種明かしをするマジシャン

マジシャン,むかしなら「手品師」が,いちど演じて拍手を得てから種明かしをして,もういちど拍手を得ることがある.
その見事な手さばきは,種が明かされたといっても,決して見劣りしないし,その場でやってみろといわれても,にわかに自分の手がいうことをきかない.

もちろん,一流で有名になったマジシャンがする,種明かしをしたマジックは二度とつかえないから,あらためてかんがえれば,すさまじい「自信」である.
こんなの「朝飯前」という余裕と,種はいくらでもあるという余裕なのだろう.
その発想の柔軟性に,驚くばかりである.

むかし勤めていたホテルで,顧客を対象にしたマジック企画をやったことがある.
少人数限定で,会場は個室をもちいた.
演目は二部構成で,第一部はプロマジシャンのテーブルマジックショーである.
第二部は,プロが市販の手品グッズの模範演技をしてから,二種類をお客様が選んで,これをマスターしてもらうための指導をする,という内容だった.

フリードリンクにしたが,だれもおかわりをしない,珍しい事象が起きた.
皆様それどころか,マジシャンの手許に「集中」していた.
第二部は,事前におもちゃの手品グッズでこれからどれかをマスターしていただく,と案内したのに,ショーの延長だと勘違いするひとがたくさんいた.

いよいよ,自分が選んだおもちゃでやってみるのだが,なんとも無様なのである.
それを,プロが丁寧にアドバイスすると,終了の頃には皆さん様になっていた.
その満足度は高く,スタッフにまで厚い礼を頂戴した.

おもちゃといえども,ちゃんと練習すると,すばらしい演技ができるものだ.
その種は,わかってしまえば実に他愛もなく,子供だましのようであるが,自信たっぷりの手さばきと組み合わさると,おとなが口を開けてしまうものに変身する.
これが,趣味としてマジックを愛好するひとたちのやめられない理由だろう.

すばらしい旅館も,これに似ている.
ほんのわずか,お客様の要望を先回りしてやってくれることが,いわゆる「気遣い」であって,それがたいへん心地よい.
その心地よさにうっとりする姿をみることが,サービス提供側のやめられない理由だから,マジックとおなじなのだ.

だから,すばらしい旅館には,種も仕掛けもたくさんある.
お客様に,「種も仕掛けもありません」ということまでマジックとおなじだ.
その種や仕掛けは,どうなっているのか?
じつは他愛もないことであることがおおい.

しかし,サービス手順のいたるところに種と仕掛けがあって,そのうちのいくつかを,地雷のようにお客が踏むと,この地雷は心地よさを爆発させる.
いい宿は,これらの種や仕掛けを,ドンドン仕込んでいる.

ちょっと前までは,アナログで仕込むしかなかったから大変だった.
秋になってリスが餌を地面に隠す行動をするが,そのおおくが忘れられて,春に発芽する.
木の実というリスへのご褒美で,いくつかを地面の適度な深さに埋めさせる木々の戦略は,おそろしくよくできている.
しかし,人間がやる仕込みは,忘れてしまうと結果が出ない.

いまはデジタルの時代だ.
おかげさまで,デジタルだと検索が簡単にできる.
それで,せっかくの仕込みを忘れないですむし,思いださせてもくれる.
これは便利な時代になった.

ところが,アナログだろうがデジタルだろうが,お客様のちょっと先をいく種と仕掛けをあらかじめ仕込んでおこうという「意志」がなければ話にならない.
つまり,この「意志」の有無こそが,その後の明暗をわけるのである.

マジシャンから,すごいことが学べるものだ.

幻想の「魚食い」日本人

以前,日本人はコメを食べてこなかった,という話に触れた.
これに加えてじつは,日本人は魚をそんなに食べてこなかった.
たくさん食べてきたのは,漁村周辺であり,それ以外の地域や山間部では,めったに口にできなかった.

1960年からの数字がある,農水省の「食料需給表」によれば,最大値は2001年である.
百年前の1911年から25年の1人あたり消費量は年間3.7㎏で,2012年では30㎏弱だから,いまは8倍ほども魚を食べている.逆にいえば,むかしはそんなに魚を食べていないのだ.
なぜか?

冷凍・冷蔵技術の発達がささえる流通網と,家庭の冷蔵庫がこたえである.
わたしが中学生のころ,群馬のいなかにマグロの刺身をもって親戚各家を訪ねたことがある.健在なうちにと,祖父の兄弟たちを巡る旅であった.
父が運転する自動車のトランクに,たっぷりの氷を詰めたアイスボックスで運んだ.
関越道は前橋ICまでで,まだ全線開通してはいなかった.

行く先々で,祖父のそっくりさんたち(すぐしたの妹のおばあさんが一番似ていた)が出てきて,かならず歓迎の宴会となった.そこで,持参のマグロの刺身を一口つまむと,たいがいの兄弟たちが涙を浮かべてよろこんでいた.
子どものわたしには,大袈裟におもえたが,全員がそれぞれに「こんなに新鮮なマグロの刺身を生まれてはじめて食べた」と言っていたのを珍しく聞いていたから覚えている.

その当時はもう,横浜あたりではふつうの食べ物だし,どこにも珍しさはなかったが,関東地方の群馬あたりでも,内陸部ゆえに魚を刺身で食べることは,そうとうに珍しかったらしい.
だからか,憧れとしてのマグロは,いまではあの草津温泉でも出てくるし,同じく海のない山梨県は日本一のマグロの刺身の消費量を誇っている.静岡から運ばれたマグロが,反対側の富士山の景色をめでながら食されているの図である.

テレビやマスコミの功罪のうちの罪として,旅番組恒例の「地元で水揚げされた豊富な魚介類」という紹介は,絶望的な現実に幻想をあたえるだけの「魔語」である.
日本でとれる魚は,ほとんどなくなったというのが現実だけど,ふつうの生活ではみえてこない.

