ただいま「革命」進行中

もっともしられている国語辞書である『広辞苑』をしらべると、漢字でかいた「革命」にはいくつかの意味がある。
そこで、英語の「revolution」を訳して「革命」としたときの意味にしぼると、これも二つに分岐する。

被支配者が支配階級から国家権力をうばう「フランス革命」と、ある状態から急激に変動することを意味する「産業革命」や「技術革命」がそれだ。

では、いま、わが国でおきている社会現象をなんといおうか?
わたしは、素直に「革命」といいたい。
その理由を書いておく。

まず、政府の中核をなす「内閣制」が事実上の機能不全に陥ったことである。
内閣はあっても、なきがごとし。
すなわち、わが国の「行政府」は、完全に「官僚に開放され」た。

決めるのは官僚であって、国会議員たる政治家による「議院内閣制」が死んだ。
議院内閣制は、別名「議会主義」ともいうから、並行して、議会も死んだのである。

これは驚くべきことであって、つまり、わが国は「近代国家」ではない、という状態に陥ったのである。

まるで「清朝末期」、西太后の時代のようだ。
王家内のゴタゴタを仕切るのに、東太后を塩辛にしてしまったとはいえ、政治実務は官僚に丸投げしていたからである。

支配者のはずの政治家が、被支配者である官僚に取って代われるのだから「革命」である。
ところが、「民主主義」をいうなら、ほんとうの支配者は国民であるが、両者からまったく無視されていることも「革命」である。

近代国家の要件には、「政党政治」があるけれど、わが国の政党で「近代政党」とようやくいえるのは、公明党と共産党のふたつしかない。
しかし、これらふたつとも、政党内の人事が不透明なままなので、「ようやくいえる」程度なのである。

じつは、全滅状態なのは、政党内に「シンク・タンク」が存在しないことである。
巨大な第一党の自民党は、歴代、自前のシンク・タンクをつくらずに、役所とその官僚をもってあてていた。

つまり、永久与党としてのおそるべき怠慢があるのである。
それで、すべての政策が、官僚からのご進講を経ないと決まらないことになったので、官僚はじぶんの役所に都合がいいことしか「進言」しなくなった。

ほんらいの議院内閣制ならば、与野党ともに内部にシンク・タンクを抱えているから、官僚に意見を聞くことすらひつようない。
しかし、わが国は、役所の官僚体制そのものが、すべての政党のシンク・タンクなのだから、官僚にとっての都合のよい進言を、だれも見抜けないばかりか、従うことの便利さが先になってしまった。

こうして、社会がめったにない「非常事態」になってみて、ぜんぜん政治がうごかないことで、とうとう「官僚」がすきなことをしている姿だけが見えるようになってきたのである。

なにもこれは、厚生労働省だけでなく、学校を休みにした文部科学省もおなじだし、金融庁は「減損会計」についての「ルール弾力化」という名目のちゃぶ台返しを決め、政策投資銀行は民間銀行を尻目に、1000億円もの「出資」を大企業にするという。

「融資」ではなく「出資」である。
つまり、オーナーになる。
すでに日銀が株式をつうじて大企業の25%を保有することになっているが、こちらのやり方は「裏口」っぽかったけど、こんどは「正面」からやってくる。

こんなことを、だれが決めているのか?
役人である。

なんだか、「基準」が崩れているのである。

そういえば、福島のときの「線量基準」も、ずいぶんと「緩和」されてしまった。

規制緩和はすべてが「よいこと」とはかぎらない。
わが国の規制には、緩和すべきものと強化すべきものが混在しているが、役人は「都合よく」緩め、かつ縛り上げる。
「合理的基準」ではなく、「人為的基準」なのだ。

そんななか、新型コロナウイルスにも「効く」という、本ブログで話題にした、「アビガン」の記事がふえてきた。
最新では、4月1日の製薬会社による「治験開始」だ。
首相は、その前、3月28日に「正式承認」のための「治験」を表明したが、政府は200万人分の「備蓄」もあるとこっそり書いている。

「首相がうごいた」ような記事だが、どこか冷めているのは、重篤者に使える、あるいは現場の判断でつかえるようにする、もっといえば、患者の承諾があればつかえるという、特別な「意思」がどこにもないからである。

RNA阻害薬なので、胎児にはよろしくないから、女性への投与は妊娠中はもちろん、厳密に「妊娠しない」ことも重要なのだ。
それで、「インフルエンザ薬」ではあるが、めったにつかえないとして「備蓄」されている。
しかも、インフルエンザ薬として承認されたのは2014年だ。

はたして、緊急時にはどうするのか?についての対応が、ぜんぜんできない「内閣」どころか「与野党の政治家たち」を見せつけられるのは、国民からの「革命」動悸ともなる事態なのではないか?
にもかかわらず、国民はいまだ「マスク」に頼るままなのである。

すなわち、わが国でいまおきている「革命」とは、官僚による国家権力の簒奪が最終段階にあって、成功しつつあること。
そして、これが、社会変革も起こすから、完璧なる「無血革命」がおきているのだ。

もはや、既存政党では、この革命を止めることはできない。

わが国は、「日本社会主義人民共和国」になる。
ただし、労働者も一般国民の期待も成就するはずのない、役人のための国になるのである。

「官庁産業」による「官庁立国」が、世界史上ではじめて成立する。

正義の密告サイト

新型コロナウイルスの感染で世間が意気消沈するなか、4月1日に施行された「改正健康増進法」もその怪しさを「ひそめて」いる。

「公益社団法人」という姿で活動している、「禁煙ファシズム団体」がある。
かつてわたしは、喫煙者であったことは何度か表明している。
いまはすっかり「愛煙家」から卒業したが、なんであれ「ファシズム」はいただけない。

そんなわけで、「公益社団法人 受動喫煙撲滅機構」という組織の存在が、気持ち悪くて仕方がない。
これは、「正義」をかんがえさせる問題なので、別の意見があるのを承知で書いておこうかとおもう。

そもそも、公益社団法人という法人格をもった団体である。
「公益」というのは、不特定かつ多数者(=一般人)の利益をさす。
「社団」というのは、非営利団体という意味で、もし活動から利益が出たばあいには、活動の継続資金か内部留保にしかできないので、ふつうの会社のように、給料とは別に利益を従業員に分配してもいけないというしばりがある。

