国民が持続不可能になる

電気代がまたあがる。
理由は、「持続可能エネルギー移行負担金」という名目である。
原発が止まって、値上がりしたときも「負担金」だったから、役人の「手口」に新しさはない。

レジ袋有料化が、関係省庁の「省令改正」という手口だったのは、新しかった。
縦割り行政の常識を、「やればできる」とぜんぜん褒められたものではないものの、横の連絡で実行した。

今回のは、経産省・資源エネルギー庁の「単独犯行」なので、旧態依然としている。
いちばん旧態依然としているのは、広く国民に負担を強いるものに、国会決議を要さないで済む、という国会の永続的な睡眠状態をいう。

もちろん、役人は与党の会合に出張っていって、「ご理解を得る」努力をしたはずだ。
それで「ご理解を得た」ので、法律もなにもなく、料金値上げを電力会社に命令できるのである。

どうしてこんな負担を「強いる」のか?
それは、地球環境がこわれ「たら」、経済発展どころでなくな「れば」、国民生活もなにもない、という「誇大妄想」にとらわれたひとたちが、「儲かる」という仕組みの隠れ蓑にしているからである。

だから、この「たら」とか「れば」という仮定がなくなると、「儲かる」こともなくなってしまう。
それで、世界をあげて、地球環境を守る「SDGs」が推進されることになっている。

これぞ、脅しによる「究極の貧困ビジネス」なのだ。

そして、あらゆる分野・業界で「SDGs」が推奨されるのは、その指導にあたる業務のひとも、その指導をうける企業も、「儲かる」ことを確信しているからである。

つまり、消費者である国民は、かならず「損」をすることになっている。

あらゆる分野・業界には、「虚業」もふくまれる。
すなわち、世にいう「金融系」だ。
銀行だけでなく、投資会社もこれにあたる。
そうやって、わたしたちの年金だって、「持続可能」な、「SDGs」に見合った投資先で運用されることを名分としている。

すると、大損しても、「地球環境のため」だから仕方がない、という言い分が通るかもしれない。
でも、投資先を決めるひとたちの年収が減るわけではない。
「持続可能」なのは、決めることができる「立場」なのである。

まことに、産業国家として一部のひとに都合のいいはなしなのである。
だから、科学的に立証されることをきらう。
むしろ、科学研究費を、都合のよい「推進派」にしか提供しない、という悪辣をもって、「疑念派」を追放しようとするのである。

もし、明治維新への疑念をいうなら、これを追放しようというやり方とおなじだから、たちが悪いのだ。
けれども、このやり方も役人には「経験済み」ということになる。
それを、世界が真似ている。

そして、民主主義の多数決が、悪用されているのだ。

あと80年の「22世紀」がどんなことになっているかは期待薄ではあるけれど、今頃が「分岐点だった」といわれるのかもしれない。
すると、けっこう今が「正念場」なのである。

今年生まれる子どもの数は、昨年と同様として、87万人程度だ。
「団塊」のピーク、1949年(昭和24年)は、270万人弱だった。
ほぼ1/3になったのだ。

さらに、男女比は半々なので、ざっと女の子が40万人もいない。
特殊出生率の「1」から推定すれば、この子たちの子どもは40万人よりすくない程度だと推定できる。
そして、この子たちの子どもは、女の子が20万人程度だろうから、次の世代は10万人と、20~30年周期で半減する。

もちろん、今年生まれる子が成人するときまでに、おそらくいま70代の団塊世代はこの世にいない。
老人層の死亡数と、新生児の数が、ぜんぜんあわないのである。
すると、わが国の人口はいったい何人にまで減るのか?というのが、「人口減少問題」である。

だから、日本人に限っていえば、今のままの消費水準をつづけても、前年の消費量が維持できるのかもあやしい。
なにも、資源やらの「持続可能性」とかを心配しなくていいばかりか、需要がなくなる。

消費主体である、人間が持続不可能になる可能性があるのだ。
心配すべきことの、順番が狂っている。

かつて、首相だった鳩山由紀夫氏が、「日本列島は日本人だけのものではない」と迷言をはいて糾弾されたことがあったけど、向こう100年を見据えたら、まったくの「正論」なのだ。

日本列島に棲む日本人(大和民族)が、少数民族になる可能性は、否定どころか、現状の延長なら「確実」なのである。

けだし、彼には、「それでどうする?」がなかったばかりか、「子どもは国家が育てる」という、バリバリの共産主義を是としたから、迷言となったのだ。
しかし、糾弾しただけで、国民もすぐに忘れてしまった。

わが国に、ほんものの「宗教家」がどれほどいるのかわからないけど、団塊世代の葬儀が済めば、次はすさまじい勢いでの「墓仕舞い」がやってくる。
ことここに至って、徳川以来の「檀家制度」も成りたたない。

拝むのが宗教とはいえ、死ぬばかりが収入ではつづかない。
「増やす」ための祈りを開発する、イノベーションがいるのである。

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