小田原の駅前には,むかしから有名な干物屋がある.いまでも盛況で,混雑時には店内にすらなかなか入れないほどだが,まじめな経営者がしっかり産地を表示してくれていて,そこには地元小田原漁港も相模湾の神奈川県の漁港も,はたまた日本の地名も皆無である.
あたかも,世界旅行をしているような様相で,できれば世界地図で確認したくなるしらない国もあったりする.

ウィキペディアによると,2016年4月1日現在で,国内には2886の漁港がある.
どれほどが採算に適しているのか,かんがえるだけで気が遠くなりそうだが,戦後の食糧難を支えるために,貴重な動物性タンパク質をいかに確保するのか?という「国策」が,途中でブレーキをうしなった結果だろう.
暴走列車ならぬ,暴走建設になってしまった.わが国の海岸線は立派な漁港ばかりになっている.

そんな漁業者を「救う」ために,こんどは獲るだけ取れるという制度の暴走で,肝心の資源そのものがなくなった.
産卵エリアに大挙して網を張れば,そのうちどうなるかはだれでもわかるが,かつての山本リンダのヒット曲のように,「もうどうにもとまらない」で,廃業を余儀無くされるまで獲りつくしたのは,「強欲」で智恵がなさすぎた.
しかし,この「強欲」の一端は,われわれにも責任がある.

「産地表示」は,販売者への義務となってのしかかるが,加工者にはまだ甘い.
だから,海沿いの旅館は「地物」といってごまかせる.
瀬戸内の静かな旅館で,すばらしい中トロの刺身がでたので「瀬戸内でマグロが獲れるのか?」とイヤミを言ったら,「まさかお客さん,ご冗談がうまい」と仲居さんにかわされた.しかし,その後の一言には重みがあった.
「この辺も,不漁つづきだから,マグロでごまかしとります」

そのマグロ,とくに太平洋クロマグロが絶滅危惧種になっている.
大西洋のマグロは,乱獲防止策がきいて,近年急速なる資源復元が達成された.マグロにかぎらず,世界標準は資源維持を中心価値においている.それで,どちらさまも「漁業が好調」だという.
少なければ,価格が高くなるからだ.

何であろうと安くたくさん食べたい日本人の強欲が,世界で唯一「獲りつくす」という略奪の伝統を維持している.
国連海洋法条約に,沿岸国は水産資源の維持ができる漁獲枠設定を義務としているが,わが国がこれを守っているというひとはいないだろう.守っていれば,かくも沿岸で魚が獲れなくならない.

もし,産地表示が旅館やホテルにも義務づけられたら,料理説明は世界の地名ばかりになるだろう.
「地物」は,養殖が9割の海藻類,刺身のつまにあたる「わかめ」だけ,ということも笑えない冗談ではない.

沿岸の旅館の苦悩はつづく.

町の豆腐屋

自営業だが,飲食業ではない家内制食品工業としての豆腐屋がなくなってきている.
こんにゃく製造業もしかり.

ひろい横浜には,その中心部だけに親しまれた「花こんにゃく」という超ローカルな食べ物がある.中心部限定だから,横浜市民でもしらないひとはおおいだろう.
これは,ふつうのこんにゃくとちがって,デンプンが添加されているので,白濁しており,食感はぐにゃぐにゃしたものではなくて,もぐもぐしていて簡単に歯がはいる.

長い型の断面のかたちが,あけぼののように半円形でギザギザがあったから,「花」のようで,それで「花こんにゃく」と呼んでいた.
ずいぶんしてから,製造方法由来の「かまぼここんにゃく」という別称があることをしったが,わたしにとってはいまでも「花こんにゃく」に変わりがない.

どうやって食べるのか?といえば,圧倒的に「おでん」の種としてである.ふつうのこんにゃくと花こんにゃくの混在こそが,横浜中心部ローカルのソウルフードなのであった.
だから,商店街の練り物製造販売のお店で,あるいは豆腐屋さんには白滝のとなりに花こんにゃくはふつうにあったのだ.

おとなになって,世間がひろくなってくると,この花こんにゃくが,横浜ローカルであることに気がついた.
いつか製造元を訪ねたいとおもっていたが,やっときたチャンスに訪問したら,一週間後に廃業するという.専用の機械が更新を要して,その費用に耐えられない,と説明をうけた.

このお店の初代が,大正時代に「発明」したというはなしを聞いた.
どうしたら味がしっかり染み込むのか?子どもでも食べやすい食感はどんなものか?
上述のとおり,デンプンをくわえるのだが,その分量比は苦労して得たという.そもそも,どうしてデンプンを選んだのかは孫娘をして不明だった.また,型にヘラで詰めるとき,空気を抜くのが難しく,加熱方法も最後は勘だよりというから,そのぼんやりとした見た目とは裏腹に,大層な手間と技がかかる食べ物だった.

誕生して100年あまり.さてはこれで絶滅かと覚悟したが,しばらくして市内に数軒が製造を継続していることがわかった.貴重な「型」も廃棄ではなく譲渡されたのではないかとおもう.
しかし,いつものおでんの種の煉物屋さんからは消えて,商店街の豆腐屋の廃業もあるから,もはや入手困難な逸品になっている.

それで,散歩のついでに豆腐屋をのぞくと,たまに花こんにゃくを発見する.もう,桶に無造作にいれてあるのではなく,パックになっているから,ちゃんと商品陳列を確認しないといけない.
もちろん,見つければ必ず購入するから,この時点で今晩は「おでん」に決定となる.
そして,あと何年食べられるものなのか?と自問しながら,もぐもぐやるのである.

豆腐はスーパーで買う物,となってしまった感があるが,神奈川県央の,県外のひとにはあまり有名でない,温泉地の宿に泊まったときに,堂々と近隣のうまいものとして,朝夕とも献立に製造販売している店名を表記していた.
断って献立を頂戴して,これらのお店巡りという予定外の観光をしたことがある.

お茶農家だけ遠距離のため避けたものの,都合4時間を要した意外性があった.
その中に,驚愕の豆腐を製造販売するちいさなお店があった.
一週間後にリピートしていろいろ聞いたら,とにかく「豆」がちがう,という.
神奈川県内産の特別な品種で,北海道産丸大豆の二倍以上するお値段らしく,県内にはあと二軒(白楽と逗子)の豆腐屋がこの豆で製造しているとも聞いた.

