コロナの次は気候である

レストランでの食事中、CNNの技術主幹への質問が盗撮されていて、これがネット上で拡散されている。
話の内容が、「正直すぎて」それがまたショッキングなのである。

恐怖をあおると視聴率があがる。

この普遍的な事実をもって、放送局は「ニュースの捏造」が主たる業務へと変換されたようである。
しかし、このことは放送局をして放送局を否定することになった。
つまりは、ニュースのすべてが「政治宣伝と化した」という告白である。

ある特定の人物(個人や集団)を狙って、想像によるシナリオを書き、これを映像化して、あたかもニュースとして放送する。
受け手の視聴者は、「ニュース」として観ているので、いわゆる世論形成ができる。

しかも、そのシナリオには「憎悪」を増長させるように仕組むので、ターゲットとした人物(個人や集団)は、社会的に抹殺することができる。
これが「政治目的」なのだから、恐るべき情報操作である。
そして、仕組んだ放送局側の政治目的が達成できる。

ならば、CNNを観なければよい。
ところが、大手メディアのほとんどが、「似たり寄ったり」になってしまった。
これは一体どういうことか?

アメリカは「自由の国」なので、放送局も放送内容が自由なのである。
じっさいに「中立」という概念は、実現に困難をともなう。
「十人十色」というように、人それぞれに価値基準がちがうから、なにが中立なのかを定義することは難しい。

それで、政治的な立場を放送局がじぶんから表明して放送することになった。
すると、自然に視聴者の好みが反映されていくだろうと、「神の手」のごとくの経済原則が適用されることが期待されたのだ。

ところが、どうやら「資本の論理」がこれをゆがめた。
左派を支持する資産家たちが大株主となって、左派を支持する経営者や社員を意図的に採用すれば、たちまちにして特定の「色」に染めることができる。

歴史をふり返れば、ロシア革命(共産主義革命)の資金源は、欧米の大資本家(◯◯家や✕✕家)だった。
どうして大資本家が、革命を支持したのか?
そこには、「武器商人」としての顔があったし、革命政府の指導者たちと結託すれば、大儲けができると踏んだからである。

そして、歴史は「その通り」となった。

スイス滞在中のレーニンが、いかにして「封印列車」によってチューリッヒから、ドイツを縦断し、バルト海を越えてスカンジナビア半島のスェーデンを縦断、フィンランドを経てロシア(サンクト・ペテルブルク)に帰国できたのか?

つまり、この「ノンストップ列車」を仕立てたのはだれか?
表面上は、ロシアと敵対していたドイツ政府ということになっている。
その実態は、巨大な経済地盤をもつ、大資本家が背景にいたのである。

地獄の沙汰も金次第。

自由経済の「もろさ」がここにある。
なので、自由放任が自由経済を永続させることはない。
自由経済を永続させるには、自由を維持する仕組みがないといけない。
それが、ほんらいは「民主主義」だった。

しかし、選挙という関門を操作することで、民主主義がゆがんだ。
こうして、自由経済もゆがむはめになったのである。
以上が、アメリカの実態だ。
ならば、わが国は?

選挙がゆがんだのは、小選挙区比例代表並立制によって完成した。
1993年(平成5年)「政治改革政権」を標榜して成立した細川内閣が制定したものだ。
非自民政権が、いまの圧倒的自民政権の足場を築いた。

すなわち、「政治改革」の薄っぺらさが招いた厄災である。
無条件に、「欧米」をみならって、ただの形式主義で小選挙区制にしさえすれば、二大政党制に移行して政権交代が頻繁におきる「はずだ」という、小児のような甘い見通しによっただけでなく、比例代表並立制というきたない手を導入もした。

選挙区で落選しても、比例で当選できる。

民意は「落選」なのに、これを無視する制度は、受験における「滑り止め」の感覚そのままだ。
制度設計をした役人が、滑り止めに受かった経験があったのだろう。
これで、わが国の選挙は、候補者を選択するものから、政党を選択するものへと変容したのである。

つまり、「共産化」なのである。

一方のマスコミには、このはるか以前に、北京の意向で報道を制御されることを了承する取材協定にあたる、「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」が1972年(昭和47年)に結ばれている。

報道の自由がある国と、ない国での協定が意味するところは、「制限」しかない。
長い時間をかけただけなく、相手方の経済発展(これもわが国が多大な貢献をした)によって、当方が「情報制御」の対象に陥ってしまった。

昨今の、テレビ局の放送法違反にあたる、「外国資本規制」どころの問題ではないのである。
こうして、日米の放送局は、その仕組みを別にしながらも、表層において同じ穴のムジナになったのだ。

そろそろ、視聴者たちは「コロナ報道に飽きてきた」ようだ。
次は、もっと深刻な恐怖をあおることができる、「気候変動の捏造」で視聴率をかせごう。
コロナよりずっと長期間、これで安泰が保障される。

でも、あの国はけっして非難しない。
アメリカには資本の論理が、わが国には協定があるからである。

やばい産学連携の悪夢

学者が信用できなくなった理由のひとつといわれているけれど、その「被害」の深刻さは、「自然災害並」なのである。
それを厳しく指摘しているのが、シェルドン・クリムスキー『産学連携と科学の堕落』宮田由紀夫訳(海鳴社、2006年)である。

この著作には、産業界の「儲け主義」に、大学の研究者たちが呑み込まれて、研究者たちの興味が「金銭」に変容するメカニズムがえがかれている。
そしてそれが、有名校や名門校の教授職の「権威」と結合すると、「利益相反」が発生し、組織的な堕落を生じるという。

かんたんにいえば、学内や教授がもつ研究成果をもとに起業(ベンチャー)すると、「利益」をめぐってたいがいが「壁」に衝突する。
それは、儲からないということもあるけれど、もっと深刻な「研究の誠実さ」との衝突なのである。

そして、研究者であるよりも、起業者(経営者)としての立場が優先して、ほとんどが「利益」を優先させる行動を選択する。
いわゆる、「金に目がくらむ」のである。
ところが、目がくらむ対象が「先端技術」や「先端科学」であるから、一歩まちがうと、社会に甚大な被害をもたらすことがある。

「両刀の刃」なのである。

ほんらいの産学連携には、研究者には研究費の調達というメリットがあって、研究費を提供する産業界には、あたらしい知識を社会にもたらすことへの「貢献」という位置づけがあった。
つまりは、「企業の社会的責任」としての、利益の「社会還元」だった。

しかし、短期的売買による株式投資家の立場にある株主からみたら、その社会還元分をよこせ(株主利益に直接反映させよ)、という概念がうまれる。
ここに、研究成果は人類共通の財産だとする、「学問」との対立が発生するし、研究者が設立した企業なら、それが自身の心にあらわれる。

こうして、「堕落」がはじまるのだ、という主張だ。

この関係に、「官」が加わると、より強力になる。
いまや古典的とさえいえる、「軍事技術開発」がその典型だ。
原爆開発プロジェクトだった、「マンハッタン計画」があまりにも有名である。

しかし、兵器・武器を開発してこれを販売する国は、「産官学」の連携どころか「連合」となって、世界で販売競争をしている。
だから、たとえば核兵器開発にあたる研究者には、科学者としての「倫理」が議論の対象になったのだ。

研究者にとっての興味を充たす研究対象が、兵器開発になるということのどうしようもない実態がある。
対して、科学者が経営者になったばあい、どちらの「倫理」が優先すべき議論になるのか?という厄介がある。

上述のように、研究者もほとんどが凡庸な人間だから、たいてい金に目がくらむのである。
そして、正当な理由づけをかんがえる。
それが、儲けを優先させた理由を隠すための理由づけになること必定だから、研究の方がゆがむのである。

さてそれで、この「警告」は、科学全般におよぶどころか、「大学全般」におよぶ。
なぜなら、大学全般が「金に目がくらむ」ようになるからである。

著者がアメリカ人なので、アメリカでの実態が書かれている。
ここで、日本人として注意しないといけないのは、アメリカにはわが国のような国立大学が「ない」ことだ。
私学「しか」ないので、高額な授業料と寄付制度で成りたっている。

国にあたる「州」には、「州立大学」があるけれど、有名なカリフォルニア州立大学を除くと、ほとんどの州においては、「職業訓練校」の位置づけが強く、わが国の専門学校により近い。

高額な授業料とは、だいたい年間で6万ドルほどかかる。
わが国の数倍にあたるから、学生の授業品質に対する評価も厳しい。
「ちゃんと教えろ」ということになる。

それで、強烈な分量の宿題を講義受講の前提条件にして、めちゃくちゃな「詰め込み教育」をしている。
どの科目も、宿題がハンパないのだ。
よって、学生は勉強漬けになるのがふつうで、学生スポーツに興じる暇はない。留年なんかしたら、授業料負担が容赦ないのだ。

これが、高校までと大学卒業時における「学力」の日米比較で、わが国が逆転・完敗している理由にもなっている。

そのわが国で、産学連携がさかんになったのは、2000年(平成12年)頃からのことである。
あたかも、産学連携のメリットばかりが世の中にあるのも「異常」なのである。

日米ともにをこえて、世界中でおかしなことになった、コロナ・パンデミックを「真の学術的」に語る現役の学者(「名誉教授」ではなく)がほとんどいない。
場面はかわって、昨年の10月からおきた「調布陥没」で、弁護側は「有識者会議」の報告書に疑義を表明しているのも、「産学連携がからむ」とみてよいだろう。

そして、わが国のばあいは、「産学連携」というよりも、「官・学」で、「学」がまた「国立」ばかりだったりする。
「官」には、やっぱり経産省がでてきて、2001年に「大学発ベンチャー1000社計画」という余計なお世話をしている。

これに、総務省、厚労省、そして元締めの文科省がつづく。

その成果が大学のベンチャー企業「数」で、笑っちゃうほど熱心な東大が、やっぱり「1番」で200社あまり。
つづく京大が100社弱で、その後も旧帝大がおおい特徴がある。
私学では、早稲田大学がおおいのも、「堕落」の証拠になっている。

大学は、どうやって「学問の信頼」を社会からえるのか?をかんがえないといけない、「やばい」ことになっている。
坂口安吾『堕落論』でも読んで反省しろという、文系の学者もいなくなった。

世界史に残る4月13日

昨日書いた、2021年4月12日が、わが国で全体主義がはじまった日としての記録だったけど、翌日の13日は、世界史に残ることを日本政府はしでかした。

福島のトリチウム水を「海洋投棄する決定」だ。

これで、わが国「栄光の戦後経済史」も終焉をむかえただけでなく、「邪悪」さを掲げる「世界の敵」となり果てた。
世界の敵は、いまでも国連での正式なあつかいだからいまさらだけど、唯一の自慢、「経済大国」もおわったのである。

日本人の生活設計は、こんご「貧困」を前提としなければいけなくなった。
それは、どこまでの貧困なのか?
『おしん』の子ども時代にもどるとかんがえて差し支えない。
ときに、イランで驚異的視聴率をえた外国製ドラマで、イスラム革命政権が「イチオシ」していた、イラン人の理想像なのであった。

このブログで何度もふれた、「資本主義の本質」を、とうとう日本人は理解せずに沈んでいく。
むしろ、理解しないままに繁栄したことが「奇跡」であって、よくいう「日本人の勤勉さ」は残念ながら本質ではない。

あらためて「資本主義の本質」とは、「資本主義の精神」なのである。

正当に儲けることの誠実さ、である。
誠実な仕事が正当な利益になる、ということでもある。

この「普遍的価値観」にもおもわれる「精神」がなくして、資本主義は成りたたない。
だから、資本主義がなかった時代は、もちろんこんなことを「普遍的」だとだれも思わなかった。

日本人が世界的に珍しい民族なのは、「お天道様がみている」という信仰が、道徳的概念になって、ほぼ全員がこれを信じ・実行していたことにある。
このことが、明治になって舶来の資本主義を輸入したとき、砂に水をまくような浸透をした原因なのである。

ところが、為政者を育成する学校は、その権威維持のため、世俗的な「お天道様」を否定して、政府の計画がまさるというあたらしい信仰を教導した。
これを150年やった成果が、いま達成したことである。

つまり、政府こそが、資本主義の本質を理解していない、ということの証左なのであって、権威あると信じられている国立の大学も、その教員たちはまったくの理解力不足を隠せない。
これぞ、現代の不可思議なのである。

しかし、この「病魔」は、わが国だけをおかしているのではない。
フランスのマクロン大統領が10日に表明した、国立行政学院(ENA)の廃止は、わが国にどう影響するのか?
フランス革命以来、とにかくグダグダなフランスにあえて学ぶ必要性はないとおもってきたけれど、わが国も「もはやこれまで」なので、興味深い。

そんなフランスだけど、わが国にはない、「極右」というルペン党首率いる国民連合がある。
そして、来年に予定されている大統領選挙では、そのルペン氏の支持率とマクロン氏の支持率が拮抗しているのである。

