宗教弾圧とガーシー曝露砲

「檀家」としていえば、わが家の「お寺(菩提寺というほどの家ではない)」から、どうしたことか今年の8月15日は、「施餓鬼法要の中止案内」がやってきた。

どうしたことかというのは、昨年は2年ぶりに実施したからである。
いまさらだけど、今年の中止の理由がわからない、のだ。
もちろん、表向きも裏向きもなく、お寺さんとしては「感染予防」という世間体への大義名分があるのだろうけど。

こうしたことの「決定」は、当該寺院の住職による「職権」なのか?それとも、本山からの「指示」なのか?あるいは、本山への「報告事項」なのか?末端の檀家にすぎないわが家では、なにもわからないのである。

ちなみに、わが家の「お寺さん」は、本山の直轄末寺であって、県下における「宗務所」でもあるから、神奈川県における当該宗派の寺院は、ぜんぶ施餓鬼法要の中止をするのか?も気になるところではある。

なお、昨年には、「ウィルス退治の祈祷」をなぜやらないかと書いたのだったけど、もっと前に「宗教の復活はあるか?」とか、「宗教が死んだ日本に再生は?」とかと書いてきた。

わたしは自分を、「信心深いことはない」とおもっているけど、宗教は重要だとかんがえている。
だから、戦後の洗脳で、自分を「無宗教」というひとの「軽薄さ」は、なんだかなぁとおもうのである。

祖父母の時代より前の日本人は、総じて「熱心」な信仰があって、なかでも「日本教」という最重要を、戦後は「国家神道」として完全否定したのである。

これらが、みごとな「洗脳」であったのは、「日本教」にも、「完全否定」にも、どちらにも「共通」しているからややこしい。
ただし、「日本教」の「発明」なくして、明治以降の近代化も、戦後の経済復興もなかったとおもわれるほど、超重要なのである。

ここで注意がいるのは、戦後の経済復興(バブル前まで)を成し遂げた「人物たち」は、ぜんぶが「明治教育」を受けたことだ。
その後の「絶頂と衰退」は、国民学校世代以降のひとたちという「特徴」があるから、その「成果」のちがいに気をつけたい。

ならば、「日本教」とはなにか?
その本質は、天皇をキリストと同位置においたことによる、国民平等と自由の基盤づくりにある。
まさに、みごとな「倒置」を日本社会に埋めこんだのだ。

しかし、現実社会に「平等」はなく、しっかり「身分制」があった。
けれども、社会の「建前」として、天皇の下にある国民平等と自由のかんがえは、やがて自由経済体制の下地となったのである。

いやむしろ、下地とすべく発明したのだった。

その根本が、『五箇条の御誓文』と『教育勅語』にほかならないし、戦後とは、これらの「完全否定」なのである。
国民(臣民)は、天皇の「赤子(せきし)」としたことで、政府はサンドイッチ状態にもなった。

上のパンは天皇で、下のパンは臣民としたから、挟まれた政府は天皇の意向に従えば、自動的に臣民の声を聴かねばならないという、たとえ「架空」といえども言葉にした「言霊信仰の構造」によって、ほとんどの臣民は政府を信頼したのである。

この「惰性」が、いまでも続いているので、わたしは「慣性の法則」だといっている。
しかし、天皇の権威が戦後の「努力」によって、弱まったので、政府への信頼が揺らぐという、ブーメランが生まれてきた。

日本教の弱体化努力が、日本人の信仰心を限りなくゼロに近づけたために、たまたまのきっかけによって、特定宗教団体が「やり玉」どころか、反社的扱いとなったので、宗教弾圧がここまできた、とおもえるのである。

ちょっと前のむかしなら、他の宗教団体は、「自分たちとは関係ない」として、問題ある「新興宗教」への弾圧的攻撃をせせら笑う余裕があったろうけれど、いまのわが国にも通じるものか?と疑う。

それが、伝統的既存宗教の、施餓鬼法要の中止にもなっている。
一般的に、「お盆」というのは、「盂蘭盆会」のことで、原語の発音上の「ボン」を「盆」の字で表記しただけだ。
施餓鬼法要は、その中心にある宗教儀式である。

だから、施餓鬼法要の中止とは、まったくもってわが国伝統仏教の自殺なのである。

これを、政権与党を支持する各宗教団体に影響しないはずがない。

さて、この「タイミング」で、「ガーシー」が参議院議員になったこともつながってくるとおもうのである。
彼の「当選」を、「革命的」というひとがいるのは、外国に滞在したままで選挙戦を国内でやらなかったのに当選したことと、彼の「暴露」が票をえたということの2点をさす。

これぞ、「ポピュリズム」といわずしてなにをいうのか?

精神的、哲学的支柱を失った、現代日本社会の「顕在化」なのだ。
一方で、「参政党現象」なる社会現象もあって、両者は二分しているのである。
それが、ガーシーによる与党有力政治家の「下ネタ暴露」と、参政党がさっそく参議院に提出した「質問趣意書」の内容なのである。

参政党は選挙期間中も、「下半身は別」と訴えていた。
良き政治家の定義とその人物の下半身は別だということだ。
個人の性癖とかも含め、国民のための政治をするなら、下半身はあくまでも個人の問題だという主張である。

一方のガーシーは、この意味で「道徳的」なのである。
一国を率いる政治家たる者は、清廉潔癖でなければならない、と。
彼のいう「べき論」は、日本教があった時代には通じるが、いまでは単なる「ゴシップ」である。

だから、典型的週刊誌ネタの「文春砲」を文字って「ガーシー砲」といい、これをタダで見物できる大衆が喜ぶのである。

この「末法の世」の現実が、ガーシーの価値は、議会で1票の役割しかないタレント議員よりは「マシ」にみえる理由である。

堕ちるところまで堕ちれば、あとは上昇しかないから、いまは「墜ちるまで墜ちよ」という坂口安吾の言葉が頼りなのである。

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