あたらしい「最高級実務電卓」

2015年に,ほぼ3万円という価格設定の「最高級電卓」が発売された.
メーカーによると「電卓も『嗜好品』に」ということで,じっさいにずいぶん売れているらしい.
だから,部外者が云々するはなしではないのだが,電卓好きとしてコメントしておく.

パソコンなら,エントリーモデルの新品やリース落ちの中古が買える値段で,「電卓」を買うひとはどんな人たちなのだろうかとおもってちょっと調べたら,公認会計士や税理士といった「士業」の人たちは当然として,あんがい高級車のディーラーさんなど,高単価な物品を販売する会社のひとたちが,お客様に「見せる」ために購入しているということがわかった.

わたしも,そういう意味で客前の電卓を買い換えるように指導したことがある.
レジ横に置いて,割り勘計算などをするのにつかう電卓が,数百円のものだったからである.
もちろん,この電卓自体の機能に「否」はないけれど,「卑」があったからだ.
計算結果がおなじでも,あまりにもみすぼらしいものを使っているところを観られれば,お客側もぞんざいな扱いを受けていると感じるかもしれない.そうならこれは「大損」につながってしまう.

ところが,なぜか日本製の電卓は,どれもこれも「ビジネス仕様」のデザインで,おしゃれ感がまるでない.
電卓といえば「いかにも電卓」というデザインに統一されているようだ.
そこで,外国製のちょっとしたデザインの電卓を推薦した.

すると,やはり見ている人はいるもので,お店がおしゃれだと感じてもらえた,と早速の反応があった.
たかだか千円程度で,お客様に「いい印象」を抱いてもらえるなら,安い買い物である.
日本の電卓メーカーのセンスの無さが,外国製の電卓を買わせたのだ.

そうしてかんがえると,表題の「最高級」が,作り手にとっての価値感だとおもえてしまう.
もちろん,使い手のつかい勝手についての評価は高いのだが,あくまでも「ふつうの電卓」としての範囲を超えていない.
「売れている」ということから,否定をするのではなく,べつの概念による「最高級」があたらしく生まれてもいいのではないかとおもうのだ.

たとえば,ビジネスの場面なら,決定的に「ふつうの電卓」に欠けている機能は「年利」のための「べき乗」と「べき乗根」がある.
上述の「最高級電卓」には,「√キー」があるが,これだけでは不満が残るから,関数電卓がもう一台欲しくなる.

電卓メーカーからすれば,ふつうの電卓と関数電卓が売れるからそれでよいかもしれないが,利用者は,ずっと前からこまっている.
これに,「統計機能」がつけば,おおよその実務では間に合うから,かばんに一台いれればじゅうぶんだ.

欲をいえば,モード切替で式の入力ができて,それが電源のオン・オフでも消えないことが望ましい.
わたしにとっては,以上の電卓があたらしい「最高級実務電卓」である.

おそらく,こんなアイデアはとっくにメーカーはかんがえただろう.
しかし,せっかく作っても「売れない」可能性がたかい.
それで,これまで作らないできたから「売っていない」のだ.

なぜ断定できるかというと,おおくのひとが電卓の使い方をしらないし,なによりも,「利率の計算」や「統計計算」の『便利さ』をしらないからである.
だから,たんに四則演算のなかで,えんえんと足し算をして,さいごに割り算をするとか,メモリーどうしで足し算や引き算をする「だけ」で満足している.

そもそも,「√キー」がどうしてあるのかしらないから,使い方もしらないので押したことがない.
せいぜい,「√2」や「√5」などと押して,「ひとよひとよにひとみごろ」とか,「ふじさんろくおーむなく」とかの確認をするくらいかもしれない.

ということは,「教育」が必要だということである.
電卓の利用者を教育して,電卓が便利だと,購入候補者にこころから感じてもらうことなしに,わたしがかんがえる「あたらしい『最高級実務電卓』」は売れない.

わが国の数学教育は,算数教育からして先進国で唯一授業に電卓を「つかわない」ことを守っていることは何度かこのブログでも書いたが,利率の概念がわからなくて社会人生活ができるのか?
むかし,横須賀にいくと「自衛官専門」と大書した融資会社の看板をよく見たが,自衛官の専門教育のなかに「利子」がなかったので,実質「サラ金」にずいぶん借りてこまった人がおおかったと聞く.

統計は中学校からおしえることにはなったけど,おそらく無機質で抽象的なつまらない授業がおこなわれているにちがいない.
日本で統計は「三十年ぶり」のカリキュラム復活だったから,先生たちが「わからない」のである.自分がわからないものを,生徒がわかるようにおしえることは,できっこない.

こんな状態だから,電卓メーカーだけに「教育」を期待しても,普及はきびしい.
ならば,企業内研修でやろう!やるしかない!
のだが,その企業経営者が,研修を削減すべき「コスト」だと認識するようになった.
もちろん,かれら自身も「あたらしい『最高級実務電卓』」を欲しいとおもわない知識しかない可能性がある.

だから,「あたらしい『最高級実務電卓』」の発売と売れ行きは,あんがい社会のバロメーターになるだろう.
そういうわけで,とうぶんこの国で「あたらしい『最高級実務電卓』」が発売されることはない.

ぞろぞろの不祥事の共通点

おわらないどころか,どんどん出てくる,といった感があるのはどうしたことか?
台湾の鉄道事故のように死者までが発生すると,設計ミスがただちに事故とは関係ない,といっても「信用」に傷がつくことはいなめない.

ちょっとまえ,社会インフラを輸出しよう!が政府のキャンペーンにもなって,各国に鉄道車両が輸出されたが,国ごとにことなる安全基準にあわせてつくるノウハウが,ながく日本国内「だけ」でやってきたノウハウとマッチせず,納期のおくれから生じる違約金負担で,とうとう老舗の川崎重工が赤字に転落し,鉄道車両製造事業の継続すら社内議論されているという.