ちなみに、マクロン氏も、ENAの「卒業生=エリート」だ。

さて、邪悪な日本政府のいい分にもどろう。
報道によると、「国民から安全性や風評被害の懸念が示されたことをふまえて海洋放出にあたっては客観性・透明性が担保されたモニタリングを徹底する」らしい。

コロナでもいっさい「客観性・透明性が担保」なんかされていないのに、なにをかいわん。
そもそも、事故後、国際安全基準であり、もちろん国内法でも規定していた年間1ミリシーベルトを、「だって仕方がないじゃん」と、さっさと心折れて20ミリシーベルトにした「前科」がある。

それでもって、またまた権威あるといわれている国立大学の教授がでてきて、「安全です」といっていた。
ならば、どうして年間1ミリシーベルトが基準「だった」のか?
「いやー、テキトーに決めたんです」と、うそこけ。

それに、「廃炉」とかんたんにいうけれど、その具体策(5W1H)の提示はなく、なんだかしらないけど、デブリ(熔けて崩れ落ちた核燃料のかたまり)をとり出すといっている。
なんで、そんなことをするのかの説明もない。

がんがん放射線を出しまくっているデブリを出してどうするのか?の説明がない、のである。

壊れた原子炉の廃炉、というのはコンクリートで覆ったチェルノブイリ以来、人類がはじめて経験していることだから、わからないことだらけだろうけど、ならばどこまでわからないのかをいわなければ「客観性・透明性」とはいえない。

しかも、なんでこんなに水が湧いてきて、それがどうやって汚染されるのか?
まさか、基礎のコンクリートが割れた?
こうした説明もない。

この問題は、原子炉の問題をとっくに超えていて、日本人の誠実さという精神の問題になっているのである。
国民も、ここに気づかないといけない。

太平洋の本州沿岸には、黒潮が流れている。
海流による影響はどうなのか?ドイツが太平洋への拡散シミュレーションをした。
もちろん、漁業に影響するのは当然だし、海水浴だってある。
コロナで密になるから狭い漁船に乗ってはダメとか、去年の夏の海水浴場の閉鎖が、未来永劫つづくわけもない。

水銀やカドミウムを排水したらいけないことにしていたけれど、これだって、薄めれたらよいことになる。
トリチウム水はよくて、水銀やカドミウムはなぜいけないのか?

漁業も工業も、誠意ある精神の関係者たちは、一斉に邪悪な日本政府を訴えるべきである。

むかしなら、この決定だけでも内閣が吹っ飛んだはずだ。
全国電力関連産業労働組合総連合(電力総連)は、国民民主党の支持母体だ。
電気事業連合会と一緒になっているのは、わるい意味の「労使協調」がある。

すると、ルペン氏の支持率がそれなりのフランスが、ちょっとまぶしくみえてくる。

衰退決定の日となったこの日を境に、今後、わが国の体制は、歴史に「堪えられるのか?」という領域に突入したのである。

本格的「全体主義」の到来

ヒトラーの率いるナチス党が、政権奪取をする前にひろくドイツ国民に支持をえた理由に、「健康」を推進したからということがある。
つまり、健康は「票になる」ものだと教えてくれる。

「健康増進」に賛同したひとたちのなかで「パン屋さん」たちは、白いパンは食べるひとの健康(糖尿病)に悪いからと、黒いパンしか作らなくなって、これが全土にキャンペーンされて拡大した。
よって、消費者は白いパンを食べたくても買うことができなくなった。

タバコを吸わないばかりか、煙の匂いが嫌いだったヒトラーは、当然に「タバコ撲滅キャンペーン」をやった。
タバコの害毒を強調するようにみせかけて、自分の「嫌い」を排除させたのだったけど、人びとはタバコの害毒にしか関心がなかった。

それで、医学会に多額の補助金を与えて、「肺がん」に関しての研究で、当時の世界最高峰という、ドイツ医学のひとつの「頂点」をつくった。
もちろん、こうした快挙は、「ドイツ国民の誇り」とするところで、ナチスの宣伝に徹底的に利用された。

健康な肉体は、アーリア人に「こそ」宿る。
スポーツが奨励されて、それが、「ベルリンオリンピック」(1936年)に花開く。
少年少女・青年たちが、ヒトラーユーゲントに「法的強制加入」(800万人)となったのも、このオリンピックの年である。

ヒトラーユーゲントの活動は、ハイキングに出かけたり、各種イベントの開催で、「それはもう楽しかった」という。
のちに、青少年相手の「洗脳組織」にさせて、ヒトラー個人に忠誠をつくす「新貴族」としてのエリート養成になるのである。

そんなわけで、「健康」を為政者がいうときは、「危険」なのである。
「よかれ」が「強制」を容認させる。

自由と民主主義をとなえてきた「戦後民主主義」の化けの皮が剥がれだしたのは、コロナのおかげであった。
そして、とうとう、首都東京で、牙むき出しの全体主義が正々堂々と実施されるようになった。

12日からの、「まん延防止等重点措置」がそれだ。

しかし、新型コロナなる病原体をもっておきるという「病気」は、ほんとうに「まん延」しているのか?という疑問が、生活感覚にある。
この一年で、わたしの周辺で「発病」したひとはいない。
「PCR陽性者」もいない。

じっさいに、わが国の年間死亡者数は、昨年と一昨年(約130万人)比で「1万人減少」したのだ。
重症化して死の病になるはずの感染症がまん延しているのに、どうして年間死亡者数が減るのか?
ましてや、わが国はとっくに超高齢化社会になっているので、高齢者の死亡者数は年々増加するものという前提まであるのに。

つまり、自然に増えるはずの高齢者の死亡者数をのみ込んだうえでの減少だから、実数はもっと(おそらく2~3万人)減少したことになる。
まさに、実態は「コロナ禍」ではなくて、「コロナ福」なのだ。

こうして、統計的な現象面からみても、パンデミックとは到底いえない。
すると、だれがパンデミックといっているのか?
大手マスコミと中央・地方の政府なのだ。
これに、「データ」や「エビデンス」と口にはするが、その「数値」や「証拠」を決していわない専門家が、パンデミックといっている。

そして、そうした専門家の(政治的)意見に基づいて、本物の政治家が政策を決定している。
でも、ほんとうに実態を熟知しているのは「役人」である。
厚生労働省の役人たちが夜中に飲食店で宴会をやっていたのが、罪になる。