設立には、二段階あって、まずは「一般社団法人」をつくり、その後に「公益認定」を申請し、これが通らないとなれない。
申請先は二つあって、内閣総理大臣または都道府県である。

このあたり、不動産業や建設業の許可申請に似ている。
つまり、複数の都道府県にまたがって事務所があったり活動をするばあいや、国の事務などに関係して政令で定めるならば、大臣への申請となり、それ以外は都道府県という構造になっているからだ。

法的な根拠としては、2008年施行の「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」である。
なので、この法律施行前までは、「一般」と「公益」の区別はなかった。

ならばなぜ区別するようにしたのか?
それは、役人の「天下り問題」として、「公益法人制度改革」という「改革」がおこなわれて、「主務官庁」とか、「許可主義」が廃止されて、「設立」と「認定」をわけることにしたという名分があるからである。

なんだか「姑息」な「改革」なのである。

それでも認定をうけて「公益」になりたいのは、税務上優遇されるからである。

だれかれにでも税務上の優遇をしたくない官庁である財務省がなにかいったのかはしらないが、上の「認定等の法律」には、対象となる事業を23分野として定めている。(「別表」第二条関係を参照)
つまり、わが国における「公益の定義」が「法律」できまっているということだ。

ということで、懸案の「公益社団法人 受動喫煙撲滅機構」は、きっとこの中の、22にある「一般消費者の利益の擁護又は増進を目的とする事業」にあたるのだろう。

そこで、この機構のHPをみてみると、理事長は税理士だった。
やっぱり、優遇を受けるから、税務会計が面倒くさくなるような設計をしていじめる財務省のいやがらせには、優秀な税理士でないと数字がわからなくなるのだろう。

ふたりいる理事には、元神奈川県知事にして当時全国初の受動喫煙防止条例を任期中につくって辞めた、松沢成文参議院議員がいる。
もうひとりは、一日100本を吸っていたというヘビースモーカーだったひとが、環境保護運動家として活動するのに「禁煙」し、すっかり禁煙ファシストに変身したとおもわれる渡辺文学氏である。

HP上では、「事業内容・計画」のトップが、「事業活動方針」となっている。
なかなか「過激」なので、下に冒頭から一部を抜粋する。

『受動喫煙は、誰かが「禁煙」と定めた場所以外は「喫煙は自由」という社会的共通認識を踏まえ、人にタバコを拒否する権利を与えない場の中で日々営まれている。
本社団はこうした現実を直視し、敢えて一切の受動喫煙を撲滅するという強い決意で活動を進める。(以下略)』

「敢えて一切の、、、、、を撲滅する」とは、なかなか勇ましい表現だ。
しかし、気になるのは、前提としての現状認識から「意図的」であることだ。

いまは、「喫煙所」と定めた場所以外は「禁煙」なのである。

中学校の数学でならう「集合」における、「部分集合」のいいかたがまちがっている。
優秀な税理士のはずの理事長が、これをしらないはずがないから「意図的」だといえる。

このHPのユニークな点は、「ニュース・コラム」というタグがたっていて、これをみると、さまざまな記事が紹介されている。
そこで、たとえば東京都なら、「飲食店ステッカー」を表示していない店舗をみつけたら、「通報しましょう」という。

そして、「コメント欄」には、電話による通報ではなくSNSによる通報を求める意見が書き込まれている。

つまり、みんなで「密告」しよう、というのだ。

いったい、どんな社会にしたいのか?
このひとたちは、「受動喫煙」をいいながら、たんに強制的な「禁煙」を要求しているのだ。

なんども紹介するが、下記の『健康帝国ナチス』すら、一部でナチスを肯定している記述がある。それが「禁煙」だ。
はたしてそうか?

「全体主義」は、かならず社会主義者がおこなう。
自由主義者は、これを拒否するのが当然だからだ。

「たかがタバコ」ではないのである。蟻の一穴になりかねない。

改正法ができたから、嫌煙者は喫煙所に近づかなければよい。
それが「潔癖症」を発症すると、全体主義に変換されて、おそろしい社会になってしまうのは、100年前のドイツで経験済みだ。

いま、新型コロナウイルスで、その「潔癖症」を発症していないか?と、冷静な自己チェックがひつようだ。
「社会的『同調圧力』」というのが、全体主義のおそろしさの原動力だからだ。

それがいま、「マスク着用」になって社会現象化していないか?
「敢えて一切の、マスクを着用しない者を撲滅する」と。
ウィルスになんの役にも立たない材質のものはかえって危険だと承知でも、着用しないと会議に出席すらできない。

さては、かくも「危険」な団体が「公益」とは笑止である。
表層の安逸な「制度改革」がなす、失敗のひとつである。
改正法が施行されたので、もうこの組織の存在理由はなくなった。
しかし、「解散」させる仕組みがない。

一直線に「肥大化」するようになっている。

スマホがモバイルPCになる

さまざまなデジタル機器が世の中にでてきているが、「日本製」が珍しくなって久しい。
そもそも、日本の会社名すら、「ブランド化」して売買の対象になっているから、それが「日本製」を示すものではなくなった。

このブログでなんども書いた、「要素価格均等化定理」がはたらいている。
職人技が光ったアナログ時代の生産方法が、デジタル方式に転換したら、「資本」、「土地」、「労働」の「価格」が、世界中で「同じになる(均等化)」という物理法則のような「定理」のことだ。

これに、「内外価格差」という、目に見えない「鎖国的」な業界保護策が、世界価格よりも十分に高い価格体系を「ダム」のように維持していたけれど、「グローバル化」もやってきて、ダブルの攻撃を受けたら、とうとう価格体系という「ダム」にヒビがはいって漏れ出した。

そんなわけで、わが国が、世界で唯一、デフレがダラダラつづく国になっている。
政府の経済政策のトンチンカンは、「鎖国的」な業界保護をやめないで、おカネを供給することだけに集中している。

その「保護」の対象に、デジタル機器まで加えてしまい、「日の丸なんとかを守れ」という、意味不明の大義名分のために、税金までつぎ込むが、自分たちが一生懸命に教えて、相手も一生懸命学んだ国々に、すっかり生産拠点が移ってしまった。

守るべきは「作り方(ノウハウ)」だったのに、政府は外国への技術移転を奨励もしていた。それで、気がついたら「工場」を守れということになったのだ。それは、工場労働者の職場にもなってしまった。
空洞化を率先してやらせておいて、こんどはこれを阻止する。

