とにかく長生きしたい

漫然と生きていると、生きていること自体が目的になって、どんなふうに生きるのか?ということがないがしろになる。
それで、とにかく長生きしたい、ということになるから、けっきょくこれは、死への恐怖にほかならないので、既存宗教が無価値になったということでもある。

これまでの人生で、何回、臨終に立ち会ったか?といえば、祖母と父のときしかない。
急死した母の臨終には、出張中で立ち会えなかったし、枕元にいたはずの妹も、ちょっとはずした隙に逝ってしまったと泣いた。

そんなわけで、今年の春のお彼岸は、昨日の17日から、来週の23日までとなっている。
お彼岸前に桜が開花してしまったのは、はじめてかもしれない。
順番がちがうのは、いまどき人間活動のせいだということになりがちだけど、ほんとうのところはどうなのか?

専門家というひとたちが、かくも信用できない時代もない。

その「不安」が、世界的な「株安」になってあらわれている。
よくいえば、一般人の知識が専門家と大差ないということでもあるし、わるくいえば、専門家と称するひとの専門家にあるまじき発言の軽さが、一般人をして納得せしめることができない。

それが、判断の混乱をうんで、さらに別の専門家による情報過多が、とうとう「パニック状態」をつくってしまった。
もちろん、政府の発表も、いかにも「事務官」が書いた原稿を棒読みして、ぜんぜん説得力に欠けるから、トイレットペーパーがなくなるような不始末をおこすのである。

すなわち、テレビや新聞という既存メディアも、無価値になった。
正しさの基準を提供できないということは、購買価値がないと自主申告しているにひとしい。
紙がなくなるというデマを流したのは、ネット「だけ」ではなかった。

事後、このことを「放送倫理」として問題化することができるのか?

おそらく、「頬被り」をするのだろう。
いまの国内制度は、業界内部で議論する「内輪」のはなしになるからである。
すると、出てくるのは政府であって、もっとたちが悪いことになる。

「公正さ」とはなにか?
こうした議論から、国民も切り離されて、安逸な表層ばかりを追いかけることしかできない。
それが、今回、ブーメランとなって「パニック」をつくったのである。

おかげで、確定申告をゆっくりやることができる。
それに、ふだん予約がとれない宿も、かんたんに予約ができる。
移動は自家用車。
温泉にゆったり浸かれるのだ。

原油価格の急落で、ちょっとだけガソリン価格もゆるんできた。
いまどきは、公共交通機関の代表であるJRの電車賃が高いから、自動車移動の価値があるのだ。
どうしてこんなに高価なのか?

前にも書いたが、鉄道はエコじゃないからである。
線路の「保線」だけでも、たいへんな労力を要していることでわかるように、高速ではしる電車が安全に通れるようにつくるのも、おどろくほどのエネルギー・コストをつかっているのだ。

しかも、「安全」を「第一」とするので、各種緊急停止のためのシステムは、車両だけでなく線路にも配置されている。
これが、「お手軽」な利用ができる便利さと相反する設備投資である。

だから、車両あたりの利用密度を高めることが、維持するうえでも重要になる。
それで、人口がおおい都会は、どこの国でも鉄道がありがたがられるけれど、人口が散る地方での鉄道を維持することが困難になるのである。

わが国でも、地方にいけば、クルマがない生活はかんがえられない。
利用密度が得られない鉄道よりも、舗装するだけでよい道路の維持のほうが、エコだからである。
この「エコ」とは、エコノミーだけではなく、エコロジーでもあるのは、トータルでのエネルギー消費が鉄道よりもすくないからだ。

今回の「ウィルス禍」で、わが国の経済は急落しそうであるし、すでに急落している。
ファンダメンタルズでいえば、絶好調のはずのアメリカで株価が乱高下して、なんだかおかしいことになっている。

わが国は、消費増税後のファンダメンタルズは、最悪に近いし、まさかの「GDPが年率でマイナス二桁」になるやもしれないし、もうなっているかもしれない。

もはや日銀の手も尽きて、株を買うしかないという、内外の機関投資家たちの「餌食」になっている。
つまり、かれらはどんどん「空売り」して儲けるだろう。
こうしたひとたちを「ハゲタカ」というのである。

日本経済という「屍肉」をむさぼるのはいかがか?
けれども「スカベンジャー(清掃人)」でもある。
政府の経済政策が、あまりにも「カス」だから、これをむさぼって儲けることが、「カス」からの転換を促すからだ。

けれども、「とにかく長生きしたい」から、「カス」の政策をやりましたといって、みずから責任をとりたくないとかんがえる「カス」たちが支配している。

わたしたちは、これから酷い目にあうことが確定している。
それもこれも、こんなやつらにお任せしてしまった、じぶんたちのせいなのである。

合掌。

たまに「名作」にぶつかる

テレビを観なくなってひさしい。
ニュースも天気予報も一切観ないで、ちゃんと社会生活ができるから、受信機があるというだけで受信料を徴収するのは、「なくてはならないもの」に対する勘違いでしかない。

ものがない時代と情報もない時代の賜だった「放送」が、すっかりコモディティ化してしまったので、「受信料問題」という「問題」が、顕在化してきたのだ。
その意味で、制度も「古い」が、かんがえ方がもっと「古い」。

何回か書いたが、観るのは「YouTube」である。
こちらは、事実上の「アーカイブス」にもなっている。
いい悪いの議論はあるが、よく観る傾向をAIが判断して、そのひとが好みそうな動画ばかりを提案してくる。

それで、仕方ないから、なるべく興味がない動画も選ぶようにしている。
すると、なんだかいろんな動画を提案してきて、たまに「ヒット」するから、AIもまだまだのレベルなのだとわかるのである。

わが国を代表するゲーム機メーカーに成長した、もとは「花札」や「トランプ」をつくっていた会社がつくったゲーム機のために、不思議な「番組」もつくっていた。
このゲーム機は、動画を観ることができる機能があって、その機能紹介のために製作されたものだとわかった。

初代のゲーム機と後継機種は持っていたが、複雑化するゲーム内容についていけず、ぜんぜん興味をうしなってしまったから、いまどんなゲーム機がどうなっているのかをほとんどしらない。
スマホでゲームをしているひとをみると、その時間の読書をすすめたくなる悪い性分もある。

たとえ「サンプル動画」だとしても、あらためて検索したら、なかなかの話題になっていた。
10分ほどで短いけど、内容がよく吟味されている良質の「シリーズ」は、全部でたったの「15本」で終了している。

『修理 魅せます』

ナレーターは、石坂浩二による。
彼は、プラモデルのおそるべきファンだというから、この手の「番組」のナレーションは、楽しくて仕方なかったにちがいない。

「修理」という分野は、「ものづくり」とはちがうジャンルなのだとよくわかる。
しかも、それは、新製品をつくるよりよほど難易度が高い。
これを、15の製品で「魅せ」ている。

それは、出演する職人全員のもっとも重要視していることが、「依頼主の思い出」だからである。
かれらはものを修理しているのではない。依頼主の「こころを修復」している。
だから、かれらは、製造業ではなくて「感情産業」のひとたちなのだ。

日本がかつて世界を席巻した「テレビ受像機の製造」は、もはや壊滅的である。
いわば、当時のアメリカ人が味わった家電製造業の壊滅を、いま、われわれが追体験している。

失業はこまるけれども、アメリカ人はお構いなしに、日本製のテレビを購入したのは、安くて性能がよかったからである。
いま、われわれだって、安くて性能がよければ、日本製にこだわることはないとかんがえて、購買行動をしているのだ。

むしろ、あたかも「日本製のような」製品がおおくなって、なにがなんだかわからないから、いっそうこだわりがなくなっていく。
その代表がテレビ受像機である。
メーカー名が「ブランド」としてあつかわれるから、わが国伝統の電器メーカーがつくったものだとおもわせる「怪」がある。

4Kだろうが8Kだろうが、解像度が高くなっても、これにみあうコンテンツがない。
だから、買っても無駄だとおもうけど、どうしてみなさんがほしがるのか?

テレビを売りたかったら、その機能にみあった番組が放送されないと意味がないのである。
「日曜劇場」や「水戸黄門」を電器メーカーの提供でやっていたのは、このためでなかったか?

それで、ゲーム機メーカーが、驚きの番組をつくってしまったのだ。

しかし、この「シリーズ」は、できがよすぎた。
およそ、このシリーズを観て感激するひとたちなら、はたして最新のゲーム機を自宅に購入するのか?
いや、こうした番組に敏感なひとたちが、ゲーム機を購入すると意図したのか?

けれども、ゲーム機を購入しないと観られないのなら、やっぱり「順番」がちがう。
「おまけ」なのである。

すると、なんて贅沢な「おまけ」か?
儲かりすぎて税金をおさめるぐらいなら、思いっきり「無駄遣いしてやる」と意気込んだのかもしれない。
それで、業績にかげりがでたら、企画も中止になったのか?

それなりに製作されてからの年月がたっているけど、こんなシーリーズをつくったことに、とても好感がもてる。
このゲーム機メーカーを見直させられたのである。

ならば、今度はテレビ・メーカーが、後継番組の権利を得て、これぞという新シリーズをつくってほしい。
それが、最新の映像技術とどう結びつくのか?
ただ「きれい」な画面ではなく、ドキュメンタリー番組として成り立つ手本を示してほしい。

テレビを売りたいなら、ほしくなる番組がなければならない。

まさか、こんなことも、メーカーは忘れてしまったのか?

ダメ上司考

世の中の「組織」には、ダメ上司が「たくさんいる」とかんがえられる。
その理由はいたって単純で、業績が振るわない組織がたくさんあるからである。

人間というものは、「思考」する動物だから、その思考の奥にある「価値観」や「思想」といったものが、じつはかなりおおくの「行動」を支配している。
これが、本能で生きるだけの「動物」と、決定的にことなる点である。

そんな人間があつまってできるのが、「集団」である。
しかし、集団には、はっきりした「目的」がないという特徴がある。
たとえば、相撲の観戦だって、広い会場に集まったひとたちは、「観戦」するだけで、あとはとくになにか参加することがない。
たまに、座布団を投げることぐらいであるけど、これも全員の義務ではない。

プロ野球観戦がつまらなくなったのは、内野席であっても、なんだか「応援を強制させられる」ことがあるからである。
ここに座るのは、こちら側のチームのファンしかいないという発想がその場の周辺におよんで、おそろしく気分を害したことがある。

それから、あまりプロ野球をみなくなった。

こうした、ひとつの場にいるだけの状態を、「集団」というのだ。
だから、わが国の特徴といわれた、「集団主義」というのは、あんがいと「虚無的」で、なんだかわからないけどみんなでやる、というイメージがある。

これが、成功体験になったのは、「粗っぽい製品」や「一律のサービス」がゆるされた時代背景があったからではなかったか?
つまり、「不足」を前提としていたので、あまねく販売・普及させることに重点をおけば十分に業績があがったし、それ以上はコスト高になったのである。

そうなると、組織としては、集団を引っぱることができれば、中間管理職としては上出来である。
すなわち、職場の構成員たちの「成熟度」は問われないばかりか、むしろ、がむしゃらに命令に服従することがよしとされてきた。

しかし、規模の大小を問わず、現代の優良企業にみられる組織は、第一に職場の成熟度からしてぜんぜんちがう。
このときの「成熟度」とは、ベテランから新入社員まで、正社員からパート・アルバイトまで、じぶんたちのやるべきことを全員が理解している状態の有無をいう。

もちろん、「成熟している」状態とは、この理解度が「広く・深い」のである。
だから、このような組織での上司の役割とは、職場の構成員の邪魔をしないことであるし、積極的に彼らをフォローすることになる。

これが、その職場のパフォーマンスを最大にするからである。
つまり、優良企業の優秀さの本質である「生産性の高さ」は、ここに源泉があるのである。

最優秀な人材を結集しても失敗するのは、これができていないからで、最優秀ではないひとたちが、ときに大逆転の成果をだすのは、これができているからである。

すなわち、職場を成熟化させることができるかできないかは、企業の命運すら左右する重大な分岐点なのである。
会計でいう「損益分岐点」などは、たんなる現象にすぎないから、まったく比較にならない小事である。

