グローバルダイニング裁判の判決

わかりにくい「判決」なので、「(原告請求棄却の)主文」だけを聴いて飛び出して、速報記事にした慌て者たちが、「誤報」を大量生産して呆れられたというおまけもついた。

16日、東京地裁で、東京都から受けた新型インフルエンザ対策特別措置法(特措法)に基づく時短命令は「違憲・違法だ」として、104円の「損害賠償」を求める訴訟の判決があった。

本件については、過去にも書いているのでそちらに目を通していただくとわかりやすいだろう。
かんたんにいえば、このときの「懸念」が、そのまま「判決」になった、ともいえるからである。

なお、原告側主任弁護士の倉持麟太郎氏が、18日、自身のユーチューブ番組『このクソ素晴らしき世界』(奇しくも50回目記念となった)において、「判決文全文解説」をあげているので、法的な問題点のチェックに役立つからありがたい。

この事件は、東京都による「言論弾圧」について、民主主義の重要性を教えられて育ってきた、同社創業社長の長谷川耕造氏が「違和感」のあることをなによりの「きっかけ」にしているものだ。

それは、氏が「時短要請に従わない」ことをSNSなどで表明したことの「制裁」として、「要請」から「命令」となったときに同社店舗が「狙い撃ち」されたという主張となったのである。

それで、法律家として現状の法体系や裁判制度、もっといえば「わが国の法治」についての批判をしていた、倉持弁護士と「出会った」ことで、提訴になったという「経緯」がある。

それで、判決は、「都の時短命令は違法、賠償請求は棄却」という大手新聞の見出しが書いたとおりの「わかりにくさ」だったのである。
「誤報」となったのは、後段の「賠償請求は棄却」だけをもって、都の勝訴と早合点したことを指す。

都の時短命令は、「違法」という判断を裁判所がしたことだ。
つまり、原告側の実質的な勝訴となっている。
それでもって、賠償請求は棄却されたので、実質敗訴した都が「控訴」もできない建て付けにしてあるのだ。

しかし、長谷川氏が感じた、「言論弾圧」すなわち、「憲法違反」についての判断は「なかった」ので、結果的にえらく「テクニカル」な、よって、「小さい」判断となっていて、また、都にも「配慮」したものになっている。

もちろん、「コロナ特措法」を制定させたのは、「国会」に相違ないけど、「法自体」を批判してもいない。
「運用の問題」としたことも、「小さい」のである。
ただし、1年あまりで「判決」がでた、「スピード」はあった。

そんなわけで、原告は「控訴」を決めた。

さてそれで、飲食業界やレストラン事業を内在させる宿泊業界はどうなるのか?

その前に、「敗訴した」東京都のコメントは、都知事のもとにある「官僚体制」が機能していて、トンチンカンな解釈を表明している。
また、熊本県がさっそくコメントを出していて、控訴によって判決が確定したわけではない、という東京都へのエールを送っている。

蒲島郁夫熊本県知事の経歴をみると、高卒で農協に入って、留学先のアメリカの大学を出てからハーバード大学で博士(政治経済学)を取得後、筑波大学・東大教授を歴任した、典型的な「あっち側」の人物である。

その「あっち側」では、ビル・ゲイツ氏の新刊本が話題になっていて、もはやWHOのオーナー気取りの氏は、今後のパンデミックをパンデミックとさせないために、WHOの命令を加盟各国が遵守する旨の「条約」を準備するので、各国は即座に「批准せよ」と述べている。

つまり、選挙によらない「世界政府の樹立」を目指すと、臆面もなく堂々と主張していて、それがほんとうに実施されそうなのである。

これを、「グローバル全体主義」という。

「こちら側」が、グローバルダイニングだから、なんだかグローバルがかぶるけど、その主張は「真逆」である。

すると、「控訴審」では、「グローバル全体主義」との戦いをせざるを得ないことになって、「敵」は都知事や熊本県知事(=これにぶら下がる都庁や県庁の行政官僚)などといった「手先ども」ではないのである。

むしろ、「憲法に緊急事態条項」を加えたいとする、自民党こそが「グローバル全体主義」の手先になっていることが、国民的大問題なのだ。

たしかに、「日本国憲法」は、その出生からして決して正統とはいえない、あやしげなものではあるけれど、根幹をなすのが、「第13条」だということすら、国民は教育されていない。

「すべて国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。

さては、今回の判決で、憲法判断がされなかった、ということは、すでにこの13条が、「軽く」なっていることの証左なのである。
それを、「テクニック」で裁判所が逃げたのだ。

都知事や熊本県知事が息をするようにやっている「憲法違反」が、ビル・ゲイツの邪悪のように、ふつうに行われても、国民(業界人も)が気づかないので、なんとかしようとしている。

