資生堂の業務用品撤退の意味

今月はじめ,表題のニュースがあったが,ホテル・旅館業界の反応がいまひとつみえてこない.
月代わりするまえに,コメントしておこうとおもう.

あらためて,報道によると,資生堂が「業務用」の化粧品事業から撤退する.
具体的には,1992年(平成4年)に設立された,「資生堂アメニティグッズ」が年内に営業活動をやめる.売上高は年間数十億円だったというから,小さすぎて詳細はわからない.
これで,ホテル・旅館業界は,ポーラなど,他社への取引先転換をすすめることになる.

さて,ここで最初に注目したいのは,設立年である.
まさに,バブル経済の崩壊期である.
だから,「資生堂アメニティグッズ」側からみれば,会社設立の営業開始以来ずっと,納入先から「理不尽」な値下げ要求ばかりだったと推測する.

なぜ「理不尽」かといえば,商品に不備はないのに単純に「安くしろ」という要求であったろうからだ.
こうした要求ができる理由は,以下のようなものだろう.

老舗旅館の経営者のおおくは,若くしてそのまま家業を継ぐばあいと,いったん大手ホテルなど宿泊関連企業に就職して,しばらくして退社し家業を継ぐというパターンがある.
また,大手ホテルのばあいは,「サラリーマン」としてのホテル勤務をしていて,社内昇格によって幹部になるパターンである.

こうしてみると,経験は,家業か大手ホテルのサラリーマンかに絞られる.
いわゆる,「利益」や「経費」の本質について,恒常的に儲かっている企業がどのような判断をしているのかしらない,という「ビジネス経験」になってる.
簡単にいえば,日本を代表するメーカーや商社の出身者がいない,ということだ.

それで,「経費削減」が至上命令になるのである.
このブログで何回も書いたが,「経費削減」で業績向上を成功させ,企業の復活を果たした事例はない.
むしろ,理不尽な要求で,自社の評判を落とし,ついには「信用」をなくすことすらある.

自社製品になんの落ち度もないのに,取引先から「値下げ要求」をしつこくされたらどう思うか?
なんで,こんなひとたちの要求を飲まなければならないのか?と思うのがふつうの反応だ.
「買ってやってる」という一方的な上から目線は,互いに同等の立場である正常な取り引きではない.つまり,略奪的なのだ.

大袈裟にきこえるかもしれないが,資本主義的ではない.
だから,独占禁止法でも,有利な立場を利用して支配的な取り引きを強要することは禁止されている.それは,資本主義のルールではない,ということだ.
前資本時代の取り引きになってしまう.

今回の,資生堂の判断は,ホテル・旅館業界への決別である.
「もう知ったこっちゃない」とか,「無理やりおつき合いする道理はありません」と.
すくなくても,わたしにはそう見える.
残念だが,これに一方のホテル・旅館業界は気づいているのだろうか?と問えば,「否」であろう.

それが,前述した「ビジネス経験」のなさが原因だとおもうのだ.
そして,外国人観光客のおかげで単価も稼働も上昇したが,経営の意図として達成したものとはおもえないことにつながる.

お客様がつかうシャンプーなどを,とにかく安く仕入れたい,という発想は,裏返せば,お客様へのサービス水準も安くて(チープで)いい,ということに等しい.
もっと満足度を高めて,もっと利用頻度をあげて,もっと単価を上昇させたい,とかんがえるなら,もっといいシャンプーはないのか?になるはずではないか.

何度も書くが,損益計算書のとおりに世の中はなり立っていない.
損益計算書は,ただの「計算書」である.
だから,売上-経費=利益 は計算式であって,実際は,
経費の支払⇒売上の入金⇒キャッシュの増減 である.

すべて,経費の支払いからビジネスははじまる.
だから,どんなものを「買う」のか?は,ビジネスの結果に影響するのは当然である.
「安いものがいい」では,ビジネスは成長しない.
自社の目的にきっちりかなったものだけを適正価格で買う,これがビジネスである.

単純だが,上述の重要さがビジネス経験を積まないと理解できない.
だからこそ,理不尽な要求ができるのだ.

売上高1兆円を突破した資生堂の業績は,いま「絶好調」である.
一方のホテル・旅館業界の業績は,果たして「絶好調」といえるのか?

「なぁに,資生堂なんかなくても他社があるさ」と,どんなにうそぶいても,見捨てられたのはどちらかはあきらかである.
こうして,一切の反省なく他社にも理不尽な要求をつづければ,そのうち取引先がなくなって,とうとう独占的な一社の支配下に置かれてしまうかもしれない.

もっといいものを,ちゃんとした値段で買いたい.
そういう業界になってほしいものだ.

薄利多売はやってはいけない

安くしないと売れない.
このかんがえに取り憑かれたら,それはまるで貧乏神に取り憑かれたのとおなじで落ちるところまで落ちるはめになる.
しかし,いまだにこの発想からのがれられない経営者はたくさんいるから,お祓いだけではなく自ら滝の水にでも打たれて禊ぎを受けたほうがいい.

いまどき「薄利多売」をしようというのは,社内の数字を把握するシステムが不完全なままで放置しているからできるのだ.
もし,社内の数字をきっちり把握するシステムがあれば,「薄利+多売」などしないで,「ちゃんとした利益+多売」をすることになる.

その「ちゃんとした利益」が,他人から「薄利」だといわれても,経営者が「ちゃんとした利益」だと認識できていれば,それはそれでよい.
つまり,「薄利多売」とは,利益を把握している,という条件が満たされてはじめて成り立つものなのである.利益を把握せずにやったら,それは「無謀」というものだ.
だから,おおくの「薄利多売」は,そのまま「無謀」になる.

なぜなら,「利益」を把握することは,とても難しいことだからである.
もし,そんなことはない,ちゃんと損益計算書には利益が出ている,と主張するなら,そうとうに危ない発想をしているから,注意が必要だ.

このブログでも何度か書いたが,「損益計算書」は「納税」のための「計算書」であって,真の「損益」を把握するためのものではないからだ.
当然に,会社法での「決算書」も,株主や投資家のための開示資料であって,経営者のための資料ではない.
だから,そこに書かれている「利益」を,経営者が経営のためにつかってはいけない.