一丁300円超えする豆腐をどう感じるかはそれぞれちがうだろうが,スーパーの一丁40円とは話がちがうのは当然である.
毎日,一回だけの仕込みだから,製造数は限定である.ところが,150円の豆腐より先に売り切れる.それはそうだろう,横浜から片道1時間以上かけて買いに行く豆腐が,150円ではおさまらない.
地元の知り合いに土産として差し上げたら,「どこの豆腐だ?」と驚かれて,こちらが驚く痛快がある.

直木賞をとった「あかね空」は,豆腐屋のはなしだった.
作者の山本一力氏は,工業高校の電子科卒業である.

家族経営のお店はどちらさまも,家族の崩壊とともに絶滅危惧種になっている.
こんにゃくや豆腐といえばたわいもないもの,とおもいがちであるが,原始人にはつくれないからあんがい文明的な食べ物である.

三年物のこんにゃく芋は,収穫後冬場にストーブをたいて保存し春に植えかえす,を二回くり返す手間ができる農家が激減しているし,県内産の特別な品種の大豆も,だれが育てているのかを想像すれば,製品ではなく原材料が入手困難になっている.

ガラスとコンクリートの街が文明だとおもっていたら,ちゃんとしたこんにゃくも豆腐も食べられない日がくるかもしれない.
足下の文明がこわれはじめていないか?

有名でない温泉宿は,たいへんなことを教えてくれた.

なんでも解決病の泥沼

問題に気がつけば,なんでも解決しなければならない,とかんがえることを「なんでも解決病」という.
気持はわかるが,アプローチがわるい.
それで,いっこうに問題が解決しないから,極端に拘泥する.
そして、まさに,泥沼化するのである.

この病気のメカニズムは,目的合理性の欠如,からの,最適化アプローチの検討を無視した解決策の実行,による.
つまり,ちゃんとかんえずに行動してしまう,ということにある.
だから,本来は解決策にならない解決策を実行して,ズルズルのドロドロになるのである.

「やったからには後には引けぬ」という論理である.
日本人の失敗の典型的な思考・行動パターンである.
しかしながら,むかしから「押してもダメなら引いてみな」という言葉があるし,「岡目八目」といって第三者的な目線だとよく見えるという比喩もある.

家庭の台所によくある,レバー式水栓は左右に振れば水の温度が変えられて,上下に動かせば水が出たり止水することができるから,温水専用のコックと水専用のコックをまわして水量を調節しながら温度も調節する方法とは雲泥の差の便利さがある.
ところが,この水栓にも大問題があった.

上で止水するか,下で止水するかという問題である.
毎日のことだから,「なーんだ」という問題ではない.
それに,他人の家に行って,これが逆だとおもわぬところで水浸しにしかねない.
一方の方法に慣れているから,無意識に操作してしまうのだ.

決着は,阪神・淡路大震災の後についた.
「下で止水」がJIS規格になったのだ.
台所の棚からものが落ちて,レバーにあたっても「下で止水」なら問題ない,という「安全性」が勝った.
国内最大手が採用していた「上で止水」方式をいまでも使用していたなら,阪神・淡路大震災の前の製品だと断定できるようになった.

いまだに解決しない事例では,国産車のウィンカーとワイパーのスイッチ位置と外国車の位置が逆であることがあげられる.
国産車のウィンカーは,右側.外国車は左側.
国産車のワイパーは,左側.外国車は右側である.
外国車のハンドル位置が右だろうが左だろうがこれは変わらない.それで,国産車の運転に慣れたひとが外国でレンタカーを借りると,ここ一番の交差点でワイパーが動き出すことがある.

国産車の位置は,JIS規格で決まっていて,外国車はISO規格で決まっている.
だから,この問題は「規格」の決定要素が根源にある.
大手自動車メーカーによる,完成検査の不正も,国内規格に合致しない,ということだから,最初から完成検査をもとめない外国の規格では,なんの問題もなかった.問題メーカーの自動車輸出は好調をキープしている.

ちなみに,国産車の輸出車は,当然ながら相手にあわせてISO規格になっているから,ウィンカーとワイパースイッチは外国車とおなじである.
日本車を買った外国人が,ここ一番の交差点でワイパーを動かすことはない.
「鉄板規制」にじつはJISも含まれている.

物の世界では,目で見えることがおおいから,わかりやすい,とはいうものの,だからといって簡単に解決できないこともある.
このあたりで,産業デザインの専門家は,驚くほど頭脳をつかっている.
そして,このあたりのことに,人的サービス業なかんずく伝統的な宿泊業者や観光業者は,驚くほど無関心である.

それでいて,プロを自認していることにどれほども疑問をもたない.
他業界のひとには不思議にみえるかもしれない.
しかし,これは、なんでも解決病がおこす症状にすぎない.

冒頭に書いたように,なんでも解決しようとして,結局はなにも解決できなかったから,振り返りすらできない.
こんがらがった問題のストーリーの糸が,ぐちゃぐちゃで丸まっているのを,放置するという「解決策」にたどり着くのである.

中小零細企業だから人材が不足してできないのだ,というもっともらしい理由をいうひともいる.
そんなはずはない.
中小零細企業だから,問題解決には論理が必要だとかんがえる経営者はたくさんいる.
むしろ,大企業だから人材が豊富なはずなのに,経営者がなんでも解決病に罹患した患者だと,肝心の人材が流出してしまう.

そうなると,経営計画がつくれない.
つくっても,株主に見せられない.
「こんな薄っぺらでは恥ずかしい」と,恥の文化だけはもっている.
それが単なる見栄だとしても,原因が自分にあるとは思えないのが患者の患者たるゆえんである.

泥沼はつづく.

映画「フジコ・ヘミングの時間」

1999年の2月だったというから,もう19年前.