これが、この裁判の最大の問題点なのである。

「思考停止族」という区別

「愚かさ」と「思考停止」はちがう、と指摘したのは、『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』での、ハンナ・アーレントであった。

このブログでの「初出」は、もう2年以上前になる。
そのときのタイトルは、「官民あげて,という発想が生産性を低くする」だった。

つまり、「官民あげて」という発想が、「愚か」というのではなく、「思考停止」なのである。
ところが、「世人」がこれに気づいていない。
だから、いまだに「官民あげて」と聴いても、読んでも、「無反応」なのだ。

むしろ、「官民あげて」取り組むからこそ、「効率がいい」と発想するし、このように「即座に」反論するにちがいない。
「官民あげて=効率がいい」という、「刷りこみ」ができているのである。

これには、「官は民より優秀だ」という、「刷りこみ」ができていて、そのまた根拠に、「東大神話」があるのは、「衆知の事実」である。
「衆知の事実」のなのに、「神話化」しているのは、「偏差値教育」という、「刷りこみ」があるので、とりあえず「東大合格」の事実が、「神話」にまさるのだ。

これは、自分の劣等感を逆手に取った、一種の「ほめ殺し」のような、また、「ねたみ」のような、ゆがんだ感情が「一般人の思考」の背景にあることを示してもいる。

つまり、ここに「思考停止」となる、「原因」がひとつ浮かび上がるのである。
そしてそれが、自身の「劣等感」から生まれるという、「愚かさ」なのだ。

ところが、これが、「社会現象」になるのは、圧倒的多数のひとたちが、こうした「劣等感」の持主だということを知っている、小数のひとたちが、「刷りこみ」を画策して、成功すると、こうなる、という仕組みを作っている。

すると、このばあい、「東大に合格すること」は、たいしたことではなし、自分の人生とは関係ない、という別角度からの「刷りこみ」がないと、「解毒」できないことに気づくのである。

興味深いことに、むかしから「東大神話」を「否定」するひとが、「東大卒」という学歴だったことだ。
これには、いくつかの「タイプ:型」があって、ひとつは、自分が東大卒だとひけらかしたいひとだ。

あるいは、「被害者」もいる。
それは、「受験」とその後の「現実」との「狹間」で葛藤せざるを得なかったひとたちで、「東大だから」という他人の目が、驚くほどのプレッシャーになって、「できなかったとき」の反動をいう。

こうしたことは、「凡人」には発生しないから、「いじめ」の要素もある。
しかして、「東大だから」という他人の目が、一層の頑張りを本人に与えて、「やっぱり優秀だ」というパターンだってある。

けれども、いじめにあいたくない、という方向からの無理した頑張りなら、その心理は本人にしか分からないとはいえ、これがまた、「被害者」という意識にもなる。

すなわち、社会からの過度の期待、ということになっているのだけれども、社会が過度の期待をしたのは、優秀なひとたち、という暗黙の前提条件を疑わない「信頼」があったからである。
そしてそれが、当然、として、よくその信頼に応える努力もしたのが、優秀なひとたち、だった。

ところが、社会から「信頼」という概念が壊れはじめた。

世界で一番強固な道徳社会だった、わが国をしてそうなったのは、わが国よりも「低くて軟弱な道徳社会」だった、ヨーロッパを崇拝してしまったことの報いなのである。

ヨーロッパは、科学と技術に秀でていた「だけ」だったのに、社会全部が秀でていると、無邪気にも信じ込んで、つねに「わが国は遅れている」という劣等感にさいなまれたのだ。

この「劣等感」を、あろうことか、「東大のひとたち」が持ったものだから、あたかも日本人全員に伝染させられた。
そしてその「感染力」が、「東大の利権」に変容したのである。

これが、東大教授というひとたちの利権になるのは当然なので、偏差値をもって、「学会」でも「序列」を構築し、その挙げ句に、学会を統括する学術会議も牛耳ることになったのである。
原動力が、「利権」ゆえに、「予算」をコントールする欲望に駆られるのである。

こうしたさまざまな「矛盾」が、地下にマグマがたまって、それがとうとう爆発・大噴火を起こす物理現象になるごとく、社会にも似たようなエネルギーがたまって、いつか爆発する。

このエネルギーを抑えているのが、「道徳社会」なのだったけれど、タガが外れるように、社会から道徳が溶解しているのである。
そしてそれが、ドロドロになって「混沌」となる。

