ナンセンスな「コロナ粛正」

政治家が「小粒になった」のは、昭和の時代後半からのことであった。
いまは、政治家が「いない」時代になった。

わが国に議員は、万人単位でいる。
しかし、地方から国政レベルまで、どこを探しても「政治家がいない」のだ。

「大宰相」なんてひとは、本人の「意志」の有無が左右するから、もう出てこない。
国民のために政府を運営する意志のことである。
きょうび、自分たちのために政府を運営する意志をもった集団と化した。

つまり、「政治屋」はたくさんいても、「政治家」が絶えたのである。

コロナ戒厳令下にあるいま、バーやクラブにいって楽しいひとときを過ごした政治屋が、粛正されている。
離党ではすまなくなって、議員辞職に発展してきたのは、潔癖症がなすメカニズムによる。

はたして、国民のおおかたの反応は?といえば、正直、「どうでもよい」のである。
なぜなら、こうした議員に対して、国民が、国民のための政治家だと認識していないからだ。

おそらく、議員本人は、そんなことはない、自分はかくかくしかじか国民のために政治活動をやってきた、と「常識」を述べるだろう。
しかしながら、その「常識」が、国民にとって、国民のための政治活動だとぜんぜん認識できないのだ。

このギャップは、どうしてできたのか?
それはあんがい単純な仕組みだけれど、大がかりで大規模だから、絶望感さえ醸し出す。
行政事務官たちの集団独裁を、国民は感じ見ているのである。

アメリカ風にいえば、「日本版ディープステート」だ。

これを修正して正常化させるには、政治家集団による巻き返しが必要だけど、集団どころかひとりもそんな意志をもった人間がいないから、議員が徹底的に「小粒化」して、とうとう目に見えないミクロンとか、オングストローム単位にまで縮小してしまった。

これをもって、「いない」というのである。

トランプ氏を強く支持する日本人をネット上に多数見受けるのは、トランプ党日本支部が欲しい、という切実なれど、幻想をみる快さがあるからだ。
つまり、日本政治マーケットにおいて、既存政党のポートフォリオは、完全に間違っている、という意味だ。

だとすれば、粛正対象になった議員は、静かに粛正されるのではなくて、大騒ぎして抵抗すべきであった。
・第一に、コロナパンデミックの科学的論拠が皆無なこと
・第二に、自粛警察が全体主義を促進することの警告
・第三に、全体主義化のメカニズムの説明

最初の「抵抗」は、しつこいほどこのブログで書いてきたし、二番目の話もおなじだ。
三番目について、ひと言でいえば以下のようになる。

家庭内や、小さい組織内だけで語られるローカルだが伝統的な価値観に基づく「道徳心」が、社会全体に広がって、それが社会構成員の全員に「強制」されるようになると、たちまちにして「全体主義」へと変容する、ということだ。

だから、いまこそ抵抗が必要なのである。

ややこしいかもしれないが、全体主義を防止するためのメカニズムは、この逆の発想にある。
それは、利己心が結果的に利他となる、という「逆説的」かんがえ方だ。
計算の順番を間違えると答が違う、かけ算と足し算がおなじ式にあるときのようなことが社会で起きる。

じつは、資本主義が生まれた原因といわれているかんがえ方も同様なのである。
厳しい信仰をもったひとたちが、「まじめに」自分の職業に没頭したら、個々人が「儲って」しまった。そこで、その儲けをふやすべく他人に投資したら、社会全体に「よい」利益をもたらしたという「真理」なのである。

つまり、ハイエクが「発見」した、「カタラクシー(交換)」メカニズムの発露としてかんがえれば、今回いう「抵抗」とは、ぜんぜん「あり」の、きわめて論理的行動となるのである。
ハイエクをしらない政治屋の見識の薄さが、粛正される側になる「仇」となったのは自業自得だ。

あゝ、もっと勉強しておけばよかった。

でも、残念なことに、偏差値で進学先学校を選ぶと、なかなかハイエクを教えてくれる先生に当たらないのが、わが国「集団独裁」の恐ろしいところなのだ。
かんたんにいうと、集団独裁を推進したいひとたちばかりの「東京大学」を頂点に、偏差値でいう自分の「限界」を目指してはいけないのである。

すると、困ったことに、高校生が自分から将来いったいどこの誰に師事するのか?を現役のときに決めてから、その師がいる学校を受験するという手順になる。
こまかくいうと、その師が、別の学校に転籍してはこまるので、教師の人事情報も受験の前に必要になる。

つまるところ、いまのように、偏差値でいけそうな大学を選んで受験して合格するという流れにあっては、教師との出会いも「偶然」となる「仕組み」になっているのである。
これは、「情報の非対称性」そのものの「市場競争」を強いられていることを意味する不幸である。これが、「偏差値偏向教育批判」の本質だ。

もちろん、ひとの出会いは偶然性があるものだけれど、めざす先生の周辺に、偶然の出会いがあることが「高等教育」としては望ましい。
すると、いまの「高等学校」がぜんぜん高等ではなくて、予備校化している批判の意味もみえてくる。

とにもかくにも、学業エリートを政治家として選んではいけないのだ。

日米共通の「ポピュリズム」

「ポピュリズム」といえば、「大衆迎合主義」と訳して、批判の対象となる政治用語である。
たいがいの「用語」には、「対義語」があるのだけれど、こまったことにポピュリズムの対義語が確定していない。

あるひとは、大衆に対する「エリート主義」をあげるし、あるひとは、大衆の凡庸さに対する「知性主義」や「哲人政治」をあげる。また一方では、リバタリアニズム(自由至上主義)をあげるひともいる。
このように、「確定していない」のである。

対義語が確定していない、ということは、もとの用語の意味も確定していないことになって戻ってくる。
つまり、民主主義において、「ポピュリズム」とは、ほんとうに批判の対象となるものなのか?と。

これを逆転させると、ポピュリズムが民主主義を形成している、ということになる。
なぜなら、選挙において多数票を得ないと、政治家は政治家としての活動ができないし、この多数票を投じるのが「大衆」だからだ。

すると、「大衆とは何者か?」が問われる。

いまここで議論している「大衆」は、いまの世の中での人々を指す。
すると、その「起源」は、近代工業社会にあるのだ。
つまり、「都市労働者」がその中核をなす。
だから、近代の「大衆」とは、近代がつくった社会階層でもある。

この点は、「観光客の定義」と対応する。
近代になって、はじめて「観光客」がうまれたのは、やはり都市労働者の存在が欠かせないからだ。

都市労働者は、一定の賃金を得るので、安定した生活者となる。
「貧・富」、所得の「多・少」という意味ではない。
日給でも、週給でも、はたまた月給でも、あらかじめ提示された給金を提示されたままに受け取ることができるから、安定するのだ。