すでにテレビの凋落は始まっていた.
時間つぶしにしても観たい番組がなくて,なにげなく教育テレビにしたら,老婆が電車を背景に歩いているシーンが流れてきた.
それが,伝説のドキュメンタリーになる「フジコ ~あるピアニストの軌跡~」の冒頭だった.

しばらくすると自然に口が開いた.
「なんだこれ!」
家内と目が合った.
すさまじい個性が産む感性の音楽に衝撃を受けた.

それから,テレビの音楽放送でたまげたのは,2002年のN響の年末恒例第九演奏会だった.
こちらは若き大野和士の指揮.
まだわが家のテレビは,ブラウン管でモノラルスピーカーだった.
たまに会場へ足を運んだが,NHKホールの音響の悪さにたいがいはガッカリしたものだ.

ところが,そんな機材をものともせずに,圧倒的な演奏がやってきた.
「こんな第九があったのか」「今年は『生』で聴くべきだった」とおもった.
そして,これを『生』で聴いているひとたちが羨ましくもあった.
「大野和士」覚えておこう,と.ビデオに録画もせずにいたのは,いまだに残念だ.

フジコのリサイタルには二度ほど行った.
どちらも,演奏は期待通りだった.
しかし,どちらも聴衆の拍手が早い.早すぎるのだ.
「余韻」を聴きたいのにそれがかなわなかったのは,フジコのせいではないと思いたい.

「自分の拍手」をいち早くフジコに聴かせたいとかんがえる,自己主張のかたまりが何人か会場にいるようだ.
このひとたちが本当に,フジコの演奏から「感性」を受けとめているのか疑問である.
それができるなら,拍手を忘れるぐらい陶酔感にひたるはずだ.

残音二秒.
これが,理想的な音楽ホールだといわれている.だから,二秒後の拍手こそが演奏を完璧にする.
横浜には,神奈川県立音楽堂がある.
建て替えばなしが何回もあるが,建て替わらないのは,いまが完璧な残音二秒だからだという.

ハイテクを駆使して,残音二秒を達成したのは東京のサントリーホールだ.
ローテクの時代にこれをやってのけた神奈川県立音楽堂は,その意味で名建築なのだ.
しかも,「音楽堂」という目的合理性において,最高傑作のひとつだ.

取り壊したところで,ハイテクを駆使しても,いまの響きよりいいものができるとはかぎらない.
それで,建て替えでなく補修がおこなわれている.
役人仕事のなかで,数少ない評価にあたいする判断だ.

フジコという演奏家も,ローテク時代の申し子なのではないかとおもった.
彼女は,演奏家として致命的な聴力がうしなわれている.
それが原因で,カラヤンやバーンスタインから直接の推薦をうけながら,演奏家として埋没したのだ.
この間,演奏の世界の価値観は,「テクニック」こそが最高の価値観になっていた.

機械のように完璧な演奏.
それは,作曲者たちが追求したものだったのか?と問えば,じつはあやしい.
もう三十年以上も前に,「ゆらぎ」の研究がさまざまな結論を導いていた.
目でみる絵画も,音を聞く音楽も,「1/F」という関数で最高を示すことができる.

人間は,つねに「ゆらいでいる」から,「ゆらぎ」のあるものごとを好むのだという.
だから,幾何学的に正確な直線の連続では,けっして心地よさを感じることはできない.むしろ,違和感すら感じるのが人間なのだ.

映画中,フジコの父のはなしがある.スエーデン人の父は,画家でもありデザイナーでもあった.
フジコが有名になって,父が描いたポスターが発見されたというから,それを観に行くシーンである.
じつは,演奏家として売れない時代,フジコは絵を描いていた.父のDNAがそうさせたのだろう.フジコの絵は,少女が描くようなメルヘンにあふれている.

記憶もあいまいなまま独りスエーデンに帰国し,一家を見捨てた父の作品は,斬新でいまでも通じるものがあるが,それはなんと「直線」で構成されていた.
ジッと見つめるフジコ.そして、唐突に「もう帰ろう」と言う.
おそらく,自分とはまるでちがうものを観,とうとう父との決別ができたのだろう.

フジコの演奏には,絶妙な「ゆらぎ」がある.
10本の指が鍵盤を押す.
その押す力とタイミングに,機械ではできないゆらぎが産まれるから,これにひとは感動する.
テクニックの有無よりも,そちらを重視する聴衆の勝利で,あろうことか専門家の敗北をうんだ.

専門家が専門的にフジコを批判すればするほど,聴衆である大衆はこれに反発する.
オルテガ健在なり.
専門家に大衆は尊敬も物怖じもしなくなった.
その象徴が「フジコ」なのだろう.だから,フジコ本人と「フジコ」は別人なのである.

映画では,ワールドツアーの様子がある.
愛用のピアノを持ち歩けないピアニストは,会場ごとに別のピアノに向き合うことになる.
そのピアノの状態が,演奏に影響するのはいわれてみれば当然である.
さらに,オーケストラとの共演ともなれば,聴力がないフジコには絶対不利な状況がやってくる.

ベートーベンが「皇帝」の初演に失敗し,それから生前に一度も演奏しなかったのは,おなじ理由だ.
ただ,彼は作曲家で,フジコは演奏家なのだ.それで,かつてフジコがオーケストラとの共演したCDは,素晴らしいとは言いがたい出来になっている.
フジコがどうやっていま,これを解決しているのか.指揮者の合図がそれを支えていた.

最後に,十八番の「カンパネッラ」が演奏された.
それは,19年前よりも確実に,ミスタッチまでもが腕を上げた演奏に聞こえた.
80歳をこえるフジコは進化していた.

フジコの演奏会だけのライブ映画があっていい.
これを,いい旅館のロビーでウィスキーでも舐めながら鑑賞したいとおもった.

炭酸酩酊

宿泊施設などの競争の戦略をかんがえるとき,「人的サービス」における差別化と「物的特徴(物質的投資)」における差別化の二種類に分類できる.
難易度が高く,簡単に他社がまねできないことから,「王道」ともいえるのは「人的サービス」における差別化である.
しかし,これには「設計」から「実施」までの時間がかかるという難点がある.

