終身雇用は強化されている

「日本独特」の働きかた,といえば「年功序列」と「終身雇用」がいわれてきたが,これに「企業内労働組合」をわすれてはいけない.
しかし,これら三つ「だけ」が,「日本独特」というものではない.

そもそも,「独特」というかぎり,それは「標準」との比較において,ということであるから,その「標準」をしらないと,はなしが「独特」になってしまう.
「標準」の働きかたは,やっぱり「欧米」ということになるが,「欧」はすでにややこしいので「米」にしぼるのがよいだろう.

しかし,「欧米」共通はまだあって,それは「労働市場」の存在をいう.
「日本独特」に,労働市場が存在しないことを昨年書いた
これは、かなり根本的に重要で,決定的なことなのであるが,専門家の指摘があまりないから不思議におもう.

しかし,国内の専門家は,「ないこと」を前提に,いろいろかんがえているのだとおもえば納得できる.
残念だが,いまさらここまでくると,「ない」ことが日本社会でふつうになっているから,それをボヤいてもせんないことだとして,一般に向かって指摘することすら退化したのだとかんがえるしかない.

けれども,わたしたちは「ないこと」をしらないままでは,なにがなんだかわからなくなることもある.
だから,「ないこと」を,まずしっていることが必要だ.

欧米で「労働市場」とは,労働者が自分の労働力を売っている,というかんがえを個々人が意識していて,その労働力を,経営者は適正価格で買っている,というかんがえをちゃんと意識しているということを前提にしている.
だから,なんとなく雇われているというひとはいない.

そして,労働を売る側の労働者は,自分で自分の労働の価値を計る方法をしっていて,経営者は,自分が欲しい労働力の質と価格を提示できて,これらの双方の情報が合致したときに,労働契約が結ばれることを「労働市場」という.

だから,おなじ労働力を提供しているのに,定年して雇用延長,という「だけ」のことで,年収が半減する,ということはありえない.
それに,年齢によらない業務の質であれば,そもそも同じ給与でも年齢によってことなるということもない.

たとえば,チェーン化された飲食店などでよくみかける募集ポスターに,初心者でも,「高校生」と「おとな」というだけで時給のちがいがあるのは変だ.もちろん,日本では若い高校生のほうが「安価」だが,仕事をはやくおぼえるという点からしたら,高校生のほうが「高価」なのではないか?ともおもえる.

したがって,経営者からみれば要求する業務の「完遂度」が,給与差になるのは当然だから,どうやってそれを計測するのかが,マネジメント上のテーマになる.
そこで,現場責任者にそれを業務として実行させるのが,経営者の役割になる.

すると,現場責任者は従業員の「業務完遂度」を測る方法をもっていなければならず,それを使えなければならない.
そして,複数店舗や複数の職場があれば,それぞれの現場責任者は,おなじ基準で評価できなければ不公平になってしまう.

だから,経営者は,公平に業務完遂度を測る方法を,現場責任者に提供して,公平さが担保されるよう訓練しなければならないのだ.
わが国では,あんがい,これをちゃんとやっている組織はすくないのは,労働市場がないからである.
欧米では,これができないと部下から突き上げられるし,人材が流出してしまうか応募がなくなる.

いい悪いという議論ではなく,こうなっている,ということでいえば,さらに,将来の経営者層になるひとには,就職の段階でその技能が問われ,それをもって本人のキャリア形成が計画される.
だから,現場責任者レベルにとどまる人は,自社の条件に不満があれば,べつの企業に転職して現場責任者をつとめるという人生になる.

一方で,経営者候補層も経営者もおなじだから,腰をすえた経営者は,転職されないための経営を強いられるし,場合によっては,同僚の転職をすすめることもある.
このことは、身分社会を予想させるものだが,労働市場がないわが国では,「学歴」があたらしい身分社会を形成したから,どちらにも身分社会は生まれるものだ.

こうした動きが,日本にないのは,労働市場がない,ことが大きな要因になっている.
もちろん,この「ないこと」が,もはや「日本文化」のレベルにまでなっているから,その他の文化と結びついて,もはや労働市場がないことを憂いてもしかたがなかった.

しかし,年金支給という別の社会条件から,「定年」そのものの延長が「法的」に検討されるようになってきたから,日本人の人生の老齢時代における「労働」が,強制力をもってもとめられてきている.

さらに,外国人労働力の「輸入」が本格的にはじまるという事態になって,どうやって労働市場が「ある」ひとたちに,「ない」ことを理解させるのか?
まちがいなく,「文化摩擦」になるのは,火を見るよりあきらかだ.
むしろ,すでに現状でも外国人労働者がたいそういて,日本人経営者による奴隷労働的なあつかいが問題になっている.

そして、10年期限だというけれど,そうはいかないのが外国人も「人間」だからで,人生の幸福追求の権利を剥奪することはできない.

すると,これまで存在しなかった,「労働市場」と「終身雇用強化」ということに,あらたに外国人という変数がくわわって,ノーコントロールになってしまう懸念がある.なぜなら,その外国人が「何人なのか?」ということが予想もつかないからである.
つまり,日本人と外国人という二項対立ではなく,日本人といろんな国のひとたち,になるからだ.

さすれば,いろんな国のひとたちだけで,企業内組合を結成するかもしれない.
もしかしたら,外国のスタンダードのように,職業別の組合になることもあるだろう.

一歩まちがえば「奴隷輸入」という外交問題にもなる.
混沌の時代がはじまることは,もはや避けようがない.

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