「低くて軟弱な道徳社会」のヨーロッパで起きている、ウクライナでの出来事は、その「混沌」を先行例として見せているといえるのである。

けれども、そうは見せたくないひともいて、それを信じる「保守」がいる。
これを、思考停止族として、区別するときがやってきている。

不自由な自由診療

1961年(昭和36年)に完成した、「国民皆保険制度」による、保険診療が、いまでは「当然」のスタンダードだから、それから外れる自由診療に自由がないことを、国民の多くが知らないでいる。

どんな自由かといえば、患者の「選択の自由」をいう。
つまり、「保険診療」とは、じっさいの「強制」なのだ。

このことは、小さなこと、ではない、「大ごと」なのだが、保険診療のあたりまえが、とうてい「大ごと」だという認識すら国民にさせない、「大ごと」なのである。

「病気を治す」あるいは、「病気が治る」とは、どんなこと、あるいは、どんな状態をいうのか?という面倒な話を理解しないといけない。

大ヒットした韓ドラ『チャングムの誓い』で、女官から医女に身分を落とされた主人公は、とうとう「王の主治医」になって、その功績から、衣冠制の最高位ともいえる地位に就く。

治療にあたるときの口癖(とした「セリフ」)は、「医官が病気を治すのではなく、本人の身体が自分で治すものだ」を繰り返す。
そこで、「医食同源」の思想も映えるから、日本でいう「大膳部」にあたる料理人としての女官だった経歴も映えることになっている。

この「病気を治すのは自分の身体だ」というかんがえは、漢方における基本概念なので、朝鮮における「韓医学」になったし、わが国の伝統医療にも適応されてきた。

そこに、「西洋医学」がやってきて、西洋の(科学と技術が)「進んでいる」ことが、自分たちは圧倒的に「遅れている」という観念になって、席巻されたのだった。

しかして、西洋医学にもざっくり二系統があって、「病原を理論化」することに重きをおく、ドイツ流と、「とにかく臨床で治ればいい」とする、英国流があって、わが国では陸軍と東大とがドイツ流、海軍と慈恵会が英国流を採用して今日に至ったことになっている。

けれども、どちらも「保険診療」という「くびき」の中に入って、そこからの脱却が「不可能」であるから、保険診療をとんがらせる一方通行の方向にしか存在できない。

せめて、「高度医療」という最新技術を用いた、「高額医療」について、保険部分と自由診療部分にわけて、患者の経済負担の軽減をはかることを「制度化」しただけなのである。

それで、「自分が自分を治す」という、「治癒力」について話を戻せば、じっさいに「西洋医学」をもってしても、この「原則」は変えることができない。

唯一の外部専門家による治療が、圧倒的効果をあげるのは、「怪我」などの「外科」あるいは、「整体」によるものだという。

保険診療の問題は、診療内容が完全にマニュアル化していることにある。
「健康保険」からの、「公金」を使うから、「公平性」という価値観で、みごとな「全国一律」を構築したのである。

すると、むかしのような「藪医者」に、めったにお目にかからなくなったのも、この「全国一律」のお陰なのだ。
つまり、症状による「治療」と、「投薬」は、決まっている。

その症状は、「データ」によって裏づけられるので、たとえ「入院」しても、直接医師による診察がないばかりか、面と向かって会話すらしない。
看護師による血圧測定にはじまって、すべてがデータ化されるからで、もはや医師は、患者の顔色ではなくて、モニター画面を観ているのである。

しかし、これが、「保険診療」のルールなので、余計なことは「しない」のではなくて、「できない」のである。
そんなわけだから、「投薬」にいたっても、保険で定められた「薬」を、定められた「量」出すことしか「できない」のだ。

そうしないと、「保険」の実績審査において、「不当」だと判定されたら最後、たいへんなペナルティーを受けることになるからである。

これらを管理するための「一律基準」が、「保険点数」だ。

よって、患者は近所のクリニックだろうが大病院だろうが、黙っていれば全員が「保険診療」を受けることになるので、みごとな「平等」のもとにいられるけれど、そこでの「治療」とは、ほとんどが「応急処置だけ」という「品質下」におかれるのである。

これは、「癌治療」においても、例外ではない。
あたかも、個別の癌治療のごとくでありながら、全員おなじパターンが適用されるのは、「保険診療」だからだ。

このことの重要性は、とくに「予防」ということで顕在化する。
なぜならば、保険診療には、「予防」という概念がないからだ。
よって、なんらかの症状がある者しか「診療の対象」とはならない。

だから、「早期発見・早期治療」が叫ばれるのであって、「早期発見」にも、「予防」という概念がないことに注意したい。

これがまた、さまざまな「健康情報」が散乱して、さまざまな「サプリメント」が売れる原因にもなっている。
それで、間違った情報で間違ったサプリメントを、間違った量で摂取することによる、「健康被害」が後を絶たない。

これが放置されているのは、「自由」だから、ではなくて、「保険診療」に持ち込むためだといえまいか?

