ペルシャ料理店の夜逃げ

「イラン料理」でもいいのだろうが,「ペルシャ料理」のほうが雰囲気がでる.
そのむかしの「ペルシャ帝国」を彷彿とさせるからである.
「アジア」というと,東アジアをまずは想像し,やっとこ東南アジアまでしかイメージできないひとが,サッカーの「ドーハの悲劇」以来,トルコからこっちが「アジア」だと気がついた.

東西に広大に広がるエリアが「アジア」であるけれど,中間の内陸のほとんどが砂漠地帯になっている.
かの『文明の生態史観』の著作でしられる梅棹忠夫先生が,「アジアはない」といいきったのにはおどろいたものだ.

ずいぶんまえの文藝春秋に,著名人100人に執筆依頼した「人生を変えた書物」とかいう特集があって,その第一位が『文明の生態史観』だった.
日本人が書いた日本論の嚆矢である.

むしろ先生は,アジアという区分ではなく,西洋と東洋のあいだだから「中洋」と位置づけようとして,さまざまな説明をしている.

その中洋にあたるいまのイランという国は,「イラン・イスラム共和国」という名称だが,イスラム教がうまれる前には,ゾロアスター教がさかんな地域であった.
いまも,小数のゾロアスター教徒がいるという.
人類最古の経典宗教はゾロアスター教といわれているから,その影響は目立たなくても深いところにあるとかんがえていい.

いわゆる「拝火教」といわれる宗教だが,「明」と「暗」から転じた「善」と「悪」の二元論が思想的な柱になっている.
西に伝わって,古代ギリシャの神話にも混ざっている.
オリンピックの「聖火」は,まさにゾロアスター教のなごりだし,東に伝わって,仏教と合体したのが「密教」におけるお炊き上げともいわれているから,天台宗,真言宗には,ゾロアスター教のエッセンスがある.

古代ギリシャ哲学の影響を,ユダヤ・キリスト教もおおいに受けているから,その根にはまちがいなくゾロアスター教がある.
歴史的実在が証明されていないイエス・キリストの誕生日とされるクリスマスも,「冬至の祭り」が発祥といわれる.昼(明)が夜(暗)のながさにまさる分岐点が冬至だからである.

そんなことから,ミステリー小説に仕立てたのが,推理小説の大家,松本清張だった.
日本の古代史の不思議から,殺人事件にまでふくらませることができるのは,めったな知識ではできない.

 

じっさい,この『火の路』という小説内における研究がきっかけとなって,古代日本とペルシャの関係が学術的に証明される,という「事件」にもなっている.

そうかんがえると,いまでもめったに移動できない距離を,古代だからといって無視できるものではなく,かえって古代人の方がいまよりも国際的だったようにもおもえる.
ついさきごろは,平城京の遺跡から,ペルシャ人の名前が書かれた大量の木簡が発見され,朝廷の役人に万人単位でペルシャ系のひとがいたと推定されている.
ここから,平家ペルシャ人説まで出てくるのだから,ロマンはつきない.

すると,宮廷人が高級食材として食していた,「醍醐」や「酪」といわれる,おそらくチーズのたぐいも,もしかしたら蒙古ではなくて,その先のペルシャからの伝播だったのかもしれない.

香辛料を高度につかうインドより西にあって,インドとはことなる組合せの香辛料を多用するアラブ世界の東にあるペルシャだから,さぞやたっぷり香辛料をつかうのだろうとおもったら,あっさり肩すかしをくう.
ペルシャ料理には,ほとんど香辛料をつかわないのだ.

いまようにいえば,「やさしい味」なのである.
それは、素材の味を引き立てる調理法でもあるから,これだけ読めばまるで「日本料理」になる.
じっさいに,ペルシャ料理店は数少ないから,あまりなじみはないかもしれないが,食べてみればその美味しさは格別だ.

なるほど,イスラム教といっても,アラブとペルシャでは,ほとんど別の宗教のようなちがいだけど,その根底には「味覚」のちがいが決定的にあるかもしれないとおもえるほどに,まったくちがう.
羊肉を焼いたケバーブや,挽肉を焼き鳥のつくね状にしたコフタも,見た目はおなじだが,塩味あっさりのペルシャ式は,日本人の味覚に適合するだろう.

そんなペルシャ料理店が,横浜のド真ん中,伊勢佐木町商店街から路地をはいった,いわゆるヤバそうな場所にあった.
およそ,女性がひとりで歩いていたら,職業を間違えられそうな場所であった.
それで,家内とはいつも一緒に行ったものだが,われわれ以外の他の客にであったことがなかった.

イラン人の主人が一人で切り盛りしていたが,日本語がなんとか通じたから,客として困ることはなかったし,常連になったら,イランへの里帰りツアーへの同行も誘われた.
それですっかりその気になって,松本清張になった気分でゾロアスター教の村を訪ねてみたいとかんがえていたら,あるとき「夜逃げ」してしまった.

アメリカはイラン革命のときの大使館占拠事件から,レーガン時代のイラン・コントラ事件など,イランにまつわるいい話はないばかりか,核開発問題でも頭痛のタネだろう.
そのアメリカに絶対服従するはずの日本外交が,なぜか「独自外交」で唯一がんばるのがイランなのである.

これも,平城京以来,役人のペルシャの血との関係があるのだろうか?

それにしても,腕のよい料理人が,店の場所をまちがえたのはまちがいない.
それに,横浜で開催した世界の料理イベントで彼が優勝した,という情報も,イランだけでなくヨーロッパでの調理師免許があるなど,差別化要因となるはなしがしっかり提供できていなかった.
そして,もうひとつ,日本は個人への開業資金を提供するシステムが貧弱であることだ.

日本人向けにもないのだから,外国人の専門職が独立開業するのは至難の業だろう.
外国からひとを受け入れたら,国内の人手不足が解消する,というはなしは,すでにファンタジーである.
彼のような腕ききがやってきて,ちゃんとした立地(保証金や家賃が高い)で日本人に美味しい料理を提供し,大繁盛できるような,そんな仕組みがあることは,日本人を幸せにする.

金融が機能しない国は,衰退することがよくわかる.
本来,金融は世の中を明るくするためのものだが,バブルの大間違い以来,この国の金融は生き返らずゾンビ化して,悪の権化になってしまった.
その司祭は金融庁だが,それを正す政治もまたゾンビ化した.

まるでゾロアスター教でいう暗黒が,この国をおおっている.

アカとバカと真人間

前にこのブログでも紹介した,倉山満『お役所仕事の大東亜戦争』にでてくる近衛内閣にかんする表現である.
戦争にいたる複雑な状況をぜんぶ理解するのは,いまとなっては容易ではないが,せめて「近衛内閣」だけはおさえておきたい.家父長的な近衛のちゃぶ台返しの後片付けをしたのが,ちんまりした貞婦,東条英機の内閣だった.