では、新入社員やパート・アルバイトまで、どうやって短期間で「成熟させる」のか?
これが、上司の役割のもっとも重い仕事になるのだ。

上司の「できる」、「できない」、「ダメ」は、ここで決まる。

・職場を成熟化させることが「できる」。
・職場を成熟化させることが「できない」が、悪化もさせない。
・職場を成熟化させることができないばかりか「ダメ」にする。

「できない」なら、その上の上司や経営者が、「できる」ようにするように差し向ければよい。
けれども、「ダメ」ならば、即座に配置転換をさせなけれなならない。

これができないなら、それは「ダメ」なひとのせいではなく、その上の上司や経営者の責任である。
ところが、「ダメ」なひとがいる理由は、その上の上司や経営者も「ダメ」だからである。

このような職場にいたら、
若ければ、転職を視野にいれる。
転職ができないなら、業務改善をじぶんでしないといけない、と覚悟する。
という、二択になる。

放置すれば、最悪「倒産」という事態になって、職場ごとなくなるから、業務改善をする覚悟はそんなに「悲壮」ではなく、むしろ、結果が最悪でも、給料をもらいながら業務改善の実験ができるとかんがえれば、無理矢理の転職にも有利になる可能性だってある。

もはや、正職員であろうがなかろうが、関係ない。

ふつう、職務契約で、パートタイムやアルバイトには、職務範囲が定められているが、「ダメ」やその上の上司や経営者が、このことを忘却していることがある。

職業訓練も含めるとかんがえれば、あんがいとパートタイムであれ、アルバイトでも、かんがえによって「都合がよい」ことにもなる。

それにしても、「ダメ」を放置する「ダメ」が、目立つのである。

マスク高値販売禁止運動

トランプ大統領が、「国家非常事態宣言」をだし、WHOは、「パンデミックの中心がヨーロッパ」だといっている。
そのために、ギリシャではオリンピックの聖火リレーが中止され、フランスではエッフェル塔が閉鎖された。

わが国では、「私権を制限できる法律(改正新型インフルエンザ等対策特別措置法)」が国会を通過し、即日の14日に施行された。
この法律は、あの民主党政権のときに成立したから、安倍政権は民主党政権の延長にある。

私権制限については、首相の「緊急事態宣言」によって、「都道府県知事」に強い行政権限をもたせるという方式だ。つまり、知事に「ぶん投げ」をする。
ただし、「強制力」はない。

これは、都道府県に派遣されている「キャリア国家公務員=都道府県幹部」が、出身省庁との連絡役になって、事実上の「知事押し込め」をできるようにした、ということである。

警視庁を除けば、各道府県警察本部長や日銀支店長は、「本庁」の「課長」クラスだという事実が参考になる。
つまり、「支店入社」したら、けっして支店長にはなれない仕組みがある。

地方政府たる「都道府県庁」のなかに、「私権制限」をかんがえることができる部署など、ふだん存在しないし、これまでもなかった。
それが、「緊急事態」だから、すぐにできる、というのは、中央官庁からの命令を鵜呑みにするしかないではないか。
それと、「政令指定都市」はどうするのか?

ようは、官僚による「中央集権」の強化が、かくれた目的になっている。

つまり、いっそうの「政治の無力化」がはかられた。

政権党がどこであろうが、官僚支配は動じないばかりか、強化されるということなので、これを「火事場太り」というのである。
じつに「頭がいい」。
しかし、国民には「頭が痛い」はなしである。

「感染防止」という名目で、なんでもできる。

魔法の杖をもった官僚たちは、その悪知恵をどんなふうに振り回すのか?
もはや、政治家によるチェックは用をなさない。
ヒトラーが独裁を確立した、「全権委任法」は、ドイツ国会による全会一致だったから、ワイマール憲法の改正すらひつようとしなかった。

今回の法律も、「憲法論議」はいっさいない。
「緊急だから」憲法違反でもいい。
ならば、拉致被害者の救出がなぜできないのか?
本人や家族にとっては「緊急事態」のなにものでもない。

これを、ご都合主義という。

国会は、強制力をもたせないことで、「同調圧力」に期待したのか?
より、ずる賢いやりかたである。
国民を、精神的に追いつめる。

どうして、後付けでいいから「憲法との調整をはかること」を付帯事項にしないのか?
おそらく、憲法13条の「公共の福祉に反しないかぎり」があるからである。

この一文は、前から気になっていた「蛇足」である。
すなわち、「公共の福祉に反しないかぎり」という部分の「削除」こそ、議論の対象にしなければならないのだ。
これがために、拉致が個人のはなしにされて、「公共の福祉」ではないから国家が知らんぷりできるのである。

近代民主主義国家の「憲法」は、政府がきめるものではなく、国民が政府に突きつける「命令書」なのだ。
なのに、国民をないがしろにする憲法を、なぜに人権派だけでなく、国民がこぞって改正提案をしないのか?

不思議なことに、「強制力はない」といいながら、「刑罰」はある。
業者にたいして、必要な衣料品や食品などの「指定物資」を、知事が、売り渡し要請や収用、保管でき、なお、これら物資を隠したり廃棄したりすると、「6カ月以下の懲役」や「30万円以下の罰金」に処されるのだ。

「悪徳業者」を対象にするという、時代劇をみすぎて育った官僚の発想の源がよくわかる。
出でよ悪徳業者。

そんなわけで、「(ふつうの)マスク」である。
「医療用マスク」とはいわずに「マスク」といった場合の対象範囲はやたらとひろがる。
感染症対策に有効なのは、もちろん、「医療用マスク」で「ふつう」のではない。

けれども、巷間、ふつうのマスクが不足しているのは、花粉症と時期が一致したからもある。
花粉の大きさとウィルスの大きさは、はなしにならないくらいちがうから、ふつうのマスクでも花粉なら引っかかる。

それが、個人でも有料取引がはじまって、「高額」になっている。
「需要と供給」のバランスがそうさせる。
ネットではすでに、高額で購入したひとたちからの「怨嗟の声」があがっていて、ネット通販の会社に文句をいうひとが多数いる。

