過剰スペック高額化のiPad

新型ipadが19日深夜に、こっそりと発表されて話題になっている。

新たに販売されるのは2機種で、最廉価の(無印)iPadと、iPad Proで、日本では26日から発売されるという。

詳しいスペックはアップルのHPをご覧頂ければと思うが、その価格の上がり方に衝撃が走ったのである。
それが、「入門機」ともいえる、(無印)で、4万9800円だったのが、6万8800円~になったのである。

38%の値上げだ。
なので、多くの「記事」には、「約4割の値上げ」と記載されている。

ハイエンド機のiPad Proは、アメリカでの価格は「据え置かれた」けど、日本では「円安」のために、12.9インチが17万2800円~となった。
わたしが愛用している二世代前のが、10万円程度だったから、約7割増しである。

来年には、待望の14インチが出るとの噂があるけれど、はたして購入の決断は、やっぱり現物を見てからだけでなく、懐具合と相談して決めることになるだろう。

ぜんぜん「買い替え需要」にいたってはいないけど、今回の「過剰スペック」と「高価格化」について、例によって穿った見方をしてみようかとおもう。

まず、廉価版の(無印)だが、これは所持したことがない。
初めて購入したのが、中位のiPad Airだったからである。
しかしながら、すぐに12.9インチProの中古を買い増しした。

これには、ちょっとせこい理由があって、アップルペンシルの第一世代が、共通して使えるからであった。

「読書ノートを書く」という遣い勝手がメインなので、Airの画面サイズでは「老眼」に適せずに、強烈な肩こりを発症したからである。
しかしながら、とある出張で、新幹線にての作業中に「システムが落ちる」という致命的な問題が起きてしまった。

そこで、しぶしぶ型落ち(といっても最新といえなくもない)のProを購入し、しかもWi-Fiモデルではなくて、セルラーモデルにして、「SIM契約」までした。

おカネをかければ快適になる、というのは、その通りである。

アップル信者とかの話は、たいがいが「若いひと」の感想なので、iPad Proの12.9インチを使うというのは、もっぱらデザイナーとかのクリエーターが職場で使うもので、重くて大きいから持ち運びなんかしないことを前提にしていることがおおいという不満がある。

これは、わたしが想定している使い方とはまったくちがう。

老眼のロートルには、この大きさが必須であるから、重いのは我慢の対象なのである。
もちろん、長文を作成したいときにどうするか?の問題は、過去に書いたように、アップルのマシンでは困る。

M1Macに「WZエディター」をいれて、下書き環境はできたが、「納品環境」としての「Word」はWindowsマシンに依存している。
「文字フォント」がちがうためである。
しかも、MacBook Airは、ぜんぜん「Air」というほど軽くない。

だから、もっと「重い」MacBook Proを喫茶店に持ち込んでいるひとからしたら、iPad Pro 12.9インチなんて「軽い」だろうに、と思うのである。

とはいえ、iPad Airもお蔵入りしたのではない。
特に、紙の書籍を非破壊撮影してPDF化(同時にOCRも)するときの、撮影マシンになる。
これを、12.9インチでやるのは、やっぱり重い。

アップル社はメーカーでありながらソフトウェア開発会社でもある、いまどき珍しいビジネス・モデルで、自社製の「CPU」開発にも成功した。
それが、主力の「MacBook」のみならず、iPadにも搭載したから、その「高速化」にファンはワクワクしたのだった。

しかし、パソコンならまだしも、ipadはあくまでもタブレットなので、ipad用のアプリが、「M1チップ」のネイティブではなかったので、ぜんぜん高速化の効果は体感できないという。

むしろ、「内蔵メモリ」の増大の方に効果がある。

そんなわけで、自社開発した自慢のCPUをなにがなんでも搭載しないと、「ハイエンド」にならない、という製品ラインナップの矛盾が問題になってしまったのである。

それで、最廉価の(無印)iPadにも、ついこないだまでのハイエンドマシンが搭載していたチップを採用することになったのである。
だから、ふるくからのユーザーにしてみたら、なんだか選択肢の範囲が「縮んだ」ようにみえる。

ところが、最廉価の最廉価たるゆえんは、画面の構造とリフレッシュレート、それにメモリの少なさとアップルペンシルの第一世代しか使えないことが「残っている」のだ。
これでまだ、ライトニング方式が残った唯一の機種となったことでもある。

とくに、文字を書く、というニーズの場合には画面の構造が決定的に遣い勝手に影響する。
これが当たり前なので、おおくのレビュアーは、アップルペンシルの第一世代が残ったことにブーイングの声を挙げている。

けれども、「書く」という行為でかんがえたときに、アップルペンシルのオリジナルが「細身」のために、シリコン製のカバーで「太軸化」できるのだ。
これが、マグネット式の充電をやる第二世代のペンではできない。

そんなわけで、わたしは画面の構造で、Air以上を選ぶものの、アップルペンシルの世代にはあまり興味がない。
確かに第二世代のペンの便利さはあるけれど、「決定的」ではない。

結論をいえば、タブレットPCなら、残念ながら、iPad Pro 12.9インチの過去モデルが、わたしには「最高」なのであって、しかも他のメーカーとは比較にならない。

この「一人勝ち」が、アップル社をして、「進化」の罠にはまった、といえるのだろう。

円の3割安は信用崩壊なのか?

昨年末に115円/ドルだったのに、いまは150円/ドルの状況になってきた。
つまり、1年もしないで3割も円は下落したのである。

たとえば、韓国ウォンの下落といって騒ぐけれど、昨年末の終値、1,187.9600/ドルが、18日の終値で、1,425.0200/ドルだから、ほぼ2割の下落にすぎない。
これを対円でみると、昨年末の終値、0.0969/円が、18日の終値で、0.1047/円なので、約1割の下落でしかない。

つまり、韓国ウォンの下落を心配するよりも、日本円の下落の方がよほど深刻なのだ。
それで、円については、他の通過でみても、たとえば、発足したばかりの政権がとうとうコケた「大暴落」の英ポンドに対しても、エネルギー危機のユーロに対しても、「全面安」なのである。

つまり、円の「ひとり負け」状態なのである。

にもかかわらず、韓国経済の崩壊とか何とかというのは、日本の危機をごまかす策略なのか?と疑いたくなる。
気分として、反日の韓国を懲らしめてやりたい、というのはあるのだろうが、事実にもとづかないばかりか、日本の状況を隠そうとする方がよほど反日なのである。