ならばどうするか?
残念ながら,損益計算書は恣意的すぎて使えない,というのが結論である.
それでは困るので,「キャッシュフロー」をみるという方法が唯一存在している.

ところが,このキャッシュフローでは,製品や商品の一個あたりのキャッシュの動きが見えない.
だから,そもそも「薄利多売」は成立しないのである.

現金の動きがキャッシュフローである.
現金の「入金」と「出金」,そして「あまり」が重要なのだ.
「入金」がなくても「出金」はある.
これを,会計士は「管理会計」と称して,「変動費」と「固定費」という概念をもちだす.

売上がなくても出ていく費用を「固定費」といい,売上と連動して出ていく費用を「変動費」という.
そして,これらの費用から,「限界利益」を求めれば,「必要売上高」の計算が「できる」,という.

しかし,できない.
そもそも,損益計算書の費用を「固定費」や「変動費」に分けることが「できない」からだ.
もし,適当に分けて計算したら,その「誤差」がおおきくなって,とても実務ではつかえない.
ある教科書には,「とにかくひたすら『固定費』と『変動費』に分解せよ」と書いてあるのをみたことがある.

これを執筆した会計士は,実務を知らない,と確信した.
「理論」は理解したい.それで,「感覚」を持つのは重要だ.しかし,「つかえない」.
製造業で「中小企業のカリスマ」といわれる人物が,「設計図どおりできたら倒産する会社なんてない」と言っていたが,「理論どおりできたら倒産する会社なんてない」のである.
どちらも,たいへん難しいことなのだ.

わたしも若い頃,教科書を信じて,会社の数字から限界利益を導いて必要売上高計算をし,これを予算策定の根拠にしようと取り組んだことがある.
経理と組んで3年間,結局は「できなかった」という苦い想い出がある.
しかし,この失敗から,気づきがあったのはよかった.

「薄利多売」をしているひとは,是非,教科書通りをいちどやってみて,「できないこと」を経験するとよいのだが,それでは会社がもたないかもしれない.
「時間」という経営資源を浪費してしまうからだ.

どんなにお金を出しても,「時間」は買えない.
古来,永遠のいのちを求める物語はたくさんあるが,成功した話はひとつもないのは当然である.
しかし,人間とちがって「会社」には永遠のいのちがあるかもしれない.

それは、「経営力」にかかっている.

「観光立国」の難易度

「科学技術立国」という「国是」が,いつのまにか忘れられて,かんたんそうな「観光立国」にシフトしてしまった感がある.
もちろん,その前提にあった「貿易立国」という「国是」がゆらいで,フラフラになってしまった.

8月16日発表,財務省月次貿易統計の7月速報は,2312億円の赤字であった.
前にも書いたが,「貿易黒字」ばかりが増えて増えて,その最大の相手国(こちらはまっ赤な赤字)の米国からどうしてくれると文句をいわれた時代がなつかしい.

その文句をいわれる側が,いまは中国になっている.
アメリカさんの怒りがおさまらないから,北京政権内でさては「政変か?」と噂されるほどの苦境であるという.
わが国のいまの「苦境」とは質がちがう.あと何十年かしたら,中国も「苦境の質」をかえるのだろう.

「貿易立国」の成功は,外国から仕入れた材料を,国内で加工した製品として外国に売って儲ける,というパターンだったが,この成功の理由を唯一「働き者の日本人」としたところにおおきな間違いがあったということも前に書いた
冷戦構造と朝鮮戦争,それに安い石油だと指摘した.

「冷戦構造」とは,ソ連衛星国と中共が,自陣営に「壁」をつくって,西側との「鎖国」をしていた,というものだ.これら,「遅れた地域」のひとたちが,いっせいに安い賃金ではたらく集団として登場したのが「冷戦終結」の世界経済的意義である.
それで,「世界の工場」が日本から中国へ移転して,いまにいたる.

社会主義思想を支える思想である「進歩主義」では,今日よりも明日がぜったいに発展する.
だから,青島幸男の「明日があるさ」は,みごとな社会主義思想「賛歌」である.
こうして彼らは,資本主義社会から社会主義社会へ,そしてついには理想郷とした共産主義社会へ歴史は発展するのが「科学」だと信じた.

その「進歩主義」を,日本の最大与党である自民党も「党是」としている.確認方法は簡単で,自民党のHPをみればよい.
ついでにいえば,東京オリンピックの開催でノスタルジーにひたるひとたちは,大阪万博までもういちど,といっている.大阪万博のテーマは「進歩と調和」だったから,日本型社会主義の祭典だった.これがガラパゴス化のはじまりだとおもう.

進歩主義者は直線的な発想しかしないから,「退化」をみとめない.
しかし,残念ながら,退化することはしょっちゅうある.
とくに人間の能力がそれで,手仕事のある技術が途絶えると,ほとんど復活は不可能になる.

むかしの学校教育が優れていたのではなくて,生徒が我慢強かったのではないかとおもうことがある.
いま,書店で生徒向け「参考書」を手に取ると,各教科ともたいへんわかりやすい解説の「進化」だと感心する.
自分の時代にこんなのがあったら,さぞや?ともおもうが,まぁそんなことはなく遊んでいたろう.

なぜなら,遊びのデジタル化の「進化」は参考書の「進化」より想像を絶するものだから,強い誘惑にはかなわないだろうと認めるしかない.
しかし,ゲーム機に夢中の子どもをみれば,人生の半ばをこえれば誰でもが,「あぁ,時間がもったいない」とおもうものだ.
「勉強しなさい」という命令よりも,誘惑に打ち勝つ「興味」の提供こそが,もっとも重要なのだとおもう.

中学の理科では,「化学」の基礎を習うことになっている.
頭がやわらかくて,記憶力がちゃんとしている子ども時代に,暗記させる,というのはあんがい理にかなっているから,「詰め込み」だといって一方的に非難することがただしいとはかぎらない.

150年より前の武士の子なら「論語の暗誦」はあたりまえ,四書五経ぜんぶを暗誦してもおもてだって褒められなかったろう.逆に,武士以外の子が暗誦したら,そんな閑があったら働けといわれたはずだ.「門前の小僧習わぬ経を読む」は,発達中の脳のすごさをおしえてくれる.

