沼津のカレー・ボール

わたしが住んでいる横浜からだと、国道1号線をひたすら行って箱根越えをすれば、三島をとおって沼津に着く。
高速道路を利用しない、この他のルートでは、保土ヶ谷バイパスと交差する国道246号線の「終点」が沼津になる。

誰でもが、沼津といえば「漁港」を連想するのだろうけど、行ったことがない。
魚に興味が薄い、のである。
「ない」わけではない。

神奈川県は海に面しているから、さぞや魚介が豊富かと思いきや、そんな話題はあんまりない。
面しているのは、相模湾だと思いがちだけど、しっかり東京湾だってある。
いまや、相模湾よりも東京湾の方がよほど魚が獲れるのではないか。

人間が考える「きれいな海」と、魚たちが感じる「きれいな海」の定義が違っていて、あわてて「汚す」ことを決めたのは、瀬戸内海のことである。
きれいにしすぎたら、「栄養素が不足」して、魚が住めない海にしたのが人間だった。

日本版の「死海」ができた。

相模湾の汚染は、この逆で、相模ダムと城山ダムが、腐った水を相模川に供給するので、東岸の茅ヶ崎と西岸の平塚では、絶望的な漁獲量になっている。
もちろん、小田原に流れつく、かつての暴れ川、酒匂川にも三保ダムによる丹沢湖ができて、同様に腐った水が供給されている。

それで、小田原も絶望的な漁獲量になったから、「小田原名物 干物」のほとんどが、外国産の魚を加工した商品になっている。
これが、「かまぼこ」にも影響しないはずがない。

伊豆半島の東岸の漁業は、もう伊東しかないのは、人工魚礁をいちはやく導入したことによる。
その反対側は、富士山がそびえる駿河湾で、すそ野が海面下で「深海」にまで達している。

琵琶湖に匹敵する水量をかかえる富士山は、湧水で有名だけど、おそらく海中にも湧水があるにちがいない。
それが、「汽水」となって、魚の好みに合致していた。
沼津や清水、それに焼津が巨大な漁港になった大元に、こうした自然条件があったのだ。

『これから食えなくなる魚』が出版されたのが2013年だった。
「へぇー、まさか?」と思って読んだけど、ずっと速く「現実」になった。

そんなわけで、沼津にわざわざ出かけて、「マグロ」を食べたいとも思わない。
アジとシラスがいいとこで、金目は高価で手がでない。
シラスなら、なんとか江ノ島でも獲れるから、わざわざ感がないのである。

それでも近海物のアジはやっぱり「味」があって美味い。
名前の由来がそのままだけど、これは地元のスーパーで買うのが一番だ。
醤油は御殿場の「二段仕込み」が最適だ。
100均の携帯用醤油を抜いて、旅には入れ替えて持ち歩いている。

ワサビは天城産の入手が簡単だ。
生姜をたっぷりつけてくれるのがうれしい。

今さらだけど、街を分断しているJR在来線の沼津駅を高架橋にするプロジェクトが進んでいる。
新幹線駅を排除して、三島に追いやって以来の産業衰退で、「行政代執行」をやるほどになっている。

沼津駅は、海側の南口と山側の北口の連絡通路が「ない」のである。
なんだか、かつての新潟駅と似ているのである。
だから、急ぎの場合は「入場券」を購入しないといけない。
いかにもJRは、地元に貢献しないばかりか不便を強いるのである。

そのJR沼津駅南口には、改札横にこぢんまりとしたショッピングセンターがあって、肉屋も魚屋も八百屋も入店している。
そして、入口付近に「地元名産」を扱う、沼津港の魚介類専門商社が店を構えている。

ここに、「カレー・ボール」があるのだ。

魚のすり身を加工した逸品で、意外なうまさがある。
他に、つみれ風なのに食感がソフトなものなど、全部で4種類のボールがあって、ぜんぶうまい。
1個90円。

漁港に向かう駅前通り商店街には、「日本一」を標榜する「鶏の唐揚げ」もあるし、この店の「釜飯」は、テイクアウトにして冷めてもうまい。
その先には、クオリティと値段が不一致の天ぷら屋がある。
店の上部がマンションだからできるのか?としか思いつかない。

面白いことに、このカレー・ボールが、地元でどんな評価なのかがわからないのだ。
ネット記事にも、ましてや動画サイトにも「ない」のである。
肝心の販売元のHPにすら、非掲載なのはどういうことなのか?

「謎」なのである。

でも、店先の一番目立つ配置でガラス冷蔵庫のなかにたっぷりあるから、「知る人ぞ知る」であることは確実である。
この地域なら、「黒はんぺん」が有名だけど、ぜんぜん食感がちがう。

カレー・ボールを食べたくて沼津に行く。

魚には違いないけど、こうしたものに価値がある。
美食の国、ベルギーには、「ブイヨン」という街があって、ベルギー人が認めるグルメの中心地となっている。
それで、ヨーロッパ中から食べるためだけにやってくるのだ。

沼津が大都市近郊の、「ブイヨン」になって欲しいのだけど、県庁や市役所、それに商工会が関与したら、台無しになる。

各店が、各店の味を追求すればいいだけなのだ。
知る人ぞ知るをやっていれば、勝手に客が宣伝してくれる。

統計データと現場主義

むかし、ファミリー・レストランが活況を呈していたころ、日本人の「外食に革命」が起きた、といわれたものだ。
それにまだこのころは、ファミリー・レストランのことを「ファミレス」とは呼んでいなかった。

セントラルキッチンで「半製品」を大量生産して、これを店舗に配送する。
いわば、コンビニエンス・ストアのやり方で、レストランを運営するという「応用」であった。
そして、店舗では簡単な調理手順で提供できるようにした。

これには、人間の調理技術よりも、機械の調理技術の進歩が支えていた。
すなわち、製造業でいう、「生産技術」のことである。
セントラルキッチンにいる「シェフ」たちが開発した、「料理」を、どうやって店舗で「再現」して客に提供するのか?