どうして職業上の罰を受けないといけないのか?
それは、「強制的営業縮小」を命令している側の裏切り行為だからである。
ならば、なぜこのひとたちは「異議申し立て」をしないのか?
だまって罰を受けることではなくて、異議をとなえてこそ社会に役立つものなのだ。

いま、徹底抗戦をしているのは、民間の飲食店チェーンの一社だけである。
この勇気に、追随するものがだれもいない。

この現象が、すでに全体主義を容認していることの証左なのである。

そして、伝統的ワクチンの概念を破壊した「ワクチン」という名の、「変な薬」を強要する社会がすぐそこに迫ってきている。
カリブ海の火山噴火で国民を避難させるにあたって、「セントビンセント及びグレナディーン諸島」一国を統括する首相は、政府が提供する避難所を利用する条件にワクチン接種をあげた。

さしもの、アメリカ左翼メディアも疑問を呈して報道したのは、ワクチン全体主義への警告ではある。
けれども、アメリカの9月から新学期の授業再開にあたって、20弱の大学は、学生にワクチン接種を義務づけて、拒否者の大学構内への立ち入りを禁止を表明している。

わが国の観光業界も、「ワクチン・パスポート」が観光再開の切り札だといいだした。
全体主義のなかで、「持続的な自由営業」ができるとおもっているらしい。

やっぱり、呼吸器ではなくて脳が冒されている。
それこそが、全体主義者たちの「狙い」なのだ。

ヒトラーがユダヤ人を「ばい菌」と呼んだように、得体の知れない注射を打たないとばい菌呼ばわりされることが、どんなことか?

そんなわけで、なるべくマスクをせずに歩いている。
これも、レジスタンスなのである。

再現不能の傑作『雨月物語』

独立の翌年、1953年(昭和28年)の大映製作。
同年、ヴェネツィア国際映画祭に出品され、銀獅子賞(グランプリ)の受賞作である。
なにも賞をとったから凄い、といいたいのではなくて、予備知識なしで観ればよくわかることだとおもう。

「時代劇」というと、源平の平安時代、鎌倉・室町時代はほぼパスして、応仁の乱からの戦国時代、それから織田・豊臣から関ヶ原を超えたら、すっかりおなじみの「定番」となる。
『大魔神』がユニークなのは、その時代設定・生活視点で本作と通じるものがある。

なんだか無秩序な感じだけれど、妙に派手な安土桃山時代の堺を舞台にした異色の映画『がらくた』(東宝、1964年)をおもいだす。
主演は、市川染五郎 ⇒ 松本幸四郎(9代目)⇒ 松本白鸚(2代目)で、名前が変わるからややこしいけど、公開時22歳の若者の立派な演技は「さすが」だ。

けれども、すっかり現代劇的な映画なので、この点は注意がいる。
だから、若き歌舞伎役者の身のこなしが目立つのである。
残念だけど、探してみたがDVDなどの販売はされていないようである。

『雨月物語』の幽玄さは、不気味さをただよわせて、物語ほんらいの「奇譚」としての表現に成功している。
この映画には、大女優がたくさん出ていて、なにも京マチ子だけが看板ではない。

むしろ、京マチ子の妖麗さを一層引き立てるのは、いよいよ怪しい侍女右近役、毛利菊江の演技が光る。
このとき、ちょうど50歳。
すり足での自然な身のこなしは、謡曲と完全マッチしているのである。

実生活も「すり足」だったにちがいない。
撮影だからやれといわれて、はいとできるものではない。
この訓練が、足腰を鍛えて、97歳の長命だったにちがいないのだ。
京マチ子の長命(95歳)も、同様だと推察する。

次の大女優は、水戸光子だ。
このひとは、『男はつらいよ』の初代「おいちゃん」役だった、森川信の元妻で、結婚を機に引退するが、離婚を機に復活した。
本作でのエネルギッシュな役は、現実の「かかあ天下」の価値観を象徴している。

そして、いうまでもない大女優、田中絹代。
原作で二話の題材を組み合わせたのではあるけど、妖麗さとは別物の静的な凄みがある。
後の『ゴースト/ニューヨークの幻』にえらく影響をおよぼしたのではないか?

舞台となっているのは琵琶湖の北で、戦国武将、朽木氏の本拠地だ。
映画では、織田信長に滅ぼされた、とあるけれど史実は別で、織田配下から豊臣に、そして関ヶ原で東軍につき、旗本として明治まで続いているのである。

鯖街道(若狭街道:国道367号)の「朽木宿」が、いまでも残る。
京都からなら、出町柳 ⇒ 八瀬比叡山口 ⇒ 大原 となる一本道だ。
むかしは、小浜で塩漬けにした鯖を、一晩で京都に運んだそうだから、宿場ごとに担ぎ手を交替していたのだろう。

一晩でちょうどほどよく「漬かった」という。
いまは自動車で運んでいるにちがいないけど、朽木宿には鯖寿司(生鮨)をつくって販売するお店が数軒あって、その味が忘れられない。

関西方面に自動車でいくとき時間に余裕があれば、名神高速を米原から北陸道に乗り換えて長浜までいき、朽木宿経由で京都にはいる。
もちろん、前日までに「予約」は欠かせないのである。

道路からの風景で、映画の雰囲気は、マキノの湖畔をおもわせる。
いったいどこで撮影したのか?
詳しい方には是非ご教示願いたい。

とにかく、ふるい日本映画は、ロケ地の景色が素晴らしいのである。
いま観れば、いったいどこであるかがぜんぜんわからない。
そういえば、『青い山脈』の原節子版(1949年)では、伊豆下田がロケ地とあるが、街中の様子が彦根城だったかにみえた。

さてそれで、雨月物語である。
大女優のなかで奮闘するのは、森雅之と小沢栄(栄太郎)の二枚看板だ。
森の父は、小説家の有島武郎。
5歳のときに母を結核で祖父の武も暮れに失い、12歳のときに父が愛人と心中してしまう。

さらに母方の祖父、神尾光臣陸軍大将は16歳のときに亡くなるので、近しいひとたちがどんどんいなくなる。
ちなみに、神尾大将は第一次大戦での青島攻略軍の司令官で、わが国が最初の「物量戦」に挑戦し、その莫大な費用におののいたのであった。

森雅之の知的な演技という評価は、当時の上流階級にあってなかなかに厳しい環境からうまれたとおもわれる。

もうひとりは、本名の小沢栄太郎の方がなじみがあって、しかも晩年は知的な悪役がピッタリだったから、すこし軽めの役柄を観ることができるのは楽しいものだ。
印象深いのは、『白い巨塔』の鵜飼教授役だった。
それでも、伊丹十三監督『マルサの女』(1987年)で、気弱な税理士役をやって、翌年鬼籍に入った。