なんのことはない,「ガラパゴス化現象」のはなしであった.
わが国のあらゆる分野で,この「ガラパゴス化現象」が起きている.
アマゾンの書籍検索で「ガラパゴス化」を入力すれば,多岐にわたる,ではすまされない状況がわかるだろう.

民間だけでなく,「公」の分野においても,しっかり「ガラパゴス化現象」は起きている.
霞ヶ関でも,県庁所在地でも,村役場でも.さらに,「学校」にもまん延しているだろうから,他人事ではぜんぜんない.
わたしたちの生活をおおっているからだ.

たとえば,上記の本は,世界的ベストセラーになった,学校教育のあたらしい方向性,についての教科書である.
世界はすでに,むかしの工場労働者の大量供給に対応するための画一化された教育方式をみなおして,「学習」に重心をシフトさせている.

それは,本人の「学習」でもあり,組織の「学習」でもある.
だから,以前このブログでも書いた,発見的教授法も,その流れのなかにある.
そして,ここで重要なのが,ゴール設定と設定したゴールからの演繹思考という論理である.

残念だが,われわれ日本人に,ここでいう「論理的思考」が,かなり欠如しているとかんがえている.すなわち,「目的合理性の欠如」だ.

「ちいさなことからコツコツ,コツコツ」は,いまでも美徳とされている.
しかし,この方法は,けっして目的合理性があるやりかたではない.
正しくは,「目的達成のために,ちいさなことからコツコツ,コツコツ」でなければならない.
「目的達成のために」を省略してはならないのだ.

すると,ガラパゴス化現象がみられる分野での問題点は,以下のとおりになる.
・「目的」を明確化せずに自己目的化して,ただ従来どおりのやり方を漫然と踏襲している.
・設定している「目的」が,そもそも的外れである.

これは,「マネジメント」の問題である.
ここで,マネジメントを「経営」と訳してはいけない.
マネジメントとは,「組織の目標を設定し、その目標を達成するために組織の経営資源を効率的に活用したり、リスク管理などを実施する事」だ。

「経営資源」とは,「ヒト」,「モノ」,「カネ」,「情報」,それに「時間」をさす.
もっとも重要なのは,「ヒト」である.主語になるのはかならず「ヒト」だからだ.
「ヒトがモノを」,「ヒトがカネを」,「ヒトが情報を」,「ヒトが時間を」コントロールする.
いま問題の,「ハラスメント」も,ヒトの存在が組織には必須な「ヒトがヒトを」で発生するものだ.だから,ヒューマン・リレーションズをどうすればいいかが,誰にでも問われるのだ.

また,「リスク管理」を,「リスクは回避するもの」と理解してはいけない.
「リスク管理」とは,「リスクはコントロールするもの」という意味で「管理」なのだとかんがえなければならない.
「リスク」は,「利益の源泉」でもあるから,「回避」ばかりする日本企業の儲けがなくなった.

さて,ここまでは頭で理解できる.
しかしおおくの分野で,この「問題」が解決できないのに理由があることまで踏み込まないから,いつまでも,どこまでも同じ過ちを繰り返すのだ.
すなわち,「学習しない組織」がまん延状態になってしまっているのがいまの日本だ.

つまり,このような「学習しない」状態から抜け出すには,なんらかの行動を起こすひつようがある.
そのためには,組織構成員を「学習するひと」に変えなければならない.
しかしそれは,「本を読め」という命令では達成できないものなのだ.

「頭」だけではなく,「体」もつかう.
これをふつう「訓練」という.

わたしたちは,きちんとプログラム化されたメソッドとしての「マネジメントの訓練」を,ほとんど受けた経験がないままに,組織を運営させられている.
それは,大企業のトップも,高級官僚も,政治家も,まったくおなじである.

人生のなかで,社会への準備段階としての「学校(小中高大)」における段階的訓練.
入社後の社内訓練や職業訓練.
これらを見渡して,一度もないか希薄である.

ただし,一部企業では熱心にマネジメントの訓練を実施していて,こうした企業では不祥事が発生しにくいのは当然である.
かつて,日本の製造大企業は,こぞってこれを実施していたが,バブル期をピークに減少した.
一世代,30年の時をかけて,企業内部のマネジメント力が衰亡したのだろう.

どうやらこのことが,さいきんの不祥事の原因ではないかとうたがうのである.

岩盤規制のよい解説だけど

「歴史は発展する」というのは,社会主義や共産主義がいいふらした幻想にすぎないが,なんとなく聞き流したひとほど,洗脳されているから注意が必要だ.
「退化する」こともあるからだ.

それで,いいふらしたひとたちは,「退化」もヒトの尾てい骨のように「進化」だといいはるのだ.
これは、とんでもない人権侵害を正当化する.
政治犯を収容する場所で,どんな「教育」がおこなわれているのか?をかんがえればよいだろう.

日本という国の「特殊性」については,内外から指摘されつづけてきたから,「日本論」は山ほどの著作がのこされていて,そのほとんどが,やっぱり「特殊性」を摘出している.
それが日本「人」の特殊性に転換されるのは,国家の構成員なのだから道理である.

「革命」を経験した欧米諸国では,英国の「名誉革命」とフランスの「フランス革命」が,およそ正反対の立ち位置で対峙している.
そういう意味では,おおむね世界はこの二つの革命を源流とした二本の大河のどちらかにある.

英国の流れは,その後の「ピューリタン革命」になって,アメリカ合衆国の源流にあることはまちがいない.
一方,フランス革命は,ロシア革命や中国共産党に流れ,かつてもいまも社会主義の源流になっている.

