強欲な役人がカジノを逃がした

世界的なコロナ禍にあって、アメリカはラスベガスにある世界最大のカジノ業者が日本進出を断念すると発表したのは5月、続いて8月にも別のアメリカの事業者がつくった日本駐在事務所を閉鎖した。
これで、残る候補事業者は、中華系だけになっている。

「カジノ反対」を掲げる住民団体にとっては、まさに「コロナ福」となっている。

また、横浜市では、住民投票をもとめる「カジノの是非を決める横浜市民の会」や、市長リコールの「一人から始めるリコール運動」の二系統で「阻止」をはかっている。

住民投票をもとめるハードルとしての必要署名数は約6.3万筆で、市長リコールだと約50万筆を必要とする。

あつめた筆が目標を達成すると、住民投票なら市議会で審議され、可決をもって住民投票となる。ただし、住民投票での「反対」が多数でも、結果についての「法的拘束力の有無」が問題になって、結局は「政治決着」というシナリオになっている。法的拘束力が「ない」からである。

一方リコールだと、市の選挙管理委員会が行う投票となって、こちらは「賛成多数」となれば、市長のリコールは成立する。
リコール運動の主旨が、「カジノ反対」だから、それで市長を失職させれば、市はカジノを断念するはずだ、という論法である。

だから、迫力があるのはリコールで、なんだか妥協的(やることに意義がある)運動なのが住民投票請求なのである。
それにしても、横浜生まれ横浜育ちのわたしの記憶には、物心がついて以来、「市長リコール」とか「住民投票請求」という事態は初めてであるとおもう。

この点で、横浜市民も民主主義の制度を活用してこれを実行しようというのだから、なかなかなものである。
しかし、一方で、市長の「カジノ推進」に賛同するひとたちが、沈黙しているのが気になる。

そんななか、つい先日、市長が「カジノ見直し」を発言した。
まるでリコールに怯えたかのようだけど、カジノ誘致のための「予算」が足らないらしい。

市当局の説明によると、現時点で来年度に970億円の収支不足が見込まれているという。
これは、コロナの影響で、特に法人市民税が大幅に落ち込んで、市税収入全体が本年度当初比460億円減と、戦後最大の減収額になる見通しだと発表があった。

これに、以前書いた個人市民税が「ふるさと納税」に流れていることもボディーブローのように効いているはずである。
それで、従来組まれた予算の内、住民直結のサービスを除いて、その他の予算をすべて「見直す」ことの必要性が生じた。

まったく情けない姿を横浜市(役所)は、さらしている。

卵と鶏の順番のような議論だけれど、情けない横浜市(役所)のために、納税なんかするものかとかんがえた横浜市民が、ここぞと「お得」なふるさと納税に飛びついて集団乞食になったのが先か?それとも、市民が集団乞食になったから横浜市(役所)が困窮したのか?

お役人には残念ながら、横浜市民にだって記憶力はふつうにある。
社会党の牙城だった横浜市は、飛鳥田一雄氏の長期政権で開港以来の本社を東京に転出されてから、上場企業の本社が皆無になった。
これに、経済成長に乗った行政の肥大化で余計な業務が拡大したのである。

その証拠が、巨大な市役所を必要とする。
役所の巨大な面積は、「ムダ」の集合体なのだから、本当は「恥の巨塔」なのである。

歴代市長の熱心な箱物づくりとバブル崩壊で、市財政も傾いた。
この緊急事態に対処したのが、若き中田宏市長だったのに、へんなことから退任してしまって、信頼度が地に落ちた。

女性だからという理由をかんがえたことはないけれど、いまの市長の経歴にある民間大企業で役員をはれたのは、「女性だから」という理由ではなかったかと疑うのは、残念だけれどその「無能さ」が顕著だからである。
経営者としての力量も、政治家としての力量も、微塵もみえてこない。

その意味で、最近の「無表情」がお気の毒なのである。

さて、カジノの話にもどろう。
わが国で「カジノ」が営業できるのは、「カジノ法」ができたからである。
ところが、この法律は、いつものように「細則」が決まっていない。
「いつも」、というのは戦前からの伝統をいう。
「国家総動員法」のやり方と同じだとは、前に書いた。

しかしながら、外国の企業には何が何だかわからない、ローカルな「やり方」にうつったにちがいない。
カジノからの「あがり(ピンハネ)」がいくらかは、国家と誘致した自治体とで「折半」するとは「法」に書いてある。

けれども、それが「いかほどか?」は、「細則」に書くことになっている。
「細則」とは、「法令」の「令」にあたるもの(政令、省令、条例)から、「通達」まである。

「法」は国会、「条例」は地方議会が決めるけど、その他は役人が作文する。
これが「当然」とされるのは、アメリカ人には「文化のちがい」ではすまされない。どこに民主主義があるものか?

広く国民が負担する「有料が義務化されたレジ袋」は、「省令」でやったのだ。
少なくても、国会で「法」として決めるのがアメリカ人の常識だろう。そして、次の選挙での投票行動のために「賛成した議員の名前」を覚えておくのだ。

今年1月7日にできた「カジノ管理委員会」は、「3割(国と自治体あわせて)」と、「入場料」それに、カジノ管理委員会の「経費」もピンハネすると要求しているのである。
しかも、この比率や額は将来にわたって「固定」ではなくて、いつどういう理由で変更されるかわからないから、投資家には「リスク」でしかない。

そんなわけで、勝手な皮算用をしていたら、管理委員会の発足4ヶ月後に肝心の事業者に逃げられた、というお粗末である。
アメリカ人には、わが国「カジノ行政」の複雑な仕組みが、ぜんぶセルフ・コントロール不能の「リスク」にみえたはずである。

「コロナ禍」を撤退の理由にできたのは、事業者にとっては「コロナ福」にもなった。
「うまい逃げ口上」だ。

だから、「カジノ阻止」にもっとも有効な方法は、国の管理のより複雑なやり方と委員会経費の肥大化、そして国と自治体のピンハネ分をもっと増額させればよいのである。
そうすれば、世界のカジノ事業者のだれもが見向きもしない「誘致条件」となるからである。

社会主義計画経済が、直接資本投資を逃す、という教科書通りがここにある。

「甘い」は「美味い」

わが国が「貧しかったころ」の味覚の伝統である。

「甘い」のは「糖」を感じるからで、「糖」とは「炭水化物」のことである。
そして、炭水化物が「発酵」すると、「酒」になる。
これをさらに、「蒸留」すれば、いわゆる「焼酎」や「ウィスキー」などの「スピリッツ」になる。

