かかあ天下の幸福

群馬県における、「うちのかかあは(働き者で)天下一」が、変に略されてできたのが、「かかあ天下」で、恐妻家の意味に変化してしまったのである。

前に、千葉の女の乳搾りについて書いた。
こちらも、「働き者」という本来の意味が、変に転じていたものだ。

エジプト人のフィフィ女史が、驚異的な日本語能力をもって発信している中に、「日本は女尊男卑の国だ」という指摘がある。

エジプトにいる日本人で、フィフィ女史に匹敵するアラビア語能力を発揮して、エジプトでの評論を発信しているひとをしらない。

ただし、エジプトだと二通りの言語がつかわれる。

アラビア語でのまじめな評論なら、「正則アラビア語=文語」をもって話すという、高度な語学力を要求される。
ふだんの日常会話における、「口語」では、話者の教養が否定されてしまうから誰も信用しないだろう。

なお、正則アラビア語=文語と口語とでは、別の言語かとおもうようなちがいがある。

もうひとつは、フランス語である。
クレオパトラの自死によって古代エジプト王朝が滅亡して、ローマの属国となって以来ほぼ2000年間、エジプトは常に覇権国の属国に置かれていた。

ナポレオンのエジプト遠征で、この国の知識人たちはフランス語をもって知的会話をしているのである。
ただし、その後の英国支配もあって、英語も常用されてはいるが、上流階級はなんといってもフランス語なのである。

かつて、エジプトにおける歌姫といえば、ダリダが有名だった。

しかし、日本でなら美空ひばりに匹敵するこの国民的大歌手は、パリに在住していて、アラビア語とフランス語が混じった歌を熱唱していたのである。

イスラム教の一夫多妻婚は、ときの支配者たちがつくった後宮(ハーレム)をもって、あたかも好色さだけが強調されているけれど、教祖モハンマドが定めた妻は4人までというルールは、ジハード(布教による聖戦)における戦死者の未亡人たち救済のためのものといわれている。

女性の3倍の男性が、戦死したのであった。

砂漠における生活は、日本人には想像も出来ない苛酷さがある。
なので、われわれの常識をもって安易な評価をするのは控えないといけない。

逆に、先方からしたら、「日本という異星」とおもうほどの異次元が日本なのである。
今の時期、紅葉を愛でるために来訪する外国人が多数なのは周知だが、アラブ系のひとたちには、木々が色づく光景だけで、それはもう異界なのである。

およそ100年前のパリでは、女性参政権をめぐって、シャンゼリゼを埋めつくす女性たちの大規模デモがあった。
いまの常識ならば、参政権を要求するためのデモにちがいないと勘違いするのだろうが、じっさいの目的は、その真逆、大反対の意思表明だったのである。

政治なる汚いものは男にやらせ、子供を産む神聖なる女性を穢すな!という要求なのである。

それがいつのまにか逆転して、女性の権利にまでなったのは、男女平等というジェンダーフリーの事始めが原因である。
しかして、そのまた原因に、啓蒙主義による「人権」という概念が誕生したからである。

なので、人類は1215年の「マグナ・カルタ」を嚆矢とすればこの1000年のことであり、日本なら「戦後民主主義=女性参政権」となって、たった80年弱のあたらしいことでしかない。

はたして、人間の男女とは、おなじ生き物なのか?とかんがえを巡らせば、似て異なるものだ。

生命が生殖機能を獲得して、ようやく死ぬことができるようになった。
雌雄のちがいがなかった億年単位の時間、生命は死ぬことができなかったのである。

そんなわけで、男尊女卑という常識は、あんがいと脆弱なもので、本来は女尊男卑の原則が、人類共通のものとしてあったのである。

ところが、あたかも酒席に遅れてきた者が、周りに追いつこうとして追い抜いて泥酔するがごとく、男尊女卑が擦り込まれてのち、男女平等の刷りこみ教育から追い抜いたら、目的が女性をトップに据えることだけに陥った。

わたしは、とくだん林真理子女史の読者ではないが、なぜにこのひとが日本大学という巨大組織の理事長になったかの原因と結果について、ただ違和感をもつのみなのである。

しかし、なにも日大だけが問題なのではなくて、世界的にもやらかしてくれる女性政治家や高級官僚が目立つのである。

これは、女性だから目立つので、なんだか気の毒ではあるけれど、その人事が適材適所なのか?ではなくて、女性だから選ばれて就任したのだとなっているかのように見えるから、気の毒なのであるという議論がある。

けれども、適材適所という判断基準も、男女平等という観点からのものなのである。

男女は別の生き物だとしたうえでの、適材適所をかんがえないといけないのではないか?

人手不足だから、主婦を働きに出すように仕向けながら、税制上で事実上の所得制限をもうけたり、保育所の不足をつくったりと、政府と財界に都合のよいことをやっている。
ついでに、どうせ「DINKS」だろうからと、男性の所得制限もして、ダブルインカムでないと生活できないようにしている。

さらに、こんな所得では結婚もできないので、親のすねをかじるようにして、個人資産の減少を促すのである。

それを誤魔化すために、女性管理職やらを数量で義務化しようというのは、女尊男卑を装って、その奥におどろくほどの男尊女卑が隠されているから、いまどきかえって男女平等を信じ込まされてきた男性側に戸惑いの違和感が生じるのである。

さては、「かかあ天下の幸福」とは、どっちのことなのだろう?

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