そこで,長期的には「人的サービス」における差別化を研究開発する,とさだめながら,短期的には「物的特徴」による差別化を実施することで,時間を稼ぐことが実務的な作戦になる.
ところが,他から購入し,短期的な時間稼ぎであったはずの「物的特徴」なのに,適度に「当たる」という成功から,ほんらいの「人的サービス」における差別化を研究開発する,ことへの情熱が急速に冷めることがあって,そのことが結果的に経営への致命的な打撃となった事例はおおい.

あとからいえば「本末転倒」という,よくある失敗に分類されるだけのことだから,まことに「やりきる」ということの難しさといってもいい.
つまり,経営者の「意志力」という精神面での強弱が,最終的に決定的なちがいになるのである.

理屈でいえば,他から購入できる物的特徴とは,当初の「珍しさ」から,急速に陳腐化がはじまるから,それを踏まえての全体計画における「短期的な時間稼ぎ」であったのに,一瞬の成功にめがくらみ,次ステップの「長期的な開発」を取りやめるのは,まったくの愚挙であることを理解するのはそうむずかしいことではない.

しかし,経営不振がながくつづいたという状況にあって,ちょっとした「成功」が,当事者には「大成功」に見えてしまうのである.
それで,経営が下手なゆえにながく経営不振だった施設では,「やりきる」という経験もすくないから,あっさりと「定石」を無視しても,それがいかに危険なことかがわからない.

その「危険」とは,資金が尽きることである.
「物的特徴」をだすには,投資が不可欠である.物質的なものを購入するしかないからだ.
だから,最終的には資本力できまるので,時間がたてば小資本は大資本にかなわない,ということに落ち着く.

これには,人的資源まで大資本には豊富にあるように見えるから,小資本には勝ち目がないというはなしがでてくる.
ところが,現実はあんがいそうではなく,小資本だからこその小回りで,大資本を翻弄して小気味のよい企業はわんさかとあるから,経営力とはおそろしい.

毎日お昼のテレビで,健康にいいものを日替わりで紹介していた.
それがたとえば「紅茶」であれば,放送後の小売店から紅茶が品切れになったし,「黒砂糖」であれば,「白砂糖」がまったく売れなくなったりもした.
だから,気の利いた小売店の店主は,この番組をかならず観ていたものだった.

不思議なことに,この「機動力」が宿泊業にみられない.
十年一日のごとくやっている従業員も,飽きないのかとおもうほどである.
たとえば「炭酸」.
すでに,街の銭湯をふめた温浴施設も,人工炭酸泉は一般的になってきた.
天然温泉と人工炭酸泉を混ぜた施設も出現している.

理美容の分野でも,炭酸水によるシャンプーなどのヘアケアに応用されて,しっかり単価と人気をさらっている.
もちろん,炭酸水による洗顔すらも,自宅で日常ルーチン化しているひともいるだろう.

これを飲むなら,アルコールとノンアルコールに分類できて,ビールや酎ハイはあっても,「炭酸水」が選択できないのはどうしたことか?
市中の居酒屋でできて宿でできない.
それで,宴会がほしいというのは,どうした了見かとうたがうのだ.

砂糖なし炭酸水を一気に大量に飲むと,炭酸酩酊という現象が起きる.
体内に炭酸ガスが大量に取り入れられて,酸欠になることでの現象だという.
ノンアルコールビールをジョッキで一気に飲んでも,似たように酔った気になる.

温泉宿の経営者は,一度,炭酸酩酊ぐらいは経験してみてもいいだろう.
利用客は,全員が消費者であることを意識できるようになるかもしれない.

外れ値の梅雨明けデータ

一昨日の6月29日,2018年の関東地方の梅雨が明けた,そうだ.
観測史上,6月に梅雨明けするのは初めて,だというから,今年の記録はしばらく「外れ値」となることが決まった,という意味でもある.
何回か,梅雨がいつ明けたのかわからないという年もあった.これは,「データなし」として記録されたはずである.

「外れ値(はずれち)」は,「例外」という要素をもつ.
だから,「例年」という「平均」を表現するときには,これを除外しないと,データの数がすくなければすくないほど,外れ値の影響がおおきくなって,「平均値」を狂わしてしまうこともある.

そもそも,ふつう「平均」という言い方をしているのは,「『算術』平均」のことである.
データの数字をぜんぶ足して,データの個数で割ることで算出される.
計算方法が簡単だから,たいへんよくつかわれているし,あることを調べようとしたときに,元のデータの特徴をしめす方法として重宝されている.

「平均売上」や「平均人数」などは,経営指標としても典型的な数字だ.
学校では,「平均身長」や「平均点数」を例に学習するのが定番である.
ここで,外れ値も習うのだが,どういうわけか「実務」で忘れられてしまうことがおおい.
地震や水害などで生じた「特別な数字」が,機械的に「平均」の計算につかわれて,自社の業績が理由なく悪化しているように見えることがある.

そこで,外れ値をいれて計算するのと,外れ値をはずして計算することで比較して,外れ値の効果を確認しないといけない.
しかし,いまはたいがいパソコンの表計算ソフトをつかうから,グラフ化させれば視覚的に理解できる.

また,表計算ソフトには,「平均(mean)」のほかに,「中央値(median)」や「最頻値(mode)」も自動計算して表示する機能があるから,これらも加えて表示するとすこぶるわかりやすい.
「外れ値」が「平均値」をゆがめた状態が,「中央値」でみると納得できるだろう.
だから,経営数字の表現には「グラフを使う」のが常識になっている.

自然界での現象のデータをたくさん集めてグラフにすると,きれいな釣り鐘型になることが確認されている.
どうして?
なぜかわからないけど,不思議なことにきれいな釣り鐘型になる.

たとえば,人間の身長のデータ,全国一斉テストの点数とかは,きちんと「釣り鐘型」になる.
これを応用したのが「偏差値」なのだが,「偏差値」で痛いめにあう割りに,「偏差値」がしめす意味をしらないことがおおいのも,不思議なことだ.