なので、人間のシェフの必要人数は、極端に少なくてよかった。
ところが、人間は「歳をとる」という問題がある。
それで、気がつけば「シェフがいない」という大問題になるのであった。
AIができるなら、大問題にはならないけれど。

シェフはメニューを開発するにあたって、機械性能の見きわめだけでなく、「売れ筋」と「売れなかった」とを見比べる。
ために、店舗での「残飯報告」が重要になった。
それで、「新興」のファミレス・チェーンでは、店長に「バスボーイ」の仕事を命じたことがあった。

バスボーイとは、下げもの専門の「下働き」とみられていた業務である。
退店した客のテーブルの食器類を、すぐさま片付けることしかしない。
それで、「その上」のボーイ見習が、テーブルセッティングをするのである。

入店した客から注文を取るのは、さらに「上」のボーイで、演出を要するテーブルサービスともなれば二番・三番のボーイ長の仕事となる。
いわば、「カースト制」が給仕の世界にはあった。
そうやって、晴れて「支配人」ともなれば、ようやく調理場のシェフにメニューについての口がきけるようになる。

この「伝統」を、足元から崩壊させたのが「ファミレス」だったのである。
だから、「革命的」というのは、現場の方からの言い分なのである。

メニューが多くあるように見える店は、食材の「共通」がある。
食材の共通が少ない店は、メニューが絞られる。
「営業目的」ならば、食材のムダが大敵だから、必然的にこうなる。
ムダを気にしない、かつての「王侯貴族」の政治的食卓なら、メニューが豊富で食材も限定しない豪華さを競わないといけない。

これが、「世界三大料理」を発展させた。
皇帝のための、中華料理とトルコ料理。
王のためのフランス料理である。

通常ならば、レストランという分野の商売をしていれば、「ABC分析」は常識である。
「売れ筋」の商品を、統計的なデータにして「読み込む」のである。
それで作図をすれば、「パレート最適図」ができる。

売れていれば「A商品群」、売れないものは「C商品群」として、まあまあの「B商品群」を挟んで対峙する。
経営判断として、ここからどうするかが問題解決のスタートなのだ。

もちろん、「C商品群」にあるものは「問題」だ。
しかし、「B商品群」に問題はないとはいえないし、「C商品群」のなかに「犠牲商品」という「囮」があるのに、これを排除すると「A商品群」の花形が売れなくなることもある。

そこで、商品を構成する「材料」が何かを知るために、店長に命じたのが「下げものの観察報告」だったのである。
残飯にある食材の特徴は何か?である。

こうして、統計データ「だけ」に依存しない、社内情報システムとしての分析報告をするのが「店長の最重要業務」だとしたから、従来の「最下位の業務」が、とたんに「最重要情報」を含有する、見方によっては「トップ・シークレット」にあたるものとなる。

実は、気の利くパートさんやアルバイトには、下げものを見ながら「この店」とか、「このチェーン」の弱点を見抜いていることがある。
もちろん、そんな重要情報を「報奨金」をもって報告させる企業は少数派ではある。

なぜなら、全国チェーンの大企業ほど、「統計データ」に依存するからだ。

こないだ書いた、静岡県内限定を「社是」として対外公表までしている、炭火焼きハンバーグで有名な「さわやか」がある。
県内で圧倒的な人気店だが、他県の人がこの店を知らない、で済むのか?

そこで、静岡県の販売データを、全国チェーンの他社はどうやって分析しているのだろうか?と思った。

以下は、勝手な妄想である。

時間的推移を見るための「折れ線グラフ」だけに注視していれば、「さわやか」を無視した経営をしている、という意味になる。
来店客数や回転数が、他県の実績に比してどうなのか?

静岡県を「エリア担当」して地獄を経験し、その後異動し他県での業績を伸ばしたひとが、偉くなっていたら、「静岡県はしょうがない」になって、部下への叱咤激励もトーンダウンする可能性だってある。
もちろん、「さわやか」がやっているビジネス・モデルを一朝一夕で真似ることも困難なのは熟知しているから「こそ」である。

全国平均で、静岡県での営業業績が低くても、「さわやか」が他県にいかないのだから「騒ぐにあたらない」という見方もあるだろう。
それで、「確信的」にデータ解析をさせないで、「さわやか」がない全国統一基準とすれば、考えることを「しないで済む」のである。

データから安心感を得る、心理は、わざとともなれば、それはそれで経営方針の実現ではある。

そんなわけで、県内で「さわやか」の一人勝ちが確保されている、ともいえるのだった。

共存共栄。

けれども、ハンバーグが食べたくなったら、静岡県のどこかに行けば「さわやか」があることを知ったから、余程のことがなければ全国チェーン店では注文しない「身体」になってしまったのである。

ただし、首都圏客で超混雑の御殿場店だけは「勘弁」ではある。

パンドラとイブという「女性」

パンドラは、パンドゥーラ、イブはエバともいう。
ギリシャ神話で、全能神ゼウスが造った人間の最初がパンドラだ。
イブは、ご存じ『聖書』の中の「旧約聖書」の冒頭、「創世記」で神が土から造った最初の人間アダムが、ひとりでは寂しかろうと、寝ている彼の肋骨から造ったのがイブだった。

ギリシャ神話では、地上に降りる前にゼウスが「箱:壺という説もある」を彼女に渡して、「絶対に開けてはならない」と命じる。
同様に、聖書では、エデンに暮らすアダムとイブに、この地の中心にある「知恵の樹」にある実を決して食べてはいけないと、神が命じる。

つまり、「禁断」の「箱」なのか「実」なのかはおいて、どちらも「禁止」の命令が出ていた。
そしてこの命令をしたのが、どちらも「全知全能の神」なのである。
さらに、この二つの物語において、命令を破るのも女性なのであった。

こうして、地上に降りたパンドラが開けた箱からは、ありとあらゆる「不幸や厄災」が飛び出した。
慌てて箱を閉じてみたら、「希望」だけが残った、という話になっている。
しかし、厳密には、「未来がすべて分かる禍い」が出なかったのであった。
つまりこのことは、「いつ禍いが降りかかるのかわからない」ので、「盲目の希望」とも言われる。

なかなかに、「哲学的」なのである。

こうした物語を作ったひとは、人間観察の達人で、それがおそろしく遠い過去に気づいて「神話」となった。
未来がわかればどんなに幸せか、と安易に思いがちだけど、実は「禍い」なのだという思考は、もっともだと合点させる。
すべての未来が分かってしまったら、どれほど無気力になるのだろう。
そこには、自分の命日も、死因も分かるという意味がある。

「100年カレンダー」というものが流行ったことがある。
いま、あんまり販売されていないのは、自殺を誘発するという理由もある。
細かく並んでいる「数字の羅列」のどこかに、自分の命日となる日があるのだ。
それが「不安」を高めて、偶然ではなく自分で決めることの意義を見出すという。

たかが「カレンダー」ではない。
未来に対する希望だけは失わずに済んだため絶望することなく生きていくこととなりました、という大団円的な物語が、よくいう「パンドラの箱」の話だけれど、果たしてこの「解釈」でよいのだろうか?
むしろ、人は分かりもしない未来に希望や夢を馳せては叶わずに絶望することを繰り返すようになった、とも悲観できる。

一方で、イブである。
蛇に誘惑されて、禁断の実を食べてしまっただけでなく、アダムにも食べさせる。
すると、たちまちにして「知恵」が湧き起こってきて、自分たちが恥ずかしくも裸であることに気づくのあった。
さらに、楽園を追われた二人は、未来の子孫も「労働」をもってしないと生きて行けななくなって、現在もまた未来もこれが続くことになっている「厄災」なのだ。

「勤労感謝」の思想は、ここにはない。

全知全能の神は、一体何がしたかったのか?という、不躾な疑問が湧いてくる。
これぞ、禁断の実を食べた「原罪」による、知恵なのである。
そして同じことが、ゼウスにもあてはまる。
ゼウスは何をしたくてパンドラに開けてはいけない箱を持たせたのか?