それで、「予防」を重視した「診療」は、わが国では「自由診療」でしか扱えない分野になっている。
多くのひとが、自由診療=美容だと勘違いするのは、「予防」のプロの存在が、あまりにも小さいからでもある。

国民皆保険制度とは、典型的な社会主義政策で、これを推進するのは、社会主義国家である。

「平等」をうたうゆえに、「自由がない」という、トレードオフの関係が、みごとに「保険診療」にあらわれているのだと、ちょっとだけでも知っていていい。

第二次「公職追放」の可能性

「メッセンジャーRNA」を、「人工的に加工」した、人類初の「薬剤」を、「ワクチン」と称しただけでなく、「治験」なるいいかたの「人体実験」を、全世界で実施したことでの、「薬害」についての責任を誰がどうやって果たすのか?ということが、この先「犯罪」として認識されたとき、どうするのか?ということになる。

もちろん、あらかじめ「想定しておく」という意味での検討だ。
そのときになって、「想定外だった」とは言わせないための、準備でもある。

じっさいに、各種「副作用」によって、死亡を含めた深刻な「被害」が報告されはじめていて、一方でまた、接種者に「免疫機能の低下」がみられるということも調べ出されているから、本人の一生をかけた「長期戦」も「想定内」になってきている。

なお、「副反応」なる「新用語」が、専門家によって意識的に使われたけれども、本稿では「副作用」に統一する。

「訴訟王国アメリカ」が、決していいと日本人の多くが憧れなかったのは、なんでも「裁判」をやることの「野蛮」を体感的に知っていたからである。
これを、日本人は「道徳の欠如」といって嗤っていたのだ。

つまり、日本人たちは、裁判が起きるようなことを「しない」という、自己抑制に長けていた。
それが、「お互い様」というかんがえ方で、自分の「嫌」を、相手も「嫌」だと先回りして、その「嫌」をなるたけ要求しなかったのだった。

何度も書くが、これこそが、「個人主義」なのである。
自分さえ良ければいいという、「利己主義」とはぜんぜんちがうし、ましてや「利他主義」を美しいと誤解してはいけない。

「他人のために自己犠牲をいとわない」とは、「自己陶酔」すらできるものだ。
だから、社会全体でみんなが「自己陶酔」すると、とんでもないことになる。

つまり、そんな「利他主義」を支配者が「活用」したら、たちまちにして「社会のため、みんなのために死ね」と命ぜられても、粛々としてそれに従うことを、「社会から強制」されるからであって、もう誰にも「拒否」できなくなってしまうのだ。

これが、もう世界でマスクをしている者がいなくとも、日本で「マスクを外せない理由」になっている。
科学ではなくて、社会的制約としての「政治になった」ということなのだ。

共産主義がかならず全体主義をともなう理由が、この「利他」こそが、「共産」と同義だからである。

だから、いまどきの政治家が、あたかも民主主義だからといって、「みんなのため」を強調したら、それは、骨髄反応として「危ない」とおもって差し支えないのである。

むしろ、「自分のため」とか、せいぜい「自分の子や孫のため」という言い方が、「個人主義」になるから、「お互い様」に回帰する。
お互い様だから強制するのではなくて、相手の自由意志を尊重できるのである。

それゆえに、日本人がこぞって「欺された」民主主義とは、「(投票)システム」なんてことではなくて、全員が「個人主義で、強固な道徳社会」でないと「実現しない」ものなのだ。

すると、民主主義の「本家」アメリカとは、「個人主義」から「利己主義」に変容して、「強固な道徳社会」でもないから、すぐさま「裁判」となることがわかるのである。

つまり、アメリカの民主主義は、とっくに死んでいる。

アメリカでこの両方が揃っていたのは、「清教徒」が移民していた時期「だけ」だったのである。
その後、喰えないヨーロッパ人が大挙してやってきて、「強固な道徳社会」を維持するのが不可能になったばかりか、「個人主義」が駆逐されて「利己主義」になったのだった。

さらに、「利己主義」から、より道徳的、という宣伝で、「利他主義」がはびこりだした。

これを、民主党が「民主主義の輸出」といって、相手国民のためという「戦争」を仕掛けるのは、ぜんぜん道徳のない、ただの「武器消費」による軍産複合体への利益供与にすぎないことが、もはや「ウクライナ」で明確に世界にばれた。

なお、「民主主義の輸出」とは、グローバリズム本家の「(国際)共産主義」がいう、「(共産)革命の輸出」とまったくおなじパターンなのは、スターリンに追い出されたトロツキーが、アメリカに亡命し、民主党を乗っ取ったことの「キャッチコピー」だからである。

