石に価値をつける

「貴石」なかでも「宝石」は,だれでも貴重だとおもうから,最初から価値があるとかんがえる.
しかし,それがちゃんとした「宝石」だと思わせないと,「宝石」だとわからないこともある.
だから,「宝石」の知識が人びとにあって,はじめて「宝石」の価値がうまれる.
それでも,ただの石だとおもうひとは,それが「宝石」であっても目もくれないものだ.

マルクスの資本論は,さいしょに「労働価値説」を土台にしている.
単純化して,時計工場の例で説明している.
これを真っ向から否定したのが,小泉信三の名著「共産主義批判の常識」(新潮社,1949年)であった.

海女が海底から貝を得る労働と「おなじ労力」で,石を持ち帰っても無価値であると.
つまり,労働がすべての価値をつくる,というマルクスの説は間違いで,「市場価値」がなければならない,と説いた.もちろん,マルクスはその「市場」も否定していたから,これだけで小泉博士はマルクスを撃沈させた.

マルクス信奉者たちは,さまざまな「理論」をもって「科学的」と自称していたが,それは「似非科学」の「宗教」であった.しかし,こんなことが,1991年のソ連崩壊まで信じられていて,今年の「マルクス生誕200年」を「祝おう」というのだから,どうかしている.

「福祉国家」といえば,「スエーデン」として崇める学者ばかりの日本にあって,そのスエーデンの元首相が,マルクス批判をしている記事はこのブログでも紹介した.

わが国で宝石の県といえば,山梨県があげられる.
もともと,水晶の産出で栄え,いまでは人口当たりインド料理店が日本一というほどに,インド人の宝石商がおおく在住していることでも有名である.
彼らは,世界に向けて日本の加工技術を売っている,とかんがえると,なんだか頼もしいが,ほんとうは,それを購入する顧客が日本人であってほしいものだ.

それで,県内とくに甲府周辺には,観光客に向けた大型「宝石店」がある.
おもに大型バスでやってくる観光客が相手である.
こうしたシチュエーションでは,外国の観光地でもおなじだが,乗客たちの財布をいかに開かせるかのテクニックが問われるものだ.

つまり,購買意欲がほとんどないか,買うまい,と心に決めてバスを降りるひとたちとの神経戦がはじまるのだ.
そして,どこか怪しい雰囲気で「説明」がはじまる.
それは,お客の「意志に反して」,「石に価値をつける」作業のはじまりでもある.

店によって独特の工夫があるのだろうが,物語は駐車場からはじまっている.
これは,一種のテレビ・ショッピングのリアル版なのだ.
店内の回遊式の構造は,たいへん効率的な流れをつくっている.
最初の「掴み」である専門的な説明から,じつに大雑把なはなしまでの混在が,購買心理に火をつけるのだろう.ちゃんと「起承転結」になっている.

こうして,地球上にありふれた「石」が,購入されていく.
もちろん,買わないひとは一切買わない.
すごい,と思うのは,このネット時代に,こうしたやり方がおそらく何年もかけて開発され,いまでも成立していることなのだ.
一歩まちがうと,大トラブルになりそうなものだが,そうならないギリギリの一線が,ある意味緊張感を生んでいる.

本物とニセモノが混在したような,混沌が,それなりの市場を形成しているのだろう.

ものが売れないのは,売れない理由がある.
人的サービス業の不振も同様で,不振には不振の理由がある.
一方で,その場で売り切ってしまえば後はどうでもいい,というかつての観光客向け掠奪産業では,なにを投稿されるかわからないし,永続しない.

石に価値をつける.

簡単そうで簡単ではないだろう.

ベンチマークは競争相手か?

誰がライバルか?
気になるのは経営者だけでなく,従業員もおなじだ.
だから,一流には一流のライバルが存在する.
これが,スポーツなら,ライバルの引退が本人に与えるガッカリ感ははかりしれない.

企業であれば,業界内のライバルこそ,自社発展のための原動力になる.
だから,おのずとライバル社は昔からさだめられている.
しかし,さいきんはライバルが自己崩壊して,気がついたらいなくなっていた,という事態もありうるし,他業種からの新規参入企業が急成長をとげて,気がつけばライバルになっていた,ということもありうる.

つまり,流動化である.
これは、固定的な状態よりは望ましいことだ.
利用客にとっては,選択肢がふえていることを意味するからだ.
うっかりすると自社も,もしかしたら安穏としていられないから,緊張感がでればよい.
一方で,長年のライバルを失うと,自社も方向性を失うことがある.

そこで,でてきたかんがえかたに,ベンチマークがある.
言い方は良くも悪くも,パクリ元である.
オリジナルを考案して,それを実行するというのは,なかなか簡単ではない.
だから,パクる,というのは有効だ.

