「歴史認識」の難しさ

このブログでは、たびたび「犬」の話を書いている。
昨日もそうだった。

人間と万年単位で付き合いのある「犬」だけど、どうして他の動物と比較してこんなに相性がよいのか?といえば、「犬」には「感情を理解する能力が長けている」という特徴があるからだ。

群れで暮らして群れで猟をする野生の犬は、そのむかしオオカミだったというけれど、この動物がつねに「序列」を気にする性質がDNAに埋めこまれている原因に、序列による「狩りのフォーメーション」があって、さらに序列によって獲物を食べる順番が決まるからだ。

つまり、序列が上位にないと個体としての生存が危うい。
この生存をかけた序列へのこだわりを、人間が利用した。
また、序列を決める「心理」が、群れの中のボスの感情をいち早く理解することにつながった。

こうして、「感情の動物」になったのである。

また、犬には思考力を司る「前頭葉」が、人間ほど発達しないので、彼らの思考力は人間に比して著しく低い。
むしろ、ほとんど「ない」のだ。

ただし、「条件反射」についての有名なパブロフの実験にあるように、定型的な刺戟に対する行動は訓練で教えこむことができる。
それで、人間の猟の相棒としてやってきたのだ。

ところが、いわゆる「洋犬」と「和犬」は、おなじ「猟犬」として人間と生きてきたのに、ぜんぜんちがう「性質」になった。
「洋犬」は、いちいち人間が指示することで命令に従うようにつくられた。

一方、「和犬」はこの逆で、犬が「狩りをする」のを人間が最後のトドメを刺すように仕向けてくるのである。
なので、和犬の飼育は専門家でも困難という。

それで、さいきんのDNA分析で、和犬の「柴犬」がもっともオオカミに近い犬種だとわかった。
比較的小型ゆえに家庭犬として一定の人気がある「柴」は、じつは洋犬と比較して愛玩犬としての飼育がもっとも困難なのである。

されども、突出したプロの調教師は、感情によって行動する犬の心理を利用した訓練方法で、どんな犬種でもたちまちに「愛玩犬」にしてしまう。
「所詮、犬は犬である」というのが、このひとの結論なのだ。

犬のもつ、序列の意識を人間からの愛情を受けとめさせることで、「従順化=人間への依存」させるのである。
だから、一切の暴力的なやり方はとらないで、「本能」を制御させる。

しかし一方で、「猟犬として育てる」場合は、むしろ、犬の本来もっている「本能を表に出す」訓練をする。
闘争心を磨く、ともいえるし、飼育目的に愛玩の要素はまったくなく、使役犬として徹底することが重要なのである。

とはいえ、犬は犬として、「今を生きる動物」であることにかわりはない。

思考能力がほとんどないために、日常の記憶も不完全なのである。
それと忍耐力でも、はるかに人間に劣るから、「時間をかけた」場合には、かならず人間が勝利する。
犬は、根負けする。

よって、トラウマになるような「恐怖の記憶」は別として、一般に犬は過去10分程度しか記憶できない。
一生の出来事をぜんぶ記憶しているという「象」と、決定的にちがうのである。

余談だが、それで、ぜんぶ記録する、という謳い文句の「Evernote」のロゴが「象」なのだ。

さてそれで、現代人間社会を観たときに、人間が犬化していないか?と疑うのである。
そこで参考になるのが、「歴史認識」なのである。

あたかも「歴史認識」というと、政治的で他国と自国の歴史認識のちがいが、外交問題にまでなるイメージがあるけれど、ここでいう「歴史認識」とは、個々人がいま生きているこの時代、この瞬間の認識をいう。

つまり、「この瞬間」の積分が歴史になるという認識のことだ。

たとえば、シーザーがルビコン川を渡った、という歴史とか、黒船がやってきた、という歴史とか、みんないまとはちがう次元の過去の出来事としての「知識」として「記憶」している。
受験生なら、年号もいえるだろう。

もちろん、ふつうにいう「歴史認識」ならば、その解釈と、それで現在にどんな影響があるのか?が議論になるものだ。
けれども、ここでいいたいのは、その当時のひとたちには、「日常の一部」だったという「認識」のことなのである。

すると、いま起きていること、たとえば、ウクライナ紛争が戦争になったこととか、イタリアの新政権やら英国の新・新政権の発足(なんと「インド系」=大英帝国のいよいよ終末の歴史的できごと)とか、はたまた、よくわからない宗教問題でのわが国経産大臣の更迭とか、これらが「歴史」になることの「認識の欠如」があることをいいたいのである。

なんと、大局的にみれば、「犬」とかわらない。
ただなんとなく今を生きる動物に人間が成り下がったといえないか?

べつに身分社会を礼賛するわけではないけど、むかしなら、高貴な身分のひとには、ここでいう「歴史認識」があった。
そうでない身分のひとたちには「歴史認識」なんか関係ない暮らしがあったのだ。

それでバランスをとっていた。

「平等社会」のいまは、社会構成員の全員に歴史認識がなくなった(全員が低い身分になる平等)から、為政者の行動に責任が薄まって、ひどいことになっている。

つまり、ちゃんとした平等社会にするには、全員が「高貴なる」ちゃんとした「歴史認識」をもっていないといけないのである。

ところが、こんなことになったら困るひとたちがいる。

それこそが、現代社会の「大病」で、不治の病かもしれない。
だとすると、歴史認識の欠如がもたらす破局の到来は、「時間の問題」になっている。

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