わたしは小沢栄太郎氏とはご縁があって、逗子のご自宅へ来るようにと何度か誘われたけど、おそれおおくてとうとうお邪魔することはなかった。
艶福家として有名だったのは、その素顔は驚くほどよく笑う、うそのように人懐っこい方だったからだろう。

「悪役は自分とはぜんぜんちがう人物だから、やっていてほんとうにおもしろいんだよ」と、たのしそうに語ってくれた。
なのに、「いいもんの役をみたい」とねだったことが、まさかの気弱な税理士役だとしたら、なんだかもう有難いと勝手に解釈しているのである。

享年79歳。
88年4月23日が命日なので、もう33年も前になる。

そして、この映画のスタッフも出演者たちも、ほとんどが物故されたことだろう。
未来に、二度と作れないものを作ったひとたちの凄みがある。

合掌。

海洋投棄に関するロンドン条約

ホテルに勤務していて、「条約」に関係する件で投資をしなければならなかったことに、この条約の締結と批准があった。

大規模な高級ホテルは、業として大量の廃棄物がでる。
その主なものは、「生ゴミ」だ。
調理の下ごしらえで廃棄されるもの、お客様が食べ残した残飯、それと作りすぎて余った料理に目がいく。

しかし、調理場からの排水に流れる細かい食材や油脂などは、グリストラップ(Grease(油) Trap(止める、罠))というマスに溜めるようになっている。
もちろん、直接公共の下水に排水してはいけないものだ。

そこで、グリストラップに溜めた汚物は、さらにこれを微生物による分解槽に送ってバイオ処理する。
この処理に用いる微生物も、特殊開発されたものなのでタダではない。
むしろ、高価といっていいだろう。

そうして分解したものは、最終的にヘドロ(汚泥)となる。
これを、定期的にバキューム・カーで吸い取って、つぎに船に乗せ替えて、12海里外の公海上に海洋投棄していた。

しかし、1996年の「議定書」によって、これができなくなった。

わが国において「発効」したのは、2006年である。
よって、発効前までに、「陸上処理」の方法を考案しなければならなくなった。
そうして、ホテル内に真空処理施設を新規設置して「焼却」可能にし、ついでにふつうの生ゴミの乾燥機も導入してゴミの総重量を削減した。

億円単位の投資であったと記憶している。

ついでにいえば、このとき、汎用コンピュータとかパソコンのOS、ウィンドウズの「2000年問題」もあったから、その対処をふくめて、えらく忙しかったのである。
誤解をおそれずにいえば、あまり生産的な投資とはいえないおカネをつかわされた感がした。

ただし、かなりはやい対応をしたので、ミレニアムの前には完了・整備済みとしたから、期限の2006年がずいぶん先におもえたものだ。
この「はやさ」については、「企業の社会的責任」ということもキーワードだった。

さて、「ロンドン条約」そのものは、1972年に採択されて、わが国では1980年に締結している。
じつはこの条約は、水銀、カドミウム、放射性廃棄物等の有害な廃棄物を「限定的」に挙げていて、これらの海洋投棄「のみ」を禁止する取り決めである。

だから、最終消費者にもっともちかいホテル業においては、関心がうすい条約だった。
ホテルが業として、水銀、カドミウム、放射性廃棄物等を廃棄するとはかんがえにくいからである。

もちろん、「厳密」さを追求すれば、食品等にふくまれる水銀やカドミウムは微量あるかもしれないけれど、もとが基準値以下なら、そのまま通過するだけのホテル業では、あえて考慮の対象にはならないはずだ。
しかし、真空処理で圧縮するので濃度が高まらないかは念のため調べて安全性を確認した。

そんなわけで、よくよくかんがえると、「条約締結」に8年も費やしたのはなぜか?問題は放射性廃棄物だと、素人でも推測できる。
水銀は水俣病、カドミウムはイタイイタイ病の原因物質で、わが国としては苦い経験があったから、その規制に関しては進んでいた。

だから、消去法で「放射性廃棄物」が残るし、原子力推進の国是のなかで、「調整」に手間取ったとかんがえられる。
ちなみに、条約の窓口は外務省で、原子力発電の窓口は経産省、技術開発では科学技術庁の文部科学省と、三つ巴になっている。

最近では、これに環境省という三流省庁がくわわって、四つ巴となった。
結局のところ、福島のトリチウム水を「薄めて海洋投棄する」ことが、政府方針となったのは、環境大臣の決断による、ということにして、二流省庁の外務省と文部科学省が逃げた。

一流省庁の経産省は、そもそもが興味ない。
この省庁が「一流」なのは、科学を無視する神経をもっていて、法律が科学に優先できるという、中世錬金術師の最高峰、アグリッパも口あんぐりの主張をしてはばからないところにある。

走っているときだけ、電気自動車は二酸化炭素を排出しないから「エコ」だといったり、水素が「資源」だといったりする。
地球上に水素は水素のままで存在していないから、水素を得るには水を電気分解したりしないと得られない。

高性能充電池を作ったり、電気分解するときの電気はどこからやってくるのか?
原発の運転を止めているから、ほぼ火力発電所でえた電気だし、もっとも安価な石炭火力発電を禁止するのもどうかしている。

さて、水で薄めれば安全だ、という「屁理屈」を、コロナのごとく鵜呑みにするひとたちがいる。
1キログラムの猛毒を、たとえば100万倍に薄めて、それをぜんぶ海洋投棄したら、結局は1キログラムの猛毒をぜんぶ海に棄てたのとおなじことだと気づかないのか?

トリチウムの半減期間は、12年である。
プルトニウム239の半減期間は、2万4千年だからトリチウムは安全だというなら、もうできのわるい高校生を嗤えない。

それでもって、世界の原発はこんなに放射性物質を廃棄している、という相対論を地図付でだしてきた。

赤信号みんなで渡れば怖くない。

ぼくもう笑っちゃいます。

CNNを停波した南部三州

アラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州の三州である。
正確には、「放送免許停止」だ。
理由は明確、「ウソばかりで州民に有害だから」である。
指示を出したのは、共和党の各州知事だ。

ちょっとすっきりするニュースである。
この情報を受けて、日本のテレビ全局の停波を求める多くのコメントがあるのも「民意」だろう。

放送法を管轄する総務省が、なにもしないばかりか、NHKにおもねるのだから、ここいちばん国会議員の出番なのだが、どんな報復をされるかしれないので、だんまりを決めているのか?