これを,どこに行っても同じ「横並び」としないようにするのは,それはそれで技術がいる.
「まねした電器」と揶揄されようが,ライバルが開発した新商品を,短期間でオリジナル以上の完成度で安く大量販売するのは,やってみろと言われても業界他社には真似ができなかった.
この会社の苦境は,電器製品がソリューションとセットになった時代になって発生した.困ってしまって,「高単価多機能化」に走ったら,「低単価低機能」商品に大敗してしまった.

「ものづくり」産業に,ものだけ上手に作ればよい,という旧来の価値観が通用しない転換点がやってきて,とっくにとおりすぎてしまった.
それで,旧来の製造業が成り立たなくなった.
「円高」だけが,空洞化の原因ではない.
むしろ,顧客志向から勝手に離れて不振になったことを,「円高」のせいにしてはいないか?

人的サービス業の企業再生の現場で,従来のライバルはどこかと質問すると,ご近所をあげることがおおい.それで,その相手はいまどうしているかと問えば,廃業していることがあれば,なんとか復活していることもある.
もちろん,そのなんとか復活したやり方をパクりたいのが本音だが,近すぎてできない,ということがある.

それでは,全国を見回して,自社の顧客がめったに行かない地域での参考になりそうな事例の研究を問うと,おどろくほど共通して,そのような研究をしたことがない.
その理由は,ベンチマークを他地域に求める,という発想がないからである.

つまり,地元しかみていない.
もちろん,地元の顧客志向のことではない.
地元のライバルがなにをしているのか?しかみていないのだ.

これは,旧来の製造業が苦境に陥ったのとおなじパターンである.
つまり,あたかも製造業とはちがうサービス業だと定義しても,何のことはない「大量生産大量消費」という,かつての方式をいまだに追求しているすがたである.
それで,再生にいたったのだから,この方式をやめる努力がひつようである.

ところが,再生支援をするお金をだす元が,この方式をやめさせない.
成功体験よもう一度.
ワンパターンでしかない成功方法を,別の角度からできないか?
つまり,登るべき山がおなじなのである.

そうではなくて,登るべき山は別にある.
すでに,地方の金融機関すら,自分たちの登るべき山が別になった.
それなのに,融資先には従来どおりを期待する.
何をか言わんや.

経営者には,しっかりとベンチマークをみつけてほしい.
そして,自社が他社のベンチマークになれるにはどうするとよいのか智恵を絞ってほしいものだ.

ぬるい温泉が人気

銭湯で熱い湯に水をいれると怒るひとがいたりするから厄介だ.
水温計が50度を示していることもある.
源泉の熱さで有名な,群馬県草津温泉でも,湯もみで48度にして,それでも湯長の号令で入浴する時間湯があるくらいだから,監視人がいない50度の湯への入浴は危険ではないかとおもう.

熱い湯に浸かるのは,ある意味精神統一がひつようだ.
「心頭滅却すれば」の心境になれる,というメリットはあるだろう.
緊張で頭がスッキリすることは,あるかもしれない.
しかし,「過ぎたるは及ばざるがごとし」であって,けっしてくつろげないのは確かである.

数年前から「人工高濃度炭酸泉」が人気になった.
炭酸ガス,硫化水素の二種類が,人体に皮膚から影響をあたえる気体で,どちらも「毒」だから,皮膚呼吸がとまる.人体はこれではいけないと,全身の血管が毛細血管まで開いて肺からの酸素を届けようとするメカニズムがはたらくという.
これが,血管の運動になるから,高血圧などによいという.

それで炭酸ガスボンベから,こまかくしたガスを湯に溶かす方法がかんがえられた.
病院でも,高濃度炭酸泉が治療につかわれている(医療点数がつく)から,スーパー銭湯から採用され,いまでは街の銭湯でも珍しくなくなった.
炭酸ガスが皮膚に無数の気泡をつける.これが,皮膚の感覚器を刺戟するから,2度ほど高く感じるという.だから,40度を適温とすれば,高濃度炭酸泉は38度でよい.

おそらく,温浴施設のなやみは,人気の高濃度炭酸泉の提供者からみたコスト・パフォーマンスだろう.
炭酸ガスは高価である.だから,おおきな浴槽を用意すると,コストがかかる.
一方で,加温するのに2度低く済むというのは,光熱費では助かる.
利用人数と,浴槽の大きさ,温度,という連立方程式を解かなければならない.

温度を上げれば,利用者が多くても熱くなって回転がいいが,長時間はいっていたい利用者は不満を感じてしまう.
温度を適温にすれば,利用者の回転が悪くなるから,浴槽を大きくするひつようがある.
水光熱費は温度を下げた分たすかるが,浴槽が大きくなった分での比較と,炭酸ガスの使用量を比較して,それと利用者の満足度の関係はどうか,をかんがえることになる難しい問題だろう.
しかし,数ある温浴施設からリピートされて選ばれつづけるようにしたいのだから,この関係式にはさらなる検討項目がふえることになる.