さて,それではわが日本国はというと,他国より若干複雑ではないかとかんがえるから,「特殊性」のはなしに与する.
それは,二重構造で,表面を流れるものは英国からであるが,もうひとつ地下水脈があって,これはフランス革命というより強くロシア革命を源流としたものだ.

日本を「鵺(ぬえ)的」だというひとがいるのは,この二本の流れをさしたのではなかろうか?
「鵺」とは,頭は猿,胴は狸,尾は蛇,手足は虎,声はトラツグミという伝説上の怪物で,そこから「正体不明」をさすことになった.

だから,二つの革命の流れが日本のすがたであると特定すれば,それこそが「正体」であるから,「鵺」ではなく,「結合双生児」のような状態とかんがえる.
本物の結合双生児は,ベトちゃんドクちゃんでしられたが,産まれてきた彼らに罪はない.
しかし,国家のばあい,これは国民にたいして「罪」であるから,彼らのこととは別にしてかんがえるひつようがある.

日本という国は,表面上は自由主義・資本主義体制だが,地下での実態は社会主義・統制経済体制である.
戦時中の近衛文麿内閣が目指したのも,社会主義・統制経済体制であったが,大政翼賛会をつくってあびた批判から腰砕けになった.それでも,統制経済体制は実行された.

日本本土より,強力に計画経済・統制経済体制であったのは満州国だった.
スターリンが成功させた(というがほんとうはウソだった)「五ヵ年計画」を,ロシア人が逆立ちしてもできない完璧な事務能力で真似たのが,岸信介次官率いる満州国官僚群だ.
バリバリの自由主義者,阪急創業者の小林一三商工大臣と統制経済を主張して対立したのも岸だった.

戦後の混乱は,自由主義がはびこって,各地に「闇市」ができた.
「闇」なのだから,政府の統制にない,という意味だが,それならなぜ「自由市」と呼ばないのか?
政府の統制が正統で,これに従わないのは犯罪的,という価値感があったからである.

時間の経過という「歴史が進捗」して,役所も丸焼けになってしまった混乱から,役人の体制がととのいだすと,経済警察がこの「闇市」を取り締まった.
そして,闇市の側も,「歴史が進捗」して,駅前の雑居ビルに入居した.これらの建物は,いまだに残っているが,店舗の狭い区画とそのコピーという構造的特徴をみれば判断できる.

こうした時間の経過をみれば,「自由市」の弾圧からスタートしたのが戦後日本経済の特徴なのだ.
それが,どんどんと,あらゆる方面に「統制」が浸透するが,その主体は国民ではなく,役人と政治家たちだった.

自由と民主主義など,じつは一顧だにされていない.
それをまとめた本がでた.

筆者の上念司氏は,経済評論家として活躍中の有名人だが,はなしのところどころに冗談ではすまされないような冗談をはさんでくる.

この本も,最後のすかしっぺなのか,「おわりに」がいただけない.
「新自由主義の定義」にたいそうな混乱があるからだ.
日本の岩盤規制が,新自由主義の権化だ,という主張は,完全におかしい.

また,岸信介の孫である安倍総理が官房長官とふたりだけで,まるで岩盤規制と対峙しているという主張も,いいすぎだ.
上念氏には誇大妄想があるのではないかと疑いたくなる記述があるから,鵜呑みは禁物の本ではある.

彼のアベノミクス支持も,いいだしっぺの浜田宏一教授に師事したからだと著者略歴にあって納得したが,わたしは「戦後レジーム『回帰』」のアベノミクスを支持しているわではない.
そういう意味で,たいへんな矛盾にみちた本である.

多忙をきわめる上念氏は,新自由主義の本家,ミーゼスの著作や,その弟子にして同僚だったハイエクを読む暇がないのだろう.ましてや,ミルトン・フリードマンをや.
わが国の「流れ」の構造上,新自由主義がサッチャーの英国からの流れではなく,ロシア革命の流れからの批判という歪みを修整できていないことなのだろう.

本書本文における上念氏の主張は,新自由主義そのものであるからだ.
しかし,彼はその新自由主義を無視するアベノミクスを支持するという.

よいこは「おわりに」だけは読んじゃいけないよ.

業務の「標準化」なくして移民?

世界最大の売上高を誇るホテルは,マリオット(スターウッド含む)になった.
リッツ・カールトンや,シェラトンを含む傘下のホテルブランドは30もある.
運営する部屋は110万室である.
室数規模でみれば日本では,5万室の「東横イン」がトップになっている.

「おもてなし」の国ニッポンに,世界規模の高級ホテルチェーンは存在しない.
また,不思議と,世界最大ホテルチェーンをランキング化すると,トップ10のうち9グループがアメリカの会社なのだ.
80年代に,そのアメリカで,「サービス革命」といわれたエポックメイキングな本が二冊出版されている.

 

どちらも邦訳が出版されたが,日本でサービス革命は起きたのだろうか?といえば,ファミレスや居酒屋チェーンなどで「起きた」が,「おもてなし」にこだわった高級旅館や高級ホテルでは「起きなかった」といっていいだろう.

このことについて,わたしは,業務の「標準化」がキーワードだと理解している.
しかし,「標準化」とは,「金太郎アメ」のような「サービス」であって,それはハンバーガー・チェーンにみられる「画一化」された「サービス」であると,思い込んでしまったことに不幸があったとかんがえる.

つまり,店舗拡大に成功したモデルは「標準化」を実施して,サービス革命を実践し,そうでない業態では,サービス革命が起きなかっただけでなく,衰退してしまったのではないか?ともいえそうだ.

いうなれば,「標準化」が「製造業」におけるラインにみえてしまった.
「われわれは『ベルトコンベア』のような仕事はしない」というわけだ.
しかし,残念だがこれには想像力の欠如があるか,上述の図書を読み込んでいないかのどちらかだろう.

