米大統領選挙調査の重要質問

今日から11月。
アメリカ合衆国大統領選挙の投票日まで、日本時間であと3日になってきた。
今後の世界の趨勢を、いやがおうにも決めるのだから、目が離せない。

前にも書いたが、大統領選挙とは、日本風にいえば、「衆参ダブル総選挙」なのである。
アメリカ連邦下院(=衆議院)は、任期2年で「解散がない」から、大統領選挙と同時に全員が任期切れの改選となるし、上院(=参議院)は、2年ごとに3分の1が改選されるからである。

多くの報道は、誰が大統領になるのか?だけになっている。
これは、あちらは、二大政党制なので、当選する大統領が所属する政党の議員も一緒に有利な得票になるとかんがえられているからだ。

4年前、前回の大統領選挙で、「おおハズレ」をかまして「大恥」をかいた、伝統ある調査会社の、「ギャラップ調査」には、二期目の再選を目指す大統領候補がいるときに、「必ずする質問」がある。
それが、

あなたの生活は4年前に比べてどうなりましたか?

である。
この質問が絶妙なのは、アメリカ合衆国大統は「二期まで最長八年しか職務に就けない」ので、再選を目指す大統領候補がいるというのは、誰も「実績」をしらないでいたときとの比較を促すことにある。そして、大統領を支える議会(政党)の評価も、同時に質問しているのである。

だから、この質問で、「良くなった」という答が多い場合は、再選される可能性が高くなるとかんがえられている。
そのラインはこの40年間で、ざっと「40%」が当確基準のようになっている。
つまり、回答者の4割が、良くなったと思わないと再選されないのだ。

残念ながら、わが国でこの質問ができるのは、衆議院だけになる。
ただし、わが国の衆議院任期は4年だが、この間にいつ「解散」があるかはわからない。
だから、定期的観測はできない。

また、参議院も3年で半数が改選されるので、「ダブル選挙」になるかならないかは微妙だ。
これは、ある意味、議会がブームに流されることを防ぐことにはなるけども、逆にいえば国民の意志が国会で「ぼやける」原因でもある。

安倍内閣が長かったから、前回の選挙がいつだったか記憶がはっきりしない。
前回は、平成29(2017)年9月だった。

さて、この3年あまりで読者のみなさんの暮らしは、「良くなった」でしょうか?

ついでに、民主党から政権を奪回した第二次安倍内閣の発足は、平成24(2012)年12月だった。
この8年あまりを思い出して、暮らしは、「良くなった」でしょうか?

はっきりいって、「はっきりしない」か「そうでもない」を加えて、回答イメージを先鋭化させれば、GDPにあらわれる数字と合致するにちがいない。
世界最小の「伸び」を示すのが、わが国のGDPである。

それに、前にも書いたが「1人あたりのGDP」では、わが国の上位にトルコや韓国がランクされている。
「GDP」とか「1人あたりのGDP」などというと、あたかも暮らしの実感と離れているようにみえるけど、実態は逆で、かなり近いということである。

すると、わが国の政治家にはどんな評価が適当なのか?と問えば、驚くほどに、国民生活の向上に貢献していない、というのが答となる。

30年前のわが国は、1人あたりのGDPでアメリカを追い越した実績をもつ。
これが、「当の」アメリカ人にいかほどの衝撃を与え、怯えさせたか?を想像もしなかったのが、「当の」日本人であった。

まさに、「有頂天」、天狗になって、その長く伸びた鼻を舌で舐めていた。
そして、アメリカを凌駕した満足感にただ浸って、傲慢になっていたのである。
それこそが、「拝金主義の頂点」であって、これを「資本主義」と勘違いした。

アメリカ人の「よいところ」は、ちゃんと反省して合理的な対策を模索することにある。
間違えたひとをグダグダ攻撃する暇も惜しむ。
これは、かつての日本人の得意とするところではなかったのか?

さて、ギャラップ調査によるトランプ政権についての前述の質問の評価は、コロナ禍にあって「56%」が「良くなった」と答えていて、これは過去40年で最高値となっている。
そもそも、5割越えの大統領は過去にいない。

もっと驚くのは、アメリカ商務省が10月30日に発表した、直近の第3四半期のGDP伸び率である。
「7.4%」で、これは、年率に換算すると「驚異的な」33.1%となる。
気が滅入るので、わが国の数字は出したくない。

どうしてこんなことになるのか?
共和党トランプ政権の経済政策は、二本柱からなっている。
・大型減税
・規制緩和(新しく規制を作るなら、古い規制を2つ以上解除せよと命じている)

対してわが国の一貫した経済政策は?
・増税(消費増税はもちろん、レジ袋の有料化も実質増税にあたる)
・規制強化(わが国には1500項目の規制があって10年前より1.5倍になった)

どんな政策を実施すればいいかは、一目瞭然なのである。

23区を「特区」にする

バブルのころ、首都移転構想という「無謀」があった。
一極集中の東京を脱して、地方への「遷都」が持つ意味は、西ドイツの首都だったボンのような人工的計画都市を建設して、理想郷を首都としたいというものだった。

簡単にいえば、土建国家の欲望の最終行動、という成り行きの大投資計画のことである。
それで、東北地方の太平洋側が有力候補に残ったのは、雪が少ないという自然環境が有利とされたからである。

しかし、ほぼ同時期に、東西ドイツが統一されて「ドイツ」になったら、ドイツ人はあっさりボンを棄てて、ベルリンを首都に定めた。
果たして、日本人だったらボンを棄てることができたか?
かつて、さまざまな場所に遷都を繰り返した日本人が、とうとう平安京に落ち着いたのは、支配体制の安定による。

鎌倉幕府の成立以来、わが国には二つの中心があって、幕府所在地と平安京が明治天皇のお引っ越しによって東京に統一されるまで続いた。
明治政府は、なぜ平安京を首都にせず江戸にしたのか?
これは、ドイツ人の発想にはない。

ヨーロッパでは、かつての王宮が博物館として一般公開されている「ふつう」がある。
これは、「王政でなくなった証拠」だから、いまでも「王政」の国は、ヨーロッパでも王宮を一般公開などしない。

平安京の紫宸殿や、東京の赤坂離宮も一般公開されるようになったのは、わが国も「天皇家」の存在が縮んだことによる。
いってみれば、「禁裏の喪失」だ。
ひそかに、しかし確実に、人民国家への転換が推進されている。

そんなわけで、首都というのは背景に歴史をかかえているだけでなく、その国民の思想もかかえている。
だから、国によってその表情が違うのである。
区割りや建物がちがう、ということだけではない。

