ロシア制裁と石炭火力

オバマ政権時代からトランプ政権中期(2014年2月~2018年2月)まで、FRB(連邦準備制度理事会)の議長だったイエレン氏が、バイデン政権の財務長官に就任して先週(12日、13日)初来日した。

なお、世界の「不思議」にある、中央銀行が「民間企業」であることの典型に、FRBの存在がある。
ふつうに存在している、わが「日銀」も、わかったようなわからないような不思議な存在の「会社」なのである。

なんのためにいらしたのか?はあんがいと単純で、「ロシア制裁」の念押しだ。
このあたりが、まるで不思議なのが、「日米合同委員会」でわが国を「占領」し続けているはずなのに、なんでわざわざ?とおもうからである。

これを、「欺瞞工作」だというと、「陰謀論だ」という「陰謀」がある。

1961年発売、ハナ肇とクレージー・キャッツ、なかでも植木等の『スーダラ節』(作詞:青島幸男)の一節、「わかっちゃいるけどやめられない」にこめられた「無常観」こそが、戦前と戦後を結ぶ「不条理への感情の爆発」だったといえよう。

これは、「開戦の詔勅」と「帝国政府声明文」(昭和16年12月9日に朝日新聞の夕刊に全文が掲載された)それと、「終戦の詔勅」(いわゆる「玉音放送」)の3本を読めばわかる、わが国の戦争目的と戦争を終える理由が書いてあるものに対する「無責任の恨み節」なのだ。

もちろん、当時の日本人が恨んだ「無責任」とは、おとなたちが上記3本をしっていることを前提にして、GHQのプロパガンダにあがなえないことへの絶望と、『三等重役』にみられる「敗戦利得者たち」への侮蔑と迎合という混沌がつくった「投げやり感」のことをいう。

なので、完璧な「軽薄さ」を演じた、植木等の『無責任男』を、幼年兵だった父は嫌っていて、両者が「晩年になって」から、植木等が真顔で語る「無責任の演技論」に、父は「そうだったのか!」と納得したのだった。

つまるところ、上記3点セットをしっていた(=戦争の意味のこと)植木等は、自分の役どころに納得できなかったと「告白」して、それが単なる視聴者を超えた、同時代人としての父との「和解」だったわけである。

そんな当事者の想いも、すっかり風化させられて、そもそも上記3点セットの「重要文」を読んだことも、存在すらしらない国民が、おそらく大半になったから、何が何だかわからなくなって、それがまた、政府に都合のいい原因になっている。

裏返せば、国民の都合は無視されるので、踏んだり蹴ったりになっているのに、ぜんぜん気がつかない脳天気さで生きている。
無責任男を演じた植木等には、自分の責任を意識する矜持があったけど、なんにもない無責任だけが世の中に蔓延したのである。

それで、どうしてイエレン氏が初来日したのか?に戻れば、それはなんで「財務長官」なのか?の疑問とおなじ意味になる。
ロシア制裁の念押しならば、「国務長官」の業務範囲ではないのか?

するとなんだか、「格落ち感」があるのである。

念のために書けば、アメリカの財務省はわが国の財務省とちがって、「予算編成権」がない。
アメリカは、連邦下院(日本の衆議院)が、強力な予算編成権を有しているから、財務省はこれを執行するだけの役所なのである。

しかも、カウンターパートになる、わが国の「財務大臣」が会談する役になって、あろうことか「円安」について話題にして、恥の上塗りとなったのである。

もう「三等大臣」というべきか?「三等政治家」というべきか?
いや、「三等役人」が言わせたにちがいないから、官僚の劣化も厳しい状況にあることがわかった。

それでも、わかっちゃいるけどやめられない、のは、「言った」というアリバイづくりだ。

円安の原因は、ドル高だし、それは、「バイデンフレ」と呼ばれる、バイデン政権がつくりだした国内エネルギー資源を絞ったあげくのウクライナで、歴史的インフレに対するための、FRBの「利上げ」である。

まさか、日本政府はFRB議長がまだイエレン氏だというのか?

それで、しっかりロシア制裁はやるけれど、わが国のエネルギーはどうするのか?がない。
これは、経産大臣の管轄だけれど、相手が財務長官なので出番がないように封印されている。

アメリカはインドを経由して、ロシア産の原油を買っている。
ならば、インドからどうやって運んでいるのか?
わが国は、シベリアの開発からも閉め出されたのだ。

オーストラリアの石炭を、習氏が買わないといってそのままなので、ここ一番、わが国が大量買い付けしますともいわないで、国民に「節電せよ」という自民党は、やっぱり終わっている。

二酸化炭素排出量が増えてしまうのが怖いという、原因は、世界でだれも守っていない「京都議定書」を、日本国だけが「石にかじりついても」遵守している愚かさに「修正」もできないからである。

世界がとっくに「コロナ」を終わらせたのに、こんどは「旅館業法の改悪」も目論んでいて、これに業界は相変わらず沈黙している体たらくだ。
「緊急事態条項」を憲法に折り込みたいという暴挙の「前哨戦」がはじまっているのに。

そんなわけで、わが国が誇る「世界一クリーン」な石炭火力発電所を輸出も画策しないのは、もう誰かに命令されている、とかんがえるほか理由がみつからない「無責任」なのである。

ケミカルな本格料理店

むかし「中華料理店での食事」での「後味」のことを、「チャイニーズ・レストラン・シンドローム(中華料理店症候群)」といって、騒ぎになったことがある。
1968年頃からのアメリカでの話で、医学論文として発表されたのがきっかけだった。

原因は、「MSG:monosodium glutamate:グルタミン酸ナトリウム」の過剰摂取による各種症状で、頭痛、顔面紅潮、発汗、疲労感、顔面や唇の圧迫感などの症状から、喉の灼熱感、胸の痛み、動悸、息切れなどが挙げられている。

軽度なものは、飲み物を摂っても口中からヌルッとした「後味」が消えないでいる気持ち悪さがある。

これがいわゆる「食と健康へのこだわり」のブームになったのである。

しかし、その後の調査と研究で、MSGによる健康への影響は「ない」とされ、FDA(Food and Drug Administration:アメリカ食品医薬品局)も、「加工食品」を管轄していることを理由として、家庭やレストランでのMSG使用については「調査外」だと発表している。

こうしたことから、MSGの使用と健康への影響については、公的に「けり」がついている。

なので、以下は「私見」である。

MSGを世界で最初に工業化したのは、1908年(明治41年)の日本で、池田菊苗理学博士が創業した「味の素株式会社」であり、現在も味の素社は世界最大のMSG製造企業である。

MSGは、別に「うまみ調味料」としてしられているのは、池田博士が昆布の「うまみ成分」を発見してこれを合成することに成功したからだった。
人間の味覚を司る、「舌」にある「味蕾」で、甘味、酸味、塩味、苦味を感知していることはしられていたが、「うまみ」については不明だった。

しかし、「味蕾」にある「細胞」にグルタミン酸「受容体」が発見されたことから本格的に「味の構成要素」と認知されることになって、世界に「UMAMI」として拡がったのである。