その証拠が,マリオットの二代目が書いた下記の本で,「標準化」こそが成功要因だと断言しているからだ.

この本は,1999年に邦訳がでているから,すでに二十年ほどの時間が経過している.
それなのに,旅館やホテルの経営者のおおくがいまだに,「標準化」に積極的でないのは,どういうことなのだろうか?
単純に,読書が習慣になっていないか,本が嫌いなのだろうと疑ったほうが説得力がありそうだ.

わが国の工業製品で,もっとも販売単価が高額なのは,トヨタ自動車の「レクサス」ではないかとおもうが,この自動車の「特別」なつくりかたは広告宣伝でも当初は流れた.
しかし,この自動車をどうやって販売するのか?といった面になると,とたんに従来のディーラーとイメージがかさなってしまうのだが,ほんとうにおなじなのだろうか?

接客サービス業を自称するなら,この点について一般人よりも詳しくてふつうなのではないか?
つまり,レクサス以外のトヨタ車とは,別次元のことがおこなわれていることに注目したい.
なぜ,そのようなことが可能なのか?
マリオット社も,30ものブランドをコントロールしている.

これは,それぞれのブランドで,標準化がおこなわれているからできるのだ.
標準化とは,「業務の定義」がなければできない.
それは,製造現場だけでなく,企画・設計段階からアフターサービスまでを含むものだ.
そのためには,業務を細分化しなければならない.

つまり,微分的発想が必要になる.
だから,「真実の瞬間」なのだ.

ところが,これら細分化されたユニットが,統合化されてはじめて「商品」になる.
これは、積分的発想だ.
それを,人間があつまった組織で統合する必要があるから,「逆さまのピラミッド」でなければ達成できない.

上記の二冊が,ほぼ同時期に出版されたのは,偶然ではなく必然だったとかんがえる.

人口が減れば労働力も減る.
それでは困るから,移民を受け入れたい,とかんがえるのは理解できなくもない.
しかし,業務の標準化もできていない現場・職場に,ことばが不自由な移民を作業員として補充して,はたして生産性は伸びるのか?

ポケット翻訳機があれば解決できるような,甘いものではない.
移民の生活に正規の賃金はひつようだし,移民も歳をとるから社会保障もひつようだ.
いま,急務なのは,標準化と現在戦力のブラッシュアップなのである.

優秀な人材がほしい

どの経営者とはなしても,だれもがもとめているのは「優秀な人材」である.
破綻しそうな企業では,「お金」に順位をゆずるけれど,それでも,この期に及んでなお,二番目に「優秀な人材」がほしいという.

パーティーなどの雑談の場でつっこみはしないけれど,再生の現場ではつっこまざるをえない.
それで,経営者や経営幹部に,優秀な人材とはどんな人材をいうのか?を書き出してもらうことをしたことが何度かある.

このブログの読者ならお気づきだろうが,まともにきちんとした日本語で書き出せるひとはすくないのだ.
もっといえば,コミック作品の主人公にあたる「スーパー・サラリーマン」のようなひとをイメージしていることがままある.

まさに,いまの副総理・財務大臣のように,マンガの読みすぎ,である.
こんな超人的人物が現実に入社したら,あなたは上司としてかえって困りませんか?と聞くと,たいがいの幹部はやっと気づいておどろくのだ.
なぜなら,それであなたはどんな仕事ができるのですか?あるいは,したいのですか?という質問がつづいて,ばあいによっては上司のほうが存在が否定されてしまうかもしれない.

さほどに曖昧な概念で,優秀な人材がほしい,と口にできるのは,実現性のほとんどない幻想だからである.
もちろん,再生現場だから,数年前から新入社員など採用していないし,パートさんの欠員すら補充できていない.
理由は,応募がないから,であることがふつうだ.残念ながら,この「ふつう」は,人的サービス業では「ふつう」になっているから,再生企業だけが苦しんでいるものでもない.

経営者や幹部が,優秀な人材がどんな人材なのかがわからないうちに,優秀な人材を募集しても,優秀な人材が採用できるわけがない.
こうしたことを理解してもらってから,あらためて当社にとっての優秀な人材とはどんな人材なのかを議論したら,でてくるのは「スペック」ばかりだった.

さらに,「即戦力」というスペックもかならず加わるのも特徴だ.
これは,「作業」のことを指す.
おなじような「作業」を,他社で経験したことがあれば,それを「即戦力」というからだ.
しかし,この「即戦力」には,自社で訓練する必要がない,という意味もある.

ふつう募集人材の「スペック」というと,学歴や,資格,職歴・勤務経験が典型的だ.
それで,話題をかえて,どんな人物と一緒に働きたいか?に振ったことがある.
すると,でてくるのは「人柄」に関するものばかりになった.
これは、接客業だから,という理由だけではない.

直接の接客を想定しない,たとえばボイラー技士であっても,一緒に働きたいか?という基準では,決め手は「人柄」なのだ.
そんな人物であれば,客室温度や風呂の湯温についても気遣いができるだろうと,かんたんに予想ができる.

整理しよう.
第一に「即戦力」になる,「優秀な人材」.
第二に「人柄」.
これは,自社での「人材育成」の放棄のようにもみえる,ある種の「むしのよさ」がみてとれる.

人口減少にともなう労働人口の減少は,「需要と供給」という経済原則によって,確実に価格上昇が予想される.
だから,企業は内部での人材育成という教育を実施しないと,本人のパフォーマンス分と賃金のバランスがとれなくなる.

イギリス人はとっくに意外な発想をしていて,

という本を書いている.
参考になるはずである.

ところで,2020年度から,同一労働同一賃金のための法制度が実施される.
対象となる法律は,
労働者派遣法,パートタイム労働法,労働契約法,である.
なお,中小企業は「改正パートタイム労働法」について,2021年度から適用されることになっている.

