反理性主義とかなんとか

人間には理性があるから、理性をもってことにあたればいい、という話がドンドン拡大したら、地球温暖化も理性のなかに入り込んで、科学が追い出された。

それで、先進国の英国は、風力発電にシフトして、これぞクリーン・エネルギーだと自慢しようとしたら、風が止んでエネルギー危機になった。

対岸のオランダは、むかしから風車が名物で「粉を挽いていた」けど、やっぱり発電につかったら、周辺の住民が風切り音の低周波で体調不良になった。

人間の健康よりも地球があってこそなので、最初は無視していたけれど、とうとう洋上にまで展開して設置した。
その海域は立ち入り禁止にして、漁業も釣りも禁じられた。

まことに、欧米人のおつむの傾きは極端なのである。

そんなわけで、こないだ「大光明」だと書いた、量子論の続きである。

ふつうに西洋が相手なら、「知的伝統」というものを追いかけると、古代ギリシャ哲学の「原子」にまでさかのぼることになる。
けれども、アラビアを抜いて「科学」を求めざるをえなくなった、ヨーロッパ人たちは、デカルトの登場で知的絶壁を経験する。

いわゆる、「機械論」という話になって、デカルトによる「物質」と「精神」の完全分離こそ、のちの「唯物論」につながる革命思想の根源なのである。

しかして、それが、「量子もつれ」の実験による確認で、「機械論」が根本から廃棄される事態となった。

つまり、唯物論の完全否定が量子物理学から結論づけられる、「反革命」的大事件となったのである。

ところが、ノーベル物理学賞に興味すら示さない「大衆」が多数になったので、この反革命の大事件にぜんぜん気づいていない。
むしろ、「物質」と「精神」の統合が、量子論から発生することの確実を、「宗教的で気持ち悪い」という評価になっている。

これぞ、テレビ脳、なのだ。

だれが実行犯なのか?ということも、詳しい検証もないままに、「なんとなく」あのひと、になっていて、起訴されたら99.6%が有罪判決がくだされるわが国刑事裁判にあって、とうとう起訴されてしまった。

だから、もう決まったも同然で、背景にある悪い教団こそが、「憎き敵」という刷りこみが完成している。
そこに、個々人が「明日は我が身」という想像力を奪われたことの重大事すらない。

この恐るべき、伝統的プロパガンダで、先手を打たれたがために、量子論による反革命が霞んでしまった。
はたして、ノーベル物理学賞を予想しての先回りだったのか?たんなる偶然なのかはもうわからない。

わかっているのは、「大衆社会」の、どうにもならない怠惰な態度だけだ。

量子論から派生する、「パラレル・ワールド」という現実も、そんなものは完全無視して、無事にことしもダボス会議は終了したようだ。
しかし、この世界経済フォーラムという存在が、すでにパラレル・ワールドを形成していて、支配者と被支配者との二分世界をつくっている。

それでもって、世界経済フォーラムは、ちゃんとなにを討議して、なにを決めたかも発表している。
にもかかわらず、被支配者の「大衆」は、そんな発表にも、ぜんぜん興味がないのである。

もちろん、テレビはこの発表を、きっちり放送せずに、あたかも「美辞麗句」をもってニュースにするのは、支配者が所有する媒体だからというわかりやすさまである。

それでも、大衆は、面白ければいいし、面白くなければ観ないだけでなく、ネット・ゲームに興じて、支配者にまたチャリンと課金されている。

こんな状況を見ていると、だんだんとこちらが「虚無」になるから、始末が悪い。

個人へのみえない追い込み猟を仕掛けられているのだとおもうのだけど、どこかで一線を越えると、常軌を逸した精神になるのかもしれないとおもっている自分がいる。

いやむしろ、大衆が向こうの世界に行きすぎて、こちらとの相対距離が離れたら、それだけで常軌を逸したと評価されるのがオチなのである。

それにしても、こんなことをあれこれかんがえているひとが、他にあんまり見あたらないのはどういうことか?

それとも、わたしが発見能力に乏しいのか?
あるいは、量子論からの哲学を、まだ誰もかんがえついていないのか?いや、そんなはずはない。

それに、「電子工学」はあっても、「量子工学」をきかない。

おそらく、量子コンピューターとかと、あんがいと個別の研究が先行していることで、「工学」のいうかたまりになっていないのかもしれない。
すると、「量子哲学」が生まれるのは、もっと先なのか?

量子論は、既存の学問体系(大系)を破壊する。
アインシュタインの相対論を乗り越えてしまったことの衝撃が、これから十分に大きな破壊力をもつこと確実だから、楽しみなのである。

その意味で、既存の宗教(学)も、吹っ飛ぶのである。

ただし、仏陀が描いた世界が、なんだか近しい気がする。
「色即是空、空即是色」が、あたかも量子的で重い意味をもっているからだ。

葬式仏教に甘んじてきた、わが国仏教界は、これにどう答えるのか?
わたしは、「理性」で答えてはならないとかんがえている。
なぜなら、宗教は、「信仰」が重要だからである。

とはいえ、今年のダボス会議に主宰者のシュワブ氏が、「病欠」して、子飼いのニュージーランド首相が辞任を表明したこととか、おなじく子飼いのマクロンのフランスで年金改革反対を掲げながら、じつは「反マクロン」大デモが発生していることが、目に見える「光明」になっている。

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