じっさいに、ヨーロッパのスーパーでも「UMAMI」コーナーが独立してあって、たいがいその案内板には、日本語でも「うまみコーナー」と併記してあるから、見なれたヨーロッパ人には、「うまみ」の文字を見れば「UMAMIコーナー」だということがわかるようになっている。

日本における英語の看板をみて、なんら不思議でないのと似たことになっているのだ。
ただし、50音ぜんぶの文字をしっているわけではなくて、認識しているのは「うまみ」だけだというから、「図形」でみているのだろう。

それで、このコーナーは事実上の「日本食コーナー」になっている。
この意味で、日本人としては誇るべきことだ。

わたしが子供だったむかしは、なんにでも振りかけていて、その理由が「頭が良くなる」というものがあった。
商品名として、「味の素」なのか「ハイミー」なのか?どちらがより頭が良くなるのか?という問題が母や祖母たちの話題でもあった。

これは、「頭脳パン」という、ビタミンB1を加えたパンが人気だったのと似ている。
じっさいには、アメリカ産小麦の消費(輸入)拡大という目論見があったともいわれていて、「Mutual Security Act:MSA協定:日米相互防衛援助協定」と関係がある。

この協定は、「主権回復後」の1954年(昭和29年)3月に東京で調印したもので、同5月1日に発効した。
日本語に「防衛」の文字が入っているから、軍事面のことだけだと早とちりしてはいけない。

後に続く「援助」の文字が「みそ」なのである。

とくに食糧難からの脱却という大義名分を理由に、小学校の給食にパンと脱脂粉乳が採用されたことに注目すると、前にも書いたマクドナルドの戦略にある、子供のときに味を覚えさせること、が白昼正々堂々と行われたことの、基礎となる国家間「協定」なのである。

つまり、同年にできたアメリカ国内法の「農産物貿易促進法」があってのこの「協定」なのだ。

わたしは学校に行くのは楽しみで、皆勤賞を何度ももらったけれど、給食だけは大嫌いで、そのために母が参観日でもないのに毎日のように呼び出されていた。

あのパサパサなコッペパンと、えらくまずい脱脂粉乳は、どうしても食べられなくて、毎日泣いていた。
高学年になってから、脱脂粉乳が牛乳になってようやく食べられるようになったのである。

そんなわけで、わたしの妹は脱脂粉乳をしらない世代の最初である。

「スキムミルク」も脱脂粉乳のはずなのに、どうしてかくも味がちがうのか?
あとからしった驚愕の事実は、アメリカで豚の餌用だったものを「援助」してくださったことだった。

つまり、わたしたちは、「豚扱い」されていたのである。

なお、アメリカ人の名誉のために加えれば、とっくに共産化した民主党とは別に、敬虔な清教徒系のひとたちも多数いて、「豚の餌」を大量に輸出していることに気づいた市民が、日本人は豚肉を大量に食べているのに「飢餓」とはなんぞや?と憤ったのである。

しかし、「人間の子供が食べている事実」をしって、その「飢餓」の深刻さに驚き、全米での募金活動になったという話もある。
これには、戦死した米軍兵士の親も加わったと。

それから、「米あまり」で、給食に米飯が出るようになったころには、もう高校生になっていたから、どんな味の給食なのかはしらないでいる。
しかし、よくよくかんがえれば、「米あまり」とは、小麦(パン食)シフトの「成果」なので、アメリカからは「協定」の成功になる。

さてそれで、「暑気払い」といえば「焼き肉」だという条件反射で、家内と市内有名焼き肉店に予約して行ってみたら、初めて注文した「水キムチ」の味が、異様に強い「うまみ」で変だな?と感じたのである。

これが決定的になったのは、いつもはたどり着かない「シメ」で注文した、ユッケジャンクッパが、まるでケミカルな味なのだった。
おかげで、1日経っても口中の気持ち悪さがなくならないばかりか、お腹の調子も悪い。

本当に、健康への影響について、「けり」がついていると信じていいものか?

そこで、「韓国語会話」の教科書に、以下の例文をみつけた。
이게 맛있다고?      MSG 맛     밖에      안     나는데?
イゲ マシッタゴ?     MSG マッ パッケ アン ナヌンデ?
これがおいしいって? うまみ調味料の味しかしないけど?

「本格的焼き肉店」とは、こういうことだったのか?

近くの席についた、韓国人一家には小学生もいたけれど、オレンジジュースだけを飲んでいて、ほかには一切箸をつけなかった。
おとなはさかんに「食べなさい」といっているようであったのに。

やっぱり子供は、味をしっていて防衛本能が働くのかもしれない。

老眼にやさしい腕時計がない

「クオーツ」の「原理」を発見したのは、あのキュリー夫妻で1880年のことだった。
それから、「腕時計」として世界で最初に発売したのは、セイコー社で1969年の『アストロン』(アナログ表示)だった。

家庭用ビデオで、機能に優れた『ベータマックス』が、『VHS』に完全敗北した最大の理由が、「特許の公開」であったように、セイコー社はクオーツ式の特許公開をして、スイスやアメリカの時計業界に「壊滅的打撃」を与えたのは有名な話だ。

スイスは二極化の道を選んで、「超高級機械式」と「超廉価」とで対抗した。
「超廉価」の方は、心臓部の「ムーブメント」を日本製に甘んじて、「デザイン」をスイス製としたのである。

このアイデアは、その後の世界の製造業に「画期」を与え、付加価値の源泉がデザインから商品企画にシフトしたわかりやすい「事例」になったのである。
この「権化」が、いまのアップル社であろう。

一方で、工業大国のアメリカの時計製造業は、いったん「全滅」したのだった。
どれほどセイコー社が恨まれたことか?
今でこそ、日本人が骨身に染みるほどに理解できる事態である。

それでも、アメリカの時計製造業は復活してきたから、現在の日本人はアメリカを「先進(例)国」として学ぶ価値はじゅうぶんにある。

クオーツ時計のもう一つの「画期」が、「デジタル式表示」であった。
時刻が数字で表されて、「針がない」ことは、とにかく時計の概念を変えたのである。

もちろん、「精度」は、クオーツだから、機械式とは次元がちがう。

むかし、『徹子の部屋』に出演した、超売れっ子脚本家の花登筐(はなとこばこ)氏が、腕にあるスイス製超高級腕時計が数千万円するのを自慢してから、ポケットから取り出したのが1万円のクオーツ時計で、「正確なので時間はこの時計でみている」といって笑っていた。

なので、超高級腕時計を指して「ブレスレット」というのである。
「(動く)装飾品」という意味である。

クオーツ時計は、「電池」がエネルギー源なので、その性能は電池の性能によって左右されるし、デジタル式なら「発光方法」での電池の消耗がちがう。

それで、自ら発光して目視しやすいけれど電池の消耗も激しい「LED式」が廃れて、節電型の「液晶式」が主流になったし、電池も「太陽光発電式」が採用されて、交換の手間がはぶけた。