これらが実施されることは,もはや決定事項である.
つまり,未来はもう定められたのだが,この制度の運用のために,欧米では常識の「ジョブ・ディスクリプション」(職務記述書)が,わが国でも必要になるのではないか?
そうでなければ,雇用形態にかかわらず,同一労働同一賃金をどうやって実現するのか?

この書類は,職務内容,必要なスキル(資格ふくむ),賃金条件(労働時間ふくむ)などが記載されたもので,募集者が作成し応募者はこれをみて応募する.
一見,なにか特別なものにはみえないが,「労働市場」の要になるものだ.
「就職」であって「就社」ではないことに注意したい.

つまり,企業はほしい優秀な人材の「定義」を書いて公表しなければならないのだ.
このための準備はすすんでいるのだろうか?

観光産業は基幹産業にならない

世の中にはこまったひとたちがいて,「幻想」をあたかも「現実」のようにかたることがある.
それが業界人であれば,「アドバルーン」だと聞き手が認識すれば問題にならないが,専門家とか有識者と称するひとのはなしだと,それは「うそ」にもなるから社会には害悪である.
どんなものかといえば,以下のとおりである.

「観光産業を(わが国の)基幹産業にしていくのが目標である.」

これは,不可能でもあるし,そうなっては困る.

結論から先にいえば,政府の訪日外国人旅行者による国内消費の目標が,2030年で15兆円でしかないからだ.
2016年の消費額が3.7兆円だったから,これは年率に換算すると10.5%という昭和の高度成長期に匹敵する伸び率になっているのにだ.

わが国のGDPは,内閣府発表の2017年度,名目548.6兆円,実質533.0兆円である.
インフレを考慮したのが実質額なので,16年の消費額で実質を比較すれば,0.69%にすぎず,30年の目標値で比較しても,2.81%である.
もちろん,GDPは「付加価値」だから,外国人の消費額という「売上」で比較するのはまちがっているのだが,より外国人の影響が強くなるこの方法でみてもこの数字にしかならない.

この産業だけで,国民は食ってはいけない.

つまり,「観光業」としてありえないほどの大成長をとげても,国民経済にとって3%にも満たないのが,外国人依存の結果なのだ.
これが,どうしてわが国の「基幹産業」になるのか?
まさに,顔を洗って目を覚ませといいたい.

さらに,この議論には,観光業をバカにしているのではないかと疑いたくもなるニュアンスがふくまれている.
「観光業」とは,総合芸術的な産業なのだ,ということを忘れているのではないか?ということだ.
単純に規模を追っている印象が「基幹産業」といういい方にあるようにおもわれるからだ.しかし,そのわりに,数字を無視しているのは意図的にか?それともファンタジー文学か?

自然をあいてにしながら,食料生産に関係する一次産業と,二次産業たる鉱工業からうまれる文明の利器の積極的投入による利便性の追求と環境保護,それに人的なさまざまなサービス,という産業分類のすべての知見を統合してはじめて成り立つのが「総合産業」であるはずの「観光業」ではないか.

それは,バレエやオペラに代表される「総合芸術」に似ている.
しかして,バレエやオペラを芸術界の基幹産業と呼ぶものなどいない.
ましてや,バレエやオペラの売上高が,他の演奏会のシェアで比較しても,巨大とはいえないだろう.

わが国観光業が外国人市場で発展するためには,わが国独自の一次産業があって,わが国の二次産業が利便性を提供しつづけ,これを人間がプロデュースしなければならないのだ.
それを,最後の観光業従事者というひとたちだけで,なし得るものだ,というのは,「夢」を通り越した「誇大妄想」ではないか?
あるいは,「自信過剰」の鼻持ちならぬはなしである.

たとえば,自然の景観という観光資源も,外国の僻地にあるような「放置された自然の美しさ」をわが国に探せば,じつは本当に放置された場所か,交通機関の整備がないまさに「僻地」しかない.
便利な交通がある場所は,人工的な建造物にあふれていて,かぎられたお決まりの撮影スポットしかないから,現地にいくより映像でみたほうが美しいかもしれない.

ふるい伝統的な日本を感じる地方都市も,東京のようになりたい,東京のようなガラスとコンクリートがほしい,と全国一律にカネをばらまいたから,駅舎すら撮影意欲をなくすポスト・モダン建築ばかりで,情緒などどこにもない.
これは,旧市街・新市街という都市計画の常識が,経済の貧困と貧困なる発想が掛け算になって,市中でもほんの一角が「観光地」で残るばかりである.

戦後のまちづくりにみられる混沌こそは,敗戦の貧しさの象徴で,それを近代というおしろいで化粧はしたものの,にじみ出る貧しさは消しようがない.
これが,欧米以外の,たとえばアジアからの観光客に受けているのかもしれない.
かつての支配者たちがつくったまちとはぜんぜんちがう混沌をみて,安心と自信を得るのではなかろうか?しかし,これは自慢できない.

東京の焼け野原に匹敵する破壊を,執念と自助で復活させたワルシャワ市に代表されるポーランド人の精神は,日本人にはつゆほどもなく,ただひたすら近代をもとめたのは,いまさらながらに貧困なる精神だったのだとおもう.

いまだにこの精神のままでいるから,この国が観光立国になどなれないし,なったところで本当の貧困がまっている.

無政府をシミュレートする

経営者集団の日本経団連が望ましいが,労働者集団の連合(日本労働組合総連合会)でもよい.
そろそろいちど,日本政府なかりせば,というシミュレーション研究をしてみたらどうだろう.
このシミュレーション研究に政治志向はいらない.
単純に,「無政府だったら」という状態だと,わたしたちの社会経済がどうなるのか?という研究である.