この,温度を下げて長時間はいる,ということに注目したのが「無感風呂」だろう.
体温とかわらない温度の浴槽だ.
これは,はじめ冷たく感じるが,そのうち「無感」になって,いくらでもいられる.
長時間であるから,湯上がり後のポカポカ感は,これも長時間続く.

それで,むかしからあったのだろうが,このところ「ぬるい温泉」が人気になっているようだ.
ぬるいから,長時間はいっていられる.
時間があるひとにはちょうどいいだろうし,からだにもムリがかからない.
ところが,「ぬるい温泉」は,入浴専用施設であることがおおい.つまり,「宿泊できない」のだ.

仕方がないから,ビジネスホテルに宿泊して,また「ぬるい温泉」にいく.
こうして,ビジネスとは関係ないひとたちが,「温泉」を楽しむために別の場所に宿泊するようになっている.
移動は,自動車だから,離れていてもそんなに気にならないのも加わる.

温泉宿に,あらたなライバルが現れている.

「机上の空論」のうそ

江戸末期,黒船以降のニッポンを観察した外国人が書き残したものは,いま読んでも価値があるものがたくさんある.
「日本文化」を売り物にしたい旅館や観光業のひとたちは,これらの本とともに,研究成果をよく識っておくと,売れる「商品開発」ができるはずである.

にもかかわらず,不思議と再生の現場では,先月や昨年の「損益計算書」の分析にいそがしく,過去からの延長線上の方策に磨きをかける,という絶望的な努力がまじめにおこなわれている.
それで,とうとう力尽きると,二束三文で売却されるか,地元民が眉をしかめる廃墟になる.
いまどきの買い手は,そういった施設の栄光の過去をあっさり否定して,少ない投資でかつ短期間で,ぜんぜんちがう施設へと変貌させてしまう.

どちらに知恵があるのかは,いまさらいうまでもないが,なにが過剰でなにが足らなかったのか?が,さいごまで理解できなかったひとたちが,経営権を失うのは,ある意味従業員にとっては幸いである.
しかし,だからといってあたらしい買い手のビジネスが,どれほど素晴らしいか?についてもたっぷり議論の余地はある.

こうした問題の本質に,金融があることがあまり議論されていない.
金融機関が決めることだから,「仕方がない」といってあきらめているのだろう.
ところが,いま,その金融機関が存続をかけた危機に直面している.
従来どおりのビジネス・モデルがほとんど通用しなくなってきているからだ.

借り手にとって重要なのは,自社のビジネス・モデルが世間に通じるか?であって,これが支持されるなら,商売でつまずくことはない.
つまり,商売でつまずいてしまっているなら,それは、自社のビジネス・モデルが世間に通じていない,というメッセージを世間からもらっていると理解すればよい.

残念なことに,金融機関は国からの監視がきびしいから,なかなか独自経営が難しい.それで,全国津々浦々の金融機関が困っている.
おなじ土俵で競争せよ,というのはいいが,おなじ土俵の意味がおなじサービスだから,本来の競争にならないことに,ビジネスで競争したことがない役人は気がつかない.

それにくらべて宿や観光事業は,よほど自由がきくから,かんがえるのに規制官庁からの難癖はあまりない.
だから,どうしたいかをジックリかんがえて,あたらしいビジネス・モデルを最低でも机上でつくることか大切だ.

よく,「机上の空論」といってバカにする人がいるが,自社のビジネス・モデルを机上で紙に描けないなら,じっさいにそれがうまく動くことはない.
正反対の軍事だとて,机上演習,が重要な訓練なのは,じっさいを想定してサイコロという偶然からの判断ができなければ,本番で部下を死なせてしまうからだ.

だから,「机上の空論」はたっぷりやったほうがいい.
そのとき,江戸時代の生活をどこまでも研究するのが望ましい.

たとえば,当時の日本人の生活には「食卓テーブル」はなく,「お膳」だった.このお膳が簡略化されて,「お盆」になって,食堂の「トレイ」に変化したのではないか?
西洋にはテーブルがあって給仕されたから,「トレイ」を自分でつかうのは,学生食堂のイメージだろう.

だから,それなりのグレードのホテルや日本旅館の朝食ブフェで,プラスチックの「トレイ」を最初に渡され,これを使うのをなかば強制されることに抵抗があるようにみえる.
たしかに,外国のちゃんとしたホテルの朝食ブフェで,トレイが用意されているところをみたことがない.みなさん,「皿」を複数手に持って,何回も取りにいくことに抵抗はなさそうだ.

さて,この「トレイ文化=略式お膳文化」について,高単価外国人客をターゲットにしたとき,サービス方式としてどうするか?あるいは,あなたの宿としてどうあるべきであろうか?
あくまで,日本方式を貫くのか?それとも?

