「ガラパゴス化」していてよかった

日本が世界(欧米)と「ちがう」ことが、「遅れている」と発想することの間違いがハッキリしてきた。

むしろ、その「ちがい」は、「日本文明」が「先進」のゆえのことだったか、あるいは、「異なる文明」としての特徴が残っていることだから、ぜんぜん卑下することではない。

けれども、「明治維新」そのものが、当時の「欧州列強」による植民地化の「カモフラージュ」として利用されたものだったので、「維新政府」はこれを隠すための行動をする勢力と、日本文明を活かす勢力とに「分裂」したのである。

これが、当時の支配層だった武士たちが起こした「反乱」で、主に九州で盛んだったのは、外国勢力に「近い」からである。
だから、単なるノスタルジーでの反乱ではない。
最終戦が、「西南戦争」であった。

わたしが注目したいのは、「維新の元勲」を輩出した「長州」である。
そもそも、「当時」長州という呼び名はなく、「萩藩」、「長藩」と呼んでいたのだった。

なんだか、「大東亜戦争」を、戦後になって「太平洋戦争」と呼ばされることになって、大東亜戦争が「禁句(タブー)」になったのと似ている。
「長州」と主張する、ウィキペディアが、信用ならないことの証左でもある。

それで、萩藩では、西南戦争の1年前に「萩の乱」が起きている。

維新の元勲たちにとっては、郷土の「元上司や同僚たち」の反乱で、それでか実質「皆殺し」にしたことが隠されている。

ここにも、「勝てば官軍」の論理があって、郷土愛にあふれる現代萩人たちが、どうして林芳正氏とか、その前までの河村建夫氏とかの、媚中・媚韓の人物を「保守」として選出するのかがわからない。

この意味で、山口県は、故安倍晋三氏と岸信夫氏の兄弟に対して、林氏がいるから、「真っ二つ」の政治風土がいまも続いている。
ちなみに、おそらく年内か年明けぐらいに、安倍晋三氏の「補欠選挙」があるはずだけど、誰が立候補するのだろうか?

さてそれで、初代首相になった伊藤博文は、萩藩の下級武士ではなくて、「撫育(ぶいく)局」という、藩主直属の「少数精鋭秘匿部署」にいて、幕府には絶対内緒の「裏金の運用」をやっていた。

「松下村塾」は、「表」の「藩校」という「普通科」ではなく、撫育局員たちのための「陸軍中野学校」のような存在だった。
なので、撫育局員たちと、「表」の武士団との交流はぜんぜんなかったという。

伊藤ら「長州5(ファイブ)」たちは、極貧の「表財政」から受けた、英国留学資金を出発前に一晩で飲み明かし、「撫育局」からの十倍もの資金でもってロンドンに渡った。

そうやって、シティでの国際金融を学んだのである。

帰国した伊藤は、新政府の「大蔵省」に入ったけれど、最初から「局長」待遇であった。
それで、彼はまっ先に「特別会計」つまり「裏金づくり」をやって、いまに至っている。

現代日本国民も、伊藤博文のつくった「裏金」をしらないで生きているので、「萩藩の表側」とおなじ立場にいる。
これで、もし国民が反乱を起こしたなら、それは「第二次萩の乱」と呼んでもいい。

ただし、皆殺しの目にあう可能性が高い、ということだ。

さて、そんなチャッカリ者の伊藤ではあるけれど、欧州の「小切手」と、江戸時代の商人が発明した、「為替」との「ちがい」をどうするか?に悩んだにちがいない。

小国が乱立する欧州は、各国が独自通貨を発行していたから、日帰りすら可能な近隣との取り引きには、ユダヤ人が経営する「銀行」が発行する「小切手」をつかわないと「決済」できなかった。

だから、商人も一般人も、いまだに銀行の口座開設とは、「当座預金」のことをいう。
対して、わが国の一般人で当座口座をつくるひとは珍しく、「普通預金」がふつうだという「ちがい」が、彼らと決定的なちがいになるのである。

詐欺と掠奪がふつうな社会なので、現金を持ち歩く危険は、命の危険に直結する。
これは、いまもまったくおなじなのである。

一方で、日本文明は、中央政府たる幕府が通貨発行権を持っていたので、流通する通貨が、東西で「金と銀」というちがいはあったけど、通貨単位は統一されていた。

それで、「為替」が発明されて、いまでも「郵便為替」だって残っている。
「現金書留」よりも、よっぽど安全な送金方法だ。

外国との交易で、港には「国際銀行」が必須になったのは、「小切手」取り扱いのためであったともいえる。
しかし、国内で一般の日本人をあいてにするなら、「為替」で間に合う。

小切手がプラスチック・カードになったのが、欧米人がもつクレジットカードで、おなじデザインでもわれわれ日本人がもっているクレジットカードは、為替がプラスチック・カードになったのである。

見た目がおなじでも、仕組みがちがう。

欧米人がクレジットカードをつかうと、自身の当座預金からの引き出しとなって、われわれがクレジットカードをつかうのとは意味がちがう。
「信用」が減るのである。

それで、欧米人は生活消費のためにある、普通口座から引き落とされる「デビットカード」を重宝する。
われわれ日本人に、ポイントが付与されないデビットカードの便利さが「ピンとこない」のは、このためだ。

けれども、あたかも電子マネー的な決済が、なんだか「先進的」という勘違いを頭の軽い政治家とか役人が信じ込んでいて、現金をつかうことを「遅れている」と定義した。

「ポイント付与」しかインセンティブがないから、県単位とかで割引ポイント制度を実施して、現金派を差別する「憲法違反」を実施している。
悔しかったら、スマホ決済にしろ、という行政命令に飛びつくのは、これも「乞食化」の一環なのである。

それでも動じない日本国民は、「貨幣の匿名性」という便利さの本質をしっている文明人なのである。

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