これをふつうに、「政府の失敗」というのである。
しかし、政府のおカネをもらう研究者は、「政府の失敗」をいったら研究費がけずられると「忖度して」、だれもいわなくなってしまった。

そんなわけで、デジタル機器が、ほとんど外国製になった。

わが国はなにで儲けて食べていくのか?を政府に依存した結果である。
なにで儲けて食べていくのか?は、それぞれの経営者がかんがえることで、法学部出の役人ではない。

経済政策のなかで、ミクロな政策は、政府がやってはいけないのである。
だから、政府の成長戦略だって、それ自体があやしいものだ。
なのに、財界が期待して要求するという「倒錯」がある。

まことに、わが国経済を疲弊させているのは、財界人たちの無能が原因である。

さてそれで、末端ながら、モバイルで仕事をする環境作りである。
「モバイル」ということでいけば、まずは、「モバイル・パソコン」は必須だと思っていたが、あんがい優秀なライバイが存在していた。
それが、「スマホ」である。

これに気づいたのは、モバイル・モニターを購入したことによる。
モバイル・パソコンにモバイル・モニターを接続して、外出先でも「二画面」にしようとたくらんだのである。
自宅では、とっくに二画面化していて、この便利さが「効率」に直結するからである。

注文した翌日に届くという、外国ではありえない流通網があるのは、さすがに日本である、と自慢できる。
それで、さっそく開封し、念のため「説明書」をみてみた。
すると、スマホと接続する図が描いてある。

ただ、スマホの画面が大きくなるだけならべつに驚きもしないが、なんだか「パソコンの画面のよう」になっている。
しらべたら、韓国サムソン製のスマホと、いろいろ話題の中国HUAWEI製のスマホの「機能」であった。

つまり、このほかのスマホは、スマホの画面が大きくなる「だけ」なのである。
じぶんのスマホのすごい機能に、はじめて気がついた。
機種選びのときは、日本製に期待していたがしっくりこずにサムソン製を選んだのだが、どうやら「正解」だった。

電源はモニター側に接続すると、モニターだけでなくスマホにも供給されるから、充電もできる。
タッチパネル式ではないモニターだけど、スマホにブルートゥース・マウスを接続すれば、ほとんどパソコンになる。

アプリはダウンロードがいるとはいえ、ほとんどの有名アプリが対応している。
もちろん、スマホ側は、モニターと別表示になるので、小さいながら「二画面化」するのである。

ところで、接続のための「ケーブル」がややこしい。
モニター付属のケーブルがちゃんとしていたからよかったが、さいきんはやりの「USB-C」タイプには、さまざまな規格が同じ形状にのっかっている。

つまり、端子の形が「USB-C」だからといって、どれもおなじではない。
給電のための対応ワット数、データ転送のための規格が、それぞれ分かれている。

なんでもあり規格のケーブルだと、50センチでも2千円以上する。
これらも、ほとんど外国製で、日本製ではない。
急速充電器だって、電気容量で価格差があるが、こちらも日本製ではない。

外国製造ではあるが、愛用のブルートゥース・マウスがやっと、日本メーカーが「企画」した製品である。
スマホのドックになる、日本企画の折りたたみ式リーダーを申し込んだのは、ちょっとだけ愛国心の発揚ではある。

マッチ・ポンプの日本政府

2020年度のはじまりである。

2019年度の「棚卸」のために、昨日はどちらさまも総力戦で在庫のチェックをしたことだろう。
「だろう」というのは、中央政府ははっきりいわないが、地方政府の親玉である東京都の知事が、なるべく会社にも行くなといったからである。

「不要不急」のことはするな、というけれど、棚卸をしないと決算ができない。
はっきりいわない中央政府は、税金の猶予をいいだしたけど、免除ではないから年度末の棚卸は、「必要」で、年度末の日にしないといけない。

マスコミにおける「報道各社」という会社には、物品の「棚卸」という概念がないからか、ぜんぜんこれを報道しない。
「棚」を映すのは、商品がなくなってスカスカの棚ばかりである。
そんな映像をみせながら、音声では「商品はあります」というのは、まったくの「欺瞞」である。

これを、70年代の石油ショック時のトイレットペーパー・パニックの記憶から、はっきり批判したのは、元NHKの木村太郎氏ばかりである。
「やってはいけない」としっていてやっている。

つまり、半世紀前の主婦たちの行動が、現代も再現されているのだ。
たきつけるマスコミと、これに乗じるひとたち。
今回も乗じたのは高齢者が中心だったというから、年齢から50を引けば、「なるほど」ということにもなる。

つまり、やっぱりぜんぜん「反省」などしていないのだ。
扇動する側と扇動される側の、両者の精神構造に変化がないのは、学習していないという意味でもある。
これを、「貧困なる精神」という。

けだし、貧困なる精神の持主である、本多勝一氏の著作シリーズに『貧困なる精神』(朝日新聞)がある。
「毒」なので、推奨はしないけど、「毒にあたらない」自信がある方が、「毒」としてみるのを否定しない。

「毒」も少量だと、「薬」になるからである。
ただし、ミイラ取りがミイラにならないように注意が必要で、自己免疫システムが破壊されそうになったら、すぐに中止したほうがよい。
「中毒」になりかねない。

さて、東京都の知事は、どこそこへいくなと、あんがいと細かい指示をだしている。
もちろん、法的拘束力がない「要請」にすぎないが、そこになぜか「パチンコ」がない。

これは、官房長官記者会見に呼応しているから、国と都は、しっかり「連携」しているとかんがえられる。
今夏の都知事選に、与党自民党が対立候補を「ださない」のだから、おどろくにあたらないけど、なぜそう決めたのか?はわからない。

ここに、わが国の民主主義が民主主義「ごっこ」にすぎない証拠がある。
都知事選の候補者選びの「予備選挙」という概念がぜんぜんない。
アメリカの「良い点」が、コピーされていない。