つまるところ、「禁止」があるのは、やるものがいる、からである。

むかし、知らないどの町内に行っても、「小便するな」という張り紙とかが塀に貼ってあった。
そこにするひとがたくさんいる、ということである。
それで、日本人の知恵は、鳥居の絵や、ほんとうに小さな鳥居を作って置いたのだった。
驚くほどの効果があるのは、日本人の本質を突いたからである。

繁華街に近いドイツの地下道では、その悪臭対策に悩んでいて、ついに解決方法が監視カメラになった。
十字架を掲げることをしないのは、知恵がないのか?
それとも、あまりにも畏れ多いからなのだろうか?

最後に、今様のジェンダーという視線からしたら、あり得ない女性蔑視の思想がある、と考えるのか?
ギリシャ神話も、創世記も書き換えるか印刷を禁止して排除せよと言い出したら、またまた考えることが増えるのである。

これぞ、パンドラが開けた箱の効果なのである。

北京五輪に選手は行くのか?

晩秋の気配が高まってきて、来週にはもう「師走」になる。
そして、年が明けたら「北京オリンピック」がはじまるのだけれど、「積極的に入国したい」選手がどれほどいるのか?に注目が集まっている。

「参加することに意義ある」というのは、遠いむかしのことで、プロ化したひとたちの「売名」という大会になったのがオリンピックの素顔になった。
それに、『オリンピック憲章』にはない、「国別対抗」を煽る報道も、やめるような気配なぞはなく、むしろ「国別対抗である」ということにもなった。

このことの根源には、何度も書いた「ルイセンコ」による、科学と共産主義の「融合」による、「新説」がスターリンやスターリンを批判したフルシチョフによっても採用されて、「思想強化」のために利用されたことがある。

ルイセンコは、遺伝学を否定して、「革命的遺伝学」という「新説」をもって、ソ連科学アカデミーの議長として君臨し、学問的にルイセンコ説に反対する科学者たちを、ことごとくシベリヤ送りにしたのだった。

その新説とは、
社会主義の農園で育つ小麦は、資本主義の農園で育つ小麦よりよく育つ、である。

この説を、笑い飛ばしてはいけない。
笑い飛ばしたら、家族共々シベリヤへ送られて、強制労働をもって一生を過ごすことになったことの「リアル」を想像しないといけないのである。

そこで、「小麦」を「スポーツ選手」に置き換えるだけで、「国威発揚」という「国別対抗」の意味がわかるのである。
すなわち、「優れた国家体制」の宣伝活動が、オリンピックになったのである。

すると、表彰式における「国旗掲揚」と「国歌演奏」が、『オリンピック憲章』に矛盾する最たるもの、となるはずなのが、そうはならないのはなぜか?ということになる。
もちろん、答は上述の「優れた国家体制」のプロパガンダのため、であるといえる。

「道議国家」を標榜する、わが国が、本来ならば率先して、『オリンピック憲章』に基づく「表彰式」を提案すべきところであるけれど、「道議国家」とは、単に「言っているだけ」の嘘だから、何も言わないでいるのである。
しかも、「余計な摩擦は避けるが肝心」という、「事なかれ主義」の勝利にもなっている。

さて、テニス界の女子ダブルスで世界トップにいた中国人選手が「失踪」して、世界のスポーツ界が揺れている。

原因として考えられるのは、このひとが「曝露」した、共産党の大幹部で中央政府の副総理をつとめた人物からの、「性的暴行」があげられる。
この告白直後に、行方不明となってしまったのである。

驚くことに、わが国の報道は、「不倫」という言い方に「統一」されている。
いったい誰が決めて、各社に指示を出しているのであろうか?
しかも、ご丁寧に「不倫による精神的苦痛」が「曝露」の理由だとも説明しているのだ。

しかしながら、彼女は「性的暴行」だと主張したとは、「世界の報道」なのである。
一方的だったのか、合意があったのか、では話がぜんぜんちがう。
わが国は、「合意」だと国民に刷りこみをしているのである。

直接関係する「テニス界」では、最も近しい「女子テニス界」のトップが、当該国に対して「即刻解放せよ」との声明を発表した。
さらに、男子シングルスの覇者である選手も、単独記者会見で本件に触れて抗議しているのだ。

彼女の「事件」は、政府高官を暴いたことによる「身柄拘束」という自由の剥奪を意味する。
それは、アスリートといえども、ものを言う人間であるという当然の「前提」があるから、「正確に動作する人形」なのではない。

けれども、所詮「正確に動作する人形」だと定義してはばかることがないのは、「唯物論」という邪教を信仰しているからである。
しかも、この宗教団体の幹部にだけは、「例外の自由」がある。

そんなわけで、「ボイコット」という意思表明が、政府や競技団体などの「上」からやってくる、という従来のやり方が崩れて、選手たちが身の危険を案じる、という「下」からの要求になったのである。

だから、これからは、「上」から参加せよ、という命令が発せられるという、かつてない事態が予想されて、身の安全についての選手からの要求には、「当事者ではない」ということで逃げ回る「上」を見ることができるだろう。

もちろん、「開催国」は、「身の安全を保障する」と言うに決まっているけれど、誰が信じるのか?というループした議論だけが目立つことになる。

わが国では、国家の「看板」である外務大臣が親中派を自認するひとだし、党のトップである幹事長も、外務大臣のときに「謝謝」で有名になった御仁である。
こうした人選をした、岸田氏は、どういった命を下すのか?

