マッチ・ポンプの日本政府

2020年度のはじまりである。

2019年度の「棚卸」のために、昨日はどちらさまも総力戦で在庫のチェックをしたことだろう。
「だろう」というのは、中央政府ははっきりいわないが、地方政府の親玉である東京都の知事が、なるべく会社にも行くなといったからである。

「不要不急」のことはするな、というけれど、棚卸をしないと決算ができない。
はっきりいわない中央政府は、税金の猶予をいいだしたけど、免除ではないから年度末の棚卸は、「必要」で、年度末の日にしないといけない。

マスコミにおける「報道各社」という会社には、物品の「棚卸」という概念がないからか、ぜんぜんこれを報道しない。
「棚」を映すのは、商品がなくなってスカスカの棚ばかりである。
そんな映像をみせながら、音声では「商品はあります」というのは、まったくの「欺瞞」である。

これを、70年代の石油ショック時のトイレットペーパー・パニックの記憶から、はっきり批判したのは、元NHKの木村太郎氏ばかりである。
「やってはいけない」としっていてやっている。

つまり、半世紀前の主婦たちの行動が、現代も再現されているのだ。
たきつけるマスコミと、これに乗じるひとたち。
今回も乗じたのは高齢者が中心だったというから、年齢から50を引けば、「なるほど」ということにもなる。

つまり、やっぱりぜんぜん「反省」などしていないのだ。
扇動する側と扇動される側の、両者の精神構造に変化がないのは、学習していないという意味でもある。
これを、「貧困なる精神」という。

けだし、貧困なる精神の持主である、本多勝一氏の著作シリーズに『貧困なる精神』(朝日新聞)がある。
「毒」なので、推奨はしないけど、「毒にあたらない」自信がある方が、「毒」としてみるのを否定しない。

「毒」も少量だと、「薬」になるからである。
ただし、ミイラ取りがミイラにならないように注意が必要で、自己免疫システムが破壊されそうになったら、すぐに中止したほうがよい。
「中毒」になりかねない。

さて、東京都の知事は、どこそこへいくなと、あんがいと細かい指示をだしている。
もちろん、法的拘束力がない「要請」にすぎないが、そこになぜか「パチンコ」がない。

これは、官房長官記者会見に呼応しているから、国と都は、しっかり「連携」しているとかんがえられる。
今夏の都知事選に、与党自民党が対立候補を「ださない」のだから、おどろくにあたらないけど、なぜそう決めたのか?はわからない。

ここに、わが国の民主主義が民主主義「ごっこ」にすぎない証拠がある。
都知事選の候補者選びの「予備選挙」という概念がぜんぜんない。
アメリカの「良い点」が、コピーされていない。

さてそれで、「パチンコ」が対象でないのはなぜか?という、記者からの質問に、官房長官は、警察庁が安全な指示をだしているからと返答した。

まことに、「珍奇」なることである。
これから、各方面からの「批判」が詳細にかたられることだろう。

人間がつくっているのが人間社会だから、人為的なのは当然だ。
けれども、長い歴史のなかでできてきた社会ルールさえも、今回の新型コロナウイルス禍は破壊しだしている。

その原因をつきつめれば、ウィルスの科学特性ではなくて、社会を構成する人間たちがもつ、「恐怖と不安」なのである。
だから、なにも相手が、ウィルスでなくてもよい。

こうした、人間の精神状態や心理を活用すれば、「恐怖と不安」による、「統治」が可能になることを示している。

すると、思いだされるのは、ジャン・ジャック・ルソーである。
この、強度な統合失調症だったひとの「思想」の「毒」は、ウィルスより怖い政治状況をうみだした。
それが、「フランス革命」であり、「ロシア革命」だった。

ところが、わが国の大学は、ルソーがだいすきで、たいていは「教養課程」で学ばされるが、はたしてそれは、「否定」が前提ではない。
かんたんにいえば、思想「注入」されるのである。
助成金で大学経営を縛り上げている、文科省という役所もこれを「放置」しているから、国家が奨励しているようなものだ。

ルソーとこの系統に続くマルクスを学べば、むくな人間はちゃんとそっち方向に向かうことになっている。
マルクスを否定できても、なかなかルソーにまでいかせない。
だから、これら思想の根絶やしができないのである。

ではどんな「解毒剤」があるのか?
まずは、こうした思想に触れないことが、社会の健全性維持のためにはよほど重要だから、まったく「ウィルス」のごとくなのである。
これを、実行しているのが、アメリカになる。

ただし、「無菌室」で育つことは、たいへん危険だ。
世界は、「ばい菌」であふれている。
『サタデー・ナイト・フィーバー』の前年に製作された、ジョン・トラボルタ主演『プラスチックの中の青春』がおしえてくれる。

そんなわけで、アメリカ人は、ソ連崩壊にともなうロシアや東欧の自由化にほとんど貢献できなかった。
自由社会をしらないひとたちに、自由があたりまえのひとたちは、なにを教えればよいかさえわからなかったのだ。

つまり、アメリカ人が「無菌室」にいたのである。

さて、わが国は、その意味でとっくに「汚染」されている。
これを「除菌」することが、じつは今回の新型コロナウイルス禍による社会再生になるのである。

政府のマッチ・ポンプ政策が、汚染具合を示しているのだ。

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