いまでも,アラブならコーランの暗誦,イスラエルならトゥーラーの暗誦は小学生でふつうにやっている.ユダヤ系ドイツ人の思想家,ハンナ・アレントはゲーテの「フアウスト」を暗誦していた.どれも数百ページのボリュームである.

意味はあとからわかるようになる,というのもこれら「暗誦文化」の共通点だ.
ならば,原子周期表の暗記は,現代人の教養の基礎として必須ではないかとおもうがいいすぎか?

そうはいっても,教科書の説明には具体例がなさすぎる.
物質のなりたちを「科学する」のが,「化学」であるから,その法則を学ぶのは当然としても,面白みがないのである.まるで,子どもが嫌になるように仕向けている.
教科書を執筆する学者のレベルが低いのか?それとも「検定制度」のせいなのか?ページ数の制限は,ほんとうは検定官のためにあるのではないか?

本としてぶ厚いけれど,これでもかとやさしく解説があるのはアメリカの教科書だ.
人間のからだも「物質」からできているし,生存のためには食べなければならない.その,「食品」も「物質」だから,おのずと「消化」とは「化学反応」のことになる.
こうしたことを丁寧に書いている.

よく噛んで飲み込めば,あとはかってに胃と腸が消化する,というだけの知識では自分で「健康」を維持できないだろう.あまたある健康食品が,ほんとうに「自分のためになる」のかを判断するにも,「化学」の知識は必要である.
「賢い市民を育てる」のは,健全な民主主義に必須の要素で,「鈍な市民を育てる」のは,腐った民主主義ではなく,全体主義がやることだ.
それにしても,日本の義務教育にも高等教育にも,将来「親」になって子どもを育てる生活がくる,という前提が欠如している.

「野菜は健康に良い」というのは何故か?それは本当か?
ならば「添加物」はどうか?乳児にハチミツを与えてはいけない理由はなにか?
高額な食品容器と100均の食品容器のなにがちがくて値段がちがうのか?
「PETボトル」の「ペット」とはなにか?

さらに,われわれは福島原発の後始末に千年単位以上のつき合いをしなければならない運命になったから,放射能や放射線量についての知識はぜったいに外せないはずだが,これをちゃんと教えていると寡聞にして聞かない.
広島・長崎にまで議論がふくらむから,教えない,ときめたのか?ということも聞かない.

どれもが毎日の生活にかかわる「日常」づかいのものである.
食品もふくめて高度な加工品にとりかこまれているのに,化学がわかないからあっさり売手のいうとおりになる.
義務教育のなかでは,これらに注意ができるようになって,学問のおもしろさがわかることが重要ではないか?
それから,高校レベルの化学になれば,生徒にもわかりやすいだろう.

そういう生活レベルの「化学」をきっかけにした「科学」が知識としてまんべんなくあることを前提にしてはじめて,「観光立国」をかんがえることができる.
「観光」は,「歓楽」だけで成り立つのではない.
一次産業の「食」,二次産業の「文明の利器」,そして「IT」や「金融決済」などをトータルで駆使してはじめて「観光立国」ができるから,じつは「科学技術立国」よりも難易度がたかいのだ.

文明社会に生きるには,あんがいそれなりの負担を強いられるものだ.

残業代がほしい

労働時間を減らすには残業を減らすしかないとしか発想しないから,「働きかた改革」といっている政府の「命令」は,残業に焦点があたった.
これに,うそみたいな残業をしているはずのマスコミがなぜか支持して,さも「残業」が諸悪の根源のようになってしまった.

それで,時間できっちり帰る,が「トレンディ」となったが,実態はいかがか?
働く側からすれば,2割5分増し以上になる残業代は効率よく稼げる手段である.
月間60時間をこえた残業代は,5割増し以上に平成22年度からなったが,中小企業は除外されていた.
これが,今回の労働基準法改正で,平成31年から中小企業にも適用されるので,各社とも「就業規則」の書き換えが必須になっている.

さらに,人手不足もあって,各地の最低賃金も上昇しているから,「人件費負担」はおもくなるばかりである.
少子化で若者の数が今後さらに激減して,年間80万人程度しか新社会人にならない.
若い社員の争奪戦は,当然に初任給の賃金水準を高めるだろう.
すると,業績がかわらないなら,どこかの世代や誰かの賃金を下げないと,やっていけない,とかんがえる経営者は,その方法を熱心に研究しているはずだ.

いまの賃金体系が「既得権」だとする働く側と,真っ向対立の構造がうまれる必然がある.
残念ながら,この構造のままだと平行線で一致点はなかなか見つからないだろう.
ならばどうするか?
前提条件を変えるしかない.

それは,「業績がかわらないなら」を「業績を変える」にすること,しかも上方への修正である.
となると,現状の働き方の見直しがなくて,「業績を上げる」方法はない.
この国は「低賃金で長時間労働」をもってスタートしたと前に書いた.
経営者の「無能」を書いたものだが,これを「有能」にすればよい.

つまり,有能な経営者になりたいなら,無能がする経費削減ではなく,いかによりおおく稼ぐのか?をかんがえるひとになることだ.
なぜなら,従業員は全員「稼ぎに」会社にきているからで,会社の経営者が稼ぐことをかんがえなければ,どうやってもバランスがとれなくなる.

だから,いま,この国の「無能」が経営する会社に覇気がないのは,従業員がほしい稼ぎを会社が払っていないからだ.
ふつうに働いても欲しい稼ぎに達しないなら,ふつうに働くのをやめてなんとか残業に持ち込む.
こうして2割5分増しにすれば,効率よく稼げるとかんがえるのはあたりまえでもある.

「まったく,うちの従業員はグズばかりで,いくら言ってもちゃんと働かない」というのは,無能が自分で従業員をそう仕向けていることに気づきもしないから,無能を証明する発言なのだ.
「いい会社」の従業員は,たとえパート・アルバイトといえども,「きっちり」背筋をのばして働いている.
これをみた「無能」は,「この会社は優秀な従業員ばかり,それに比べてわが社のなんと情けないことか」と口をそろえていうから笑ってしまう.
天に唾するとはこのことだ.

経営者のインタビュー番組というのはむかしからあるが,こういった番組に登場する経営者で,上述の「無能」はひとりもいない.
おおくの「無能」は,この手の番組すら観ないのかはしらないが,観たとしてもなにが「有能」なのか判断できないのだろう.いっこうに改善しないのがその証拠である.

さいきんでは,御殿場にある「時之栖」の創業者が出演していた.苦労人である.
このひとがさらりと言って,聞き手がおもわず聞き返した.
「うちでは定年後再雇用になっても年収は変わりません」
「えっ?」
「だって,同じ仕事を同じようにやっているから変えたらおかしいでしょ」

これが「ふつう」なのだ.
しかし,「無能」が多数のわが国では,「年齢」という基準だけで賃金を半額にして「当たり前」顔をすることが常識になっている.ほんとうはお払い箱だけど,国の命令だから「再雇用してやっている」という姿勢である.
ならば,現役のうちにしっかり残業代も稼いでおこうとするのは,自己防衛である.

「無能」はひとを使い捨てる.
これを若い従業員が,いつかは自分もこうなるという不安でみるから,優秀なものから退社する.
気がつけば競争力まで失うことがある.
「無能」はそれを従業員のせいにする.

「いい会社」は,お金をくれる唯一の存在である「お客様」を強く意識している.
どうしたらよろこんでお金をくれるのか?
そのために,従業員にはどうしてもらいたいのか?それを従業員にもかんがえさせて行動させる.
だからそういう会社の人材は,財産になる.
財産はだれだって手放したくないから,大切にする.

直線的にいえば,人件費をいかにたくさん払える会社にするか?が問われている.
つまり,「稼げる会社」である.

柿渋寝具とサービス設計

あんまり暑いので,どうにも寝不足になる.
エアコンの風で喉をやられ,咳と声がでないのにも困った.
家にくすぶっても暑いだけだから,外出をこころみるも,冷房の効いた建物内と外気との繰り返しは,過ぎるとバテてくる.

ここなら適度に涼しいだろうと,秋葉原のJRガード下「2k540 AKI-OKA ARTISAN
ニーケーゴーヨンマル アキ・オカ アルチザン」に入った.
すぐに目に入ったのは「柿渋染」であった.
柿渋の米袋と石鹸は,すでに愛用しているから,わたしは柿渋ファンである.それに,家内は柿渋染のショルダーバッグも愛用している.

柿渋染は,京都木津川市の名産だという.
こないだの旅行で,伊賀に向かう途中,通過してしまった.
渋柿を種から育てることからやっているという説明だった.
「寝具」がメインだったのも意外で,抗菌効果とあわせて「涼しい」のが特徴だと熱の入った口上をきいた.

それでは試しにと,枕カバーを購入した.
つかってみて合点がいった.
なるほど,「涼しい」のである.
寝返りのたびに涼しさがやってくる.とても快適だ.

せっかくの柿渋の成分がなくなるから,あまり洗濯しなくてよい.
できれば風呂桶に水を適当に溜めて,洗剤はつかわずに流すようにする水洗いをすすめられた.
軽く絞って干すというから,これだけでめったに洗濯できない気がする.
それでも,柿渋の効果でニオイもしないと太鼓判をおされた.まさに万能である.

宿泊を商売にする宿の寝具にとって,これはなかなかの脅威である.
シーツや枕カバーの洗濯がオススメでないから,「業務用」にはならない.
けれども,この会社ががんばって業績をあげれば,それは一般家庭に普及することを意味するから,一般人は快適さを手に入れてしまう.

宿の悩みの根本にある,家庭の「ふつう」を提供する難しさ,が顔をもたげる.
近年では,洗浄式トイレが例になる.あっという間に家庭に普及したが,ホテルや旅館での対応にそれなりの時間がかかったのは,電源と電気容量問題の解決があったからである.古いユニットバスには,そもそも電源がないことからでもわかるだろう.

あるいは,ホテルの浴槽で自動給湯して最適な水位で止めるのも,いまだに普及しているとは言いがたい.家庭の浴槽では,とっくに当たり前になっているのにである.
家庭は個別の給湯器から,ホテルはセントラル式で給湯管を通じで供給される.それで,各部屋ごとの浴槽水量を計測する機器が高価なままであるから普及しないのだ.

進んでいて便利そうにみえる「客室の機能」も,こまかく追求すると家庭にはかなわない.
ある程度の生活水準を超える,いわゆる「富裕層」にとって,このことはあんがい不満の種なのである.
高価な料金を支払っているのに,自宅以下の機能しかない,ということになるからだ.

すると,そのような「層」をターゲットにしていて,もし柿渋寝具を「採用」するならどうすればよいのか?
こたえは,「マイ寝具」というサービスをつくることになるだろう.
だから,一回こっきりのお客様には提供できない.
「リピーター特権」という概念を持ち出すしかない.

つまり,デジタルだろうがアナログだろうが,どんな方法であれ「顧客管理の仕組み」をもっていて,「運用のルール」をあらかじめきめないと,寝具を購入しただけではなにもできない.
これが,「サービス設計」である.

物品によって「機能」を追求すると,投資さえすればすぐに競合他社に真似されるから,目新しいものを外部から購入して配置するだけなら,その宿の特徴といえるだけのものにはなかなか育たない.
たとえば,温泉宿の客室内マッサージ・チェアである.
不思議なのはたいがい一台しか設置していない.なぜ二台でないのか?

夫婦での滞在を標準とするなら,時間の節約ができて家庭でもあり得ない同時利用がのぞましく,それこそ価値があろうというものである.
温浴施設なら,ふつう一回100円を想定するから,もしマッサージ・チェアがある部屋の料金が,ない部屋より高額設定しているなら,利用者は本能的に差分を100円で割り算するだろう.
これを想定しているとはおもえない宿が少なからずある.

しかも,もし,故障でもしていたら,一瞬にしてマイナス効果になるのに,メンテナンスができていない宿がめだつから,なんのために設置しているのかをうたがいたくなることがある.
重量があるから搬出して処分する手間と費用を惜しんでいるなら,それは客室に粗大ゴミがあるのとおなじになる.客室が商品であることすら忘れて,業績を気にする本末転倒がある.

上述の柿渋寝具の例では,「サービス設計」を必須とするから,あんがい簡単には真似されない.
柿渋寝具という物品をただ置いた,ということではなく,提供のためのあたらしいサービスを開発した,ということになるからである.

やってみようと挑戦する宿はあるだろうか?