対するのは、外務大臣とは真っ向反対に位置する、おなじ山口県の防衛大臣と、さらにその実兄の元総理がいる。
ここで注目したいのは、「准与党」の風情になった「維新の会」という勢力だけど、どこで「親中」の牙をむくのかということだ。

「維新の会」を「保守」だと思って投票した人たちが、驚くようなことになるかもしれないから、オリンピックが「踏み絵」になるのであった。

リズ・チェイニー氏の除名処分

アメリカ共和党が動いている。

「反トランプ派」の急先鋒で、民主党ペロシ連邦下院議長が仕掛けた、議会内「1月6日委員会」の副委員長に、共和党員のまま就任したのがこのリズ・チェイニーというひとである。

もうすぐ12月なので、10ヶ月以上もトランプ氏の「犯罪」を追及している委員会なのだが、困ったことに民主党が用意した「証拠」が全部「事実と違う」と否定されてしまって、むしろ、民主党が「仕掛けた暴動なのではないか?」という疑惑すら浮き上がってきてしまっている。

彼女は、ブッシュ息子政権で副大統領をつとめた、ディック・チェイニーの長女であり、30才前半の若さで、同政権の国務副次官補(近東担当)にも就任している。
その後、2016年の連邦下院議員選挙に、ワイオミング州から立候補し当選して今日に至っている。

ただし、2013年に連邦上院議員選挙に出馬した際には、翌年に自ら「撤退」を表明することになったから、決して「順風満帆」ということではない。

さてこの度、その地元ワイオミング州の共和党から、来年の中間選挙における「共和党候補」としてという前に、党内予備選挙にさえ「出馬できない」旨の決定がなされた。
なんと、「党員として認めない」という決議がされた。

要は、「除名決議」である。

どうしてこうなるのか?といえば、彼女が「軍産複合体の申し子」であることが、ばれてしまったからである。
そもそも、ブッシュ親子が「軍産複合体」と結託した、「ネオコン」であって、父のディック・チェイニー氏は、ブッシュ父政権の国防長官だった。

ちなみに、ブッシュ息子大統領時代の国防長官は、あの、ラムズフェルド氏であった。
このひとは、ある意味正直で、産軍複合体の利益代表であることにはばからなかったし、自慢していた節まであった。

だから、あからさまな「戦争を欲する」姿は、外国である日本にいてもよくわかったので、現地では差し詰め「いっちゃっている」おじさんだったろう。

それでも、いちど成立した政権は、簡単にひっくり返ることはない。

ブッシュ父は、カーター政権以来珍しく2期目の選挙で落選し、クリントン政権に「移行」したことになっているけど、実は民主党も「産軍複合体」だから、似たもの同士なのである。
それで、ブッシュ家とクリントン家は仲がいい。

つまり、アメリカには3分割された勢力がある。
共和党は、「主流派と保守派」があって、民主党には「極左と穏健派」があるから4分割に見えるけど、共和党主流派と民主党穏健派は、バックが「産軍複合体」という意味で「お仲間」なのだ。

念のために「民主党穏健派」という「用語」だけれど、武器商人とか国際金融資本と結託した「戦争を欲する」ひとたちのことだから、ダブルスタンダードの言葉の綾に注意したい。
なお、戦後のアメリカ大統領で、任期中に戦争を「しなかった」のが、トランプ氏「ただひとり」であることが、「事実」なのである。

日本人が持つイメージとこの事実が「真逆」なのは、それだけマスコミ報道が、戦争を欲するひとたちの側にいることを示している。
「有事」となれば、テレビの視聴率が上がって、新聞も売れるからである。
だから、トランプ氏の「本物の平和主義」が、「危険」なのだ。

そんなわけで、リズ・チェイニー氏には、党内保守派の「突然変異」ともいえるトランプ氏が宿敵となる。
たいがいの政治家が「利権」を貪るのに対して、トランプ氏は本人が認める「十分な金持ち」だから、そんなものに興味が無い「変人」なのである。

このことの根底に、アメリカを建国した「清教徒」の流れがあることを忘れてはいけない。
共和党の歴史を遡れば、リンカーン大統領にあたって、さらにたどれば初代ワシントンに行きつく。

ワシントンは、アメリカに党派争いはない、と断言している。
なぜなら、建国を勝ち取った国民全員が「共和主義者」だからだ、と。
これが、アメリカという「共和国の本質」なのである。

日本では「共和党」を、金持ち優遇の党として認知されているきらいがあるのは、産軍複合体の利権にまみれたひとたちが、ときたま政権を得るからで、それをあろうことか共和党「主流派」と呼ぶのである。
建国以来の「共和主義=保守本流」の人々からしたら、まさに「笑止」なのだ。

しかしながら、はじめはヨーロッパから食うや食わずの移民がやってきて、せっかく新大陸にやってきたのに、やっぱり喰えないひとたちが多数になったら、民主党ができた。
だから、民主党が強い地域が、東西の沿岸部になったのである。

その意味で、南北戦争をやって共和党と闘ったはずの「南部」が、いま共和党の牙城なのは、歴史の皮肉である。
これには、かつての南部が、ヨーロッパ最貧のアイルランド系移民による成功と挫折というストーリーがある。

あの名作、『風と共に去りぬ』とは、まさにアイルランド系移民の「恨み節」なのだという、野口悠紀雄の指摘はぐさりとくる。
そのアイルランドが、ITと自由化によって、英国をも凌ぐ経済大国になったことを、現代アメリカ人は知っている。

そんなわけで、子供時代から、あたかも「子役」として、父親の選挙応援をしながら育ったリズ・チェイニー氏にとって、若かくして得た高位の「ふつう」が、まさにトランプ氏という変人によって崩壊の危機に立たされて、徹底抗戦した挙げ句の、地元からの「三行半」となったのである。

これを突きつけた地元の民意とは、彼女への「民意を知らないひと」という評価に過ぎない。

このシステムが、わが国に「ない」のである。

ほらきた「55兆円」の補正予算

予想通りの予想が当たったことが、うれしくもなんともなく、ただの「ため息」が出るばかりだ。
驚くほどの「凡庸」としか言い得ない。

前に書いたようにアメリカでは、二大予算案の攻防が、来年の中間選挙に影響を与えること「必定」となっているのに、わが国で、ことごとく「順番が違う」ことになっている。
選挙前どころか、総選挙後の、「これ」である。

つまり、選挙前も選挙中も、有権者は「こんな話は聞いていない」のだ。

インチキの典型である、「後出しジャンケン」をやっている。
これが、「武士道」なのか?といえば、誰だって笑い転げる冗談だ。
日本を牛耳るひとたちは、ただの姑息な輩に墜ちたのである。

外国人から、「武士道」を言われたら、とにかく穴に入って出てこられない、「黒帯が泣く」ことになったのである。

そこへいくと、「ヤンキー」たちはまだ「まとも」だ。
使うお金と財源を「同時」にちゃんと示している。
たくさん使うから、増税します、と。

もちろん、バイデン氏が「公約」にしたのが「増税」だったから、ここでも嘘は言っていない。
ただし、選挙公約で「増税」を掲げて当選した稀有な例ではある。
それで、史上初の8000万票を獲得して、やっぱり史上初の7400万票の現職を破ったのである。