五摂家筆頭の近衛家当主だから,爵位は「公爵」だ.
当然,天皇家とは親戚になる.
その,近衛文麿は,河上肇の門下生だった.

河上は当時わが国最高峰の共産主義理論家だ.
それで,近衛はじっさいに,オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を在学中に翻訳,出版しようとして発禁になっている.

戦後の翻訳では,以下がある.

社会主義の下での人間の魂 (1968年) (リバタリアン叢書〈1〉)

オスカー・ワイルドは,『幸福な王子』だけを書いたのではない.
近衛も,けっして「幸福な王子」ではなく,むしろ「家族」という私の空間では不幸だった.

こんな近衛に,民衆は期待したから,近衛内閣の支持率は高かった.
民衆の期待の根拠は「血筋」という権威だった.
そういうわけで,アカなのかバカなのか?という議論がうまれるのだ.

アカなのが近衛なら,バカなのは国民になる.
だから,真人間なら,戦後に国民が反省しなければならないと気づくのだが,悪いのは国民ではなく軍部や政治家の方であると憎悪をもって決めつけるように仕向けたひとたちがいる.

もちろん,仕向けたひとたちはアカである.
でもやっぱり,それに乗ってしまった国民はバカのままである,と真人間が気がつく構造に,21世紀になってもまだ,ぜんぜん変化がない.

深刻なのは,「反省」といったときに,アカに乗せられたバカな国民は,「戦争の『反省』」だと擦り込まれたことだ.
真人間は,そうではなくて「アカに乗せられたこと」を「反省」すべきだとかんがえる.
米英との戦争を求めたのが国民だったからだ.

わが国の「学術」の世界での「禁句」に,「コミンテルン」がある.
これを発したが最後,学会や研究会の学者集団からあいてにされないことになっていた.
しかし,米国の情報公開制度で,コミンテルンのスパイ活動に関する米国政府による衝撃の盗聴記録が公開された.

これを『ヴェノナ文書』と呼ぶ.
盗聴という手段での情報は,裁判での証拠採用はされないのがルールだから,これによって有罪になるものはいないが,米国政府の公文書,として公開されたことに意義がある.

アカはいまでも,それがバレたら困るから,「軍部の暴走」とか「軍国主義」という「用語」をつかう.
このもっともらしい「用語」を,あらためて論理をもってかんがえると,じつは「主語がない」ことに気づくだろう.

「軍部」とは「誰のこと」で,「暴走」とは「誰がした」のか?
「軍国主義」を信じたのは「誰」で,その「主義」とは「誰の」どんな「哲学」なのか?
説明せよ,といわれてちゃんと説明できるのか?

それこそ,チコちゃんに叱られる!
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
ま,このネタをNHKがつかうことはないだろう.
バレたら困るからである.

では,これは一体なにを意味するのか?
「中心がない」のである.
おどろくことに,わが国には,いまもむかしも,「中心がない」.
国ぜんたいが,なんとなく動いている,のである.

それは、企業もおなじだ.
形式ではなく,実態としての「中心がない」.

形式なら中心はある.
天皇がいる.内閣総理大臣がいる.国会には議長が二人いる.最高裁長官がいる.日銀総裁がいる.
会社には,会長がいる,社長がいる,監査役がいる.

しかし,形式と実態の一致,すなわち,ほんとうの中心は誰なのか?
その中心が,ほんとうに組織をけん引して,それが達成できているのか?と問えば,いきなりあやしくなるのがわが国なのだ.

たとえば,日本型クーデターの例として,主君押込がある.

家臣団が,問題のある主君を,座敷牢に押し込め,隔離する.
しかし,上級幹部の一部だけがしっていて,部外者や藩内の庶民にはしらせないから,一般人だれでもが「お殿様」は健在だとおもってなんら問題なく暮らしている.
幕府=ご公儀にバレることだけがリスクなのである.

つまり,中心は架空でも,わが国では組織が動く.
まるで,こっくりさんなのだ.
誰の力がかかっているのかわからないが,紙の上を浮遊するように,ものごとがきまる.

中心がいなくて世界をあいてに大戦争を実行したことが,まったく信じられなくてあわてたのが,良くも悪くも中心があるのが当然な白人国家であったから,「戦犯」という犯罪人を,たとえ「架空」でも,いたことにしないとかれらの精神がこわれかけたのだ.
悪い奴がいたにちがいない,と.

そんなわけで,本来「順不同」の戦争犯罪を,日本語の書類なら「イ,ロ,ハ」や「・」だけで区分するのと同様なことに,英語だから「a,b,c」と小文字で区分した.
それを,「罪の重い順」として,またまたアカがバカに仕向けたから,いつの間にか小文字が大文字になって,あたかも「『A』級戦犯」だけを問題だと切りだすが,『私は貝になりたい』のように,あるいは「捕虜にゴボウを食べさせたのは虐待だ」として,「b級」だろうが「c級」だろうが,死刑になったひとがいるのを忘れさせようと努力して見事に成功させている.

日本が講和して独立したとき,社会党の発議でもって,わが国の国会は共産党もいれたもれなく全会一致で戦犯全員の「名誉回復」を実施している.「独立」国家とはそういうものだ.
だから,法的にわが国には戦犯は存在しないが,隣の国と同様に「国民感情」からか,アカに乗せられたバカな国民だからか,いまだに戦犯の議論をしている.

これぞ「国会軽視」,「憲政の常道」を無視している事例となった.
とっくに「解決済み」なのだ.
だから,aだろうがbだろうがcだって,死刑になったひとにも,みなさんきちんと年金受給者にもなっている.これが「法治国家」というものだ.

それで大手を振って靖国合祀をしたら,戦犯は分祀せよという.
こういうときは「政教分離」に反しているとアカはいわない.
ついでに,日本国憲法の第九条は,独立国家にあるまじき,と大反対したのが日本共産党だった.
ダブルスタンダードがここにある.

むかしはやった上方芸人に,「ボヤき漫才」で有名な人生 幸朗・生恵 幸子(じんせい こうろ・いくえ さちこ)がいた.
「責任者,出てこい!」の決めセリフで爆笑をかったのは,じつはだれもが「責任者がいない」ことをしっていたからだ.

笑いにこそ信実がある.
失われた『喜劇論』のアリストテレスのことばとされる.

芸人にも,真人間がすくなくなった.
いまどきのアカが芸人のふりをして,ワイドショーの司会をやって,いつものように世論を誘導している.

これをもっけの幸いと,責任者ではない責任者が,責任者の格好だけをして「君臨」する.
このことが問題の本質なのに,年収の多寡ばかりをもって個人への憎しみを増大させるのは,アカがバカをまた誘導して,組織を崩壊させ革命でも夢見ているのか?