都市の発展に寄与した事例をながめると、共通項が浮かび上がる。
アジアの都市で、圧倒的なのが、「かつての東京」であった。
いまは、シンガポールと香港に代表されるといって、文句をいうひとはいないだろう。

シンガポールの「奇跡」をつくったのは、リー・クワンユーの功績だといって過言ではない。
この都市国家は、ちょうど東京23区ほどの面積に等しい。
政治体制は、しっかりした「独裁」なので、妙な感じがするだろうけど、「独裁政権」が「独裁」によって「自由経済を命令」して成功したという、稀有な例である。

一方香港は、イギリス人総督の独裁で、こちらも「自由を命令」していた。
元がアヘン戦争という、恥ずかしい理由の戦争によって得た領土だったから、恥ずかしくないような「自由」を許して、一種の「混沌」とした社会になった。

この「妖しさ」が、おカネを呼び込んだのである。

この意味で、香港の自由を蹂躙していると批難されているのは、お門違いだとする主張にも一理あるから、ややこしいのである。
いま批難されている国だって、ドイツが統一されるころ、「早く儲けた者勝ち」という大転換を実施した。

要は、国をあげて「自由経済を命令した」のである。
だから、あたかも「シンガポール・モデル」の巨大適用をやってみたら、うそみたいにうまくいった、ということである。
しかし、そのシンガポールは、「日本モデル」をパクったのだった。

このときの「日本」とは、「明治近代化期」のことをいう。
政府主導の、「自由の命令」が、キリスト教が決定的に普及しないわが国では、「現人神」と結合して、近代化成功の特効薬になったからである。
いまの日本人は、これをすっかり忘れてしまって、政府からの「規制の命令」に狂喜している。

上述の明治期ではなく、あたかも、「戦後高度成長期」が、政府の規制(たとえば「傾斜生産方式」とか)のおかげだと勘違いし続けて衰退しているから、シンガポール人からみれば、競争相手という概念すらない国になった。
逆に、彼らはいまの日本を「途上国」として観ているのが実態なのだ。

日本人は、日本が先進国だと信じているけど、とっくにその位置にいない。
シンガポール人の評価は、冷静でかつ正しい。
疑う向きは、国民1人あたりGDPで彼我の差を確認されたい。

香港からの「エクソダス(脱出)」が話題になっているけれど、わが国を希望して目指す香港人も企業もない。
それは、日本が「規制国家」であることを、彼らが熟知しているからである。すなわち、自由がない国、という評価なのだ。

国際的活動をするさまざまな企業、つまり、貿易を中心にすれば、その決済のための金融も、自由あっての利益が確保できる。
不自由(規制)の典型が、「税制」でもある。

せっかくの利益を国家に収奪されるのが、税である。
さらに、その仕組みは単純が望ましいのに、日本の税制は恐ろしく複雑で、ガラパゴス化している。
その他の「規制」は、彼らにはマンガにみえる「国際的非常識」なのだ。

これが、東京をして、せいぜい「拠点」としても、支店レベルの理由だ。
アジア太平洋地区マネジャーが配置される、支社あるいは地区本部が東京から香港やシンガポールにエクソダスした決定的理由なのである。

解決策は、政府が「自由を命令」するしかない。
これが、発展のセオリーというものだ。

滅亡の所信表明演説なのに

菅新政権の所信表明演説の「肝」は、コロナに立ち向かうやる気のなさをベースにした、亡国の「温暖化ガス2050年ゼロ」である。

やる気のなさは、議場の演壇に立って「演説する」ときもマスクを着用しまま、というお行儀よさに表れている。
少なくても、アメリカ合衆国大統領選挙における両候補と司会者は、討議中にはマスクを外し、ちゃんと顔を見せたのだ。
国民に向かって行う、発足した内閣にとって大事な、「施政方針」をマスク着用のまま行う、というのはコロナとの闘いの気概すらないという「暗黙の表明」であった。
元の生活に戻ることを優先させるトランプ氏の気迫をみた目には、大統領の無策を責める割に、自分の「プラン」は、マスク着用の強制とPCR検査の徹底というバイデン氏のお粗末に、拍子抜けしたのは日本人だっておなじだ。

つまり、管氏の態度はバイデン氏とかわりないのである。
だからか、こんな肝っ玉の小さな人物が掲げたのが、温暖化ガス2050年ゼロという、まったくもってアメリカ民主党のなかの極左と主張が変わらない。
バイデン氏よりも、副大統領候補の、カマラ・ハリス氏とおなじだ。
日本人なら、あの宇宙人、鳩山由紀夫内閣と同等以上の「そっち」への舵を切ったことになる。

トランプ氏と結束しているのは、オーストラリアのモリソン首相である。
このひとは、オーストラリア自由党(Liberal Party of Australia)の党首である。
「リベラル」が、「自由」だとちゃんと党名になっていて、わが国の左翼を指す「リベラル」とは意味が真逆だ。
わが国ではちゃんと、用語として、「社会主義者」と表記すべきである。

さて、モリソン氏は、オーストラリア国会で、温暖化対策に無関心なことを野党から質問されて、以下のようにきっぱりと答えている。
わがオーストラリアが排出している温暖化ガスは、世界の排出量の1%程度である。
もっとも排出している、米中2国で50%を超えるのに、両国ともほとんど対策を立案もしていない。
よって、わが国だけが巨額の対策予算を計上する意味は、効果という意味においてムダである、と。

この論でいけば、残念ながらわが国も、世界の工場の地位を失ったかわりに、温暖化ガス排出量のシェアも落して3%程度なのである。
だから、こんなものに国家予算(=税)をつかう意味はない。
しかも、今回の演説で想定している額は、10兆円にものぼる。
じつは、わが国はすでに温暖化対策費として、200兆円を投じているのだ。

まったく、地球という惑星に対する奢りとしかかんがえられない。
果たして、人類が地球をコントロールできるという、自然への敬意の微塵もない思想なのである。
1個の台風のコントロールすら不可能なのに、なにをかんがえているのか?
ムダな税を投じて、国民を窮乏させ、よって革命に導きたいとする人間の都合を、地球環境という美談で誤魔化しているだけだ。

そんなポンコツな内閣だけど、なぜか「核兵器禁止条約」は、ちゃんと「批准しない」と繰り返し表明して、左翼のひとたちを刺激している。
いったいぜんたい、どういう基準で政権運営するのか?「方針」がさっぱりわからない。