国際政治学者の藤井厳喜氏は、50年間にわたる「円高の時代の終焉」と主張している。

これは、文明論的な視点からだし、ときどき間違えるアメリカの世界戦略の方向転換が背景にあることの結論なのだ。
また、経済学者の野口悠紀雄教授は、9年前のユーチューブ番組で、120円/ドルがひとつの目安と解説している。

この水準を突破した円安になると、日本経済は危険水域に突入すると指摘した。
もちろん、ネット上では「嘘をつけ」という非難囂々もあったけど、教授の丁寧な説明が理解できないひとたちの感情論であるし、また、意図的な誹謗中傷でもあったろう。

このときから、8年が過ぎた、いまから8ヶ月前、やはり教授は「おなじ説明」を、『ABEMAニュース』で発言している。
しかも、「経済学の基本が崩壊している」という指摘は、「業界」に対する勇気ある発言として注目したい。

いま、「名誉教活」たちが「現役」に渇を入れているけど、役人が仕切る、研究費削減がなにより恐ろしいので、見て見ぬ振りをしているのである。

それもあって、政治学と経済学という、ちがった目線からの「分析」が、おなじ「頂点」を示しているのである。

ちなみにわたしは、「政治学」を学問として「わからないもの」として認識している。
社会科学といえるのか?が怪しいからである。

なので、「人文科学」として、もっといえば「哲学」の分野に位置づけた方がよほどすっきりする。
これは、リベラルアーツの観点からのはなしだ。

さて、野口悠紀雄教授は、いわずと知れた「元大蔵官僚」である。

しかしながら、東京大学工学部応用物理学科卒にして修士課程途中で、大蔵省に入ったひとだ。
この点で、いまや「論客」として有名になった、高橋洋一教授(東京大学理学部数学科卒・経済学科卒)と似ている。

要は、本来が「理系」なのだ。

一方で、大蔵省の「王道」は、法学部出身者(文系)だと何度も書いてきた。
今をときめく「財務官」の、神田眞人氏は、法学部から入省して英国オックスフォード大に官費留学し、「経済学修士」となった経歴だ。

日銀の黒田総裁も、「財務官」だった。
けれども、黒田氏は、もっぱら「法律」の専門家で、国際金融と主税畑だったのは「人事」によるところ大ではないかとおもわれる。

もちろん、官僚と学者はちがう。

企業でも、企業内官僚と学者はちがうものだけど、民間であろうが官僚は、実務と学問的知識の「バランス」が求められるのだ。
すなわち、学問的知識が基礎にあって「実務」を構築する。

ただし、官僚にはかならず「上役」としての、政治家や経営者がいるので、このひとたちの「意向」が、先に「結論」となるのである。
なので「優秀な官僚」とは、このひとたちの「扱い方」に長けたひとをいう。

官僚の発案をいかに「通すか?」という目先の問題に長ければ、「優秀」なのである。
だから究極的に、「中身」は関係ない。

一方で、学者は業界内での作法である、「論文」を生産しないといけなくて、さらにこの生産物が、他の業界人から「多数回」引用されることがないと生きていけない。

この「引用回数」という指標をつかっているのが、ノーベル賞に至る道なのである。
だから、論文は「英語」で書かないといけない。

鈴木梅太郎が、世界で最初に「ビタミン」を発見した、という「伝説」は、日本語の論文を根拠にしている。
しかしながら、白人社会はこれを認めず、ポーランド人をビタミン発見者として「歴史」にしている。

何語であろうが「中身」が問われる、という世界ではないことが、学者業界の落とし穴なのだ。

そんなわけで、金融業界という俗人社会は、もっとも単純に「儲かることしかしない」という原則に貫かれていて、そこに「あるべき論」は存在しない。

それがどんなに「汚くても」だ。
この意味には、ハイエナやハゲタカのように、スカベンジャーとしての「掃除役」もしている、がある。

その「スカベンジャー:Scavenger」の原義とは、「税関長」なのである。

なるほど、いまや大蔵省から名を変えた財務省とは、日本経済を屍肉にして、ハイエナたちに与える役目を負っているのである。
それはまた、日本国民の生活破壊、という意味である。

円が信用崩壊を起こしている可能性が高いのは、野口教授がいうところの「円安=麻薬」を、大量の赤字国債で賄ってきた構造にある。
麻薬中毒者に無料で麻薬を与えて、犯罪を犯させないのは、スイスがやった手法であった。
そして、市民に迷惑をかけずに死んでくれ、と。

いま、これを日本経済が世界からやられているのである。

J・バイデンに「恥」はない

連邦上院議員を長年つとめて、なかでも「最重要」な外交委員会の委員長まで経験したひとが、どうしてこんな短期で「失敗」どころか「失態」を演じているのか?

マスコミは、「バイデン氏のメンツ丸つぶれ」と書くが、そもそもこのひとに「メンツ」という概念があるのか?からして疑わしい。
わたしは、このひとは「現状破壊の確信犯」だとおもうからである。
つまり、「計画どおり」なのだ。

しかも、この「計画」は、かなり「綿密」だとおもわれる。
決して、行き当たりばったりではない。
でないと、そもそも就任初日にやった50本以上の「大統領令」による、いまの経済破壊の種まきの「成果」がでていることの説明がつかない。

では、誰が計画しているのか?
これが、「不明」なのである。
すくなくとも、バイデン本人の立案とはおもえない。
ここが、まったくの「常識はずれ」なのである。

これまでの「常識」ならば、選挙で選ばれる政治家は、かならず国民のための政治をするものだとおもいこんでいるものだ。
しかし、彼はまったくちがう。

彼は、アメリカだけでなく世界経済を縮小させて、とにかく貧しくさせて、あげくの果てに「富豪による共産化」の実現に走っているのだ。
そして、「同盟国」の政治家はみな、このひとに従っている。

英国のように、まさかの「減税」を打ち出したら、たちまちにして「マーケットを介して」これを阻止し、なお、担当大臣の解任にまで至らしめた。
この「マーケット」とは、リーマン・ショックをやった「マーケット」だとかんがえる。

わたしの経験からいえば、リーマン・ショックの1年4ヶ月前には、「サブプライム問題」が話題になっていた。
最初は笑い話だった記憶がある。
しかし、だんだんと時間がたつにつれて「雪だるま」のように、疑心暗鬼が膨らんだ。