合わせてこんなに投票があったのも、史上初だったけど。

トランプ氏はレーガン大統領がやった「大減税」の上をいく「大大減税」を実施していた。
これで、アメリカ経済は「絶好調」になったのだ。

70年代から80年代、ノーベル賞をとったサムエルソンの『経済学』が、どの大学でも教科書になっていた。
いわゆる、ケインズの「有効需要創出」に関しての常識に、ソ連型社会主義をあてはめた、「ポリシーミックス:新古典派総合」がもてはやされた時代であった。

いまからしたら、「米ソ冷戦」とは、あんがいと経済学も幸せな時代だったかと思う。
「ソ連の脅威」に対抗すべき経済理論の最右翼が、ソ連型を認めるものでも「通った」からである。

天才サムエルソンをして、ソ連経済発展を死ぬまで疑わなかったのは、「国家統計」の妙であった。
「嘘で固めている」とは、天才にして想像もつかない。
なぜなら、そんなデータで「計画経済」ができるはずがないからである。

しかし、実態は、そんなデータであった。

だから、計画経済ができるはずがなかったし、計画経済なんてできるはずがないとした、ミーゼスの指摘をサムエルソンは意図的にか「無視」していた。
つまり、二重に重要な条件を無視した、「砂の器」がサミュエルソン経済学になってしまったのである。

それでも、剥奪されないノーベル賞学者なのだ(クスッ)。

そうなると、この「教科書」で学んだかつての学生はどうなるのか?
学業成績優秀者とは、学校で言われたことを「忠実」に、かつ、「頑な」に守ることに秀でたひとたちをいうから、ヒヨコが最初に目視した「動く物」を母と思いこむようなことになる。

本質はどうでもいい。
教科書通りを書けば、「優」が取れて進級できる、ということを優先させて、そのまま就職するのである。
そして、成績優秀者ほど、役人になるのがわが国明治以来の「掟」なのだ。

一ケタの年齢からの人生の始めにこの「訓練」を10年以上も受けたひとたちが、自分の幼少期からを否定するようなことはしない。
ましてや、現に「エリート」になっているのだ。

それでもって、今度はその世界でエリートから逸脱しないように、「状況」に敏感にもなる。
つまり、「外れ値」にならないよう、常に「平均」付近でいられるように努力する。

しかして、この「努力」とは、「自己研鑽しない」という努力なのである。
「安逸であれ」という「停滞」こそ、「平均」でいられる近道となる。
だって、小学校から頑張ったのだ。
そんな自分が適当にやっていても、小学校から遊んでいたひとたちには「凄い」といわれるのだ。

そんなわけで、サミュエルソン経済学の中身なんて覚えていない。

そういえば、「乗数効果」なんてことを習ったかもしれない。
それは、「財政出動」で「有効需要」を刺戟したら出てくるんだっけ?
あれ、「減税」でもそんなようなことがあったっけ?

でも、役所で「減税」なんて言ったら、身が危ない。
日本政府の辞書に「減税」なんて言葉はない。
あるのは、「増税」だけなのだ。
それで、どんな増税の方法を編み出すのかが出世の早道になっている。

だから、最初にたくさんのカネをばらまいて、あたかも「経済政策」をやっている振りをする。
その「効果」については、審議会の御用学者がなにか理屈をかんがえる。
その理屈が「理にかなっている」かどうかは、どうでもいい。

どうせやってみないとわからないし、やって効果がなくても後から理由はどうにでもなる。
それより厄介なのは、有力議員へのキックバックを仕込むことだ。
どっちにせよ、増税の理屈になればよいのである。

アメリカ人はバカだと思う。
どうして使う話と増税を一緒にするのか?
先にばらまいてしまえば、国民は喜ぶのだ。
政府のおかげだ、と。

それで、下手から摺り手をして、もうダメです、大変です、デフォルトするかもしれません。
助かる道は増税しかありません、と言いふらせばいい。
こうしたら、国民は、仕方がないと応じてくる。

デフォルトが起きるといえば、コロナのように心配してくれて、ほんとうはどうでもいい「孫子のために」が、決め手になるのは、「現世利益」を掲げる連立与党の信仰の根幹だ。

まことに「愚民」とは便利なものなのである。
「すべては役人のために」という、むかしのビールのコマーシャルをパロディ化して、永遠の役人天国が続く。

医学は科学なのか?

「宇宙人的な成績の優秀さ」でないと、とうてい入学できないのが東京大学理Ⅲ(医学部)ということになっている。
つまり、わが国の最高学府と呼ばれる「大学」で、最高難易度が「東大医学部」なのである。

ちなみに、「東大」自体は、最高難易度ではなくなっているので念のため。
ただし、尾てい骨のように、「東大神話」が残っている。

これが、本物の「神話」より「事実と違う」のは、政官財、それに法曹界と医学界に君臨している「ぶ厚い東大卒」のひとたちが、この30年間「頑張った」おかげて、わが国の衰退が止まらなくなったことでわかる。

かれらが唯一言える「言い訳」とは、きっと自分たちがいなかったら、もっと酷いことになっている、という脅迫めいたことしかない。

だから、一般人はひるむことなく、「では実験してみましょう」と言って、世の中から「東大卒の肩書き」で頑張っているひとたちに「引退」してもらうことを決めればよい。

すると、「政界」も、たとえば連立与党の党首とか、この党と支持者層を同じくする日本共産党も、最高顧問とか党首が、引退しないといけないし、与野党問わず、国会議員の多くが引退して「(東大卒以外の)後進に道を譲る」ことになる。

「官界」では、かなりの数の「キャリア」が退職して、役所がスリムになること確実だ。
「行政が滞る」というのも「悪い神話」に過ぎない。
いまの状態からの「滞り」なら、「余計なこと」ができなくなって、それは国民のためになる。

ちなみに、この「余計なこと」には2種類あって、一般会計での「余計なこと」と、「特別会計」そのもののことをいう。
もちろん、全国の地方自治体も同様である。

「財界」は、もっと劇的な変化になる。
同級生や先輩たちに、「補助金」を乞うて貰うことで社内出世した乞食根性のひとたちがいなくなるからである。

「法曹界」に至っては、裁判長の学閥優先で「真実を追及しない」という慣例が壊れるから、その学閥で勝訴していた弁護士も引退しないといけない。
そもそも、「東大法学部」もなくさないといけないのだから、学閥ごと消えてもらうことになる。

さてそれで、「医学界」だ。
「超優秀な学生を集めたのに、卒業時には凡人になる」がご同僚教授陣の「嘆き」だったことを曝露しながら、養老孟司医学部教授は、統計で言う「外れ値」の状態を「正常化」してあげたと評価すべきと言っている。