一部専門家に存在が疑われるウィルスが、情報電波によって「拡散」した。
これを、「テレビ・ウィルス」といって、このウィルスは風邪の症状ではなくて、脳に作用し、思考力を停止させるというおそるべき威力がある。
まさに、国民に有害なのだ。

地上波放送が停波されると、意外な影響がでる。
まず、「スカイツリー」が用なしになる。
横浜の「マリンタワー」が、灯台の役割を終えたら、だれも訪問しなくなって、観光展望台をふくめた全部の営業も停止した。

この点、「東京タワー」の頑張りは、さすがだ。
残念ながら、わたしは一度も東京タワーの展望台に上ったことがないけど。
ついでに、日本一だった横浜ランドマークタワーの展望台にも行ったことがないし、「スカイツリー」もない。

行ったことがあるのは、新宿都庁の展望台ぐらいだろうか。
都民ではないけど、往年の鈴木都政を偲ばせていただいた。

意外なのは、南部三州にテキサス州が含まれていない。
そのテキサス州では、「独立検討のための発案」が議会に提出された。
いきなり、「独立」ではなくて、「独立を検討する」ことの可否を問うている。

じつは、バイデン政権によるエネルギー政策が、連邦憲法に反したばかりか、事前にテキサス州との協議を要する事項なのに、大統領令を発令したことを連邦地裁に訴えて、これを支持する判決がでている。
すなわち、一連の選挙がらみの裁判で、これが最初に出た「原告全面勝訴」なのである。

よって、これから、連邦政府は「なんらかの対応」をしないといけないことになった。

以上は、今年、1月28日のことである。
いま、わが国では、放送法に規定のある、外国資本比率20%以下の問題で、フジテレビと日本テレビがこれを超えていたのではないか?という疑惑がひろがり、フジテレビが過去にそのような状態にあったことを認め社長が謝罪した。

なお、このたび謝罪した社長は、当時の常務であった。
監督官庁の総務省に相談したところ、すみやかなる改善指示が口頭であった、ということで社内では「おとがめなし」と判断し、安堵したという。
そこで、「すみやかに」対応して、2年ばかりかけて「解消」したのだ、と。

いまの総務大臣は、資本比率について全放送局の資本調査を指示した、とニュースにあった。
そして、法に抵触する放送局はなかった、としてこの件を一件落着させたのだった。

ところが、外国人資本比率の実態把握とは面倒なものだ。

株式の名義書換をするのか?しないのか?からはじまって、法人が保有する株式なら、その法人の外国人資本比率も考慮しないといけない。
つまり、「隠そう」とするなら、さまざまな手段があるので、「暴こう」とすると厄介なのだ。

そもそも、放送法に外国資本規制があるのは、放送の品位を保つためという理由がある。
もっといえば、一定の外国勢力に放送内容をコントロールされる(プロパガンダ:政治的宣伝工作)ことを防止する、ということだ。

それで、単純に20%に達していなければ大丈夫ともいかないのは、たとえばそれが「名義書換をしていない」状態だったなら、「書き換えてしまうぞ」という一言がたちまち「脅し文句」になってしまうからである。
なので、「実態把握」は面倒なのである。

そうかんがえると、放送局で株式を担当する総務部門の重要性は、社の存続にかかわる重大事である。
そんなわけで、放送局の資本規制のため上場をやめさせるべきだという意見もある。

しかし、非上場にしたらしたで、どうやって管理するのか?についてがなければ、かえって闇のなかにはいってしまう。
日本が小国であったなら、外国資本が触手をのばすこともないだろうから、条件が変わったという意味での「制度疲労」のひとつとなっている。

しかも、国家としての「意志がない国」になったから、大臣だけでなく内閣も、与党も、対応ができないのだ。
企業でいえば、「経営理念」が陳腐化してしまった状態だ。
これこそ、すみやかに書きかえる必要がある。

すると、それは、「憲法」ということになる。

かつて、明治憲法を「不磨の大典」として破滅したことをわすれて、新憲法をふたたび「不磨の大典」扱いすることの愚。
さらに、「近代民主主義憲法」と「十七条憲法」を同列にあつかう愚。
まことに、歴史を忘れた国民に未来はない、のである。

CNNを停波した南部三州がどんな歴史の州なのか?
日本人が学ぶべき点は、ここにある。

子ども中心の人身売買?

あまりにも衝撃的な情報があったので書きとめることにした。
テーマがテーマだけに、よいはなしではなく、気分を害するばあいもあるとおもわれるので、注意されたい。

学校で習う「世界史」や「日本史」では、なかなかでてこないテーマである。

世界史だと、「奴隷」が登場するのは、ギリシャ・ローマ時代のはなしだから、あんがいと早くからあって、アメリカの南北戦争で終止符を打ったことになっている。
しかし、日本史ではめったにでてこない。

ギリシャ哲学が現代人にも影響をあたえつづけるほどに発達したのは、1割の市民とそれ以外の奴隷がいたからだといわれている。
ようは、市民=有閑階級だから、じぶんで労働なんぞ一切しないで、はたらく者は奴隷しかいない社会であった。

暇を持てあまして哲学をしていた。
そうでない市民階級のひとたちは、現代人とかわらずに「遊んで暮らす」という選択をする。
プラトンの傑作『饗宴』は、読みようによっては「変」である。

それに、ギリシャ美術(彫刻や陶器の図柄など)も、あからさまな性表現がふつうにある。
アテネ旧市街のプラカ地区に軒を連ねるみやげもの店には、子どもに説明できないさまざまな形態で「動かせる」キーホルダーが店先にズラッと並んでいる。

肌の色が身分に関係なかったのは、「戦利品」という価値観があったからである。
都市国家間で戦争をして、負けた側は勝ったものたちの奴隷となるのがふつうだからである。

もっとも、ギリシャ神話の最高神ゼウスが、動物に化けて美少年をさらおうとしたし、ギリシャの影響をつよく受けたローマでも、市民階級はきわどい生活をしていたと、ポンペイの遺跡が語っている。
評価がわかれる映画『カリギュラ』(1980年)は、第三代ローマ皇帝の「史実」を看板としている。

そんなわけで、「労働=苦」という発想をして、遊んで暮らしたい、あるいは、遊んで暮らすことを人生の目標にする、というのは、欧米人の伝統的価値観になっている。
それで、遊んで暮らすことができたひとを、「勝ち組」という。