さてそれで、「パチンコ」が対象でないのはなぜか?という、記者からの質問に、官房長官は、警察庁が安全な指示をだしているからと返答した。

まことに、「珍奇」なることである。
これから、各方面からの「批判」が詳細にかたられることだろう。

人間がつくっているのが人間社会だから、人為的なのは当然だ。
けれども、長い歴史のなかでできてきた社会ルールさえも、今回の新型コロナウイルス禍は破壊しだしている。

その原因をつきつめれば、ウィルスの科学特性ではなくて、社会を構成する人間たちがもつ、「恐怖と不安」なのである。
だから、なにも相手が、ウィルスでなくてもよい。

こうした、人間の精神状態や心理を活用すれば、「恐怖と不安」による、「統治」が可能になることを示している。

すると、思いだされるのは、ジャン・ジャック・ルソーである。
この、強度な統合失調症だったひとの「思想」の「毒」は、ウィルスより怖い政治状況をうみだした。
それが、「フランス革命」であり、「ロシア革命」だった。

ところが、わが国の大学は、ルソーがだいすきで、たいていは「教養課程」で学ばされるが、はたしてそれは、「否定」が前提ではない。
かんたんにいえば、思想「注入」されるのである。
助成金で大学経営を縛り上げている、文科省という役所もこれを「放置」しているから、国家が奨励しているようなものだ。

ルソーとこの系統に続くマルクスを学べば、むくな人間はちゃんとそっち方向に向かうことになっている。
マルクスを否定できても、なかなかルソーにまでいかせない。
だから、これら思想の根絶やしができないのである。

ではどんな「解毒剤」があるのか?
まずは、こうした思想に触れないことが、社会の健全性維持のためにはよほど重要だから、まったく「ウィルス」のごとくなのである。
これを、実行しているのが、アメリカになる。

ただし、「無菌室」で育つことは、たいへん危険だ。
世界は、「ばい菌」であふれている。
『サタデー・ナイト・フィーバー』の前年に製作された、ジョン・トラボルタ主演『プラスチックの中の青春』がおしえてくれる。

そんなわけで、アメリカ人は、ソ連崩壊にともなうロシアや東欧の自由化にほとんど貢献できなかった。
自由社会をしらないひとたちに、自由があたりまえのひとたちは、なにを教えればよいかさえわからなかったのだ。

つまり、アメリカ人が「無菌室」にいたのである。

さて、わが国は、その意味でとっくに「汚染」されている。
これを「除菌」することが、じつは今回の新型コロナウイルス禍による社会再生になるのである。

政府のマッチ・ポンプ政策が、汚染具合を示しているのだ。

問題には三種類がある

ここでいう「問題」というのは、「試験の問題」のことではない。
試験の問題は、別に「設問」ともいって、「問いを設定した」ものをいう。
つまりは、「出題者」が存在する。

出題者が、なんらかの意図をもって「設定」した「問い」を、受験者が「解く」という方法で、受験者の能力を調べるということになっている。
出題者から、上から目線でつくられているのである。

しかし、一方で、受験生を指導する立場にあるひとたち、たとえば予備校講師にとっては、「出題」された「問題」を分析するという仕事がある。
それは、「解き方」だけではなく、どのような「出題意図」なのかも対象になる。

こうして、「傾向と対策」という手法が開発されて、この手法を「販売」することが商売になるのである。
当然ながら、この場において、「需要と供給」の大原則が存在している。

ヨーロッパでは、あえて「中国式」といわれている「試験制度」のことが、公務員採用試験をさすのは、人類史でのはじめてが「科挙」であったからである。
中世の封建時代は、貴族が役人でもあったから、「生まれ」が重視されたが、近代ではそうはいかなくなった。

わが国も、武士に生まれないと「役人」にはなれなかったから、身分制の替わりに学歴制をあたらしい身分制に置き換えたのである。
よって、「役人」による上から目線に変化が起きることはないし、経済が疲弊した地方にいけば、主たる産業が「県庁・市役所」になっている。

それで、本来の「問題」とはなにか?に話をもどすと、「問題」になるには、じつは、「理想」がないといけないのである。
ここでいう「理想」とは、「あるべき姿」のことである。
その理想と現実の「差」のことが、ふつう世間一般に「問題」といわれているのだ。

これを、企業活動の場面にしてみれば、予算と実績の「差」をどうやって埋めるのか?ということが、さっそく「問題」になる。
そこで、この「差」そのものの「区分」として「問題の種類」をみつけることができる。

・みえる問題として、火消し問題
・みえない問題として、発見問題と予測問題がある。

みえる問題を、「火消し問題」というのは、だれにでもわかる「問題」だから、すぐになんとかしないといけないと、これまた、だれにでもわかるからである。

よくある、「問題がたくさんありすぎて、どこから手を着けたらいいのかわからない」という状態は、この「火消し問題」が山積しているために発生する。
まさに、マッチ一本から、大火災になってしまったごとくである。

しかし、真の問題は、「みえない問題」になって隠れていることがおおい。
そのひとつが、「発見問題」というもので、探さないとみつからないから、問題のありかを「探索」しないといけない。

つまり、問題の根っこを探る、ということだ。
みつけることができて、これを解決すれば、問題そのものが雲散霧消する。
問題の根っことは、「原因」のことである。

すなわち、原因追及して、問題の根源を発見する能力がまず問われるのである。
原因がわからなければ、解決方法もみつからないからである。
逆にいえば、解決方法を得るために原因を追及するのである。

みえない問題のもうひとつは、「予測問題」という。
将来、こんなことが問題になるのではないか?という「予測」にもとづく。
そのために、あらかじめ解決方法をふくめた「計画」をつくるのだ。

こうしてみると、受験生にとっての「問題」とは、すべて「火消し問題」にあたる。
いま、世界を震撼させている「新型コロナウイルス禍」も、「火消し問題」としての解決策が目立っている。

そして、その解決策の「まずさ」が、パニックをよんでいる。
「発見問題」にしていないし、「探索」するという行為がないがしろにされているからである。
それで、感染予防についての情報が、マスク着用やひとの集まる場所にいかない、という安易な解決策ばかりが実行されている。

こうしたことが起きる理由は、たとえば東日本大震災における「反省」や「SARS禍」が、「予測問題」として活かされていなかったからである。
つまり、だれも「対策計画」を作成していなかった。

これを、ふつう「場あたり」という。

その場限りの「火消し問題」だけに集中し、喉元過ぎれば熱さを忘れるということわざを無視した結果のお粗末が、現実になってしまった。

さてそれで、これからどうなるのか?
あらためて、予測問題を設定しないといけない。
これは、個人もおなじである。

三種類の問題が世の中にはある。
せめて、これくらいは、今回の教訓にしないと、壊れた世の中の回復ができない。

それこそが、大問題なのである。
年度末の今日、まずは、来年の年度末の「予測問題」を解こうではないか。

責任者は「役人」だった

横浜で停泊を余儀なくされたクルーズ船のなかに入って活動した、神戸大学感染症内科教授の岩田健太郎氏が、下船後の3月4日にインタビューにこたえた記事が、緊急転載として『文春オンライン』にでている。