算術平均をいつものように計算して,それぞれのデータがこの「平均」からどれほどズレているかをみるために「データ-平均」を計算する.これは「偏差」というので,「偏差」の平均が「標準偏差」と呼ばれるものだ.
これから「偏差値」が計算できる.詳しくはこちらをどうぞ.

さて,天気も経営も,重要なのは「予測」である.
そこで,過去の数字から将来の数字を予測するための手法がかんがえられた.
これを「回帰分析」といったりする.
関数電卓の機能解説にある,「二変数統計計算」がそれだ.

数年間の売上高と営業利益などを「二変数統計計算」してみて,相関関数が0.8以上だったら,「つかえる」から,今年や来年の「予算」にすることもできるかもしれない.
ところで,計算からでた数字をそのままつかっては「能が」ない.
これよりも「上回る」数字,すなわち「外れ値」を目指す!というてがある.
簡単便利な方法なのだが,このやり方で成功すると,たまったデータが外れ値ばかりなるから,簡単便利な方法は,やっぱり長くつかえない.

ことしの夏は,梅雨明けが異常に早かった分「長い」はずだから,例年比較で「外れ値」だらけになる可能性がある.
すると,来年になって,今年の経営データをどのように使うか?
かなりむずかしい問題を解かなければならなくなるから,いまのうちから「日記」でもつけて,「例年とのちがい」を記録しておかないと,かならず困ることになる.

この「日記」のことをふつうは「日報」と呼ぶ.
どんな「日報」を蓄積することができる組織なのか?
ここが,実力差の出発点なのである.

ホテルシップという貧困

「東京オリンピックのために」といえばなんでも通る.
わが国最大の旅行会社,JTBの発表である.
それは「切り札の『エース』」ではなく,もはや「ジョーカー」のことだろう.

どういう計算で「ホテルが足らない」のかはしらないが,とうとう接岸した客船をつかうことが決まった.
気は確かか?
と問いたい.そのまえに,どういう計算なのかも教えてほしい.

どうしてこのような発想の「貧困」が現実になるのかわからないが,民泊制度に失敗した政府に媚びて「緊急事態」をアッピールしたいのだろうか?
「ハイテク国家」を「おもてなしの基本スタンス」として,接客ロボットを開発して外客を驚かそう!という子どもだましに,何億円をつかいながらの体たらくである.

緊急時に,客船をホテルにする,という発想の原点には,「病院船」がある.
これは,まともな軍隊を保有している,わが国以外の国にとっては常識である.
つまり,どこにも「豪華さ」などというイメージはない.
そもそも客船の客室面積が,どれほどなのか?

対象となる船は,「サン・プリンセス」号である.
運航するプリンセスクルーズのHPによると,スイートルームで50から60㎡.
海側バルコニーの部屋で17㎡,窓がない内側ツインで14~15㎡.
すなわち,陸上ならビジネスホテル並みの面積である.

「窓がない」のは,改正旅館業法でクリアできる.
この事業を認可した国土交通省は「やってやった感に満ちていて」例によっての上から目線で鼻が高いらしいが,サン・プリンセス号の船籍は「バミューダ諸島」である.すなわち,英国領である.外国船籍の船を誘致できて自慢するのがわが国の国土交通省なのだ.

ところで,魔の海のミステリーの方が有名なバミューダ諸島であるが,おもな産業は金融業と観光である.金融は,あの「タックスヘイヴン」の地域である.これと「船籍」は無縁ではない.
イギリスのシンクタンクが毎年発表する金融世界ランキングの,2018年版では東京が5位.バミューダ諸島は36位.
37位がバンコク,40位がクアラルンプールだから,けっしてあなどれない.

しかも,バミューダ諸島は,2005年に一人あたりGDPで,世界最高を記録している.
海洋国家の日本に,日本船籍の船舶はすくない.
日本に本社がある船会社も,おおくは外国船籍で登録し,日本を避ける.
理由は,「規制」である.パナマやリベリアが好まれる理由である.

上記ランキングの,トップ5は,ロンドン,ニューヨーク,香港,シンガポールの順になっていて,東京のつぎの6位は上海である.ちなみに,日本でランクインしたもう一カ所の大阪は23位に位置している.
なお,政府が特別になにかを腰を入れてやりますよとアッピールする,「国家戦略特区」というのは,もともとは鄧小平のアイデアである.共産中国とおなじやり方が通じる国になっている.

彼らは,観光業よりもはるかに大きな稼ぎを金融で得ている.英国は,こういうやり方がうまい.
つまり,観光業「だけ」で国家経済を潤わせることは不可能なのだと教えてくれる.
クルーズ船一隻だけで,さもホテル不足が解消できるというのも幻想だろうし,国家が介入するはなしとしても小さすぎる.
「日本船籍を増やす!」ことでもやってみなはれ,といいたくなる.

それで気になるのが,船内「カジノ」の営業である.
これまでは,カジノが禁止の日本から公海上にでれば,外国船籍の船ならカジノ営業ができた.
日本船籍の船が,公海上にあっても日本の法律が適用されるから,現金に交換できないカジノもどきしかできなかった.

こんどは,日本でもカジノができるようになったから,横浜港に接岸中のどの船舶でもカジノ営業ができるのだろうか?
ニュースには,カジノ営業もない,という.外国に行かないから免税ショップも開店しない.
いったい国土交通省は,なにに関与してなにに自慢したのか?

しかし,発表された宿泊料金が,おひとりさま2泊3日で7万円(窓なし14~15㎡)で食事付きだというから,いいお値段だ.カジノができたら半値以下になってもおかしくない.
これでは単純に,動かない,というだけの値付けだ.

横浜港に停泊して,オリンピックのどの競技をみに毎日移動するのかしらないが,2000人の移動はどうするのか?
大桟橋からの公共交通は,みなとみらい線をつかいなさい,と.
あとは,臨時バスで対応すればいいだろう,ぐらいしかないのだろう.

なんとも,悲しくなるほどの貧困なる発想である.
利用者目線,客目線の完全なる欠如.
結局のところ,天下のJTBが確保する,「オリンピックのチケット」にプレミアムがつくだけの,抱き合わせ商法ではないか?