日本人は金持ちを尊敬せずに,悪いヤツだとおもいこむようにさせられた.
マルクスやレーニンが思想統制でやろうとしてできなかったことが,できてきた.
まったくもって,バカげたことに,かんたんに乗せられる.

まことに卑しいことである.

話題になった?トランス脂肪酸

ことしの6月から,アメリカで加工食品へのトランス脂肪酸が禁止になった.
それを見越して,日本でも話題になると予想して書いたが,はたして話題になったのか?

まったくなかったわけではないが,よくあるマスコミによる「騒ぎ」にはなっていない.
けれども,この問題は,日本における「国民の健康」にまつわる行政のいかがわしさを確認するのにもってこいの事例になっている.
もちろん,スポンサーであるメーカーに気遣った,報道しない自由という問題を指摘しないわけにはいかない.

そもそも,関連する役所が複数あることから確認しよう.
「食品」であるから,まずは「農林水産省」が所轄になるのはわかりやすい.それで,さいきんになって農林水産大省も,自らのHPによる「情報提供」に余念がない.

しかし,国民の「健康」となると,「厚生労働省」の所管になるから,農水省の情報も「客観的」につとめているのだろう.
では,厚生労働省はどんな情報をだしているのか?というと,迫力にかけるのである.

ところで,食品にふくまれる栄養成分については,「文部科学省」の『食品栄養成分表』になる.
それで,以上の三省が合同で『食生活指針』(平成28年)がつくられている.

さて,そこで,アメリカは禁止という規制をかけたから,日本の規制当局はというと,それは「消費者庁」になる.
せめて表示義務だけでも,と消費者としてはおもうのだが,平成22年につくった『栄養成分及びトランス脂肪酸の表示規制をめぐる国際的な動向』が,精一杯で,いまだ「表示義務」にすらいたっていない.

一貫しているのは,日本人のトランス脂肪酸の平均的摂取量は,WHOがさだめる量の半分程度だから「心配ない」という議論である.

しかし,わたしたちがここで注目すべきは,「平均」という概念である.
学校のなにかのテストで,クラス全員がおなじ50点をとったときと,一人ずつがべつべつの点数で,1点から100点が並んだとき,どちらも平均は50点になる.
グラフにすると,全員が50点なら,一本の棒がたったようになり,もう一方のばあいは,1点ずつの棒が平らに100個たつ.

もちろん,世の中でこんな極端はめったにないから,ふつうはこんもりとした山の形になる.
すると,少ない側と多い側になだらかなすそ野がひろがるのがイメージできるだろう.

マーケティングの常識に,「平均的な消費者は存在しない」という概念がある.

これは,すそ野の広さと大きさをいうのだ.
「多様化」があたりまになっているいま,個々人の好みはどんどんと,上述の例でいえば平らなグラフのほうに近づいている.
だから,平均値を計算することはできても,平均にあたるひとがあまりいないことになるのだ.

企業の数字をあつかうときも,「平均」だけでは危険である.
ふつうエクセルなどの表計算ソフトには,図表もかんたんにつくれる機能があるから,グラフ表示して「平均」とじっさいの「データの広がり」を視覚的に確認したい.

それで,農水省の情報のなかには,よく読むと良心的な学者の意見もあって,「平均以上に摂取しているひと」が少なからずいるという指摘もある.
役人は,ちゃんと「アリバイ」もつくっているから,タイトルだけで騙されてはいけない.

農水省にいた役人が,担当する課ごと「消費者庁」にうつったから,もはや農水省に規制についての担当者はいない.
だから,農水省に期待はできないが,「消費者庁」が,成分表示の義務かもできていないのは,じつにいぶかしい問題である.

「指針」やら「禁止」やらと,国家の介入にはさまざまな方法があるが,情報提供という規制に悪いことはない.
提供された情報のただしい読み方を教育しなければならないが,おおくは科学知識に由来する.
そういう意味でも,中学や高等学校の科学教育のありかたも,自分の健康や人生に直結するとおもえば,勉強する気にもなるだろう.

そうしたうえで,ジャンクフードを食べつづける人は,まさに自己責任という前提の選択をしたことになるから,納得の結果にもつながる.

賢い国民は,そういう意味での「強制」から免れるものなのだ.

「平均的日本人」はたくさん摂取していないから問題ない,という政府は,「平均」の意味をしらないはずはないから,伝統的な「産業優先」という本音しかみえてこないのだ.

すると,食品や食事を提供して商売にするひとが,ちゃんとした栄養学にもとづいた商品提供に,これまでにない「価値」が付加されるということに気がつくべきだろう.
付加価値が高まれば単価も高めることができる.

政府のおかげで,ビジネスチャンスが隠されている.

滋賀県の暴走か?それとも?

淡水の琵琶湖があるからという理由で,環境を守ろう!として,以下の指針が発表されている.
http://www.pref.shiga.lg.jp/d/kankyo/files/shishin_181119.pdf
(上記は削除されている ⇒ いまはこちら

これは、科学なのか?
行政の暴走か?
それとも,ファシズムなのか?

「やりすぎ」という声も検討会の委員の意見であったというが,県の役人はこれを無視したのだろう.
ちゃんとHPに掲載している.

「やりすぎ」とは「細かすぎる」ということだと理解できる.
しかし,これらの指針とは,「家庭内」のことばかりである.
どうして,行政という「権力」が,家庭内に入り込めるのか?
「環境保護」にことかいた,個人の自由への明確な侵害であるから,憲法十三条に違反する.

わたしの住む神奈川県では,当時「全国初となる」禁煙条例が話題になって,結局,県議会はこれを可決してしまった.
議会での議論で,県民の「自由」ではなく,「健康」を優先したのはナチスとおなじだ.
神奈川県民の自由が奪われた瞬間だった.

発案し推進した時の県知事は,県民の「健康保護」を建前にしていたが,「全国初となる」がほしかっただけで,別にたばこのことなど二の次だったのだろう.
知事の座に固執することなく,再度国会を目指してしまった.

修正はされたものの,禁煙条例の最初の案は「家庭内」も対象だった.
自分の家のなかでも喫煙すれば,罰則の対象になるというのは,ヒトラーのゲシュタポや,スターリンのKGBを彷彿とさせる.
ある日,チャイムがなって玄関に出ると「あなた,喫煙しましたね」といって,官憲から罰則切符を渡されるシーンを想像すればよいだろう.

それで,第二次案では「削除」が議論された.
その議論は,健康ではなくやはり「自由」だったのだ.
しかし,それでも禁煙条例は成立した.
こうしたことが,拡大解釈されると,どんどん自由がうしなわれて,いきつく先が全体主義社会になることは,それこそ人類史がおしえてくれる.