わたしのイメージは,ブフェ式なら必要ない.
定食式なら,「お膳文化」がわかるような形状のトレイを選びたい,といったところだ.
なお,ブフェ式でトレイをやめて,皿にいくつかのくぼみがついている食器が用意されていることもある.これこそ,外国の学食のようだから,個人的には余計なお世話=過剰サービスだと感じる.

ほらほら,異論がありそうだ.
そのとおり,正解はないからかんがえ方次第でいくらでもバリエーションがあるのだ.
日本のお膳文化と,外国のテーブル給仕文化のちがいが発端だからだ.

さて,この議論,机上の空論なのだが,サービス・スタンダードとして現場要員数まで決まることになるから,どうでもよい話ではない.

「机上の空論」を従業員とたっぷりできる企業文化あってこそ,自社のビジネス・モデルを他人に説明できる素地ができるのである.
この,自社のビジネス・モデルに,本来は融資という信用がつくのだ.

バンカーは,顧客のビジネス・モデルを読み解きそれに価値を見いだせるかが問われるはずが,相変わらず不動産担保が融資根拠なのだから,AIに追い込まれるのは当然である.
しかし,「机上の空論」ができない企業は,実業として追い込まれてしまう.
ムダの代名詞としての「机上の空論」は,うそである.

「プロが選ぶ」の信用度

探しだしてマッチングをさせる「サーチ理論」が,ノーベル賞をとる時代である.
つまり,みつけものをなかなか探し出せない,ということがあるのが現実である.

そこで,いろいろな「サーチ(探索)」を試みることになる.
ネット時代だから,だれでも「ググる」ようになった.
これに,専用のアプリも加われば,「電話帳時代」にはかんがえられない便利さで,おおくの情報をえることができる.

ところが,それだけでは得られない情報もある.
それでも探そうとするか,それともあきらめるか?ここが,分岐点になる.
安易なひとを批判するときに,グーグルで検索できなかったらそれでやめる,ということが対象になっている.

「ランキング」がテレビ全盛時代に流行ったことがあった.
「なんでもランキングの発表」というのが,一世を風靡した.
では,いまは下火かといえばそうではない.
「ランキング」は,もはや「常識」になってしまった.

情報過多で選択肢がたくさんあると,ひとは選ぶことができない.
駅の蕎麦スタンドとて,食券売機のまえで固まっているひとを見かける.
たくさんのボタンに,たくさんのメニューがあって,お金を投入しても一定時間がすぎると,ゲームオーバーとなって返金されるから,はやく選ばなければならない.
このプレッシャーが,さらに選択を困難にする.
それで,気の利いた店は,手作りポップで,「当店人気No. 1」とか,「おススメ」とかを表示して,選択肢を絞り込ませ,ボタンを押す手を楽にする工夫をしている.

「ランキング」には,この「絞り込み効果」がある.
だから,おなじ範囲でのランキングでも,「百位」から「4位」までは意味をなさない.
「トップ3」が選択肢としての限界になるからだ.
むかしからの,日本料理屋の「松」,「竹」,「梅」はよくできているメニューである.このばあい,まんなかの「竹」がいちばんよく売れる.
1位と2位の売上差は,半分以上にもなる傾向があるというから,3位ではかなり落ちるものだ.

ところが,「ランキング」には,誰に聞いた結果なのか?という「落とし穴」があって,およそ「統計学的」に有意とはいえないようなものがおおく混じっている.
サンプル数やサンプルの抽出方法,それに有効回答数などの基礎情報が公表されないものは,おおくが「あやしい」ものであるから信用できない.

そこで,じっさいに使ったひとが評価するという方法がでてくる.
「飲食店の案内サイト」に「旅行サイト」や「宿の予約サイト」などなどの「評価ポイント」である.
これらには,点数のほかにコメント欄があって,店側からの返答まである.
ところが,ここにも「落とし穴」がある.
利用したひとの生活感や価値観が,そもそも不明でわからない.
だから,自分との比較で,おそろしくトンチンカンな評価もあるのだ.

であればこそ,「プロが選ぶ」という「ランキング」に注目することになる.
ところが,驚いたことに,そこには「選者」も「選定基準」すらも表示されていないことがある.
いったいどの分野の「プロ」なのかが不明で,「プロが選ぶ」とはどういうことか?

わたしの最大の疑問である,「利益」が基準になっているとおもえないことも加えたい.
つまり,経営が赤字なのに「すばらしい」という評価をすることだ.
これには重大な問題がある.
おおくの店を,赤字経営に誘導するからだ.経営者をして,「目標」に「ランクが高い店」を置くのはある意味自然である.しかし,その店あるいは経営会社が「赤字」だったらどうするか?

「業界」が,あやしいプロたちの餌食になってはいないか?と疑うのだ.
そして、健全な店や経営会社を,「赤字」に誘導すれば,なんらかの「相談」があるかもしれない.つまり,商売になる,としたら,悪魔的な戦略ではないか.
この被害者には,従業員もふくまれる.
人的サービス産業の生産性が低いことの,間接的な原因のひとつになっていないか?