あえて、大先生に反論すれば、その「正常化」の過程における、「教養」の注入が少ないために、できあがる「凡人」が、あまりにも「世俗的な凡人」になってしまうから、縄張り内で「君臨しようと画策する」のが、自分たちの権利だと勘違いするのだ。

半年ほど前に、「産学連携の悪夢」を書いた。
その前に、東大をはじめとした「国公立大学」は、与えられる機材の豪華さはもとより、授業料という経済負担でも「優位」に立っている。

すると、研究機関としてと、教育機関としての二面性が、混在しているのである。
「大学改革」が面倒な議論になるのは、混在したままの議論しかできないからである。

もちろん、「医学部」には、実験がつきものだけど、さらに「実験施設」としての「付属病院」も用意されて、日夜「人体実験」が行われている。
大学病院に入院したがるひとがいるけど、自分がモルモットになることを意味すると考えない不思議がある。

この世にいる限り、生きとし生けるものは全て死ぬのである。
その「死」を、他人に委ねる場の典型が、大学病院だ。
だから、後世のひとの役に立ちたい、という心掛けをもって、大学病院の門戸をたたく覚悟がいる。

しかし、そんな「本音」を大学病院やら「医学部長」が発言したら面倒なので、黙ってモルモットになることを言わずに、あたかも「治療する」風情を醸し出しているのである。

そんなわけで、大学の医学部には様々な実験施設があるから、もう一つの大きな勘違いをしてしまう。
それが、「医学=科学」という間違いである。

純粋な科学とは、「宇宙法則」に見られるように、「原理・原則」の追及なのだが、医学には研究分野と臨床分野という2面性があるのだ。
それに、理学や工学といった異分野との壁が取り払われてきた。

もちろん、西洋医学の系統もむかしは、「原理・原則」に重心があったドイツと、「臨床」に重心があったイギリスとに大別できた。
それが、どんどんと「学問が進歩した」おかげで、逆に、「人体」への理解が困難になっているのである。

研究すればするほど、わからなくなる。

たとえば、どうしてこの薬が「効く」のか?も、ほんとうのところ(厳密に)は「よくわかっていない」のである。
つまり、ほんとうは「ぜんぜんわからない」けど、わかったつもりにしないと、全体が破たんしてしまうから、「つもり」でいることにした。

この薬が効きます、ではなくて、この薬を飲むと飲まないでは、おそらく飲んだ方が症状に効くけど、それでもって、その他のことにどんな影響があるのかは、飲んだ人の個体によるかもしれない、というのが正しい。

「つもり」になった医学が、どんどん科学から離れていっているのである。

加工用トマトの闇

2018年4月をもって廃止された法律に「種子法」があった。
農産物とは、わたしたちが口にするものを意味し、農産物のすべては、「タネ」から育てるものなので、食料の根源的な法、という意味がこの法律にはあった。

つまるところ、一般家庭であれ、プロの料理人が調理する食堂やレストランであれ、あるいは、高級ホテルであれ、元をたどって行き着く先には、かならず畑だけでなく、タネがある。

しかしながら、あんがいと話題になるのは「栽培方法」であって、なかなかタネまではいかない。
有機であろうがなんであろうが、「タネ」こそが根源なのである。

日本人が伝統的食べ物だと思ってきた食品には、「遺伝子組み換えではない」ということでの「こだわり」があったけど、2023年の4月1日からは、事実上の表記がなくなることが決まっている。

「消費者庁」が決めたことだ。

もう40年前にもなるベストセラー『選択の自由』(ミルトン・フリードマン、ローズ・フリードマン、1980年)には、「消費者を守るものは誰か」と「労働者を守るものは誰か」という章が続いていた。
どちらも、消費者団体でも労働組合でもない、という結論だった。

だから、フリードマン的論理でいえば、消費者庁が消費者を守るものではない、というのは至極当然な結論となる。
これが、「産業優先」という、明治以来の「国是」と重なり、「戦時体制」としての「総動員」が終わらない理由である。

どうして遺伝子組み換え表記が「なくなる」のかといえば、「基準が厳格化される」からである。
現在の基準では、許容範囲を5%以下としているが、これを0%とせよ、ということになった。

なお、対象となるのは、小麦とトウモロコシと大豆「だけ」である。

これらの「穀物」栽培では、遺伝子組換えをした種子を栽培する畑と、そうでないものとの区分が厳密にできていない。
隣接した畑からの花粉が、風とかで交わるからである。
そこで、許容範囲が設定されている。

ちなみに、この手の話ではたいがいが厳密なヨーロッパ基準では、9%と日本より「緩い」ことが意外だ。
さほどに、区分が「困難」ともいえる。
それを、ゼロにせよとは、「無理難題」を消費者庁は言っているのだから、事実上「表示不可能」になるのである。

「コロナ撲滅」という潔癖主義の無理難題と、自然としての「コロナとの共存」という正反対が、「タネ」でもある、ということだ。
病的な潔癖主義が優勢なのは、ふだん「自然は大切」というひとも含まれるご都合主義があるからである。

もちろん、「遺伝子組換え」の方がはるかに原価が安くなるので、今度は一斉に「コスパ」を優先すると役人は予想している。
消費者庁は、暗にそうしろ、と誘導しているのだ。
豆腐も納豆も、遺伝子組み換え大豆が当たり前になる?

買い物の現場での、買い物行動で「所得格差」がわかるようになれば、見栄でも遺伝子組換え原料の食品を買わない、とするのか?
それともみんなが買っているからと、遺伝子型ワクチン接種と同じで、「感覚麻痺」させるのか?の攻防があるのだろう。

「安いが一番」の勝利となるかが、注目される。

さてトマトである。
こちらは、「生食用」と「加工用」に大別される。
加工用トマトは、長細くて皮が固く、水分が少ないから「生」で食べてもおいしくない。ハッキリ書けば「まずい」のだ。

一方で、日本人がイメージする生食用の丸いトマトは、料理用にしたら水っぽくておいしいトマトソースにはならない。
そこで、「缶詰」が重宝される。
この缶詰の中身は、加工用トマトなのだ。

トマトジュースも、トマトピューレも、もちろんトマトケチャップも、缶などの容器にパッケージされているものは、みな加工用トマトの「製品」なのである。
そして、これら加工用トマトは、ほぼ全部が遺伝子組み換えされたタネから育ったものだ。

そのタネは、ケチャップの世界最大手、ハインツの研究者によって作られた。
「濃縮」するために水分のない品種で、煮詰めるための燃料費を節約し、なによりも収穫しやすい、ポロリと取れる「額」の形状にしたのだった。