たばこの煙がきらいなひとがいるから,それを気遣うのは「マナー」であるし「エチケット」でもある.
だから,たばこの煙がきらいだからといって,これを「強制的に禁止」する社会は,事例だけが増殖して,いま禁煙の強制に賛成しても,いつかは自分の趣味嗜好が禁止されるものだ.

そのとき,喫煙者からあなたはあのとき禁煙の強制に賛成した,といわれても,それとこれとはちがう,と主張するだろう.
しかし,いったん,自由を奪うことができた社会は,容赦がないのだ.

こうして,そのときどきの多数派が,そのときどきの少数派から自由を奪えば,気がつけば全員のなにがしかの自由がなくなっている.
「理由」は,いくらでもつくれるのだ.

神奈川県の「禁煙」のつぎが,滋賀県の「環境」になっただけだ.
ちなみに,オリンピックといえばなんでもできるから,神奈川県のライバル東京都がまねっこして,より厳しい「禁煙条例」をつくった.そして,都知事は胸を張って自慢する.
こうして,自由の侵害は,水平移動的に増殖あるいは感染して,やがて全国規模になる.

それにしても,滋賀県の指針の内容は微に入り細に入っている.行政権力が自由を奪うリストとしてみることができる.
これを,幼児から高校生までの「こどもエコクラブ」で徹底すれば,ヒトラーユーゲント(ナチス党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織)になって親を密告するようになるだろう.
「こどもクラブ」は,すでに全国組織になっている.

「先生!うちのトイレットペーパーは,シングルではなくダブルです!」
「それはいけませんね,逮捕されちゃいますよ.売ったお店には,不買運動を計画しなさい」

「先生!うちのお父さんは帰りがおそくて,お風呂を追い炊きしてはいっています!」
「なんですって?残業までして,お風呂を追い炊きするなんて,二重の罰則になりますよ!」

戦前・戦中の近隣監視組織であった五人組をわらうことがあったが,すでにわらえないような恐ろしいことが,現実になっている.
くわえて,滋賀県は「事業者への指針」も発表している.

「環境リスク」がある滋賀県で,新規事業はやらないほうがいいかもしれない.
既存事業者はどうみているのだろうか?
アメリカなら,別の州に事業者の移転がはじまるだろう.
そういえば日本企業は,「政治リスク」の韓国から撤退をはじめた.
ならば,近隣県は,「滋賀リスク」を歓迎するかもしれない.

それにしても,こころして,暮らさなければならない時代になってきている.

自由とは,センシティブなもので,いちど失うと,取り返しがつかないものであることを肝に銘じたい.

漁業法改正に期待していいか?

日本旅館の食事といえば「魚料理」が第一にあがるから,このブログでも「魚」にまつわるはなしは書いてきた.
当然,魚は田畑で育てる農産品とちがって,海を中心にひとが獲りに行かなければならないから,「漁業」がなければ食べることができない.

もちろん,「養殖」という田畑とおなじ発想の漁業もあるが,本物の農業との根本的なちがいは,「タネ」にあたる「魚卵」の確保よりも「稚魚」のほうにあることだ.
たとえば,成魚が高額なうなぎの養殖に必要なのは,「稚魚」であって「魚卵」ではない.
「魚卵」から「稚魚」にする技術が確立されていないからだ.
マグロについては,ようやくさいきん,「魚卵」からの「完全養殖」が可能になった.

いま開会中の臨時国会で,先日,70年ぶりの改正となった漁業法改正案が衆議院を通過した.
この改正の柱は三本あって,一つは「漁業権」,もう一つは「漁獲量割当」,そして,「密漁取り締まり」であると報道されている.
わたしは,日本の漁業を北欧型に近づけるもの,とかんがんえる.

約半世紀前,北欧で起きた漁業改革は,「アンチ日本式漁業」だったことは本稿冒頭のリンク記事に書いた.
いまもつづくわが国の「日本式漁業」は,そこにいる魚を獲りつくすという意味での「略奪式」をやっているということだ.

「魚類の資源保護」という観点は,そのへんにある「環境問題」とちがって,すでに「いない」という事実があることからの認識がひつようだ.
ポーランドで12月2日から開会した,COP24のように,地球は温暖化なのか寒冷化なのかわからない状態での二酸化炭素削減の議論とはぜんぜんちがう.

とくに,わが国沿岸における「不漁」は,獲れないという意味の下に,獲りつくしたから,がある.
すると,ここに「需要と供給」という経済の大原則があらわれて,供給がないのに需要があるばあいに発生する「価格の高騰」がおきる.これが「密漁」の行動原因になる.

ずいぶん前の昭和時代に専門家が書いた本にも,地元の有力者である一部の漁協の組合長が,じつは独占的に密漁をしていて,「有力者」ゆえになかなか摘発にいたらないという実態の指摘を読んだことがある.

ことしの10月にでた,鈴木智彦『サカナとヤクザ』(小学館)は,そうした事情に切り込んだ,すさまじきルポである.
これを読むと,魚を食すること=反社会的勢力にお金を提供すること,になるから,わが国漁業をどうするか?はきれい事をこえている.

いまの臨時国会の衆議院できまった「漁業法改正案」は,この本の出版の「後」になる.
法案に反対する立憲民主党ら野党は,来年の選挙を見据えて,前回「農協」に媚びて勝った味がわすれられないと,こんどは「漁協」にこびへつらう方針だというから,どうしようもない恥の上塗りである.

その漁協のトップがあやしいという,この本を読んでいない,という意味でのまったくの勉強不足.それに,農協の構成員と漁協の構成員の人数のちがいも勘定できないらしい.
わが国に,漁民は15万人しかいないのだ.市町村議会選挙では勝てるが,国会は困難だ.
『サカナとヤクザ』の読書体験をしたひとには,「漁協」へ媚びた政策は,反社会的勢力に媚びるのとおなじにうつるだろう.

一方,与党はというと,賛成だから問題ない,ということではない.
北欧型漁業が成功した要として知られているのは,「資源」の科学的「把握」にある.
その数字をもとに,漁民各人に漁獲量を割り当てる,のである.
北欧の漁民が,この割り当てをめぐって争ったのも,有名なエピソードだが,「科学」という根拠でいまのように落ち着いた.

衆議院の審議で,割り当てについての質問に農林水産大臣が明確に返答できなかっただけでなく,都道府県に振ってしまったのは,わが国において「資源」の科学的「把握」ができていない,からである.
つまり,おおきな穴が空いている法案なのだ.

北欧では,消費者も「資源」の科学的「把握」の重要性を認識した.
それで,この把握に政治的判断など人間の恣意的な感情すら関与させないために,研究機関の完全民営と,その維持費の負担を消費者が承知したというプロセスがあった.