さて先頃、ファイザー社に対する、「情報公開請求裁判」で、原告が勝訴して、隠されていた情報が「強制的に公開」されて、アメリカで大騒ぎになっているけど、例によってわが国のマスコミは伝えていない。

それが、会社が想定していた「副作用」が、「1200種類」にも及んでいたことだった。
1200件ではなくて、「種類」である。

こうした「事実」は、かならず日本でもそのうち「公式認定」される。
すると、これまでの「話が違う」ことへの、「弁明」はもちろん、事実上「接種を強制」したことの、副作用に対して、誰がどんな責任を負うのか?ということが、目前に迫る事態となっている。

政府を仕切った政治家、分科会の専門家、厚生労働省は「当然」として、役所内でも民間企業でも、これを「実行させた責任」を免れることができなくなる。

まったくもって、「アイヒマン裁判」のような様相になってきた。
「副題」のとおりの、「悪の陳腐さ」が、日本社会でも多数のひとびとによって「再現」されたのである。
その被害者は、可哀想なユダヤ人ではなくて、従順な日本人だった。

あまりも広範囲に及ぶ「事態」となることは、確実なので、第二次「公職追放」ということにもなりかねない。
ただし、前の公職追放(約20万人)は、優秀なひとたちが対象だったけれども、今回は、無能なひとが対象だから、あんがいと国民の福祉に貢献する。

ただ、日本人の寛容さが、これを許すのか?それとも、うやむやにするのか?ということはある。

アメリカナイズされてしまったいま、それに、「怒りの物質」が脳内に出やすい食生活を強いられていることもあって、あんがいと、「容赦ない」ということも想定内にしないといけなくなっている。

「頸を洗って待っていろ」となるのか?がこれから起きることだけど、みんなで渡った赤信号だったゆえに、対象者が多すぎて、どうにもならないから、せめてものひとたちの頸がさらされることになるのだろう。

しかして、たとえ「責任回避」しても、「トカゲのしっぽ切り」をしても、従業員に組織的接種を勧めた民間企業の経営者は、今後の「統治」が困難になることは、まちがいなく、これを受け入れた「労働組合」も同様なのである。

つまるところ、「大津波級」の事態が予想されるけど、知らんぷりしてやり過ごすのか?

世論調査にうそをつきましょう

マスコミがあんまりうそをつくから、世論調査にうそをつくことにした。

日本でも「電話調査」がふつうになって、かけてきた電話の「相手が電子音」でのアンケートがある。
商品のマーケティングリサーチならまだしも、「政治」がテーマなら、時間があればうその回答をするように心がけている。

たとえば、支持政党はつぎのうちのどれか?といって、番号で答えるならば、絶対に支持しない政党の番号を入力するのだ。

こうすることで、「支持政党なし」とか、「わからない」が減れば、既存政党のひとたちは、どこそこの政党支持率が増えた減ったと、いまよりも「一喜一憂」するにちがいない。

こんなことに「一喜一憂」するのは、ばかげたことだとむかしの大政治家は気づいていけど、いまは小政治屋しかいないので、絶対に気づかない。
それは、自分の選挙区の状況だけでなく、生活目線をもって「見る目」、「聴く耳」があったからである。

しかし、その選挙区が、中選挙区制から小選挙区制になって、よほどのことがないかぎり、「落選」がなくなった。
落選するのは、もっぱら無名の「新人」か、「野党」のひとになって、「代々」の職業政治屋の家系が「安泰」という体制にした効果が絶大となったのだ。

それゆえに、選挙では、どんな立場のものでも、「争点」がなくなった。

しかし、ほんとうは、有権者が「争点にすべきこと」を知らないからである。
つまり、市会や県会議員なら、自分が住んでいる市とか県の問題なり課題についての情報がないから、わからないのである。

もちろん、市長選挙や知事選挙も同然だ。

もっといえば、たとえば、東京の会社に勤務している横浜市民や神奈川県民は、横浜市や神奈川県とは、寝る場所がある、というだけのことなので、横浜市役所とか、神奈川県庁が、どんな行政をしているのかに、そもそもが興味ない。

これは、「全国一律」という、まるで宅配便のような「行政サービス」をつくりだしたので、横浜市の小学校と、たとえば、長野市の小学校の「ちがい」すらわからないのと同様に、特に、横浜市だから、とか、神奈川県だから、とかが消滅したことの「効果」でもある。

するとおそらく、横浜市なら「国際港としての横浜港がある」とか、神奈川県なら「ダムがある」とかをいうのだろうけど、横浜港はとっくに、東京港と川崎港とで「統合」されて、国土交通省の「直轄」になったし、ダムは神奈川県でも、河川はやっぱり「国土交通省」の管轄なのだ。