農業社会ではこうはいかない。

種まきから収穫までの時間と、収穫してから収入になるまでの時間を足しても、あらかじめ提示されるものは何もない。
これに、天候の偶然も加わるから、おもに太陽活動周期による影響で、豊かな時代とそうでない時代とになったのだ。

太陽活動周期の変化スピードに、人間の農業技術が追いつかない時代なら、おなじ農作業をしていても、収量は劇的に変化する。
しかし、都市労働者という層には、農産物物価というかたちで影響しても、収入の安定があるのは、賃金も上昇するからである。

日本の場合、支配層であった武士たちが困窮したのは、武士が実質都市労働者ではなくて、自分の「領地」や「知行地」における収量と現金化の相場に依存していたからである。
つまり、支配層の生活基盤が、もっとも脆弱なのであった。

ここに、ヨーロッパ貴族の精神基盤である、ノーブレス・オブリージュ「的」な、しかし似て非なる「武士道」が独自にうまれたのだ。
しかも、その根底に、外様の石数に比して貧弱な親藩を、幕府内で圧倒的権力を与えることでバランスさせた巧妙があった。

欧米の発想なら、あり得ない。
強いものが独り占めするのを当然としたからである。
強いはずのものが経済的に小さくて、そのかわり権力を与えるとは、権力があるものが強い、という発想の裏をかくから巧妙なのだ。

これを強制した、将軍・徳川家康の絶対的強さは、もっと強調されていい。
しかも、歴代将軍、270年間も、この強制が続いてだれも反抗しないのだ。
だから、江戸時代をポピュリズムとはふつうはかんがえない。

なのに、都市労働者という層ができあがっていて、はやくも元禄時代には、大衆文化が花開くのである。
そして、金銭を積み立てる「講」をつくって、この階層がこぞって、富士や伊勢などに観光旅行をしていた。

この「素地」が、わが国で近代工業社会を成功させたことは、間違いない。

そんなわけで、明治になってすぐに、「自由民権運動」が起き、大正期には大衆に広がるのである。
すると、なんだかいまよりずっと、大衆がダイナミックなのである。
この活動の精神基盤が、「日本教」であったと何度も書いた。

人智を超えた絶対の存在=Godが、支配下にあるすべての人間を「平等」にする。「神の前の平等」である。
これには、「Godは実在する」という、「信仰」が社会の構成員全員の常識としていないと成立しないから、「平等」の前提に「信仰」がある。

トランプ氏の「お別れ演説」でも、このことが強調されたのには、伝統的価値観を基盤にする彼と、彼に投票したひとたちの共通概念としての意味があるから「重い」のだ。

だから、自由の概念の最優先に、「信教の自由」があるのだけれど、日本人の宗教に、Godがないから明治のひとが困ったのである。
江戸期には、「東照神君・家康」がちゃんと設定されていた。

そこで、天皇をGodに差し替えてすえる、「日本教」を発明した。
しかし、天皇は生身の人間だから、「現人神(あらひとがみ)」としたのであった。

この、近代日本人の概念機構を、根底から破壊したのがアメリカ民主党政権だった。
明治教育制度の最後、昭和一ケタ世代までが日本教徒だから、この世代の死滅で、いよいよ薄っぺらな「ポピュリズム」だけが、蒸発した皿に残ったカスのようにみえてきた。

では、ポピュリズムのマーケットとしてみるべきところはなにか?といえば、いまさらながら圧倒的多数の「無党派層」なのである。
この層が、日本教徒の遺伝子をもっているのだ。
にもかかわらず、「カス」が跋扈している。

まるでなかったことにされた、トランプ氏へ投票した8000万票のようだけど、日米の共通点がここにある。

大荒れの「七草」

毎年思うのは、七草の「はやさ」である。
大晦日から元旦・お正月三が日が、あっという間に過ぎ去ったことを確認するからである。
でも今日は、旧暦では11月24日で、今年は2月12日が元旦、なので、七草は2月18日になる。

つまるところ、明治5年以前の日本人は、まだ正月どころか師走すら迎えていない時分なのである。
自然に生えるはずがないから、温室育ちの七草で粥をつくることになったのだ。

ところが、2月18日前には自然に生える時期になるけど、こんどは、「七草」を手に入れられない。
野菜コーナーは完全無視してしまうし、わざわざ田園に出ても、他人の田畑で勝手に摘みとることもできない。

そんなわけで、いかに伝統的風習だといっても、「自然」との「共生」とは、とっくに人工的になっている。
「旧暦」を利用した、日本旅館がもっとあっていい、というのはこんなところに日本人を「偲べる」からである。

商品としての「七草」をセットで装飾するから、店頭に配置されるわずかばかりの「野菜」が、妙に高価になっている。
だからきっと、これを見て「あゝ、もう七草か」とは思うけど、買わない家庭も多かろう。

なんだか「うさんくさい」からである。
じっさいに七草粥を食べたことがある日本人の方が、少ないのではないか?
と思うのは、以上の理由による。

新年早々の「うさんくささ」は、なんといっても二度目の緊急事態宣言だ。
タイミング的には、遅きに失している感があるけれど、昨日6日のユーチューブ『松田政策研究所』における、主宰者の松田学元衆議院議員と、あの大橋眞徳島大学医学部名誉教授(細菌生物学)の対談が配信されている。

コメント欄にも見られる、「真打ち登場」なのだ。

大橋名誉教授は、ご自身でもユーチューブ番組を配信されていて、一般人にもわかりやすい、細菌生物学者としての「授業」をしている。
しかし、世の中には困ったひとがたくさんいて、「バッシング」に執念を燃やすのを使命にしているようだ。

これが、「活動」やらになり、国立大学法人である徳島大学への攻撃となった。
「名誉教授」の剥奪をせよという要求に、大学はHPで「本学とは関係ない人物」と応じているから驚いた。

上述の対談でも紹介された下記の書籍は、ドイツの事例を紹介したもので、納得できない市民が多数、ベルリンで大規模デモを実行し、一部が暴徒化した事件のきっかけになったという、「ベストセラー」の翻訳なのだ。

一般人はもとより、緊急事態宣言で商売や生活を痛めつけられることになる、「業界人」こそが読むべきだ。

ここには、ドイツ政府による、国民を「恐怖であおる」政策として、会議室での実態も暴露されている。
指示内容が、もしやわが国でも当てはまらないか?と思わせるのは、「政府依存」という両国民の特性が、かつての「同盟国」だったことを示唆するからである。

かつて、ドイツの医学が世界最高といわれ、日本の医師もカルテにドイツ語で書いていたのは、森鴎外を代表にする陸軍省と旧制東京大学が、ドイツ医学を「採用」したからであった。
陸軍に対抗した海軍は、これを拒否して、英国の「臨床医学」を採用した。