これを読むと、前に書いた、福島のときの保安院のひとが思いだされたとしたことが、確認できた。

やっぱり、「その道の専門家」ではなくて、「法律の専門家」である官僚が現場を指揮していた。
つまりは、「素人」である。

こういうことが、何度もくり返されるのはなぜだろう?
福島第一原発も、横浜市消防局救急隊のときも、そして今回のクルーズ船も、「おなじパターン」で「失敗」しているのに。

かんがえられることは、「目的合理性が狂っているのではないか?」という疑いである。
「何のために」「誰のために」という「目的」を追求するのではなく、えらいのは「官僚だから」という、ぜんぜんちがう次元からの発想が支配しているとしかかんがえられない。

しかも、もし官僚が、「マネジメント」の原則をしっていれば、過去の「失敗」から、「その道の専門家」に現場をまかせることの合理性に気づくはずである。
であれば、官僚支配の体制下でも、「権限委任」は可能になるし、積極的にそうさせるものだ。

これも「できない」という現実をくり返しみさせられると、「確信」に変わる。
官僚は、「マネジメント」をしらないのだ。

そして、ただ過去のやり方をくり返す「だけ」だから、ふつうこういうことを「馬鹿の一つ覚え」というのである。
平安王朝以来の「有職故実」をもってするのが「官僚の本質」であるから、わが国の支配思想は、「古代」あるいは「中世」のままであることがわかる。

 

まことに「平和な時代」なのであるから、戦後のわが国は一貫して「新平安時代」なのである。
これには、「鎖国」の思想も加わって、世界のことは気にしない。
よってこれらをまとめて、「平和ボケ」と批判されてひさしい。

しかして、ボケているのはなにも官僚ばかりではない。
残念ながら、国民が「惰眠を貪る」状態なので、官僚が張り切ってしまうのだ。
もちろん、惰眠を貪る国民がえらぶ政治家は、「気絶」状態にあるか「ゾンビ化」している。

よって、官僚を押さえつける立場のものが消滅しているので、ますます官僚が仕切るしかないのである。
これが、現代のわが国の思想背景と支配のメカニズムである。

つまり、党が行政官僚を仕切る、隣の大陸国家に「劣る」状態になってもいるのだ。
だから、わが国が民主主義国家であるというのは、たんなる「幻想」にすぎないし、より「隣国有利」が目立つのだ。

その意味で、ジョージ・オーウェルの名作『1984年』や『動物農場』のような「全体主義」に、もっとも近いのはわが国である。

 

さてそれで、岩田先生はつづける。
「安全と安心」のことだ。
安全とは科学的に裏づけられたものであるけど、日本人は感情的な保障としての「安心」を求める、と。

だから、マスクがなくなる。
米国CDC(疾病予防管理センター)やWHOがあれだけ予防効果がないと発信しても、「安心」だからと多くの人が買い占めに走るのだ。

もちろん、WHOの立場が揺らいでいるのは確かだ。
わが国に「優る」隣国の影響が、かくも明確になった事例はなかった。
ソ連の崩壊も、しっかり研究したうえで、さまざまな戦略を「マネジメント」しているからである。

けれども、マスクのみならずティッシュペーパーやトイレットペーパーの不足から、とうとう食料品にまで波及したのは、いったん死んだ「政治」がゾンビになって、「安心」を求めて国民に媚びるから、かえって国民が「不安」にかられるのである。

そして、なぜか「効果がある」とされる「手袋」や、「石けん」はなくならない。
アルコール系の消毒剤はなくなったけど、より日常での予防効果が高いものは、まったく無関心になっている。

これは、現代の不思議である。
けれども、もっと不思議なのは、「目標管理」がなされていないことである。
「感染者を一日でどれだけ減らすか」という目標設定がない、と教授は指摘している。

漢字とはよくできたものだ。
「目的」の「的」は、弓道でいえば「まと」である。
つまり、「いきつく先」であるから、「究極の目標」でもある。すなわち、転じて「存在意義」にもなる。

「目標」の「標」は、一里塚のような「道しるべ」の「しるべ」である。
つまり、「まと」までの「途中経過」のことを意味する。
年度予算が目標とされるのがその典型だ。

そんなわけで、むちゃくちゃが、真顔で実施されている。

それもこれも、この国を仕切るひとたちに、あろうことか、「マネジメント」が存在しないばかりか、はなから発想にないことを示しているのだ。

ふらふらと浮遊している。
そして、どこへともなく「漂流」しているのである。

まことに、驚くべき事態が、日々進行している。
もはや、経済政策どころではない。

この国は、今後もずっと存続できるのであろうか?

桜満開でも週末の鎌倉は閑散と

「自虐」という言葉がうかぶ。

それにしても、こんなに「自粛」するひとがたくさんいることの方が驚きでもある。
さぞや自粛を「要請」したひとたちは、「よしよし」とおもっているにちがいない。

なにがなんでも、経済社会状況を悪化させて、国民を奴隷にしたいらしい。
また、こんな要請をうけて、あっさりと従うのは「愚民の集団」である。

しかし、愚民には愚民なりの問題意識がある。
「治療法がない」のは、やっぱりこまるし不安である。
現状では、咳や熱を下げる「対処療法」がもっぱらおこなわれているから、感染したら最後、生きた心地がしないことも確かである。

だから、為政者は、どんな治療法や治療薬が有効なのか?ということについての情報収集が欠かせない。
それは、国内にとどまらず、世界での事例がどうなっているのか?についての情報整理をして、これを適宜公表する必要がある。

もちろん、ネット情報だろうがかまわない。
むしろ、素人が勝手に判断しては、より不安をあおるだけになってしまうからだ。

しかして、そんな情報がほとんど提供されていない。
むしろ、外出を控えるにあたって、在宅勤務を奨励したりと、自由行動を抑制することしか発言しないのは、根本になにか別の意図があるのではないかとうたがってしまう。

敏感なのは「株式市場」である。

3月14日に成立した、「改正新型インフルエンザ対策特別措置法」において、私権を制限する「緊急事態宣言」の発令が可能になった。
その4日後の18日、富士フイルムの「アビガン」という、「抗RNAウイルス感染症薬」が、中国で新型コロナウイルスにも有効だという報道があった。

これをうけて、東京市場では、「富士フイルム株」がストップ高となっている。

日本政府や地方政府の知事たちの施策が、まったくトンチンカンにみえるのはこのためだ。
3月25日には、「アビガン」開発者のひとりである、白木公康氏(千里金蘭大学副学長,富山大学名誉教授(医学部))が、Web版『医事新報』に緊急寄稿した記事がでている。

しかし、都知事は翌26日に、西村康稔経済財政・再生相と内閣府で面会し、「東京は感染爆発の重大局面にある」と話し、政府に空港での水際対策の徹底や感染拡大を防止する一時滞在施設の確保などを要望したと報道されている。

不安をあおるだけあおる、この知事の手法は、危険ではないのか?