要するに,みずからの「絶対値」が必要なのである.
これがあって,はじめて他との比較基準ができるというものだ.
そうなれば,世の中の雑音に惑わされることはない.
情報過多時代とは,情報そのものが「甘いささやき」をしていることがある.

なるほど,「サーチ理論」が注目される理由がわかろうというものだ.

なにを食べてきたのか?

NHK教育テレビが,2011年から「Eテレ」と自称しだして,ぜんぜん教育的でなくなった感があるが,そのNHKが発行している「NHKことばのハンドブック」に「Eテレ」は馴染むのだろうか?とおもってしまう.

もっとも,それをいえば,いまの「テレビ朝日」は,1977年まで「NET(Nippon Educational Television)」と言っていたし,放送免許も教育番組を50パーセント以上、教養番組を30パーセント以上放送するという条件だったから,放送行政そのものもいいかげんなものだ.

まだ「教育テレビ」と言っていた1985年1月に,「教育テレビスペシャル」という大型シリーズ番組で,「人間は何を食べてきたか」という素晴らしく教育的な番組が放送された.
このシリーズは,五本が五日間にわたっての毎日で一気に放送されたから,なかなか全部を制覇できなかった.
ありがたいことに,横浜にある「放送ライブラリー」で,いまでも鑑賞することができる.

このシリーズは,「人類」という意味の「人間」がテーマだから,はなしが壮大である.
それで,自分の生活史レベルになると,まずは「日本」に絞らなければならない.
そこで,ご先祖さまが何を食べてきたか?となれば,すぐに思いつくのは「郷土料理」である.
「伝承写真館 日本の食文化」(農文協:全国12冊シリーズ)がでたのが,2006年だから,すでに暦は一巡している.

それでか,いまみると,写真がずいぶん古くみえる.
写真だけならいいのだが,かんじんの地域の伝統食も「古くなって」,もう再現できなくなっているものもあるかもしれない.

 

それで,もうすこし角度をかえて,地域ごとではなく開国からの歴史でみるとどうなるか?
小菅桂子「近代日本食文化年表」(雄山閣,1997年)というのがある.
続編がでていないから,年表は「1988年」でおわっている.「昭和」でいえば63年まで.つまり,事実上「平成」はない.
その「平成」もおわりがきまった.続編があったらなんと書くのか?
ヒントは,あとがきの「愚痴」にある.

この三十年,あたらしい食文化を形成したのか?といえば,「厳しい」時代だった.
あえていえば,化学調味料と添加物という化学物質による「インスタント」が完成した時代なのかもしれない.
それを,「食文化」といえなくはないだろう.
しかし,ファストフードは当然として,コンビニやスーパー,それに持ち帰り弁当チェーン,スナック菓子,清涼飲料すべてに添加物はあたりまえにはいっているのを,どこまで誇れるものか.

日本料理が世界遺産になったのを自慢するひともいるが,洋食もふくめた関係者の顔は暗い.
幼少時から添加物という刺激物になれてしまった舌は,化学物質による味覚破壊によって,「本物」の「うまみ」を感じなくなる.つまり,鈍感になった子どもがおとなになれば,本物を「本物」だと知識でわかっていても,味覚を感じないのだから美味くない.それで,ほんとうに「遺産」になってしまうのではないか,とおそれている.

もっといえば,「お袋の味」が添加物の味になるということだ.典型はみそ汁である.
すでに,かつおだし風化学調味料が家庭にはいって50年になるし,ダシ入り味噌すら30年の歴史がある.
さいきんは,これらの製品のCMで,「おかあさんの味がする」というブラックジョークまである.

じっさいに,本物の一番ダシとかつおだし風化学調味料を目隠しして味見すればわかる.
わたしをふくめ,おおくのひとが,化学調味料のほうを「本物」と評価してしまうのだ.
これは,和食だけのことではない.
洋食の世界でも,とっくに大手ハンバーガーチェーンのハンバーガーが美味しい,という子どもは30年前からいた.かれらはすでに中年で,中堅以上の幹部になっているだろう.

ファストフード店でみかけるが,年金で孫にやさしい振りをしているのも,いかがなものか?
将来,国が国民の健康問題に介入してくるようになると,ファストフード店にたいして現在の風俗店のように,成長期の子どもや青年だけの入店を禁止するようになるかもしれない.そうなると,おとなが同伴しても,入店させたおとなの知性がうたがわれるようになるだろう.

また,子ども手当の変形で,「食育」をうたって,「本物の店」がつかえるクーポンが配付されるようになるかもしれない.

これはこれで,星新一の「ボッコちゃん」のような世界である.