そもそも、核兵器禁止条約のなにが「いけない」のか?
第一に、核保有国がこれに加わらないことである。
第二に、人類は絶対に核兵器の廃絶をしないからである。

つまり、この条約は、「国際法」ではなくて、「文学」なのである。
ジャンルは、ファンタジー小説だ。
ノーベル財団は、国連にノーベル文学賞を差し出すとよい。

なかなか、「絶対」という言葉は使えないものだ。
しかし、人類は絶対に核兵器を廃絶しない。
保有コストから、ロシアのように数を減らすことはある。
でも、ゼロにはしない。だれか独りでも核を持てば、どうなるか?ということである。

70年代だか80年代だったと記憶にあるのは、ひとりのアメリカの大学生が原爆の設計図を独自に書いて、これが大騒ぎになったことだ。
なぜなら、それが「本物」だったからである。
つまり、当時ですら理系大学の一般学生が、授業と図書館にある資料で設計ができてしまうことが証明されたのだ。
ないのは、材料だった。

もちろん、核爆弾の運搬方法がもっとも重要な技術になっている。
当初の飛行機で運ぶ方法から、とっくにロケットエンジンを使うミサイルになった。
いまは、マッハ8という超音速で飛んでくる。
ただし、命中精度はしらない。
目標よりかなりズレても、核なら精度の許容範囲が広くなるので実用にしているのだろう。

ロシアのプーチン氏が、初めて大統領に就任したとき、大変重要な演説をしたのだが、例によってわが国のマスコミはあんまり報道しない。
「外交とは、核保有国が互いに話し合いをすることだ。核をもたない国は核保有国の決定に従うしかないから、これらの国は外交をすることはできない」
核の価値は、抑止力だといわれている。
人口が急激に減少するわが国は、若者の数が減るので通常兵器だけでの防衛は現実的ではない。

ではどうするか?
温暖化が喫緊の脅威ではないことは確かだ。
いったい、わが国はなにをしたいのか?
おそらく、本人もわかってやしないことがわかった。

コロナ全体主義の恐怖

マスク着用の義務という強制は、全体主義の実行である。
これを推進するのは、アメリカ民主党だ。一方で、都議会の独自政党「都民ファースト」も、マスク着用義務を条例化しようとしている。
こうした政党の支持率が高い、というのもあまりにも情けないので書いておこうと思う。

本稿では10月8日に、WHOのコロナ特使であるデビット・ナバロ氏が、「ロックダウンを推奨しない」と述べていることを前提にする。
これは、日本時間で23日(現地では22日)に行われた、最後の大統領候補者による討論会で、トランプ氏も「前提」にしていたからだ。

国内では、さいきん、過剰なコロナ対策による「犠牲者」がふえている。
マスク着用による、「脳障害」が、全世代に警告されているのは、「酸欠」を原因とするからである。
とくに、乳幼児には「危険」なので、日本小児科会は、「子どもにマスクをさせない」ように警告告知した。

この警告から2ヶ月以上して、文科省も通達を出したが、緊急事態宣言以来、中央集権が効かなくなったので、各地の教育委員会は結構無視しているから、学校でのマスク着用が「事実上義務化」されたままでいる。

一方で、ちゃんとしたアルコール消毒剤が世の中から消えたことで、家庭用の漂白剤が代用できるという情報から、「濃度」についての調整を無視して原液やほとんど薄めずに大量使用して、手指の皮膚が荒れるのはもちろん、吸い込んだ体内の細胞も荒れて「肺炎」を誘発している。

コロナで肺炎にならずに、消毒剤で肺炎になる。
マンガのようなはなしだが、まったく笑えない事実である。
1000倍に薄めて使う、という意味がわからないとは、義務教育でどんな授業体験をしてきたのか?さっぱりわからない。

あるサイトでは、999mLの水に1mLの原液を加えれば1000倍になると、驚くことが記載されている。
ネットが玉石混交とは、このことをいう。
1000mLに1mLを入れないといけない。

式にすれば、希釈倍率=水量 ÷ 原液量(1000mL ÷ 1mL)
だから、できあがりは1001mL、になる。
ちなみに、「リットル」の国際記号は、「L」であって、「l」や「ℓ」ではないから、わが国独自の「記号」であると意識しておきたい。

行われた「討論」自体は、変えようのない事実であっても、新聞社やテレビ局、あるいはひとによって、「評価」がぜんぜんちがうから、これを比較するだけで結構な、「エンタメ」になっている。
どうして、そんな「評価」になるのか?という「ズレ」が、ほとんどギャグになっている。

この討論会の直前、会場にむかうトランプ氏の姿がネットでは動画になっていて、なんだか大勢いる支持者たちに向かって「これから不利な闘いに行く」といって、警備で閉鎖された会場の大学の庭から大声で語りかけ、独り歩き始める。
まるで、決闘に向かうヒーローのようなのだ。

どういうわけか、一回目も今回も、司会者は「民主党員」を表明しているひとなのだ。
このような、前条件も日米のメディアは指摘しない。
観る価値なし、を自分たちで強調しているのも、ギャグである。

討論の最初のテーマが「コロナ」だった。

トランプ氏自身があれだけ批判していたWHOではあるものの、冒頭のナバロ氏の発言をしっかり踏まえていた。
初期の頃は、誰にもわからなかった対処法がだんだん明らかになって、いまではこの病気の実態が見えてきている。

少なくても、アメリカでも50代以下のひとは、感染しても99.9%が回復するし、それ以上であっても自分のように元気になれる。
しかも、自分は免疫さえも取得した、と。

さらに、民主党の知事や市長の州や市のおおくが、厳しいロックダウンを実施したのに、被害はこれを「しなかった地域」とは比較にならないほど「大きくなった」という事実も、具体的数字をあげて重ねて指摘した。
そして、元の生活に戻すことが最優先だと主張したのである。

さて国内では、都議会最大会派となった都知事の与党は、東京都自民党よりも「保守」だとして、おなじく「保守」と観られている都知事が主導してできた地域政党だ。あっという間に広がりながら、もう下火のようではある。
とはいえ、選挙結果はジワリと効いてくるのだ。

「コロナ感染対策」として、「マスク着用の強制化」を条例にするという動きは、「保守」かどうかはしらないが、少なくとも「自由主義」ではない。
憲法違反の疑いも議論されているけれど、わが国の憲法解釈は歪んでいるので、盛り上がらない。

ここではっきり明らかになったのは、「保守主義」は、必ずしも「自由主義」ではない、ということである。
そして、もう一度アメリカを向けば、「民主党(Democratic Party)」の掲げる「デモクラシー(民主主義)」も、必ずしも「自由主義」ではない、ということがわかるのである。