「病原解明」にこだわるドイツ医学と、いまそこにある病人を治すことにこだわる英国臨床医学の対立は、いまもわが国の「白い巨塔」の伝統になって、医系学閥を形成している。

 

EUの中核をなすドイツと、EUを完全離脱した英国のどちらも、パンデミックの対処に苦慮しているのは、この「病気」の根本的認識のうさんくささを、ねじれた政府が利用している共通点があるからだ。
さいしょからねじれた発想をするフランスは、戒厳令手前の強制を強行して恥じないのは、フランス革命を正当だと信じる若き大統領の本分である。

根無し草になったわが国政府=政権は、ただの浮き草だから、いまだに「ヨーロッパ先進国」に右へならえして、やっている感だけでアリバイ作りをしているとは、何度も書いた。

本来ならいつも通り、アメリカにならえするはずなのにしないのは、全米で半数以上になる共和党の州が「一切強制をしない」からである。
ただし、都市部が主体の民主党の州は、最高裁から違憲判決をくらうレベルの「強制」と「分離」を実行している過激があるから、リスクを回避して欧州をまねるのだろう。

全世界が感染した、「PCR検査陽性=感染者」という発想が、いまや都知事は「感染者=患者」と定義を勝手に変更している。
医師でも、感染学者でもない、むしろ学歴詐称がうたがわれるひとが、どうしてこんな重要な「定義変更」をしても、だれも文句をいわないのか?

その定義変更に中央政府が乗りかけるのは、まさか犬の「マウント行動」とおなじか?

こういうものを「エビデンス」というのである。

ワシントンの混乱で、香港の民主派が大量逮捕された。
人間のこころにある「ウィルス」は、時空を飛ぶことを証明したのである。

歴史的な、大荒れの七草となった。

トランプ「三選」は正夢か?

合衆国憲法の擁護者を自称するトランプ氏のことだから、誰もが「三選」はないとおもっているはずである。
その前に、まだ「二期目当選」を果たしていないから、新年早々の世迷い言に聞こえるかもしれない。

しかし、現地では6日、日本では七草か翌8日には、何らかの決定があると予想されている。
もちろん、今月20日正午の大統領就任式までには動きがあるのは確実だ。
もはや実態として、トランプ氏の再選は決まっていると思われるので、バイデン氏の「敗北宣言」が先に発表されるかもしれない。

昨年末、トランプ氏は「コロナ対策予算案」に、条件付きで署名した。
国民ひとり600ドルの給付金を2000ドルにする条件のほかに、いくつかの条件をつけ、これを下院民主党のペロシ議長が呑み込んで、再決議したというけど、条件全部を呑んだわけではない。

それで、下院を通過したこの案に、上院の共和党院内総務が待ったをかけた。
彼は、バイデン氏に祝意を送ったことで、家族の背景からあちらの国との疑惑が吹き出した人物だ。

待ったの内容は?といえば、なんと、トランプ氏のいう条件をぜんぶ呑み込む案への修正要求なのである。
これには、TEC企業への優遇措置としてしられる、通信品位法230条の撤廃問題が含まれている。

一体全体、この手のひら返しの意味は?
すでに、トランプ大統領側との、「司法取引」の噂が広がっている。
加えて、ホワイトハウスは、暮れにいったん1月4日までの「引っ越し」の準備と1月の給与は日割りだと内勤者に発したが、その翌日に「全面撤回」して年を越している。

大統領選挙における介入の証拠が相次いで発覚したアジアの大国では、これだけでも頭痛の種だが、この「予算案」には別の法案も忍ばせてある。
チベットのダライラマ選定へのあちら政府の不介入と、台湾への武器売却通常化に関する法案で、さらにチベットの首都ラサに領事館設立を法で要求している。

なんだかもう、あちらの足元を見据えたかのような一方的な「法案」なのだ。
もちろん、「内政干渉」だというお決まりの反応があるけれど、その国のトップが脳動脈瘤で入院という情報もはいってきた。
よほどの頭痛が発症させたのか?

しかも、入院前にはロシアの大統領と電話会談したとか、入院中の対策室設置の話には、政治局常任委員がひとりも関与しないで、党序列も知れぬ本人の弟が任命されているなどの不思議情報がある。

もしや、すでに「失脚」したやもしれぬ。

党の命運をかけた、アメリカ大統領選挙介入という一大作戦の失敗の責任をとらされたとすれば、辻褄があう。
すると、とんでもない権力闘争が、彼の国ではじまったということだ。
東京での年越しのジルベスター・コンサートが『運命』だったのは偶然か?

一方の首都ワシントンD.C.は、トランプ大統領が初めて自ら発起して、新年6日午前、上下両院合同議会での選挙人投票の開票前に、大規模集会を実施することになっている。
すでに、150万人という「推定」が出ていて、史上空前の規模となる。

トランプ陣営のHPには、集会参加者のための「連絡掲示板」に多数が投稿している。
一緒に車に乗るひとの募集や、ガソリン代支援の申し出、あるいは、自州からのパレード出発情報などなど。
はやくもニューヨークに、支持者たちの車が集結しているともいう。

ワシントンD.C.には、こんな多数が泊まれるホテルはない。
周辺の州の宿泊施設は、さぞや大賑わいかと思いきや、民主党政権の州ばかりで、みごとな「妨害」を州政府がやっている。
レストランさえ店舗営業させないということだから、ホットドッグ屋台が繰り出して一儲けするチャンスと見るのがアメリカ人だ。
古今東西、左派政権というモノが民衆の味方ではなく、弾圧をするモノだという証拠が、ここにもある。

ライブ放送は「必見」なのだけれど、わが国のマスコミは、いつものように無視するのか?それとも手のひら返しをするのか?
150万人を前にして、「千人以上」とか「1万人以上」と特派員が現地報道するのか?が目撃できる楽しみがある。
群衆の映像に無言で通す「案」もあるだろうから、エンタメと化している。

日本国憲法にはない条項がアメリカ合衆国憲法にはあって、政府がおかしなことをしでかしたら、国民が銃をとって、そんな政府を転覆させてよいことになっている。(修正第2条)
わが国のちっとも進まない、憲法改正論議に、だれもかんがえたことがない条項があるのだ。

そんなわけで、トランプ政権は二期目も続くことが「正義」になっている。

どういうわけか、年末のBSプレミアムで、『ゴッドファーザー』三部作を28日から連夜で30日まで放送した。
これからはじまる、「ワシントンの沼の水抜き作戦」を暗示して、NHK的面目を保ったのか?と疑う。

反トランプの急先鋒、CNNでさえ、「今年最も尊敬された男性」のトップにトランプ氏を挙げて、妙な雰囲気をつくりだしている。
彼らはこれまで、オバマ氏を連続選出しているのだ。
8000万票を自称するバイデン氏が、3位に挙がったのはご愛敬か?
すでに、トランプ氏はリンカーン大統領をしのぐ「偉大な大統領」といういわれ方をしだした。

ならば、「三期目」はあるのか?