日本人は「酒好き」がおおいといわれるけれど、けっして酒豪ばかりではなく、むしろ人類のなかでも「酒に弱い人種」とされている。
外国人の酒量(アルコール分解能力)にくらべると、日本人はうそみたいに少量しか分解できない。

それで、二日酔いになる。

しかし、むかしの「酒」で二日酔いになったのと、いまは状況がちがうのは、酒の「品質」が変わったからである。
それは、とくに「日本酒」でいえる変化だ。

いちばん大きいのは、発酵タンクの材質ではないか?
いまは、衛生も考慮して、ほとんどがステンレス製のタンクで発酵させている。

むかしは、杉の大樽だったし、発酵促進のために樽内を混ぜる「櫂」や「櫂棒」も杉製だった。
できあがった「酒」も、真新しい「杉桶」にいれて販売したので、日本酒と杉の木は深い仲にある。

しかし、杉という木には問題があって、樹液である「ヤニ」がおおくふくまれていて、この中に含有する成分が「頭痛」をひきおこす。
ために、お燗することで、揮発性の成分を抜くことが必要だった。
これが、世界的に珍しい、温かくして飲む酒の理由だ。

いまは、ステンレスとガラス瓶だから、お燗にするのが「もったいない」ほどになって、「冷や」や「常温」が高級酒ほどこのまれるようになった。
「ライス・ワイン」となれば、ますます「燗酒」にはしない。

米に酵母をくわえて発酵させるので、酒米は糖質がおおくあった方がいい。
それで、ごはんとして食べる米と、酒をつくるための米は別の品種になっている。

いま絶世の人気をほこる「コシヒカリ」の祖父にあたる「亀の尾」は、当初は食米だったけど、のちに栽培の難しさから滅びかけたものを、造り酒屋がこだわりの酒の原料としてこれを取り上げ、いまにいたっている。

朝鮮半島が日本だったころ、亀の尾が広く栽培されて、朝鮮米の代名詞にもなっていた。
本州の東北地方は、むかしからの貧しさを引きずっていたが、都市部を基盤としていた「立憲民政党」は、農村振興に無関心だった。

東京駅で暗殺された、濱口雄幸首相は、この立憲民政党の党首でもあった元大蔵官僚である。
合理主義者で、朝鮮の水田開発に熱心だったため、大正期には首都圏の流通米の半数以上が朝鮮米になっていた。

じっさいに、この「政策」で、東北の農村が飢饉でもないのに「疲弊」したのは、作った米が首都圏で売れなかったからである。
高くて評判のわるい東北米を、ぐっとこらえて買っていたのは、東北出身の次男坊三男坊の工場労働者一家だったのは、故郷の窮状を支えようとしたからである。

江戸時代から首都圏に住んでいたひとたちは、安くて美味い朝鮮米を贔屓にしていた。
亀の尾の美味さが仇となったのは、そんな東北人の「怨み」が、関東大震災で在日朝鮮人に向けられて暴発したともいわれている。

世界の大都市で、屈指の人口をほこった江戸は、地方からの人びとがあつまる場所だったから、地方の名物もあつまった。
太平洋側の海岸をつたってくれば、船で物資がはこべるから、基幹的調味料の「醤油」が、和歌山から銚子にやってきた。

伊勢の民謡「波切節」は、おなじ曲が高知にも、銚子、仙台にまである。

これを「利根川水運」で、野田にもつたわっていまにいたっている。
日本海側は、秋田の「しょっつる」に代表される「魚醬」の文化があるから、基本的な「味」が太平洋側とことなる。

バテレンが伝えたカステラの味は、高価なものの代名詞だった「卵」と「砂糖」を大量投下してつくるから、江戸の卵焼きは「甘い」。
その点、日本海とつながる京都は、「うまみ」をもって「料理」としたから、京都の卵焼きは「だし巻き」である。

けれども、京菓子の繊細さと甘さは、茶の湯の発展とともにあったから、めったに口にできない「甘さ」こそ、あこがれの味であったことに東西のちがいはない。

そんなわけで、京都に丁稚奉公した福井人が、正月休みで故郷にかえるとき、女将さんからいただいた「羊羹」を、そのままではもったいないから水と寒天でのばして「水羊羹」にした。
それでも、「甘さ」が十分だったのは、砂糖なんてものがなかったからである。

「丁稚羊羹」は、滋賀や奈良にもある。

白米を腹いっぱい食べたいと願った日本人は、わたしの祖父の時代ではふつうにいた。
明治の陸軍は、これで募集し、全国から兵をあつめることに成功した。
ただし、白米ばかりの兵食で脚気の死者が日露戦争での肉弾戦を上回った。

「ギブミー・チョコレート」は甘くて苦かったろうけれど、「丁稚羊羹」も、苦かったにちがいない。

それで、果物がみんな「甘さ」を主張することになっている。

相変わらず、「甘い」は「美味い」のままである。
国民が早死にするような、悪魔の味、でもある。

アカデミー賞のあたらしい選考基準

現代の人類がもっている数々の「賞」のなかでも、アカデミー賞というのはきらびやかさで他の追随を許さない。

それでも「賞」なのだから、選考基準が公表されているので信用があるのだ。
どんな「賞」でも、目立つのは「授賞式」となるけれど、ほんとうは、かなり前に発表される「選考基準」が重要なのである。

だから、選考基準が事前に公表されていない「賞」には、残念だがなかなか「権威」がともなわない。
選考にあたるひとたちの「好み」とされたら、それは選考者の肩書きだけに頼ることになるからである。

それで、「選考理由」という話になって、あたかももっともらしくすることがある。
すると、主催者は選考者を選考するという事前選択で失敗ができない。
その道の「権威」というひとは数少ないので、似たような賞に同じひとが選考委員になったりするのはまずいから、選考者から選考されて、それが賞の淘汰にもなる。

選考基準に合致している、という理由が書けるのは、事前に公表された基準があってのことなので、基準がないなら作文しかなくなるのである。
だから、選考基準が公表されていて、選考者にも選考された賞ならば、それがその分野で「最高」ということになる。

するとこんどは、「最高の賞」に選考者として選考されることが「最高」になる。
だから、選考者にとっての最大関心事項は、賞の選考をすることになる。

科学的業績なら、成果をみることができるし、それには「論文」という成果も含まれる。
機械的ではあるけれど、論文の引用数という基準もあるのは、論文という成果を数値化できて、客観的になるからである。

