「ポスト資本主義」とは資本主義である

資本主義の成立が、どんな「条件」だったのか?
じつは、いまだに「わかっていない」不思議なのだと前にも書いた。
資本主義ではなかった人類社会は、どうやって資本主義になったのか?
この肝心なことが、うそみたいだが「わからない」のだ。

ただし、「人類史上」で、「1回だけ」資本主義の発生が起きたことは、「間違いない」から今の人類社会がある、ことになっている。

しかしながら、資本主義にならない社会もいまだにあるし、明治期の日本がアジアで唯一、資本主義社会になったのも、まことに不思議なことなのである。

それで、資本主義が爛熟した社会では、「ポスト・資本主義」が言われて久しい。
また、「ポスト・資本主義」をいうひとたちの特徴に、「資本主義を憎む」という信条が見てとれる。

一般に、「資本主義を批判」して、「否定」したのは、共産主義を発明したひとたちだった。
もちろんこのひとたちにとって、共産主義社会は理想社会なのである。
これを、「ユートピア」(「この世にない社会」という意味の造語から)ともいう。

しかし、「ユートピア」の言いだしっぺ、トマス・モアの小説『ユートピア』は、ぜんぜん「理想社会」なんてことはなくて、暗黒の地下に住むしかないひとたちと、明るい地上に住む人たちの「おぞましい」社会を描いている。

だからよくいう、「ディストピア小説」が、『ユートピア』なので、話が面倒になるのである。
ほんとうは、「ユートピア小説」といいたいけれど、「この世にありそう」という逆の意味なら、「ディストピア」の意味がある。

それでできたのが、「ディストピア小説」というジャンルである。

  

ジャンルとしていえば、最初の作品が、『すばらしい新世界』(1932年)だ。
ここに登場する、「ソーマ」という飲料は、戦後日本文学の金字塔と三島由紀夫が絶賛した、『家畜人ヤプー』(1956年)でも採用されている。

どちらも、いまでは、「古典」だ。
なお、『家畜人ヤプー』には、巨匠、石ノ森章太郎が描いたマンガが復刻されている。

次が、いわずとしれた作品で、本ブログでも何度も書いた、『1984年』(1949年)である。
そして、エヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』(1920年、1988年)がある。

『われら』は、『すばらしい新世界』より10年以上早くに書かれた作品だけど、ディストピアが現実化した「本場」のソ連で、焚書にされた経緯があるため、世界で存在がわかったのが、ゴルバチョフによるペレストロイカでの「デビュー」となったのである。

このジャンルには、もっとたくさんの作品群があるけれど、共通しているのは、「未来社会」であることと、「全体主義」によって極度に弾圧される人類の悲惨なのである。

だから、これらの作品に共通する価値観は、自由、である。

人間は、失ったものの価値は認識できるが、いつでもどこでもふつうにあると、その価値を認識することが甘くなる。
宇宙や水中での空気とか、砂漠での水とか。

何度も書くが、「自由」の重要な価値、でいう、「自由」とは、好き勝手な意味での自由ではなく、欧米人には「信教の自由」が初めにある。
神を信じることが、ふつうにできたことが、だんだんと、神を信じることが為政者から許されるようになった歴史があって、とうとう禁止されたからだ。

ここから、「だれにも命令されない自由」とか、「自分で決める自由」がうまれた。
なので、自己中で好き勝手が「自由」の正しい意味ではない。

この感覚が、古来、神を信じることがふつうのままである日本人にはわかりにくい。
むしろ、武将たちでさえ、「南無八幡大菩薩」とか、いざというときに「神・仏」という「なんでもあり」に無節操にも頼ったのが、日本人なのだ。

それがどうしたことか、明治初期に、「廃仏毀釈」なる激烈をやった。
おもに、神社の神官たちがやったとある。

もっとも日本的なひとたちが、もっとも欧米人的な行動をしたといえるけど、「打ち壊し」は、むかしの日本人たちの得意技なのである。
大正時代の「米騒動」もおなじで、われわれの3~4代前の日本人は、荒っぽいのである。

そんなわけで、ほんとうは「わからない」けど、「わかったことにした」のが、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』による、資本主義成立の条件の発見、である。

けれども、わたしにはこの主張より、『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(羽入辰郎、2002年)の方がより刺激的であった。

著者によれば、まったく信用ならないことになって、世界の名著の落とし所がないことに驚くばかりか、資本主義の成立そのものが怪しいことになっている。

つまるところ、巷間いわれている「資本主義」は、じつは存在していない。

なので、われわれが信じて疑わない、「資本主義」なる幻想の次にやってくるのは、マルクスの催眠術にかかったかのような、共産主義・全体主義ではなくて、あくまでも、「自由主義経済社会」なのである。

これを、資本主義というとややこしい。
しかしながら、ふつうは、「自由主義経済社会」のことを資本主義という。

いま、世界で「自由主義経済」を「統制」しようとしていることこそ、「反動」なのである。

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