自主独立の精神の発揮である.
だから,最終的に漁民の漁獲量割当にかんする争いも落ち着いたのだ.
なぜなら,消費者の批判を漁民があびて,それに屈するしかなかったからだ.
中立の研究機関の把握結果を,消費者が全面的に支持したから,漁民も文句をいえなくなった.

しかし,わが国では,農林水産省の100%予算の支配下にある「研究所」が,「資源」の科学的「把握」をしていることになっていて,それが「エセ科学」であると,外国の専門機関による指摘をたっぷりされているし,そうした批判の政治的かつ恣意的な数字の発表は,それこそ昭和時代からある.こんな批判を国際的に受けていると,消費者である国民がしらされていない.

つまり,法で解決すべき問題は,中立な「資源」の科学的「把握」のため,政府からすら独立した機関の立ち位置を保障することである.
しかし,これを支える,消費者という日本国民が,自主独立の精神を発揮しなくてはならないことは,法律では解決できない.

これぞ,政治家が訴えるべきことだが,そんな勇気ある政治家が与党にもいない.
けれども,政治家にそうさせているのもわれわれ国民なのだ.

「しらなかった」ではすまされないことがある.

報道しない自由という自主検閲

「公正」をうたう報道機関が,公正な立場をすてた言い訳に「報道しない自由」という屁理屈をいいだした.
これを「自主検閲」だといって批判するひとがいないのは,そのひとの情報における抹殺をおそれるからだろう.まさに,「検閲」そのものの効果だ.

戦時中,日本軍による検閲はおこなわれていたが,その方法は稚拙であった.
まずい箇所を「伏せ字」という「白抜き」にしたから,読者はまわりの活字数を数えて,ことばの穴埋めパズルを楽しんだというはなしが残っている.

また,前線に駐留する部隊の兵士は,軍内郵便で家族と連絡していて,これも検閲の対象ではあったから,家族内での暗号がつかわれたという.しかし,これは、組織にいる人間が,たとえ家族でも秘密漏洩はこまるから,業務用電子メールは会社が勝手に読めるのと同じ理屈で,「酷い」ということにはならない.

とはいえ,ミッドウェー海戦を「勝った」と,大本営が発表しても,その後,制海権を失った日本軍から,家族宛の通信が途絶えたから,かなりの数の家族は「異変」を知っていたし,戦友の家族どうして連絡が途絶えたことを確認していたから,政府の発表がおかしいというはなしは,あんがい,誰もがしっていた.ただ,口にしなかったのである.

ところが,占領軍の検閲は巧妙で,伏せ字はいっさいつかわない.
むしろ,偽記事を報道としてどんどん流したから,偽記事しか見聞きできない人びとは,やがてこれを信じるようになるしかない.人間は情報を渇望するからである.
これこそが,情報統制の真の目的であって成果である「洗脳」なのである.

そこで,いまさかんに「報道」されている,日産のゴーン氏の一件について、私見を書いておこうとおもう.

最大の不思議は,逮捕理由である「有価証券報告書」の「虚偽記載」についての詳細な報道が,ほどんどない,ことだ.
それよりも,逮捕理由とは関係ない,彼の年収の多さや生活ぶりを詳細報道している.
つまり,国民の「卑屈な精神」を発揚させて,「金持ちは悪い奴」だというキャンペーンをやっているようにしか感じない.

「卑屈な精神」とは,いやしいこころ,のことだ.
成功した人物を尊敬するのではなく,うらやんで嫉妬したあげくにバッシングする,卑しさ.
これは,かつての共産革命家たちが叫んだ「自分の不幸の原因を他人の成功のせいにする」という,アジテーションにほかならない.

こんなものを「報道」と呼んでいいのか?
疑問におもうだけでなく,たいへんに危険だとおもう.
まさに,ジョージ・オーウェルが書いた全体主義の恐怖「1984年」にある,国民コントロールの手段としての「二分間憎悪」を,この日本でやっているからである.

 

彼の功績と報酬をてんびんにかければ,会社にとっての功績のおもみがまさるのは当然ではないか?
むしろ,その功績が大きすぎたために,いつの間にか「神」あつかいされてしまった.
それがこの「事件」の発端とすれば,彼の人格形成における教育や宗教などの背景はどうだったのか?に興味がわくところだが,いっさい「報道」されない.

おそらく,東洋哲学における「清貧思想」の重要性が前面に出ることを,報道機関の自主検閲で嫌ったからではないか?
それは,ふるい日本人の価値感でもあったからで,現代のかるい日本人に思い出させたくないのだろう.

ポップカルチャーで稼ぐしかない,いまのテレビ・マスコミ界は,すべて新聞社系列でもあるからだ.
各県に一社という「地方紙」体制すら,戦争準備の国家総動員法を発端とするから,いまだにわが国は戦時体制下にある.

 

野口悠紀夫「1940年体制」は,このブログで何度も紹介しているから,ややしつこいかもしれないが,現代を生きるわたしたちに必須の知識をあたえてくれるので,本嫌いなひとにでもお勧めしたい.
左は初版,右は増補版で,最終章が入れ替わっているから,どちらか一冊を読破してから,別の最終章だけを読めば「完璧」である.

さて,日産のゴーン氏の一件にもどろう.
逮捕後の社長による会見や,その後の「会長解任」をきめた取締役会決議などの報道に,フランスからの懐疑的な情報もくわわっている.

これらには,わたしが注目したい,そもそもの「有価証券報告書・虚偽記載」という問題の本質が,どこにもない.
すなわち,「有価証券報告書」という「公文書」で,長年にわたって虚偽が「できた」のはなぜか?である.

監査する公認会計士もそうだが,原案を書くのはふつう経理部だろう.
すると,経理部長はどこまで関与していたのか?
当然だが,取締役会はどこを読んでいたのか?あるいは,全員が読んでいなかった?

なんのことはない,組織的な「犯行」だったのではないか?
そうでなければ,できない.
会長職にあるゴーン氏が「有価証券報告書」をみずから執筆するはずもなく,もしそうだとしても,「虚偽」にだれも気がつかないはずはないだろう.

内部告発で司法取引したとはいえ,社長会見も,解任決議も,「自己保身」というキーワードしか浮かばない.
それに,「推定無罪」という指摘をしたのは,堀江貴文氏のツイッターだけなのも不思議だが,この国では「逮捕=有罪」という,世界常識とかけはなれた常識がある.
もしも(この国なら)万が一,「無罪」判決がでたらどうするのか?

工場の検査不正どころか,経営陣が腐っている,ということに衝撃をおぼえる.
「有罪」が判決として確定するまで,「謹慎処分」が妥当ではないか?
「保身」ゆえの強硬突破だったのだろうか?

「株式会社」の経営者なら,だれでも気がつくことだろうが,だれも口にしない国になっている.