前にも書いたが、フランクリン・ルーズヴェルト政権は、やたら長かった。
空前絶後の「4期」もやって、任期中に死去して副大統領から昇格したトルーマンは、再選してもう1期を務めた。
とはいえ、戦後の1947年に可決して、51年に成立した、『憲法修正第22条』で、大統領の任期は2期までとなったのだった。

つまり、この憲法修正条項は、トルーマン政権下にあって可決・発効したのである。
それまでも、2期とされていたのは、初代ジョージ・ワシントンが、3期目を固辞したことによる。

この不文律を、戦争を名目に伸ばしたのがルーズヴェルトだった。
いまでは、「狂人」という評価が定着しつつある。
だが、むしろ、スターリンと手を組んだ、悪魔的な戦略家なのであった。

もう1期4年で、「ワシントンの沼」を掃除できても、宿敵の「党」を壊滅させることができるのか?
もしや「三選」というのは、アメリカ人はもとより、我々にとっての重大な「正夢」なのである。

「石鹸」のはなし

年齢を重ねてきたら、だんだん自分が「敏感肌」なのだと気がついた。
今日は晦日、1年の汚れを石鹸で落とすにはちょうどいい。
それに、初風呂の石鹸を求めて準備するのも楽しい。

わたしのばあいは、特に「荒れる」というまでではないけれど、肌がヒリヒリしたり、痒くなるのだ。
それで、ためしに石鹸を変えてみたら、すぐさま効果があって、ヒリヒリも痒くなることもなくなった。

男性だと、洗顔といっても重要なのはひげ剃りだ。
わたしのひげは柔らかくて巻いているので、電気かみそりだと剃り残しができる。それだから、もっぱら「ウエット・シェービング派」なのである。
すると、シェービング・クリームをどうするのか?という問題になる。

夏ならば、スプレー式のものでいいけど、冬になると引っかかる。
それで、ひげブラシを湯につけて一度顔を濡らして蒸らす。
ここで、石鹸の出番なのである。

ひげ剃り用の粉石鹸は、プロ用のものを購入したら、もしかしたら一生分あるかもしれない。近所の床屋さんに頼んで、粉石鹸を振りかける入れ物を注文した。ピン・キリだけど、べつに業務用の素っ気ないものでいい。
600円だった。もちろん、これはこれで悪くない。

しかしながら、あんがいと朝のひげ剃りタイムは、それなりの儀式的要素もあって、ただ剃れればいいという合理性だけではつまらない。

そんなわけで、いろんな石鹸に浮気をして楽しみにするのである。
気になるのは、固形石鹸にひげブラシを直接あてて擦って泡立てるやり方だ。
『ローマの休日』で、グレゴリー・ペックがやっていた。
彼の石鹸の泡立ちが、ものすごくよいのが気になるのだ。

どうしたらあんなに泡立つのか?
ふつうのお風呂用石鹸に見えるけど、どこのメーカーの製品なのか?
もちろん、あの泡は「演出」で、シュービング・クリームを追加で振りかけたのかもしれないけど、確信がない。

理容製品の問屋に行って、シェービング用の固形石鹸のことを訊ねたら、「絹の石鹸」を紹介された。
さっそく購入してつかったら、どういうわけか顔に付けただけでヒリヒリするのである。

いまでは、めったに行かなくなった有名デパートの男性専門館で、ステンレスのカップに入った、フランス製のシェービング用固形石鹸を見つけた。
こちらも、無香料の天然素材が売り物ということだった。
さすがに、ヒリヒリはしないけど、脂肪の匂いがする石鹸であるから、なんだかちょっとだけ石鹸香がするプロ用の粉石鹸に分があるように思えた。

あるとき、ロンドンの理容店のはなしを聴いた。
世界最古という店がある。
なるほど、紳士の国だから、きっとシェービング石鹸があるにちがいない。
でも、ロンドンに赴く用事がないので、ネットで検索した。

すると、「DR Harris」でヒットした。

あらためてみたら、なんだかお値段が一ケタ違うような気がする。
わたしが購入したのは、ずいぶん前である。
それでもそのときも、ポチるのにかなり迷ったお値段だった。
しかしながら、お気に入りの逸品なのである。

念のために添えれば、ひげ剃りだけに使うので「えらく長持ち」することは確かである。

女王陛下の在位記念にご夫妻のために調合されたという「香り」は、なんとも優雅なものだけど、その強度が「お香」のようにほのかなので、いやみがない。
もちろん、ヒリヒリなんてしない。

ロンドンに行く用事はないけれど、なんかのおりにロンドンに行くことになったら、是非とも専門店に寄ってみたいものである。

顔から身体に移動すれば、ボディーソープをどうするか?ということになる。
暑い夏は、ひんやりするタイプのボディーソープを使うけど、晩秋にもなれば、それでは寒い。

そこで、登場するのが、やっぱり固形石鹸なのだ。
典型的なお風呂の石鹸が、いちばん好きなのだが、ここでも浮気心がでてきて、いろいろと試している。
さっぱり感だと、柿渋石鹸がお気に入りである。

加齢臭が気になるおじさんとしては、自分ではわからないから効果のほどは自覚できない。
それで、パッケージの柿の絵に、売手の思惑通り釣られるのである。
いわゆるお風呂の石鹸とはちがう、ややつっぱる感じに好感している。

世界最大の塩鉱山があるポーランドは、石鹸の名産地でもある。
国営だった石鹸会社(Biały Jeleń:ビヤウェイェレン:「白鹿」の意で絵が目印)は、いまも健在で国内では1番の有名メーカーでもある。

日本でいうコンビニに匹敵する、ドラッグストアでの定番でもあるのでわざわざお土産にするひとはいないかもしれないけれど、ワルシャワに40年以上在住する方からのお薦めとして、30個持ち帰ってきた。

現地では、1個100円程度だけれど、その品質はたいへんよく、やはり敏感肌の家内のお気に入りである。
まもなく在庫が切れてしまいそうなのに、日本では残念ながら入手困難である。
なくなる前に、代用品を探すことになった。

それで、いまは「アレッポ石鹸」に落ち着いている。
シュメール文明から続く人類最古の伝統製法の石鹸で、基剤はオリーブオイルだけ、出荷までの熟成期間(乾燥させて水分を抜く)は1年以上だ。
これは、頭も洗える固形石鹸なのだ。

アレッポはたまたまシリア領で、経済制裁の対象地にあたるから、製造工場が国境をこえて、いまは概ねトルコでつくられている。
そのトルコは、1人あたりGDPでわが国の上に位置する「先進国」である。

アラビア語の大きな刻印には、「サボン アレボ」とある。
これで、「シャボン」の語源がアラビア語の「サボン」だとわかる。
シュメールでは、なんといっていたのか?

アレッポから数千年ほど後の、ようやく9世紀になってから製造がはじまった、「マルセイユ石鹸(サボン ド マルセイユ)」は、その後、ルイ14世太陽王御用達でも有名になった。
こちらも、オリーブオイルが基剤だけど、きれいな緑色は熟成させていないものだとわかる。

でもサンダルウッド(白檀)の香りがする石鹸は、枕元に置くと寝付きがよくなるというし、王侯貴族はベッドの下に削って撒いて、その香りで防虫剤にもしたという意外な用法がある。

意外すぎて勇気がないのは、歯磨き。
石鹸を歯ブラシにつけるという発想はなかったけど、専用の歯磨き剤がない時代にはやっていたらしい。
ゆすぎが大変そうだけど、食品でもあるオリーブオイルが基剤だから毒ではない。
でもやっぱり、これは試すのを遠慮したい

そんなわけで、カンナで削って使い分けをさせる入浴施設や宿があっていいともおもう年末なのである。

郡是を是として近江絹糸を見る

2020年も押し迫ってきた。
ことしは、日米で「フェイクニュース」が爆裂した「歴史的」な年だった。
アメリカは大統領選挙。
わが国は、コロナ禍のニュースである。

島国の特性で、事実上の「鎖国」を決めたわが国に、外国人観光客が入国することはなくなった。
業務であっても、2週間も隔離されるから、めったに来ない。

それなのに、WHOのいう通りにして、患者数と感染者数を「わざと混同」させ、あたかも「パンデミック」だといいふらすことを、誰も阻止しない破壊工作が行われている。

コロナ禍を世界で一番克服している台湾が、WHO未加盟なのが「うらやましい」ことになっている。
そのWHOの最大資金提供者が、ビル・ゲイツ財団だから、どこが「国連専門機関」なものか。

そんなわけで、あんがい重要なニュースが隠れてしまったのも、今年の特徴なのだ。
マスコミの機能不全が原因だから、隠れたのではなくて、隠された、という方がしっくりくる。

かつてわが国経済を支えた一大産業の「繊維業」で、5月に老舗が事実上「廃業」したのは、「他山の石」としての価値があるから今さらだけど書いておく。

「郡是」とは、インナー製品などの「グンゼ」のことである。
明治29年(1896年)に京都府何鹿(いかるが)郡で創業した。社名の由来は、国是あっての郡是である。

一方、「近江絹糸」とは、「オーミケンシ」のことで、こちらは大正6年(1917年)に滋賀県彦根市で創業した。
両社は、どちらも「絹紡糸」からはじまっている。

その「オーミケンシ」が、5月13日に、繊維事業から撤退して、従業員全員に退職勧奨をした。
一方の「グンゼ」は、しっかり利益を創出している優良企業なのである。
いわば、同業なのに「天と地のちがい」はどこからやってきたのか?が、本稿のテーマである。

結論からいえば、経営者の経営力のちがいである。
では、経営者の経営力とはなにか?

あたりまえのことから紐解かないといけないのは、いまの世間から「あたりまえ」が消えてしまったからである。
それが、病気の判定の混乱にもみられると、冒頭のように、今年はさんざん書いてきた。

症状があるひとが、医療機関にいって医師の見立てから、「風邪ですね」と診断されて初めて「患者」となる。その病気が、感染症なら、そこで初めて「感染者」にもなる。

潜伏期間は、発症から逆算するけど、症状がなければ本人だって周囲だってわからないのだ。
だから、宿には利用者に宿帳記載の義務があって、もしもの感染経路を追えるようにしている。宿泊業の営業許可が地元保健所管轄の理由だ。

これが、今年、「壊れた」のだ。

経営者の経営力とは、経営者の役割をしらないと議論できない。
経営者は、企業組織の維持発展のために、経営資源の配分をする役割をするひとを指す。

経営資源とは、「ヒト・モノ・カネ・情報・時間」を指すけれど、最も重要な資源は、頭脳と感情がある生きものであり、限られた人生の時間をつかう「ヒト」になる。
だから、ヒトの扱い方を、ちゃんとできることが経営者にとって最大の「資質」となるのである。

これが、「できない」なら、経営者になってはいけない。
なれば、会社も従業員も傷むことになる。
資質がないのに、経営学やMBAという「知識」だけでなってしまうことを「よし」としたら、資本主義が傷ついた。

ヒトの扱い方が「壊れる」と、どうなるのか?
あたりまえに、取り返しがつかないことになる。
この「あたりまえ」の喪失が、経営者におきると、たちまち職場の人間関係が壊れて、不信感が蔓延する。

そうやって、とうとう「労働争議」になるのである。

たとえば、宿泊業でも、かつて激しい争議があったのは、ときの経営者たちに経営力がなくて、ヒトをモノ以下の資源と同様に扱ったことが、そのほとんどの原因なのである。

これは、「働き方」の問題ではなく、「働かせ方」の問題だ。
人間という動物は、所属する集団・組織のなかにあって、自分の価値をみいだされたとき、圧倒的な満足感をえるから、さらに張り切るものだ。
逆に、自分の価値が認められないと感じたとき、耐えられない不満となる。

こうなると、既存秩序の「破壊」が、当人には正義となる。
それが、「個人」から「集団」ともなれば、大規模な争議になること「必定」なのである。

経営者の背後には、多数の株主がいる。
だから、個々の従業員は、個のままでは相手にされないことがある。
それで、労働組合が社会の認知ばかりか、「必要」をえたのである。
すると、じつは労働組合とは、個々のひとたちの幸福を追求する役割が本分だとわかる。

すなわち、労働組合という組織のためにするというなら、それは本末転倒なのだ。
もし、本末転倒の集団と化して、経営力がない経営者と対峙したら、それはかならず泥沼化するのは、どちらにも「本分」がないからである。

労働組合の理想的指導者(労働組合の経営者)に、企業経営者と同等かそれ以上の自己抑制を資質とするのはこのためだ。
あんまりいわれることがないけど、労働組合という組織も、「経営陣」で決まるのだ。

とはいえ、経営者の経営力がない企業に勤めることは、株主をも幸せにしない。
つまるところ、短期的売買で利益確保を常識とする株主(というより「投資家」)たちの、企業を育てるという「あたりまえ」の欠如が、資本主義を弱めているのである。

自分が好きと思う経営者がつくる「社風」の企業の株主になりたい。
これを実現するには、株式の短期売買の規制が必要なのだ。

さてこの両社、どちらも従業員を大切にする創業の精神があったものが、いまも続く企業と、従業員との人間関係を失った企業との「明暗」として、ひとつの逸話をつくったことが、オーミケンシ最後の価値となったのである。