そういえば、ヒトラーもスターリンも、毛沢東、金日成も、全員が、「民主主義」を理由に、全体主義を達成した。

なるほど、コロナの毒の下解毒剤は、ただひとつ、「自由主義」という発想なのである。

フードファディズムからの異常行動

フードファディズム(Food Faddism)とは、食べ物や栄養が健康に及ぼす影響を過大に評価する考えのことだ。
これが嵩じると、「食品の善し悪しを単純に決めつけ」て、これらを「過度に食べ分けるような行為を誘発」してしまう。

つまり、「過大」と「単純」と「過度」という三点セットを発想の元にさせて、人間行動をある一定の方向へ「誘発」するのだから、本人は「間違いはない」と思い込んでいても、他人からすると、あるいは、「論理的に考えると」、大変おかしなことをしでかしているように見えるのである。

そもそも、「◯◯を食べる(飲む)と、どこそこの細胞やら臓器が活性化して、健康になる」というたぐいの情報のほとんどが、「フードファディズム」そのものを「誘発」しているのである。
しかも、これが、あんがいと「専門的な用語」でオブラートされている。

物質の成り立ちからはじまって、様々な「結合」や「反応」により、あたらしい物質がつくられるのを、われわれは中学の「理科」や、高校の「化学」で学ぶことになっている。
高校全入といわれて久しいけれど、だからといって、フードファディズムが流行るのだから、知識が「身についている」とはいえないのである。

逆にいえば、知っているつもり、がかえって助長させているのだろう。
食べものの「消化」とは、化学反応によって行われるが、それが生体内でどうなっているのか?は、とうてい全部解明されてなどしていない。

もうすぐ出版から20年にもなる、高橋久仁子『食べもの神話の落とし穴』(ブルーバックス、2003年)という本には、わかりやすい説明があふれている。
こういう本を書くひとが「専門家」なのである。

若いひとには知る由もないけど、ずいぶん前からフードファディズムの事象は発生している。
上記の本では、以下の3種類があるとされている。
まずは、第1種が、
1.健康効果をうたう食品の爆発的流行
 「紅茶きのこ」(1977年頃)
 「酢大豆」(1988年頃)
 「野菜スープ」(1994年頃)
 「ココア」(1996年)
 「低インスリンダイエット」(2002年頃) などである。

なんだか懐かしいのが、紅茶きのこである。
わが家でも、ガラス瓶に自家製のを作っていて、おとなたちがこれを有り難がって飲んでいた。
子どもには、実に奇妙な光景であった。

昼の「ワイドショー」で毎日、別々の食品を「特集」していて、店からなくなったのが「ココア」とか「黒砂糖」だった。
気の利いた個人商店主は、朝刊でテレビ欄を確認して、大量発注していたものだけど、そのうち「記載」がなくなったので、いちばん熱心に番組を観ていたのは個人商店主だった。

流行ったのが、10年毎からだんだん短くなってきている、という特徴も、「情報化」といえるのだろう。
ただし、廃れるのもはやい。
「次」に飛びつくからである。

たとえば、「プロテイン」。
日本語にすればただの「タンパク質」のことである。
これが、次の2種類目や3種類目にも関係する。

2.いわゆる健康食品(栄養補助食品)
 ほかの努力はいっさい不要で、「それ」を食べさえすれば、「元気になる」、「若返る」、「病気が治る」。

今日もおおくの「通販番組」で紹介されているし、ネット上での広告も飛び交っている「現役」そのものの「商品」である。
消費者庁が管轄する、「特定保健用食品(トクホ)」だって、この仲間に入っているから、50歩100歩なのである。

3.食品に対する不安の扇動
 食生活を全体としてとらえることなく、特定の食品を身体に悪いと決めつけ、非難攻撃し排斥する一方で、ある食品は身体によいとして推薦したり万能薬視したりすること。

特に3をこの著者は、「不安扇動ビジネス」、「不安便乗ビジネス」を呼んでいる。

なんだか、いまだに終息しない「コロナ」に似ている。
コロナ感染者(といっても「無症状」の検査陽性者)の排斥や、ペラペラのマスクが感染予防に万能だとして、マスク着用の事実上の「義務化」といった愚策が、民間でおこなわれている。

都会より、地方で厳格なのだから、これも「不安の扇動」による効果だといわざるをえないものの、むしろ、「コロナの時代」とは、とっくにフードファディズムが「素地」を社会に作り上げていたのではないかとおもう。

「永遠の生命」を求めた逸話は、世界の歴史に刻まれている。
たとえば、古代バビロニアのくさび型文字に残された、『ギルガメシュ叙事詩』や、エジプトのミイラ、それに、秦の始皇帝の命を受け、日本に不老不死の仙薬を探しに来た徐福のはなしなど。

しかし、これらの例は、英雄や特定の身分にあった為政者個人の願望をかなえるための物語であって、こうしたはなしを一般人は「愚かなこと」として嗤っていたのである。
なぜなら、この世に生を受けたものは、一人残らずいつか死を迎え、誰も免れ得ない真実だと知っていたからだ。

ところが、20世紀の後半から、人類史でまれに見る「中産階級の繁栄」を経験したわが国では、ほとんどの国民が「永遠の生命」を希求するという、人類史のはじめてが社会現象になったのである。
かつての戦争犠牲者を、「精霊」といわずに「犬死に」といえる根拠であろう。

それは、個々人の「精神」を尊ぶ個人主義では到底なくて、「物質的」にただ生きのびたいという「犬も考えぬ」ことを希求する、貧困なる精神からやってくるのである。
経済的に貧困であったかつての日本人は、しかし思想では、尊かったのである。

人間は、機械のように食べものを「消化」しているのではない。
著者は、フードファディズムに対抗すべく、「さしたる根拠もないまま」に続けて「多様な食品の摂取」を勧めてきたことの「裏付け作業」が着々と進行している、という。

たまには、根拠のないことが正しいこともある。

風評被害の原因

いわゆる、「デマ」のことである。
あたかも「真実」のように伝わって、ひとびとを間違った方向へ誘導し、結果的におおきな被害をもたらす。

1923年の関東大震災では、「朝鮮人が攻めてくる」とか、「井戸に毒をいれた」とか、「おさまらない火災は朝鮮人が放火しているからだ」といって、何人だかわからないひとたちがリンチ(私的制裁)され、命を落とした。

ほとんど100年前のことだけど、いまだってふつうに「デマ」は跋扈している。
むかしは「口コミ」と「ビラ」だったのが、いまは「SNS」という便利さが、安易なデマを大量生産している。

学校などの小さなコミュニティなどでの、特定個人を狙った誹謗中傷や、感染症の「陽性反応」というだけで責められ、自殺や転居を余儀なくされるのも、「デマ」による一種の被害者である。