人間は食べなければ生きていけないが,何を食べてきたか?という問いは,「人生」をも意味する.
ケミカルな食品だからよろこんで食べる,というのは,ありがたい未来とはおもえない.

「甲州印伝」からかんがえる

伝統工芸品には二種類ある.
「伝統『的』工芸品」と『的』がない「伝統工芸品」である.
『的』がある「伝統的工芸品」は,「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」(昭和49年5月25日、法律第57号)に基づいて経済産業大臣により指定された日本の伝統工芸品を指すから,伝統工芸品のなかのエリートということになるはずである.

「はずである」というのは,例によって余計なお世話を役所がしだす可能性があるからである.
(産業)「育成」とかいって,補助金というちょっかいを出すと,補助金がないから育成できない,という論理で関係者を洗脳して,とうとう工程全体を支配してしまうおそれがあるからである.

「売れる」ということが,伝統的工芸品にも最も必要な要素である.
おおくの伝統的工芸品は,生活のためのものだった.
だから,伝統的工芸品だからこそ,現代的な生活センスが要求される.伝統的な生活センスではないところに注意したい.
現代的な生活センスが,グルッとまわって伝統的生活センスに回帰することもあるし,しないこともあるからだ.

山梨県の甲府には,その伝統的工芸品である「印伝」(「印傳」とも書く)が有名だ.
鹿革を材料にした,バッグや財布といった小物類をつくっている.
主流の技法は,「漆付け」と「燻(ふす)べ」の二種類.
「燻べ」は,奈良時代からあったというが,藁と松ヤニの煙でいぶして染めるという,じつに珍しい方法でつくられる.よくぞこんなことを思いついたものである.そのできあがりは繊細にしてみごとな幾何学模様である.

「漆付け」は,別途染め上げた鹿革に,型紙で漆を転写する技法だから,一種の印刷である.
これを400年前からやっている.
型紙は,「伊勢型紙」.その材料となる「紙」は,「美濃和紙」である.
伊勢型紙は,重要無形文化財(人間国宝)の技術をもってできる.
また,美濃和紙は,伝統的工芸品であり,重要無形文化財であり,ユネスコ無形文化財登録である.

つまり,「印伝」は,印伝自体が伝統的工芸品であると同時に,製造のための道具も,「人間国宝」や伝統的工芸品からできている.
だから,美濃和紙ができなくなると,伊勢型紙ができなくなり,それで印伝もつくれなくなるという「連鎖」ができている.

このての手仕事は,世界共通ではあるが,一度途絶えると将来,これを完全復活させるのはほとんど不可能となる.
だから,その「技術の継承」に目線がいきがちである.
これが高じると,「技術の継承」が自己目的化する.売れなくても技術さえ絶えなければよい,という発想だ.役人が陥る上から目線である.

「売れる」にはどうするか?という経営の視線が不可欠なのである.
誰が買うのか?
そのひとは,どんな生活をしているのか?
そこには,どんな価値観があるのか?

おおくの伝統的工芸品には,暗黙の永久保証がついている.
通常使用での不具合なら,たいてい修理が可能なのだ.
たとえ代替わりしていても,職人がいるかぎり,製法が継承されていれば,修理できないことはない.

これが,現代の主流,「使い捨て文化」のアンチテーゼになっている.
そうやって製品をながめると,価格はリーズナブルではないか?
むしろ,「安い」と感じる.

センスのいい伝統的工芸品を使いこなすことができるのか?
あんがい問われているのは,使い手のほうかもしれない.
それほどに,「売れている」伝統的工芸品は,わたしたちの生活に近づいてきている.
人的サービス業界が,もっと注目していい分野だろう.

趣味は「海外旅行」というひとたち

定年退職したので,元気なうちにいろんな国をめぐってみたい.
ロマンにあふれ,また,うらやましくもあるはなしである.

われわれ夫婦は,おもしろそうな国に,初めていくときにはだいたい団体ツアーを利用する.
その国の概要をとりあえず理解できるし,名所・旧跡観光も便利なことこのうえなく,なにより安価であるからだ.物価や治安など,次回に個人旅行が容易かどうか?の下見にしている.
それで,いくつかの国は断念し,いくつかの国は複数回訪問した.

団体ツアーのもう一つの魅力は,一緒に行動するひとびととの交流があることである.
バス一台分の40人が上限であることがおおいから,学校時代の遠足のようなものだ.
それで,帰国後,飲み会をやったこともある.

40人もあつまると,さまざまな個性がある.偶然がつくる集団で,10日あまりをすごすのだが,生まれも育ちも職業も年齢も性別もちがうのに,旅行中の退屈はない.かならずなにかしでかすひとがいて,話題ができるのだ.
それでか,不思議なもので,数日もするとグループ意識ができるから,別の日本人グループと遭遇しても,他人同士なのである.ほとんどお互い口をきかない.挨拶もしない.