つまり、東京市場での「ストップ高事件」や、前日に緊急寄稿された記事を読んだ形跡がぜんぜんないのである。
べつに、知事ひとりのせいにしたいのではない。スタッフにいる都の役人も、なにをしているのか?

それに、西村康稔経済財政・再生相だって「おなじ」である。
大臣のスタッフたる国家公務員をして、なにをしているのか?
こうしたひとたちは、いったい、どんな「情報リテラシー」をもっているのだろうか?

われわれ国民は、この「情弱者」たちによって、踊らされている。

そして、27日金曜日になって、「週末(つまり翌日から)の外出自粛要請」となったのである。
「情弱」でブレなく一貫しているのは見事だが、まことに「お粗末」きわまりない。これで、テレビのニュース・キャスターだったのか。

都民でなくてよかった、とはいえない影響だから、都知事選挙は首都圏を選挙区にすべきではないか?
しかも、なぜに自民党はこの知事の再選を支持するのか?
すべての関係者の統治能力を疑わざるを得ない。

さて、気になるのは、まずは「富士フイルム」だ。
じつは、この「薬」は、とっくに中国での「特許が切れて」いて、さらに、現地生産工場とも提携が「切れて」いるのである。
そこに、当局が「効く」といったから、はたして、これから大量生産モードになって、「世界を救う」ことになるかもしれない。

つぎに気になるのは、白木公康先生の方である。
先生は、大阪大学のご出身で、ウィルス学一筋である。
1990年に大阪大学医学部助教授に就任され、翌91年、富山大学医学部教授になって以来、2017年まで奉職され、その後現在の千里金蘭大学副学長という経歴である。

山崎豊子の『白い巨塔』が、今どきも通じるものか?とは期待であって、現実は「まんま」の世界ではないか?

 

原作は電子版もあるから、外出しないでも購入できる。
映像版は、やっぱり「田宮二郎版」が記憶に残る。
若いとき、鵜飼教授役の小沢栄太郎氏がカイロにいらしたときに、空港のラウンジで田宮氏の思い出を聞いたことがおもいだされる。

ドラマは、国立大学医学部内のはなしだったが、「わが国のあらゆる学会」は東京大学に支配される構造があって、「東大教授」による支持と同意がなければどうにもならないのが実態だ。

「アビガン」という薬のすばらしさは、記事を読めば、高校の化学や生物を勉強した程度の素人でもわかる。
むかしは「メッセンジャーRNA」とならったものだが、いまはどうなのか?

DNAの遺伝情報を転写したのが「RNA」だから、この「転写」を阻害することで、ウィルスの増殖をくいとめるのである。
それが、耐性をもったウィルスに進化もさせない。

いわゆる「東大閥」が、「うん」というのか「邪魔」をするのか?
こんなことをして国内認可がでないまま、あちら製の薬が外国で「効いて」しまえば、やっぱりしぶしぶ認可する。
国民がどうなるかより、学会の権威が重要なのである。

それまで、「かしこい」政治家は放置するのだろう。
東大閥を敵に回す不利は、のちのちはかりしれないからだ。
もちろん、事務方の官僚たちも、国も地方もみんな東大閥なのである。

事実は小説より奇なりを、地でいくはなしになってはいないか?

せめて、白木公康氏の『医事新報』に緊急寄稿した記事の「英訳版」を、世界に発信して、日本の立場について最低の「アリバイ」をつくっておくべきではないかとおもうばかりだ。

一党独裁の国は、「効く」となれば、通常手続きだって無視できる。
これ見よがしに、アメリカに売りつけるにちがいない。
とっくにレッドチーム入りしているわが国は、傍観することで立場が明らかになるのである。

はて、そんな「妄想」は横にして、平年よりも早くさいた桜を愛でつつ、鎌倉の寺社をめぐるのに、かくもゆったりとしたことはない。
鎌倉市民には、夢のような観光公害のない、春爛漫にちがいない。

さては、なごり雪の予報まででてきた。

納税猶予はしても減税はしない

キャッシュでかんがえれば、払うべきものを、「いま」払わなくてもよくて、来年以降に先送りされるのはありがたいものだ。

それに、新型コロナウイルスで業績が急速に悪化した中小企業や個人事業主に適用されるというのだから、ことしの業績が回復しなければ、来年の確定申告で「還付」ならぬ、「相殺」がおこなわれば、結局、納税としてのキャッシュがうごかないことになるかもしれない。

つまりは、「チャラ」になるかもしれないのだが、その状況とは、はたしてよろこばしいことか?と問えば、そもそも「所得が減っている」ことになるから、ぜんぜんよろこばしくない。
これは、納税者の心理である。

税金を取り立てる側としてはどうなのか?
「上から待て」という命令(コマンド)がでれば、「待つだけ」だ。
つまり、「犬」とおなじだということがよくわかる。
なるほど、それで盲目的に組織にしたがうものを「犬」というのだ。
よく観察されたことばである。

新約聖書の福音書の著者のひとりされる、「マタイ」は徴税役人だった。
ローマ帝国の当時、徴税人というのは、人びとからたいへん見下された仕事であった。にもかかわらず、イエスによって「ひと扱い」され、使途になる。

このときの直前の瞬間を描いたのが、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの作品、『聖マタイの召命』(せいまたいのしょうめい)である。
あの有名な「ミケランジェロ」は、カラヴァッジョの生まれる30年ほどまえに亡くなっている。