社会保障が国民皆保険であることも,善し悪しのはなしではなく,「なかりせば」だから,ぜんぶ白紙にするとどうなるかである.
この,どうなるか?も,わたしたちにとって,であって,政府の債務がどうなるか?ではない.
むしろ,民間の年金保険や,積立ファンドの活用の意味になるだろう.

つまり,政府の関与をぜんぶ出すのだ.
必要なこと,不要なことという仕訳では,政治信条が入り込むし,現状を基礎にかんがえることになって,「白紙」からのはなしにならないから,機械的に消し去ることがもとめられる.
それから,わたしたちのためになることを抽出すればよい.

たとえば,警察.
だれだって,警察がなくなったら犯罪がふえてこまるとかんがえるだろう.交通事故の処理もできないから,自動車保険の受け取りにもこまる.
しかし,警察の仕事は,ほかにもいろいろあって,なかでも「許認可」という仕事に注目すると,おおくが「公安委員会」から引き受けていて,いわゆるふつうの役所のような「行政」がおこなわれている.
公安委員会は行政を警察に丸投げしているのに,警察を監視するというのは,陳腐なしくみである.

おなじく,消防.
だれだって,消防がなくなれば火災のときに誰が消すんだになるし,救急車がやってこないと命にかかわる.
しかし,救急車が訓練されたタクシーでいけない理由はないだろうし,やっぱり消防法にある各種規制のために,「行政」がおこなわれている.

マイナンバー制度ができたのに,どうしていまだに「戸籍」があるのかもわからない.
世界をみわたすと,「戸籍」があるのは日本周辺国の数カ国にすぎない.

ちなみにアダム・スミスがあげた国家の役割は,以下の三点だった.
・国防
・司法行政
・公共設備

国防には外交がふくまれる.
外交の延長線上に戦争がある,というかんがえ方は世界の常識だから,平和憲法があるから戦争はおきない,という発想とはだいぶちがう.

司法行政は,独占市場(航空業界、携帯電話、放送業界など),外部性(公害防止・対策),情報の非対称性(市場の失敗の原因)を,社会全体の利益から調整するという機能が求められるものだ.

公共設備も,収益性がなくても社会インフラとして用意しないといけないものは,国家が面倒をみなければならない.

これは確かに古典的だが基本である.
しかし,このかんがえを拡大解釈してきた歴史があるのも,また事実である.
そして,拡大解釈と公平な分配というかんがえがくっつくいて,社会主義がうまれた.
みんなから集めたお金を政府がつかう,といったときの「つかう」が「分配」になるからだ.

どのように「つかう」のが,社会にとってもっとも合理的であるか?という発想で経済学がうまれたが,「つかいかた」に公平性重視という力学がはたらくと,社会主義経済になる.
そして,それが拡大すると,はたらくことよりも分配をもらう方が得になるという逆転がうまれて,経済活動が停滞するようになる.

こうなると,みんなで貧乏になる,という仕組みが完成したのとおなじだから,分配をきめる政府が,頑張れば頑張るほど,国全体の貧乏が加速されてしまうことになる.

いま,わが国はたしかに,米国とは軍事的な同盟関係にあるが,分配という価値感でかんがえれば,アメリカ人なかでも共和党と日本の国情は正反対にある.
だから,「自由と民主主義という『共通の価値感』」を,米国とわが国は共有していない.
自由と民主主義を日本政府はぜんぜん重視していないのに,重視しているふりをしているのも,詐欺的である.

すると,あんがい「無政府」でも悪いことがすくないのではないか?

労使でシミュレーション研究をやる意義はあるはずである.

「もったいない」が損をふやす

世界にひろがる「もったいない(Mottainai)」.
2004年のノーベル平和賞受章者,ワンガリ・マータイさんの活動の標語にもなったから,おぼえているひともおおいだろう.
日本人がもっている,「もったいない」の精神が世界を救う.

ところが,「もったいない」の精神が,企業経営に害をなすことがあるから,じゅうぶんに気をつけなければならない.
それは,失敗した投資について「もったいない」からといって,追加投資してしまうことである.
これは、個人の生活でもあることだが,さいきん「断捨離」が理解されてずいぶん改善してきている.

「サンクコスト(Sunk Cost)」とか,「埋没費用」ともいう「費用」がある.

これは,理論としては「投資」をするときに無視しなければならない「費用」なのだが,人間心理としてなかなかそうはいかないので,注意せよと教わるものだ.
なにに注意せよというのか?それは,理論どおり無視すること,と念をおされるのである.

そこまでいわれても,実務ではなかなかふんぎりがつかないのが人情で,埋没原価の金額が大きいほど,判断に影響をあたえる.
上の判断とは,理論から離れる判断という意味で,まさに間違った判断のことをいう.
つまり,損のうえに損をかせねる判断ということだ.

具体的にどんなことなのか,事例でかんがえよう.
事例1.
「耐震補強」をしなければ,公表されてしまうということになって,数千万円かけて耐震補強工事を実施したが,その直後,建て替えのはなしが立ち上がった.
建て替えに「賛成」すべきだろうか,それとも「反対」すべきだろうか?

事例2.
さいきん流行の「ドタキャン」で,用意した料理がムダになった.
この料理を「再販売」するのに,再販売価格の35%の手数料が発生する.ただし,そのうち5%ポイントは,NPOへの寄付であることが購入者に告知される.
食材は廃棄すべきか,それとも再販すべきか?

事例1.は,建て替えの検討にいまの建物の耐震補強工事費用を考慮する必要は「ない」になる.
数千万円ものお金をかけたことは,すでに支払い済みで,二度と帰ってはこない典型的な「埋没費用」である.その数千万円がもったいないからと,あらたに建て替えることに反対する理由にはならないから,きっぱり断捨離する必要がある.

ちなみに,あらたに建て替える建物の取得コストに,取り壊してしまういまの建物の耐震補強工事費用を「加えて」収益計算をすることもまちがっている.
必要な目線は,あくまでも「キャッシュ」の増減であるから,すでに減った分は関係なく,現状のキャッシュ残高から,新規計画のキャッシュをかんがえなければならないのだ.

事例2.は,キャンセルという事態で発生した「廃棄」までのはなしと,その後の販売のはなしを切り離してかんがえなければならない.だから,再販売ではなくて,販売である.
すなわち,材料費や人件費,光熱費の合計が「埋没費用」にあたる.したがって,(再)販売するばあいの仕入原価は,ゼロ,さらに廃棄処理費がかからなくなる分が仕入れ値をマイナスにするから,手数料分を負担してもかならずキャッシュがプラスになる.
もちろん,NPOへの寄付については,さらに別途の広告宣伝費として考えればよい.

よくあるのが,材料費や人件費,光熱費に,あらたな手数料もくわえて考えてしまうことだ.すると,この方法は「大損」という経営判断をみちびくので,何もせずにだまって廃棄することが「得」ということも一緒に判断される.
これを,「損益計算書思考」と,いいたい.損益計算書の流れが,まさにこの思考の原点にあるからだ.

まったく,「損益計算書」は経営にとって役に立たないどころか,損をふやす思考を促すからやっかいである.
まじめな経営者ほど,この思考に冒されているから,この国の儲けがなくなった.
経営上,もっとも優先されるべきは,しつこいが「キャッシュ(現金)」である.
だからこそ「埋没費用」という発想で「断捨離」をしないと,得が損に,損が得にみえるという正反対の結論が,計算上は正しいけど平然とみちびかれるのだ.

すなわち「損益計算書思考」とは,貧乏神である.
だれだって,貧乏神に取り憑かれれば,厄災をまねく.
だから,「埋没費用」という,お払いをしないといけない.

「もったいない」という精神は,埋没費用をしっているひとには「道徳」にもなる美しいものだが,そうでないひとには貧乏がやってくる.

正しい「もったいない」を追求したい.

生類憐みの令を笑えない

ばかな独裁者がばかな法律で国民を苦しめたとして,世界的に有名なのは五代将軍綱吉による「生類憐みの令」だ.
これを習うと,だれでもが愚か者「綱吉」の名前を覚え,独裁政治の怖さをしる.
そして,人間より「犬」や「蚊」までが大事にされた本末転倒の倒錯を笑うのだ.

しかし,バランスが崩れたひとには画期的な法律にみえて,動物愛護も極端にはしると「生類憐みの令」になりかねない.
それが「鯨類」保護の国際問題にもなるし,犬や猫の殺処分ゼロ運動にもなる.
そして、「保護」という概念が拡大に転じて,「地球環境『保護』」も極端にはしると,あたらしい生類憐みの令にもなる可能性がある.

ひとつひとつに異論があるわけではない.
ここでいいたいのは,バランスが崩れたひとたちが極端にはしることの恐怖である.
たとえば,犬や猫の殺処分ゼロをいえば,その数字の拾いかたではなしがおおきく変わる問題がある.

従来は,都道府県などの各自治体が,むかしは保健所,いまは動物愛護センターという施設で,大量の殺処分をおこなっていた.
とくに,街のペットショップで売れ残った「在庫」としての子犬や子ネコが,だんだん育って「子」でなくなってしまうと,こうした施設に運ばれて処分されていたことがある.

こうした「業者」の「業務用在庫」の持ち込みを,施設が受け入れ拒否できるように法律が改正されたら,より深刻な事態になっていまにいたっている.
つまり,ペット生体の「流通システム」という視点を考慮しての「法改正」ではなく,事象だけをみての改正だったから,急に処分場の入口が閉鎖された「だけ」という事態になった.

施設側は,もう「業務用在庫」の処分をしなくてよいから,正規の「殺処分数報告」では「激減」が記録されるのは当然である.それで,とにかく「ゼロ」ならよいのだ,になった.
しかし,物理的に業務用在庫が「減った」事実はないので,引き受け業というあたらしい業種が生まれて,対象となる生体自身の運命から「悲惨」がなくなることはないどころか,一生粗悪な環境に放置される「生き地獄」が出現した.

スーツを着た国会議員たちの「議員立法」だったというが,残念を通り越したお粗末である.
だから役人が起草すればいいと,いいたいのではない.
この国の国会議員は,立法府という権威をいいことに,ほとんどの法律は役人が起草することになってしまって,議員が起草するという本分を忘れたことを嘆くのである.
だから,この法改正を起草した議員たちには,はやく次の法改正での改善を強く期待したい.

先日は,これと反対の,役人による起草とおもわれるとんでもないニュースがあった.
「レジ袋の有料化」である.
環境保護が歪んでバランスが崩れたひとたちによる極端の極地だ.
この国を仕切る文系の高級官僚が,いよいよ「化学」という人類の知見を無視して,「独裁」にはしる例である.もはや「野蛮」の領域ではないか?

民間には残業を減らせと命令するが,もっともブラックなのは官庁の残業だろう.
高級官僚でも働き盛りは課長級であるのは,民間とかわらない.
男であろうが女であろうが,このクラスの官僚はまともに家に帰れない生活をしているからか,なぜか「レジ袋」だけが目の敵にされるのだ.
自分で買い物をしたことがないのだろう.

先月書いたが,野菜を買うとプラゴミがふえるのである.
レジ袋はすくなくても「ゴミ袋」というべつの使い途が用意されているが,野菜の包材はそのままゴミである.
つまり,日本で生活をしていればかならず疑問におもうのは,野菜の包材からでる山のようなプラゴミの方である.
だから,役人の,この生活臭のなさは異常である.

国民生活を苦しめる「政策」が,なぜか国民受けするのは,化学をわすれた「科学技術立国」の素顔になった.
まるで戦時中の標語が,ゾンビのように生き返って,「お国のためなら我慢する」が「環境のためなら我慢する」にすり替わっただけである.