そんなわけで、国の行政の「下請け」が、基本的に県や市の業務となっているので、全国各地との「善政競争」をする必要も分野もない。
であれば、各党がいう、「税金の無駄遣いをなくす」というなら、まっさきに「議会」をなくせばよい。

けれども、「メンツ」が潰れるので、市議会や県議会を維持して、「なんとなく」行政を牽制している「風情」をつくっているのである。

なるほど、日本人は風情を楽しむ風流人だ、とはいえない。

だったら、これらをぜんぶ「国会」にすればいい。
以下、勝手気ままな「妄想」である。

国会の、市町村部会、都道府県部会、というぐあいにして、国家を扱ういまの国会を「国政部衆議院・参議院」とすればいい。
そうして、国の出先機関を、各部会の下に置けば、地方行政は戸籍係だけですむ。

これなら、「陳情先」も、市町村部会の一箇所ですむ。
もちろん、ムダな「市町村長職」とか、「知事職」は廃止すればいい。
「道州制」なる、屋上屋も必要ない。

そんなわけで、世論調査がぜんぜん信用できなくなれば、各党は、自分の組織をどうやって固めるのか?という問題が、存続のための条件になるから、「ポピュリズム」から脱却できるかもしれない。

ついでにいえば、国会の市町村部会とか、都道府県部会の部会員は、「住民票からランダムで選ぶ」抽選方式だっていい。
「当選」したら、勤務先には賃金保障を義務づけて、無職のひとには「手当」をだせばいいから「無給」である。

肉体的条件は別にして、原則的に、「辞退」は禁止とする。
任期は、2年、といったところか。
もちろん、任期の継続も二度目もない。

大混乱するのではないか?
心配は無用だ。
いまよりも悪くなることはない。

むしろ、いまの状態を痛いほど知ることになって、国政部の選挙が熱くなるはずである。

それもこれも、国民の責任なのだ。

だからまず、世論調査にはうそをつきましょう!
そうやって、既存政党のひとたちを混乱させましょう!
ついでに、マスコミも混乱します。

情弱の国民には、ちょっとしたショック療法になります。
この際、「情弱」は気にすることはありません。
どうせ「流されているだけ」の「浮き草人生」のひとたちですから。

ウクライナ生物・化学兵器工場

十箇所以上あるといわれた、ウクライナ国内の生物・化学兵器工場(研究所)は、なんと二十箇所以上だと、「倍増」していたことが、ロシア軍の公式発表によって明らかになってきた。

このことの大筋は、侵攻後の3月8日、アメリカ上院外交委員会の公聴会でも、ヌーランド国務次官が、「認めている」から、ロシア側の「一方的」な話ではないことが重要だ。

また、同公聴会でヌーランド女史は、これら「研究所」の管轄は、なんと、アメリカ「国防総省」だともいい切ったのだ。
すなわち、アメリカ軍の研究所だということだ。

どうして、アメリカ軍の研究所がウクライナにあるのか?
それも「数カ所」どころか、二十箇所以上も?

なんだか、コロナウィルスへの「機能獲得実験」が、国内では危険だから、第三者機関を通じて武漢でやっていた話が思い出される。
「役人の習性」として、おなじパターンを使うのは、世界共通なのである。

つまり、アメリカ国内では危険でやってはいけない「実験」があるので、外国でやっていた、という意味だけど、一ヵ国に集中したことの意味は何か?
しかも、「ウクライナ」なのはなぜか?

前にも書いたが、ウクライナは「ソ連の一部だった」という事実が重要なのである。
そして、当時のソ連には、悪名高き「KGB]が存在していた。
この「組織」は、それ自体が巨大な官僚機構だった。

第1総局から第8総局まであって、いわゆる「スパイ:対外諜報機関」としては、第1総局「だけ」をさす。
プーチン氏やイワノフ国防相は、この第1総局の出身だ。

すべてが「秘密のベール」に隠されていた組織なので、人体実験の「うわさ」はあっても、確認はされていない。
しかし、KGBがウクライナにつくった「研究所」でのあやしい実験のうわさは絶えなかった。

それが、「ソ連崩壊」とともに、研究施設ごとアメリカに渡った。

今回、ロシア軍が発表した「経緯」は、驚くべきものなので、今後、アメリカでは共和党の追及がはじまるだろう。
ましてや、11月の中間選挙で共和党が大勝したら、アメリカ政界を揺るがす、「大スキャンダル」になること確実だ。

わが国の「敵」はずっと前から、アメリカではなくて、軍産複合体の代理人を否定しない邪悪な「民主党」だということが、よくわかる「事例」にもなっている。
もちろん、官僚のトップになったヌーランド女史も、同じ穴の狢を自負するひとだ。