いまや加工用トマトの産地として、新疆ウイグル自治区は世界第二位となっていて、三倍濃縮された「原料」がヨーロッパ(ほぼイタリア)に輸出されている。

不思議なことにEUは、ヨーロッパ域内で再加工された製品の「原産地表記」を曖昧なままに放置している。
それで、新疆ウイグル自治区からの「輸入品」を、EU域内(ほぼイタリア)で再加工(二倍濃縮:三倍から希釈)したら、これを「イタリア製」としても合法なのである。

ご当地で「合法」だから、これをそのまま日本に持ち込んで「イタリア製」と表記しても文句をいう筋はない。
トマトの缶詰がスーパーで「100円しない」ことの大きな理由がここにある。

いま、新疆ウイグル自治区といえば、話題がありすぎる。
「ナイキ」や「アディダス」がやり玉にあげられて、ユニクロや無印良品にシフトした。

でも実は、「トマト缶」がもっと「やばい」のだ。

「一帯一路」で、ヨーロッパ側の終点になっているイタリアの事情も、トマトでつながる。
二次加工には、東ヨーロッパやアフリカからの(不法)移民が奴隷的労働に従事させられていて、これをマフィアが囲っている。

数百円でおいしいピザ(トマトソース)を食べられるのも、こうした人たちの血と汗の賜なのだった。

さて、「業界」として、スニーカーやアパレルメーカーの他人ごとでは済まない話が出てきたのである。
コロナでは政府に隷従したけれど、トマト缶を使っているなら、どうするのかをいまから考えて、対策をとっておいた方がいい。

トマトが南米からヨーロッパに運ばれたのが16世紀。
地中海地方では「伝統的食材」と思われているけれど、当初は「観賞用」で、「食用」として普及したのは19世紀だ。
たった200年ほどの歴史しかない。

日本では、戦後の「食の洋風化」の時期とおなじに普及したのでせいぜいここ半世紀のことだ。

さりげなく存在するトマトなのではあるけれど。

ワシントンポスト紙の記事訂正

日本ほど酷いのか、それとも、日本の方がまだ劣るのかは知らないけれど、「嘘八百」を書き続けて、世論誘導するのが「世界のマスコミの存在理由」になっている。

いつもながらに「世界」をけん引するリーダーは、「腐っても鯛」のアメリカなので、アメリカのマスコミがもっともわかりやすく、読者を誘導している。

幸か不幸か、日本人のほとんどが「英語を解さない」ので、アメリカのマスコミが書きまくる、トレンドとかブームとかキャンペーンに、日本人はしらないでいられる。
ただし、江戸時代に唯一の情報の窓だった、「長崎出島」よりも、実態を包み込んでさらに歪めた記事にするのが、日本のマスコミになっている。

「自動翻訳」がずっと進んでくれば、スマホに配信される外国のニュースも、なんの違和感なく「日本語」になって画面に出るようになる。
そうやって、「情報のグローバル化」も完成する。

そのとき、わが国のマスコミは、「お悔やみ記事」専門になっている可能性があって、団塊の世代が消滅したら、一緒にフェードアウトして消滅の運命にあるのだろう。
死亡情報すら、「個人情報」になりかねない。

人間関係の「分断」による「アトム化」とは、そういうものだ。

それに、情報のグローバル化とは、人間の思考が世界規模でフラットになることを意味するから、「独自文化」というものも、ほとんど消滅することになる。
この意味で、「報道」とは、そのまま独自文化の確認でもある。

こんな重要なことに、報道機関のなかのひとたちが気づいていない。
しかしながら、それが国民の不幸のはじまりだから、「ざまぁみろ」とはいかないのである。

つまり、「目を覚ませ」ということだ。

2016年の大統領選挙のときから、トランプ氏が巻きこまれたのが「ロシアゲート疑惑」という、「架空のキャンペーン」だった。

そのキャンペーンを画策した、ヒラリー・クリントン氏の「絶対勝利」を、わが国政府も確信して、選挙投票日前にわが国総理が、彼女を訪問したのは、これをやらせた外務省の情報が、真珠湾攻撃に至るまでのお粗末と同様以下のレベルだと世界にしらしめた。

なお、その外務省が嫌うのが「二重外交」というもので、外務省を通さない議員外交などを指す。
国家の外交には、「窓口は一つ」だという原理原則があると事あるごとに主張してきたのだ。

ところが、これがとんだ「ただの省益」だとばれたのが、選挙中の大統領候補の一方に日本の総理が面談することの、アメリカ政府にとっての「二重外交」を無視したことである。
なんだか、韓国政府がわが国にしているのと似ているのだ。

アメリカからすれば、「フライング」では済まされない。
もっといえば、投票権のあるアメリカ国民に、わが国がバイアスをかけるキャンペーンをしたことにもなるから、れっきとした「選挙への外国政府の干渉」を日本政府がやったといえるのである。

なお、ロシアゲート疑惑とは、政権移行前にトランプ次期政権で高官に就任予定の元将軍が、現職ロシア大使と情報交換したことをきっかけにした。
すると、ヒラリー氏が当選前に現職の日本の総理と情報交換したことは、どういう意味なのか?という立派な「疑惑」にもなるのだ。

一歩まちがえば、「ジャパン・ゲート事件」になりかねない、危険な行為なのである。
これをやった、外務省幹部はごっそり罷免して入れ替えないといけないほどの「歴史的不祥事」である。

もちろん、こんな程度の外務省の役人にそそのかされて、のこのこと選挙中のアメリカにまで行って、にこにことヒラリー氏と握手して、写真を撮ってきたわが国総理の見識のなさは、歴史的な「おおボケ」をやってのけたのであるから、まともなマスコミなら、叱り飛ばして当然だった。

こんなことをした他の外国のトップが誰もいないのは、当然で、もしも「母国」の英国首相が同じことをしたら、大スキャンダルになるはずなのは上述の通りである。

ところが、「公正中立」を標榜するわが国マスコミが、さらに腐敗しているので、一緒になってはしゃいだのである。
「これで、先駆け」ができた。
当選確実のクリントン政権が「正式発足」したあかつきには、日米関係は濃密になる、とかなんとか。

ところが、無名でハチャメチャのトランプ氏が当選した。
そのトランプ大統領に会うために、恐る恐るで訪米したら、なんだかとっても「信頼されてしまった」ようだったのは、彼独特の当てつけ表現に見えたのだけど、阿呆な日本の総理はご満悦だったのである。

わが国では、「おそロシア」のプーチン氏を批判してはならないと、勝手に擦りよって、「ロシアゲート疑惑」にはあんまり触れず、トランプ氏の「異常」に注視した報道で、日本人を「反トランプ」になるように画策したのであった。

もちろん、トランプ氏の「ハチャメチャ」とは、伝統的な「業界優先」ではなくて、かつてない、国民のための政治、を実践したことによる。
それがあまりにもにわかに信じられないほどの「画期」だったから、誰もが最初に仰天したのである。