それ以外なら,期待して泊まったひとたちががっかりして,結局は「嫌われる努力」をしたことにならなければいいがとおもう.
横浜市長は民間会社の役員を経験されたという経歴が光っていたが,まさか「女性枠」でなっちゃったということなのかを疑いたくなる「おそ松さん」である.

既存のホテルには目もくれない.
話題性の追求で,なにか仕事をしているふりができるし,チヤホヤもされて気持ちいい.
東京都知事にまねっこしたのかしらないが,目線が小さすぎるのは国家の役人以上である.

大桟橋に,かっこいい船がなんでもいいから停泊してくれれば,部外者という観光客が,インスタ映えの写真をもとめてやってくる.そのひとたちが,すこしでもお金を使えば,横浜の役に立つではないか.
これは,昭和30年代の温泉街における誘致の手法・発想である.

バミューダの人口は6万5千人あまり.ここに上下二院の議会がある.
彼らの知恵が,我らにないことを残念におもう.

カレーはフォークで食べる

「箸」のつかいかたが下手なのは,いまどきの外国人ではなく日本人という時代になった.
中学のころ,弁当に「箸」ではなく,スプーンをもってきている友人がいた.
なぜスプーンなのかをきいてみると,箸がつかえないから,というので仰天したことがある.
こども心にも,「どんな親なのかみてみたい」とおもったものだ.

親が箸をつかえなければ,その子どもにつかわせることはないから,「箸がつかえない」は,かならず連鎖する.
「個性」の誤解で,箸がつかえないことも個性にされる時代だから,不幸にも箸が使えない大人に育つ.

日本において,外国人とのフォーマルな食事にはたいがい会席料理が一度はある.
そこで,日本人として箸がつかえない,ことをさらすことがどのくらいの「恥」になるかということすら考慮されないなら,それは単なる「無智」ではすまされないほど,大人の無責任である.
きちんとした食べ方ができない,という人物は,彼ら外国人のなかでは軽蔑の対象になるだけだ.

だから,子どものときからの「躾」は,その子の人生を左右するほど重要なのだ.
できないことを「親のせい」にしても,自分が大人になっていれば,相手には恥の上塗りでしかない.であれば,自分たち外国人のように,大人でも練習すればよい,と発想されてしまう.

恥ずかしながら,そうはいっても,「箸」のつかいかたを極めているものではない.
あくまでも日常で「つかえる」という程度だ.
日本の礼法といえば,「小笠原流」.
見事な箸さばきで,公家を驚嘆させたはなしは有名である.

日本好きの外国人を招待する番組が人気だ.
このひとたちが,その道で一流の職人一家に招かれて,食事をする場面がある.
そこで,孫や子どもたちが驚いた顔をするのは,これら外国人の箸遣いと日本語能力だろう.

放送されない,「子どもたちも勉強の意味がわかるな」と,招待した家でのその後の会話が想像できる.きっとこの番組は,その部分において,とても「教育的」な番組なのだ.
子どもにとってのモチベーションアップは,かならずあるとおもう.
だから,お別れのシーンで,子どもたちの目が輝いている.

ひるがえって,洋食といえば,フォーク・ナイフ,それにスプーン(カトラリーという)が道具である.
「箸」に比べれば合理的な形をしているから,簡単につかえる,とだれでもおもう.
しかし,これがあんがいそうではない.
また,マナーとして勘違いしている日本人はおおい.

西洋料理の発祥のひとつは,イタリアンである.
そもそも,フランス料理があたりまえのように手づかみであったころ,イタリアではカトラリーが発明されていた.
それがフランスに伝わるのは16世紀に,フィレンツェのメディチ家からフランス王に輿入れしたカトリーヌの嫁入り道具であった.

ああ,なんという彼我の差.
おそるべし,「箸」文化の歴史の古さよ.
ついこの前まで手づかみだった我々は,文明人だったのか?
これが(珍しくも)東洋に憧れる西洋人からの発想だ.

イタリアンといえば,パスタ.パスタといえばスパゲッティ.
スパゲッティは,フォークに巻き取って食べる.これが難しい.
20代はじめの頃,ミラノ近郊の家庭に招待されたことがある.そこでいただいたスパゲッティの味は,いまだに忘れられないが,家族のみなさんの見事なフォークさばきは,なかなか真似できなかった.

ヒョイと皿の上の頂点付近の麺をすくい,フォークにからませると,そのまま空中で巻き取る.
このとき,親指の動きが重要なのだ.
やってみると,うまくいかない.そこで,皿のヘリにフォークを当ててクルクル巻き取った.
どうやら,この方法は,マナーとして幸いにも「許容範囲」であった.

お箸の日本のマナーで,口に運ぶとき落ちないように箸を持たない手を添えるのはタブーであるが,これが丁寧だと勘違いしている日本人はおおい.
その延長か,日本女性のおおくが,スパゲッティをたべるとき,巻き取るための補助としてスプーンをつかうのだが,これは,イタリアでは子どもの食べ方として認識されているようだ.

スプーンは,液体をすくうものという概念が強いからである.
自転車に乗れるようになるまでの補助輪とおなじだから,正餐のときにはやらないほうがいい.
しかし,人間には「行為スキーマ」という,自然に体がいつもの動きをしてしまう特性がある.
だから,いつもから注意していないと,本番だけでは失敗する.

ほぼ和食になった西洋料理のなかでも,国民食といって反対意見がないのはカレーだろう.
インドを支配した英国人が,本国に持ち帰った料理を,英海軍を手本とした日本海軍が輸入したのがはじまりだから,日本のカレーのルーツは英国である.
それで,英国のスパイス専門会社「C&B」と,日本のスパイス専門会社の名前までそっくりになっている.

いったん洋上に出ると曜日がわからなくなるので,いまでも海上自衛隊は,組織全体で金曜日はカレーの日と定めている.これで,隊員たちは「もう一週間たったのか」となる.
事前に申し込んで横須賀などの「母港」に行けば,停泊中の船でオリジナルカレーがいただける.
全艦船,それぞれ味つけが違うというけど,一般人で制覇したひとはいないだろう.