ロシア軍の指摘は、第一に、研究所の研究内容についてコミットした最初の人物が、上院議員だったオバマ氏だと名指して、その腹心の「担当者」が、やはり上院議員だったバイデン氏だと発表した。

なんと、アメリカの政府機関ではないのだ。
そして、上院議員が二人も出てきたのは、資金提供者への「あっせん行為」だからである。

それで第二に、この活動にコミットした、資金提供者は、クリントン財団とジョージ・ソロス氏だとも名指ししている。
そして、こんどはソロス氏が「あっせん」して、コロナ・ワクチンで有名な巨大製薬会社が「出資者」として名を連ねているのである。

第三に、人体実験の証拠の中に、小児への薬品耐性結核菌を用いたことも暴いているのである。
つまり、ウクライナ人を「奴隷」として扱っている、冷血の恐ろしさがある。

じっさいに、ジョージ・ソロス氏は、「ロシアとの戦いにウクライナを利用するだけで、ウクライナ人の運命は我々の知ったことではない」と。

この人物の脳のどこかに「欠損」があるのではないかと疑う。

さてそれで、この「発表」の信憑性についてだ。
まずは、ヌーランド女史の公聴会での発言にあるように、ロシア軍は、「侵攻」とほぼ同時に、これら研究所を「全箇所占拠」した。
ために、ロシア軍の展開は、ウクライナ国内に「分散」したかのように見えた。

つまり、ロシア軍侵攻の「目的」に、これら「研究所の制圧」があったことは確実である。
それで、アメリカ側は、現地アメリカ大使館のHPにあった、研究施設に関する情報を、ただちに(あわてて)「削除」したことも「ログ」から明らかになっている。

次に、ヌーランド女史は、ロシア軍に制圧される前に、それぞれの研究所から「危険な試料」を、「安全に持ちだした」と証言している。

すると、アメリカ側は、ウクライナ各地に点在する「研究所」が、ロシア軍の制圧対象だったことを、事前に、あるいは、最初から「心得ていた」ということになる。

しかも、「危険な試料」を「安全に持ちだした」というのは、危険な実験をしていたことを認めたようにもとれる。
じっさいにそれが、「炭疽菌」やらなにやらだとも認めているのだ。

「もしも」、のことがあったら、コロナ・パンデミックの比ではない、「バイオハザード」となる危険性があった。

このことは、もう30年が経過したとはいえ、元はKGBの研究施設だったことから、そこを「熟知」しているロシア側からしたら、押さえるべきポイントをおさえることに「抜かりはない」ことも明らかだ。

しかも、これら「研究所」を制圧したのは、ロシア軍の「(衛生)防護部隊」なのであって、「戦闘部隊」ではないのである。

そんなわけで、「情報戦」は、高次の論戦へと展開をみせている。

そこで双方の態度を、われわれは観察する立場になった。
アメリカ側のしどろもどろな話し方と、ロシア側の堂々とした論理とこれを裏づける公開資料とをみたら、素人でも「なんだかなぁ」にみえるのだ。

だからいよいよ、こうした「不利」を隠すべく、マスコミは無理な話を大々的に報じるしかない。

これらのプロパガンダも、歴史の証拠になるから、われわれは見逃せないのである。

いまどきの「ちらりズム」

11日、参政党は結党以来3度目の「記者会見」をした。
その模様は、動画になって当日のうちにアップされている。
それで、どんなふうに報道されているかをチェックしてみたら、みごとな「ちらりズム」なのだ。

「会見」で最初に質問したのは、NHKの記者だった。
次がフリーランス。
朝日、毎日も質問している。

これら、一般に「報道機関」といわれているところが、「編集方針」をもって、ニュースの時間内に入れるかとか、どうやって紙面に記事を詰め込むかとか、という工夫や努力を「やめた」のは、ネットの影響だと思われる。

つまり、どうせネットで配信されるなら、自分たちの満足いく編集方針を貫いて、ネットを情報源としないひとたちへの「宣伝機関」に特化することを選んだと、かんがえることができるからである。

だから、ネットを情報源とするひとたちは、これを著しい堕落だと感づくけれども、ネットを情報源としないひとたちは、これに気づくことなく、「永遠なる情報源」として生きている。

ならば、「宣伝機関」となる選択肢とは、経営努力として「負け犬」を目指す、という無様になるのがふつうだけれども、そうはならないのはなぜなのか?