いつも何度でも役所ってやつは

世界のどこにいっても,役所をほめるひとはあまりいない.
それは公務員をほめるひとがいないからだ.
そういうことで,「お役所仕事」というのは,ある意味で世界共通の人類がいだく,もしかしたら唯一の社会的共通認識かもしれない.ただし,日本人はそうはいってもなにかあると「国」や「自治体」に要望し「依存」しようとするから,どこか矛盾しているのだ.

そんな,われわれ日本国民が,とてつもないトラウマにいまだに支配されているのが「あの戦争」である.
それを「お役所仕事」という面から解析したのが,倉山満「お役所仕事の大東亜戦争」である.

これはおもしろい.
明治憲法で仕込んだ,ドイツ式の「分権」が,まさに国家をバラバラにして,制御不能に陥れたというはなしは聞くが,その「運用実態」がここまで再現されると,現代の経営不振の企業における統率のめちゃくちゃが嗤えない.

むしろ,国家の官僚も.企業内官僚も,あいかわらずなのだという,人間の性をつうじた組織運営の法則を確認できる.
そういう意味では,「日本式『科挙』」であるところの「公務員試験」や「外交官試験」の上級職を合格したひとたちの「行動学」としても読めるものになっているから,民間でも参考になる.

近代国家としての日本国の運営は,薩長閥という藩閥政治を起点にした,(下級)武士による軍事政権だった.それが,立身出世のための教育をつうじて,「学歴」によるあたらしい身分社会を模索した.
地方の農家の次男が「陸士合格」したら,別世界の人たちといきなり交流ができるようになったという手記もある.

すなわち,陸軍にしろ海軍にしろ,上級学校を卒業しなければ絶対になれない身分社会であったから,かれらは「軍人」という名の「官僚」だった.
つまり,文官でも武官でも,本質的には「お役人」であって,かれらが勤務する組織はすべて「お役所」になるのである.

明治憲法が不思議な憲法なのではなく,はるかむかしに律令国家であったときの日本的伝統として,「令外の官」があったように,憲法には一行一句も書いていない「元老」というひとたちが政府を仕切っていた.
いわゆる「維新の元勲」というひとたちで,このひとたちは「憲法の外」にいたのだ.

しかし,かれらをして不思議なのは,「元老」の再生産をいっさいしていないから,寿命がきたらいなくなる.
それで,最後の元老,西園寺公望が老齢で意欲をうしなうと,とたんにこの国の機構が総理というトップにまで「お役所仕事」に染め上がってしまうのだ.

「戦後」とておなじである.
むしろ,現代こそあの戦争直前のような「お役所仕事」がはびこっていないか?
しつこいが,公務員の世界だけでなく,企業内官僚の世界もである.

GHQによって,日本人の精神構造を改造する作戦として,「War Guilt Information Program」は,関野通夫によって米国公文書館で発掘されている.

 

まさに,国際法違反のとんでもない「作戦」が,占領という時代に実施されてしまった.
この作戦が,その後,イランやイラクなどの占領政策で,ほとんど役に立たないことを米軍は身にしみてしることになる.
なぜに,日本だけにかくも「有効」だったのか?
すでに,国民が「国家依存」をふつうにしていたからだろう.その他の国には「自己」があった.

しかし,深くかんがえなかった支配者によるご都合主義で,もう一つセットの教育プログラムが米軍によって日本に導入されて,これがその後の繁栄の決め手になっているから皮肉なものだ.
それが「MTP(マネジメント・トレーニング・プログラム)」と「TWI(トレーニング・ウィズイン・インダストリー)」である.

具体的には,米空軍立川基地で実施され普及したといわれているが,日本人基地従業員を大量採用したものの,烏合の衆のような状態で,これら従業員を教育し,さらに取引業者である各種メーカーにも導入をはかるため,マッカーサー指令になっているという.
それで,わが国製造業の大手はほぼ100%の導入となった.しらないのは,その他の産業である.

普及のための日本産業訓練協会が1955年(昭和30年)に設立された.
日本における製造業のおおくは,MTPの研修訓練を受講しないと管理職に昇格できないという共通点があって,製品の種類に関係なく「管理:マネジメント」の基礎をみっちり学んだという.
また,TWIは,現場責任者向けの訓練で,「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」という精神が貫かれていて,あの「トヨタ生産方式」の基礎になっている.

この本は,1978年(昭和53年)初版だが,いまでも新刊本が手にはいる,100版をかるくこえた超ロングセラーである.
あたかも「ノウハウ本」のようにもみえるが,わたしは「産業哲学」の名著,であるとおもう.その根幹をつらぬくかんがえ方こそ,TWIなのだ.

協会によると,MTPはオリジナル・テキストをもっているが,どういう経緯かTWIのほうのテキストは,厚労省管轄の社団法人雇用問題研究会になっていて,最新版が「平成元年」という.
つまり,30年間改訂されていない.
「予算がない」ということだが,どういうわけか?

日本語版よりあたらしい「中国語版」があるというので,調べたら,中国に無償で提供したというから不思議をこえた「お役所仕事」があった.

それではと,米国政府に問い合わせたら,「米軍が開発したプログラム」だから,「米国政府に権利がある」としたうえで,国民の税金でつくられたものだから,だれがコピーしようが勝手であるという返答だったという.

残念ながら,日本のお役所は,大元の権利すらわすれて,君臨することだけをかんがえているらしい.「他人のものは自分のもの,自分のものは自分のもの」.
やっぱり,倉山満氏がいうとおり,日本の敗戦状態はいまだに「お役所仕事」という一面をとっても,アメリカにはかなわない.

そうかんがえたら,日本の高級お役人様たちも,昨今の企業不祥事をおこした企業内官僚も,これらの訓練を受けていないだろう.
強制的に受講させるために,役所には「省令」を,企業には「就業規則」を早急に改正すべきだろう.

いまさらですがソ連邦という本

ベストセラーだというが,これは異色である.
なにがって,「表紙」がである.
なんだか今様の「萌え」た感じがするが,この表紙の絵,背景をよくみるとよくできている.
そして、内容も,「いまさら感」がたっぷりだけど,かなり専門的でしっかりしている.

ロシア語に翻訳すれば,けっこう売れそうだ.
東欧ではどうなのだろう?

「東西冷戦」という時代は,その思想対立から,日本語での知識には限界があった.
「賛美」か「恐怖」かという選択肢しかなかったからだ.
それに,かんじんの「ソ連」という国や「衛星国」といわれた東欧諸国も,かんたんに旅行できることはなかったし,くわしい暮らしぶりが直接レポートされることもなかった.