これがわが国に輸入されたのは、バブル期の狂乱とその後の、リーマン・ショック直前の金融バブル期だった。
年収の高さだけをもって、人間の価値を決めるという発想が日本人に刷り込まれたのは、まさしく悲劇的なことである。

日本という島国の特異性は、古くからの「原始共産主義」が残存していることにある。
みんなで働くこと=人生の喜び、という発想を日本人以外では「しない」ものなのである。

和を以て貴しとなす(604年)、というのは、原始共産制への追認だ。

歴史的に、外国の制度を真似て失敗したのは、「律令制」の導入だった。
飛鳥時代の「班田収授の法」(646年)による「口分田」とは、すべての土地を国家所有とする、「マルクス主義の共産主義」であって、これは原始共産主義とは似て非なるものだ。

ここで、わが国にも「良民」と「賤民」が登場し、賤民のうち「官戸・公奴婢 (くぬひ)」 には良民と同額の、「家人・私奴婢」には良民の3分1を支給したとして、「身分」が登場する。
公奴婢と私奴婢とは、どういうひとたちか?

けれどもすぐにほころびて、「三世一身の法」(723年)、「墾田永年私財法」(743年)が登場する。
収穫にも課税したので、喰えないひとたちが逃げ出してしまったのである。
つまり、大化の改新(645年)の改革は、わずか100年で崩壊したのである。

オリジナルの大陸では、律令制の崩壊は王朝の崩壊になったけど、わが国では、外敵がいないのでダラダラと惰性的につづく。
このあたりも、現代に似ているのである。

秀吉が九州征伐にいって「バテレン追放令」(1587年)をだしたのは、ポルトガル人宣教師たちが同国商人たちと結託して、キリシタン大名の領地から「日本人奴隷輸出」をしていることが発覚したからである。

なお、日本にポルトガルがやってきたのにスペインがこなかったのは、ローマ教皇が承認した、トルデシリャス条約(1494年)の「新世界」における「境界線」を取り決めたことによる。
ブラジルとおなじ扱いだし、向こうの都合ではわが国も「新世界」だった。

さてそれで、世界にはさまざまなはなしがあるなかで、キリスト教発祥の地とヨーロッパの一部にも、「食人(カリバニズム)」が確認されている。
なかでも、スペイン北部のアタプエルカ遺跡では、最古のヨーロッパ人が子どもを好んで食べていたことがわかった。

げに恐ろしきことである。

今年、アメリカの新政権は、どういうわけか国境を開いて、移民を大量に受け入れている。
そして、なぜか両親がいない、子どもだけの移民が多数いるのだ。
この子たちが、国境の施設で性的虐待を受けていると、アムネスティが発表し議会に調査を要求した。

また、移民受け入れに熱心なアメリカ民主党からも、異論と曝露があった。
「保護施設を再開し、わたしたちに女の子を送ってください」と現職大統領から指示されたことを黒人女性議員がぶちまけた。

トランプ政権が、児童保護に熱心だったのとは正反対だ。
全米で、1年に10万人の児童が行方不明になっていたのは、大規模な人身売買組織の存在があるといわれている。

わが国では、警察庁のHPに行方不明者の推移が掲載されているけど、詳細はよくわからない。
ただし、令和元年度で、9歳までと10代あわせた「原因・動機」のうち、「その他」が、4000人をこえている。

これも、豊かさ、なのだとすれば、豊かさとはなにか?をもっとかんがえていい。

同性婚と「戸籍」

日本人なら戸籍があるのがふつうなので、戸籍がない国があるときくと不思議におもう。
ところが、世界広しといえども「戸籍」がある国が珍しいので、わが国はまちがいなく「小数派」である。

では、わが国以外で戸籍があるのはどこか?といえば、じつは「中華民国(台湾)」しかない。
韓国は、2007年12月31日までは「あった」ので、一応かつての「大日本帝国」にしか戸籍はない、ということになる。

ちなみに、わが国の戸籍も戦後に変更されていて、「家主制度」はなくなった。
いわゆる、「家長」のことである。
それで、「公証制度」としての戸籍になった。

役所が証明してくれる、という意味の「公証」なので、戸籍をみれば家族のなかの位置づけがわかるようになっている。
つまり、「戸籍制度」の賛否とは、「家族制度」のはなしに直結する議論になる。

賛成派と反対派があって、あんがいと中間派(≒無関心、判断できない)も多数ある。
この意味で、賛成派はだいたい「保守派」、反対派はだいたい「進歩派」ということになる。

けれども、中間派のなかの「判断できない」というひとたちがわかりやすいのは、さほどに戸籍とはなにか?をふだんかんがえたことがないし、よくわからない、ということが本音にあるからだろう。
正直さがみえてくる。

さて、公証としての便利さはどこにあるのか?
じつは、本人死亡後の「相続手続き」にあるといっても過言ではない。
本人の出生(両親はだれか?兄弟姉妹は存在するか?妻はだれか?子どもはいるか?)から一生を追って、相続人の特定ができるのである。

家系図をイメージすれば、上下左右がみえてくる。
両親の兄弟とか従兄弟とかから、妻の兄弟とか甥姪とかだ。

外国にどうして戸籍制度がないのか?
世俗と教会での管理体系のはなしと、事務処理のストイックさの有無ではないのか?とかんがえる。
教会は「信者」を管理しないといけない。

それで、信者の出生から死亡までの一生が教会の管理になれば、世俗の方では徴税にかかわる管理になって、事務範囲がそれぞれに犯さざる分野としてきまるし、ぜんぶをひっくるめて管理することを、事務能力として限界を悟ったかもしれない。

くわえて、産業が農業中心だったので、土地の管理がひとの管理になった。
ヨーロッパの「農奴(serf)」は、この典型だろう。
人身売買の対象だった、「奴隷(slave)」とは区別する。

わが国だって、寺院には「過去帳」がある。
その寺院を管理した寺社奉行とは、宗教管理だから、人心と直結する重職だったのは当然だ。
もちろん、江戸時代のわが国は、大農業国家であった。

宗教が強い権威をもつ国では、宗教大臣がいる。
たとえば、エジプトは憲法でイスラムを「国教」としてさだめている。
憲法を遵守しなければならないのは、ぜんぶの公務中の公務員なので、イスラム教にしたがった行政がおこなわれている。

すると、戸籍にあたる、両親や本人の出生から死亡までの記録は、居住地域に属するモスクで管理している。
だから、どこのだれべいという証明はモスクにいって発行してもらい、それをこんどは役所にいって手続きすれば、パスポートの発給がされたりする。