今日は御用納めのひとも多かろう。
今年1年、お疲れさまでした。

「ミロ」の販売一時休止

ネスレ(「NESTLÉ」を、むかしは「ネッスル」と自称していた)の商品(麦芽飲料)である。
世界標準の発音にあわせて、「ネスレ」に変更したけど、「ネッスル」の方が落ち着く世代がまだいるのは、この語の脳内浸透が成功していた証でもある。

「強い子のミロ♪」と宣伝されて、牛乳で溶かして飲んでいた。
ココア味で甘かった(麦芽糖なので昔ながらの「飴」とおなじ)から、そのままスプーンでしゃくって「なめる」という食べ方もあった。

あの、『男はつらいよ』シリーズで、小学校から帰ってきた吉岡秀隆演じる「三代目・満男」が、ちゃぶ台の上にある、ふりかけ(たぶん「のりたま」)を手に取ってなめながら、「寅」の話を聞くシーンがあった。
これをやらせた、山田洋次監督の細かさと「あるある」に驚いたものだ。

「栄養機能食品」がまだ珍しかったので、鉄やビタミンD、カルシウムを含むから、なんだかわからないけど「子どもにいい」ということだったのだろう。
食べる方では、「ビスコ」があった。
どちらも、牛乳と一緒、をイメージする「植え付け」があるから、ほんとうは牛乳消費キャンペーンだったかもしれない。

ミロの国内販売は1973年からだ。
この年秋の第四次中東戦争による「オイルショック」の混乱は、翌年の1月からはじまる。つまり、高度成長のピークのころだった
ただし、その2年前、1971年(「大阪万博」の翌年)には、二度の「ニクソン・ショック」があった。

・7月15日の「訪中宣言」
・8月15日の「ドル・ショック(金の兌換停止)」

つまり、万博のお祭り騒ぎから、あっという間に、世界秩序が「流動化」して、これをもって、「激動の70年代」ということになった。
それで、東欧圏の崩壊があった80年代の終わりと日本ではバブルが崩壊した90年代も、どれもが「激動」と呼ぶから、なんだか、「激動慣れ」している。

日本で発売される前、そもそも「ミロ」ができたのは1934年(昭和9年)だ。つまり、「昭和一ケタ」なのだ。
なんでも、世界恐慌による子どもの栄養不足を補うためにオーストラリアで開発されたという。

わが国では、「戦後」を否定した、『経済白書』がでたのが1955年(昭和30年)だったけど、栄養面においてはぜんぜん戦後は終わっていない。
「欠食児童」という言葉ものこっていたし、なにより「青鼻」の「はなたれ小僧」は、ふつうにいた。

「グワシ」の『まことちゃん』だって、りっぱな「はなたれ小僧」なのだ。
この作品は、1971年から途中休憩があるものの、1989年(平成元年)まで連載されている。

青鼻の原因は、栄養失調と感染症だというから、順番は、栄養失調で免疫がさがって感染症にかかり、鼻腔内で膿がたまったのだろう。
だから、「栄養」に敏感になりはじめた時代でもあった。
だれもが食えない食糧不足は改善されていたけれど、「偏り」があったということである。

それで、「栄養機能食品」が注目されたのは、もう一つ、「お手軽さ」があったからだ。
それが嵩じると、「フードファディズム」になると書いた。

興味深いのは、「ミロ販売休止」のニュースが、「新型コロナ」との紐付けをされていることである。
どういうわけか?

通勤も外出機会も減って、家庭での滞在が増えたことが、子どもと一緒に飲むようになったのだ、というし、病気に対する健康志向の高まり、とも分析されている。
ほんとうなのか?

そもそも、わが国はすでに「人類史上」レベルの少子なのだ。
まぁ、もっと深刻なのは、台湾と韓国で、韓国は特殊出生率が「1」に満たない、コンマ・レベルになっているけど。

子どもと関係するというのは、子供用飲料だという「思い込み」からではないのか?
むしろ、SNSに書き込まれた、「ミロを飲んだら体調が改善した」という、個人の感想がえらく拡散したことに原因があるのではないか?

そうでなければ、販売中止になった直接の理由、「通年の7倍」という急激な需要増の説明がつかない。

すなわち、「不安」からでた「噂」の爆発である。
この点で、専門家たちのコロナの対処と似ている。
データを出さずに、噂に対処しているからである。

自分のふだんの栄養摂取が偏向しているとかんがえるひとがたくさんいる、という「不安」の素地があることに注目した方がよさそうだ。
もちろん、これには、栄養士が指摘する、「現代の新・栄養失調」という実態を裏付ける。

すると、裏付けがあるぶん、コロナ対策よりまともではある。

カロリーは十分だけど、栄養素は不十分なことがある。
それは、「手軽さ」と「せせこましい生活」との掛け算で、ついうっかりファストフードを食べてしまう、あるいは、チェーン店での食事やコンビニ依存といった日常がつくる、「漠然とした不安」が、「素地」なのである。

いま、もっとも「不足」が指摘されている栄養素とは、「ミネラル」だ。
「ミロ」にふくまれる、鉄やカルシウムとは、ミネラルを指す。
人間が、大地から生まれた証拠だ。こうした「鉱物」を微量でも摂取しないと生きていけない。

一方で、摂りすぎの問題もある。
カルシウムやナトリウムがその典型で、かえって病気を引き起こす。

すると、生活に必要な知識としての「教育」が、不十分であることに、もっと注目しないといけない。
化学なくして栄養は語れず、理解もできない。
くわえて、情報の偏りが、社会現象になる恐ろしさもある。

「ミロ」の不足は、わが国社会の「不足」と「過剰」のバランスの異常を示しているのである。

強制「特殊」収容所と人体実験

外国の話ではなく、国内のことである。
2日、参議院は、全会一致で、「新型コロナウイルスのワクチンを円滑に接種する体制を整備するための法律」を可決した。
アメリカ大統領選挙のどさくさを無視して、予想通りの「コロナ祭り」だ。

この春に新型インフルエンザの法律が改正されて、新型コロナが加筆された。
これによって、伝染病扱いされるようになったので、「感染」すると「隔離される」ことになった。

つまり、「感染」が「罪」になって、強制収容所への軟禁刑が裁判もなく自動的に執行されるのである。
これを、強制「特殊」収容所とした。

しかして、その根拠の「感染」とは、PCR検査という見たことも聞いたこともなかったものだ。
そもそも、ほとんどのひとは、「無症状」だ。
これは、無症状のひとを病気とした、歴史的はじめての事態なのだ。

デカルト以来の「機械論」が、とうとう人間と機械の区別をなくした。
AIが考えつきもしない、「勘違い」だけれども、精神と思考を無視しているのは、「唯物論」にほかならない。

医療機関ならまだしも、ビジネスホテルも「収容所」になったから、ソ連時代よりは「まし」ではあるが、自由が剥奪されることは同じだ。
もちろん、ソ連時代の「自由剥奪刑」は、死刑より厳しい。
人間の生理的欲求(睡眠・食・排泄など)のすべての「自由を剥奪」する刑だからである。

それよりは「ずっとまし」だから、我慢せよとほんとうに言い切れるのか?

