるCT値とは、分裂の回数ともいえるから、40で2の39乗のこと(1⇒2で一回カウント)である。

そして、人間は、ミトコンドリアが作り出す「エネルギー回路」がないと生きていけない。

人間社会にも生物のような特徴があるのは、生物体として自分たちの身体の構造とおなじ仕組みをつくることが「自然」だから、かもしれない。
それで、民主主義と自由主義の、別物同士が1個の社会を形成している。

このことはあんがい忘却されている。
人間の形成もおなじで、父のDNAと母のDNAとが混じって「遺伝」されたのが、「子」だという「勘違い」がある。
ここには、ミトコンドリアが別生物だったことがないのだ。

しかも、1個の人間が生存しているのは、おどろくほどの種類と数による微生物やウィルス、あるいは原虫などの、別生物が体内にいることを条件としていることを、すっかり無視していることがある。
じつは、人間の身体の半分は、これら「別物たち」によってできているのだ。

たとえば、口中には、500~700種類の細菌が、少なくても1000億個生息しているのが「ふつう」で、免疫機能とともに共生しているから、別個体である他人とキスもできる。

私事ながら、わたしの母の直接の死因は、「腸内細菌の逆転」であった。
すなわち、「悪玉菌」が「善玉菌」を上回ったとき、消化機能が停止して生命の維持ができなくなったのである。
なぜ、腸内細菌の逆転が発生したのか?には、「免疫」にかかわる別の病気の理由がある。

これを商業利用した典型が、「ヨーグルト」の宣伝だ。

「腸内細菌」を改善するというのは、腸内環境とも腸内フローラともいわれて、脳内物質は唯一腸で作られることが判明した。
ただし、食品として食べる場合、ヨーグルトの乳酸菌は胃酸によってほぼ死滅する運命にある。

乳酸菌の死骸が腸内善玉菌のエサになるという意味で、ヨーグルトは役に立つかもしれない。

しかし、日本人にとって乳製品は善か悪かを問えば、基本的に「体質にあわない」ということがわかってきている。
平安時代の「酪」や「蘇」は、あきらかに「乳製品」なのであるが、われわれの食卓の「定番」にはならないばかりか、その後廃れたのである。

それが、日本人の身体にあわない、という相性問題である。
「定番」は、味噌・醤油、そして、ぬか漬けとなった。

その地域の風土によって、さらに長い時間をかけて人種や民族が形成される。
だから、合う、合わないも作られるのだ。
たとえば、白人が服用する薬の量の約半分で日本人には十分に効く。

逆にいえば、白人が服用する薬の量をそのまま服用すると、日本人には「薬害」となりかねない。
それで、外国製の薬品についての安全性には、年単位での慎重さをもって「認可」してきた。

新型コロナ・ワクチンは、アメリカのFDA(食品医薬品局)も、「認可していない」のに、なぜかアメリカ政府は国民に接種を勧めている。
アメリカでも「特例」なのだ。
これを、ファイザー社の元技術担当副社長が、警告している。

けれども、ファイザーの売上高は大幅に増加している。
「思想」というウイルスが人間にはあるのだ。

さて、かつて「同盟」を結んだわが国で、ナチスをどのように評価していたのか?
そもそも、「ファシズム」と「ナチズム」のちがいはなにか?
もっといえば、「ファシズム」の意味さえもしらない。

日独伊三国同盟。
ファシズムは、ムッソリーニ率いるイタリア「ファシスト党」が掲げたものだし、ナチズムは、ヒトラー率いる「ドイツ国家社会主義労働者党(ナチス)」が掲げた。

わが国は?というと、よくわからないので、教科書では「ファシズムの時代」ということになっている。
ほんとうなのか?
ファシズム思想の意味を教えないで、ファシズムの時代とは、ずいぶん粗っぽい。

認可がなくて接種を勧めるようなものだ。

すると、わが国の国民性と、欧州などの統治の思想や仕組みは、わが国と相性として合致するものなのか?という疑問がうまれる。
あたかも、「酪」と「蘇」のように。

ナチスが政権を得るために、どんなことをしたのか?
ということも、日本人はあまりしらないでいる。
たとえば、「国会放火事件」がある。
今年、1月6日にワシントンD.C.で起きた、「連邦議会議事堂襲撃事件」は、これを真似ている可能性がある、とアメリカでは議論されている。

このことは、重大だ。
欧州、とくに英国を思想の基点としているアメリカ合衆国の「自由と民主主義」が、ナチス方式で攻撃・破壊されているとすると、その「変異株」であるわが国も、同様の危機にさらされていることになる。

今年中にかならずある、衆議院議員選挙は、時代の分水嶺になることまちがいないけど、国民の側の準備があまりにもできていない。

与野党ともに既存政党が役立たずで、「たまたま」か「わざと」かしらないが、野党の無様が与党の無様を隠している。
まるで、無様な野党が、おとりになって与党を支援しているようである。
野党第一党の支持率3%の意味は、これしかない。

無能をさらけ出した政府は、またまた緊急事態の延長をやるというのも、制度疲労の限界までの挑戦だとすれば、準備のできていない国民は、不幸になるしかない。

コロナ専用ベッド数を減らしていながら、「医療崩壊」をいう。
分母を減らして、分子が増えればどうなるか?
これも、ナチス流のやり方だ。
しかも、医師会はいまだに受け入れを拒否しているのである。

そのお仕置きが、ワクチン接種の医療従事者への「優先」か?