この絵の中で、マタイはどこにいるのか?
1980年代になって、中央の髭の人物ではなく、左端の若者ではないか、という論争がおきた。
新教のドイツでおきた論争だったが、ローマ法王庁があるイタリアでは、いまだに中央の人物だとされているから、絵画鑑賞とは、なかなか難しいものだ。

そんなわけで、徴税をする側のはなしは、その上の「政治のはなし」に飛んでいく。
では、だれが、わが国の「政治」をしているのか?
まさに、『聖マタイの召命』における論争のごとく、である。

中央の人物が、「政治家」だとすれば、左端の人物は、まさに「役人」である。
つまり、官僚からの納税猶予という「アイデア」を、政治家がそのままパクって出したのだ。

残念だが、財務官僚が支配するわが国は、「税の本質」に敏感な国民が少数派だから、えらばれる議員たちのおおくが、「税の本質」に鈍感になる。

そもそも、明治の第一回帝国議会の議題は、「減税」だったのだ。
これを学習指導要領で「教えない」ことにして、帝国憲法や教育勅語のはなしにすり替えるのが、学校教育と受験制度になった。

つまり、「減税」こそが、すべての政治家が基本とする「政治理念」でなければならない。
ここに、おカネをたくさんつかいたい、「行政当局」との対立がうまれるのである。

その行政当局を仕切るのが、内閣なのであるから、なんのための「議院内閣制」なのか?と問えば、行政当局を放置すれば、かならず「肥大化」するという「原理」を、抑制するための「薬」なのである。

この根本を忘却して、なんのための「政治」で、なんのための「内閣」すなわち「政権」かがわからなくなったので、とうとう、学業でダントツに優秀だった官僚に、ぜんぶを乗っ取られてしまったのである。

こういうことは、緊急事態という「非日常」でみえてくる。
今回の事態における、もっともわかりやすい形ででてきたのが、「納税猶予」だ。

大局視点がぜんぜんない、この局地性。

「経済力を高める」というこころざしは、どこにもない。
税を猶予することが、そんなにすごいことか?
それよりもなによりも、昨年の消費増税によるマイナス成長を、新型コロナウイルス蔓延のせいにして、絶対に減税はしない、という意思の固さがわかる。

あろうことか、財界や労働界が消費増税に賛成したのは、「公的年金依存」に対しての、不安を除去するためという「一致」があったからである。

財界は、社会保障負担を個別企業として増やしたくないから「増税」を支持し、労働界は、じぶんの年金をかならずもらえるようにしたいから、増税を支持した。どちらも、「民間の年金」は視野にない。
これに、共産党も、消費増税をしないと社会保障がもたない、として「沈黙」するという事態となったのである。

そして、軽減税率制度の恩恵を受けたことで、政府(財務省にだけ)恩義がうまれたマスコミ各社は、いっせいに「減税は望ましくない」というキャンペーンを張っている。
なるほど、株式相場の下落で、公的年金原資が減価している。

アメリカのマスコミは、じぶんの「立ち位置」を表明するのが常識だから、共和党か民主党のどちらを支持するかをはっきりさせる。
「不偏不党」などいう不可能を追求しない合理がある。

すると、日本のマスコミは「財務省支持」ということで、全社が一致する。
安倍内閣の経済政策を批判しながらの厚顔無恥がここにある。

これが、わが国凋落の原因のひとつだ。
財務省には国税庁という徴税機関が子会社にある。
政治家のおカネをこのひとたちが監視しているから、けっきょく逆らえない。

イエスもいないが、マタイもいないのである。

人為によるパンデミック

国民がダメだから政治がダメになる。

その政治をあずかる政治家の堕落した発想は、とうとう「ありもしない」ことを「さも、あることのように」して、中世に戻ったのごとく、あるいは台風がやってくるのを心待ちにする子どものように、非日常をたのしんで、それをおのれの権力としてもてあそぶ。

週末の外出自粛要請とは、いったいなにごとか?
紙類ではなく、こんどは食品が買いだめの対象になっている。

はたして、厚生労働省のパンフレット『新型コロナウイルスを防ぐには』を読めばわかることである。
現代日本の為政者たる政治家は、いまだ学歴詐称がうたがわれる都知事を筆頭に、はたしてこの基本文書を読んでいるのかさえ、まったくの疑問である。
まさか、漢字が読めない、ということではあるまい。

以下に念のため、パンフレットの内容を記載する。

「新型コロナウイルス感染症とは」
ウィルス性の風邪の一種です。発熱やのどの痛み、咳が長引くこと(1週間前後)が多く、強いだるさ(倦怠感)を訴える方が多いことが特徴です。
感染から発症までの潜伏期間は1日から12.5日(多くは5日から6日)といわれています。

新型コロナウイルスは飛沫感染と接触感染によりうつるといわれています。
飛沫感染
感染者の飛沫(くしゃみ、咳、つばなど)と一緒にウィルスが放出され、他の方がそのウィルスを口や鼻などから吸い込んで感染します。
接触感染
感染者がくしゃみや咳を手で押さえた後、その手で周りの物に触れるとウィルスがつきます。他の方がそれを触るとウィルスが手に付着し、その手で口や鼻を触ると粘膜から感染します。
重症化すると肺炎となり、死亡例も確認されているので注意しましょう。特にご高齢の方や基礎疾患のある方は重症化しやすい可能性が考えられます。

「日常生活で気をつけること」
まずは手洗いが大切です。外出先からの帰宅時や調理の前後、食事の前などにこまめに石鹸やアルコール消毒液などで手を洗いましょう。
咳などの症状がある方は、咳やくしゃみを手で押さえると、その手で触ったものにウィルスが付着し、ドアノブなどを介して他の方にうつす可能性がありますので、咳エチケットを行ってください。
持病がある方、ご高齢の方は、できるだけ人混みの多い場所を避けるなど、より一層注意してください。
発熱等の風邪症状が見られるときは、学校や会社を休んでください。
発熱等の風邪症状が見られたら、毎日、体温を測定して記録してください。

令和2年2月17日改訂

つまりは、「風邪」なのである。
じっさい、インフルエンザによる死亡例の方がよほど高い確率でもある。

このパンフレットでさえ、じれったいのは、感染の危険がもっとも高い「目」について触れていないし、咳エチケットとは「マスクを着用すること」ではあっても、それは症状があるひとが着用することを指すと強調していないことだ。