月日の経過とともに、政府はこのPCR検査の「感度」をより「敏感」にしている。これを、「精度を高める」というのは、単純比較の対象にならないので悪質だ。

それにそもそも、病気か否かの判断の精度と、検査の精度は土俵がちがう。
こんなやり方をされたら、陽性者が続出するのは当然だ。
それでもって、パンデミックというのは、詐欺である。
こうして、経済社会を破滅に追いこむのは、もはや「破壊活動」ではないのか?

すると、かつてのソ連のように、自国を自国の政府を乗っ取った連中が「破壊」して、これを「革命」と称したのとおなじなのである。

本稿冒頭のとおり、参議院で全会一致の決議があった。
国民に、くまなくワクチン接種をさせる法案だ。
接種したひとのうち、副作用がでたひとの補償は政府がするという。
つまり、製薬会社は免責された。

ワクチンの副作用とはなにを意味するのか?
それは、最悪「死」である。
これを、政府が補償するとは「カネ」である。
つまり、政府は国民の命をカネで買うと全会一致で決めたのだ。

こんな理不尽を、マスコミは喜び勇んで報道し、歓迎するやからがいる。
けれども、死因がワクチンの副作用だと誰がどうやって判定するのか?
判定方法を決めていないのではないか?
ならば、過去の薬害訴訟のように、すんなり政府が支払うものか。

それにたとえば、接客業なら、「会社命令」で接種することになるだろう。
それでも副作用の責任は、ぜんぶ政府ということになるのか?

わが国の腐敗と堕落はここまできたのだ。

自由な研究ができないことが、学術会議の一件で国民に知れ渡った。
その邪魔をしているのが、当の学術会議だったし、文科省ほかの省庁が持っている「研究予算の恣意的配分」であった。

だから、わが国の製薬会社は、ワクチン開発なんてやっていない。
「生物化学兵器」にもなるからだ。
今回のウィルスの「出所」が、どんな研究所だったかも忘れている。

そんなわけで、外国のワクチンを輸入するしかない、という国になっている。
外国の製薬会社が、低リスクで売ってくれるように、免責にしたのである。
これが、「科学技術大国」の実態だ。

禁煙のための薬品(経口式ならガム、経皮式ならパッチ)は、アメリカ製の製品が主流だけれども、用法用量は、アメリカ人の「半分」が日本人向けになっている。
すると、今回のワクチンは?濃度か投与量で調整がいる。
この組合せの最適解は、どうやって決めるのか?

なんだか、各国でワクチン認可競争が起きているけど、なるべく遅い方がいいのではないか?
各国での「副作用発生」を見守る、ということだ。
なぜなら、国内のパンデミックはフェイクニュースだと思うからである。

振り返ってかんがえれば、WHOに未加盟の台湾が世界最優秀なのだ。

どうも合点がいかぬ。
わが国のやり方が、ソ連のやり方だからである。
まさか、人体実験がはじまるのではあるまいか?と。
副作用発生のデータ・ベースを作れるから、政府はこれを販売できる。

アメリカでは、「沼」から息継ぎで顔を出した、存命中の元大統領たちと、自称次期大統領のバイデン氏が、まっ先に接種すると申し出た。
偽アンプルにはいっている「ブドウ糖」だか、「ビタミン剤」だか知らないけれど、これ見よがしにテレビが実況中継するのだろう。

ならば、わが国では「本物」を、全会一致の参議院議員の全員が漏れなく「まっ先に」接種すべき付帯案をつけることが必要だろう。
ちょうど、重篤者になりやすい年齢層と重なるから、国民理解を促進するのに役立つ。

それから、法案を出した厚労省と、内容をチェックした内閣法制局も、全員が国民接種よりも「先に」接種して安全を確認することが必要である。
もちろん、「政府専門委員」も全員で、ついでに日本医師会も会長からだ。
地方は、営業自粛やら、知事権限を振り回したひとには、存分に接種してほしい。

国民には、3ヶ月後からでちょうどいい。

隗より始めよ。
このくらいの覚悟で決めたにちがいない。
でも、正直な前厚労相の現官房長間は、「俺は打たねぇよ」と公言している。

本日、共著が発売されました

ケースで読み解く デジタル変革時代のツーリズム』(ミネルヴァ書房)
著者は、島川崇神奈川大学教授を筆頭にして4人。
編者は、島川教授と神田達哉一般社団法人サービス連合情報総研業務執行理事兼事務局長のふたりである。

わたしにとっての「主著」は、いまのところ、本ブログの表題にチョコッと掲げている、『「おもてなし」依存が会社をダメにする-観光、ホテル、旅館業のための情報産業論-』(文眞堂、2015年)である。

この本の執筆動機は、「事業再生」に至ってしまった企業の再生をするにあたって、基本的なかんがえ方を体系立てて示さないと、「どこから手を着けていいのかわからない状況」と絡んで、再生アプローチの基本同意と方針がないままに、「なにかを始めてしまう」ことが懸念されたからである。

そして、わたしの再生現場での実体験が、この懸念を確信にしたのだった。
さらに現実は、経営者と従業員で構成される、「企業活動」の枠をこえて、スポンサーとなる「出資者」たちにも、愛のある企業育成動機が乏しいから、損益計算書の罠にはまってしまうのである。

投資利回りの早期回収という目的が、スポンサーにあるのは当然だけれども、「急がば回れ」という発想をしない。
だから、本書で、経営者と従業員には、スポンサーに対する「理論武装」もしてほしい、という願いもある。

最初は大変だけど、いったん「その気になったら成果がでた」という好循環を生みだすと、あとは加速度的に業績は改善するものなのだ。
逆にいえば、ここを怠って、損益計算書ばかりを材料に、命じるひとと命じられるひととをつくるから、いつまでたってもパフォーマンスが改善しないのである。

「出版」とは、執筆者にとっても「意外」なことが起きる。
それは、工業事業者における事象とおなじで、第一に、誰が購入してくれているのか?がわからないことである。

その意味で、Amazonをはじめとした、e-コマースが用意した、「カスタマーレビュー」は画期的なのだ。
高評価だけでなく、低評価であろうが、どんなふうにかんがえて読んだのかをしるだけでなく、評価者の「履歴」から、サンプリング的な情報を得ることもできるからである。

つまり、ぜんぜんしらないひとが、書籍における執筆者の主張に対して、応えてくれるということだ。

人的な接客サービス業をしていると、工業のひとたちが大金をかけて行っている、各種イベントが不思議にみえることがあるけれど、誰が購入しているのかをしりたい、ということの切実さは、自著を「出版」すればよくわかる。

そんなわけで、本日発売の書籍について、編者のおふたりから執筆依頼をいただいたのは、ちゃんとしたひとが読んでくれていて、わたしの執筆動機についての賛同も得ていたことが確認できたのである。
ならば、快諾である。

いや、果報者ということで、じつに有難いことだ。

本書執筆陣の共通認識は、AI何するものぞ、である。
人間がつくったものに、人間がかしづいてなるものか。
相手は、『フランケンシュタイン』(1818年)なのか?