さらに、時刻合わせの手間も、ラジオ電波の時報を受信して自動になったら、カレンダーも自動になった。
最近では、スマホ連動になって、アナログ式とデジタル式とで、あたらしい分化をはじめている。

デジタル式は、いわゆる「スマート・ウオッチ」がそれで、『ウルトラマン』の科学特捜隊が着けていたかつての少年たちが「夢」にみた無線機となる時計すら「古い」機能になっている。
まさか、電車の改札にも使えるとは、当時の発想を超えているのだ。

それに、「文字盤画面」の細密化で、あたかも「アナログ式」のような表情だって選択できる。

けれども、「スマート・ウオッチ」が気持ち悪いのは、便利とされる「ウエルネス」をうたう機能だ。
心拍計とか骨格筋量や基礎代謝量、体内の水分量、体脂肪率などが「測定可能」で、運動管理もしてくれる。

これらの「情報」が、スマホを通じてデータベースに飛んでいくのだ。

もちろん、自分のためだけでなく、「ビッグデータ」として収集されていることぐらいはしっている。
これが、「気持ち悪い」のだ。

はたしてこんな「多機能」は、「進化」なのか?

そんなわけで、「老眼にやさしい腕時計」を探しに、涼しい冷房の効いた家電量販店に行ってきた。
わたしの要望は以下の通りである。

・デジタル式であること
・数字は目視しやすいこと(大きさ、照度、夜間自動発光)
・手間なしであること(時刻合わせ、太陽光発電)
・余計な機能はいらないこと

デジタル式としたのは、アナログ式を既にいくつか持っているからであるけれど、時刻を一目でしるには、デジタル表示の方が早いという理由がある。
「老眼」がだんだんきつくなると、「針を読む」のも面倒なのである。

だから、「目視しやすい」というのは、絶対条件となる。

ここで、大型量販店の売り場を3周ほどして気づいたのは、ターゲットが「現役世代」としてディスプレイされていることである。
それと、理由はわかるが、「メーカーごと」になっていることで、売り手の都合が優先されている。

どうしてこうなっているのか?
「メーカーごと」は容易にわかる事情だが、「現役世代」中心にはやや違和感がある。
自分が外れていることもあるけれど、「人口比」と合致していない。

そんなわけで、「最大文字表示」の機種は、なんと「トレッキング用」とかの「山登り」に適した機種だった。
だからもあるが、よくある「スポーツ・タイプ」のゴツゴツした重厚なデザインだ。

それで、高度計や方位計測、気圧・温度に日の出・日の入りを示す「余計な機能」がついている。
その割に、暗所での自動点灯機能はショボくて、地面に対して60度の位置で白色LEDが2個ばかり数秒間光るだけなのだ。

文字が自動拡大するぐらいの気の利いたことはできないのか?
もっといえば、月齢や旧暦などの「陰暦表示」があってもいい。
年寄りは「風流」を好むのである。

世界に日本の風流を輸出するくらいの気概があっていい。
これが、スイスとアメリカに学ぶことではないのか?

これで3万円。
100円ショップの超単機能な300円時計が、妙に潔くみえるのである。
さては残りの人生を、どの時計で計ろうか?

あんがいと悩ましいことになったのである。

信州味噌のみそ

コロナで自粛していたからではないけれど、久しぶりに信州は松本を訪ねてみた。
松本城を数十年ぶりに見学して、むかしよりずっと「よかった」のはどうしてか?

城内天守閣にあった、火縄銃やらの銃器の展示の充実が、なんだか新鮮だったのは、45歳から夫婦ではじめた「クレー射撃」の趣味をして、若いときにはまったくなかった「銃の知識」を自然に得たからであろう。
そもそも、若いときにこんな展示があったことも記憶にないのである。

なので今回「はじめて観た」展示で、記憶に残ると感じたのは、銃の心臓部にあたる「機関部」のつくり(構造)が、現代のものと基本的におなじだったことの驚きであった。

つまり、「精密」なのである。
これをどうやって「こしらえた」のか?
組立もさることながら、その「部品」づくりにおける技術のことだ。

もちろん、「鉄砲」は、「弾」が通る「道」としての「銃身」の精度確保も、的中率ばかりか事故にもつながる大仕事である。
「まっすぐな穴」でないといけないし、強度がないなら熱と圧力で「銃身膨張」が起きて、もしや「裂け」たりしたら、射手の命にかかわる事故にだってなるからだ。

いまは、鉄の棒をくりぬいてつくるけど、むかしは鉄板を丸めて「鉄管」にしていた。
この丸める技術がすごいのである。
「刀鍛冶」の基本があっての技である。

それで、「弾づくり」は、女子が担当したという。
熱く溶けた金属を球体にするために、板の上で転がすのである。
この大きさが狂ったら、銃を破壊しかねないから、責任のある仕事である。

もっとも、なによりも「火薬」がないと話にならない。
日本にない「硝石」を得るために、「貿易」をするしかなかった。
只今現在、クレー射撃も、ヨーロッパからの輸入が絶えて、なんと「弾不足」で射撃ができない状態になっている。

わが国は、スポーツ射撃用の散弾も「国産」が絶えたのである。
これは、織田信長も仰天する事態となっている。

さてそれで、信州は広大な地域だけれど、信州といえば「味噌」である。
どうしてか?
所説あるなかでも、かつて日本経済を支えた「女工」を集めて工場内に住まわせたことでの必需品だったからという。

「絹(シルク)」と「味噌」は、つながっているのである。

けれども、味噌の産地として決定的になったのは、関東大震災による「壊滅」で、いわゆる「首都圏」の味噌屋も消失してしまった。
それで、信州の味噌が国内4割というシェアを得ることになったのである。

女工のための大量生産技術が、日本人のための大量生産になったわけだ。

信州味噌の特徴は、「米味噌」にある。
原材料は、米からつくる米麹と大豆だ。
「麹」は「麹菌」のことで、わが国の「国菌」となっている。

そこで問題になるのが、「大豆」なのである。
この「由来」が、4月から見えなくなった=見えなくした。

世界の大豆は、すでに「遺伝子組み換え作物」になっている。
それで、アメリカとかの「外国産」を買い付ける場合に、わが国の企業は「高額」の「遺伝子組み換えでない」ものを買っていた。
これが、できなくなってきたのである。

カネを出せば買えることができなくなってきたのは、農家が手間を嫌がっているからという理由が大きい。
どうして遺伝子をわざわざ組み換えたものになるのか?といえば、農薬の「耐性」があるからだ。

農薬は、農作業の手間を劇的に「改善」する。
しかし一方で、「F1:第一世代交配」のタネしか使えないので、農家は自家で収穫したものを翌年に蒔くことができない。
F2の品質が保証されないばかりか、種子メーカーとの契約違反になるからだ。