文化・芸術の分野の賞は、客観的という部分で困難をともなう。
そもそもが「主観的」であるからだ。
この矛盾をどうするのか?が問われるのである。

さて、アカデミー賞のあたらしい選考基準とは、具体的に「作品賞」でのことをさす。
2024年以降、以下4つの基準のうち2つ以上を満たさないとノミネートもされない。なお、キーワードは「多様性」である。

・主要な役に少なくとも1人はアジア人や黒人などの人種的小数派を起用すること
・プロデューサーや監督、撮影などの製作スタッフのトップのうち、2人以上は女性や性的マイノリティー、障がい者などの中から起用すること
・機密フォームを提出し、多様性の数値を開示すること
・配給会社または金融会社が、過小評価されているグループに機会を提供していること

ハリウッドでは、賛否が分かれているという。
米映画芸術科学アカデミーは、社会的議論だけでなく関係者からもさまざまな表明が巻き起こることを承知で決定し、発表したはずである。
日本だったらどうするのか?

しっかり「事前に根回し」をしてから発表するのだろう。

この「順番」のちがい。
これは、決める側がリスクをとるか?とらないか?の「ちがい」なのである。
ここでいうリスクをとるとは、理論武装もしている、ということを含む。

また、アメリカ人は米映画芸術科学アカデミーという民間団体に、政府や政治家の関与をよしとしない。
わが国では、「文化庁」という役所がしゃしゃり出る文化がある。

日本アカデミー賞協会の設立時の名誉会長は、初代文化庁長官、今日出海氏(今東光大和尚の実弟)だった。
おそらく、本人はかつぎだされたのだろう。

それはそうと、選考基準をもって経営に誘導を図る、というやり方は、アメリカでは、低迷していたアメリカ経済を復活させたと定評の『マルコム・ボルドリッジ国家品質賞』という賞がある。
共和党レーガン政権時代に創設されたもので、尽力した当時の商務長官の名前を入れている。

「国家品質賞」なので、アメリカでは珍しく国家が関与している賞だ。
授賞式はホワイトハウスが会場で、大統領から直接授与される。
よって、最高峰ともいえる経済賞になっている。
この賞の「選考基準」は、アメリカの国家プロジェクトだった日本の経営・経済研究の「成果」がつかわれている。

パパ・ブッシュを破った民主党クリントン政権で「途切れるか?」と心配されたけど、クリントン氏も積極的に支持して継続され、政権党にかかわらずいまに至っている。

宿泊業界にこの賞が影響を与えたのは、「選考基準」にある社内システムを、リッツ・カールトン・ホテルが独自に工夫した『クレド』でしられる。
「サービス品質」という概念も、この賞が打ち出したものだ。
下地にされた日本の業界に、「サービス品質」が根づかない不思議がある。

日本生産性本部が、逆輸入してつくったのが『日本経営品質賞』だ。

つまり、日本からアメリカに渡り、また帰ってきたようなものだから、太平洋を往復している「賞」である。
経営品質協議会という組織が、ちゃんと「選考基準」を定めている。

受賞目的だけではなんだか動機が不純だけれど、「選考基準」には、経営の品質を上げるためのヒント(手順)が示されているようなものだから、挑戦してみる価値はある。

コロナ禍なのだから、より一層重要になったとかんがえるべきなのである。

コロナ・パラダイム・シフト

「パラダイム」というのは、既存の概念=常識とか枠組みのことを意味する。
それが「シフト(入れ替え)」することを「パラダイム・シフト」という。
ここでいう、「コロナ・パラダイム・シフト」とは、感染症診断のための「コッホの4原則」に当たらない「社会が作った心の病」が社会という枠組みそのものを入れ替えてしまうことである。

つまり、ありもしない病気が、実在する社会を変革してしまう。
そんなことがあるのか?
いや、むしろ当然なのである。
人間社会とは、人間の心によってできているという当たり前が、ここにきて前面に出てきただけなのだ。

20年前、大ヒットした映画『マトリックス』は、その後の2作で、いよいよ「哲学映画」の様相が深まって難解な展開をみせた。
来年の21年公開予定と発表されている『マトリックス4(仮称)』では、いったいどんな「主張」が飛び出すことか?

生身の人間と仮想空間という対象を、「脳」そのもので電気的に接続され、それがコンピュータで操られているアイデアは新しかった。
これは、「実体二元論」という哲学が表現されたのだった。
そして、もう一方では組織社会という人間がつくる社会が作品の「あるある」を支えた。

以前、『マトリックス』と『ダビンチコード』の類似性について書いたのは、この「組織社会」をキリスト教社会の歴史に含めたからで、そこには入れ子状態になった支配の構造としての「金融批判」があったからである。

要するに、リーマン・ショック(2008年9月)で崩壊したという、金融機関=虚業による実業の支配が、いまだぜんぜん終わっていないことが問題なのである。
虚業と実業の葛藤は、そのまま「実体二元論」になることにも注目してほしい。

リーマン以降、金融機関は弱ったけれど、それ以上に実業も弱ってしまった。
これが、わが国の失われた30年の正体である。
そして、史上最長政権は、何とかのひとつ覚えで、金融緩和という虚構の政策しかせず、実体経済の衰退を止められなかったという「実体二元論」による現実がここにもある。

すると、波状攻撃のように実体社会に出現した「ありもしない病気=虚病」が、ひとびとの「脳」をコントロールしたのだから、映画の『マトリックス』が、実社会に出現したともいえるのである。

そういう意味で、いま、改めて過去の三部作を鑑賞する意味がある。

陰謀論はさておいて、自分たちの「脳」を疑う、という作業をしておくことが、社会の怪しいシフトを防止する唯一の方法なのである。

人類の経典宗教のはじまりは、イラン北部にうまれた「ゾロアスター(拝火)教」だ。
明と暗、善と悪、白と黒。
これが、「二元論」のはじまりなのである。

つまり、「単純化」のことを意味する。

現代社会は複雑になって、どうなっているのか解らなくなっている。
その裏返しとして、単純化すると、「楽」になる。
すなわち、堕落でもあるのだ。

そんなわけで、いまの世の中には、意図的に単純化された「架空」がはびこっている。
この「架空」こそが、本来の仮想空間である。
コンピュータが仮想空間をつくりだすのではなく、人間の楽をしたいと欲求する脳がつくりだすのである。