だから、トランプ氏が何を言っているのかをよく聞くか、読めば、日本人だって感激するような内容に驚くし、それをほんとうに4年間で「有言実行」したのである。
これが、「打算の保守勢力」がもっとも恐れ嫌う原因なのである。

さて最近、この「でっち上げ事件」について、仕掛けた容疑者が逮捕されて、容疑を認めたことから、いよいよ「でっち上げ」が確定してきた。
民主党がいう、さまざまな「証拠」が、「でっち上げ」という「虚偽」だったのである。

それで、とうとう、民主党支持を表明して報道している、ワシントンポスト紙が、「でっち上げの誤報でした」という訂正記事を出したのである。
ただし、悪いのは自分たちの取材力の欠如ですとか、裏取りをしなかったことの「反省」をしているわけではない。

民主党が発表したことをそのまま記事にした、という子供の言い訳のようなたわごとを主張しているのである。
ましてや、他社はまだ追随していないから、まるで「ダイオキシン」のときのように、アメリカ国民には「ロシアゲート疑惑」が脳にこびりついているにちがいない。

とにかく、頬被りをすることしかしない、わが国のマスコミよりは、ほんの少しだけ、まともさを表明したのは確かではある。
単なる「逃げ口上」かもしれないけど。

自民党の分裂を促す

「総量規制」の実施でバブルを崩壊させた宮澤喜一内閣から30年。
やっとこさで宏池会が政権を奪取して、岸田文雄内閣ができた。
つまり、一世代まるごと非主流派だった人たちの恨み辛みが詰まっている政権だ。

改めて政権の流れを書き出すと、次のようになっている。
1991年~1993年 宮沢喜一  宏池会 大蔵官僚
1993年~1994年 細川護熙  日本新党 記者
1994年~1994年 羽田孜   田中派→竹下派(経世会)会社員
1994年~1996年 村山富市  日本社会党 県議
1996年~1998年 橋本龍太郎 竹下派(橋本派) 会社員
1998年~2000年 小渕恵三  竹下派(小渕派) 大学院
2000年~2001年 森喜朗   三塚派(清和会) 記者
2001年~2006年 小泉純一郎 森派(清和会)→無 福田赳夫秘書
2006年~2007年 安倍晋三  町村派(清和会) 会社員
2007年~2008年 福田康夫  町村派(清和会) 会社員
2008年~2009年 麻生太郎  宏池会→麻生派   経営者
2009年~2012年 民主党政権
2012年~2020年 安倍晋三  細田派(清和会)
2020年~2021年 菅義偉   無        会社員
2021年~     岸田文雄  岸田派(宏池会) 銀行員

ついこないだまでの、安倍長期政権があったから、なんだかわが国は安定政権が続いていたかのような錯覚があるけれど、ぜんぜんそんなことはない。
むしろ、コロコロと内閣が変わるのは、戦争前の状況に似ている。

ただし、戦争中までは、いっぱしの独立国だったばかりか、アジアで最強だったので、腹黒い欧米諸国(「列強」とも言った)と対等の立場であったから、逆に戦争ができたともいえる。

大名が合戦をしたのは、武士の身分をもって闘うという形式だったから、住民には他人事ではあったけど、兵粮の調達で掠奪されるのは不幸だった。
これが、国民国家に再編されると、職業軍人だけでなく「兵隊も国民」になる。

だから、戦争も他人事ではなくなった。

それだけに、国民は世界情勢に敏感になるのは当然だ。
なので、政府はマスコミを統制して、情報コントールをあからさまに実行した。
集会の弁士が逮捕されたり、新聞が発禁処分されたのである。

その代表格が、宮武外骨で、入獄4回、罰金15回、発禁14回という「記録」がある。

いまの政府は巧妙なやり方でマスコミを統制しているけれど、国民が他人事になったから、世界情勢に疎くても気にしないで人生をほしいままにして生きていける。
このことを、平和ボケという。
あるいは、愚か者の平和ともいう。

そんなわけで、どちらの国民政府も国民を巧妙に支配することを旨とする。
特にわが国の明治維新では、萩藩のDS(ディープステート:闇の政府)だった「撫育局」をコアに据えた、政府のための政府を作る活動だったので、強固な日本的DSがいまだに君臨しているのである。

それゆえに、国内の「表向き」をどうするのかが、常に問題になって、DSの存在を国民に知らしめないことが最優先される。
だから、いかなる政権交代があっても、政府が国民を支配するという構図に変化はない。

DSにとっては、仮面を付け替えるだけのことに過ぎないからである。

もっと言えば、DSに都合の良い政権が望ましい。
それで、DSに都合が良過ぎて、国民が不満なら、好きなように政権交代させればそれで済む。
DSが譲らない一線とは、予算編成権であり、その奥深くにある、特別会計の独占なのだ。

だから、吉田茂の系統である宏池会だろうが、岸信介の系統である清和会(安倍派)であろうと、どうでもいい。
ちなみに、かつて田中派→竹下派経世会がキングメーカーだったのは、DSたちを優遇したからである。
それが衰退したのは、DS優遇をし過ぎて、自分たちの取り分がなくなったからだ。

萩藩とは、毛利家のことだ。毛利が最初に得た領地は、新潟(越後)と広島(安芸)だ。
つまるところ、広島出身の宮澤氏や岸田氏とは、実質毛利内閣なのである。

それに、宏池会が「保守本流」というのだって、読売新聞記者だった戸川猪佐武が書いた、グローバリストの吉田茂を戦後のヒーローに仕立てた『小説吉田学校』であった。

宏池会が「何を保守している」のか?について語らないのが、暗黙のルールになったのは、わが国のDSにも都合のいい「占領政策」に歯向かうことになるからである。
それと同様に、宏池会が、「藩内」で、安倍派と一線を画するという表向きは、逆にDSには都合がいい。

そんなことから、国民の不人気をわざとやらされる岸田短命内閣に、哀れさすら感じてしまう。
たとえば、18才以下への「配分」を二回に分ける「愚」とか、ガソリン高騰の「対策」に、補助金を充てるとか。

何のための2回で、しかも二度目が「クーポン」なのか?
それに、ガソリン税の消費税との「(憲法違反の)二重課税是正」を言わないし、税額の「53.8円/リットル」のたったの1割=5円とするケチ臭さは、政権がDSのコントロール下にあることを自白している。

だから、もっとDSに都合がいい理由から、党を割って独立する安倍派に、またまた次の内閣を作らせて、あたかも保守合同「前」に戻るようになると予想するのである。
いまの「野党」では、演技が下手すぎてDSの存在がバレるからだ。

もちろん、なにがあっても国民に都合が良いことがあるわけではない。