観光にあたっては,日本語ができる現地人のガイドがつく.
工夫された資料も配布されることもあるから,ガイドブックを読んでこなくても,そこにある名所のことはわかるようになっている.
だから,わかったつもりになれる,という特徴がある.
それで,数日もすると,どこに行って何を見たのかを忘れてしまう.

夕食時,あるひとが,パスポートの入出国スタンプを見せてくれた.
定年してから,すでに50カ国以上に行ったというが,10年の有効期間は半分もすぎていない.
聞けば,ほとんど毎月ツアーに出かけているという.
半年先のツアーまで,予約済みだというのでおどろいたら,数人のひとが争うように同じことを言いだしたので,さらにおどろいた.

すると,どの国に行った自慢がはじまった.
このはなしを聞いていて,ひとつの共通点に気がついた.
「どの国に行った」ということだけが話題なのだ.そこにどんな人たちがいて,どんな生活や文化があるのかを語ることがない.だから,スタンプがコレクションになる.
世界地図に行ったことがある国を塗りつぶすそうだ.

これには,あきれた.
完全に自己目的化している.
もちろん,本人の趣味なのだから他人がどうこういうはなしではない.
しかし,他人がきいてどう思うか?も欠如しているのだ.
ひたすら,行ったことがある国の数が問題なのである.

別のツアーでも同じだ.
「行ったことがある国の数」自慢はかならずおいでになる.
とうとう三桁のひとがいた.
それでも,本人は「まだ半分をすこし超えた程度です」と謙遜していた.

だれかどの国が一番印象的だったかと質問しないかとおもったら,とうとう聞いたひとがいた.
「うーん,どこもおなじですね」
印象が残っていないのだ.
まさか,イミグレーションのことではあるまい.

ツアーという環境は,出国してもほとんどが日常の延長である.
添乗員さんは献身的なサービスをしてくれし,よしんば日本語ガイドが手配できなくても,添乗員さんの通訳がある.
自由時間は少ないから,ホテルがどんなに好立地でも街中にくりだすことはない.
せいぜい,近隣のコンビニかスーパーでお買い物をする程度だ.

すると,ふつふつと疑問がわいてきた.
残りの国をめざすツアーはあるのだろうか?
「ここからが行くのが大変です」と本人も認めた.

「で,これだけたくさん外国に行かれてなにが楽しみですか?」という適確な質問に,
「たくさん行きすぎて,楽しみというものはとくにないです」
と,予想どおりのこたえだった.

よほど時間とお金に余裕があるのだろう.
うらやましくもあり,もったいなくもあり.
しかし,この客層が国内旅行もしているのだ.
日本の観光地をダメにしているのは,おそらくこの手の客層である.

業界は,いかにして客を育成するか?
という問題に直面している.

ユニバーサル・デザイン

からだの不自由なひとが楽につかえるなら,健常者にとってはもっと楽につかえるように工夫されたデザインでつくるものをいう.
簡単そうだが奥が深い.
「楽で便利だ」ということはなにか?を追求しなければならないからだ.

たとえば,街のなかにはさまざまな「標識」が設置されている.
なかでも,「交通標識」は事故防止という観点からも重要な役割があるし,「方向表示」では,目的地や自分のいる場所をおしえてくれる.
基本的な標識のおおくが国際的にも共通だから,外国人でも,われわれが外国に行っても,意味を理解して行動できる.

おなじように,建物の中の避難口の案内や,はたまたトイレの案内などの表示も,国際的に似ているから,これもとまどうことがすくない.
つまり,「公共の場」はそれなりに「ユニバーサル・デザイン」が普及している.

じっさいにユニバーサル・デザインをかんがえるには,さまざまな制約をもうけて「体験する」という方法がとられる.
その制約とは,視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚といった「五感」にたいしてである.
なかでも,視覚,聴覚,触覚のそれぞれについては,視野を狭めたり疑似白内障になるためのゴーグル,聴覚を遮断するイヤーマフ,触覚を鈍感にさせる手袋などをつかって実験をくりかえす.
さらに,車椅子の利用などもくわえての研究となるから,大がかりになる.

ちなみに,日本のものづくりにおいてのユニバーサル・デザイン研究では,東芝がリーディングカンパニーだった.
医学的所見や人間工学といった分野の学際的研究を,製品作りのデザインに落とし込むことができるのは,大資本ならではのことだからだ.

「多機能」だがつかわない機能にまでコストを負担させられる,という意味での高単価戦略は,日本製品の魅力をかえってそこなったのではないか?「単機能」だが安い,というアジア製との競争に,負けてしまった.
「単機能」のようにみえるが,そこに「すごいノウ・ハウ」がある,という合理性をもとめられているのに,である.

これは「ニッチ」ではない.
たとえば,「バルミューダ」というあたらしい電機メーカーが打ち出す商品の需要の高さが証明している.需要だけでなく,「憧れ」という地位までもあるのが特徴だろう.
大手家電メーカーの製品に,はたしていま「憧れ」がどこまであるのか?