ここで注目すべきは、農薬メーカーと遺伝子組み換え種子のメーカーが「イコール」であることだ。

一度で二度美味しい。
これが、「ビッグファーマ」と呼ばれる、大化学薬品メーカーのグローバル・ビジネス・モデルなのである。

人間も動物なので、食物を外から得てこれを「消化」しないといけない。
それで、消化とはなにか?を問い詰めたら、食物を「分子化」させて体内に取り込むことを指す。
生体とは、すべからく「化学反応」を利用して生きているものをいう。

そこで、人工的に組み替えられた遺伝子が、どのように「消化」されて体内に取り込まれ、それで取り込んだ生体がどうなるのか?が問題になる。
ここが、「安全性」の「キモ」なのだけど、遺伝子組み換え物質ができて間もないから、「時間経過」による影響がわからない。

「わからない」状態にあることだけは、いまのところ確実なのである。

よって、政府が言う「安全」とはなにか?は、意識しないといけなくなっている。
政府に多額の納税と、寄付をしているのが「ビッグファーマ」だからだ。

そんなわけで、信州味噌の地元老舗直売店には、原料の出所があきらかな「味噌」があって、スーパーの信州味噌とは「価格」でも一線を画している。

それでもって、原料の出所をあきらかにさせない、というのが政府の方針になっているのが「みそ」なのである。
「楽市・楽座」をやらせた、織田信長が、弾をつくれない以上に仰天するのがこのことだ。

「国葬」反対論とその反対論

わが国戦後史で、首相経験者が「国葬」になった事例は、吉田茂氏「だけ」であることに注目すると、安倍晋三氏の「国葬」とはなにか?は、「政治」としてかんがえておく必要はある。

「国葬」には、法的根拠となる「国葬令」があった。

GHQは昭和22年に「国葬令を失効」させているために、1967年に執り行わた吉田茂元首相の国葬が「例外的」に行われたのである。
もはや「例外」も使えないから、それ以降は首相経験者の国葬は一度もない。

つまり、「国葬令」をその後のわが国でどの首相も制定していないために、「国葬」自体ができない「法」の条件があるのだ。
だから、岸田首相が「国葬をやる」と言っても、なんらかの「立法措置」がないと「法治国家」としてはできないのである。

なので、今回の安倍氏の悲劇とは別に、「国葬」についての議論は不可欠なのだということは、国民も意識しておかないといけないのである。

「感情」で国家が執り行う「国葬」は語れないからである。
しかしながら、「大衆社会は感情的になる」というオルテガの指摘通りに、エリートなき大衆社会となった「わが国」の姿が現れたのだった。

念のためつけ加えれば、ここでいう「エリート」とは、「受験(偏差値)エリート」のことではなく、「ノブレス・オブリージュ」のある、高貴にして誇り高き人物をいう。
欧州では「騎士道」、日本では「武士道」をさす。

 

吉田氏の後は、「国民葬」と「自民党・内閣合同葬」がある。
格上の「国民葬」とは、政府と自民党・それに国民有志によるもので、費用はそれぞれが「分担」する。
「自民党・内閣合同葬」も同様に費用を「分担」する。

それでも、「国民葬」は一度だけ、1975年の佐藤栄作氏(生前にノーベル平和賞受賞)の例がある。
その後は、「自民党・内閣合同葬」である。

最近のは、2020年の中曽根康弘氏(生前に大勲位菊花大綬章:わが国最高位の勲章)で、その内閣(政府)負担分が巷間の話題になったことは記憶に新しい。

ついでにいえば、外国人で大勲位菊花大綬章の受章者に、ウクライナのロシア派大統領で「マイダン革命」(2014年)によってロシアに亡命した、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ氏(2011年)がいる。

今でこそ「プーチン派の悪玉」扱いだけど、日本政府の手のひら返しの態度は、なんなのか?
日本国民から授与したはずの「大勲位が泣く」とはこのことだ。

さてそれで、安倍氏の悲劇は、「殉職扱い」だということもいえる。
参議院通常選挙の「応援演説」で、凶弾に倒れたからである。
しかしてこれは、当然に「現職首相」ということではなくて、元総理総裁とはいえ、自民党の一議員としての政治活動だった。

なので、わたしは従来通りの、「自民党・内閣合同葬」がふさわしいとかんがえている。
「国葬」をやりたいひとたちとは、安倍氏の「立場の混同」があるとおもうからである。

この点、既存野党の「反対論」に説得力がないのは、安倍氏の首相としての「業績」についての「感情的」批判に終始しているからだ。
なお、「首相現職」で死去した、宏池会の大平正芳氏も、自らの「内閣」と「自民党・合同葬」だった。

すると、じつはアメリカの「ポチ」ではあったけど、たいした業績が見当たらない吉田茂氏の国葬だって、なんなのか?になるし、アベノミクスだって、日本経済を復活させたわけでもなく、むしろその社会主義性で、既存野党を丸呑みしたという「政治戦略」であって、「経済政策」とはまるでいえない。

それを、「国葬派」といってよい「保守層」が、「国会で民主的に指名された首相だ」という、これまた意味不明の「反論」をしているのである。
なぜならば、それなら、「自民党・内閣合同葬」が当然のところになって、どうして「国民葬」も飛ばす「国葬」なのか?の反論になっていないのだ。

しかも、前述のように「国葬」のためには、「法整備が不可欠」だという肝心要の要素がすっかり抜け落ちている。
すると、「国葬派」は、自民党が単独で、さっさと法整備すれば済む、という論を張るにちがいない。

これは、たいへん危険な発想だ。

こうしたことを「前例」としたならば、議論なくして多数派がなんでも決められることになる。

感情的に「混同」して、戦後初の「元首相暗殺」に対しての過敏な反応が、政府の思惑に一致するとしたら、「嫌な予感」しかない。
それで、「殉職」なのだという「勘違い」から、二階級特進の「国葬」に、国民は素直に応じて良いものか?ということをいいたいのである。

さらに、もう一つある「国葬」の理由が、「多数の外国からの問い合わせ」があるからだ、とプロパガンダしていることだ。
つまり、「弔問外交」をやりたい、ということなのだろうけど、「自民党・内閣合同葬」でどうしてダメなのか?の理由にならない。

そんなわけで、亡くなった安倍氏に「大勲位菊花章頸飾」が贈られて、雰囲気作りが進行している。

「検討氏」の岸田首相としては、素早い反応である。

「安倍氏の意志を継ぐ」といいながら、ぜんぜん主義主張の異なる「派閥」を維持しながら、安定の政権運営を得た「自信」なのだろう。

ここで海外に目を転じると、隣の大国では、安倍氏の悲劇を「祝う」ひとたちが、「祝杯」をあげていると「ニュース」になっている。
もちろん、プロパガンダなので、あちらの「党と政府」が認定・推奨していることに注目すべきだ。

そこにあるのは、「親中派」が、日本政府の中枢を占めるに至ったことの「歓びの表現」なのである。
老子のいう、「闘わずにして勝つ」ことの近年最大の成功事例になったことの「お祝い」なのだと、感情的にならずに受けとめる必要がある。