江戸時代の将軍は,愚かさで歴史に名を残したが,ほんとうは将軍をささえる官僚機構が幕府にもあった.
しかし,封建制の専制政治ゆえ,歴史における愚かさの責任は,この将軍ひとりが背負うのだ.

すると,民主主義を標榜する現代にあって,化学を無視した国民生活を苦しめる法律が,将来どのように「愚か」であったかを,「犯人は誰?」に展開すれば,それは「日本国民である」という結論がかんたんに見出されることになる.

今さえよければそれでよい,とする刹那主義が,将来に責任があることをすっかり忘れているくせに,将来の地球環境のために「レジ袋を有料化」すれば問題が解決すると信じるのは「偽善」であり「詭弁」である.
流通業界に経費削減の儲けをつくって,税収をあげようとする姑息な手段にすぎないものを,「地球環境」などという大言壮語に惑わされるの愚でしかない.

あゝ,この国の凋落がとまらない.

「職域奉公」という体質

戦中の昭和17年(1942年)にでた,橘樸「職域奉公論」によると,近衛文麿の大政翼賛会ができた当時にはやりだした用語であるという.
だから,ちょうど昭和15年(1940年)ごろにあたる.
国家総動員法ができたのは昭和13年(1938年)で,第一次近衛内閣のときだった.

すなわち,「職域奉公」とは,すべての職業が国家の戦争遂行という目的に協力することをいうから,これがわが国職業人の「道徳」になったのだった.

このころにつくられた「戦時体制」が,21世紀の今日にも連綿とつづいていることを告発したのが,野口悠紀夫「1940年体制」だった.
いまの戦後最長になりそうな総理がいう,「戦後レジームからの『脱却』」というフレーズが,じつは「戦後レジームへの『回帰』」だとわかる本だ.

もっといえば,戦後体制とはおどろいたことに,戦時体制の延長にすぎない.

 

この本は初版と増補版とがあって,初版+増補版最終章で全部読めるようになっている.最終章が差し替えられているので,増補版一冊だけでは漏れが生じるので注意したい.

さて,政府がすすめる「働きかた改革」に財界アンケートでも半数が「迷惑」と回答したのがニュースになった.
その「働きかた改革」の浅はかさとは,戦時体制としての「職域奉公」を,政府が押し進めたことを忘却しているからである.

ところが,民間は,それがすっかり道徳として「血肉」になってしまったから,両者のズレは二重らせん構造のようにからみあっている.

たとえば,わが国を代表する証券会社である野村證券の創業の精神には,「証券報国」,「職域奉公」がはっきりとうたわれている.
これを,現代風の「事業ドメイン(領域)」として解釈しているのは,必然であろう.
あえて意地悪くいえば,だからNOMURAはゴールドマンサックスのようになれない,のではないか.

ゴールドマンサックスは,その経営幹部が歴代,アメリカ連邦政府要人になるほどであるが,社が掲げるものに「証券報国」も「職域奉公」もあるはずがない.

この例からもわかるように,戦前からつづく伝統的なわが国の企業は,いちように「職域奉公」という思想をかかえたままでいる.
あたかも,それは日本人の宗教心のように,ふだんはほとんど意識することはない.しかし,ことなにかあるときに,忽然と信心深くなって,効きそうな神社仏閣にお参りするようなものだ.

組織では,「職域」が「聖域」になる.
だから,他部署の人間は,そこに足をふみいれることすら許されない.
これをパロったのが,2008年の映画「ハッピーフライト」における,航空会社の地上職が機内に入るシーンだった.

しかし,現実は,当事者間でけっして笑えない問題だ.
よしんばこれが,社内不正を調査する場面なら,おなじ社員同士が検察と容疑者のような関係になる.
だから,もし,事件が収束しても,部署間の軋轢はけっして緩むことはなく,それは個人間の恨み辛みになるものだ.

「第三者委員会」という調査機関による調査は事実上の経営放棄だとまえに書いたが,そうでもしないと上記の軋轢をマイルドにする方法がない.しかし,あくまで「マイルド」だ.
つまり,まじめな企業のまじめな部署ほど,「職域奉公」の意識が高く,自分たちの職場を「聖域化」させることで,一体感という精神の安定を得ようとするのである.

もちろん,ここにはもはや「お国のため」という意識はないだろうが,「会社のため」に変容しただけで,なにが会社の利益になるのかが不明なまま,経験と勘で「奉公」してしまう.
それででてくる職場の概念が,現状維持,なのである.
頑迷な「守旧派さがし」をしても,ピンとこないのは,こうした事情があるからだ.

むかしながらの方法を盲目的に維持する.
それがもっとも「間違いない」と信じることで,会社に貢献できると確信する.
こうして,職場の改善はすすまないから,生産性に変化はおきない.
むしろ,生産性に変化をおこさないことが,「聖域化」した職場をまもることになっている.

経営者は,それではこまる.
それで,改革に「聖域はない」といってはみるが,どうしたらよいのか打つ手がみえないから,もっともらしく「全社一律」という落としどころにおとす.
できもしないことをわかっていても命じるのが仕事と自己欺瞞して,結局できないのを部下のせいにする.

会社の利益とはどんなことで,職域奉公では達成できないとトップが説かないと,現場は理解できないことを理解できない.
しかし,そのためには,どんな仕組みが必要なのかをかんがえて,その仕組みを用意しなければならないから,現場にいうまえに経営者がやるべきことが山ほどある.

伝統的企業の従業員から昇格した経営者ほど,自身が職域奉公に染まっているのだと,最初に認識しないと,やるべきことも見えないで任期をおえるだろう.
それをまた,後任や後輩,あるいは新入社員が黙ってみているのである.