これが通用する社会は、臆病で野蛮である。

すると、現代社会はあんがいと野蛮な未熟社会なのである。
だから、かっこよくメディアで「成熟社会」と発言するひとは、「デマ」のなかの聞き心地がいい「美辞麗句」を流している張本人のひとりだと特定できるのである。

おそらく、こういうひとが発する言葉は、空疎で中身がないに違いない。
視聴者は、心して聞かないと欺されるのである。

こうしたデマによる風評被害は、真実との闘いのなかで生まれる。
しかし、おおくの場合、真実が意図的に隠されていたりすることからの、不安がつくりだす。
だから、それらしくて皆が欺されるのである。

政府がつくったデマの最たるものは、「大本営発表」の「戦果」であった。
ほんとうは大敗しているのに、あたかもわが方が勝利したごとく。
ありもしない敵との会合における戦闘の、ありもしない戦果。
勝っているはずなのに、どんどん厳しくなる生活物資の困窮があるのに、それでも、勝っていると信じ込ませる情報統制。

負けたら負けたで、今度は占領軍による情報統制がはじまって、なぜかそのまま現在に至っている。
そのコンセプトは、「正義」は占領軍にあり、に統合(インテグラル)されているから「高度」なのだ。

その都度都度に対応した嘘を重ねた「大本営発表」とは、規模も精密さも段違いである。
カジノを「博打場」としかかんがえないのは、大本営的発想の継承である。
「IR」の「I」こそ、インテグラルなのである。

つまり、われわれ日本人は、インテグラルな情報操作のなかで70年以上生きてきた。
そう考えれば、『オバQ』の「ドロンパ」も、プロレスも、わずかな空間で許された、アメリカに対する「ガス抜き」であった。

インテグラルな戦略のマネジメントができるアメリカと、相変わらず場あたり的なわが国では、もはや勝負にならない。
その理由は、上記のとおり、インテグラルな戦略策定能力の欠如と、インテグラルな戦略実行(マネジメント)能力の欠如というふたつの能力とも、彼我の差が大きすぎるからである。

これは、政府が民間能力に劣るアメリカ政府(軍を含む)との比較だから、政府が民間よりはるかに高い能力のはずのわが国にすれば、どうにもならない力量の差として、民間企業の経営力に現れる。

一社に数人の優れた経営者なら、日本企業にだっている。
しかし、圧倒的な彼我の差は、組織全体のなかにいる、ということでの勝負なのだ。
いわば、戦略策定の「頭脳」と、実行のための「筋肉」と「神経系統」の機能が、違いすぎるということだ。

そんなわけで、偏った頭脳しかないわが国政府は、福島での放射能汚染水の海洋投棄をはじめるという。
例によって、政府は、その「安全性」についての「デマ」も一緒に垂れ流すに違いない。

政府がいうと想定される理由は次の二点だ。
⑴ 廃棄するのはトリチウム汚染水だけだ。
⑵ 低レベルなので環境に影響しない。
これらは、「デマ」である。

⑴は、トリチウム「だけ」ではないはずだ。
 だから、原液の成分詳細をいわない。
⑵は、どうして「低レベル」なのか?
 原液のレベルをいわない。つまり、「水で薄める」からではないのか?
 それに、トリチウムの危険性=安全性について、どこまでわかっているのか?を説明しない。

わかっているのは、「風評被害対策」という補助金を出す、ということなのだ。
かつての、原子力の街を骨抜きにした「補助金」という麻薬で、再び現地のひとたちを麻痺させようというのは、あまりにもワンパターンで、ぜんぜんインテグラルでない。

なんのことはない。
風評被害をつくっている犯人は、「大本営発表」しかしない、政府なのである。

高濃度廃棄物は、濃度を薄めて海に棄ててはならないというのが、規制法の精神である。
どんなに薄めようが、結局のところ原液全部を海に棄てたなら、同じ話である。子どもにもわかることだ。

国内の工場は、この規制法を遵守している。
どうして、放射能汚染水の海洋投棄だと許すのか?
根拠法はなにか?
民間工場でモラル・ハザードが起きないとする理由はなにか?

政府が「法治」をやめようとしている。
その理由は、タンクが一杯になっちゃったからしょーがあんめえ、だろう。
この荒っぽさで、「安全性が確認された原子力発電」と臆面もなく紙に書けるのである。

わかっちゃいるけどやめられない、では困るのである。

妄想・氷川丸運行計画

子どものころ、横浜港大桟橋からの南米移民船の出港を見たことがある。
記憶が曖昧なのは、それが目的だったのか、たまたまだったのかを覚えていないことである。
うっすらと重なるのは、近所のひとの親戚が移民するので一緒に見送りに行ったような、そうでないような。

人生の「出発」には、「別れ」が伴う。

卒業式しかり、転勤しかり、はたまた最期の瞬間しかりである。
駅ホームでの別れも、汽車の時代から特急電車の時代、そして、新幹線の時代となって、だんだん詩情が薄れた。

汽車の時代は、「動きだしてから」も、まだ「間」があって、乗るひとが走れば飛び乗れた。
特急電車の時代は、窓を開けて、何かを渡せた。花や手紙、ときに「言葉」を渡すこともあった。
新幹線の時代は、ご存じのとおりである。

ところが、船となると様相が異なる。
ただの「物見遊山」のクルーズなら、見送るひともあんまりいないだろうけど、移民となれば、「今生の別れ」を覚悟する。
その切羽詰まった人々の気持が、見送るものと見送られるものとを結ぶ、紙テープになったのだ。

音楽隊の蛍の光をバックに、ドラがジャンジャン叩かれて、静かに離岸する船と、ちぎれ行く紙テープのはかなさと絶叫ともいえる声の塊が、子ども心にも哀しくさせた。
それは、まるで、大地が引き裂かれるような光景であった。

あの紙テープは、どうやって回収していたのか?
いまなら、無情なひとたちが、地球環境とか海を汚すなというのだろう。
「あほらしい」
はるか何十年も前のひとたちの方が、よほど文明人である。

横浜に生まれてそろそろ還暦を迎えるけれど、山下公園に散歩にいけば、そこには必ず氷川丸があって、それをマリンタワーが見下ろしていた。
灯台として世界最高の高さを誇ったマリンタワーも、2008年に灯台機能が停止されて、なんだか抜け殻のようになってしまった。

