日本人を棄民する日本政府

いつから日本政府は日本人を棄民するようになったのか?といえば、ずっと前からである、となる。
山田長政の時代から、本国の都合による「通達一発」で、在外の日本人は「棄民」の対象となったのだ。

師走になって、正月の一家団らんを阻止する、というのは、共産主義の「個の分断」という重要政策なのである。
ましてや、政府という「行政権力」が移動の自由を侵害するのは、明らかに「憲法違反」である。

無論、コロナとか変異種などという「ありもしない病気」を理由にすることは、最初からあり得ないし、もしも一万歩ゆずって、「感染症」としても、その「弱毒性」に鑑みれば、まったくのナンセンスなのである。

さらに、今回の「帰国阻止」の裏には、「政府の絶対性」まで見え隠れする。
命令すればなんでもできる、という「魔法」が使えると信じる組織人たちがいることを明示した。

それが、国土交通省であれ、厚生労働省であれ、はたまた入国管理の法務省であれである。
たまたま今回の「主役」にしゃしゃり出たのは、自公連立以来、ずっと公明党が握る大臣ポストである国土交通省だった。

その大臣も、事務当局の「勝手」と他人事を装い、総理も「知らなかった」と弁明した。

世の中で、「自分は知らない、聞いていない」というトップの弁明ほど、空しいものはない。
組織の長として、「無能」の証明になるのは、ビジネス界の常識だから、即刻「辞任」するのが「筋」というものだ。

すなわち、統治能力無し、ということである。

しかし、ふつうの組織なら、トップの責任と同時に当事者の責任も問われる。
当該部署に連なる「管理職」の更迭処分も、即座にとられて「当然」なのだ。

けれども、そんな動きはどこにもない。
これが、「組織ごと腐った」ことの証明だ。

端的にいえば、国土交通省航空局のことである。
この「局」の無能は、JAL倒産という「事件」でも、国民の前にさらされたけど、「当局者」たちの責任追及とおとがめは、やっぱりなにもなかった。

「行政指導」という、箸の上げ下げまでに似た事実上の詳細な命令をしておいて、リモートに失敗したら、自分たちはサッサと逃げて白を切る。
こうした人材は、どうしたら育成できるものか?を、東京大学に聞いてみたいが、きっと就職先の問題として逃げて白を切るのだろう。

これらの「すそ野」に広がる、どうしようもない輩が跋扈しているのが、我が国の「病根」を構成している。
さしもの東大医学部をもってしても、治療不可能な「病根」であり、それは、「癌」より深刻な「死の病」を発症していることでもある。

この点、「自然」な経済は、そのまま「経済原則」が働いて、我が国へ向けた「帰国便」のチケット代が「高騰」したのは、予測可能な「当然」だ。
「需要と供給」という、単純かつ複雑な価格決定メカニズムは、政府の命令では動かないから、魔法も意味しない。

「全便停止」が、すぐさま「中途半端」に弛んだので、週に1便となった「貴重」が、チケットの価格を自動的に数倍(7~8倍)にしたのである。

海外旅行に団体ツアーでしか行かないひとにはわからないけど、「往復の航空券」を持っていないのか?という疑義をいうひとがいる。
いまどき「観光で海外旅行」はしないから、どうしてもの短期出張などなら、いえるけど、「政府が運行中止」を言いだした前代未聞なので、帰りの分は「払い戻し」されれば終わりだ。

ましてや、在外在住者であれば、その都度チケットを現地で購入するのがふつうである。
買ったはずのチケットが強制的に払い戻しになって、新規の倍率で「競争入札」しないと帰国できない、という事態を日本政府が「つくった」のだ。

日本行きの便を飛ばす航空会社(外国の会社も)からしたら、発券したものの払い戻しという「余計な手間」は、ばかにならないコスト増になる。
下手をすると、損害賠償を請求されてもおかしくはない。
その「原資」も税なのだから、国民には納税意欲も失せるのである。

それで、岸田首相が言った、「(感染の)様子を見ながら確実に」という言葉で、「便数の増減」を示唆してしまった。
この御仁も、自腹で飛行機単体に乗ったことがない、団体ツアーと同じ発想をして、迷惑このうえないことになることの予想も出来ないことを自白した。

「競争入札状態」になった、帰国便のチケットは、便数が増えれば「暴落」することにもなりかねない。
だから、どうするのかハッキリしない物言いは、帰国希望者からしたら、おそろしく「迷惑」な発言となる。

いったい、いつのタイミングで「買い」のボタンを押せばいいのか?
ただし、年が明けた1月の航空券は、「通常どおり」で販売されている。
だから、本当に「季節商品」と化して、「時間」が価格を決める「要素」にもなっているのだ。

例えば、毎日運行(7便)でこれまで10万円だったものが、1便となって70~80万円になったのは、実は「高騰」でもなんでもなく、プレミアムが加算されても10万円程度だから、需要増だけの「適正」ともいえる。
だから、もしも週2便となれば、あっと言う間に半値の35~40万円になると予想するのがふつうである。

でもそれが実額で40万円の違いとなれば、庶民ならハラハラドキドキものになる。
一家4人の正月休暇帰国なら、160万円が吹っ飛ぶかもしれないのだ。
しかし、「元」なら40万円で済む話だから、在住者たちが怒り心頭に発するには十分すぎる理由となる。

来年の参議院選挙で、「在外選挙投票」はどうなるのだろうか?
日本大使館、あるいは空港で、はたまた国内のどこかで、投票箱ごとすり替えるのだろうか?

はたして、こんな体たらくの政府に、それでも社員を帰国させる企業は文句を言わない。
関係する航空会社はちょっとだけ言ったけど、あとでどんな嫌がらせをされるかしれないから、だんまりを決め込んだ。
もちろん、もっと弱い立場の旅行会社は、言うに及ばず。

すなわち、日本政府こそが「反社勢力」なのであると、国民に示したのだ。

いつからか?
じつは、ずっと前からなのである。

コストコは「紙」だらけ

それなりの年会費を徴収して買い物をさせるとは、アマゾンのプライム会員と似ていると言えば似ているし、会費の額も似ている。

横浜には、市内の「金沢区」という、横須賀に近い南端の区にコストコができたのは、2004年のことで、国内第4号店だった。

ちなみに、この区は横浜市内でただひとつの「藩」である、「武蔵金沢藩」だったという由緒がある。
逆にいえば、その他はぜんぶ「天領」だから、お代官様が仕切っていた。
ただし、人口爆発は「開港後」のことなので、おおくは「地元民」ではない。