メーカーの世界では,自社製品にどんな「価値」をもたせるのか?が決定的に重要なテーマになっている.
世界史的・人類史的な意味で「超高齢化」し,「急激な人口減少」が予想されているのは,なにも日本だけではない.

さいきん,「一人っ子政策」を中止した中国とて,なぜ廃止したのかをかんがえれば簡単で,巨大な人口が「超高齢化」するのが確実だからである.
「少子」という意味で,わが国より深刻な特殊出生率の低さをたたきだしているのは,韓国と台湾である.
奇しくも,かつての大日本帝国は,おそるべきスピードで人口が消滅の危機をむかえている.

つまり,東アジアという地域全体で,ユニバーサル・デザインが要求される時代になっているのだが,日本企業は鈍感にすぎないか?

これは,観光関連も同様である.
だれにとって,なにがどう便利なのか?という問詰めができていない.
ようするに,哲学軽視ということだ.
それは,「マーケティング」に対しての薄くて軽い理解の証明でもある.

「やさしく暗記させる」冷酷さ

関正生の「関先生が教える 世界一わかりやすい 中学英語の授業」の冒頭にあることばが,「『やさしくかみ砕いて説明する』ことに力が注がれるものの,結局は昔からの『ルールと例外』を『やさしく暗記させる』のが現状なんです」とある.そして,「基本がズレていると,後で必ず歪みが出てきます」と適確な指摘がある.
著者は,「受験界のカリスマ英語講師」として超有名人であるから,お世話になったかたもいるのではないか.

この本を何気なく手にしてかんがえさせられた.
それは,拙著「おもてなし依存が会社をダメにする」で主張した前提に似ているからである.

業績不振の接客業をイメージすれば,基本がズレているサービスの手順を,ただ「やさしくかみ砕いて説明する」マニュアルがあって,これを丸暗記しながらできるようになればよい,という誤った現状との共通点にまず気がつくのである.
しかも現実は,参照する「マニュアル」があるほうが珍しい.同僚の仕事ぶりを真似せよ,というのがほんとうの現状だろう.

では,どこが基本からズレているのか?なにが誤っているのか?
それは、経営理念と事業コンセプトの関係の薄さをさす.
冒頭の本でいえば,「英語学の深い知識」に裏付けされた「基本」のことである.だから,「中学英語」のはずなのに,「高校レベル」も超えた目線からの解説で「基本」をかためることの有用さをうったえている.

これをビジネスに置きかえれば,成功している接客業は,手順自体も,その手順による結果や効果にたいして,必ず論理的な説明ができるようになっている.
論理的だから,ひとによってのムラがない.
もし,その論理に現実があわない事態が発生したら,即座に現実に対応できる論理の組換えをおこなう努力がある.

そうでない企業は,その場の解決をもって業務をおえるから,進歩のありようがない.盲目的に,過去の成功をくり返すことだけを旨とするから,しぜんと顧客離れを誘発するが,もともと経営理念と事業コンセプトの関係が薄いから,顧客離れという現象に気づくのが遅れることになる.
そうして,ちいさな傷が決定的ダメージをうむまで気がつかないことがある.

中学英語と高校英語,さらに大学受験英語とのちがいを説明する箇所がある.
要は,中学英語のレベルでは,「できる子」のなかには「暗記だけ」によって成績がよい場合があるという.ところが,高校英語では,それが通じない.バリエーションが拡大するから,暗記だけでは対応できなくなる.それで,確実に英語嫌いになるのだ.
これを,予備校講師としてたっぷり目撃した経験と,自身の経験をかさねて,中学英語自体の根本理解こそが肝であると説いている.

わが国英語教育の失敗の原因は,昔からの「ルールと例外」を「やさしく暗記させる」という無謀にあるなら,わが国人的サービス業の生産性の低さの原因は,昔からの「おもてなし」を「からだに覚えさせる」という無謀にあるのだろう.

著者の関氏は,「おわりに」で,以下のようにぼやいている.
「この本のように『英語の土台』に直接メスを入れる発想は,今の日本の英語教育界では残念ながら超少数派です.従来のズレた土台をわかりやすく、やさしく説明する方法に慣れてしまった現状では,この本が本当に意図するところを誤解され,『説明が小難しい』『理屈っぽい』と言われることもあるでしょう.(中略)そういった現状に,微力ながら一石を投じることができればという思いでこの本を全力で書きました.」

ぼやきの相手は読者ではなく,「業界人」である.
読者や受講生たちは,今日もおおきな期待で読みかつ受講している.
なんといっても,カリスマ講師であることにちがいはない.
関氏の授業のビデオをみれば,昔ながらの授業をする教師の言葉は「雑音」にしか聞こえないだろう.
そこに,可能性がひそんでいる.