みなとみらいの高層建築がなかったころは、わが家からマリンタワーの赤と緑の灯りが見えて、大晦日の夜0時には港に停泊中の船が一斉に鳴らす霧笛の音が、腹に浸みて除夜の鐘より馴染みがあった。
その霧笛の音も、高層建築に遮られ、外に出て耳をすまさないと聞こえなくなった。

横浜が、ふつうの地方都市になっていく。

国の全国満遍ない開発と統治の仕組みが、横浜から「特別を奪って」、世界一の港町も、いまや「むかしは」をつけないといけなくなった。
「日本三大港」といういい方すら、ハマっ子的には不本意なのである。
実質、横浜市営からいまは国営の港となって、衰退を続けている。

なんとか大型クルーズ船を誘致しようと、ベイブリッジの外側にも着岸できるように横浜市が投資をしている。
どんな投資効果があるのかはしらない。ただ、観光客は大型バスに分乗して、横浜「以外」の観光地に向かうことはしっている。

「横浜港の象徴」ともいわれる氷川丸だって、ホテルもレストランの機能もなくなって、ただの「博物館」になっていることも、衰退する横浜を象徴している。
「文化財」になったから、往年の椅子に座ることもできないで、もっぱら「見学」するだけの施設になっている。

動いていたモノが動かないままで展示されるのは、鉄道博物館だって同じだけども、客席には座れるようにもなっているし、おりあらばSLだって運転されることもある。

ならば、氷川丸を動かす運行計画はできないものか?

できない理由は山ほどどころではない「不可能」があるにちがいない。
そもそも、氷川丸がいまの場所に係留されるにあたって、スクリューが取り外されて、そのためにエンジン・シャフトも一部が撤去されている。

いや、そうではない、『宇宙戦艦ヤマト』のような改装を妄想したいのだ。

博物館の展示品は、陸上の「博物館」に移転させて、最新のテクノロジーを駆使した、氷川丸再生のイメージである。
新造ではなく、あくまでも「大改修」だ。

「復元」という技術は、新作よりも高度な技術を必要とする。
「街ごと復元」する技術に長けているのは、ポーランド人である。
連合国の空襲やドイツ軍の破壊で首都ワルシャワを筆頭に、ほとんどの街ががれきとなった「壊滅」を、驚くほどの根気と技量で、どの街も「旧市街」を完全復元させている。

こんな歴史をしらなければ、観光客はなんの疑念もなく中世からの美しい街並みを撮影するであろう。
しっていれば、その驚愕の復元に、細部までの撮影をするであろう。
この錆びは、本物なのか?復元なのか?すらわからない。

ポーランドの地方都市で泊まったホテルは、外観は典型的な社会主義時代のものだったから、到着したときには期待値がダダ下がりしたけれど、館内の「最新」には呆然とした。
その快適性は、従業員サービスの素晴らしさと融合して、いまだに忘れられない。

街並みを、復元する。
この費用をだれが出したのか?
こたえは簡単で、市民たちであった。
税ではない、寄付や寄贈である。

横浜市は、カジノ問題で市長リコールなどの反対運動がかまびすしい。
けれども、ふるさと納税で失った市税収入の確保のためという「名分」が市当局にある、と書いた。

ならば、ポーランド人のように、市民が資金と技術を出し合って、「妄想の実現」をしたらどうか?
自己犠牲の精神がすこしでも横浜市民に残っていれば、ではあるけれど。
それには、氷川丸という「象徴」がふさわしいとおもう。

もちろん、民間事業であって、公共事業にしてはならない。

ロボットのバカの壁はぶ厚い

小学生の頃の、『ロボットくんのハイキング』(コロムビア)という歌がなんだか耳についているのは、モダン・バレエをやっていた妹が神奈川県立音楽堂での発表会で踊った曲だからだろう。
頭にアンテナを付けて、キラキラした銀色系の衣装で、ガクガクと歩いていた。

中高年にはいまもあんまり変わらない、ロボットのイメージそのものだった。
上述の歌を鑑賞したいなら、国立国会図書館で聴くことができる。

『マグマ大使』はロボットなのか何なのかよくわからいでいたけれど、『ジャイアントロボ』は、そのものだった。ただし、人間(少年)がその都度命令することになっていたから、『鉄人28号』と大差ないようにもみえる。

人間型ロボットの「完成形」を観たのは、1978年公開の第一作『スターウォーズ』の「C-3PO」が最初だったとおもう。
「親友」という設定の、「R2-D2」の方がはるかにロボットらしいけど、ローラーの脚で砂漠とかどこにでも滑らかに移動できるのが不思議でもあった。

もちろん、「人工頭脳(AI)」としては、カメラと音声それに計算ユニットとして表現された、『2001年宇宙の旅』(1968年)がある。
もっとも、この作品を初めて観たのは、何度かあった「リバイバル」で、高校生の頃だったと記憶している。

小学校低学年のころに、初公開された映画とは到底おもえない映像美に驚愕したものだ。
原作者のアーサー・C・クラークが、試写を観てあまりにも原作と違うことに怒ったという話は、原作を読んで「なるほど」と合点した。

彼は、イギリス人で、スリランカの高級茶畑で有名な地域に移住していて、都会のコロンボに出てきては宿泊した、「ゴール・フェイス・ホテル」のロビーには胸像が置かれている。
ちなみに、このホテルには1921年、皇太子だった昭和天皇も滞在している。

さて、現実のロボット開発はどうなっているのか?
日本車の工場で、溶接工程に導入されたロボットが産業用ロボットでもっとも有名になった。
これは、天井からの「腕だけ」だったから、人間型を期待したらいけない。

もう二足歩行ができるようになったし、四足のものはかなりの運動能力をもっていて、その速度だけでなく、段差をものともしない。
それで、一部は軍事用に開発が進んでいる。
こんなものに殺されたくはない。

ただし、これらのロボットには、大弱点がある。
それは、「脳がない」ことだ。
プログラムされた通りに動くけど、人間の言語によるその場の命令も理解できない。だから、人間からの音声命令を理解して戦う、「ジャイアントロボ」は、いまも実現化できていない「超最先端」なのである。

集積回路の処理能力は確実に高まっているけれど、それは、「速い」ということに集約されているので、単純化すれば以前から「反応が速くなった」にすぎない。
つまり、「SF」作家が表現した、人間型で「C-3PO」のようなロボットは、「F:ファンタジー」のままなのである。

昨年の「ビジネス書大賞」を受賞した、『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』は、ファンタジーであることの理由を解説している。
著者の専門は、数学である。
すなわち、数学の限界を教えてくれている。