日本のカレーは,小麦粉で粘度をましてジャポニカ米のご飯と馴染むようにできている.
しかし,西洋の発想には「主食」という概念がないから,カレーライスは微妙な食べ物である.
日本人は,パンを主食とかんがえるが,あちらはちがう.

カレーをご飯なしで食べるならスープ扱いになるが,肉や野菜はフォークで食べることになっている.
ましてや,あちらで「米」は,野菜扱いなのだ.
つまり,日本式カレーライスは,フォークで食べるもの,となる.
これを,スプーンで食べるのは,離乳食的でまさに子どもの食べ方になるのだ.

でも,子どもの食べ方でもスプーンのほうが食べやすい.
だから,「日本式」にカレーライスはスプーンで食べるのだ.
いや待て,それでは「箸がつかえない」で押し通すようなものではないか?

なるべく,フォークで食べる練習をしておいたほうがよさそうだ.
しかし,たくさんの外国人が来日して,カレーはスプーンで食べるもの,と知らずに教育しているから,あんがいそのうち,あちらの常識がかわるかもしれない.

本来はフォーク.
確信犯としてスプーンをつかう.
とりあえず,このくらいで勘弁してもらうのがいいのだろう.

絶望的な温泉宿

老朽化は人間だってやってくる.
それで,豊かになったら「アンチエイジング」という保険がきかない医学的手法をもってしても,若返ろうとするのは,ある意味本能でもある.
永遠の命,というわけにはいかないが,なんとか自分の肉体を若くて健康的に維持したいのはだれだってそうだろう.

ところが,建物がないと商売ができない宿泊業をやっているのに,その建物の「アンチエイジング」がぜんぜんできない経営者がいる.
よせばいいのに,そんな経営者ほど名誉をほしがる.
それで,まるで廃墟のようなロビーに,「褒章額」が飾られていることがある.

さほどに「自慢」したいのか?
さほどに「偉さ」を訴えたいのか?
しかし,客目線からすれば噴飯物のまるで「マンガ」である.
その前に,ロビーには「今日の新聞」を置いてほしい.

「ロビー」と「ラウンジ」というなら,せめて電気をつけてほしい.
自動販売機に,業者向け張り紙はやめてほしい.
売店に,賞味期限切れの食品は置かないでほしいが,それよりも,よれよれの誰かのスーツ上下を,針金のハンガーにつるして放置しないでほしい.どう見ても「商品」ではあるまい.

日帰り温泉入浴でたまたま立ち寄った宿である.
フロントに誰もいなかった.
ロビーには,ソファーでパンを食べているひとがいた.
このひとが,支配人だった.

入浴料金を支払って,大浴場に行ったら,脱衣所にも浴室にも照明がついていなかった.
いかに一人だけとはいえ,薄暗い中での入浴は気分がわるい.
それで,スイッチをさがして点灯した.

広い湯船には,素晴らしい泉質の温泉が満たされていた.
やや熱いのが難である.
さいきんは,「ぬる湯」が人気だが,きっとここの人たちは識らないのだろう.それに,この泉質なら「ぬる湯」が向いている.
ぞんざいにして放置したようにもみえる,温泉成分表にあった源泉の温度は20度そこそこだったから,「ぬる湯」にすれば,光熱費もたすかるだろうに.

一人だけだし,掛け流しなので,行儀がわるいが湯がこぼれる湯船のヘリに寝転んだ.
ああ,快適である.天井のシミがまぶしい.
寝湯のコーナーがあって,「ぬる湯」だったなら,しばらく出たくないだろう.
そうやって,「この宿の再生」をツラツラかんがえてみた.

まずは,「温泉」第一である.
おそらく,従来は,宴会ができて温泉があって,泊まれるという順番の「宿」だったろう.
その需要は,もうないはずだ.

素晴らしい泉質の温泉にじっくり入れる.
よければ,泊まれて明日も温泉に入れる.
食事は近所の食堂にいっていただいて,ここでは用意しないから,弁当持ち込みでも良い.
つまり,泊まれるだけの温泉でいい.

そのためには,圧倒的なお風呂に改装しなければならない.
さて,どんなお風呂にするか?
「ぬる湯」と「熱湯」は,いまの湯船を半分に分割すればできるかもしれない.
しかし,「ぬる湯」に「寝湯」は必須だ.寝湯の場所の権利を別料金にしたい.

そうなると,防水タイプの電子書籍リーダーがほしい.
浴室に,飲泉所もいるだろう.
飲泉の許可をどうするか?
それに,宴会場を休憩所に変更したい.

さて,これらでトータルいくらの投資が必要か?
食事提供の停止と,宿泊は限定室数販売で,従業員の必要人数は相当に減るだろう.
ただし,浴室廻りと館内清掃の徹底で,どれほどがプラス要因か?
.............
湯上がりに,薄暗いロビーでたたずんでいると,フロントカウンターからの目線を感じた.
こちらの様子を伺っているようだが,話しかけてくるようでもない.
それで,落ち着かなくなって「褒章額」をみつけた.

きっと,この宿は「自力」でなんとかしているのだろう.
勲章をもらったのだから,金融機関に頭をさげる気もないにちがいない.
これはこれで「矜持」というのかしらないが,わたしごときのアイデアは余計なお世話になるはずだ.
半分以上,本人たちも投げ出してしまった商売が,これから急転換するならいい方向のはずもなく,一期一会とはいうけれど,「良いお湯でした」としかいいようがない.

ただひとつ,勲章をもらうためにした努力を,経営のためにしておけばとしか言葉がない.
その「褒章額」には,たかだかこの十何年かばかりの日付と,顔がはっきり浮かぶ総理理大臣の名前があった.
絶望的な温泉宿に,久しぶりに出会ったが,おそらく時間の問題だろうとあきらめた.
たんなる老朽化ではない.自社に対する愛情すらもないから,こうなるのだ.
願わくば,温浴施設として,,,,,やっぱり,無理だろう.