そして、ありもしない病気が蔓延するという「現実」が、集団で働くことや集団での移動を妨げてしまった。
これによって、大打撃を受けているのが「農業」などの一次産業も同じである。

しかも、一次産業では「人手不足」=「後継者不足」から、実態として外国人労働者をとっくに受け入れてきた。
そこで、わが国の農林水産省は、「農業労働力確保緊急支援事業」として、今年度補正予算では、46億円以上を計上している。

人的サービス業からの、「労働力シフト」が視野にあるのである。

さらに、水害と蝗害で、大打撃を受けている「はず」の中国では、食料危機に備えてか、食べ物をムダにしないキャンペーンもはじまった。
また、米中経済合意で、大量のアメリカ小麦を購入する約束もある。

ほぼ半年前の3月31日には、国連食糧農業機関(FAO)や、世界保健機関(WHO)だけでなく、世界貿易機関(WTO)の各事務局長が「食料品の入手懸念が輸出制限につながり、国際市場で食料品不足が起きかねない」と共同声明を出している。

注目すべきは「輸出制限」という人為なのである。

記憶に残る「危機」では、1993(平成5)年の「米騒動」があった。
このときは、冷夏というはっきりとした自然現象が原因だった。
緊急輸入したタイ米と抱き合わせでないと、国産米を購入できなかった。

けれども、わが国はタイ米を世界価格より高額なカネをだして買い占めたので、貧しいアジア諸国では深刻な食糧危機になった。
そのタイ米を「不味い」といって廃棄する日本に、バングラデシュなどは、「不道徳である」と声明をだしたが、わが国マスコミはこれを無視した。

耳障りがよく、いかにも「善人」を装って、「コロナとともに」とか、「あたらしい日常」といっているのは、自らを「安全地帯」に置いてからの発信にすぎない。

「コロナ・パラダイム・シフト」とは、「不道徳」にシフトする、という意味である。

自己満足を消費する

わたしたち夫婦の共通の趣味に、「クレー射撃」がある。
このブログでは数度書いたことがある。
この春に撃ったときは調子よく、スコアもそれなりだったのだが、コロナ禍で休んでいたら大変なことになった。

久しぶりに射場へ行って、いつものようにプレイしているのだが、ぜんぜん当たらない。
果たして、これまでどうやっていたのか?
ぜんぜん思い出せない。

1ゲームで25枚のクレー・ピジョン(皿)を、1枚当たり2発まで弾をこめて撃つことができる。
調子がよければ30発も使わずにゲームを終えることができたものが、50発消費しても散々なスコアなのである。

近代オリンピックの最初(1896年)から射撃競技自体はあったのだけど、クレー射撃が正式種目になったのは、1900年の第二回大会からである。

そもそも、皿に「ピジョン」という名称があるのは、そのむかし、本物の鳩を飛ばして的にしていたからである。
当然ながら、こういうことをするのは、ヨーロッパの貴族たちだった。
鳥を狙った猟から派生した「娯楽」でもあったのだ。

高額な散弾銃を購入し、散弾の弾を購入し、これで標的となる皿を粉砕するのだから、まったくの消費ばかりでぜんぜん生産的ではないように思える。
つまるところ、何が面白くてこんなことに熱中するのか?

こたえは、粉砕したときの満足感が欲しいのである。
あるいは、失中したときの残念が悔しいのである。
だからこれは、一種の「中毒」なのだ。

すると、まったくの消費にしかみえないものが、じつは、中毒症状を呈している満足感を得るためにしているとかんがえると、人間にとってのふつうの「消費行動」と大差ないのである。
食欲だって、物欲だって、本人にとってみれば満足感を得るためのものにすぎない。

しかも、射撃はすべて自分の判断による結果なので、怨むのは自分の不甲斐なさだけである。
そのために、入手できる最高性能で最新の銃を求め、世界のアスリートが使用する散弾を使うことにこだわる射手もいる。

結果を銃や弾のせいにせず、自分の腕前だけに還元させるためである。

わたしはそこまでストイックではないけれど、これだけ「当たらない」を経験したのは、初心者以来初めての経験で、これを「スランプ」とはいいたくないほどの「壊れ方」であった。
もっとも、一番慌てたのは師匠である。

師匠はかつて二回、日本選手権での優勝経験があり、アジア大会にも出場した、この界隈で知らないひとはいないほどの有名人であり、先代から引き継いだ銃砲店の主でもある。
そのひとが、わたしの射撃姿勢をみて、クビをかしげた。

どこも悪くない。

どこも悪くないのに当たらないという事実だけがある。
だから、どこかがおかしいのである。
そのどこかが、師匠をしてわからないというのだから深刻である。
仲間も動揺しているのは、自分もあんなになるか?という恐怖でもある。

師匠の動揺は、顧客たちの動揺が広がることにある。
自身の指導の限界となっては、名の知れた専門店の沽券に関わる。
しかし、師匠の判断は速かった。
リセットして、初心者がおそわる基本のやり方に戻すことを指導された。

クレー射撃(なかでも「トラップ射撃」という)の、基本は飛び道具をつかう「弓道」とおなじく、「構え」にある。
そもそも鉄砲は、戦国時代の後期に伝来したのだから、日本の素地に弓の道は完成の領域にあった。

名人、那須与一の逸話は源平戦のむかし。
それは、信長の時代からもはるかむかしだったのだ。

そういえば、アメリカには有名な圧力団体としての「全米ライフル協会」がある。
この団体の保守性(日本では「右翼」として)は、おりがみつきだけど、「安全」という前提のルールを保守する、ということからしたら、組織全体が保守化するのは当然である。

たしかに、この団体とて銃の乱射事件を望んでいるわけではない。
秀吉による「刀狩り」の歴史をもつわが国と、憲法修正条項をもつ彼の国の違いは、かんたんに埋まる話ではない。

それはそうと、いまさらながら改めて「基本」に戻すことをした。
すると、基本の銃さばきの意味がはじめて理解できた。
それは、理由はどうあれ「2+3×4」の計算方法をならった小学生が、中学や高校で、この計算の「論理」の重要性を習うようなものだろう。

もっとも、中学や高校でこの「論理」を習った記憶はないけれど、どうしてそうなのか?をしることで強固になる。

それは、わたしの師匠への質問とその答えについての理解度が、かつてない程度の違いになったのである。
自分の上体を、どうしたら滑らかな回転運動として動かすことができるのか?