「値段」を「確認せず」に「ポチった」のが原因である。

個人間のネット取引でも、「高額」が問題になっている。
それで、ネットの運営サイトに、「マスク」の取引を中止せよという「書名運動」がネット上にでてきた。

「不織布」だか「紙製」だかはしらないが、一枚1000円はないだろう、と。
100枚で10万円。
ほしいひと、買える財力があるひとは買えばよい。

まさか、ペラペラなマスクが、こんなふうに「儲かる」対象になるとは思わなかったが、在庫をいっぱい持っていたひとがいるのだろう。

非合法な物資でなければ、なにを、どんな値段で提示しようが、自由である。
それを「買う」、「買わない」も自由である。

なにをもって、こんな署名運動をしているのか?
これぞ、「同調圧力」ではないか?
こういうひとたちにかぎって、「同調圧力はいけない」というのだ。

政府は、こういう「運動」がだいすきである。
こうして、私権が制限されるなら、やっぱり国民が阿呆だということになる。

パソコンメーカーからの電話

購入者への意見聴取というふれこみで、昨年秋に購入したパソコンのメーカーからの電話があった。

本音は、年度末決算の値引き販売の案内をしたかったらしい。
けれども、ついこの前に新品を購入したばかりなのだから、当分の間、購入予定はないと告げると、いろいろと遣い勝手の質問に切り替わった。

顧客への電話において、「販売」と「情報収集」という二つの目的をもたせるとは、「さすが」とおもった。
こういう「技」を、日本企業はできなくなっている。
「電話調査」という分野で一日の長がある、「外資ならでは」だとおもいながら、それに回答することにした。

ちなみに、「電話調査」で成功したのはアメリカだ。
アメリカ人の陽気さが、いきなりかかってくる他人からの電話でも、あんがい気まずくさせないのだ。
それで、紙を送りつけるアンケート調査より、電話調査の方が主流になった。

ただし、質問は「二問までが原則」だから、今回の電話も、このルールにしたがっているのである。
おそらく、初期のころ、三問も四問も質問して、さすがに怒りをかった経験があっての「ルール」になったはずだ。

アメリカ人の経験則なので、日本人に適用できるのか?ということは十分に検討されたはずでもある。
医薬品だと、アメリカ人の一回分の半分がおおよそ日本人向けになっているのは体格のちがいだが、生活習慣すなわち文化のちがいは、みえない分、難易度がたかい。

わが国の人的サービス業すなわち「接客業」で、この「難易度の高さ」が議論されない。
その「安易さ」が、収益や生産性の低さになってあらわれているのである。

「サービスの難易度」のことではない。
相手の文化や習慣についての研究のことである。

世界的にみて「貧乏国」だったわが国は、ヨーロッパ人からすれば、身分の差はあったけど、めったに所得の差があったようにはみえなかった。
それは、日露戦争勃発前の駐日フランス公使がのこした文章にもみられる。

高貴なる日本人が、ロシアという大国と戦ったら、滅亡してしまうだろうと嘆いたのである。
それは、国民全体が「高貴」であったが、国全体が「貧しい」からであった。

けれども、国民の側は視点がミクロになるので、フランス公使のようなマクロの比較対象をもっているわけではない。

そんななか、当時の「接客業」におけるサービスの「粒度」をかんがえると、だいたい「おなじ」すなわち「一律」なのである。
つまり、相手の身分によって一定の変化をさせれば、それでよかった。

かつての「文豪」たちの小説をそれぞれ読めば、主人公たちが接客業者にどう扱われたのか?がよくわかる。
つまり、ワンパターンなのである。

高度成長期の「一億総中流」時代こそ、もっとも「一律」が優先されて、全国の有名旅館やホテルも、だいたい「おなじ」なのであった。
これが、総崩れになったのは、直接的にはバブルの崩壊ではあったけど、その底辺には、高度成長の産物としての「多様化」があった。

それでいま、ようやく宿の形態も「多様化」してきてはいるが、むかしからの宿が、「多様化」の研究をしっかりしているといえるのか?
と問えば、なかなか「肯定」できないのである。
これが、衰退の主たる原因なのだ。

そんなわけで、購入したパソコンについての感想をきかれたので、大不満の「キーボード」について語ることにした。

「軽さ」を強調するのはいいが、「薄さ」はいかがか?
そのために、キーボードが貧弱になる。
これは、「入力機能」として致命的で、遣い勝手評価の8割ぐらいにあたらないか?と。

それがため、古いノート・パソコンをサブ・マシンとしていまでも愛用しているのは、頑丈なゆえに重いけど、キーボードの打ち心地について、他の追随をゆるさないからである。
しかも、このメーカーさえも、いまではこんな丁寧なキーボードを装備した機種を販売してはいない。

つまり、全メーカー全滅という状態になったので、快適なキーボードを持ち歩くことにした。
すると、ノート・パソコンのキーボードが不要になる。
しかし、タブレットPCのスペックにおける「貧弱」と、立てかけるときの不便は、がまんできない。

つまり、キーボード・レスだが、画面の角度調整ができて、二画面の携帯パソコンがほしいという意見をのべたのである。

どういうふうに、企画設計につながって、どういうふうに議論されて、それが採用あるいは却下されるのか、知る由もない。
けれども、日本メーカーのパソコンがたった数社で、事実上ほとんどなくなったいま、アメリカの老舗に期待したいのは本音である。

しかも、このメーカーは、「東京生産」をうたっていて、都下の工場で組み立てている。
日本人が働く場所があるから、いいたいことをいわせてもらった。

こんなことを、消費者がかんがえる時代になった。

ラッキーなコロナウィルス

政権の経済失策がチャラになる。
こんなラッキーは滅多にないから、とにかく「パニック状態を作ったもん勝ち」である。

競馬や相撲といった、政府が与えるどうでもいい娯楽からはじまって、民間の巨大遊園地や劇場を閉じさせ、あげくに野外の高校野球も中止させたら、とうとうオリンピックの「延期」までぶち上げた。
委員のだれが言ったかもわからないから、「アドバルーン」にちがいない。

政府に依存する国民は、江戸時代の町民よりも「劣化」して、集団心理をあおられたら、根拠があってもなくてもお構いなしに、もてる財力で「買い占める」ことで満足し、あおられた「不安」から、一杯飲み会から披露宴まで「自粛」している。

たまたまリスク・オフになっているニューヨークの株式市場が、「史上最大の下げ」をしたら、同じく「最大に下げ」たのは原油価格で、国民がなんだかわからないうちに、政府保有のマスクを供出するというニュースが追い打ちをかける。

不足するマスクを「政府が供出する」という無意味が、さらに政府の点数稼ぎになるのだが、これを「真顔」で政府発表するに至って、なお、国民が「歓迎する」のだから、もう二度と「大本営発表」をわらってはいけない。

しかも、半島の学校への配布が排除されたことの善し悪しを議論するのだから、暇人たちの楽園になったものだ。

半島のひとたちが、医療用でもなんでもないマスクをもらえないことに「差別」とかんがえることも、残念なことである。
そんなもんもらっても「予防」の「よ」の字にもならないと、「文明人の科学リテラシー」をたてにして「土人扱いするな」と拒否したら、どのくらいの衝撃を日本人にあたえることができたものか?