有名な「加賀」と分けるために「武蔵」をつけたが、鎌倉幕府が創建した国立図書館の「金沢文庫」を護ることを、引き続き家康から仰せつかった藩主は「文の家」である。

それ故か、市内にあっても独特の雰囲気がむかしからあって、「スーパーマーケット」を生まれて初めて経験したのも、この区にあった店である。
好きなものをカゴに入れて、レジで精算するというのは、天井からゴム紐でぶら下げた「ザル」におカネを入れていたのと大違いだった。

それに、「レジスター」が、まるでコンピュータに見えたほど、ハイカラで珍しかった。
当時のものは、コンピュータになった今とはちがう、その名の通りの「現金登録機」にすぎないが、これを知るのはおとなになってからである。

その思い出がある金沢区に、コストコが開業したのである。
当初の「驚愕」は、その圧倒的「物量」で、日本のスーパーでは考えられないキャスター・ワゴンのデカさだけでも感動ものだった。

生前の父母も、初体験では興奮冷めやらぬ「お買い物」に熱中した。
海軍の幼年兵で、駆逐艦のレーダー兵だった父は、アメリカの物量にやっぱり唖然としていた。

両親とも共通の「お気に入り」は、トイレットペーパーだった。

おとなでひと抱えしないと持てない、1パックで60巻のそれは、1400円ぐらいだった。
「高いかも」とつぶやいたら、母は即座に「メーター数の長さが違う」と、得意の暗算で、しっかり計算していたから、わたしはそれに驚いた。

日本製のとは、確かに「巻き」の大きさが違っていて、トイレのペーパー・ホルダーにやっと収まるのだけれども、ただ引っ張ったら切れてしまう。
ホルダー自体の「摩擦抵抗」があるのだ。
これを、「長さ」で単価計算して捉えていたとは、感心した。

これから、わが家のトイレは、日本製の紙を使っていない。
それにしても、わざわざアメリカから運んできて元が取れるのか?いつも不思議に思うのである。

さて、昨年のアメリカ大統領選挙以来、渡米して突撃取材をするようになった、沖縄の我那覇真子女史は、おっとりした沖縄訛りながら、確実にターゲットを追う本物のハンターのような人物だ。

その保守言動ぶりも、ベテランでもエセの仮面を容赦なく、快刀乱麻を断つがごとく剥がしまくっている。
それだから、「保守論壇」から嫌われて、排除の憂き目をみてきた。
読者には、こうしたひとがいてくれるのは、まさに「掃き溜めに鶴」なのだ。

その我那覇女史が、バイデン失策政権の失策ぶりを取材に、また渡米した。

現地で待ち構えるのは、アメリカ在住ビジネスマンの、山中泉(やまなか せん)氏である。
このひとも現地で様々な発信をしていて、とうとう本も出版し、好評ゆえに続編も準備中という。

さて、合流した二人は、さっそく山中氏の案内で、コストコに行くのである。
そこにあったのは、「スカスカの棚」だった。
品不足のため、アメリカ人がトイレットペーパーを買いだめして、より品薄になったのである。

物流が停滞して、深刻な物資不足になっているという。
その原因は、バイデン氏による国内石油開発の中止による、ガソリン高騰だけではない。
トラック運転手が、決定的に不足しているのだ、と。

沿岸部の港湾倉庫は、歴史的な「満杯」ぶりで、荷下ろしの順番を待つ船が所狭しと停泊している。
しかしながら、肝心のトラックが荷を取りに来ないのである。

これは一体どういうことか?

「コロナ対策」による、手厚い福祉政策が、「下層」とされるトラック運転手を潤わせて、労働意欲を取り上げたのだ。
家族の数にもよるけれど、月収で50~60万円に相当する「補助金」を得れば、誰だって「寝て暮らす」ことを選ぶだろう。

もちろん、「働いたら」もらえなくなるのだ。

これぞ、「福祉国家」なのである。
そして、「良かれ」が過剰になると、社会的混乱を引き起こす。
だから、社会的混乱をひきおこしたいなら、「民衆受け」する過剰な「福祉」を政策根拠にすれば、「自然と」社会混乱になって、支配層を除いてみんなで「貧乏」になるようになっている。

巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)という、古典の指摘は、現代のことかとおもえてならない。
高校教師は、漢文の授業で、「文法」ではなく、「生活哲学」として学ばせることが望ましい。

江戸の武士は、まさにこうして育ったのだ。

そんなわけで、港で待ちくたびれた船が、横浜を目指して「紙」を運んでいるかもしれない。

円安と燃料高騰で、きっと割高な値段になるにちがいないと、妄想して、山と積まれたトイレットペーパーを買ってきた。

ビジネス感覚がない「連合」

テレビを観るという習慣がないから知らなかったけど、BSテレビ東京の『日曜サロン』という番組が、突如ユーチューブのお勧めに出てきた。
そのお勧めの内容が、先週放送の女性で初めて連合会長になった芳野友子氏へのインタビューだ。

ありきたりの質問に、ありきたりの回答をしているので、ぜんぜん新味がない、という意味で「新鮮」だった。

まだこんなレベルの「インタビューが成立している」という意味である。

テロップに出る聞き手の経歴の「つまらなさ」は、かつての業界人のエリートの典型だろうから、古色蒼然としたインタビューになるのは仕方がないし、正味24分程度の長さしかないから、「切り込めない」のだろうけど。

あるいは、事前に打診して出演を決めてもらうのに、古色蒼然としたインタビューでないと、「OK」がでない事情があるのかもしれない。
だから、視聴者が感じる、聞き手への焦れったさとは、聞かれる側の意向である、ともいえるのが「インタビュー」の「インタビューたるゆえん」になる。

その意味で、聞き手の堂々とした「ありきたり」が、番組づくりには必要になって、権威づけのために「経歴」とか「肩書き」とかがいるのだ。
こうして、視聴者を「威圧する」ということになっている。

なのであんまり観たくはないけど、せっかくの「自動サジェスチョン」なので、AIの指示通り観ることにした。

労組の親方が女性になった、というのは「実力次第」ということでいえば特段の意味はないけれど、ジェンダーをいうひとほど「喜ぶ」傾向があって、さらに「女性幹部の少なさ」を嘆いたりして、「逆差別」を正当化するものだ。

このひとも似たようなことを言ったのが、大変残念で、女性の賃金格差についても、企業内の実態をこれから調査するというトンチンカンぶりだった。
「連合」と言えば大企業の労組の集団だ。
いまどき、そんな「大企業」の賃金制度で、女性差別があるものか。

むしろ、パートタイムなどの「主婦労働」における、年収の「税の壁」が、低賃金を正当化させているはずである。
もちろん、この議論には、「家庭内の家事労働」は、「無賃金=無価値」という思想がはるか前提にあることに触れることはない。

つまり、黙って「容認」しているのである。

この根本をどう「哲学」するかの議論なくして、「女性の社会進出」とか「女性の活用」というのは、あくまでも「女性」とおだてればなんとかなるという(本当は男性の)「甘え」ではないのか?
それを、女性の連合会長が言うから、まともな(=自分の頭で考えることができる)人物とは思えない。

どなたか(複数でも)の「操り人形」かと疑う理由だ。

その「根本」に話を戻すと、連合の根本問題は、会長も自ら語った「17%」という組織率の「低さ」なのだ。
ぜんぜん我が国の「労働者の代表」とはいえないし、むしろ、「ほぼ正社員で構成される」という、「エリート集団」なのである。

そこで、非正規雇用のひとたちの意見を聞くための「イベント」を開催するのだというのは、なんだかなぁ、と「異次元」のことに思える。
逆に、非正規のひとたちが「組合加入したくない」とすれば、不断の「マーケティング」をしないといけない。

「組合に加入したい」という気持に、1ミリも一般社員をさせることができないことを知っているから、「内に籠もるのか?」と疑うのだ。
すると、実は労働組合を必要のない組織だと考えるひとたちによって、労働組合のトップが構成されている、ということを告白していることになるのだ。

そんなわけだから、「一大スポンサー」なのに、支援政党から無視されるのだ。
「共産党との連携はあり得ない」といいながら、これをやる政党を責めてもせんないことだ。

それでいて、岸田政権の「新しい資本主義」を評価して、「政権と考えが近い」という。
これは一体どういう意味か?

無理やり解釈すれば、「共産主義は嫌だけど、社会主義はいい」という、いまさらの「無謀」をのたまわっている。
80年代まではなんとか「通じた」けれど、ソ連崩壊以来、こんなことを言って何になるのか?

社会主義も共産主義も、所詮は「同じ穴のムジナ」なのだと「証明」されたのである。
すなわち、おそるべき「古さ」なのだ。
若かりし彼女が労組で学習した当時の「常識」で、時間が止まっている。

むしろ、共産党と手を組み「異常」と批判された前代表の枝野氏の方が、「どうせ同じ」という現実を知っているのだ。
もっといえば、革マル派の枝野氏の方が、よほど「代々木嫌い」の「はず」なのである。

さてそれで、ドイツ社会民主党は、戦後の早い段階で、結党以来の伝統だったマルクス主義を棄てて、国民政党に脱皮した、と書いた。
ならば、連合も、社会主義を棄てて、「労働者=国民、の幸せ追求」に脱皮すべきなのである。

さすれば、岸田政権=自民党=社会主義政党との、決定的な対立軸が明確になる。
こうした「転換」ができないならば、組織率の低下を止めることも、国民から相手にされることも、即刻あきらめるべきである。

ついでにいえば、「組織率」について、丁度1年前に事務局長が「手前味噌」の統計解釈をしている。
都合のよい解釈で欺されるのが、我が国を代表する労働者集団なのかと、よりいっそう嘆かわしくなるのである。

それはあたかも、ビジネス感覚がない経営者たちによる会社経営と同じく、「破たん」という結論にしか向かわない。

これはこれで、国民の不幸なのである。

もっとちゃんとした人物は、この組織にいないのか?
それが、もっと国民の不幸なのである。

ドイツ「信号機」内閣の発足

歴史を振り返ると、時代の節目にいるときの人々は、それが時代の節目だとは気づいていない。
やっぱり、終わってから、気づくものなのである。

しかし、遠い外国に住んでいても、今回のドイツの「連立内閣」ほど、「節操のないズルズル」は、滅多にみることはできない「組合せ」なので、よくぞ「政策協定書」をまとめたものだと感心する。
時間がかかっても、その「生真面目ぶり」は、やっぱりドイツ人たちだ。

9月28日の選挙後のメルケル政権は、「暫定内閣」という状態になっていた。

2ヶ月以上かかって、ようやく「組閣」する、新政権は、得票1位の社会民主党(SPD:かつてはブラントとシュミット首相を輩出した)と、第三党の「緑の党」、それに、第四党の「自由民主党(FDP)」による、三党連立となる。

ドイツ社会民主党は、1863年に結党された、由緒ある「修正主義の政党」で、1919年には「ワイマール憲法」の制定を主導した。
この政党が、マルクス主義放棄を宣言して「国民政党」に脱皮したのは、1959年のことだから、「戦後」になってのことだった。

風前の灯火にある、我が日本の「社民党」は、マルクス主義を捨ててはいないし、そっくり入れかわった「立憲民主党」は、日本共産党と提携して総選挙を経て惨敗したら、今度は共産党と手を切るというひとが「新党首」になった。

でも、選挙前から「政調会長」という立場だったので、これからマルクス主義同士の壮絶な内輪もめがはじまるにちがいない。
この意味で、ドイツ社会民主党とは確実に、60年以上「遅れ」ている。

そうはいっても、「保守」のはずのキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)で、16年もの長期政権を牽引したのは、旧東ドイツ出身の社会主義者、メルケル氏だったから、我が国自民党政権と同様に、しっかり「左傾化」して、困ったことにSPDとの差が見えなくなった。

それが、この「混沌」の原因だろう。

連立第二勢力の「緑の党」は、当初CDUと右派、それにSPDを加えた、「保守系」が内部勢力として仕切っていたけど、70年代に過激行動で行き詰まった「左派」の入党を許したら、とうとう「乗っ取られる」という経緯がある。

環境問題専門の政党だから、いまは「左」だけど、結党からの経緯は「意外」なのである。
それでもって、ドイツの左派は、アメリカや日本とちがって「筋を通す」こともやるから、いまの「緑の党」は、「人権擁護」にも熱心なのだ。

連立第三勢力の「自由民主党(FDP)」は、我が国のしゃっきりしない自由民主党とは違って、筋金入りでバリバリの「自由主義」政党である。
こちらは、メルケル内閣でも連立を組んでいたけど、CDUの左傾化を警戒した国民が、それなりに保険をかけていたことが理由らしい。

なお、近年、金銭疑惑から2013年選挙で惨敗し、国会の全議席を失う、という驚きの事態になって、党首以下執行部が全員辞任し、党勢を「刷新した」ことで、今年の選挙で92議席を確保しての「政権復帰」になっている。

こう言う点で、日本人はドイツ人に頭があがらない。

なお、詳しいことは不明だが、同じドイツ語圏の「オーストリア学派(ウィーン学派)」の伝統的自由主義経済思想の影響を受けていると思われる。
いったい、この党の「シンクタンク」には、どんな専門家が名を連ねて「政策提言」をしているのだろうか?

以上から、この連立政権の「守備範囲」は、やたらと広い、ともいえるし、何でもあり、ともいえる。
だからどんな「政権協定書」を書き上げたのか?興味が尽きない。
残念ながら、いまのマスコミに期待はできないから、日本語で知ることは困難だろう。

まったくもって、ベルリンにいるはずの「特派員」は何をやっているのか?
いや、東京の編集部が取材しても無視するのだろう。
「魚は頭から腐る」ということわざは、そのまま「組織は頭から腐る」になって、『会社は頭から腐る』が出た。

すでに、事前情報としては、閣僚の一部が「新聞人事」で発表されている。
首班は、もちろんSPDの党首、オラフ・シュルツ氏。
外務大臣に、緑の党の党首、アンナレーナ・ベアボック氏。
財務大臣に、FDUの党首、クリスティアン・リントナー氏。

さてそれで、このお三方の政党のシンボルカラーが、赤、緑、黄色なので、「信号機内閣」とあだ名が付いた。
ドイツ経済界は、「CDU/CSU」に失望したとして、新政権に期待を表名している。

一方で、お三方の鼻息は「ある分野」でたいへん荒い。

「人権問題」を前面に、中国への懸念を表明したばかりか、香港や台湾といった琴線に触れまくっているのだ。
とくに、台湾の国際機関加盟を支持する、という発言は、台湾側も歓迎するのは当然で、大陸側の苛立ちがつのっている。

中国依存のメルケル政権からの、わかりやすい「脱却」ということだろうけど、ドイツ軍と日本の提携も視野にあると明言したから、いよいよ我が国も二度目の「NATO]に加盟を誘われるのか?

一度目は、来日したメルケル氏から誘われた安倍氏が、「丁重にお断りした」という腰抜けぶりを自慢する体たらくだけど、今度は「ハッキリ回答せよ」と、「緑の党」の女性党首がハッキリものをいえない首相に迫るかもしれない。

そういえば、我が国にも、防衛大臣経験者の「緑のおばさん」がいたけれど、アラブ好きのこのひとは、「リビアのカダフィ大佐」が病的に好きだった「緑色」をパクっただけだろうけど。

「グレード・ダウン」の勧め

パソコンのOSなら良くある話で、バージョン・アップ直後だと信頼性に欠けるからわざわざ古いバージョンでガマンすることがあるし、場合によってはグレード・ダウン「させる」ことすらある。
これは、内部にある様々なアプリが、新バージョンに対応していない可能性を回避したいからだし、周辺機器、たとえばプリンターなども正常に作動しないことを嫌うからである。

すると、ユ-ザーに販売したひとたちは、アプリケーションソフトだけでなくて、機械の製造者も、OS改訂の「事前情報」から、すみやかに対応しないとユーザーから見向きもされなくなる畏れがある。
つまり、こうした点からも、製造企業ですら「情報産業」だと言えるのである。

情報機器を作っているからではなくて、情報によって製品に内蔵したシステムの改訂をしないといけない、という意味である。

いつまで経っても、OSのバージョン・アップに対応しないで、プリンターが正常作動しないことを放置されたら、ユーザーは買い替え需要が起きたとき、その製品をなるべく「買わない」という行動に出るからで、これが、「一般的評価」となったら、そのメーカーの全商品がそういった「評価」となって、必ずや「経営危機」をむかえるであろう。

ユーザーにとっての「日常」が、OSによって支配されているパソコンの操作にあれば、以上のことがふつうなのである。
だから、アプリケーションであろうが、機械の製造者も、OSのバージョン・アップに対応させる、という業務が自社の都合に関係なく発生しても、そのままにしてはおけないのは当然だ。

こんなことを思うと、わが家に設置した、とある大メーカーの「電話・FAX複合機」は、まったくの「失格」だ。
「売り」として、販売時に挙げていた製品特徴の、パソコンとの受信データ共有はできても、「パソコンデータのFAX発信」機能が、OSのバージョン・アップに「対応しない」と堂々と発表したからである。

しかも、この手の機械は、十分な耐用性があるから、壊れない。
メーカーが定める、部品の対応期間を大きく超えても壊れない。
それで、機種交換需要が発生しないのである。
いまや、FAXを受信することも滅多にないし、その返答にFAXが指定されることも稀だ。

「稀」だけど、「ない」ということもない。

どういう理由か知らないが、「自治会」とか「町内会」の連絡は、いまだにFAXだったりする。
仕方がないので、受信したFAXデータをメモリからパソコンに取り込んで、パソコンで加工したら、「紙」に印刷して、これをまたFAX送信している。

紙に印刷させて受信しないのは、「感熱紙」という高価な紙をつかうからである。

さて、わが国を代表するようなこのメーカーが、どういう理由でOSのバージョン・アップに対応しないことを決めたのか?
創業者の幸之助氏が亡くなったからだ、と考えた。
もちろん、幸之助氏が生きていたら、こんなことを決めはしなかったはずだからだ。

しかし、ここでいう「生きていたら」というのは、幸之助氏が超人的な長生きをしたら、という意味ではない。
「精神」の話なのである。
つまるところ、幸之助氏の「精神が死んでしまった」のだ。

それはいつからなのか?

一般消費者として思い当たるのは、「社名変更」の前だろう。
社名から「松下」を取り除くことに、社内の抵抗がなくなったからできたのだ。
もちろん、だったら社名変更をしなければよかったのか、という意味でもない。

「精神」が失われたら、社名が残ろうと関係ないし、むしろ「松下」に違和感が生じる。
だから、必然的に社名の変更となる運命にあったといえる。
そんなこんなで、わたしは残りの人生で、この企業の製品を無意識に購入することはない、と決めた。

同様製品で別会社のものがあれば、そちらを優先して購入する。
それがまた、幸之助氏が示した「経営の本質」の、消費者としての態度である。

そういえば、幸之助氏は「松下政経塾」という学校もたてた。

天下国家のため、だったろうけど、グレード・ダウンしたらいかがか?と思う。
まずは自社の幹部学校として、「幸之助哲学」を徹底的に注入すべし、と。
これができてから、ふたたびグレード・アップすればいい。

リベラル・アーツの最高峰は、「哲学」なのである。

実は、ニュートンだって誰だって、あの頃の本人たちは哲学をやっていたと自覚していた。
「万有引力」すら、本人には哲学だった。
幸之助哲学は、単なる経営学や経営哲学ではない。

これがわからないから、事業の縮小しかしないのである。

さてそれで、年末の「ブラックフライデー・セール」真っ盛りである。
ここ最近は、「クリスマス・セール」といわないのが新しいらしい。
携帯やPCの充電器に、窒化ガリウム(GaN)を使った超小型で軽量の中華製品が、大型で重いメーカー純正品より人気になっている。

この技術で世界をリードしたのが「松下」さんで、完全に宇宙・軍事用の技術だったけど、すっかり外国に引き渡された。

幸之助哲学の喪失は、企業の話を超えて安全保障の脅威にもなっている。

法が法治を破壊する

「内部崩壊」というのは、赤色巨星がとうとう自分の重力によって、内側の中心部に向かって崩壊し、「超新星爆発」を起こすときにも言う。

星は球体だから、あらゆる方向から内部に向かうので、いったんはじまるといきつく先までもうどうにも止まらない。
それでもって、元の質量がそれなりなら、かつての自身より「超小型」の塊になるけど、巨大な質量なら「ブラックホール」になる。

内部崩壊の勢いがやまないので、周辺の星も含む物質を吸い込んで、原子レベルまでバラバラにしてしまう。
吸い込んだなら、どこかに吐き出さないといけないのだけれど、こんどは「異次元」とか「別の宇宙」とかという、わからない世界の話になっていく。

大ヒットした『千と千尋の神隠し』の「主題歌」とされている、『いつも何度でも』には、投稿してから採用のエピソードがあって、必ずしも「この作品」のために作られた曲ではなかったけれども、作詞家と作曲者の手を離れて、映画作品のなかに取り入られてみたら「しっくり」きた、という例になった。

 

主人公の千尋が経験する「不思議な世界」とは、死後の世界なのか?
そこで、自分の両親が卑しい「豚」になっている、という表現をずいぶん前に批判したことがある。

これぞ、スターリンが推進した、親子の断絶と分断だったし、子に親を密告させて、孤児になったその子を、「革命の英雄」として、国家が育てた。
これは、同類だからこそ「犬猿の仲」だった、ヒトラーもやっていて、こちらは、「アーリア人」という架空の人種(目が青くて金髪)の子供を国家が育てて「新貴族」とした。

『いつも何度でも』は、世界で支持される「アニメ映画」の影響から、フランスの教会で少年少女たちが、「日本語」で歌っている動画が11年も前にアップされているから、この子たちもとっくに成人しているだろう。

日本人にはすぐさま仏教の「輪廻転生」をイメージさせるだろうけど、キリスト教にはない概念だから、「してやったり」なのである。
けれども、フランスは「革命」で、カソリック教会を大弾圧した実績があるので、この歌を教会で演奏するのも革命の延長だったかもしれない。

その革命の標語は、「自由、平等、博愛」、というおよそ矛盾した美辞麗句だった。
これに「かぶれた」我が国のインテリ人士たちは、他人から強制されない「自由」を、何をしてもいい「自由」と宣伝し、機会の「平等」を、結果の「平等」に「改竄」した。

これは、「脳」に対する情報の「毒」だから、本来ならば「解毒」させるための情報が必要なのだけど、なんだかかっこいい、という理由で放置した先人たちの「怠惰」が、今日の「内部崩壊」のエネルギーを供給することになったのである。

そんなわけで、「新しい日常」という「ゼロになるからだ」を生きながらにして「強制」されているのに、それが、「道徳的」だと思えてしまうほど、人々の脳が汚染されても気づかないのである。

国民がこの体たらくだから、政府には都合がいい。
もちろん、国民をこの体たらくにさせたのも政府と、これにつるんだマスコミなので、もし後から気がつくことができたら、「してやられた」ということになる。

しかし、そうだとしても「あとの祭り」であって、決して元には戻らない。

なぜなら、一度信じ込まされたら、人間という生き物は、それとは別の根拠ある情報を得ても、「反発する」という性質をもっているからである。
これは、「自己防衛本能」で、「自己否定を否定する」ことからの化学反応なのだ。

そして、これまでだったら「自国」のことを優先して考えればよかったけれど、グローバル化が本当に「完成」の域に入ってきたので、「世界同時」という、あたかも一国ではあがなえないように見えるようになった。
しかし、これもまた「幻想」にすぎない。

何のために『裸の王様』の逸話があったのか?

南アフリカで「発見」されたという、得体の知れない「変異株」で、我が国も率先して「鎖国」を決めた。
その南アフリカの医師会長は、「弱毒性」で心配いらない、と明言している。

ただし、このひとも、病原体としての新型コロナウィルスは確認されていない、というもっとも重要な事実を語ってはいない。

コロナウィルスというのは、地球上に何種類あるのかさえもわからないほどで、数万とも数百万とも、もっとともいうほどに、「その辺にある」ものだ。
だから、南アフリカだろうとどこだろうと、「その辺」に存在するから、いちいち驚くに値しない。

なのでこの医師会長は、各国が「鎖国」するのを、南アフリカに対する「ヘイト」だと指摘した。

まことに、先進国がこぞって「内部崩壊」を促進させている。
それが、「法」なのだから、この世の終わり、なのである。

いつも何度でも、起きるのは、「治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり」と詠んだ、『青年日本の歌』(1930年:作詞は海軍中尉三上卓)の世界になってきたということだ。

しかして、三上は「五・一五事件」に関与し、この歌詞も、『荒城の月』の作詞で知られる土井晩翠と、東京裁判で東条英機の頭を叩いた大川周明の著作から剽窃したという。

法が法治を破壊すれば、もう混沌とするしかない。
それが、「超新星爆発」となって、新しく生まれる「秩序」とは、どんなものなのか?

もはや、誰にもわからない。

オーストラリア国防相の警告

国民にとっての「国家の役割」を単純化したら、最大の「業務(役所用語では「事業」という)」は、「国家安全保障」である。

それは、「国家の3要素=領土・人民・主権(統治権)」の筆頭にあるのが、「領土」であることでも明らかだ。
もっとも、「領土なき国家」という考えもあるけれど、「陰謀論的薫り」を醸し出すので、ここでは議論しない。

ただし、「領土を超越した国家」という話になると、グローバリストが「夢見る」、世界政府、という発想がある。
興味深いことに、世界政府を実現したいと考えるひとたちほど、「個人」を大切にする、という思想に厳密で、SDGsとか、LGBTとかに熱心なのである。

実は、世界政府とは「均一化」のことだから、「個人の均一化」こそが、実現の「近道」だと考えているのである。

すなわち、共産主義なのである。

このことの「欺瞞」と「恐怖」を、『スターウォーズ』が表現していた。
エピソード3、『シスの復讐』における、パルパティーン最高議長こそが悪の権化ダース・シディアスであった。
そして、この作品の重要性は、シリーズの中の位置づけだけではなくて、「善悪の境界線」がテーマになっていることである。

実際に、「EU」が目指したのも、「ヨーロッパの均一化」だったし、いまでもそうだ。
あらゆる意味で自国の「独立」にこだわった英国が離脱した意味も、「均一化への反発」であって、英国民は、EUに残存して得る「経済価値」はこれよりはるかに低い価値だと判断したのである。

この「判断」を、現代日本人はできるのか?

できないからこそ、「親中政権」が継続しているのである。
岸田政権が特段の親中なのではなく、田中角栄政権以来、我が国は「一貫して」いることを忘れてはならない。
つまり、半世紀に及ぶ「国是」が、親中(共)なのだ。

それに、ヨーロッパは、キリスト教で「均一化」されていた経験がある。

『スターウォーズ』の背景には、「教会」の横暴の歴史と倫理観がある。
制作者たちは誰か?を考えるまでもない。
だから、「教会抜き」と、「日本的倫理観」で楽しむ日本人は、世界的小数派だし、本来の作品製作意図が理解できていない可能性の方が高い。

この作品群を単なる「エンタメ」として観てはいけないし、背景に隠された哲学的意図があるから、世界的ヒットもし、「普遍的価値」を提供していることを、多くの外国人は知っている。

いまのドイツが、プロテスタントという原理主義に熱中したのが、持続可能エネルギーへの「病的移行」になっているし、ローマ教皇から「破門」されそうになって「分離」した英国国教会のように、EUから離脱したのだ、と見ればなんていうこともない。

さて、オーストラリア国防相の26日の演説が話題になっている。
この前提には、EUから「独立」した英国の動きと関連付けることができる。
「死に体」となっていた、「英連邦の復活」がその背景にあるからだ。

最新鋭空母が我が国に「寄港」したのも、その一環である。
わざわざ「極東」の我が国にまでやってきたのは、世界一周のクルーズをしたいからではない。

七つの海を支配した、かつての大英帝国は、オーストラリアを「囚人」の地と位置づけて、正規移民の「ニュージーランド」と区別した。
巨大な「島流し先」だったのである。
だから、オーストラリア人とニュージーランド人は、我が国と「半島」同等かそれ以上に「仲が悪い」のである。

そんなわけで、オーストラリアは右派が政権を担っていて、ニュージーランドは極左が政権を担っている。
ニュージーランドの現女性首相は、「活動家」からの出世である。
ただし、コロナ対策での国民権利の剥奪は、ナチスや中共のように暴力的だから、「右派」も「左派」もない。

「アジア・オセアニア」という地図で見れば、オーストラリアは東南アジアの東南に位置するので、ASEAN諸国との関係は深い。
それに、我が国の真南側になるから、日本との時差は1時間、ないし、2時間(先)しかない。

彼らは、国家の役割の第一に安全保障をおくので、南シナ海やらの「シーレーン」における「自由航行」について、敏感であるのは言うまでもない。
この点、我が国の「脳天気」とは違う。
それで、「台湾の次は尖閣」だと、明言したのである。

しかし、政治家の言葉を言葉どおりに受けとめてはならない。
「尖閣」が、日本領であることは「国際認知」されている。
したがって、日本政府が言う「領土問題はない」は正しい。
すなわち、外国人が「尖閣の危機」というのは、「日本の危機」を暗に語っているに過ぎないのだ。

さてそれで、中国は「核による先制攻撃はしない」と国際約束をしていたが、7月11日に、「日本だけは例外」として、台湾侵攻を日本が邪魔するならば「日本を核攻撃する」というメッセージをネットで拡散させた。

あちらの情報系は、ネットでも国家管理がしっかりしているから、民間人の勝手な投稿はすぐさま削除されるばかりか、投稿者が追跡特定されて逮捕されたら、そのまま「行方不明」になってしまうのだ。
つまり、「拡散した」という事実は、国家が認めた、という意味である。

オーストラリアにとっても、その他の国にとっても、日本は重要な国なのは世界第三位の経済大国だからだけれど、核攻撃をもって脅迫している国がある、という現実を日本人は知らなかったことにして、幸せに暮らしている。

なお、「中国 核ミサイル 日本 地図」で検索すれば、どこからどういうふうに飛んできて、「飽和攻撃」状態になるかを示した地図が多数出てくる。
この地図に、彼の国はコメントしない、ということも、知っていていい。

距離から推測すれば、発射後数分で着弾する。
ご丁寧に、「被害想定」もあって、その数は1800万人だ。
その後、放射能によって人間が居住できるのかどうかの記載はないけど、屈服した日本政府は「直ちに健康への影響はない」とするのだろう。

国防相の発言は、日本を守りたい、ということではなくて、日本のようになってはならない、ということなのだ。

1ページ10円の本

グーテンベルク以来、印刷された「本」が登場していかほどの知的貢献をしてきたものか計り知れない。

およそ印刷物とは、物理的には「紙」と「インク」に過ぎないので、「古新聞」には「古紙」としての価値しかない。
そこにある、古くなった「文字情報」の価値を認めないからである。
つまりは、「物故」しているのだ。

人間も息を引き取れば「物故」する。

その人の持つ、「情報」や「精神」が失われてしまうからである。
さらに、放置すればいきなり腐敗がはじまるのも、物質的な人間の半分は人間以外の生物が体内で棲息してバランスをとっていたものが、片一方の崩壊で全身が人間以外の生物に取って代わられるからである。

コロナは嘘としても、ときたままともな説明があって、「共存」という話が出てくる。
けれども、大元を理解できないひとがたくさんいて、「コロナとの共存」とわざわざ言って、自分は「無菌」だと思いこんでいるのである。

そもそも、細胞1個1個にあって、細胞にエネルギーを供給する最重要な役割を担っている「ミトコンドリア」だって、「赤の他人様」であった。
別の生命体を、我々の細胞が生きるために取り込んだのだ。
それで、ミトコンドリアがエネルギー供給をやめたとき、ひとも最期を迎えるのである。

以上のようなことがわかったのは、「科学」とそれに関わった「科学者」のおかげである。
それゆえに、多くの人類は、「科学信仰」という、「神」を仰ぐ古来の信仰を捨てて出てきた「新しい信仰」に宗旨変えしたのである。

それが行きすぎた先は、「科学万能」という絶対神化であった。

残念ながら、人類は「そこまで」の科学知識を究めてはいない。
「わかったこと」と「わからないこと」を整理すれば、ほとんどがわからないままなのである。

「わかったつもり」になって、現代生活をしている「だけ」なのだ。

宇宙のなり立ちも、地球の内部も、はたまた人体だって、「わかったこと」と「わからないこと」に分けたら、「どこまでわかった」のかすら「わからない」のが現実なのである。
つまり、分母となる「知の全体」の範囲がわからないのだ。

むかしの科学者、といってもついこの間までは、「科学的興味」とか、「知への好奇心」が、衝動ともなって科学者の研究行動を決めていた。
しかし、紙と鉛筆、それにビーカーやフラスコを用いればなんとかなった時代から、とっくにそうはいかないことになったので、「研究予算の獲得」が科学者の行動を決めることになったのである。

これが、「倫理」の問題になった。

そこで、アメリカ科学アカデミーは、1989年に『科学者の責任ある行動とは』というパンフレットを作成し、版を重ねてきている。
日本語になったのは1996年で、化学同人より『科学者をめざす君たちへ』と題して出版されている。

それが、90ページにして900円の本なのである。
10回読めば1円/ページだ。
なお、オリジナルは、$5、で10冊以上を注文すれば$2.5/冊になる。

こうした内容の書物が出版されるに至った経緯で、そもそもの「問題」だというのが、過去には研究活動を通じて自然と習得してきた、数々のルール(もちろん、「倫理」も含む)が、科学者の「大量生産」によって、学部はもとより大学院においてすらも「困難」になってきたという危機感があったのでる。

いまや「卵と鶏」のループになるような議論になったのは、上述のように単に「研究活動」だけの問題ではなくて、資金を要するようになったことでの、「資金調達計画」が科学者の最大の関心事になったことが大きい。
そして、自己満足的好奇心の追求時代にはなかった、「クライアント」が科学分野に発生したのであった。

クライアント(発注者)の要望に応えるための活動。

それが、研究資金提供を得る「手段」となって、とうとう「目的」にもなってしまった。
たとえば、ノーベル賞を「受賞することが目的の研究」が公然と行われているのも、最終的には「おカネ」が欲しいからなのである。

ただし、アメリカの「寄付文化」はいまだ健在なので、様々な「財団」が直接的「成果を要求しない」で資金提供をしていることもある。
これが、「基礎研究」を支えていて、「失敗を許す」からできるのだ。

すると、このような文化がないわが国(寄付の習慣がなく、失敗を許さない)では、より深刻な「不倫」状況になるのは当然だ。
本書の訳者が、若者に問いかけるような「題」にした意図も、ここにあると見るべきだ。

残念ながら、日本において本書をまっ先に読むべき「若者」とは、「文系」の学生なのである。
同学年の「理系」人が常識とすべき「倫理」を、文系でも知らないでは済まされないのは、科学の恩恵を受けた文明生活を一生するからでもあるし、現場の科学者に「予算配分」する立場になるかもしれないからである。

実際に、わが国は、すぐさま役に立つ、という意味で、近代科学技術の導入を急いだ、という「初体験」から近代化に「成功」してしまった。
これがトラウマとなって、いまだに「役に立つ」という予測ができる研究に予算を重点配分して、その他を切り捨てている。

その「役に立つ」か「立たない」か、という判断を、文系の事務官がやっているのだ。
国家予算が、「儲かる研究」とおぼしきもの「だけ」に使われるのは、国家の役割としていかがなのか?という議論すらない。

そもそも、文系に進学すれば、「科学」と「技術」は違うものだという、基本的認識も教育されない。
それで、「科学技術立国」を標榜し、陰りがみえたら「観光立国」という欺瞞で誤魔化そうとする。

よろこんで誤魔化されるのは、いつだって「業界人」なのは、研究予算が欲しい科学者と同じなのだ。
平和賞と経済学賞ではない、ノーベル賞に騒ぐなら、日本国民だって必読の一冊なのである。

なお、同じ年に出た、『SCIENCE FOR ALL AMERICANS(すべてのアメリカ人のための科学)』(AMERICAN ASSOCIATION FOR THE ADVANCEMENT OF SCIENCE(米国科学振興協会)』(1989)の「日本語版」は、220ページでも「無料」でダウンロードができるから、こちらも読むに値する。

クリックしてSFAA_Japanese.pdfにアクセス

会社は学校なんだよ

『会社は学校じゃねぇんだよ』という、ネット配信のドラマが人気だという。

残念ながら観ていないので、ストーリーも知らない。
だから、本作ドラマ自体の感想もなにもない。
作品を離れて、「タイトル」にある言葉をそのまま考えてみたいのである。

ある意味正しく、ある意味間違っている。

以前、とあるベンチャー企業の顧問をやっていたことがある。
このことは、本作ドラマの設定と似ているかもしれないけど、これから以下の内容とは関係はない。
ただ、現実の企業には、出資者たるオーナーがいた。

なので、社長以下の経営陣は全部「お雇い」である。
その「お雇い」の社長から雇われて顧問になった。
幸か不幸か、そのオーナーにお目にかかったことはない。

この会社の社長は、若いけど実力があるビジネスマンで、起業から数年で社業を「倍数的拡大」させて成功していた。
それも、「同業他社を買収」するという方法によってであった。

しかしながら、内部的な「行き詰まり感」が発生していたのである。
それが、「マネジメントの不足」であった。
この改善のために、顧問になったのである。

「マネジャーの不足」ともいえるけど、「マネジメントができるマネジャーの不足」といえば分かりやすいだろう。
つまり、買収した相手企業にマネジメントができる人材がいないために、企業組織の運営上で、「停滞」という現象が発生していたのである。

さらに、買収された相手企業の「管理職」は、その役職を保障されて新会社に移行したので、会社が変わっても業務が変わった、という認識すら欠如していた。
つまり、これまで通りの日常業務が、マネジャーの仕事だと思いこんでいた。

このことを「問題」として直接本人に伝えても、何のことだかわからない、という「おまけ」もついてくる。
入社以来、何十年も先輩の仕事を見て覚えさせられたひとに、いきなり「違うだろ」と言っても通じないし、場合によっては「反発」までするのである。

その「反発」は、管理職一人ひとりによるならまだしも、買収されたという「思い」が、一般職の従業員にもあるから、「妙な被害意識」が醸成されて、職場全体の不満となって、ときにそれが「爆発」するのである。

つまり、かなり厄介な問題になっていたのは、買収した相手が単数ではないからである。
一種の「モグラたたきゲーム状態」になっていた。
しかも、そのモグラが20以上もあったのである。

そこで、社長は、幹部社員の不足を他業界にも門戸を開いて、大々的に募集していた。
「血を入れ替える」という作戦である。
しかし、どういうわけか、応募者の年齢が20代後半から30そこそこという、若いひとばかりで、しかも「業界未経験」という特徴付きだったのである。

「どうしましょう?」
これが、最初の相談だった。

とにかく、社内での幹部会議に同席して、先ずは状況の確認をした。
よくこれで会社としてのまとまりがとれるものだ、というのが第一印象だった。
いまなら、完全パワハラ会議である。

経営陣から罵詈雑言が飛んで、たまにはお茶のペットボトルも飛んだ。

「なんとか使えるように教育してもらえませんか?」
「完璧、は勘弁してください」
「とにかく速く、使える幹部社員に仕立てて欲しい、それから先はなんとかなるでしょうが、いまのままでは何ともなりません」

結局、社内的に「幹部学校」を急いで立ち上げることになった。

もちろん、「学校」といっても、校舎があるわけではない。
むしろ、教育プログラムをどうするか?ということもあるけれど、会社としてどんな幹部にしたいのか?という問題が、顕在化したのだった。
経営陣の中で、「幹部像が違う」ことがわかったからである。

こうなると、プログラムをどうするか?どころではなくなる。
もっというと、事業の拡大を通り越して「膨張する会社」をどうするか?という問題が、オーナーの意向の確認を要することになったのである。

どこまで拡大するのか?

オーナーの答は、オーナーらしいもので、「最大化」であった。
しかも、いまよりも、これまでよりもスピードアップして、さらに買収を加速して拡大せよ、という。

それで、「会社としての統制がとれなくなる」という社長の指摘に、オーナーはもっと単純に答えたという。
「そんなことは、社長であるお前の仕事で、自分には関係ない」と。

まさに、「ごもっとも」。
しかも、「会社は学校じゃねぇんだよ、何をもたもたしているのか?」。
「使えないならクビにして、使えるやつを雇えばいい」。
「会社(自分)のカネで、余計なことはするな」。

さてはオーナー、日本では社員を解雇できない、と言ったところではじまらない。

そこで社長はどうしたのか?
「無視しましょう」だった。

会社を崩壊させることはできない。
社長の自分が使えない、というなら、自分をクビにすればいい。
それで一番損をするのは、オーナーだ。
といい切ったのであった。

そんなわけで、従来からの管理職と、若い未経験者をそれぞれに育成するプログラムは、自然と「腹を据えた内容」になったから、受講する側の腹も据わって、効果は期待以上であった。
加えて、社内報酬の諸制度も変更したこともその気にさせたはずである。

この効果に、高笑いしたのはオーナーなのであった。

米・左翼メディアに異変

北京オリンピックの「中止キャンペーン」がはじまっている。

こないだの東京オリンピックの「中止キャンペーン」も、国内左翼メディアが「閉会式の日」までやっていた。
なんだか、左巻きのひとたちは、オリンピックがお嫌いのようである。

個人的にわたしは、嫌いも何もなく、単に興味がないので、たぶん今回の東京オリンピックの「放送」は、延べで「1分」ぐらいしか観ていない。
活字などの印刷物は、一切観ていないので、この「1分」がすべてではある。

前回の東京オリンピックは、生まれてはいたけれどぜんぜん記憶がないのは、3才だったからであろう。
記憶にあるのは札幌の「日の丸飛行隊」と、赤い衣装が印象的だったジャネット・リンの「世紀の尻もち」で、あとはモントリオール大会でのコマネチの連続「10点」だった。

同い年の「妖精」は、国が遠すぎて「憧れ」にもならなかった。

その後、まさかのチャウシェスク夫妻処刑という大事件があって、それから観光旅行で行くことになるとは、当時はまったく想像もできなかった。
彼が最後の演説をした、旧共産党ビルのバルコニーに立つことが、いまではルーマニア「観光の目玉」になっている。

さて、どういう風の吹き回しか?アメリカの左翼メディアが、このところ「北京オリンピック・ボイコット」について、熱心になっている。

先週のウオールストリートジャーナル紙の「オピニオン」に、NBAのスター選手が投稿して、「中止」を明言したし、ニューヨークタイムズ紙や、CNNでも、やっぱり「中止」を要求している。

こうした、「横並び」が起きるのは、たいがい「黒幕」が存在しているからだと予想できるのだけれども、これらバックの「常連」には、国際金融資本がいるのが「常識」なのだ。

すると、国際金融資本が、ボイコットを「先導」して、どんどん「扇動」しているのか?
それともなんなのか?

以下は、例によって妄想である。

こないだ、「歴史的決議」という重要な決議があったと報道された。
毛沢東、鄧小平につぐ「史上3人目」を指名する「決議」のことである。
これで、来年の党大会において、「無期限」の任期が与えられることの「下地」ができたことになったのである。

その習近平氏は、毛沢東主義のナショナリストである。
およそ共産主義は、グローバリズムの究極だから、ナショナリストというのは「変異種」を意味する。

反毛沢東主義で、改革・開放政策を押し進め、中国を世界帝国に復活させた鄧小平氏が、あたかも社会主義・共産主義国家体制において、あろうことか資本主義を導入した一派の領袖として「変異株」の最たるものと思われているけれど、「順手」の技を二段で繰り広げたのだから、ほんとうは「正統派」なのだ。

鄧小平路線を忠実に引き継いだのが、江沢民・胡錦濤の流れである。
おそらく、党人としての「血筋」はいいけど、ぜんぜん頭脳明晰とは思われなかった、ローマでいえば第三代皇帝のクラウディウスのような気がしてならないのが習氏なのである。

皇帝独裁の恐怖政治が、二代ティベリウスの真骨頂だから、身の危険を察知したクラウディウスは、「脳性麻痺」とはいわれるけれど、「偽装」の疑いがあるのだ。

彼の皇帝就任後の「まとも」さは、まともでなかった「二代・三代」の後継だからともいえなくはない。
けれども、「脳性麻痺」での業績とは考えにくいことがあるのだ。

習氏がクラウディウスに学んだのかどうかは知らないけれど、「後継者」として「ノーマーク」だったきらいがある。
それで、トップに就任するやいなや、「汚職追放」という名の江沢民派「狩り」を開始して、数々の幹部を拘束した。

アメリカの富豪にして左翼活動家の、ジョージ・ソロスは、この江沢民派と握っていた。
それで、習近平氏批判の急先鋒になったのは、彼の言動の示すところである。

「歴史的決議」をクリアしたひとにとって、オリンピックの成功は、「ゴール」を目前にした乗り越えるべき「壁」である。
すると、逆に、なんとか阻止したいひとたちにとっては、みすみす成功させてはならない、ということになる。

そんなタイミングで、女子テニスのトップ・プレイヤーが失踪した。
これによって、寝かしつけた「人権」が、また飛び出したのである。

巷間には、オリンピック後と習氏の終身身分確定決定会議の間に、台湾有事があるのでは?と噂されている。
世界のひとは、台湾有事を台湾有事とみてはいない。
日本の有事なのである。

わが国のマスコミが、「台湾有事」というのは、「他人事」のように勘違いさせるためのプロパガンダである。
台湾を失えば、わが国は(海上)貿易ルートを自動的に失って、1億国民が餓死するほどに追いつめられる。

これが分かっているから、岸田文雄政権は、親中になって「媚びる」という策を「上策」して採用しているのである。
相手側からしたら、「墜ちたも同然」の、売国政権である。
これを、「企画」する外務省は、廃止した方がいい。

しかも、頼りのはずのアメリカが民主党バイデン政権なのだから、実はわが国には「建国以来の危機」がやってきているのである。
すると、アメリカの左翼というより、江沢民派応援団の動向は、わが国の安全保障に直接影響しているのだといえる。

「スポーツの祭典」なんてのんきなことを、言っていられないのだ。