それには、下半身はもちろん、「体幹」が重要でかつ、バランスが確保された回転軸が必要という知識はあっても「どうやるか?」がなかった。
この「発見」があっての「体得」になるのだろう。
試してみれば、「当たる」ことがわかった。逆にいえば、当たらない理由の発見だ。

なんだか小学生を卒業できた気がしたのである。
この自己満足には、それなりの対価(じつは大層なコスト)を要したのだけれど、ひとつの壁を越えられたことはどうやら確かである。
周辺の仲間の再びの驚きと、師匠の安堵と自信の顔が物語っている。

人生の豊かさを実感した、といったら大袈裟か?
いやいやどうして、人生だってしょせん、自己満足なのである。

宗教国家の無宗教

この話の主語は、「わが国は」というよりも「わが国民は」が適切だ。
日本人は世界最強レベルの宗教性をもっているのに、ほとんどのひとが自分は「無宗教」だとおもっている。
なので、外国の入国審査で「悪魔扱い」されることがある。

「無宗教」とは、「信仰告白」の逆なので、神の反対にいる「悪魔」か、「共産主義者」と判断される。
もっとも、悪魔だって「悪魔信仰」というものがあるし、共産主義もルンペンだったマルクスが自分のユダヤ教を焼き直してつくった「新興宗教」であるので、宗教から抜けることができない。

だから、「無宗教」というのは、じつはたいへんな状態であることを告白していることになって、上述の論法からすれば「人間ではない」と人間が口にしていることになる。
すると、宗教をもっているひとからすれば、本物の「悪魔」ということになる。

こうして、よくて入国拒否。
悪いと逮捕・監禁されて、あげくに(強制)国外退去処分を受けることになる。

こんな処分を受けるとどうなるか?
こうした説明を誰もしないので、なんだか大変なことになったぐらいにしか思わないひとがいる。
それはそれで、おめでたいのだけれども、どうなるかがわかると「しまった」になるのは確実だから、やっぱりしらないと損をする。

パスポートの番号は、新しくなるたびに変更されて、いつでも最新の番号が発番されるようになっている。
だから、パスポート番号だけで管理していたなら、なかなか気づかないんじゃないか?と甘いかんがえをすることがある。

外国旅行が珍しかった時代は、飛行機も発明されていないので船での移動だった。これはその国にとって、外国人が珍しい、ということでもあるので、顔を見ればたちまち正体がわかることもある。
でも、ヨーロッパのように、狭い地域にたくさんの国があって、似たような人種なら、おいそれと外国人だとわからない。

だから、当たって砕ける作戦になるので、身分証を携行していないと大変なことになった時代があった。
いまは、ほとんどの国でパスポートに埋め込まれた電子チップの情報を読み込む。

それで、一度(強制)国外退去処分を受けたら、一生その国に入国できない。
一生なので、こうした処分を受けないに越したことはない。
安易に「無宗教」とこたえて、処分されることがいまでもあるのだ。

わたしは、「仏教徒:ブッディスト」と答えるようにしている。
およそ世界の国で、仏教徒を拒否する国はない。

ならば、仏教徒は他人に害を与えないのか?といえばそうでもない。
仏教徒によるテロだって、暴動だってある。
ただし、仏教は内面を重視するので、外面も重視する他宗教からすればいくぶん温和なことになっている。

でも、ほんとうは、日本人は「日本教徒」という特殊な宗教の信者なのだ。
この宗教は、信仰告白を必要としないし、入信するにも日本国内で生まれて育つと、ほとんど無意識に自動的に信者になるようにできている。
だからじつは、世界最強レベルの宗教なのである。

これは、「日本人の定義」にかかわる問題なのだけど、日本人はなにをもって日本人というか?について、おどろくほどに無頓着なのである。
むかし、リーダーズダイジェストの別冊で、世界の人の定義集という辞書のような本があって、これを引くとあっさりしていた。

日本人:日本国内で生まれて日本国籍があり、日本語を話す人。
と記憶している。
外国で生まれたら日本語を話そうが話すまいが、両親のどちらかが日本人なら「日系人」といい、まったくの外国人で日本語を話しても日本人とはいわない。

ユダヤ人だと、ユダヤ教を信仰している人。つまり、人種も国籍も問わない。
アラブ人だと、アラビア語を話してイスラム教を信仰している人をいう。
なので、アラビア語を話すけど、キリスト教を信仰しているならアラブ人とはいわない。
イランは、イスラム教を信仰しているけれど、ペルシャ語を話すのでアラブ人ではない。

というように、けっこう言語と宗教が「人」を決めるのである。

日本人の本当の定義は、上述に「日本教の信仰」が加わるけれど、日本人のほとんどだれも「日本教の信者」とおもっていないので、「定義」として書き出すことができないうらみがある。

日本教の真髄は、「穢れ」、「言霊」、「禊ぎ」が三点セットになっている。これには、「怨霊」からのがれる効果も含む。
これらは、「精神世界」で物質世界での理屈では説明できないために、「えんがちょ」も派生してくる。

そんなわけで、コロナ禍における「差別的」な社会現象が、日本教の宗派内における「穢れ」として起きている。感染とは穢れなのだ。
そして、なんと「禊ぎ」が、政府の用意するわけのわからないワクチンに変容してしまった。

だから、「ワクチン拒否」をだれもいえない状態が次にやってくる。

ならば、誰かが「コロナの怨霊」となって、祟りではなくただの風邪だというしかない。

「我こそはコロナの怨霊~。なにがワクチンだと~。馬鹿者たちめ。ただの風邪に怯えおってに~」こそが、唯一の解決法なのである。

「デマ」との闘い

世紀のデマ。

これが、「コロナ禍」の真相である。
しかし、おおくのひとが聞く耳を持たなくなっている。
デマであろうがなかろうが、「安心」を最優先させる思想が、日本人の心を支配するからである。

一方、5月にボチボチはじまってはいたが、今月1日から大規模化したドイツ・ベルリンで発生した「反コロナ対策デモ」が止まらない。
一昨日の29日には、3万8000人が参加し、そのうち暴徒化した300人が逮捕されたとBBCが伝えている。

暴徒と化すのは感心できないけれど、政府による「規制に反発する」という態度は、「自由の侵害」という基準からすれば当然である。
かつての「同盟国」ドイツ人は、どのような思想で戦後を生きてきたのかがわかるデモでもあるのだ。

すると、反対に、日本人はどのような思想で戦後を生きてきたのか?
「自由と民主主義」という用語が、なんだかむなしかったのは、「空っぽだった」からだと確認できることになった。
むしろ、いま、日本人は自由と民主主義を「無視する」ことを、あたらしい日常といっていないか?