このことは、「科学の限界」をも意味する。

するとこのことは、じつは「人間の可能性」の証明でもある。
人間にはあらゆる可能性がある、というのは、ファンタジーではない。
このときの「人間」とは、その「頭脳」を指す。
いわゆる、「脳科学」が進んでいるとはいっても、全部が解明されたわけではない。

人間の「思考」こそが、唯一の理想的コンピュータの結果なのだ。

あらゆる経営資源のなかで、「ひと」だけが価値を創造するということの真実がここにある。
だから、どんな職業でも、ひとの能力を最大化させる方策を常にかんがえることの継続が、結果を支配するのだ。

「ビジネスは結果である」とはいうけれど、そのための「アプローチ(手順)」が正しくないと、よい結果にならないし、なりえない理由である。

日本経済衰退の最大の理由がここにあるとかんがえる。

だれが「ビジネスは結果」だといいだしたのか知らないが、「ビジネスは結果」だという「結果がある」ことを忘れては、実務はできない。
すなわち、適切な目標設定と、その達成のための適切なアプローチがなければ、「目標通りの」結果をだすことはできない。

わたしは、部下に「ビジネスは結果」だと言い切れるひとは、ビジネス・マンではないとかんがえている。
間違いなく、よきビジネス経験や体験を積んでいない。
もしそのような経験や体験をしていたら、かならず「ビジネスは段取りだ」というはずだからである。

囲碁や将棋の勝負師たちには、「一手」を打つたびが「ビジネスの結果」であって、その集積が「勝敗を決する」のだ。
すなわち、「考慮時間」のなかでなにを思考しているのか?ということが「すべて」なのである。

いかなる名人をコンピュータが負かしても、コンピュータは「一手ごと」での「最適」しか計算しないしできない。
どのタイトルをいえばいいのかわからない、羽生善治氏は、電脳将棋を「人間から見ると時系列がつながらずに全部が点」、「非常にまばらに見える」と、まさに「デジタル」の本質を盤面に見ている。

これぞ、「人間」なのである。

日本は「西側」に留まれるのか?

すごい「証言」が23日付けのユーチューブ・ニュース番組で語られていた。
質問者は、長谷川幸洋氏。
発言者は、河野克俊元統合幕僚長である。

第二次安倍内閣が長かったし、その「タカ派」という意味不明のレッテルから、あたかも国防の現場情報について、自衛隊の大幹部が官邸でいとも当たり前に総理ブリーフィングをしていると思っていたら、実際にこの「きっかけ」は、「民主党政権」になって実現した、と明言した。

それは、総理秘書官を防衛省からも出す、ということである。

ということは?
以前は、各省からやってくる、事務官ですら、防衛省出身だと官邸に入れなかったということで、許されたのは大臣級の議員ばかりであった。

もちろん、総理秘書官は、「文官」である。
「公務員試験」に合格して、高級官僚の卵として防衛省に入省したという「だけ」であって、たいがいの省庁からやってくる秘書官は「本省課長級以上、審議官以下」であり、総理秘書官は一般職ではなく「特別職」になる。

それは、総理の「ため」ではあるけど、裏返せば自省のための「出先」としての官邸だからである。
しかして、「初の」防衛省出身総理秘書官は、「特別職」をあたえられず、一般職のままであった。

初としては、これが限界か。

この人事をしたのは、「菅直人内閣」においてである。
もしや、あの政権の唯一の「得点」ではないか?
その後の第二次安倍政権によって、内閣に国家安全保障局が平成26年にできて、以来、制服組も局員として制服着用のまま勤務しているという。

ずいぶん前の、村山富市総理も、この管直人総理も、自分が自衛隊の最高司令官だという認識を持っていなかったのは、巷間にいわれた話である。
もっとも、いまとなって蒸し返している、尖閣事件の証言でも、当時の政権は腰砕けであった。

「シビリアンコントロール」の意味が、間違って「定義された」ことに原因があるのはもちろんだけれど、「高等文官」でさえも官邸の敷居をまたがせない、という「慣例」の元にある発想とはなにか?

ときは平安時代、朝廷を仕切ったのは貴族階級に限られていて、武士も「さぶらうもの」として、貴族の召使いであった。
すなわち、この時代のわが国には、「軍隊」が存在しなかった。
官職としての「大将」は、ほんとうに「名目」だけだった。

ひとを傷つけて「血を見る」こと自体が、「穢れ」だったのである。
それが、動物の「革」にも拡大適用されて、革製品の結集物である「鎧や兜」を身につけることも「穢れ」になった。

なんと、この「穢れ」は、当事者の武士にも伝染して、江戸幕府は、町奉行所の「同心」とか、『子連れ狼』の主人公、拝一刀の生業「公儀介錯人」も、形式的に「一代限り」としていた。
「穢れた家系」を武士として永久にお召し抱えすることすら、雇用主たる将軍家が「穢れる」ことをおそれたからである。

それで、彼らの相続は、次世代の後継ぎが、あらためて「初めて」その職に就くという面倒くさいことをしていたのである。
だから、ふつうの武家における「跡目相続」とはちがう。
すなわち、彼らは「武士」ではなかったのである。

すると、現代において、わが国は、国家として自衛官をどんなに高級幹部であっても、「武人」として扱っておらず、そのひとたちを事務的に支配する、「内局」の事務官でさえも「穢れ」の対象にしていたのである。
なるほど、左翼民主党政権こそが、この「宗教的概念」を「開放」できた。

あたかも、フランス革命が、キリスト教会を無残な弾圧をもって制したのと似ている。
さらに、「リアル感の欠如」で、憲法9条や自衛隊を語っていたことに、政権を担って、なにか反省したのか?と問うても、変化のかけらもないのも、ロベスピエールの革命政府に似ている。

このブログで指摘しているように、二極化した世界は、日々対立が激化していて、もはや戦闘がないだけの戦争状態にある。

双方の「本気」は、冗談ではない。
前に書いたように、「コウモリ君」は許されないのは、双方ともに、許さないからだ。
米ソ冷戦時代のように、どちらからも「美味しいどこ取り」はできないのだ。

しかし、有職故実と過去の成功体験が、とっくに条件となる事情の変化という「リアル」を無視させて、日本は特別だ、と根拠なく「美味しいどこ取り」ができるとかんがえていないか?
これは、完璧な「甘えの構造」に見える。

すでに「臨戦態勢」にあたって、両国が「立法」による措置を加速化させている。
一方の国に議会がない分、すぐに法をつくれる有利はあるものの、わが国の企業にあたえる影響度では、アメリカ側の法も強烈度が高まっている。

この中に、「アメリカへの輸出禁止」や、「アメリカ企業との取引停止」を謳ったものがある。
だから、この戦争の被害を被らないためには、「軍事情報」としての、「経済法」をチェックしないといけない。

そして、わが国の企業経営者に、この情報を正しく伝えるひつようがある。

これを、防衛省・自衛隊がやるのか?
外務省か?経産省か?国家安全保障会議か?
かつて例のない、「経済制裁法体系」という外部経営環境が構築されている。

対峙する国での工場を拡大するという方針を打ち出した、世界最大の自動車会社が、もしや、アメリカ合衆国への輸出禁止措置がとられたらどうなるのか?
あるいは、インテリア(家具)小売業大手の企業は、企業内サーバーで話題の電子機器会社の製品をつかっているけど、制裁対象にならないのか?