この古典的怪奇小説は、ちゃんと「ゴシック小説」と呼ばれている。
ゴシックとはなにかを論じると長くなるけど、重厚な感じ、で、暗いイメージ、がある。
この200年前の小説は、意外にも作者は女性、メアリー・シェリーだ。

AIの肝には、人間の脳を人工的に作れるのか?という問題と、注入するプログラミングの問題とがある。
さらに、個と社会ということも切り離せない。
個があつまって社会になるけども、社会から個になると「不気味」だ。

また、人間の脳は、感情も生みだす。
むしろ、感情が脳のなかの理性をコントロールしているので、「理詰め」だけだと息苦しい。
反対に、理性が感情をコントロールしないとふつうの生活ができない。

つまりは、食事や生活習慣とおなじで、「バランスが重要」なのだ。

たとえば、コロナは「風邪の一種」だけれども、とにかく感染をおそれる感情の社会になって、「なんか変だな」という理性が抑圧されている。
病気が政治利用されているのを、だまってみているしかない社会になった。
すると、コロナがAIに主語を変えると、あんがい不味い社会に生きていることがわかる。

でもこれは、AIが支配している社会ではなくて、AIが支配すれば安心だという人間の感情がつくりだす社会だということだ。
これを、マスコミ人がつくっているのだから、ぜんぜんコロナとも、主語を変えたAIとも関係ない。

たまには、理性を優先させるということも、バランスなのだ。

さてさて、それで、理性でツーリズムを語った本である。
だから、デジタル変革時代なのに、人間の方がテーマになるのである。
特にわたしが担当した章は、これに特化した。

業界をこえて、是非、ご一読を。

「仕組み」を理解する訓練

コンサルにも「現場」は当然ある。
経営者との方針確認や、従業員さんたちとの会話や教育研修も、ぜんぶ「現場」である。

相手は、さまざまな業種でもあるし、企業である。
成り立ちからしてぜんぶ違うので、その都度まったく別々の対応が必要となるのは当然だ。

しかし、ある程度の「共通問題」がある。
それが、「仕組みの理解」における、「深度」なのである。

組織目標に対して仕組みの理解が、「浅い」場合は、まず経営者本人に深めてもらわないといけない。
成長や業績の、「もっと」を経営者が求めるときは、従業員たちへの深度を深める努力が有効になる。

こうしたことをやっていると、確実に組織は良好な方向へ向くから、結果的に、まず悪いことにはならない。
この、「悪いことにはならない」という状態が、どれほど重要なのか?ということに気づく経営者は、「仕組みの理解」が「深い」といえる。

残念な経営者は、「目に見えて良くなる」ということにこだわる傾向があって、「悪いことにはならない」という状態を、「当然」とするので「無視」する。
つまり、「悪いことだらけ」の状態が、「悪いことにはならない」となっても、その効果を区別できないひとがいるのだ。

「仕組みの理解」が「浅い」という意味がわかるだろう。

けれども、こうしたひとがひとり悪者だと決めつけたところで、なんの解決にもならないのが、コンサルの現場、なのである。
業績不振企業なら、対象者が経営者の場合がほとんどだからである。
つまり、「経営者」にわかってもらわないと、なんにもならない。

厄介なのが、その経営者から依頼されるのが、外部コンサルタントだから、たちまちここにジレンマが生じる。
ジレンマの、「ジ」とは、二つのという意味だ。
三つなら、「トリ・レンマ」という。

一つは、その経営者自身が、わからないことをわかっていないこと。
一つは、その経営者自身が、わかろうとしないこと。

それでもって、コンサルタント料金を頂戴しなければならないのだ。
そこでまず、気づいてもらうための「あの手、この手」をかんがえる。

「脈がある」ばあいは、早期に気づいてくれて、「わかろうとしてくれる」ようになる。
こうなれば、「わかるように」指導できる。

「脈がない」ばあいは、一向に気づくことがない。
残念ながら、これは、「お手上げ」なので、こちらから退散させていただく。

そんなわけで、退散することがあんがい多い。
これはこれで困ったことになる。
だから、ほんとうのジレンマとは、このことである。

どうしてこういうことになるのか?
ふと気がついたのは、「仕組み」についての思考訓練を受けたことがない、からではないのか?という「仮説」だ。

事実上の個人経営者のばあい、家業を継ぐためのパターンは二通りで、学校卒業後すぐに家業に就くばあいと、いったんどこかに就職してから、家業に就くばあいとがある。

前者なら、学生時代におけるチャンスと、家業のなかでのチャンスがある。
後者なら、いったん就職した会社でのチャンスもある。

すると、最初の共通項は、学生時代という当たり前がある。
なにせ、わが国は小学校・中学校の9年間が義務教育で、これに実質高等学校の3年間も加わっているし、さらに進学希望者の全入が達成されている大学もある。

ここで、どんな課目や授業で、「仕組み」の訓練を受けるのだろうか?
本人や教える側の双方がちゃんと認識しているかは怪しいけれど、もっとも単純な「仕組み」を習うのが、「算数」なのである。

1と1を足すと2になる。

ここからはじまる、算数とは、単純な仕組みの組み合わせ、なのである。
中学から「数学」と名称は変えるけど、数式で表現できて、計算もできて、ちゃんと答が決まっている、ということは変わらない。

しかし、実際の世の中は、数式で表現できないから計算もできず、答が決まらないことにあふれている。

すると、「仕組みの理解」とは、まず「算数」における「仕組みの理解」が重要な要素だとわかるのである。
そして、社会に出れば、「答えがない」ことを前提にせざるを得ないので、かえって「仕組みの理解」に戻らないと、判断のための論理展開ができないのだ。

これが、残念な経営者とそうでない経営者の分かれ道なのだ。

残念な経営者は、「仕組みの理解」がないままに、いきなり、数式で表現できないから計算もできず、答が決まらないことに、無理やり答えを出してしまうので混迷するのである。

ならば、こんな教科書がある。
ノートを用意して、自分で訓練を受けてみよう。
なお、本書には、「算数を学ぶことの目標」も記載されている。
あんがい、この「目標」をしらないままでおとなになっている。