ねぶた祭の掠奪

地元で騒ぎになっているというニュースがあった.
コインパーキングが「一時間5000円,上限なし」.500円ではなく,ゼロがひとつおおい.
もはや「紙幣パーキング」であって,「コイン」ではない.
祭り期間中の宿泊客優先対応だった,とのこと.
なるほど,駐車場入口看板には「特別高価格」であることが「大書」してある.

「大書」したからわかるはず,と「想定」していたら,わからないひとが相次いだ.
10時間以上駐車して,65,000円を支払ったひともいたという.
おまけに機械が千円札にしか対応していないので,ATMで65枚を用意したというから,さぞや時間が気になったろう.
それで取材を受けた管理会社は,「想定外」とコメントした.

このニュースにはいろんな情報がまじっている.
「ぼったくり」視線からみれば,たしかに「なんてこった!」になるだろう.
それで突然,「被害者」になる.
だから,「返金」が当然という理屈になる.

ところが,全額返金要求となるから,はなしが直線すぎる.
駐車した事実があることを差し引くのが筋だろう.
つまり,「適正価格」の要求がいいところではないか.

一方で,会社側の「想定外」も過剰反応である.
客商売をしていれば,「とっぽい」ひとはどこにでもいるものと「想定」するのは容易であるし,常識でもある.
この価格設定は,隣接するホテル利用客のための駐車スペース確保だったから,割り切って「本日ホテル専用」とすればよかったのではないかとおもう.

事前に,オーナー(当該駐車場とホテル),ホテル,管理会社の三者が話し合って決めたというが,簡単にいえば,「こなれてない」のである.
わたし流にいい換えれば,目的合理性の追求にあたってのロジックが甘い,ということだ.
それが,管理会社のつぎのコメントにもあらわれている.「来年はひとの配置も検討する」.

これが「プロ」の発想なのか?
24時間営業のコインパーキングである.
「想定外」の無人の時間帯に,またまた入庫されたらどうする?
ホテル利用客以外に「空きがあれば」一般にも開放している,という通常時の営業条件をどうしても守りたいらしい.

ところで,いま,ひとの顔を識別するわが国の技術が評価をえて,世界の空港などのセキュリティーシステムとして注目されている.
東京オリンピックでも活用されるのは,すでにアナウンス済みのことだ.

複雑なひとの顔より単純なので,高速道路などのETCには,ゲート通過時に前方のナンバープレートを撮影するシステムがとっくに導入されている.
これで「不正」も追跡できるが,犯罪車両の行き先も追跡できる.
この仕組みを宿泊施設が導入しはじめている.

駐車場に来た時点で読み込み,瞬時にスタッフへお客様の到着を知らせるのだ.
これからかんがえると,イベント時にはとくに,駐車場での応用ができたらよいとおもう.
今回の騒動も,元に「駐車場不足」がある.
昨年の数字で,6日間の延べ観客数は282万人(47万人/日)だ.これは,青森県の人口126万人(H30年7月1日人口推計)と比べれば,あきらかだ.

報道には,熊本からやってきて「被害」にあったひとのコメントもあったが,「二度と青森に来たくなくなる」のでは本末転倒である.
そこで,「遠方割引」というシステムがあってもいいのではないかとおもう.
足りないかといって,年に6日だけの祭りのために市内に駐車場をつくりましょう,にはならない.

たとえば,ナンバープレートを読み込んで,遠方ほど割引率が高くなるようにして,駐車機器で読み取れる割引券発行機を用意する,というアイデアはどうだろう.
地元のひとは,公共交通機関の利用をうながし,遠方からの客をおもてなすのである.
日本の技術なら,すぐにできそうだ.

名勝千駄木旧安田邸

東京都指定名勝になっていて,いまは公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈されている.
関東大震災にも,また,近所も焼けた戦災でも焼けず,東日本大震災にも耐えたが,ことしの9月から来年の10月まで,耐震補強工事のために閉館がきまっていて,昨日8月4日だけ防空壕が公開されるというので訪問した.

ボランティアガイドの説明とパンフレットによるとこの家は,大正8年に豊島園の創始者藤田好三郎氏によってつくられ,大正12年に安田財閥の創始者安田善次郎氏の女婿善四郎氏が買い取り,子の楠雄氏が相続した.つまり,楠雄氏は善治郎の孫にあたる.平成7年に楠雄氏が亡くなって翌年,幸子夫人が寄贈をきめたとある.つまり,ついこの間のいまとおなじ「平成」時代はじめまで,実際に暮らしていた家である.

その保存状態は,大正時代の建築当時が「そのまま」になっていて良好だ.
すなわち,エアコンもウオシュレットも電気冷蔵庫もない.
つまり,この家での暮らしとは,およそ現代の生活ではなかったと想像できる.
主人の楠雄氏は,とくに文化財の保存に熱心だったのだろうか?おそらくそうではあるまい.
手を入れる必要を感じなかったのではないか?と想像する.

京都金閣寺に隣接した「長成庵」は,昭和11年の建物だから,旧安田邸のほうが古いが,贅沢さにおいては上をいく.しかし,軒のつくりなどはおなじであった.
ここも実際に住まいとしていた.旧安田邸とはちがって,居住空間における現代性・先進性におどろく.
メーカー直接発注のシステムキッチンは,オリジナル・デザインの統一もふくめてまさに「システム」を構成していた.
日本の大メーカーも,やればできる,のである.

「一日限定」の防空壕公開とあってか,たいへんな入館者で,玄関はごった返していた.
朝からひとが絶えない,とは受付での弁.入館料は500円である.
手荷物は預けることになっていて,かつての来客の付き人がやすむ玄関横の6畳間がクロークなのだが,やや混乱気味だった.

ボランティアのガイドがそれぞれについて,一通り案内と説明をしてくれる.その後は自由見学になる.
たまたま,ガイドの数がたりなくなって,洋間とサンルームをとばして先行するグループに合流せよとの指示で,別のガイドに飛ばした場所の説明をあらためて聞くことになった.

このブログで何度も指摘しているから自分でもしつこいとおもうが,ボランティアの心意気はすばらしいのだが,説明の品質が一定ではないという「難」がかならずある.
「いちばん詳しいガイドが,団体ツアーに同行していて今日はいないんです」という説明も,内部関係者以外には不要な情報である.
ガイドは有料にして「プロ」を要請すべし,と繰り返しておこう.