政府の失敗をいろいろ指摘しているひとたちはたくさんいる。たとえば、国境封鎖が遅れたとか。
けれども、第一に、政府は失敗するものだという「前提」がある。このことを忘れて、コロナ対策だけを間違えているというのは間違いである。
いつものことの「一部」にすぎないのである。

一連のコロナ対策で、このブログで指摘している政府の失敗は、緊急事態宣言を出して、終息宣言を出したら「元に戻る」とかんがえたことだ。
すなわち、法律の定めによって、巨大な権限を首相=政府から、各都道府県知事に「委譲」したのが緊急事態宣言だったけど、終息宣言をしてもその権限が元に戻る「ことはない」ことを予測できなかったことにある。

これは、地方の反乱なのである。反乱の予測ができない中央の傲慢さ。
いわば、廃藩置県以来の、中央集権国家における地方政府たる都道府県が、「藩」に戻るという現象を起こしてしまったのだ。
このことの重要さがいわれていない。

たとえば、中央政界を仕切るのは、圧倒的多数の与党である。
本人がこの与党の党員であったり、与党が支持・支援して当選した知事たちが、天領のお代官さまでいるのでもなく、ちゃっかり政府に対抗している。
その筆頭が都知事であるけど、だれもこれをとがめない。

その原因は、自由と民主主義を前提とする「法治の建て付け」が、もともと空虚だったからである。
さらに、わが国最大の政権与党が、「近代政党ではない」という大欠陥を露呈していても、国民がこの欠陥にぜんぜん気づかない。

さらにこれを気づかせないように、このタイミングで辞任表明した首相は、この一点だけで、歴代最高の総理大臣であるのは確かである。
政権与党の最大の欠陥を身体を張って、とにかく隠蔽することに成功させた功績は、与党にとっては100年に一人の逸材であったといえるからである。

ただし、このほかは、長期政権だったということ以外、ほとんど功績がないという特徴がある。それは、後継者がいないということでもわかる。
トップの責任には、後継者づくりがあるからだ。
わが国を長期衰退させたのを、功績と評価する外国はあるだろうけど。

都道府県知事は、内閣総理大臣と「ちがって」、住民による直接選挙で選ばれるから、「おらがお国の大将=藩主」になりえる。
これを、中央政府による、さまざまな「規制」と「制約」によってつなぎとめていたのもを、緊急事態宣言で中央政府が自らこの糸を断ち切ってしまったのだ。求心力ではなくて、遠心力となったから、物理法則である。

西洋風にいえば、「パンドラの箱」を政府が自分で開けたのだ。
パンドラの箱とは、全知全能のゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした小箱のことで、これを開けたために不幸が飛びだしたが、急いで蓋をしたため希望だけが残ったという話だ。

ギリシャ神話ならすぐさま閉じて「希望が残った」けれど、日本政府はなにもしないから、とうとう希望も失せた。
知事たちの反乱に、政府は為す術をもたなかったのではなくて、上述の「建て付け」が狂って、締めようにも締まらなくなったということだろう。

すなわち、自由と民主主義でもないのに、それを装って「法治国家」だと言い張ってはいたものの、とうとう戦後のバラックづくりの建物が、ちょいと一本木材を抜いてみたら、音をたてて崩壊してしまったようなものである。

さらに、まちがったリスク管理もある。
いつの間にか日本人は、「リスクは避けるもの」がこうじて「リスクは絶対に回避するもの」になった。この「回避」には、「逃避」という意味もある。
だから、徹底的にリスクを嫌う。

しかし、リスクあっての「利益」であるから、リスクはあくまで「コントロール」すべきものなのである。
コントロール(制御)するのは人間だから、ひとが主体になってリスクに立ち向かう、というイメージになる。

リスクに立ち向かうことができなくなったのは、バブル崩壊による「ショック」(精神病理)による。
これは、「心的外傷後ストレス障害」であるので、30年前に罹患した病気が治癒しないばかりか悪化しているのである。

さらに、75年前の敗戦・占領というショックからも立ち直っていないから、日本人の心の傷による病は、年輪のように重なっている。

以上のように、一見複雑そうにみえるけど、あんがい解きほぐしてみれば、めちゃくちゃ複雑でもない。

コロナ禍とは、こうした日本人がつくる「社会が生みだした心の病」なのである。
だから、感染症の専門家が正しい情報を提供しても通用しないし、政府の専門家会議のトップが「収束に向かっている」と発言しても、知事という医学の素人が平気で否定できて、そんな知事たちの支持率が高いのである。

こうしてみれば、精神医学か社会心理学の専門家による「教導」が必要なのだけど、それがまたデマだと目も当てられない。
ならば、原点に立ち返って、「自由と民主主義」の本質を確認するという態度が、どうしても必要なのである。

ドイツでのデモが、それを教えてくれているのだ。
ただし、この報道にも「極右」という用語が埋め込まれているから、報道を装った誘導に注意したい。

コロナ「崩壊」のシナリオ

なんだかわからない8月の「夏休み」も終わって、来週には9月になる。
いつもの年なら、『誰もいない海』(1967年)の歌詞の通り、黄昏の秋がはじまるだけなのだが、「働きてが誰もいない」状態になりそうな、嫌な予感だけが迫ってきている。

いまさらだけど、わが国経済はとっくに「内需型」に変換されている。
かつての「輸出依存型」ではないので、「貿易黒字」が溜まりすぎてアメリカから叱られることもなくなった。そのかわり、「貿易赤字」というはめになっている。

産業構造が、「サービス化」して、鉱工業従事者の3倍以上がサービス産業に就労している。その割合は、就労者の7割にもおよぶ。
ここから、金融とIT系という「稼ぎ頭」を除くと、ざっと6割のひとが「人的サービス業」に従事している。

昨年19年度の就労人口は、5660万人(役員除く)なので、念のため役員も入れれば、大まかに6000万人が「働くひと」の総数なのである。
すると、6000万人×6割=3600万人が人的サービス業にいる。

人的サービス業とは、旅行・交通・宿泊・飲食・理美容・医療・小売・流通といった、接客をともなう業態をさす。

3月にはじまった雇用調整助成金のコロナ対策は、半年間を前提としていたから、9月で期限がやってくる。
これを「伸ばす」動きはあるが、「永久」ということはあり得ないので、いつかは終わりがくる。