こんな大チャンスを自ら放棄したのは、どういうわけなのだろうか?
それとも、文明人の科学リテラシーを、われわれとおなじくやっぱり喪失してしまったのか?
もしや、国内テレビのワイドショーを観ているだけなのかもしれない。

いや、南の大統領は、マスクをした格好で写真を公開しているから、そのレベルだということか?
それにしても、残念なことである。

こんな「騒ぎ」のなか、今週あけ9日に、重大なニュースがあった。
それは、昨年増税された直後からの四半期における、年率換算のGDPが改定値として内閣府から発表されたのだ。
「マイナス7.1%」。

数字の「悪さ」にもおどろくが、理由にもっとおどろいた。
「民間設備投資の不足」
どうかんがえても、「消費増税」が原因だ。
よくも、民間のせいにできるものだと、その「いいまわしの妙」に悪意すら感じる。

それでじっさいは政府が「萎縮させた経済」を、ぜんぶ「ウィルスのせい」にして、アベノミクスの無意味を消し去ろうという魂胆がみえみえになってきた。

こんなデタラメな政府が、かつて日本に存在したか?とかんがえたら、もう思いつくのは近衛文麿内閣しかない。
安倍内閣が極左だというよりも、これを仕切る官僚たちの思想に呆れる。

科学も論理もまったくない、ただ支配欲だけがそこにある。
まったくもって、滅亡したソ連政府のやり方がそのままコピーされている。
ソ連研究者のベンチマークは、わが日本政府であることはまちがいない。

米ソ冷戦期、ソ連側は米軍の弱点を突く戦略を一度も採用しなかったことが明らかになった。
戦略を担当する官僚たちが、現場の声をことごとく無視したからである。
自分たちの「立場」を、国家目的よりも優先させる。
これこそが、「官僚」の「官僚」たる、行動様式なのである。

しかし、一方で、「原油価格の暴落」という大ラッキーも起きている。

減産を協議していた「OPEC+」が決裂したかとおもったら、なんとサウジアラビアが、一国だけ一転して「増産」を決めてしまった。

よほど、アメリカが「シェール・オイル」で石油純輸出国になったことの不安なのであろう。
中東から、アメリカ軍が撤退する恐怖は、サウジアラビアがつくってきた秩序の崩壊にみえるにちがいない。

ところが、こんな「価格」だと、アメリカのシェール・オイル会社の経営がもたない。
それが、株式市場や民間債券市場の「暴落」になると、もしやの「世界恐慌」になりかねない。

レバノン政府が債務不履行になったけど、まだまだ大丈夫。
けれども、12日には、あの「ドイツ銀行」が、「自社債券」の一部で、金利支払いを停止した。
「超弩級」の7000兆円ともいわれる、デリバティブをかかえるのがドイツ銀行問題だから、「いよいよ感」すらある。

それに、日本株の25%以上を日銀が保有するなか、東京市場の落ち込みは、「やばさ」を増していて、年金機構が投資する株式が、もしやの「損」をだす可能性まででてきてしまった。
それで、日銀が日本株の「買い増し」をやっている。

日銀が超過債務状態になっても、政府が資金提供するから大丈夫。
その政府は、ほんとうに大丈夫なのか?

中央銀行の「金融政策」が、なんと自国株の買い増し介入「しか」できないオプションのなさこそが、わが国経済政策のどん詰まりを世界に公表している。
これを、将棋やゲームなら「詰んだ」というのだ。

ああ、将来不安を消費税でまかなうはずではなかったのか?
それが、株式の下げによって「パー」である。
計画経済の計画が頓挫したときの無惨が、ひたひたとやってきている。

まさに、飢えたタコが自分の脚を喰らっている姿になった。

しかし、国民に「マスクを供与」するという政府は、どこまでも「優しく微笑んでくれている」ようにみせて、阿呆と化した国民をこれに「依存」するように仕向けるのだから、キリスト教をしっている欧米人なら「悪魔の所業」と見破るところだ。

しかし、わが国民は、健康のためなら死んでもいい。

こんな倒錯が、個人ではなく社会にひろがって、同調圧力やなんやというけれど、4月1日から施行の「改定健康増進法」は、ますます全体主義に社会をみちびく「標(しるべ)」になった。

もはやマスクをしないで電車に乗ることもはばかれる。

政府の役人たちは、パニックをつくって責任逃れにはしっているが、そのパニックだって「やりすぎ」たらコントロールを失う。

それがほんとうの「パニック」なのだ。
小さな気圧の変化が巨大台風になるように、集団心理がまとまってくると、強大な圧力が社会にうまれる。

それが心配だ。

青森のラーメンは出汁で

タクシーででかけた秋田の有名店のラーメンは、なんだかしょっぱかったことが印象に残った。
繁華街の日本蕎麦屋が提供する、「中華そば」が、オーソドックスな東京ラーメンを彷彿とさせたのとはちがったから、余計に記憶にのこった。
さては、青森のひとたちも、寒さを凌ぐためにラーメンが大好きなようである。
時間がないから、ぜんぜん制覇などできないけれど、なるほどこちらは「出汁」で喰わせる店が林立している。

魚の出汁だ。
けれども、関東の煮干しラーメンとちがうのは、その「濃厚さ」にある。
スープがドロリとしているのだ。
豚骨系とブレンドしているにちがいない。
それでも、出汁のうまみがどっさりやってくるから、病みつきになるのは理解できる。

ただし、やっぱりしょっぱいのである。
これを飲んだら喉が渇くとわかっていても、スープをすくう手が止まらない。
まわりを見渡すと、みごとに飲み干しているひとたちばかりだ。
でもやっぱり、途中でやめた。

麺は、「細麺専門」という店から「極太」まで、さまざまで、どちらもいける。
太麺でちょうどいいのは、しょっぱいからだろう。
でも、ラーメンとはおもえないモチモチの太麺だから、イタリアンの生パスタだといわれたら気づかないかもしれない。
すると、トマト味があってもいい。

韓国には、「カムジャ麺」という、じゃがいものデンプンを練り込んだ麺がある。
青森県は、じゃがいもの生産全国六位で、そのほとんどがメークインだ。
どこかに、青森産の「カムジャ麺」があるかもしれない。

米粉を練り込んで、モチモチ感をだす「うどん」なら、横浜の上大岡近くにある横浜刑務所の産品で人気の逸品だ。
ときに、欠品となることもある。
けれども、どうして「刑務所作業」として、「うどん」がでてきたのか?
ぜんぜん「いわれ」がわからない。

ある意味、刑務所は職業訓練所でもある。
そうかんがえると、むかしながらの「作業」による「訓練成果」が、はたして刑期満了後の生活再建の役に立つといえる自信があるのか?
歴代法務大臣にきいてみたい。
企業には社会的責任が問われるが、国家事業の社会的責任が問われていない不思議がある。

「懲役」だから、気にしなくてよい、ということではなかろう。
「矯正」とか「更生」と本気でいっているように感じないだけだ。

だからか、職業訓練に関しても、ぜんぜんイマイチなのは、企業に重心があったからだ。
たしかに、そうかんがえれば、企業の社会的責任が放棄されてきている問題がある。
この分野であっても、国家依存してはいけないのだ。

長い冬がおわれば、この地方の疲弊の原因である「ねぶた」の準備がはじまる。
もとは、「睡魔」からのがれるための風習が、「七夕祭り」と結合したものだ。

おおよそ、日本各地の「祭り」は、封建制のなかで支配者が被支配者の欲求不満をガス抜きする手段として利用してきたという側面もある。
年にいちどの祭りの意味は、あんがいと「したたかな政治」のことでもある。
昨今、話題になった青森のホテル駐車場における、祭り期間中の高額な料金設定は、ホテル利用客優先で、一般客排除の作戦だったものが、サービス業としてあるまじき「サービス設計」のミスを発端とする。
つまり、案内表記をまちがえたのである。

年のうち数日だけの「特別」が、ふだんの需要と供給を破壊して、一方的な需要をつくるから、結局のところ全部の需要に対処できない。
このときの「差」を、「逸失利益」というから、このようなイベントは、じっさいに「効率が悪い」のである。
それで、「赤字」化して、なんのため、だれのための祭りなのかがわからなくなる。
だから、ふだんの魅力をどうするのか?がたえず問われることになるから、民間が自由に活動できることがなによりも重要なのである。

毎日の「しごと」を必要とするのが、ラーメンのスープ作りだから、街おこしにラーメンがつかわれる合理的な理由がここにある。
それが「ふだんの魅力」になるので、うまいラーメン店がたくさんある街のひとはしあわせだ。

そんなわけで、次回に是非とおもうのは、十二湖のシジミをふんだんに使った「濃厚シジミ・ラーメン」だ。
市内の繁華街にある店は、なんと「夜だけ営業」だった。
昼にでも挑戦しようとおもったのがまちがいだった。

肝臓によろしいシジミは、免疫力をたかめるのに最適な食材のひとつである。
幸いなことに、科学のリテラシーがないひとたちが、とんちんかんな買いものに走って、感染症の役に立たないマスクや、意味不明のトイレットペーパーやティッシュペーパーを買いあさっているけども、シジミを買い付けるひとがいない。

シジミ・ラーメンは食さなかったが、しじみ汁は毎日いただいた。
これぞ、感染症を食事から予防する手段なのである。
青森で発症者がでないのは、肝臓にいい食生活で、免疫力があるからかもしれない。

シジミ・エキスがたっぷりの「濃厚」というシジミ・ラーメンの出汁とはどんなものなのか?
じつに気になるところである。

全国一律の安心とムリ

どんな地方に行っても、「全国一律」がある。
コンビニと百均がそれだ。
コンビニをコンビニせしめているのは、最大手にしてわが国で最初のコンビニの物語がかたるように、「配送」にこそ仕掛けの「タネ」がある。
つまり、じつは「コンビニ」とは、「流通の完成形」なのである。

さいきんのコンビニは、コーヒーにその「オリジナル」を求めている。
どちらのコンビニ・ブランドでも、販売する商品のおおくは、「ナショナル・ブランド」を主体とするから、看板ごとに「ちがい」を訴求するには、さいしょは「弁当」や「おにぎり」だった。

ところが、どちらさまもこれを用意して行き渡ったので、つぎは「おでん」になった。
それから、「揚げ物」になって、プライベート・ブランドの商品群開発へと進化した。
そして、昨今は、「コーヒー」になったのである。

コーヒーは嗜好品だから、ひとによって好みがわかれる。
それで、熾烈な競争が勃発した。
「販売競争」というよりも、「品質競争」になったのは、「万人向け」にこだわると、コンビニ・ブランドとしての主張が減ってしまうし、特徴的な味と香りにこだわれば、選択肢から除外される可能性もでてくる。

この、相容れない関係の、どこを自社の「コーヒー」として設定するか?は、集客における重大問題になったのである。

これにくわえて、学校の教室にも職場にも、水筒を持ちこむことが許される時代になった。
持ち運びに適した、魔法瓶機能のあるさまざまな水筒が、さまざまなメーカーから販売されている。
ペットボル飲料の手軽さはあるが、これが、「エコじゃない」という価値観がうまれて、マイボトルの水筒へとシフトした。
わが家では、紅茶用とコーヒー用にわけて、350ミリリットルと500ミリリットルの二種類があるから、水筒大尽である。