とはいえ,見学者側にも問題なしとはいえない.
「安田財閥」と聞いてもピンとこない母娘.それで,「金融系ですか?」と母が質問し,「そうですねたとえば『明治安田生命』に安田が残っています」とガイドがこたえたら,ふたりとも反応しなかった.「みずほ銀行」といえばよかったのに.

こうした邸宅がどんどんなくなっていく.
新しくつくられることがなくなったから,差引計算ではなくて単純に引き算だけでよい.
お金持ちがマンションに消えている.
それで,職人も材料もなくなっていく.

応接室の贅沢さはすばらしい.
日本の高級ホテル客室で,この部屋に対抗できるものは一部のクラッシックホテル以外ないだろう.
すると,世界都市東京には存在しないという意味になる.

だから「文化財」になる.
都内のホテルで,文化財にあたるものがあったとしても,レベルがちがう.
では,この家に匹敵する宿をつくろうとしよう.
かならず,「採算があわない」と経営者はいいだすだろう.

なぜ採算があわないのか?
一泊の設定料金が「安い」からである.
ところが,「安くしないとお客が来ない」とくだんの経営者はいい張るだろう.
想定客が「安田善四郎」でも,「安田楠雄」でもない,見学にやってきて「財閥」と聞いてもピンとこない「一般人」になっているという間違いに気がつかない.

それは,経営者自身が「一般人」の生活をして,「一般人」の価値観しか想像できないからである.
これを「貧乏くさい」という.
だから,お金持ちを平然とやっかむ.
これを「貧困なる精神」という.

安田善次郎とて,富山から江戸に奉公人としてやってきた一般人だった.
ジャパニーズ・ドリームが乏しくなったことこそが,社会の貧困である.
旧安田邸の庭先隣地は,「文京区保険サービスセンター本郷支所」という「近代建築」がある.
安田邸の玄関から退去しようとすれば,かならずこの建物のみすぼらしい姿が目に入る.

時代が経てば価値をますます高める家.
どうやっても,時代が経てば価値をますます低下させる公共の近代建築.
これが,建てた瞬間から価値がなくなる近代プレハブ一戸建て住宅の象徴でもある.

旧東欧ソ連衛星国の首都にはそれぞれ,スターリンから贈られた「文化科学宮殿」という超高層建築が伝統的様式美を否定してそびえ立っている.
社会主義時代をしる世代は,「爆破せよ」と主張し,若い世代は「べつにどうでもよい」とおもっている.壊すにもお金がかかるから,「社会主義」の観光名所として稼いでいる.

いろんなところにお金をつかいまくることができるうちに,このサービスセンターを隣地の文化財に見合ったセンスで建て替えることをしないのか?
あっ,しまった!
文化財に指定しているのは「都」で,みすぼらしくみっともない建物は「区」であった.

どうやら,この縦割りこそがみすぼらしくみっともないことの元凶であると確認した.
ならば,住民側からうったえるしかない.
公益財団法人日本ナショナルトラストが,区の建物を「爆破せよ」とはぜったいにいわないはずだし,それが高度成長期のお役所建築です,といって観光名所にもならない無価値である.

他人依存ではなにもできない.

旅行業法緩和はいかされているか

ことしの1月,改正旅行業法が施行された.
趣旨は,地域に限定した知識のみで取得可能な地域限定の旅行業務取扱管理者の資格制度の創設と,1名の旅行業務取扱管理者による複数営業所兼務の解禁,である.

これまでは,国内および海外旅行の手配業務ができた,「総合旅行業務取扱管理者」と,国内のみの,「国内旅行業務取扱管理者」の二種類の資格があったが,これに,「地域限定旅行業務取扱管理者」を新設して,資格取得の試験範囲も緩和して宿がある地域限定のツアーができるようになった.
さらに,兼務が可能になったから,観光地としてカバーできる.

「宿の旅行業務」は,国によっては高級ホテルでオリジナルツアーがあったり,宿泊客の要望に応じてホテルが直接旅行を手配したりと,柔軟な対応が可能なばあいがあるが,当然,わが国では「柔軟」ではなかった.
今回の「改正」は,その意味で外国をキャッチアップしたものともいえる.

だから,そういった国からの訪日客対応はもちろんのことである.
これらの人びとからすると,日本での旅行を日本に来てから宿で申し込むのが困難であったろうから,自然に,「不便」と評価されていたろう.

また,地方の観光地にある宿では,「ホタルツアー」や「星空ツアー」と称して,自前のバスをつかって当概地を案内する,ということが「法的に」できなかった.
こうしたことは,「旅行」になるからだ.じっさい,「ツアー」につかった送迎用の自家用バスで不幸にも事故が発生して,保険が適用されなかった例があると記憶している.「送迎」という状況ではなかった,と判断されたのだ.

だから,今回の改正でのつかい勝手緩和は,宿には朗報のはずである.
しかし,積極的に新制度を利用しようという宿を聞かない.
なぜだろうか?
第一に,人手不足があげられる.
第二に,面倒なのだろう.
第三は,収益増が具体的に見込めないから.

じつは,宿泊業は旅行業にタッチしない,という業界不文律がなんとなく生きているのではないかとうたがう.
これは,お客様目線での発想ではない,業界の習慣だった.

法改正の根拠に,観光庁観光産業課の資料では,
1.地域体験・交流型旅行商品に対するニーズの高まり。
2.ホテル・旅館等が自ら旅行商品を企画・販売したいとの要望。
と書いてある.
主語が具体的にだれなのかが気になる.

ところで,同時に通訳案内士法も改正されている.
こちらは、有償でサービス提供ができる唯一の資格だった「通訳案内士」の独占がなくなったことが一番の変化だ.
つまり,無資格者でも有償でサービス提供ができる,ということになった.

背景は,外国人観光客の増大というが,おそらく東京オリンピックのボランティアガイドを合法化するためではなかろうか?
じっさい,従来の資格試験が難しく,英語以外の言語の通訳不足が原因であるとの指摘もあるそうだ.ならば,「級」を設けるのかと思いきや,こちらはずいぶん思い切った印象である.