すると、いきなり「倒産」にはならなくても、「雇用調整」=「解雇」が大量に始まると予想できるのだ。

もし、半分なら1800万人、その半分で900万人が失業するかもしれない。
一気にこれだけの数は、大袈裟ではなくて「雇用の崩壊」を意味するのである。

まさに「未曾有」の状態で、あり得ないほどの「社会秩序の崩壊」にもなりかねない。
失業保険があっても、就職先がみつかるはずもない。
それが、利用者激減のコロナ禍によるからである。

職を失っても、あらたに別の職に就くことができれば、とりあえずなんとかなる。
しかし、いるはずの利用者が「いなくなった」のがコロナ禍なのだから、あらたに職がみつけることは困難だろう。

すると、日本人が戦後連綿として作り上げ来た、社会システムとしての「中間層」に巨大な穴があくことになるのである。

「観光客」とは、人類史でみれば、産業革命による労働者のことを指す。
その労働者が、職を失ってしまえば「観光客」もいなくなる。
「Go TO」どころではないのである。
しかし、だからといって「観光業」だけにショックがくるということでもない。

「産業連関」という「つながり」をかんがえれば、すべての産業に影響するのは、予想される失業者数が「巨大」だからである。
自動車も住宅も、購入層がいなくなればどうなるのか?
金融機関は、パニック的な「貸し剥がし」をする可能性が高い。

9月から2ヶ月後の今年の11月には、世界史的投票が世界の二箇所で行われる。
第一は、アメリカ合衆国大統領選挙で、第二は、スイスの国民投票である。
スイスの国民投票は、年に数回行われるので、これ自体は珍しくもない。

ただ、11月に予定されているのは、世界にとって極めて重要な選択なのだ。
それは、「人権蹂躙する国に、スイス企業はつき合うか否か?」を問う国民投票だからである。

もし、この投票結果で、「スイス企業はつき合ってはいけない」となったとき、スイス企業であるスイス銀行は、わが国の隣の大国支配者たちの「口座を閉鎖」するかもしれないのだ。
その額は、「1200兆円」ともいわれている。ゼロは二個でまちがいない。

そんなわけで、わが国の外では、大きなことが決められる時期が重なっている。
しかし、わが国の中で、コロナ禍を収束させる動きがないなら、つまり、これまでの延長でしかないなら、自己崩壊をはじめる運命が迫ってきているのである。

マスコミは、国民への「洗脳」をどう解くのか?

ありもしない「病」を、政府だって地方政府だって、どう始末をつけるのか?が問われているのに、病があるという前提に立つのは、「ワクチン」という利権のためか?

いまこそ、人的産業に従事するひとたちは、職をかけて戦わないと、黙って職を失う崖っぷちにいるのだ。
「貸し剥がし」がはじまれば、役員だって失業する。
会社がなくなるからである。

冒頭の数字に役員も含めたのはこのためだ。

つまり、「産業」がなくなる可能性がある。
だから、「未曾有」なのである。

こうした事態に、官僚支配の政府は無力である。
「未曾有」な事態に、官僚は対処できない。
それが「官僚」だからである。

いよいよ、自分でかんがえて行動することが求められている。
これは、「訓練」ではない。

温泉を殺す公共の温泉

温泉宿の温泉しらず。

よくいわれる皮肉である。
だけれども、図星でもあるから耳が痛い向きもいるだろう。
耳が痛いのは、図星をいわれたストレスがそうさせる。
だから、気がつかないひとには何もストレスを与えない。

これは、天然資源でもある「自慢の温泉」なのに、泉質もなにも研究しないで放置している状態をいう。
この温泉の特徴はなんですか?と質問されて、「美人の湯です」と答えるなら、どうして美人の湯なのかの根拠ぐらい識っておけといいたくなることがある。

ちゃんとした温泉ならば、更衣室あたりに必ず、「温泉成分表」やら「加水」や「加温」の有無を表示している。
けれども、温泉成分表の見方とか、それがどんな意味なのかを説明した掲示がひとつもないのも特徴になっている。

じっさいに、主人や女将あるいは、「湯守」がどこまで自家の温泉についての知識があるのか?

「湯守」の代表的な仕事は、温度管理である。
天然温泉なら、こまめに温度管理をしないと、「熱くて入れない」とか「ぬるくて入れない」といったクレームになる。
小さな宿なら、バルブの開け閉め具合でこれを調整する。

バルブのわずかな動きで温度がかわるから、専門家としての「湯守」が仕事として成立するのである。
客の到着時間にあわせて、ぴったりの温度にするには、経験だけでなく統計データの処理ということも業務のうちにある。緻密なノートが彼らの「宝」なのだ。

いまの風呂の温度、いまの源泉の温度、いまの気温と予報、露天なら風速や風向き、そしてあわせたい時刻までの時間があって、いわゆる「多変量解析」をする。
それでもって、はじめてバルブをさわるのだ。あとは、「勘」である。

温浴施設となると、機械がこれをやってくれる。
しかし、どんな温度設定にするのかは、あんがい経営方針で決めるのである。
「ぬるい」と客が浴槽に滞留して、新規入浴客があぶれてしまう。

すると、客一人の動きを「粒」に見立てれば、「流体力学」のモデルのようなイメージなって、もっともスムーズなコントロールができる。
けれども、あんまり温度調節だけに依存すると、常連客が嫌がるから、全体の流れを読むことが重要なのである。

「民営の強み」はここにある。

だが、この国はソ連型の社会主義国なので、「官営」の温泉施設がたくさんある。
官営の特徴は、利益をださない工夫を「建前」に、儲けたいという「本音」を「隠す」ことにある。

むかしは、「民業圧迫」といって、さまざまな業界が「抵抗」した。
その大本が、経団連だったのだけれど、すっかりソ連型の「補助金欲しさ」に目がくらんで、「乞食の総本山」に転落した。
そんなわけで、商工会議所とか青年会議所とか、さまざまな業界団体も、みんなで乞食になる努力をしたのである。

利益をだしていないから、民業圧迫ではない、という言い分は、施設従業員(=役人が支配人とかをしている)の給料が高額だからである。でも、施設管理者となるひとたちの委託料をケチるから、赤字にならないようにしている。

それでも赤字になるのは、施設に魅力がないからである。

建設費には異様なおカネをかけられるのは、その自治体の上位団体から補助金がでるからで、「もらわないと損をする」という、やっぱり「乞食の発想」をするからである。
立派な建物=稼げる施設、にはならない。