また、「憲法改正」論議すら、「親中派」の手中にあるなかでのことだから、あの国のポチである公明党が、いつ「賛成」するかわからないし、どんな「修正要求」をするかもわからない。
多分にあちらの国の「党」が、日本の憲法改正に積極的な節がある。

このこともあわせて、日本人は冷静に「国葬」をかんがえないといけないのである。
それはまた、安倍氏を慕うひとたちにもいえて、「死人に口無し」を平然とやる「冷徹さ」を、現在の自民党に感じないことの「愚」なのである。

それにしても、「国葬令」すらない戦後の日本という国を嘆くばかりなのである。

世界は「政変」ラッシュ

さまざまな事情があるから、とくだんのつながりはない「偶然」のようにも見えるけれども、どうなのよ?という話題である。

日本では「七夕」の7月7日、英国のボリス・ジョンソン首相が辞任を表明して、大ニュースになった。
ただし、辞めるのは、秋の次期政権が決まるまで、という長丁場になった。
この間は、レームダックだという宣言だ。

その翌日、わが国では安倍元首相への銃撃があった。
参議院通常選挙期間中の惨劇は、国政レベルでの衝撃となったことは事実だ。

ところが、農民一揆が「盛り上がってきている」オランダも、ルッテ政権が今後どうなるものか?という不安定で、その「一揆」が国境を越えてドイツにも波及している。
だから、ドイツの信号機内閣だって、安泰とはぜんぜんいえない。

そんななか、14日には、イタリアのドラギ首相が辞任表明して、これをマッタレッラ大統領が「待った」をかけた。
イタリアの政界は、相変わらずの不安定なので、現政権も連立を組んでいる。

それで、連立政権内のコンテ元首相が、ドラギ政権に内部から圧力を掛けたことが辞任表明のきっかけになったという。
しかし、ドラギ氏とマッタレッラ大統領が、コンテ氏の圧力を逆に排除しようというのだから、複雑なのである。

日本に置き換えたら、安倍内閣にいた麻生元首相が仕掛けたようなものだけど、「自民党内の派閥争い」として認識されるわが国の常識とはちがって、あちらでは、「別の党」が連立している。
なので、公明党の元首相が仕掛けたという形だとおもえばよい。

その公明党にあたる、「五つ星運動」という党内抗争で、追いつめられたのがコンテ氏だったということだ。
なお、この「五つ星運動」という政党名は、「水・エネルギー・開発・環境・交通」からとられたもので、いわゆる「環境サヨク・ポピュリズム政党」である。

ついでにいえば、首相のドラギ氏は、欧州中央銀行(ECB)の前総裁だった人物である。
かんたんにいえば、「ユーロの番人」だったひとで、ウクライナに端を発するエネルギー・インフレへの経済対策が政権運営の最大事になっている。

日銀総裁が首相になったようなものなのだけど、一方で、ドラギ氏は「未接種者」に対して「社会の一部ではない」という強権的態度をとっていた。
このあたりに、元ECB総裁らしい、全体主義の匂いが醸し出される困ったちゃんだった。

国民目線からしたら、両者が共に「自滅」して欲しいところだろう。
こうしてみると、イタリアの政情を作っている、投票する側の国民性が、いまの日本人に似ているのである。

日本が先に選挙を終えたけど、大統領が命じた来週の国会でのドラギ演説で、イタリア議会も解散総選挙になるかもしれないのである。

そんなイタリア半島は「長靴」のハイヒールの対岸にある、アルバニアも、春から続くインフレへの抗議活動が万人単位になっていて、東隣国マケドニアの先にあるブルガリアでは、昨年の1年だけで解散総選挙を3回もやったけど、今年も秋口に解散総選挙になりそうな気配なのだ。

15日には、バルト三国のエストニアの女性首相が辞任した。
現在の連立を解消して、別の党と連立するためだという。
ここも、インフレ率で「ユーロ圏内最高」の年率22%になっている。
ちなみに、エストニアの「電子政府」は、日本の比ではない普及になっている。

アジアに目を向ければ、スリランカの状態は既に書いた。
4月のパキスタンでの政変は、軍が背後にいることが判明したから、もしやこれから物騒な展開になるやもしれぬ。

そんなわけで、世界のトレンドが「政変」になっている。

その「通奏低音」に、エネルギー資源確保と価格高騰の問題がある。
現代世界の「生活経済」が、エネルギー資源抜きに成立しないからだ。

こんな世界の状況のなかで、13日、東京地裁は「株主代表訴訟」での、原告側勝訴として、東京電力福島第一原子力発電所事故に関する、当時の経営者たち個人に13兆円の賠償金を会社に支払うよう命じた。

各国の政変と、一国の中の一企業とでは、比較のしようがないように見えるけれども、「相似形」なのである。

要は、政治家の責任が世界で問われ出している。
わが国では、経営者が経営責任を認定された、というレベルになった。
原発をつくったことの政治責任は、本来ならば政治家が負うべきものだ。

さて、エネルギー資源の不足と高騰の問題は、わが国ではこれからやってくるようになっている。
その「遅効」の仕組みは、政府による業界管理にある。
しかし、間もなくこれが限界点をむかえて、国民生活を襲うのだ。

すると、そもそもは、アメリカ民主党バイデン政権(国際資本擁護)による、愚策に原因がある。
これに「与した」各国で、政変が起きているのである。

本家本元は、11月の中間選挙で、「政変」が起きるから、共和党大勝利のアメリカで、どんな「修正」がされるのか?

これがまた、世界各国に「政変」を起こすにちがいない。

やばい「UNRWA」

United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East のことである。
「UN」=「国連」の機関で、日本語にすると「近東パレスチナ難民の為の国際連合救済事業機関」となる。

日本人のみんなが「嫌い」な、トランプ氏が大統領職にあったとき、「大統領令」でもって、アメリカ政府はこの機関への資金拠出を「停止」したけど、バイデン政権になって、すぐさま「復活」させた経緯がある。

もちろん、おおくの日本人が「トランプ嫌い」にさせられたのは、マスコミによるプロパガンダが功を成したからである。
なので、マスコミ報道を「怪しい」としている小数の日本人は、すぐに「欺瞞」に気がつくのだけれど。

つまり、トロツキー派に乗っ取られたアメリカ民主党の「邪悪:共産党化」を基本に置けば、共和党保守派(=キリスト教・プロテスタントの長老派=トランプ派)の「正義:アメリカ建国の理念」となる。

この価値観の根本的ちがいを理解できない日本人がおおいので、たとえば、「日本維新の会」が、「保守」だといってはばからない。
ちょっと前にさかのぼれば、たとえば、小池百合子氏が「保守」だという「宣伝」を信じてしまうのである。

こうした「倒錯」と「混同」は、「新党」における評価にもつながって、たとえば、「参政党」と「れいわ新選組」を、あろうことか「同列」に比較したりするひとが多数いることでもわかる。