そんな難しい試験を突破した従来の資格保持者は怒らないのか?
日本は本音と建て前の二重社会であるが,この資格も有名無実化していた.
無資格者の営業を排除する取締が,ほとんどされず,「ヤミ」が横行していたからである.

しかし,今回の改正は,従来資格保持者にとって有利な展開になるかもしれない.
名称を引き継ぐ「全国通訳案内士」という呼称が唯一の独占になるが,「プロに依頼したい」ということになると,この呼称に行きつくことになるからだ.

「進んでいる」はずの海外事例をみるには,アマゾンプライム・ビデオ「ペテン観光都市」が紹介するさまざまな手口が参考になる.

日本は遅れていて安心安全.
しかし,これは言語の壁で相手をだますほどの語学力がないことが大きな原因ではないか?
国内の募集団体ツアーで行く観光なら,ちゃんとしたガイドの説明をきくことができるが,個人旅行だとどこにどうやって申し込めばいいのかもわからない.

観光庁がすすめている「通訳案内士登録情報検索サービス」は,閲覧対象者が事業者に定められていて,これには「個人」がない.
日本観光通訳協会のHPには,一般人がつかえる通訳ガイド検索システムがある.
これをみると,もっと,日本人のための観光ガイド,という案内があっていいとおもう.
良質な情報には報酬がともなう,のをよしとすべきだが,つかい勝手にかんする事前情報もほしい.

もしかしたら,宝のもちぐされをしているのかもしれない.

豪華は質素・簡素・貧弱の反対語

困ったことに,「質素を旨とする」といわれると,「清廉」なイメージからこの国では「道徳的によいこと」に変換される.
江戸幕府の政策はいまにいきていて,「倹約令」が背景にあるとかんがえられるが,そのまたルーツをたどると,平安時代の「服制」にいくから,「冠位十二階」がおおもとになるのだろうか.
現代の「叙位」における「位」にのこっている.

明治以降は,資源も資本もない国が,列強の餌食にならないように「富国強兵」をスローガンとするが,それはけっして「富国」でも「強兵」でもなかったからである.
先に「強兵」は達成したが,それを支える意味でも,とにかくずっと「富国」にはなれなかった.
ワシントン軍縮会議が,それを悲痛に物語っている.
だから,「欲しがりません,勝つまでは」といった「倹約」が,政治的にも美徳とされた.

もちろん,外国人にもつうじるもっとも有名なものは「茶道」の「わびさび」文化だから,秀吉の黄金の茶室という「例外」が,質素を豪華に転換させたすくない例である.
だから,この国では,上も下も「豪華」とは逆のものが大好きなのだ.
それでか,絢爛豪華な桃山文化が,なぜか日本文化史の上で浮いた感じになるのだ.

2016年に来日した,サウジアラビアのムハンマド副皇太子が皇居にて天皇陛下と会見した写真が,アラブ世界で「衝撃的」だと話題をよんでいた.
それは,会見の場となった皇居新宮殿の部屋が,あまりにも「質素」で「簡素」だったからである.

あちらの方面では,絢爛豪華な金ピカこそが富と権力の象徴なのだから,この「衝撃」はたしかに理解できる.
これを,究極の「ミニマリズム」だと評するのもわかるが,日本人の目にはこの部屋の「豪華さ」がわかるから,はなしは複雑だ.

白木の材木に,超絶的なカンナをかければ塗装はいらない.
ニスを塗るのが常識のひとたちには,説明しても理解がむずかしい.
だから,日本のそうした技術と選び抜かれた材料の贅沢さは,日本料理とにている.
日本人は,美の世界にも質素と簡素をもとめるのだ.

日本が国家として「威信をかけた」はずの,皇居新宮殿建設は,設計者の吉村順三が途中辞任している.「国家予算」という制約と,「建築家」と「発注者(宮内庁)」との関係整理ができない官僚的な性質とがまざっている.
国立競技場の再建にあたって,イラク人建築家のザハ氏ともめたのも,半世紀前の吉村のパターンとおなじではないかと建築史家の五十嵐太郎氏が指摘している.

とまれ,皇居新宮殿は,外国製をつかわない国産の材料と技術に芸術を駆使した,当時としては最高の建築だった.きっと,いまでもそうだろう.
1968年(昭和43年)落成.当初予算90億円,最終総額130億円だった.
これを民間でやったのが,昭和45年に完成した帝国ホテル本館であった.
やはり建設費用の増大で,二年連続赤字となったものの,その気概は立派なものだ.

昭和の成長期,田中角栄が「今太閤」といわれたように,それは「昭和元禄」とも自称して,桃山時代もおりまぜてのむき出しの金ピカこそが富と権力の時代だった.
有名温泉ホテルの自慢が「黄金風呂」だったのもなつかしい.
そして、金ピカの頂点がバブル期だった.

ところが,頂点のバブル期でさえも,日本人は世界のひとが思い描く「絢爛豪華」を味わってはいない.せいぜい,味もわからぬままに一晩で「ドンペリ」や「ロマネ・コンティ」を抜いた本数を争ったりした程度であった.
外資系とは比べるべくもない貧弱なボーナスと,ベンチャー投資がなかったからである.つまり,古い体質のままの頂点だった.

バブルが崩壊して,外国から「ハゲタカ」がやってくると,彼らは不良資産を買いあさりながら,それを事業化し成功させた.
その売却益の莫大さに,日本人はおどろいてやっかんだ.
こうした成功の報酬を,外資はきっちり社員に還元するから,向こう三代の孫までが一生カリブ海の島で遊んで暮らせるボーナスを得たひとは少なからずいる.

日本のバブル崩壊と鉄のカーテンの崩壊は,ほぼ同時期である.
それで,日本人は世界の動きを見失った.
国内のてんやわんやに東西冷戦の終結の意味がわからなかった.たぶんにいまもわかっていない.
そして,1992年(平成4年)に,中国は「社会主義市場経済」を表明した.

日本の不景気はここから続くから,「絢爛豪華」をじつはだれもしらない.
92年は,地球環境サミットもあった.ここから「エコロジー」がくわわる.
これに,企業の経費削減と政府の公共事業削減が「倹約令」になって,「もったいない」が時代の標語になった.