マーケットに参加する「金融エリート」は、たいがいが「金融工学」とか、「MBA」を修めているけど、これらは、流派がすくないあんがいと「一本調子」なのである。

それで、学校を出てからも「横の連絡」はしっかりとっていて、なお、見聞きする情報、たとえば、「専門誌」もおなじであった。
これは、「寄らば大樹の蔭」こそが、「利益」になるからである。

めったに、抜け駆け、一人勝ちはできない。
世界が、電子的な情報網でつながっているからである。

こうして、全員がサブプライム・ローンに疑いがないばかりか、その保険商品というデリバティブのCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)が世界を牽引する金融機関に売れたのだった。

しかし、これらは、「巨大な詐欺商品」であった。

リーマン・ショックとは、単なる事象なのであって、個体のマントルが減圧して液体のマグマに変化して、これが地上に出てくる「火山噴火」に似て、問題は見えない「深部」が、同じ穴のムジナであることなのだ。

しかも、このひとたちは「懲りない」のだ。
その思想背景に、いまだけ、カネだけ、自分だけ、で統一されているからだ。

よって、英国政府すら敵にしても、完全勝利になるのである。

けれども、なぜにトラス女史が党首選挙中に公約した「減税」が、実行するやいなや「ポンド」と「国債」の暴落になったのか?
これは、近年ではトランプ氏の政策だったし、それ以前なら、サッチャー・レーガン時代のやり方だった。

つまり、増税はよいが、減税は禁じ手だということの「デモ」ではないのか?

中東産油国をロシアと組ませるように仕組んでおきながら、減産に「幻滅した」と発言したバイデンは、内心、「よっしゃ!」とおもっていたのではないか?

コントロール不能の、世界スタグフレーション。
これが彼の狙いだろうからである。

OPECが、石油価格カルテルとして、石油価格の決定権を維持してきたのに、ロシア制裁といってG7が価格上限を設けたことは、OPECに対する挑戦だという言い分は、今回の「減産」が、世界需要減という事実をもとにした「正論」で貫いた。

サウジアラビアの来年度国家予算における、想定価格は、なんと64ドルほどだ。
サウジは、今回の減産をしてなお、石油がダブついて安くなると想定している。

つまり、石油製品の製造が、世界で停滞すると予想しているのだ。

これは、SDGsなる「共産思想」からではなくて、単純に「世界不況」という意味である。
それでも、SDGsをいうひとたちには、「歓迎」すべきことになるのは、その本質が「貧困による共産化への道」だからだ。

さては、ベーシックインカムが次の話題になる。
「働かざる者食うべからず」というオリジナルの共産主義はすっ飛んだ。
ゆえに、現在のは「共産主義2.0」と呼んでいい。

そんなわけで、バイデン政権の邪悪は、かつての「恥」を「誇り」に変えるほどのインパクトがある。
ボケ老人を装いながら、しっかりと世界秩序破壊の仕事をしている。

わが国も、自公連立政権が、率先してやっている。
すくなくとも「減税」はない。

「ゼロCHINA」の損得勘定

かつての「満蒙開拓団」の悲惨が、現代の「ゼロCHINA」論になってきた。

ずっと、中国投資を煽っていたわが国を代表する「経済紙」を自称する、プロパガンダ紙は、中国からの輸入停止で「53兆円消失」と恐怖を煽っている。

ついでに、中国から別の地域からの調達に切りかえるにも、年間で13兆円のコスト増になると、脅迫しているのである。
「しかし」と、アップルとかダイキンとかの「中国離れ政策」についても言及して、あとは「読者=経営者の判断」と逃げている。

つまるところ、「リスク管理」のはなしなのだ。

「管理」と書くが、正しくは「コントロール」のことである。
多くの日本企業の経営者は、自己判断力が劣化して鈍っている「偏差値エリート」という木偶の坊が多数となったので、「コントロール」を放棄して、「リスク回避」を志向する。

しかしながら、「リスク」はまた、「利益率」をも意味するので、「回避」ばかりしていると、「利益率」もゼロに接近するのだ。
そうやって、日本企業の利益率が消失したので、「53兆円」どころのはなしではないはずだ。

これを計算した、早稲田大学の先生には、悪気はないだろうから、プロパガンダ紙に「切り取り報道された」ということだとかんがえる。

さてそれで、「リスク・コントロール」のはなしである。

まずは、どうやってコントロールするか?の前に、自社は何がしたいのか?を確認する必要がある。
あんがいと、日本企業はこの「確認」を端折る傾向がある。
「いまさら」というわけだ。

しかし、「常に動いている」のが、「経営環境」というものだから、「常に確認する」ということは、基本中の基本だ。
犬すらも、自身の群れの中の順位を、常に確認しているのであって、常にあわよくば上位を狙っているのである。

つまり、「いまさら」という企業は、犬以下の行動をしていることになる。
上位を狙うなんてできっこない。
いまの業界(群れ)の安定すらないではないか?と。

これで、本気で国際競争のなかで生き残れるとかんがえていたら、はやく「廃業」した方がいい。
従業員の生活や取引先に迷惑をかけずに、計画的に清算するのが、せめてもの経営責任というものだ。

リスク・コントロールの次の手順には、現状把握がある。
自社はこうしたいけど、それで実際はどうなっている?ということだ。
それではじめて、したいことと現実のギャップを確認するのである。

このギャップの「埋め方」のシナリオ作りが、リスク・コントロールの中心部分で、それが「計画」だから、出来上がった計画の複数案から「チョイス」して「実行」するという手順になることは、業界を問わない。

つまり、記事から、アップルやダイキンはこれを愚直にやっている、と読めるのである。
そうでない企業は、トップが犬にも劣るので、組織をあげて「(主君)押込め」をするのが、鎌倉以来の日本的伝統なのである。

さてそうはいっても、というのは、一企業レベルではどうにもならない、たとえば「国家レベル」でのリスク・コントロールが問題になる。
すると、なんのための業界団体なのか?とか、商工会なのか?とかになるのだけれど、これがまた木偶の坊が多数なので動かない。

それでもって、総じて自民党を支持してしまっているから、先見性があるひとほど無力感と絶望感に苛まれることになっている。

そこで、目先を変えてみると、宗主国たるアメリカで、パトリック・J・ブキャナン氏(84歳)の言動がいま注目されている。

このひとは、ニクソンやフォード、レーガンといった歴代大統領のシニア・アドバイザーだったけど、1992年と96年には、自身が大統領選に共和党から立候補もしている「保守」の大物論客でも有名なのだ。

何度も書くが、アメリカで「保守」という概念が生まれたのは、あんがいと新しくて、その原因が民主党の共産化だったのである。
アメリカの「保守」とは、「建国の理念」を守るひとたちのことをいう。

彼が指摘したのは、アメリカの戦略の3つの失敗について、歯に衣着せずにハッキリと言い切ったことで話題になっている。
・ソ連崩壊後のロシア政策の失敗(ロシアをあくまでも敵視したこと)
・中国政策の失敗(経済発展が民主化を促すという幻想)
・中東政策の失敗(エネルギー同盟の崩壊)

著作家として、多数の出版をしているけれど、「日本語」になっているのは、次の二冊である。
『病むアメリカ、滅びゆく西洋』は2002年。
『超大国の自殺――アメリカは、二〇二五年まで生き延びるか?』は2012年。

 

さてそれで、「CHINA」とは何者か?といえば、「国家ではない」ことを意識しないといけない。
いまの「CHINA」とは、「中国共産党」のことである。
この党が、国家を支配しているからだ。

その内部での「抗争」は、習派と江派の死闘になっている。
ブキャナン氏が指摘したのは、鄧小平⇒江派という流れでの、民主党による利権政治と「Republican In Name Only」のブッシュ家からの失敗だ。

「フランケンシュタイン」を作ってしまったのだ。

すると、「ゼロCHINA」とは、ただの損得勘定で表現はできない。
こんどは、こちら側が「襲われる」立場になったからである。
どうやって、フランケンシュタインを倒すのか?が、最大のリスク・コントロールになったのである。

「ガラパゴス化」していてよかった

日本が世界(欧米)と「ちがう」ことが、「遅れている」と発想することの間違いがハッキリしてきた。

むしろ、その「ちがい」は、「日本文明」が「先進」のゆえのことだったか、あるいは、「異なる文明」としての特徴が残っていることだから、ぜんぜん卑下することではない。

けれども、「明治維新」そのものが、当時の「欧州列強」による植民地化の「カモフラージュ」として利用されたものだったので、「維新政府」はこれを隠すための行動をする勢力と、日本文明を活かす勢力とに「分裂」したのである。

これが、当時の支配層だった武士たちが起こした「反乱」で、主に九州で盛んだったのは、外国勢力に「近い」からである。
だから、単なるノスタルジーでの反乱ではない。
最終戦が、「西南戦争」であった。

わたしが注目したいのは、「維新の元勲」を輩出した「長州」である。
そもそも、「当時」長州という呼び名はなく、「萩藩」、「長藩」と呼んでいたのだった。

なんだか、「大東亜戦争」を、戦後になって「太平洋戦争」と呼ばされることになって、大東亜戦争が「禁句(タブー)」になったのと似ている。
「長州」と主張する、ウィキペディアが、信用ならないことの証左でもある。

それで、萩藩では、西南戦争の1年前に「萩の乱」が起きている。

維新の元勲たちにとっては、郷土の「元上司や同僚たち」の反乱で、それでか実質「皆殺し」にしたことが隠されている。

ここにも、「勝てば官軍」の論理があって、郷土愛にあふれる現代萩人たちが、どうして林芳正氏とか、その前までの河村建夫氏とかの、媚中・媚韓の人物を「保守」として選出するのかがわからない。

この意味で、山口県は、故安倍晋三氏と岸信夫氏の兄弟に対して、林氏がいるから、「真っ二つ」の政治風土がいまも続いている。
ちなみに、おそらく年内か年明けぐらいに、安倍晋三氏の「補欠選挙」があるはずだけど、誰が立候補するのだろうか?

さてそれで、初代首相になった伊藤博文は、萩藩の下級武士ではなくて、「撫育(ぶいく)局」という、藩主直属の「少数精鋭秘匿部署」にいて、幕府には絶対内緒の「裏金の運用」をやっていた。

「松下村塾」は、「表」の「藩校」という「普通科」ではなく、撫育局員たちのための「陸軍中野学校」のような存在だった。
なので、撫育局員たちと、「表」の武士団との交流はぜんぜんなかったという。

伊藤ら「長州5(ファイブ)」たちは、極貧の「表財政」から受けた、英国留学資金を出発前に一晩で飲み明かし、「撫育局」からの十倍もの資金でもってロンドンに渡った。

そうやって、シティでの国際金融を学んだのである。

帰国した伊藤は、新政府の「大蔵省」に入ったけれど、最初から「局長」待遇であった。
それで、彼はまっ先に「特別会計」つまり「裏金づくり」をやって、いまに至っている。

現代日本国民も、伊藤博文のつくった「裏金」をしらないで生きているので、「萩藩の表側」とおなじ立場にいる。
これで、もし国民が反乱を起こしたなら、それは「第二次萩の乱」と呼んでもいい。

ただし、皆殺しの目にあう可能性が高い、ということだ。

さて、そんなチャッカリ者の伊藤ではあるけれど、欧州の「小切手」と、江戸時代の商人が発明した、「為替」との「ちがい」をどうするか?に悩んだにちがいない。

小国が乱立する欧州は、各国が独自通貨を発行していたから、日帰りすら可能な近隣との取り引きには、ユダヤ人が経営する「銀行」が発行する「小切手」をつかわないと「決済」できなかった。

だから、商人も一般人も、いまだに銀行の口座開設とは、「当座預金」のことをいう。
対して、わが国の一般人で当座口座をつくるひとは珍しく、「普通預金」がふつうだという「ちがい」が、彼らと決定的なちがいになるのである。

詐欺と掠奪がふつうな社会なので、現金を持ち歩く危険は、命の危険に直結する。
これは、いまもまったくおなじなのである。

一方で、日本文明は、中央政府たる幕府が通貨発行権を持っていたので、流通する通貨が、東西で「金と銀」というちがいはあったけど、通貨単位は統一されていた。

それで、「為替」が発明されて、いまでも「郵便為替」だって残っている。
「現金書留」よりも、よっぽど安全な送金方法だ。

外国との交易で、港には「国際銀行」が必須になったのは、「小切手」取り扱いのためであったともいえる。
しかし、国内で一般の日本人をあいてにするなら、「為替」で間に合う。

小切手がプラスチック・カードになったのが、欧米人がもつクレジットカードで、おなじデザインでもわれわれ日本人がもっているクレジットカードは、為替がプラスチック・カードになったのである。

見た目がおなじでも、仕組みがちがう。

欧米人がクレジットカードをつかうと、自身の当座預金からの引き出しとなって、われわれがクレジットカードをつかうのとは意味がちがう。
「信用」が減るのである。

それで、欧米人は生活消費のためにある、普通口座から引き落とされる「デビットカード」を重宝する。
われわれ日本人に、ポイントが付与されないデビットカードの便利さが「ピンとこない」のは、このためだ。

けれども、あたかも電子マネー的な決済が、なんだか「先進的」という勘違いを頭の軽い政治家とか役人が信じ込んでいて、現金をつかうことを「遅れている」と定義した。

「ポイント付与」しかインセンティブがないから、県単位とかで割引ポイント制度を実施して、現金派を差別する「憲法違反」を実施している。
悔しかったら、スマホ決済にしろ、という行政命令に飛びつくのは、これも「乞食化」の一環なのである。

それでも動じない日本国民は、「貨幣の匿名性」という便利さの本質をしっている文明人なのである。

嘘に嘘で答えていたら

自分がいっていることが、自分でわからなくなってしまう。
なぜなら、「嘘」と「本当」の、「区別」がつかなくなるからである。

そのために、人間社会では、「嘘」は嫌われて、いつでも本当のことをいうようにしなさい、と躾けられるのである。
だから、「嘘」と「方便」はちがうのだけれども、おとなになると「方便」と「嘘」の区別が曖昧になるものだ。

ところで、これは言語の世界での話である。
人間が高度な文明社会を築けるのは、「言語」を介した「情報交換」が高度に発達したからである。

パスカルの一言、「人間は考える葦である」は、「考える動物」としての人間の価値を示したものだが、人間は言語(基本的に母語)をもって「考える」から、言葉を失うと思考も止まる。

すると、「言葉の乱れ」とは、すなわち「思考の乱れ」になるのは、当然すぎる。
この原則を心得ていて、悪意があってひとびとの思考の乱れを利用したければ、まずは「言葉の乱れ」を誘発させることが必要なのである。

戦後間もなくの、たとえば、小津安二郎監督の名作映画の数々に残る、日常生活での何気ない「会話」も、いまこれを再現したら、とんだコメディになりかねない。

けれども、演じる俳優よりも、台本を当時の話し言葉で書けるひとが絶滅したにちがいない。

わたしにはまだ、耳の記憶があるけれど、もう50歳ぐらいのひとたちには、これらの会話での日本語の「懐かしさ」はなくて、なんともまどろっこしい話し方に聞こえるかもしれない。
もっと若ければ、なおさらだ。

国語の授業で、「敬語の使い方」が、すっかり「テストの点数」をとるためのテクニックになったのは、敬語をつかう「場の消失」が先にある。
社会的「上下関係」が、「主従関係」だった長い時間で完成したのが「敬語」なので、「平等関係」になったとたんに「破綻」したのである。

こうしてみると、たった半世紀あまりで、日本文化の「核心」は破壊されたことがわかる。
しかし、たった半世紀あまりとはいえ、意図的にかつ、それなりの時間をかけてだったから、一般生活者はこの「犯罪」に気づかないのである。

それでもって、外国人、とくに白人を招いて日本料理を食べさせたり、日本の伝統文化を学ばせる「番組」や「動画」がたくさん配信されているけど、彼らが感心する「日本は伝統と近代が共存している」という共通の褒め言葉に、単細胞的に自慢して気持ちよくなってはいけないのである。

それよりむしろ、彼らが「学びたい」、「体験したい」という要望の方が、よほど「珍しい」ことに注意がいる。
現代日本人の多くが、すっかり忘れ去った伝統工芸の存在を、外国人から教えてもらっているからである。

誤解をおそれずに書けば、「お上」の権威が大好きな日本人の習性を、ある意味「悪用」したのが、「伝統工芸士」という国家資格であるし、「伝統的工芸品」という国家認定制度である。

伝統的工芸品を製作する「職人」に、階級をつくり、伝統的工芸品という「枠」を設けたのだ。
これらの「価値」は、本来、消費者が決めるものである。
それが、「自由競争」というものだ。

なので、国が作るこれらの「制度」は、自由競争に対する国家の介入である。
そうやって、当事者たちを「おだてながら」じつは、衰退させている。
「褒め殺し」ということだ。

それで、地方に行けば行くほど、行政やらが介入して、地場の伝統的工芸品や名産品を「販売」する店舗まで提供していて、その店舗の運営者を「指定業者」として競争入札までしている。

しかし、「製造組合」や「商工会」がこれをやっていることもあって、その店舗の雰囲気は、まったく旧社会主義国のあの時代の雰囲気を残す、化石のような店舗にある「やる気のなさ」が充満している。

わたしは、ウラジオストクの食品売店と、ブルガリアの首都ソフィアの百貨店「グム」で経験した。
ただし、「グム」は、宮殿のような建物に、わずか数店舗しか入居していないただの「空間」という不思議があった。

日本でも、店員のパートさんに商品知識はほとんどないため、学校のバザーが常設されているようなものだ。
自分が何を売っているのか?に興味もない店員さんをみるにつけ、かつて「勤勉」といわれたことが、かくも壊れるのかと確認するのである。

もちろん、本人たちの「せい」よりも、これをやらせる側の「不誠実」こそが問題だけど、それもこれもなによりも「嘘に嘘で答えていたら」こうなったまで、なのである。

つまりは、「やっている感」を出せば、やっていることになる、という嘘をいう。

それで、大半ではない、一部のひとが「その嘘を信じる」風情を演じて、表面をもって「クレーム」をつけるので、「お客様は神様」だという嘘の上塗りで、「クレーム予防」のための「嘘」を考案したら、クレームが減ったので「よし」としているのである。

ところが、大半のひとたちは「なにもいわない」から、結局のところこの大半のひとたちが、無言の「被害者」になったのである。

日本人は、ヒトラーが政権をとった「経緯(いきさつ)」を学ぶべき点が、ここにある。
大半のひとたちの「無関心」が、一部のひとたちの熱狂に負けたのだ。

選挙にいかない日本人が半数いることで、与党が政権を維持できていることとは、まさにこのときのドイツ人とおなじなのである。

パロってる「宇宙大統領」

CMの作成には、そんなにも!というほど、さまざまなひとが関わるので、たかが30秒の「作品」であろうが、とんでもない時間と労力すなわち「おカネ」がかかっている。

企業の宣伝部という部署は、この意味で莫大な予算を手にしている。
なので、「発注者」として「受注者たち」には、絶大な権限があることになるので、なんだか「偉く」なったような気がするものだ。

もちろん、「気がするだけ」なのだけど、たまに「自分が偉い」と勘違いして失敗する人物が登場するのは、なんとも「マンガ」のようで、これはこれで上司の指導がなっていないことの「犠牲者」ともいえる。

消費者からしたら、自分が当該商品の購入をしたからできる「CM製作」だから、なにも宣伝部という部署のひとに気を遣うことはないけれど、宣伝部という部署のひとが消費者をどこまで気遣っているのか?は、消費者にはわからない。

それが典型は、「CM大賞」とか「広告大賞」という「賞」を、「受注者たち」が作って、「発注者」を表彰することだ。
ここに、「消費者」は関与しない。

もちろん、大賞受賞作だからといって、当該商品が売れたとは限らない。
多くは、「話題性」とかで、これを、「専門家」たる「審査委員」たちが選ぶことになっている。

そういえば、「プロが選ぶ宿」とかなんとかいう「賞」もあるけど、受賞した宿だからといって「宿泊客が良い」と評価するものでもないから、「CM大賞」と似ているのである。

ビデオテープでの録画を自宅でやるようになったら、「自動CM飛ばし機能」というものがついた。
テープの長さを「節約」するためだったかと思うけど、「テレビのCM」がないテレビ放送を観ていると、物足りなさがあったものだ。

年数が経つとなおさらで、あんがいとCMが「本編」よりも「世相」を語るものだと気づくのである。

そんなわけで、企業宣伝部といえば有名なのは「サントリー」さんだ。

日本人には違和感のない「缶コーヒー」だが、外国人には「コーヒーの缶詰」が手軽に自動販売機で買えることの珍しさは、日本に来ないとわからない「ジャパニーズ・カルチャー」なのである。

念のために、上の文でいいたい「珍しい」のは、三つ。
・コーヒーの缶詰(外国語で「缶コーヒー」という表現はない)
・現金投入の自動販売機(日常的に、商品と現金が狙われる)
・これがセットになった、珍しさ、である。

さてそれで、中島みゆきが演じるのは、「宇宙大統領」だ。

唐突に彼女が押したのは、「働くのを禁止するボタン」であった。
これはまったくの「驚き」だ。
なぜなら、あの「世界経済フォーラム:ダボス会議」が掲げる「アジェンダ」が、まさに「これ」だからである。

そして、労働禁止に従った者には、「ベーシック・インカム」を与える。
最終的には、すべてのひとはなにも持たない幸せ、を体験することになると宣言している。

なにも所有しなくて良い。

必要品は、世界政府がドローンで配達してくれる。
家も、衣服も、ぜんぶ世界政府が供給してくれるから、所有する必要がないのだ。

もちろん「世界政府」はエリートたちによって運営されるけれど、A.I.の活用で驚くほど効率がよいから、エリートの必要人員数はわずかでよい。
北欧で一部はじまったように、腕などにチップを埋めこむので、すべての生活記録が保存されるのである。

これを子供のころにやれば、一生の記録がとれる。
これを、「便利だ」と宣伝している。

なので、商店にはレジがない。
本人が欲しいと思った商品は、そのまま持ちだして良い。
本人の身体の中にあるチップが、自動精算しているからだ。
けれども、そのときの商店がどんな品揃えかはしらない。

公共交通機関しかり。
もちろん、「自家用車」という概念はなく「シェアリング」で自動運転車だ。
しかし、本人に設定されたグレードによって、「行き先」はコントロールされる。

ただし、本人には情報もコントロールされるから、自分が行ける場所が制限されていることに気づかないのだ。
生まれてこの方、しっている地図の他に、多の地域があることを教えなければ、不満になることもない。

一部の支配者による、人類奴隷化計画は、決して陰謀論ではない。
なぜなら、ちゃんとHPに掲載している「公開情報」なのである。

そんなわけで、調査員ジョーンズは、宇宙大統領が居眠りしているあいだに、「禁止ボタンを解除」した。
すると、みるみるうちに人々は一斉に働きだして、「働くことの歓び」を実感する。

ナレーションは、「宇宙大統領はもうこの星には二度と来ない」。

これはまったくの、「アンチ」なのだ。

サントリーさんは、潰されないだろうか?と心配になる。
あちらの手先は、驚くほどの「世界大手」ばかりだ。
たとえば、「ネ◯レ」とかなんとか。

ならば、このメッセージに、消費者としても呼応しないといけない。
なるべく、サントリーの商品を買うことにしよう。

そういえば、「予想通り」ではあるけれど、とうとう英国新政権が、「減税策」を取り下げるまでに追いつめられたのも、決して「陰謀論」ではない、「陰謀」なのである。

この決定打ともいえるのが、『ビルダーバーグ倶楽部』(バジリコ、2006年)だ。
作者は、暗殺されかけた、という実績もあるひとだ。

もはや入手困難。
しかし16年前の分析を、いま読むと、現実の「計画」として、そら恐ろしいことが準備されていたことがよくわかるのである。

図書館を利用されるべし。

懐かしの『借王シャッキング』

1997年(平成9年)から2002年(平成14年)にかけて日活が製作したドラマのタイトルである。
原作は、リイド・コミックで連載されていた、平井りゅうじ・土山しげるの漫画作品だった。

いわゆる、「バブル後」の混乱期が背景にある。
それは、「昭和的」高度成長の残滓(ざんし:残りかす)であって、「借金」に対する警戒と、「貯蓄」に対する正義のことだ。

稼いだおカネをせっせと貯める。
これぞ、人生設計の王道だったのである。
そうやって、最初の大型支出は、住宅ローンの「頭金」で、まずは「マイホーム」を手にいれて、現役時代を通じて返済する。

これが「苦」ではなかったのは、インフレのおかげで、時間とともに返済額の「重み」も減ったのだった。
それがまた、ローンを返済しながら貯蓄ができた理由でもあるし、その貯蓄とは、教育ローンや生命保険などに形を変えたものだった。

これが、「借金も資産のうち」といわれた理由である。

ところが、デフレの時代になって、時間とともに返済額の重みが増えた。
一方で、低金利が背中を押して、住宅購入の意欲は衰えなかった。
それでも、「頭金」を貯めないと厳しいことに変わりはない。

こうして、「アベノミクス」がやった唯一の「効果」である、日本株の上昇が、「頭金作り」に貢献したのである。
そのために、日銀に日本株を買わせたのだった。

その方法は、バブルの「反省」で政府から独立させた「新日銀法」を「旧」に戻すぞという「脅し」であった。
このあたりの「凄み」が、安倍氏にはあったから、ずっとむかしから「御殿女中」と揶揄された日銀は、すぐさま「従順さ」を示したのである。

すると、哀川翔が演じる「エリート銀行マン」の「背徳」とは、日銀や2000年(平成12年)に設立された金融庁に対する「背徳」のことではないのか?