端的にいえば、参政党は日本の伝統主義を重んじる「保守」であるけど、れいわ新選組は背景に中核派がいる共産党よりも過激な「極左」だ。
つまるところ、「極右」と「極左」の区別がつかないひとたちが、「選挙権」をもっている、ということなのだ。

これを、「教育問題」だと参政党が主張するのは、説得力をこえた「納得」なのである。
そこで彼らは、スエーデンの教育プログラムにある、「政治教育」を事例として説明している。

おおくのスエーデン人は、「高福祉=高負担」を選んだけれど、そこには国民の「政治参加」という前提がある、と。
なので、小学生から「政治」を学ぶが、それは特定政党に都合がよくなるような教育ではない。

特定政党や団体に都合がいい教育にならない・させないための「関心」が、国民にあるから可能なのである。
このことは、「政治的民度の高さ」といって、「国民主権」を旨とする、近代民主主義国家には絶対不可欠な「素養」である。

こうやってみると、わが国の教育は、およそ国民に民主主義を「教えない」という「真逆」をやっている。
その責任は、文部科学省ではなくて、与党にあるけど、その与党に投票している国民が、そのレベル、という「負のスパイラル」にある。

さてそれで、トランプ氏がやった「平和」への業績で、おおくの日本人が興味もない「歴史的画期」が、「中東和平の実現」だった。
それが、アラブ諸国とイスラエルとの「平和条約締結」となってあらわれたのである。

わが国の「石油」がどこから出ているのかさえも忘却して、脳天気に生きている。
今日も石油が供給されているのは、トランプ氏のおかげなのに。

そんな過去にない業績をあげたトランプ氏が、なぜに「UNRWA」への資金拠出をやめたのか?
これには、「近東パレスチナ難民の為の国際連合救済事業機関」の文字中にある、「パレスチナ難民」の定義が決め手となっている。

そのわかりやすい「例」が、イスラエル軍による「パレスチナ空爆」であった。

しかも、この構造が、ウクライナとロシアの紛争経緯に酷似している。
マスコミのプロパガンダで、あたかも「先に手を出した」イスラエル(ロシア)が「悪」だと決めつけているけれど、「その前」があったことをいわない。

つまり、前後の文脈を無視した「切り取り」をやって、読者や視聴者たる日本国民を「誘導」しているから、マスコミ企業の社会的責任が問われても文句はいえない。

じさっさいに、パレスチナで「ハマス」が、自分の支配する一般人の居住地域から大量の小型ロケット弾をイスラエルに向けて発射していた。
それで、発射地点を探知したイスラエル軍が「敵基地攻撃」をしたのだった。

ところが、その「敵基地」が、あろうことか「学校」や「病院」だったり、マンションの「ベランダ」だったりして、一般人の犠牲者をだしてしまった。
けれども、それこそが「人間の盾」を構築した、「ハマスの狙い」だったのである。

かんたんにいえば、「ハマス」とは、特定思想のテロリスト集団である。

まったくもって、「ハマス」を「ウクライナ」に読み替えたら、おなじパターンだと容易に気づく。

さほどに、「敵」は、ワンパターンなのである。

それでもって、UNRWAである。
もはや国連も、グローバル全体主義に乗っ取られたから、UNRWAも「例外ではない」とかんがえるの妥当だ。

そして、UNRWAは、「ハマス」を援助していたのである。

それで、トランプ氏が中止させて、バイデン政権が復活させたことも、ウクライナ・ロシアのパターンにあてはまる。

アメリカ民主党ばかりか、国連が「人類の敵」になっている。

みえない内戦をする参政党

ソ連の崩壊以来、世界各国の「分断政策」が進行して、あたかも共産主義・全体主義が最終的勝利を収めようとしているのが現代の情勢なのである。

あれれ?
「ソ連」は、冷戦に敗北して世界は「アメリカ一強」になったんじゃなかったっけ?

目に見えた光景はそうだし、マスコミもそうやって報じてきた。
だが、共産主義が滅亡したのではなく、「地図上のロシアの政体」としては、身体を棄ててあたかも魂が抜けたように「幽体離脱」したのである。

あたかも、「オカルト」のようではあるけど、そもそも共産主義・全体主義が「オカルト」だから、じぶんたちを棚に上げて、反対者を「カルト扱い」するのはこのためだ。

それで「自由になった」共産主義・全体主義の霊魂は、勝利したはずの「西側・自由主義陣営」を、内部から腐食させることができた。
この手法が、国民の貧困化であって、エンジンとなったのが「グローバル企業」からの政治家・政府への「資金提供」であった。

そして、その「大義名分」が、「(グローバル企業活動の)規制緩和」と「(グローバル企業を活動しやすくする)構造改革」だったのである。
逆にいえば、過去の「西側・自由主義陣営」には、自国企業を守るための規制やその経済体制の構造が備えられていた、ということだ。

これを「破壊した」のが、「新自由主義」だとマスコミは宣伝している。
そうやって、新自由主義を「憎む」ように国民を誘導したのは、小説『1984年』での、「2分間憎悪」のことである。

このブログでは、何度も紹介しているけれど、現代人にとって「必読の教養書」であることはまちがいない。
人生のなるべく早い段階で読破しておくべき「図書」である。

なお、知り合った東京大学で政治学専攻の学生は、この本の存在をしらなかったから、東大の教育方針が透けて見えたのであった。

しかして、「新自由主義」をもっとも「強く」主張した、ハイエクの『隷属への道』を読めば、巷間いわれている「新自由主義」の定義が、ハイエクとは「真逆」であることがハッキリとわかる。
なので、「新自由主義」という言葉を使うときには、注意がいるのである。

この本も、『1984年』と同時期に併読すべき、必読の、現代人の教養書であるから、なるべく人生の早い段階で読破することを奨めたい。

さて、少なくとも以上の2冊を「思考の土台」に据えれば、現代世界の政治情勢をきっちり図表にプロットできる。
これを「経済倶楽部」も解説している。

「X軸」の右矢印方向には、「自由主義」、反対の左矢印方向は、「不自由=全体主義」を置き、「Y軸」の上方矢印方向には、「グローバリズム」、反対の下方矢印方向は、「ナショナリズム」とする「図」を描けばいい。
すると、各「象限」は以下のようになる。

第Ⅰ象限(自由主義・グローバリズム)
第Ⅱ象限(全体主義・グローバリズム)
第Ⅲ象限(全体主義・ナショナリズム):
第Ⅳ象限(自由主義・ナショナリズム)

これに、各国での対象をプロットする。
第Ⅰ象限:自民党清和会(安倍派)、アメリカ共和党主流派
第Ⅱ象限:清和会以外の自民党と既存野党全部、アメリカ民主党、江沢民派
第Ⅲ象限:習近平政権(習近平派)
第Ⅳ象限:参政党

微妙なのは、アメリカ共和党保守派(トランプ派)と、フランス国民連合(ルペンの政党)、それにプーチンの立ち位置で、これらは第Ⅳ象限にあるけれど、「自由」がやや弱いから「原点に近い」場所になる。