大手コーヒーショップがそうしたように、マイボトルを持ちこんだひとには10円ほどの値引きがある。
これが、「エコ」になったのは、エコロジーのエコではなくて、エコノミーのエコである。

はたして、セルフでコーヒーマシンを操作するタイプと、店員が用意するタイプに、サービス・スタイルも分離した。
マイボトル持ち込み派としては、ボトルの容量に応じられる、店員が用意するタイプが便利である。
セルフ対応だと、マイボトルが直接セッティングできないからである。
つまり、店の紙コップを注ぐためにだけつかうことになる。

そんなわけで、全国に出張しても、宿泊先の近所にたいがい存在する、コンビニのコーヒーをマイボルにて購入するのは、安心なことのひとつである。
けれども、じぶんで淹れることもある。
百均の四角いビーカーにレギュラーコーヒーとドリップ用の漏斗とペーパーがあれば、どこでも好みのコーヒーが客室で淹れることができる。

唯一のネックが、客室設置の湯沸かし器で、これが用量がすくないと、ほしい量がまかなえない。
電気ポットがあると、便利なのである。
すると、いったい、どのくらいのひとが自室でコーヒーを淹れているものか?
かなり「レア」かもしれない。

その「レア」さを、清掃係が発見して、どのくらい「情報」として客室販売の責任者に伝わるのだろうか?

昨今の、ホテル等における客室清掃は、ずいぶんと専門会社に業務委託するのがふつうになったけど、客室の使用方法についてのレポートをあげることは、「清掃業務」に含まれないだろうから、宿側が宿泊客の客室における使用状況をしることができなくなっている。
はたして、これで「宿泊業」といえるのか?

レギュラーコーヒーを淹れれば、「コーヒーかす」がでる。
だから、わたしは、ゴミ箱にハッキリした痕跡を残している。
これが、客からのメッセージでもあるのだ。
すなわち、朝食のコーヒーへの不満表明である。

さいきんは、ビジネス・ホテルの「無料朝食」でも、レギュラーコーヒーのサービスがあって、客室への持ち帰りもできる配慮がある。
すると、朝食の場が「味見」となって、気に入ればマイボトルに入れることができる。
つまり、むかしからの宿よりもコンビニエンスになっている。

こうしたことが、「ムリ」だというなら、いったいどんなことをやっているのか?
宿の独自コーヒーがあっていい。

そういう時代になっていることを、全国一律のコンビニがおしえてくれている。
あんがい、宿の経営にかかわるひとたちの感覚に「ムリ」があるのである。

不思議なことである。

場末の飲み屋は場末か?

青森に来た。
初めての土地である。
街の第一印象は、交通機関がきめる「駅」であるけど、この地には東北新幹線の「新青森駅」とむかしながらの「青森駅」がある。
かつての「青函連絡船」の想い出は、もっぱら「青森駅」であることはいうまでもない。

新幹線から奥羽本線に乗り換える。
電化されているとはいえ、いきなり2両編成のワンマンカーがやってくる。
どの位置に止まるのかは、地元のひとらしきひとたちの集団に近づくしかないが、あんがい的外れの場所で待っているのはどういうわけか。
「あらら」といいながら、通りすぎた列車のあとを追う。

5分ほどの一駅で「青森駅」に到着する。
「終点」からながめると、線路が右に曲がっているのは往年のとおりなのか?
ここから、連絡線に搭乗するひとの波や空中撮影されたかつての「青森駅」の写真が通路に掲示されている。
この「センス」が、JR東日本なのだ。もっとちゃんとながめられる場所にしないと、通行のじゃまになる。

青森は「港町」なのだ。

ここが肝心で、そのへんの衰退する県庁所在地とはちがう。
にもかかわらず、横並びの感覚が抜けないから、住民は単純に「ダメだ」と思い込んでいるのかもしれない。
しかし、雪のためのアーケードがしっかりしている駅前商店街は、シャッター街ではない。
申し訳ないが、山梨県の甲府駅の悲惨とはわけがちがう。

いったん、甲府は全国に視察受け入れを表明して、その実態をさらけ出すといいだろう。
第一は、各県庁所在地が甲府ほどは酷くないと安心する。
第二は、甲府のようになりたくないと感じる。
第三は、どうしたら甲府のようにならないで済むのか?をかんがえるきっかけになる。

このように、恥をさらすことで、甲府は自分でできることをかんがえるきっかけになる。
すくなくとも、いまの山梨県知事をえらんだ、国による支援が役にたたないどころか、かえってマイナスになることをしることができる。
甲府といえば武田信玄だけれども、武田家滅亡後は徳川の牙城になる。
「甲府殿」から、第六代将軍にだってなっている。

これが、山梨県人の国家依存のはじまりなのかしらないが、将軍輩出後は柳沢吉保が城主になるから、あんがいと「栄耀栄華」を誇ったはずだ。
しかし、一般に、青森県民が山梨県の甲府市の現状を識るチャンスにとぼしい。
だからこそ、「山梨に行く」というキャンペーンを青森県がやっていい。

それに、全国の地方からの修学旅行を山梨にするといいだろう。
かなり「教育的」な旅行になるはずである。
ギリギリ「首都圏」にあっての現状から学ぶことは重要だ。

その青森は、繁華街が分断されていて、中心街はやっぱり「港」周辺なのだ。
このあたりは、横浜と似ている。
かつて、船員たちや港湾労働者たちのいこいの場があったのだろう。
その意味で、大都市横浜の衰退は、青森をけっしてバカにはできない。

宿でもらった飲食店案内図には表記がない場所に、地元も認める店があった。

青森県はやっかいな「県」で、かつての南部藩と津軽藩からできている。
これが東西を分割するから、明治政府の強引さがわかるというものだ。
もちろん、両藩の仲は悪く、とくに南部藩からしたら津軽藩は裏切り者にあたる。
それが言語にもあらわれて、県内でも南部方言と津軽方言は相通じない。
江戸語でもない、「標準語」ができた由来である。

雪が降る青森市から、雪のない八戸へ仕事の都合で移住すると、八戸(南部藩)の同僚からいわれる「イヤミ」が辛いという。
青森市の悪口しか言わない、と。
スペインのバスク地方や、イラク周辺のクルド人のことをおもえば、別の「県」になっても不思議はない。
この意味で、青森県人は「我慢強い」から、それが「東北人」の性格になったのか?