彼が重要顧客の預金を「使い込んだ」理由はどうであれ、はたまた、ギャンブルの借金で首が回らない警部補とか、同様に経営に失敗したクラブのママとかという、一種「自業自得」に陥ったひとたちが、あろうことか、「もっと悪徳な輩」を騙してカネを奪い取ることが、「正義」になっているのだ。

つまりこれは、「資本主義」ではない。

世の中には、資本主義批判のドラマだという解釈をするひとが「多数」なのだろうけれど、そんなわけがない。
結論から先にいえば、「経済学史」の大権威・大塚久雄教授が指摘した「前資本」のことなのである。

資本主義成立前の、「中世以前」までの人類社会のことだ。

しかして、全人類が信じている「資本主義」は、本当に「成立したのか?」という大疑問が、この「ドラマ」に一貫しているといってよい。

「私見」だが、わたしは資本主義が成立した「世界で唯一の事例」は、江戸期から第一次大戦までの日本だとかんがえている。
その「論」の、証拠のひとつとして『借王シャッキング』があるとかんがえるのである。

もちろん、産業革命のイギリスも、アメリカでさえも、「資本主義」は一度も成立なんかしていない。
「前資本」のまま、科学技術が爆発的発展をした「だけ」だとかんがえる。

大塚久雄教授がいう、「前資本」の特徴は、
・詐欺
・掠奪
・冒険

これが、「富を生む社会」だ。
だから、「欺すより欺される方が悪い」ということが、むかしからの「常識」なのだ。

しかし、対等な取り引きとして、契約を絶対視する「資本主義」は、詐欺や掠奪を、「犯罪」として認定する社会なのだから、絶対的に許さない。
前資本時代の常識であった「欺すより欺される方が悪い」は、完全否定されないといけないのである。

でも、そうなっていない。
資本主義とは、えらく「道徳的」な社会でないと、成立しないのである。
そんな道徳的な歴史があった国は、世界を見渡すと、江戸期を中心とした日本しかないことに気づくのである。

『借王シャッキング』よりも前、アメリカなら『スティング』があった。
1973年(昭和48年)の「犯罪コメディ映画」で、第46回アカデミー賞作品賞受賞作品なのである。
しかも、合衆国・国立フィルム保存委員会がアメリカ国立フィルム登録簿に2005年(平成17年)に新規登録までしている。

国家が、「犯罪」を「保存」しているのである。

 

なお、イギリスなら、文豪ウイリアム・サマセット・モームの短編『アリとキリギリス』がある。
雑誌『コスモポリタン』に連載されたものを集めた読み切り短編集の一冊のなかにある。

こうしてみると、イギリスにもアメリカにも、資本主義なんてはなからない。
すると、やっぱり「劣化した」のは、第一次大戦から現代までの日本がただ一国「当てはまる」のだ。

おそらく、これからもずっと「劣化」し続けるのである。
そうやって、「欺すより欺される方が悪い」が、常識であり続ける。

さてそれで、一気にコントロール不能のインフレに世界は突入した。
ならば、ここぞとばかりに「借金」をしておくのが、「借金ができるひと」には有利な時代がやってきた。

ただし、自分が住むための「住宅」を買っても、いいことはなさそうだ。

SONY高級イヤホンの残念

ノイズキャンセリング機能の、「BOSE」有線イヤホンを持っているけど、スマホに無線接続のためのレシーバーが劣化してしまった。

そこで、新しいレシーバーを購入するか、それとも無線イヤホンにするかという、相変わらずの困難な選択になった。
別にオーディオ・マニアを自負しているわけでもなく、音へのこだわりはあんまりない。
ただ、ノイズキャンセリングの凄さと便利さが、悩ましい選択になっているのである。

この手の選択で、こだわりのあるひとは、いろいろ「検索」して、「研究」するのだろうけど、なんだか面倒なお年頃になってしまった。
それこそ、中学・高校のころは、マニアックなそれでいて「オタク」ではない友人がいて、両親の豊な財力でもって凄まじい研究と購入体験をしていて、圧倒されたものである。

その後、彼は、公共放送のエンジニアになったから、好きこそものの上手がそのまま「天職」になった。

わが家ではそんな「贅沢」は許されず、ましてや「和室」に置くステレオだから、はなからこだわることには無駄があった。
それでも、「ソノシート」をかけていた、「ポータブル・レコード・プレイヤー」とはレベルがちがう。
そんなこんなの時代に、『ウォークマン』が新発売されたのである。
これによって、「ダブル・ラジカセ」が大人気になった。

レコードから録音したカセットテープを音源に、ふだん遣いのカセットをもう一本作っておきたいからであるし、深夜ラジオをタイマー録音していたのである。
このときの「タイマー」とは、「電源タイマー」のことで、なんとも原始的なことをしていたものだ。
それと同時に、ヘッドホンが必需品になったのは、和室で大音量では家族の迷惑という事情があった。

「CD」が登場したのは、わたしが大学生のころで、CDプレイヤーが高額だったから、LPレコードがまだ主流ではあった。
もはや「CD」すら、よほどのファンでないと買わない時代になったのは、本当に隔世の感がある。

さて、ノイズキャンセリングの便利さは、特に飛行機の機内で実感できたものだ。
10時間を超えるような、長距離の国際線ともなれば、自前のお気に入りヘッドホンを機内で使うことが流行った。
座席のイヤホン・ジャックが、それまでの「特殊形状」でなくなったことが大きい。

別に音楽を聞いていなくとも、ノイズキャンセリング機能をONにすれば、エンジン音の騒音が消えて「静寂」になるのである。
ただし、この機能のために、イヤホンには給電が必要なので、「電池」の大きさから「有線方式」になっていた。
それが昨今の技術で、無線イヤホンでも給電が可能になったから、一気に需要が高まってきたのだろう。

とはいえ、ジェット機の騒音を消し去る実力で、歩行中や自転車での利用は危険だ。
近づいてくる自動車などに気づくのが遅れれば、当然に事故につながる。
高校生が、両耳にイヤホンをつけて加害者となった自転車接触死亡事故では、被害者家族へ億円単位の賠償命令が出ている。