これが、プーチンとトランプ、プーチンとルペンの「近さ」の理由だ。
この意味で、トランプと亡くなった安倍晋三氏には、とくに「Y軸」で象限を超えた「距離」がある。

すると、マスコミが定義する「極右」というのは、「X軸」上での「右はじ」を指すのではなくて、「Y軸」で下方の「ナショナリズム」にあることをいっているのだとわかる。

世界の主流マスコミは、全部が第Ⅱ象限にあるからだけど、これが、「斜め上から目線」の正体なのだ。
「左・右」という「横方向の概念」が、「上・下」の概念に勝手に言い方を変えていて、これを上述の『1984年』では、「ニュースピーク」と説明している。

そのマスコミが取り扱いに困窮しているのが、第Ⅲ象限にある習近平だ。
「共産主義」の本質は、人類平等化(均一化=奴隷化)にあるから、かならず「国際的」になる。
だからみんなで肩を組んで「インターナショナル」を歌っていた。

以来、「国際」が「正しい価値」となったのである。

過去に、共産主義を標榜しながら「ナショナリスト」だったのが、スターリンと毛沢東だった。
それで、プーチンはスターリンを尊敬すると発言した。

いま、毛沢東を信奉する習近平がでたことで、ジョージ・ソロスが激しく反発するのも、ソロス自身が「本物」の共産主義・全体主義者だからである。
日本人が習近平を警戒すべきは、ソロスの論法ではなくて、ナショナリストゆえの「台湾危機=日本の独立危機」のことである。

さてそれで、第Ⅳ象限の深い場所(X・Y軸両方で端になる)に世界で唯一位置するのが「参政党」なのである。

特に敵対する「第Ⅱ象限」は、超大金持ちの大富豪が支配する乞食化・奴隷化してしまった下層民が、おカネを貰えることで支持している構図がある。
一方の、浅くとも「第Ⅳ象限」に位置する政党の支持者は、どの国でも主に「中間層」なのである。

この「中間層」の絶滅を意図しているのが、世界シェアをとりつつある第Ⅱ象限の作戦になる。
その権化が、WHO=国連なのだ。

そんなわけで、参政党は、まちがいなく「弾圧」の対象になる。

いま第Ⅱ象限にある日本政府は、参政党の消滅を画策するはずなのだ。
そして、第Ⅰ象限の宿敵安倍氏亡き後に、「安倍氏の意志を継ぐ」というヤクザの欺瞞を口にしてはばからないのが、第Ⅱ象限の本質的暴力性だ。

しかして、参政党への弾圧とは、国民中間層への攻撃にひとしいので、いよいよ日本人の分断(貧困化)が「政府の政策によって実施される」時代になったといえるのである。

こんな自民党や既存野党の全部を支持する国民は、倒錯した自虐としかおもえない。

激しい攻防となるか、あっさりやられるか?

将来の日本人のための、「自由」と「独立」をかけた歴史上初めての戦い=「見えない内戦」がはじまったのである。

「返し技」だけが光るウクライナ

アメリカ・バイデン・民主党政権のお粗末は、そんなバカなことがあるかと思うほどの「お粗末」なので、高齢のバイデン氏にはちょっとだけ気の毒だけど、「歴史的おバカ大統領」として、永遠にその名が記憶されるだろう。

いまや、アメリカ国内でも「Bye-byeバイデン」が合い言葉になってきていて、11月の中間選挙は民主党の歴史的敗北が予想されている。
それは、ガソリン価格の高騰からはじまった、「バイデンフレーション」に、みごとな「無策」でいることで決定的になっている。

唯一の命綱だった、連邦下院の「1月6日委員会」でも、トランプ氏を犯罪者認定できないばかりか、「偽証」ばかりの茶番劇に、とうとう国民の関心すら失った。
それで、どんなきたない手をつかうのか?が、関心事なのである。

さてそれで、ロシアを戦争に引きずり込むことで、トランプ氏がアフガン戦争をやめさせたせいで武器が売れなくなったひとたちに、ヨーロッパ諸国も巻きこんで、大量発注させる作戦が成功したかにみえた。

まさに、「目的」がこれ「だけ」という、お粗末だから、それからどうなる?が成り行き任せという「お粗末」になったのである。
民主党のアメリカ=グローバル全体主義にいくらの鼻薬を効かされたかしれないけれど、ヨーロッパ側もその利権に目がくらんだ。

囲碁や将棋の達人を相手に、欲にくらんだ素人がちょっかいをかけたようなもので、プーチン氏は、はるか以前のトランプ氏「敗北」をもって、「覚悟」を決めたと思われる。

「戦前」のゼレンスキー氏とプーチン氏は、たびたび会談をやっている。
ここでどんな話し合いをしていたのかは知らないけれど、「俳優」のゼレンスキー氏の「本音」がどこにあるのかすら、あんがいと「秘密」になっている。

西側報道機関も、とっくに「報道」を放棄して、グローバル全体主義を応援するのが、「メインストリーム」になっている。
これが、「弱小ロシア軍」という、プロパガンダだ。

従来の軍事作戦的に定石といっていた、侵攻初期の首都包囲からの首都陥落をさせないで、あっさり包囲を解いてしまったのはなぜか?を報じず、「弱いから」、「ロシア軍の被害が甚大だから」ということにした。

この間、ロシア軍はウクライナ全土に点在する、「生物化学兵器研究所・工場」を、すべて制圧していたのである。
なお、これらの施設は、アメリカ国防総省が管理していたと、上院外交委員会公聴会で、ヌーランド国務次官が証言したのだった。

つまり、首都包囲とは、ウクライナ軍を引き寄せて、時間稼ぎをする作戦である。
ならば、これを初期段階でやったことの意味は、「侵攻」にあたっての、最重要優先順位にあったことを意味する。

「領土的野心はない」という当初からのプーチン氏発言は、その通りで、「侵攻」ともいわず「特別軍事作戦」といったことと辻褄はあっている。

それからのロシア軍は、もっぱら「アゾフ大隊」の拠点を攻めた。

なんども書くが、もとは「私兵」だったものを、ゼレンスキー政権で「国軍編入」をしたのだった。
この私兵のオーナーが、当地における「新興財閥:オルガルヒ」のひとりで、ゼレンスキー政権の後ろ盾の人物なのだ。

そして、この人物が「ネオナチ」としてしられることになるけれど、第二次大戦末期において、ナチス党本部がベルリンから西ウクライナに「疎開」して、敗戦した歴史から、「ネオ」ではない、正真正銘の「ナチ」なのだ。

東部ウクライナのロシア語圏での、彼らの「虐殺行為」は、かつてのホロコーストとおなじなために、プーチン氏の堪忍袋の緒が切れた、とはいうけれど、ゼレンスキー氏も東部ウクライナの出身なのである。

そんなわけで、プーチン氏は、「開戦後」も、一度もゼレンスキー氏を名指しして、こてんぱに非難したことがない不思議がある。
この二人は、つるんでアメリカとヨーロッパのグローバル全体主義者たちを手玉に取って「演技」している可能性がある。