さては、この地元も認める店は、元は「民間」の発想から生まれた「屋台村」であった。
紆余曲折して、いまも「民間」の管理となっている。
それでかしらぬが、公共がつくる地図に表記されない。
地元から全国に新聞・テレビで報じられている店の女将は、「どうしてかしら?」という。

「情報統制」がおこなわれているのである。

このようにして、地元行政は地元の情報を公開しない。
さすれば、統括するオーナーが補助金を申請し、これ見よがしに役所のお陰とすることで「よし」とする。
こうして、ミクロで衰退を促進したら、街全体のマクロで衰退してしまう。
役所栄えて街滅ぶとはこのことだ。

そんなわけで、今度は山梨県の甲府市のひとが青森にやってきて、その情報統制の「妙」をならうのか?
それとも、ばかばかしいと一笑に付すのか?
観に来るひとが、役人ではなく住民であれば、こたえはしれている。

しかし、役人どおしが傷をなめ合うなら、絶望は続くのである。

ならば、こんな場末で全国にしられる店をどうやって維持しているのか?
それはあんがい単純で、自分の得意技を駆使しながら、だれになにを提供するのか?という自問に自答しているのである。
だれに?
なにを?
である。

すると、場末なのにこの店「だけ」が場末ではなくなるのである。

ワープロかエディタか?

いまさらだが、ワープロソフトはほとんど使っていない。
ベタ打ちの文章を書く場合、やっぱりエディタを使ってしまうのは、「癖」になっているからだろう。

しかし、ワープロソフトには「文書校正」機能がついていて、文字を打ちながら指摘してくれるメリットがある。
なので、ワープロソフトに抵抗するわけではないが、「仕上げ」に文書校正専用ソフトでチェックすることはしている。

原稿の入稿に、特定のワープロソフトを指定されることがある。
このときも、エディタで作成した文書を校正専用ソフトにかけてチェックしたものを、ワープロソフトにコピーして提出という手順をおこなっている。

なんだか手間をかけているのである。
はたして、どちらがいいのか?
あくまでも、「書く側の立場」でかんがえてみたい。

なお、文書入力における「インターフェース」は、もっぱらキーボードなので、以前書いたように「静電容量式」の「英語キーボード」をつかうことを前提とする。

その理由は、思考をさまたげない、ということの重要性はそれなりに理解いただけるかとおもうが、「静電容量式」の「英語キーボード」は、これを超えて打鍵時に「快感」をもたらす。
つまり、思考を「促進」するものだからなのである。

念のため、「英語キーボード」だから「英語」を入力するのに適しているというよりも、「ローマ字入力」に適しているのである。

文章を入力するというのが、「執筆行為」になったいま、原稿用紙に手書きする、ということはほとんどなくなった。
大作家が、高級万年筆と特注の原稿用紙を愛用したのも、おそらく「入力時の快感」のためだとおもわれる。

その入力先は、もはやパソコンになったので、どんなソフトウェアを選ぶのか?が次の選択となる。
大別すれば、本タイトルのとおり、ワープロソフトかエディタとなる。

パソコンの記憶容量と、処理速度がなかった初期の時代、ワープロソフトは編集や印刷の多機能性をもって特化しようとしたけれど、いかんせん、それを肝心のパソコンがスムーズな動作をしない、できない、ということで、書き手にはえらくストレスになった。

そこで、本来はプログラムを書くためにあったエディタが、テキスト文書を入力するだけの機能であっても注目された。
つまり、単機能ではあるが、とにかくパソコンがフリーズしないのは、思考のさまたげにならなかったのだ。

それに、保存する文書も、もっとも単純な「TXT形式」という、「万能選手」であったから、どんなワープロソフトにも貼りつけることができた。
それで、あとから編集と印刷をワープロソフトでおこなえばよい、という作業上の利点を活用できたのだ。

しかしながら、とっくに、そんなパソコンの欠点が克服されたので、もはや「重い」ワープロソフトだって、難なく作動するようになった。
ただし、ページ数がある、本格的な文章だと、いまだに重くなるのがワープロソフトではある。

書き手にとっていえば、悩ましいことになったのである。

そんなわけで、ワープロソフト派は確実にふえている。
一本のソフトで、やりたいことが全部できるというメリットは、確かに魅力的ではある。

いまどきのワープロソフトには、アイデア・プロセッサ機能だって当然に付加されている。
ワープロがワードプロセッサーの略語なのだから、思考を促進するためのアイデア・プロセッサが付随するのは必然だったろう。

けれども、多機能がすべてではない。
深掘りされた単機能のよさもある。
ワープロソフトがさまざまな機能をのみこむのを横目に、エディタ側はエディタ側で、文章打ち込みにだけの分野で進化をはじめる。

編集や印刷機能については、それでも充実してきて、だんだんとワープロソフトに接近しているようにもおもえるから、開発の方向に疑問があることはあるものの、ふつうの文章から、論文、小説など、あるいは、ブログ記事などをエディタで書くひとはまだまだ健在だろう。

すると、エディタで足りないのは、「校正」になる。
いまどきのワープロソフトには、「校正機能」がついている。
しかし、ワープロソフトの校正機能は、あんがい脆弱で、このあたりは、アメリカ製のワープロソフトと日本製のワープロソフトの実力差がある。

日本語文書の「校正」なら、日本製のワープロソフトに一日の長がある。
それでも、専用の校正ソフトにはかなわない。
そんなわけで、校正ソフトを「つかう」、という一点で、入力にはエディタでかまわない、という結論にいたっている。

ならば、最初から校正ソフトに入力してはどうか?
残念ながら、これがまた中途半端なのである。

ワープロソフトもそうだが、文書入力中にいちいち指摘されると、これが思考をさまたげるのである。
だから、とにかく気持ちよく文書を打ちまくって、おもむろに校正できるのがよい。

一方で、校正ソフトにはエディタにある機能がほとんどない。
テキストを貼りつけて校正する、という基本手順があるからだろう。
エディタモードと校正モードが一発で切り替わるソフトがないものか?

ない物ねだりはつづく。