報道しない自由という自主検閲

「公正」をうたう報道機関が,公正な立場をすてた言い訳に「報道しない自由」という屁理屈をいいだした.
これを「自主検閲」だといって批判するひとがいないのは,そのひとの情報における抹殺をおそれるからだろう.まさに,「検閲」そのものの効果だ.

戦時中,日本軍による検閲はおこなわれていたが,その方法は稚拙であった.
まずい箇所を「伏せ字」という「白抜き」にしたから,読者はまわりの活字数を数えて,ことばの穴埋めパズルを楽しんだというはなしが残っている.

また,前線に駐留する部隊の兵士は,軍内郵便で家族と連絡していて,これも検閲の対象ではあったから,家族内での暗号がつかわれたという.しかし,これは、組織にいる人間が,たとえ家族でも秘密漏洩はこまるから,業務用電子メールは会社が勝手に読めるのと同じ理屈で,「酷い」ということにはならない.

とはいえ,ミッドウェー海戦を「勝った」と,大本営が発表しても,その後,制海権を失った日本軍から,家族宛の通信が途絶えたから,かなりの数の家族は「異変」を知っていたし,戦友の家族どうして連絡が途絶えたことを確認していたから,政府の発表がおかしいというはなしは,あんがい,誰もがしっていた.ただ,口にしなかったのである.

ところが,占領軍の検閲は巧妙で,伏せ字はいっさいつかわない.
むしろ,偽記事を報道としてどんどん流したから,偽記事しか見聞きできない人びとは,やがてこれを信じるようになるしかない.人間は情報を渇望するからである.
これこそが,情報統制の真の目的であって成果である「洗脳」なのである.

そこで,いまさかんに「報道」されている,日産のゴーン氏の一件について、私見を書いておこうとおもう.

最大の不思議は,逮捕理由である「有価証券報告書」の「虚偽記載」についての詳細な報道が,ほどんどない,ことだ.
それよりも,逮捕理由とは関係ない,彼の年収の多さや生活ぶりを詳細報道している.
つまり,国民の「卑屈な精神」を発揚させて,「金持ちは悪い奴」だというキャンペーンをやっているようにしか感じない.

「卑屈な精神」とは,いやしいこころ,のことだ.
成功した人物を尊敬するのではなく,うらやんで嫉妬したあげくにバッシングする,卑しさ.
これは,かつての共産革命家たちが叫んだ「自分の不幸の原因を他人の成功のせいにする」という,アジテーションにほかならない.

こんなものを「報道」と呼んでいいのか?
疑問におもうだけでなく,たいへんに危険だとおもう.
まさに,ジョージ・オーウェルが書いた全体主義の恐怖「1984年」にある,国民コントロールの手段としての「二分間憎悪」を,この日本でやっているからである.

 

彼の功績と報酬をてんびんにかければ,会社にとっての功績のおもみがまさるのは当然ではないか?
むしろ,その功績が大きすぎたために,いつの間にか「神」あつかいされてしまった.
それがこの「事件」の発端とすれば,彼の人格形成における教育や宗教などの背景はどうだったのか?に興味がわくところだが,いっさい「報道」されない.

おそらく,東洋哲学における「清貧思想」の重要性が前面に出ることを,報道機関の自主検閲で嫌ったからではないか?
それは,ふるい日本人の価値感でもあったからで,現代のかるい日本人に思い出させたくないのだろう.

ポップカルチャーで稼ぐしかない,いまのテレビ・マスコミ界は,すべて新聞社系列でもあるからだ.
各県に一社という「地方紙」体制すら,戦争準備の国家総動員法を発端とするから,いまだにわが国は戦時体制下にある.

 

野口悠紀夫「1940年体制」は,このブログで何度も紹介しているから,ややしつこいかもしれないが,現代を生きるわたしたちに必須の知識をあたえてくれるので,本嫌いなひとにでもお勧めしたい.
左は初版,右は増補版で,最終章が入れ替わっているから,どちらか一冊を読破してから,別の最終章だけを読めば「完璧」である.

さて,日産のゴーン氏の一件にもどろう.
逮捕後の社長による会見や,その後の「会長解任」をきめた取締役会決議などの報道に,フランスからの懐疑的な情報もくわわっている.

これらには,わたしが注目したい,そもそもの「有価証券報告書・虚偽記載」という問題の本質が,どこにもない.
すなわち,「有価証券報告書」という「公文書」で,長年にわたって虚偽が「できた」のはなぜか?である.

監査する公認会計士もそうだが,原案を書くのはふつう経理部だろう.
すると,経理部長はどこまで関与していたのか?
当然だが,取締役会はどこを読んでいたのか?あるいは,全員が読んでいなかった?

なんのことはない,組織的な「犯行」だったのではないか?
そうでなければ,できない.
会長職にあるゴーン氏が「有価証券報告書」をみずから執筆するはずもなく,もしそうだとしても,「虚偽」にだれも気がつかないはずはないだろう.

内部告発で司法取引したとはいえ,社長会見も,解任決議も,「自己保身」というキーワードしか浮かばない.
それに,「推定無罪」という指摘をしたのは,堀江貴文氏のツイッターだけなのも不思議だが,この国では「逮捕=有罪」という,世界常識とかけはなれた常識がある.
もしも(この国なら)万が一,「無罪」判決がでたらどうするのか?

工場の検査不正どころか,経営陣が腐っている,ということに衝撃をおぼえる.
「有罪」が判決として確定するまで,「謹慎処分」が妥当ではないか?
「保身」ゆえの強硬突破だったのだろうか?

「株式会社」の経営者なら,だれでも気がつくことだろうが,だれも口にしない国になっている.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください