「国際」を壊すものたち

「国際」と書くと、なんだか「かっこいい」という感じがするので、「国際」を何にでもつけたら、とうとう「インフレ」になって、価値を失ってきた。
いわゆる「猫も杓子も」、というわけだ。

「美しいものは正義だ」という世情ができたのは、いったいいつのことなのか?
この意味で、「国際」も美しいもののひとつだった。

半世紀も前の歌手たちの「不細工さ」は、記録映像で一目瞭然だ。
むかしは、「アイドル歌手」というのは、見た目だけで歌は下手クソという了解があったものだ。
観る側には「天は二物を与えず」という意味で溜飲を下げたのである。

いまは、見た目の美しさがすべてに優先するから、ドラマなどの映像作品でも、正義のヒーローはかならず「美しい俳優」が演じることになっている。
だから、キャストを見ただけで、サスペンスものなら犯人が知れてしまうことになったので、とうとう「犯人役」も「美しい俳優」が起用されて、それが悪事の弁明を許すことにもなっている。

なのでその逆の、「不細工に正義はない」ことになったと、岡田斗司夫氏が表裏一体の「法則」を論じている。
すると、不細工の存在が許される空間がない。

渥美清も、樹木希林も、「現代」では、出る幕がないのである。

それだから、言葉の上で「デブ」だの「ブス」だのという物言いが「禁止」されて、「人間的中身」が「美しい」のなら許される、というご都合主義なことになったのである。

五感にあって、人間が「美しい」と感じるのは、先ずは「視覚」からの情報だ。
これが、「見栄え」となるので、「Instagram」が流行して、食堂で出された料理の写真を撮って赤の他人と共有するという行動がふつうになった。

この「画像」が、美しければ「おいしそう」と共感されて、それがいつの間にか、「おいしいにちがいない」となり、とうとう断定の「おいしい」になった。

所詮、五感のうちの「味覚」だって、「脳」が決めるのだから、「別口」から脳へ「うまい」という偽情報を与え続けたら、脳も屈して「おいしい」と判断するようになっている。

それをすかさずとらえた「商業主義」が、「インスタ映え」する彩りにこだわった料理(「味」にこだわるのは二の次)を提供すれば、食べることよりも「写真を投稿する」ことの自己主張が優先して、繁盛店をつくることができるようになった。

この「自己主張」が、自身の「生活センス」を他人に訴求する意味になったので、フォロワーからの暗黙の期待にこたえること自体が「義務」にもなったのである。

こうして、ある個人には、ある日突然「インスタ疲れ」とか「SNS疲労」が襲うのだけど、自分が脱落したところで代わりはいくらでもいることを知っているから、ついに「病的」なまでに追いつめられることになる。

そして「脱落」が、あたかも社会的に無価値の恐怖を「脳」に想像させるがために、現実とバーチャルの区別が崩壊して、自身も崩壊する。
しかし、社会との接点が「それだけ」なので、多数の側の社会にはその「脱落」もほんのわずかな波紋にすぎないのですぐに忘れられる。

そして、内容はどうであれ、人々から「支持される」ということが、かくも薄っぺらになったのが「個人」の世界であったけど、国家は個人の集合体だから、その政府もまた、「見た目の美しさ」さえ維持すれば、すくなくとも国民の反発を得るリスクは薄まることに気づいたのである。

そこで登場するのが、「国際」である。
「国際社会」から認められる、とか、認められなければならない、といった観念が強まって絶対的にまで昇華すると、一種の「他人優先=自己否定」となる。

これは、「利他主義」だ。

この一見、美しい利他主義こそ、ハイエクや自由主義者が批判・否定したことで、言葉をかえれば「集産主義=共産主義・全体主義」のことなのである。

その究極は、他人のためという「美語」のために、個人としての「生(生命や人生)」を献げることの「当然」になるから、本当に「命がけ」となる。

この恐るべき思想に対抗するのは唯一「個人主義」だ。

日本人は、個人の勝手気ままな我が儘をもって個人主義と解してきた。
野蛮な欧米人とはちがって、日本人は「天下平等な社会」にながく生きてきたので、集団主義(利他主義)の優位だと信じさせられたのだ。

しかしながら、突きつめれば、貧しさ故の選択肢の少なさと身分制の中で生きることとは、あんがいと正しい個人主義があってこそだった。
各身分の中、たとえば、町民は町民のなかでの平等があったし、この身分を超えてしまうことの「分をわきまえた」のだった。

たとえば、「裏長屋」での生活は、まさに雑多な個人が個人としての生活をしていて、「人情」とは、「他人を自分と同様の個人としておもんばかる態度」のことをいうのだ。
だからぜんぜん「利他主義」ではないばかりか、欧米で生まれつつあった「個人主義」そのものがあったのである。

「個人=自分」を確立させて、それを他人からも尊重を得るとは、本人も他人の個人としての尊厳を尊重しないと成立しない。
これを、日本語で、「お互い様」という。
まさに、「お互い様」こそが、「個人主義」の真髄を表す。

そうかんがえれば、何が何でも「国際」を優先させて、「国家」を下に置くのは、「利他主義」の最たるものなのである。
だから、自由主義の立場から、「国益を損する」と批判されて当然だ。
その究極が、「世界政府」という「悪夢」なのだ。

さて、オランダ、ハーグにある「国際」司法裁判所は、16日、ロシアに対して軍事行動を即時に停止せよ、と命じたことがニュースになった。

この裁判の原告は、ウクライナで、訴えの理由は、ロシアが主張するウクライナ国内でのジェノサイドに「事実無根」としたことで、「ついでに」軍事行動の即時停止も求めたのだった。

つまり、「主たる訴え」がどうなっかがわからないで、即時軍事行動の停止「だけ」が命じられた、ということになっている。
世界のマスコミ報道が、徐々にウクライナ政府がネオナチによって乗っ取られて、ロシア系住民への「虐殺の実態」も明らかにしてきつつあるのに。

判事には日本人もいて、これに賛成したというから「国際」の「流れに任せた」安易が見える。

それで、日本政府もこの「判決」を支持すると、官房長官が発言した。

ロシア人判事と中国人判事が「反対」で少数意見となったけど、なぜに日本人判事が「喧嘩両成敗」を「異見」としていえないのかが残念だ。

しかして、それが薄っぺらな「国際」の「美しさ」なのである。
いつ化けの皮がはがれるのか?
そのとき、国民一般はどうするのか?

「国際」は、じつはとんでもく「不細工」だった、と。

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