おなじく、外国人相手なら売り上げが「輸出」にあたる国内ホテルでも、これら法体系が適用されれば、アメリカ政府職員の宿泊などは制裁対象になりうるのである。

27日のロイター通信によると、新首相は来月初旬、来日するアメリカ国務長官と会談し、その後、王外相も来日する予定になっていて、両国からの綱引きが日本で開始される。
例の「国賓」問題が蒸し返される。

大丈夫なのか?

相手国に「穢れ」という概念がないことだけが救いであるけれど、論理的に「制裁される」ということでの「股裂き」になるリスクが高まっているし、世界の注目が集まること必至だ。
すなわち、「西側」なのか?という最大の選択肢への興味である。

かつての日本、台湾は、とっくに態度を決めている。
とうとう、わが国は、台湾人から尊敬されない国に落ちぶれるかもしれない。
草葉の陰で、岩里政男(李登輝)氏も見つめている。

性風俗店の逆襲は成功するか?

一昨日の23日、関西の性風俗店が、「持続化給付金」と「家賃支援給付金」の対象から性風俗事業者を一律に除外するのは「憲法違反」だとして、国などに対して「東京地裁」に提訴した。

報道だけではどうして、「大阪地裁」でないのかの理由はわからないけど、わたしの実務経験でも、じつは目に見えない「法の運用」における「全国統一」がないのも理由なのではないかと疑う。
逆にいえば、あんがいわが国の「法治」は、地方の事情に寛容なのである。

「関西の」ということだから、府県でいうとどこなのかも伏せて報道されている。
もっとも怪しいのは「大阪府」だけど、記事からは断定できない。
でも、国などに対して提訴したのだから、この「など」をいわないのは、やっぱりおかしい。府県のどこかも訴えられて「被告」になったはずだからである。

原告は、「憲法違反」を理由にしているので、一審では決まらず最高裁までを覚悟しているだろう。
すると、わざわざ東京地裁に提訴したのは、大阪地裁と大阪高裁に信頼が置けぬ、といっているようにとれる。

これは、けっこう重大な話である。

「三権分立」という建前が、ほんとうはかなり怪しい状態にあるのがわが国だ。
立法府と行政府の立場の逆転については、しつこく書いてきた。
また、司法府が深い眠りについていることも書いた。

「法治」の守護神は、「司法府=最高裁判所」にあるはずだけど、とにかく「何もしない」という伝統だけは戦後一貫して保守している。
この点で、わが国泰明期の「高等法院」や「大審院」は政府の介入を嫌ったので立派だった。

本来、地方裁判所は、管轄する地域の行政や議会が制定した条例についての「憲法審査」をしないといけない。
高等裁判所は、地方裁判所のチェックをおこなうためにあって、最高裁判所は、これの再チェックだけでなく、国会で制定された「法律」と国家行政当局の「憲法審査」をすることが業務でないといけない。

ところが、決まったことを司法から横やりを刺されるのが嫌だから、決める前に「審議」するのが、内閣法制局の役割になった。
これは、「検閲」で、修正を指摘されたり「発禁」とか「伏せ字」になることをおそれて、「自主検閲」というより厳しい検閲をおこなうのと似ている。

そんなわけで、最高裁は、内閣法制局に任せることで、居眠りができるのである。
しかし、立法府の役割がなくなる、という意味では内閣法制局の存在は憲法違反にならないのか?

衆参両院にちゃんと用意されている、「法制局」の開店休業がこの証拠だ。
「政府提出法案」が正常で、「議員立法」が珍しい、のは、近代民主主義国家として、「異常」なことである。
国会議員しか法律を制定することができない、のに、ただの「審議機関」になり果てた。

この責任は、最高裁判所にある。

裁判所も人間の組織であるから、その最上位組織が腐れば、下部組織も当然に腐る。
裁判官の人事と評価は、最高裁判所がやっているから当然だ。
地方裁判所が、管轄する地域のチェックをやめたのも、自治省=総務省の役人が地方行政を牛耳っているので、安心して居眠りができるのである。

こうして、行政当局の中にいる、高級官僚が国家も地方も支配する構造が完成した。
わが国の司法は、行政府に「完全依存」を決め込んだのだ。
なので、国民から訴えがない限り何もしない。

およそ近代民主主義国家の憲法とは、国民から国家・政府への命令書、なのだけど、近代憲法を自分たちで作った感覚が国民に「ない」ものだから、なんだか勝手に運用されても国民が気づかない。
それで、とうとう憲法を守るための組織が腐敗臭をあげているのだ。

性風俗店があるのは、経済でいえば「需要がある」からである。
すでに、男性向けのみならず女性向けのお店もある。
これは、法律でいえば「風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)」が適用される。

開業申請の窓口は、店舗を設置予定の所轄警察署生活安全課で、許可は都道府県の公安委員会である。
今回の原告は、「無店舗型性風俗特殊営業」の「1号営業」にあたるデリバリーヘルス運営会社である。

弁護団は、「運営会社は法令を遵守し、納税し、反社会的勢力とも関係していない」、「不平等で職業差別にあたる」としていて、会社の代表は、「国が性風俗業で働く人の尊厳を無視している」、「職業差別の意識が変われば嬉しい」とコメントした。

キーワードは、「職業差別」である。
上述の「1号営業」には、以下の「定義」がある。

人の住居又は人の宿泊の用に供する施設において異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業で、当該役務を行う者を、その客の依頼を受けて派遣することにより営むもの。

今回の原告は、「会社」なので、後段部分があたる。
「客に接触する役務を提供」するひと本人ではなく、「客の依頼を受けて派遣することにより営む」方であって、無店舗なのに「家賃」とは、事務所のことをいうのだろう。

また、「役務(えきむ)」とは、「サービス」のことである。

国や地方自治体が誘致に熱心な、「カジノ(統合型リゾート)」にも、性風俗サービスが内包されている。
もし、カジノが開業していたら、どうするのだろうか?も突きつけている。