反面教師として、もっとナチスに学ぶ必要がある。

常連客を優先させる「品切れ」

「いい店」をみつけた。

たまたまそれは、県外の「焼き鳥屋」である。
人気メニューの「つくね」を注文したら、しばらくたって「品切れ」をいわれた。

しかし、後からやってきた「予約客」が、その場で「つくね」を注文したら、ふつうにオーダーを通して品物もやってきた。
クレームをいいたくなる状況ではあったけど、その他の注文で満腹になったのが効果的に「寛容さ」を発揮した。

いい店である。
常連なら注文するであろう数を、あらかじめ確保しておいてくれる配慮は、そのときには気づかなくても、いつかわかるだろう。

だから、こんな店の常連になりたい。
そう思わせることに成功している。
これは、来店客全員を幸せにしたいのだけど、どこかの早い時点であきらめた店主の経験に、なにか、があったはずである。

店は小綺麗で、新しい。
それはなにかはわからないけど、客の動きと予約、そしてなによりも商品の出方を、体験的につかんだからかもしれない。

新規の来店には、厨房からかならず顔をせり出して確認するか、自ら接客・席案内をしていた。
繁盛店とみて、予約なしのわたしは滑り込みセーフで、少し遅れてきたひとは満席で断られていた。

コロナの影響なのかなんなのかはしらないけど、客席側の窓がおおきく開いている。
しばらくすると、店内空間がモクモクの煙につつまれた。
それからやってきた男性は、テイクアウト客で、なんと1万円では足りない額の焼き鳥を持ち帰った。

これが、モクモクの原因だ。
1本の単価から想像するに、どのくらいの人数分があるのか?

感染症の感染経路は、徹底的に追跡調査されることになっている。
もちろん、感染経路の調査目的は、感染経路から感染の遮断をはかることにある。

「SARS」の「亜種」が今般の「新型コロナ」だと判明してきたらしい。
「らしい」というのは、あいかわらず、「特定」も「分離」もできていないからだ。

そこで、「とりあえず」SARSの亜種としてかんがえると、台湾での被害が参考になる。
台湾は、SARSの感染でおおきな打撃があったからである。
しかし、当時、わが国での発症者は皆無だった。

台湾での「発見」は、SARSの感染経路がホテルで判明したことだ。
それは、客室清掃における「雑巾」が原因だった。
つまり、「接触感染」である。

もちろん、当時「PCR検査」などというインチキは実施されなかった。
あのとき、PCR検査が実施されたら、パニックになったろう。
すると、PCR検査はパニックをつくるためにあることがわかる。

「接触感染」は、「触ること」で感染する、という意味だ。
それ以外は関係ない。
だから、マスクは無意味であって、むしろ安心感から油断させてしまう危険がある。

ドアノブやテーブル、電車の手すりなど、複数人が触るところの消毒が効果的だとされた。
台湾での清掃では、石けん液ではなく、水だけで雑巾を洗っていた。
日本で流行しなかったのは、日本のホテルの客室清掃には、石けん液がふつうだったし、消毒スプレーなどが多用されていたからである。

そんなわけで、「エビデンス(科学的根拠)」としては、店内の消毒に努める飲食店での感染事実はほとんどなく、じつは、つい油断してしまう「家庭内」がほとんどなのである。

「接触」なので、「密」も関係ない。

にもかかわらず、飲食店の営業を制限することに躍起になったため、肝心の家庭内が放置されている。
これはなぜか?

おそらく、「タバコ」ではないか?
神奈川県の前職知事がいいだした、「禁煙条例」。
それと、東京都の現職知事がいいだしたもっと強力な「禁煙条例」には、「家庭」が「鬼門」になっている。

つまり、行政権力が「家庭内禁煙」をしようとしら、たいへんな反発があって、とても家庭内は「介入」できない、という経験値からのだれかの「意見」が、これら知事たちをしばっているのではないか?
だとすれば、まともな「家庭内感染防止指導」がされない理由もみえてくる。

そして、方法を失った行政ができること、として飲食店などの営業制約に血まなこをあげるしか、政策オプションがなくなってしまった。
この行政の阿呆加減が、とうとう経済的困窮による「自殺者」を増加させて、病気による死者数を上回る被害を社会に与えている。

だから、ほんとうに必要な「社会的ワクチン」とは、行政に一連の政策をやめさせることなのだ。
そのエビデンス(根拠)なら、政府発表の「人口統計グラフ」がある。
コロナ前の月別死者数推移と、コロナ後の月別死者数推移は、とくだん変わらぬカーブを描いている。

わが国全体の死者数という観点では、コロナ・パンデミックは、見てとることができないのである。
もっといえば、「誤差の範囲」だということだ。

そんなわけで、1万円以上も焼き鳥を買い込んで、連休の一夜を家庭内で楽しもう、ということの危険は、だれにも注意喚起できないことになってしまったのである。

このことを、除けば、また行きたい店である。