横浜の谷間にあったわが家は,なぜかAMラジオにモスクワ放送がよくはいった.
短波ラジオがはやって,よりハッキリしたモスクワ放送とBBCの日本語放送はよく聴いていた.
子ども心に,BBCの方が信用できたのはなぜだったかわからないが,ふだんからの情報量の差だったかもしれない.

冷戦が終結したのが1989年だから,日本の「平成」という元号と,たまたまかさなる.
つまり,いまから30年という一世代の年月を経て,「歴史になった」ということが,この本のしめす最大のメッセージではないかとおもわれる.

世界が冷戦の終結を肌で感じていたとき,わが国ではバブルがふくらんでいた.
国内の地価と株価の上昇に沸いて,冷戦ということの他人事が,文字どおりとなって,マネー・ゲームに狂想していたのだ.
このころの記憶があるのは,乳幼児ではないから,いまでは三十路もなかば以上のひとたちからになる.

すなわち,これよりも若い人たちにとっては,すでにバブル経済も,その崩壊も,同時にあった東西冷戦の終結も,ぜんぶ「歴史」になってしまっている.
これを,たまたま自分にあてはめれば,わたしに東京オリンピックの記憶がないのは,バブルをしらないギリギリ世代とおなじだからだ.

そのつぎの国家イベントだった,大阪万博は,小学校の高学年だったから,それなりに記憶しているし,その二年後の札幌オリンピックは鮮明だ.
スキージャンプでの金銀銅メダル独占は,おおくの少年を沸き立たせ,フィギュアスケートのまっ赤な衣装が印象的だったジャネット・リンの世紀の尻もちも,リアルにカラーテレビで観ていた.

「国威発揚」というのは,この時代は素直に受けとめられていたし,じっさいに東側は真剣にメダルの数をかぞえていた.
それでか,いまでもわが国はメダルの数にこだわっている.

歴史は資本主義から進歩して社会主義になるというのが「科学」とされていたから,進歩主義は社会主義の基盤になっている.
それをテーマにしたのが「大阪万博」だった.
この博覧会のテーマが「進歩と調和」だったのだ.

日本は,資本主義国のふりをした社会主義国である.
だから,「世界でもっとも成功した社会主義国」という表現は,けっしてジョークではない.
さいきんでは,中国がこの表現をつかっているが,その前に「日本を追い越して」がつくから,その本気さがわかる.

そうやってかんがえると,改革開放という政策は,表面的にも内面的にも日本を鏡にして実行したのではないかとおもえる.
表面的には資本主義,しかし,その実態は社会主義なのだから,わが国とおなじなのだ.

ただし,化学反応の順番が逆になっているようにみえる.
中国は,革命をつうじた共産党から資本主義に,わが国はやや複雑で,戦前の近衛新体制という社会主義から米軍の占領をつうじた資本主義をへて戦前回帰の社会主義化をはたした.

だから,こんどは中国のやり方にわが国が近づくようにならないと,バランスがとれない.
そういう意味で,いまわが国は自由を失う危機にあるのだ.

ちょうどいいタイミングで,中国が反面教師にしたソ連の解説がでた.
わが国も,ソ連を反面教師にして,ついでに中国も反面教師にしないと,おぞましい社会になりかねない.

本書のあとに,自由主義哲学の本が,秋の夜長の役だけでなく,わたしたちの人生や子孫たちの役に立つだろう.
まずは,フランクリン自伝で,いっとき正しきアメリカ人になってみるのはいかがだろうか?

終身雇用は強化されている

「日本独特」の働きかた,といえば「年功序列」と「終身雇用」がいわれてきたが,これに「企業内労働組合」をわすれてはいけない.
しかし,これら三つ「だけ」が,「日本独特」というものではない.

そもそも,「独特」というかぎり,それは「標準」との比較において,ということであるから,その「標準」をしらないと,はなしが「独特」になってしまう.
「標準」の働きかたは,やっぱり「欧米」ということになるが,「欧」はすでにややこしいので「米」にしぼるのがよいだろう.

しかし,「欧米」共通はまだあって,それは「労働市場」の存在をいう.
「日本独特」に,労働市場が存在しないことを昨年書いた
これは、かなり根本的に重要で,決定的なことなのであるが,専門家の指摘があまりないから不思議におもう.

しかし,国内の専門家は,「ないこと」を前提に,いろいろかんがえているのだとおもえば納得できる.
残念だが,いまさらここまでくると,「ない」ことが日本社会でふつうになっているから,それをボヤいてもせんないことだとして,一般に向かって指摘することすら退化したのだとかんがえるしかない.

けれども,わたしたちは「ないこと」をしらないままでは,なにがなんだかわからなくなることもある.
だから,「ないこと」を,まずしっていることが必要だ.

欧米で「労働市場」とは,労働者が自分の労働力を売っている,というかんがえを個々人が意識していて,その労働力を,経営者は適正価格で買っている,というかんがえをちゃんと意識しているということを前提にしている.
だから,なんとなく雇われているというひとはいない.

そして,労働を売る側の労働者は,自分で自分の労働の価値を計る方法をしっていて,経営者は,自分が欲しい労働力の質と価格を提示できて,これらの双方の情報が合致したときに,労働契約が結ばれることを「労働市場」という.

だから,おなじ労働力を提供しているのに,定年して雇用延長,という「だけ」のことで,年収が半減する,ということはありえない.
それに,年齢によらない業務の質であれば,そもそも同じ給与でも年齢によってことなるということもない.

たとえば,チェーン化された飲食店などでよくみかける募集ポスターに,初心者でも,「高校生」と「おとな」というだけで時給のちがいがあるのは変だ.もちろん,日本では若い高校生のほうが「安価」だが,仕事をはやくおぼえるという点からしたら,高校生のほうが「高価」なのではないか?ともおもえる.

したがって,経営者からみれば要求する業務の「完遂度」が,給与差になるのは当然だから,どうやってそれを計測するのかが,マネジメント上のテーマになる.
そこで,現場責任者にそれを業務として実行させるのが,経営者の役割になる.

すると,現場責任者は従業員の「業務完遂度」を測る方法をもっていなければならず,それを使えなければならない.
そして,複数店舗や複数の職場があれば,それぞれの現場責任者は,おなじ基準で評価できなければ不公平になってしまう.

だから,経営者は,公平に業務完遂度を測る方法を,現場責任者に提供して,公平さが担保されるよう訓練しなければならないのだ.
わが国では,あんがい,これをちゃんとやっている組織はすくないのは,労働市場がないからである.
欧米では,これができないと部下から突き上げられるし,人材が流出してしまうか応募がなくなる.

いい悪いという議論ではなく,こうなっている,ということでいえば,さらに,将来の経営者層になるひとには,就職の段階でその技能が問われ,それをもって本人のキャリア形成が計画される.
だから,現場責任者レベルにとどまる人は,自社の条件に不満があれば,べつの企業に転職して現場責任者をつとめるという人生になる.