こうした事例を、学校で教えないのかどうか知らないけれど、両耳イヤホンの自転車をよく見かける。

だから、所有している有線のイヤホンの機能を歩きながら使うことはできない。
ところが、最新作は、スマホのGPSと連携して、道路を歩いているならノイズキャンセリング機能を自動的に落とすのだ。

また、自分の声に反応させて、設定した時間内は音楽演奏を停止させるだけでなく、外部の音も取り込むようになっている。
ちょっとした買い物での、店員さんとの会話に支障がないので、その都度装着し直すこともない。

何よりも驚くのは、その音質の良さだ。
しかも、「3D」での再現を可能にしたという「売り」もある。
サンプルを聴けば、「臨場感」が、まるで劇場にいるようだ。

けれども、そうした方式での「コンテンツ」が、驚くほど「少ない」のである。
なんだか「4K」とか「8K」のテレビに似ている。

あたかも、有料のサービスに加入しないといけないようにできているけど、聞きたいものがない。
3ヶ月とか4ヶ月間「無料」ということだけが「救い」なのだ。

もちろん、これからどんどんコンテンツを増やします、ということだろうけど、どうなの?というのが率直な感想だ。

クラッシックファンのわたしとしては、今は亡き「巨匠」たちの名盤をなんとかしてほしい。
あるいは、昔買ったCDを、3D化するコンバーター的機器、もしくはソフトを作ってはくれないものか。
もうあるのかもしれないけど、やっぱりなんだか調べるのが面倒なお年頃になってしまった。
過去の膨大な「遺産」を活かす、という戦略をお願いしますよ「SONY」さん!

そんなわけで、無線接続のためのレシーバーも新規購入した。
3000円だった。

PCが普及すると生産性は?

わが国の生産性がもっとも高かったのは、製造業の場合、1990年から95年にかけてで、「世界一」だった。
残念ながら、サービス業などは世界比較をしてもせんないほどに、「低い」のであるけれど、これは「いま」も変わりがない。

「政府」という、生産性とはおよそ縁のない組織が、民間のサービス業の生産性の「低さ」を日本経済の「お荷物」として大問題にしたけど、業界はその「深刻さ」にまったく対応できているようには見えない。

それで、「専門家」を集めて、いつものように「委員会」をつくって、サービス業に生産性を上げるべく「提言」をつくらせて、「予算」をつけたけど、ぜんぜん「効果がない」という生産性のないことをしている。

これにイラだって、役人の三段階の資格制度である、上級・中級・初級に見合った「人材育成」をやりだしたら、なんと「経営者のレベルも低い」と認定したのである。

そんなこんなで、わたしは、政府のIR誘致とは、異次元のサービス業を輸入して、既存サービス業を駆逐させようという、かつての「エネルギー転換策」とおなじだが、炭鉱における一大労働争議のようにはならない「うまい手」としたのではないか?と自著に書いたことがある。

しかし、邪悪な思想はもっとすさまじい「うまい手」を実行した。
それが、コロナ禍を利用した「サービス産業自滅化」であった。
たしかに、「経営者のレベルが低い」ために、『羊たちの沈黙』のごとく、自らすすんで「屠殺」されている。

これに抵抗したのは、わずか「グローバルダイニング社」のみなのである。

実際に、2018年6月15日には、「骨太の方針2018」が閣議決定されて、翌19年4月より外国人(単純)労働者の25年までに50万人超を目標と定めれて、「経営者のレベルが低い」ために、業界は「人手不足解消」の施策として「歓迎した」のだった。

しかしながら、それで「生産性が格段に向上した」ということは、寡聞にしてしらない。

さて、昨年末に行われた日経BPコンサルティングのアンケートシステムにて、同社保有の調査モニター2319人を対象に「PCの普及調査」を実施した結果が発表されている。
これによると、企業の普及率は90%を超えおり、1000人以上の大企業では97%超になっている。

では、1990年はどうだったのか?
1989年に発売された「東芝ダイナブック」は、最初のノートパソコンだったけど、そのスペックは、標準メモリが「1.5Mb」で内蔵ストレージはなく、フロッピーディスクという仕様だった。

なお、日本で初めてインターネットサービスが開始されたのが、1992年であったから、1990年当時は「パソコンは単体でつかうもの」だった。
1998年(平成10年)になると、「企業」の60%以上がインターネットを利用していると回答しているけれど、なおも40%は使っていないのである。

これは興味深いことで、パソコンの普及と生産性が「負の相関」を示しているのである。

わたしは、上に書いた、サービス業における生産性の低さやパソコンと生産性の負の相関について、「働き方」の問題よりも、「働かせ方」の問題ではないかとかんがえている。

それが、わざわざ政府から指摘されるまでもない「経営者のレベルが低い」ことと関連しているとかんがえるからである。

なお、政府は「政府のレベルが低い」ことを一切無視するばかりか、あろうことか「政府=官僚は、いまだに優秀だ」という、信じがたい思い込みをしているのだが、ここでは触れない。

その「経営者」の話だ。

わが国のサービス業は、ざっくりおおよそ「3タイプ」の経営者がいる。
・創業者と創業家
・外部招聘(外資系ファンドなど)
・社内昇格

創業家が創業者とややちがうのは、創業者の経営理念や経営手法が、どのように「伝わっているか?」あるいは、「伝える努力をしているか?」で異なる。

「老舗」の「家訓」があんがいと合理的なのは、「伝える努力」の方にあたる。
それで、次世代をどうやって一人前にするか?をちゃんとかんがえてやっているかで、将来が決まる。

残念ながら、この「継承」に失敗したり、先代が急死したりして、次世代への引き継ぎと覚悟の訓練がなされていない場合、「倒産・売却」あるいは、「廃業」となる。
なので、「士業」がいう、「事業継承」とは意味がちがう。

こうなって、外部からの経営者になると、主に「外資系ファンド」の場合、経営の専門家をトップに据えることでの「事業再生」となる。
もちろん、不足資金も投入するが、最大のポイントは経営者の交代なのである。

こうやってみると、業界全体で多数、はては影響力があるとみられるのは「大手」だが、その大手企業こそ、「社内昇格」で経営者になるという特徴がわが国の習慣になっている。

海外だと、株主が経営者を外部から招聘するのがふつうなのだ。

これには、わが国に「労働市場がない」という大問題があるために、「できない」という問題もある。

そんなわけで、働かせ方が下手なので、PCの普及と生産性が「負の相関」になっているのだ。