かんたんにいえば,「貧弱」すなわち貧乏くさくなるのだ.
平等が大好きなひとは「格差」を強調するが,「おもてなしの国」で海外最高評価のホテルは,東京のパレスホテル以外に国内資本のホテルはなくなった.
ホテル経営者も,国際的水準での「絢爛豪華」をしらないからだ.

島のリゾートコテージに家族で一ヶ月滞在すると,日本円で1億円という施設は,世界中にちらばって存在している.
ここの「絢爛豪華」さとは,どんなものか?
建物だけではないのは当然だ.

「コスパ」を気にするひとをターゲット顧客にしていないことだけは確かである.
それに,数量×単価というかんがえが確立している.
わが国は,官民挙げて「数量」だけを追求し,「単価」をないがしろにする.
「貧乏暇なし」の原因がここにある.

夏休み 城崎にて その1

なんといっても志賀直哉の「城崎にて」が城崎を城崎にしたといっていいだろう.
この小説家が城崎を訪ねたのは,まだ環状線になっていなかった山手線にひかれたケガの湯治だったというから,当時としては地の果てのような気がしたのではないか.

この地がある兵庫県豊岡市は,鞄とコウノトリで有名だが,玄武洞という玄武岩の命名にもなったみごとな自然の造形も観ることができる.
コウノトリが生息するのは,わが国ではこの周辺にかぎられるそうで,温泉オリジナルグッズもコウノトリをモチーフにしていた.

城崎温泉は一級河川の円山川の鳥取側にあって,その対岸に湿地をかかえている.ここがコウノトリの栖だという.
東欧のルーマニアからブルガリア,ポーランドの川沿いにもアフリカ大陸から飛来するコウノトリの営巣が観られるが,ここでは,煉瓦作りの家の煙突や電柱の上に巣をつくる.

それで,本物の煙突に巣作りされると下に住む人間の暖がとれなくなるから,ダミーの煙突を屋根にすえてそちらに巣作りさせるので,一軒の家にいくつもの煙突があるようにみえる.だから,住民のやさしさがダミーの煙突の数になって,屋根が煙突だらけになった家もある.
電柱の頂上には,金属の網で床をつくってそこに営巣させている.

城崎では,そのようなものはなく,湿地にある巣のリアル映像が文学館のロビーで放映していた.
ヨーロッパ人は,人間がいないと生息できない鳥としてコウノトリをみて,その営巣をたすけているが,日本人は珍しいがふつうの野鳥としてみているようだ.

志賀直哉が,城崎温泉を日本の典型的な温泉地の代表と評したそうだが,自動車を通すための道路拡張で,ずいぶんと情緒は犠牲になったろう.これは文学館にある写真でわかる.
谷間の狭い地域が温泉地だから,道路づけ計画は大変だろうが,裏通りの拡張ができなかったのが「痛恨」といってよさそうだ.

それに,例によって貧しい昭和の急速な「近代化」がつくった鉄筋コンクリート造りの旅館群が,自ら情緒ある景観をこわして,いまはそれがよごれ寂れてさらに悪化させている.
「景観」という美的センスが乏しいことだけは,アジアの共通点ではないか?と確信するのは,日本全国共通であるから,城崎温泉が特別であるとはいえないし,むしろこれでも「保存」に涙ぐましい努力をしているはずだ.

電線の地下埋設工事がはじまっていたが,長野県の妻籠宿のような成功にはほど遠いだろう.
もっとも,この「無秩序」が日本的であるという外国人旅行客がいるから,本質とはちがった安心感でごまかすことができる.

USO放送局のNHKが「インスタ映えする街」としてこの温泉地を特集したそうで,それから若いカップル客が増えたと旅館の女将が説明してくれた.
たしかに浴衣姿のカップルが目立ったが,欧米人がきちんと浴衣を着こなして,ふつうに下駄を履いているのが印象的だった.

慣れないわたしには,下駄の鼻緒が痛いからと旅館でサンダルをすすめられたが,いかにもというビニールサンダルであったから,ならば自分のサンダルを持参すればよかったと後悔した.
雑貨店で足袋型の靴下をみつけたが,帰投間近のため購入しなかった.
あつらえた足袋を欲しいとおもう.なぜ下駄のあう温泉地で売っていないのか.

街を一望する温泉寺の横をゆくロープウェイは,有形文化財にもなっている.
頂上まで中間駅をいれてたった7分間だから厳しいが,外国語の観光案内がない.同乗する係員が英語で運転上の注意をうながしていたが,このロープウェイも温泉寺も,なにがすごいのか彼らにはわからないだろう.
こういうところが,「遅れている」ではすまされない放置感とガッカリがあるはずだ.

それは外湯も同様で,建築様式から湯の成分にいたって外国語案内がない.
だから,外国人観光客はかなりの情報を事前に,自分で得ないといけない.
すると,城崎自慢の「文学館」も,日本の近代文学をささえた文豪たちについて,どうやってしることができるのか?音声ガイドしか方法がなさそうなのは,たいへん残念だ.
それに,一般応募の短歌や俳句の秀作が展示されてはいるが,この説明は外国人にはしないのだろう.

酷暑の平日とはいえ,文学館の入場者はわたしたち夫婦だけだった.
館内撮影禁止でインスタ映えするはずもないから,日本人の若者も来ない.
どこかズレているのは,どういうわけか?
特別展が,「劇場法」制定で話題になった平田オリザによる宮沢賢治「銀河鉄道の夜」で,さらに満面の笑顔の市長とのツーショットが展示されていたのも原因か.まるで花巻温泉にきたようだった.

城崎温泉は高温の源泉を外湯に回して供給しているから,じつはどの外湯もおなじ湯である.
それで,温泉資源保護のため循環と消毒がおこなわれている.
これは,温泉マニアには痛い.

名物は日本海の「蟹」だから,いたるところに「蟹の宿」はあるが,シーズン外の夏場は休館状態のようだ.
おそらく冬場の「蟹」も,略奪的な乱獲で数がなく,だからといって客前に出さないわけにもいかないから,旅館の利益を圧迫していることだろう.伊勢の伊勢エビと似たような状態だとおもわれる.
だから一層の「雰囲気作り」という街中をテーマパークにした演出が重要になるだろう.これは,スポット地点でインスタ映えすればいいというものではない.

役所に依存せずにできるのか?
役所に依存しないでやり遂げた妻籠宿のすごさを改めてかんがえた.