もちろん、婚約から結婚などの手続きも、儀式とともにモスクでする。
婚約なら「婚約(結婚予約)契約書」をモスクの管理人=証人の署名もつけて交わし、結婚式では「結婚契約書」を交わす。
モスクはこれを管理する。

ちなみに、婚約のときの重大事項は、「離婚権の設定」である。
結婚予約契約書には、新郎新婦のどちらかが、この権利を保有すると明記され、将来の離婚申立の権利者がきまる。
だから、この権利を得るべく、新郎新婦双方の親ががんばって交渉するのだ。

生活上でのトラブルは、そのほとんどが「イスラム裁判所」で裁かれる。
「三審制」はあるけれど、イスラム裁判所は一審制だ。
さほどに、権威が高い。
法典は、とうぜんに「シャリーア(イスラム法)」である。

さてそれで、世界の「基準」をゆるがしているのが「同性婚」だ。
子孫ができないことを前提にする、同性婚は戸籍制度となじまない。
しかしながら、男女を基本とする伝統的宗教ともなじまない。

世界で推進しているひとたちは、宗教離れができたひとになるのである。
これは、キリスト教に顕著だ。
近代は、キリスト教の否定から生まれたともいえる。
それが、あたらしい宗教としての「科学信仰」だった。

しかして昨今の、「アンチ科学」が迷走を生んでいる。
よりどころとなる思想が、グルッと回ってルソーにもどっているかにみえる。
このことの危険性は、重大なはずなのに。

ルソーの狂気が、まともにみえるなら、それは、「破滅」だ。

もしや、現代の栄養不足が、人間の脳を破壊していないか?
脳が正常に作動しないのは、ミネラル不足という説がある。
いまの食品には、驚くほどにミネラルが含まれていない。
それは、土壌の貧困が原因なのだ。

社会の制度は、人間の脳がつくりだす。
戸籍の議論は、戸籍の議論だけをしても意味はない。

電話局に通話を切断される

電話局に契約関係の電話をしたら、回線が混み合っていることを理由に通話を切断されることがある。

ようは、受け入れ回線数が足りないのである。
なんだか、発電所の「全電源喪失」のような、マヌケさがある。

電話接続については、1900年代の初頭に、自動交換機の設計のため「待ち行列理論の研究」がはじまっていて、第二次大戦中に「完成」している。
アメリカ人は、戦争をしながら「行列で待たせない研究」をやって、これをおわらせていた。

日本では、ようやく、30年ほど前に、公衆電話や銀行のCD機の「並ばせ方」ができてきて、以前とはちがって待ち時間が減ったけど、このことが「待ち行列理論」の具体的応用なのである。
つまり、アメリカの研究終了から40年後になって日本で実行されたのである。

これをどうかんがえるか?
気の利いた日本人学者が、輸入したのだ、ということにちがいはなかろうけど、なぜに40年遅れなのか?の答にはなっていない。
だれもいわないのは、いうと困る「大学者」が誰かわかってしまうからだろう。

日本の学者の「象牙の塔」ぶりは、現実のビジネスなどで役立つ研究を「下にみる」傾向があるからで、なるべく現実の役に立たない研究が「高尚」とされる悪い風習のためだ。
なので、易しいことを難しく書く。

窓口が一つと、二つとでは、窓口の数が倍だから、その効果も倍になるとかんがえるのがふつうだろう。
しかし、これを実験で確かめると、倍以上の効果があることがわかる。

その要素となるのが、一人一人の処理能力と、新たにやってくるひとの並ぶタイミングによる。
だから、窓口を処理能力がおなじ自動機械にしても、やっぱり倍以上の効果がある。

こうしたことに長けているのは、電話会社の他では、鉄道会社が典型だった。
切符の販売窓口が、ひとから自販機になっても、窓口の数をどのくらいにすると、その駅の利用客と見合うのか?を計算し、計測していた。

それが、いまではずっと高価な自動改札機の設置数に応用されている。
紙の切符と電子媒体の両方をこなす、自動改札機はあんがいと高級自動車に匹敵する買いものなのだ。
だから、駅の想定利用客数に応じて台数が選ばれる。

改札口の入口側と構内の両方に、広い空間があるのも「人間溜まり」になっていて、階段やエスカレーターなどに渋滞して危険がないように必要面積設定がされている。

だから、ピーク時の混雑にあわせて自動改札機を用意しているわけではない。
やや足りない状態を「ベスト」としているのである。
これを、「分布図」として把握する。

むかしからそのままで、改修されていない駅だと、自動切符販売機の数が当初よりずいぶん減ったことが「跡」からわかる。
何台減らすかも、分布図から計算して予測しているのである。

こうした、ひとの動きを、砂時計の砂に見立てれば、切符販売機や改札機の数が、砂時計の「くびれ」に相当する。
それに、砂時計と現実がちがうのは、一定量の砂(個々人)が、いつもあるとはかぎらないことだ。

はたとだれもいなくなったり、バスが着けば一気に混雑したりする。
だから、あんがいと細かく駅舎の設計はされている。
シミュレーションでは、一定時間帯の流入数を「乱数」を用いて何度も(少なくとも100回)計算してグラフ化するのだ。

むかしは、こうしたシミュレーションの原データをえるために、実際の現場でカウンターを押して数えることもやっていた。
いまは、個人が所有するスマホを電波で把握して、「点の動き」とすることで平面どころか立体把握ができるようになっている。

個人情報を得るものではないので、念のため。

そんなわけで、電話会社が電話の着信数を「把握できない」という事態が起きているか、しっていてもわざとオペレーターの数を減らして、問い合わせに応じられないようにしているとしかおもえない。

わが国民の資産を体よく盗んで「民営化」した会社は、かつての「電話債権」も返還せずに盗み取っているのに、利用客からの電話通話を一方的に切断するのはどういう神経か?

サービス業として、ありえない対応である。

しかも、20分ほどの時間、利用客は受話器を耳に押しつけて、なにもせずに黙って待っているのだ。
だったら、かけ直させるのではなく、電話局からかけ直すのが「筋」というものだ。

支払内容についての問い合わせでは、クレジットカード番号の入力までさせておいて時間切れで切られたこともある。
もちろん、自宅電話番号も入力させられてのうえのことである。

国会議員が生活者ではないから、自分で電話会社に問い合わせることもないだろう。
わが国の生産性があがらないのは、電話局の生産性向上ではなく、利用客の待ち時間を減らすことだと気づかない浮世離れの御仁たちが議員だからだ。

総務省の役人がどうのと依存してもはじまらない。
お願いしますよ。