むしろ、建設費をたいそうかける分、ランニングコストも跳ね上がるようにできている。
だから、建物とうってちがって、内部の貧困がかえって目立つのである。
それで、仕方がないから、役所がつくった意味不明のポスターをあちこちの壁に貼って、高価な内装も台無しにしてしまう。

このセンスの無さは、あんがい「景観」を台無しにする感覚と同じだから、できるだけこの手の施設は使わない努力をしている。
しかし、最近は出自を明かさない、広義の「偽装」が行われていて、公共の温泉とは気づかせない施設がある。それで、うっかり利用してしまうのだ。

もちろん、入口周りで気づくのだが、はるばるやって来た勢いで、そのまま入館券を購入すれば、まことに役所の窓口と同じなのである。

温泉好きにとって、最悪なのが「循環式」である。

浴室などにある「この温泉の特徴とその説明」によれば、日量600立米を超える豊富な湧出量を自慢しているはずなのに、湯船から湯が溢れていないなら循環式である。
そっと湯の匂いを嗅げば、塩素臭がする。

「事故防止」が最優先なのだ。

なので、浴室の清掃もおろそかになる。
消毒しているから、安心だ。

有限の天然資源である温泉をこんな扱いにしておきながら、必ずどこかに「サステイナブル」をうたったポスターを館内にみつけることができる。
こうした分裂症状を、ぜんぜん分裂と思わないのは、ほんものの病気である。

全国の自治体に、直営の天然温泉施設は作らせても運営させてもならない。
ゆえに、いまある施設は、早急に民間払い下げを実施させ、入札候補者がいないなら閉鎖すべきである。

同じ地域にある民営の温泉施設では、「あそこは汚いし湯もよくないから行かない」と、常連さんが湯船の中で問わず語りに話してくれた。

正解である。

絶望的な温泉宿の破産

2年も前に「絶望的な温泉宿」というタイトルで書いた宿が、こないだ破産したというニュースがあった。
まるで、コロナ禍の被害のような書き方ではあったけど、ぜんぜんちがう。

振りかえれば、2年も営業していたのが凄みとも思えるのである。

倒産や破産など、残念な事態が発生するのは、やっぱり経営に失敗しているのである。
このごく一般的な状況からの破綻は、いつでも起こり得るので、コロナ禍にあっても発生している。その意味で、本当のコロナ禍が原因の経営破綻は、これからの秋口から発生するとかんがえられる。

つまり、この秋前の破綻とは、一般的な経営の失敗によることが原因になっているとかんがえられる。
ただし、早く見切りをつけた場合の「店じまい」はまた別の判断によるものだから、これを「破綻」とはいわない。

「秋口から」という理由は、雇用調整助成金の期限があるからだ。
コロナ発生の春から始まった制度で、半年間が当初の助成期間だったから、「秋」が問題になるのである。
いきなり破綻せずとも、雇用の終了すなわち「解雇」が大量に発生することが予想できる。

わが国でほとんど不可能な正規雇用のひとの「解雇」ではあるけれど、事業継続が困難となったことが「解雇事由」となれば話は別である。
これを「会社都合」という。

逆にいえば本人が犯罪を犯した以外、事業継続が困難でないなら、解雇はできないと考えるのが妥当である。
すると、従業員側は、自社の経営情報を普段から知っていないと、ある日突然、解雇されることがあるということになる。

この意味で、経営者の経営情報開示義務は、株主だけでは済まないのだが、わが国ではあんがい重要視されていない。
個人経営の株式会社の場合、株主総会でさえも「書類だけ」というのがふつうである。

公認会計士による会計監査を経るのではなくて、税理士がつくる決算をもとに、税理士がそのまま「総会議事録」を書いて、それに株主が押印すれば便宜的に総会をやったことになる。

こうした会社の場合、決算書すら本当の株主だって見ていないかもしれないのだから、ましてや従業員に開示するという手間をかけることはまずないといえる。
それに、「36協定」ですら締結していないのが「ふつう」だから、従業員から経営情報の開示要求をすることもないのは、「従業員代表」も選出していないからである。

このように考えると、この国の労働問題は、その実態として「労務問題」にもならないレベルなのである。
そうすると、労働組合が存在するということは、こうした企業で働くひとたちにとっては、まったく想像も及ばない「別次元」のことになるのである。

想像も及ばないから、自分たちで労働組合を設立しようとかんがえることもない。なので行動もしない。
もちろん、会社側=経営者は、自社に労働組合が設立されることを「よしとしない」という常識がある。

これには、思想的に怪しい労働組合がたくさんあって、「活動家」が事業の妨害行為をするかもしれいと畏れるからである。
こうして、まったく「労働三法」どころか、「労働基準法」による「保護」すら得ることがないでいても、痛いとも痒いともおもわないひとたちがたくさんいるのである。

労務問題であれば、社会保険労務士という「士業」があるけれど、雇い主はほとんどの場合、経営者になる。
ならば例えば、「社会保険士」と「労務士」とに分けて、経営者は社会保険士を、労働者は労務士を雇う方法をかんがえてはいかがか。

あるいは、労働基準監督官の定年退官者を労務士として登録し、労働者保護のための活動をさせるべきであろう。
当面の目標は、すべての事業所に「36協定」を締結させることである。

つまり、働くひとへの2大義務を課すことが重要なのだ。
・経営情報の開示
・36協定

これは、上述のように経営者には「痛い」と思われるだろうけど、倒産させないための「保険」でもあるのだ。
なんとなれば、従業員の働きの「質」こそが、その企業のパフォーマンスを決定するからである。

経営との一体感を持つための、「最低限」がこの2大義務であろう。

だから、法制化すべきである。
法は、最低限のルールであるからだ。
これに、「任意」として加えれば、働きの「質の向上」すなわち、目的合理的な労働による「付加価値の向上」のことになる。

優良企業は、自然と「付加価値の向上」に常に取り組んでいる。
仕事内容の分析を通じて、改善を怠らないのはこのためだ。
残念な企業は、こうした努力をいっさいしない。
「やり方」をしらないだけでなく、「動機」すらないのである。

だからこれが、倒産の理由なのだ。
2大義務を課すと、従業員側からチェックが入るけれども、それが経営者の「動機」になったり、従業員からの付加価値の向上「提案」になったりする可能性がある。

資金を提供する金融機関だって、2大義務の項目がなければ融資できないとなれば、審査も簡単になってスピードアップする。

融資が受けられないかもしれないなら、経営者は「やるしかない」だろう。