一方で,経営者候補層も経営者もおなじだから,腰をすえた経営者は,転職されないための経営を強いられるし,場合によっては,同僚の転職をすすめることもある.
このことは、身分社会を予想させるものだが,労働市場がないわが国では,「学歴」があたらしい身分社会を形成したから,どちらにも身分社会は生まれるものだ.

こうした動きが,日本にないのは,労働市場がない,ことが大きな要因になっている.
もちろん,この「ないこと」が,もはや「日本文化」のレベルにまでなっているから,その他の文化と結びついて,もはや労働市場がないことを憂いてもしかたがなかった.

しかし,年金支給という別の社会条件から,「定年」そのものの延長が「法的」に検討されるようになってきたから,日本人の人生の老齢時代における「労働」が,強制力をもってもとめられてきている.

さらに,外国人労働力の「輸入」が本格的にはじまるという事態になって,どうやって労働市場が「ある」ひとたちに,「ない」ことを理解させるのか?
まちがいなく,「文化摩擦」になるのは,火を見るよりあきらかだ.
むしろ,すでに現状でも外国人労働者がたいそういて,日本人経営者による奴隷労働的なあつかいが問題になっている.

そして、10年期限だというけれど,そうはいかないのが外国人も「人間」だからで,人生の幸福追求の権利を剥奪することはできない.

すると,これまで存在しなかった,「労働市場」と「終身雇用強化」ということに,あらたに外国人という変数がくわわって,ノーコントロールになってしまう懸念がある.なぜなら,その外国人が「何人なのか?」ということが予想もつかないからである.
つまり,日本人と外国人という二項対立ではなく,日本人といろんな国のひとたち,になるからだ.

さすれば,いろんな国のひとたちだけで,企業内組合を結成するかもしれない.
もしかしたら,外国のスタンダードのように,職業別の組合になることもあるだろう.

一歩まちがえば「奴隷輸入」という外交問題にもなる.
混沌の時代がはじまることは,もはや避けようがない.

PCを使えないのは悪なのか?

財界歴代トップや国家の大臣が,PCを使えないときびしい批判にさらされている.
「それがどうした?」
とわたしはおもうのだが,読者諸氏にはいかがだろうか?

問題は,組織のトップがトップとしての役割を果たしているか?のほうがはるかに重い.
PCをつかいこなして,すばらしい表計算ソフトの使い手であっても,トップとして判断ができなければ何もしないこととおなじである.
電子メールもしかりだ.

しかも,電子メールであろうが電話であろうが,一歩まちがえば情報漏洩の危険にさらされているのは周知のとおりで,ましてやこれらの情報を積極的に盗もうとする集団が存在するのだから,重要な組織の重要な情報ほど,電子メールや電話の使用は危険である.
ドイツでは,ずいぶんまえにもっとも安全なのは「郵便」であるということになったこともある.

東西冷戦まっさかりのかつて,電子メールなぞおもいもよらない時代の郵便は,危険にさらされていて,デニム製の袋に封緘までする外交文書を運ぶことすら,中身の情報の安全は危うかった.
これらの原始的な方法が,その筋の「職人」の減少と退化から,現代ではかえって安全性がたかまっている.

ところで,その組織の存在理由が現実と合致しなければ,廃止するなりの方向の批判のほうが,よほど役に立つ.
役人は組織の改編まではやるが,失業をともなう廃止は絶対にしない.
そういう意味で,公務員にもスト権をみとめて,そのかわり民間と同様に「会社都合」でも解雇できるようにしたほうがよい.

安易なストライキは,住民からの強い反発をえるだろうし,それで住民が役所へのAI導入を希望するようになれば,世の中はすこしでも変わることだろう.
それに,人口減少下での公務員数の増加は,ありえないので,住民ひとりあたりの公務員数のランキングが今後話題になるはずだ.

役人はむかしからずる賢くて,姑息なことしかかんがえないという特性をもっている.
たとえば,「指定管理者」という制度がある.
いまでは,おおくの公共施設の運営が,これら「民間」の業者が請け負っている.
たとえば,公民館や図書館,体育館などの施設である.

しかし,よくかんがえると,こうした施設は以前,ぜんぶ公務員が働いていた.
それで,前述のように,公務員は解雇されない身分だから,指定管理者によって職場を追われたかつての職員である公務員たちは,どこにいったのか?という問題がある.

ここに,みごとな「パーキンソンの法則」が機能しているとかんたんに予想できる.
このことは、ちょうど一年前に書いたことだ.

あいかわらず,わが国で「パーキンソンの法則」はマイナーな知識だが,社会的常識になっている欧米では,かならず人びとのチェックがはいる項目になっている.

「役人の数は,仕事の量とは関係なくふえる」

しかし,欧米人の発想は,主語に対してもっと厳しい.
「役人の数」を,「企業内」に読み替えることも常識になっているのだ.
つまり,民間であれ企業内の事務官僚の数は,仕事の量とは関係なくふえる,という性質があるから,管理職(マネジャー)としての心得で,そうはさせない努力を経営者から要求されているし,管理職本人の意識も,パーキンソンの法則のようなバカげたことになれば,経費だけがふえて自分たちの給料の原資が減ってしまうと認識している.

それで,わたしも,外資系企業に入社したら,上司からパーキンソンの法則についてのレクチャーを受けて,社内でその傾向を見つけたら,積極的な注意喚起を遠慮なく発するように,と教育された.
もし,自分をふくめた上司が,その注意喚起を無視するようなことがあったら,すぐにコンプライアンス室に訴えてよい,との説明だった.

新卒採用がない会社だったから,日本的中途入社の新入社員しかいないのだが,新たなメンバーには以上の説明をかならずせよ,というのがマニュアル化されていた.
これは,日本企業とあきらかにスタンスがちがう.
「ハラスメント」が中心になっているのが日本企業だが,外資企業がもっとも警戒して自戒の対象にしているのが「パーキンソンの法則」なのである.

そういう目線でみれば,一見,PCなくして仕事が成立しない,という常識もおかしなものだとわかる.

国民から選出された議員が,国民を支配しようとする役人に睨みをきかせ,国民のためになる施策を指示する役割をもっているのにもかかわらず,なにを勘違いしたか,役人と一緒になって国民を縛る役割に権威者のよろこびすら感じているように見えるのは,あきらかに「裏切り行為」なのだが,それが「伝統」になっているのがわが国である.

ちゃんとした視点での批判を,報道機関という公益をになうひとたちに期待したいが,このひとたちがおそろしく「幼稚」だから,おかしな論点ばかりが目にはいる.
彼らは「記事」が商売ネタだから,その記事を買わないという拒否権発動こそが,意志表示になるはずだ.