それよりも、感染者が触ったものにウィルスが付着するのだから、マスクよりも重要なのは「手袋」なのであって、その次が手洗いとなる。
もちろん、使用した手袋やハンカチ、タオルはこまめに洗濯することが重要なのだ。

石鹸の界面活性剤が、コロナウィルスの外殻を破壊するので、石鹸による手洗いと、洗剤をつかった洗濯が「効く」のである。

このような「基本的知識」の啓蒙・情報拡大に注力しないで、ただ「人混みがいけない」というのは、まったくの無責任である。
人混みなら、さまざまなものに触る機会が多くなるから感染の可能性が増すのであって、単純に空気感染するわけではない。

感染の中心が欧米になったのは、残念だが欧米人のふだんの生活習慣に、石鹸をつかった手洗いや、洗剤によるこまめな洗濯がないからである。
とくに、ヨーロッパは、飲料水が「貴重な資源」なので、食器洗いさえも中性洗剤の残留が気になるほどしかすすがないのだ。

しかし、ここは日本である。
古来より清潔好きな日本人は、欧米人からして「病的」なまでに「潔癖」をもとめる癖がある。
だから、くりかえし「手袋」と石鹸による「手洗い」に「洗濯」が強調されれば、「パンデミック」どころか「インフルエンザの流行」にもならないはずである。

すなわち、失政のごまかしのために、この騒ぎが利用されているとしかおもえない。
すると、この「人為的なパンデミック」がおさまったあかつきには、過去にない「政治不信」がやってくることになる。

自分たちで経済秩序まで壊しているのだ。
その反動は、わが国の、これまでの社会秩序を壊すかもしれない。

どちらにせよ、まずは感染予防。
余計な心配をするよりも、余計な物に触らない、という訓練がひつようで、触ったら消毒しておくことが、なによりも自己防衛になる。

冷静な対応が、為政者の興奮をよりバカバカしくみえさせるのである。

武道の発想

よくいわれるわが国の数ある武道のなかでも、国際的に人気を二分するのが柔道と合気道だろう。
もちろん、このほかに、実戦むきの古武道もあって、その道のプロに対しての教練がおこなわれているものがある。

柔道は、むかし柔術といったものが、明治期に嘉納治五郎によって「柔道」になった。いわゆる「講道館柔道」である。
合気道は、大正から昭和にかけて植芝盛平が創始したものなので、柔道より遅いが、どちらも伝統武道を下敷きにした、近代の武道であることに特徴がある。

近代オリンピックの競技に採用されるなど、柔道の普及はもはや地球規模である。
つまり、「勝負」が決まる「競技」だからでもある。
その意味で、オリンピックのメダルに関して、日本ではもっとも強く要望されている種目になっている。

一方で、合気道には試合がない。つまり、勝負という概念がない。
勝ち負けがない武道とは、どういうかんがえなのか?
そこに、この武道の一大特徴があって、相手の力を利用して、さらに、相手を傷つけずに制圧するための、「じぶんの身体の動き」を訓練するのである。

柔道にも相手の力を利用する「技」はあるが、通常は「逆手」が主体である。
「逆手」とは、相手と自分が力でぶつかって、これをひねり倒すようなイメージだ。

合気道は、「順手」の技が主体で、人間の身体の構造におけるふつうの動きを、タイミングと部位、それに角度の制御で加速化し、相手の身体が宙を舞うような行動しかできないようにする技のイメージだ。

すると、柔道が磁石でいうおなじ極どうしの反発力を利用する感じがあって、合気道はちがう極がひっつきあう力を利用する感じがする。
ひっつきそうなところで、体をかわすから、相手はもう自分の身体の制御をうしなうのである。

合気道の達人の技をみる者をして、「うさんくさい」と思わせるのは、こんなに簡単(そう)に、ひとが倒れるものか、と。
昭和の達人、塩田剛三は、身長146cm、体重46kgという小柄にして、不世出といわれた人物である。

彼の技を記録した貴重な映像が、YouTubeにアーカイブされている。
なかでも傑作は、ジョン・F・ケネディの実弟にして、ケネディ政権の司法長官として来日した、ロバート・ケネディが、塩田の演武をみて、自身のボディーガードと対峙させた場面だ。

屈強なボディーガードが、塩田の前におもしろいように倒される。
それで、本人はずいぶん感心したようである。
これがきっかけで、合気道がFBIなどに採用されたともいわれている。

さて、この合気道。
これぞ、経営の理想型ではあるまいか。

相手を倒す、という意味ではない。
自身のコントロールで、相手もコントロールする。
つまり、達人がなにもしないで相手が倒れるのではなく、倒そうとやってくる相手が、達人のコントロールによってかってに倒れてしまう。

そこに、達人の達人といわれる「技」があるのであって、自身の身体のコントロールのために、いかなる鍛錬を要するものか?
これを実践して、体得したからこその「達人」なのである。
およそ凡人にはできない域に達した。

経営者が経営という行為にたいして、いかなる鍛錬をしているのか?
それは、経営者になる前からのものと、なってからのものとに分けられる。
合気道の達人だって、達人に突然なれるわけではない。

つまり、「育ち」というのが問題になる。
社会人としての「育成」という意味である。
よくいわれる、「後継者問題」のおおくが、経営者になる前の「育成経験」がすくないことに端を発する。

入社してからの「育成」をかんがえない企業や組織は、なんだか経営者予備群が、自然発生的に「自生」するとおもっているらしい。

そんなバカな。

たまたまのラッキーを否定はしないが、めったに「自生」などしない。
へんに自生したもの「しか」いない、とボヤくなら、それは「先代」としての見識不足を、いまさらボヤくことにもなる。

すると、まずは全員に「セオリー」ぐらいは習得させないと、その後の「育成」における「コース立て」もできない。
ようは、将来を見据えた経営者育成を、いまの経営者がやるしかないのである。

もし、これができない、わからない、というなら、外部から経営の専門家を募集するくらいの覚悟がないと、組織の存続ということすら困難になるだろう。

このとき、その専門家の発想が、柔道的なのか?それとも、合気道的なのか?を見極め、どちらを選択するのか?までかんがえて決定しないといけない。

いま、わが国の経済力が衰退しているのは、この見極めと決定ができないひとたちが、おおくの企業経営者になってしまったからだと思えるのだ。
これが、30年前の「バブルの崩壊」がつくった深刻な「後遺症」なのである。

ぜひ、合気道型の経営者を育成してもらいたいものだ。