もちろん、ゼレンスキー氏は、自らの後ろ盾すら、手玉に取っているとしたら、命がけの演技者だ。

そんなこんなで、「カネ」だけが目的のお粗末な民主党バイデン政権は、ロシアの資源掠奪戦にも歯が立たず、おどろくほどのダメージを逆に喰らってしまった。

柔道の達人たる、プーチン氏に、返し技を受けて、気絶したごとくである。

先に気がついたのは、ヨーロッパ側で、まっ先にドイツがこけた。
なんのための、「再生可能エネルギー転換」だったのか。
まったくもって、ドイツ人を幸せにしないばかりか、この冬には凍死者が続出する可能性に震えるばかりになってしまった。

「背に腹はかえられない」から、連立与党の「緑の党」だって、原発再稼働やら石炭火力やらに賛成しないといけなくなったのである。

つまるところ、ヨーロッパ発信の「SDGs」は、ヨーロッパから崩壊をはじめたのである。
さては日本も、京都議定書からの離脱のチャンスがやってきている。

しかし、どういうわけか岸田政権は、なにも反応しない。
日本が「脳死」状態になっている。

スリランカ政変の深刻さ

深刻なのはスリランカではなくて、わが国だ、という話である。

大統領辞任どころか「逃亡」にまでなったスリランカ政変の事態は、そのきっかけが、中国による「債務の罠」だったことは周知の事実だ。
重要港を、99年間も盗られてしまったことの「浅はかさ」は、政治家たちの「個人的欲望」がそうさせた。

これを、「売国奴」というのだ。

しかし、スリランカ人が「自浄能力」を発揮できずにいたのは、かつての大英帝国支配での「被支配者」としての「奴隷根性」が残存していたからでもあろうし、英国仕込みの「統治機構」が、盤石にみえたからでもあったろう。

この点で、「英国」を「アメリカ」に置換すれば、すっかりわが国にもあてはまる。

そんななか、ラジャパクサ兄弟による大統領職の独占は、まずは「兄」の時代に親中路線が確定し、弟が大統領になってから兄の首相就任で、確固たるものになった。

なんだか、プーチン氏とメドベージェフ氏の大統領と首相の関係に似ているけれど、真似っこしたのはスリランカの方である。
しかして、これをやらせたのは誰かと下衆のかんぐりをしたくなる。

当然だけど、日本経済がよかった時代は、日本人観光客がたくさんいて、スリランカ人の日本語学習熱も高まっていた。
この小さな島(人口は2000万人程度)の経済は、農業と鉱業(ダイヤモンド以外の宝石)それに、観光業だったからである。

しかし、それよりも「親日」なのには理由があって、白人国家群(いわゆる「列強」)からのアジア解放の「希望の星」が、大日本帝国だったからである。

混沌のインドを、その狡猾さ(=腹黒さ)で支配し、成功した大英帝国の東インド会社と、オランダの東インド会社はあまりにも有名だけど、「民度」でまさるスリランカ(セイロン)の統治には、英国人をして「間接統治」の実験台にしたのである。

なんだか、敗戦後の「日本モデル」の先行事例がスリランカにある。

これには、「大陸に近い島国」という「特性」も無視できない。
英国とヨーロッパ大陸の関係、台湾や日本と中国大陸との関係に似ていて、大陸に近い島国は、独立の維持に汲汲とするのが「常」なのである。

そうでもしないと、大陸国家に「飲み込まれる」危険があるからだ。

そして、往々にして、島国の民度は敵対する大陸国家よりも「高い」という特徴もある。
狭い島国ゆえの「智恵」が働くからである。

そんなわけで、スリランカ人は、日本への期待を敗戦によっても貫いて、「日本無罪論」を法的論拠に基づいて主張したものを、インド代表のパール判事が採用して、東京裁判での日本無罪論になったのである。

日本の保守層は、直接的な「感謝」をパール判事に向けるけど、スリランカ人はこれをおおいに不満に思っている事情は、インドとスリランカの関係が、大陸と島国との緊張関係にあるからである。

この日本無罪論は、スリランカの第二代大統領になったジャヤワルダナ氏の蔵相時代、サンフランシスコ講和会議においての演説にもあった。
「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む(英語: Hatred ceases not by hatred, But by love.)」として、日本に対する戦時賠償請求を放棄する演説を行ったのだった。

そして彼の「遺言」によって、角膜を、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」が実行されて、群馬県の女性に移植されたのだった。
このエピソードは、スリランカ人でしらぬものがいないのは、小中学校で繰り返し学ぶからである。

しかしながら、日本の小中学生には「隠蔽」されているので、いまや日本人のおおくがこれをしらないで生きている。

さてそれで、弟ラジャパクサ大統領は、性急な農業政策を実施して、100%以上あったスリランカの食糧自給率を、実質的に激減させてしまった。

わたしは、この話には「裏」があったと疑っている。

じつは、習近平政権が、急激な「農業改革」を実施して、あんがいと「成功」しているという。
これが、「有機農法の普及」なのだ。

1億人の党幹部向けかどうかはしらないが、安全な食材の確保、という改革をやっているのである。
これを真似たかやらされたかはしらないが、スリランカも「有機農法」への強制的な転換が実施されて、肥料や農薬の輸入を禁止した。

それでもって、有機農法技術をしらない農民たちが、作物栽培に失敗して、とうとう主食の「米」も不足するに至ったのである。

これが、「食糧暴動」となって、大統領府を占拠するまでになってしまった。

ここでわが国の農業がでてくるのである。

欧米で使用禁止されている農薬やらが、わが国では「規制緩和」されて、とうとう、わが国の農産物は「ヨーロッパで輸入禁止措置」がとられるまでになってしまった。

日本の農産物を輸出して、香港やらで大人気だったのは、いまはむかし、のことである。
前述のように、国産の安全な農産物があるために、中国でも日本産はもう売れない。

ではいま、日本人はなにを食べているのか?
あるいは、なにを食べさせられているのか?
「食源病」という問題が、国民の健康を蝕んでいる可能性がある。

もしや、食糧不足に陥ったスリランカよりも、ずっと深刻な問題は、日本に「まとも」な食料がないことではないのか?
はたして、豊富に見える食品は、ほんとうに「食品」なのか?と追及したら、「飽食」の実態は、真夏の「怪談」よりも背筋が寒くなる話なのである。

さらなる恐怖は、とっぷりと浸かっている化学肥料と農薬を必需品とする農業なのに、世界シェアがあるロシア産原材料が「輸出禁止」になったため、来年分の肥料がない状態になっている。

原料がなければ工場も稼働せず、カネがあっても買えないことで、スリランカの失敗状態に追い込まれているのがわが国なのだ。
にもかかわらず、「圧勝」したという「与党の無策」は続き、来年にはわが国で食糧暴動が起きているかもしれなくなっている。

なお、本書によれば、アメリカ人は、食糧を「最低コストの武器」だと、伝統的に位置づけていることも、戦後の日本人はしらないで生きているのである。