「組織目標」としての、暗黙の合意あるいは了解があるからだとしかかんがえられない。

「民間」(社団法人)だった、「日本放送協会」が、「実質的国営」(公共放送)になったのは、昭和25年制定の「放送法・第三章:日本放送協会」による。
つまり、「占領期」のことなのだ。

「新聞」に関していえば、戦前・戦中から「検閲」はあった。
これを主管していたのは、キング・オブ・官庁といわれた「内務省」であって、「放送」は、逓信省が管轄したことになっている。

しかし、役人という者の生態は、いまもむかしも、「出向」という手段をもって「人事異動」し、あたかも別の組織に入り込んで、それが、「縦割り」に見えるようにしている。
そうやって、責任も回避するのである。

もちろん、「帝国陸軍」も「海軍」も、広い意味では「国家公務員」だから、「人事異動」をもってするのは、当然なのである。

ただし、「軍」においては、「作戦」をもっぱらとする「(陸軍)参謀本部」、「(海軍)軍令部」とに分かれていて、「軍政(予算と人事)」をもっぱらとする「陸軍省」、「海軍省」とに分かれていた。

こうした「軍隊組織」は、あんがいと「世界共通」なので、とくに帝国陸・海軍に変わったことはない。
むしろ、「先進的」だったのは、イギリス軍で、1942年(昭和17年)にできたアメリカ軍との、「連合参謀本部」に、アメリカ側がついていけなかった。

それで、アメリカ軍は戦後の1947年(昭和22年)に、各軍(陸・海・空・海兵隊・州兵)を統括する「統合参謀本部」を創設している。
「冷戦」への対応、という「表向き」に対して、「日本占領完遂」の「裏向き」も、日本人ならかんがえていい。

なぜならば、GHQの中核である日本を占領中のアメリカ軍も、「統合」されたからだ。
そして、戦争犯罪の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム:War Guilt Information Program」をやったのはGHQだった。

つまり、実質、GHQは、「統合参謀本部」から「やらされた」のである。

さらにいえば、1947年当時のアメリカは、トルーマン民主党政権(~1953年)だった。
実質的な、ルーズベルト政権(1933年~)で、なんと20年間も続いたのである。

結局のところ、わが国も占領中の公職追放を含めて、GHQの意向に沿った人物たちの「国家的、強制人事異動」によって、あらゆる職業分野でアメリカ民主党に乗っ取られたのである。

そのアメリカ民主党は、スターリンに追われたトロツキーによって乗っ取られていたから、壮大な「入れ子状態」の中に、わが国も押し込まれたことになる。

すると、ネットの普及による影響で、いよいよ「仕込まれていた本性」を「解放」しているのが、いまの「報道機関:宣伝機関」なのである。

よって、その「ミッション」とは、国民の分断だ。

だから、国民を統合しようとする「ナショナリズム」は、「敵」となる。
それでもって、トランプ氏を大統領から引きずりおろした。
これはもはや、「クーデター」だったといえる。

フランスのルペン氏は、落選に成功したが、フランス人の4割がルペン氏を支持した事実は消えない。

つぎに、いま、ロシアのプーチン氏が狙われている。
あくなき一方的ロシア批判は、狂人説や癌にまで流布の対象にした。
これに、戦後初めて、わが国も「敵国」になるまで「協調」をしたけど、内閣の一存で「戦争当事国」になってしまったのである。

このミッションに、「失敗」し、グローバリストが「完敗」したのが、ジョージ・ソロス氏の母国、ハンガリーの総選挙だった。
しかし、誰もハンガリーのことをいわない。

この「流れ」でみると、わが国の「参議院選挙」における、ナショナリズムの参政党が、どんな「扱い」を受けるのか?は、容易に想像できて、その通りの状況になっているから、「馬脚を露わす」間抜けな状態になったのである。

その間抜けさが、「ちらり」とした記事になっている。

スカートが風でまくれて、一瞬だけパンツが見える状態なのだ。
戦後のひとは、パンツが見えてよろこんだけど、パンツをはいていなかった戦前のひとは、「がっかり」したのである。

いまようの女子高生は、「見せパン」をはいているから、「二重防御」を実践している。
もはや、「宣伝機関」は、女子高生にアドバイスを受けたほうがよさそうだ。

生涯教育と縄文

還暦を過ぎた、という意味には、齢(よわい)を重ねたことだという「だけ」では「浅い」話になる。

だいたい、小学校を卒業して「半世紀」も経った、という意味もある。
たった3年で中学校も卒業するから、ざっと義務教育を終えてから半世紀といえるのである。

分母が10代のときの6年間とか3年間の、あわせたら9年間の「義務教育期間」は、高校を卒業する18歳でも、人生の半分に相当する時間だ。
けれども、人生は「それから」が「本番」だから、気がつけば分母の数が増えていって、この期間の重みが軽くて薄くなるようになっている。

「薄くなる」のは、とくに「習ったこと」の価値をさす。

ほとんど「不変」なのは、「算数」と「数学」だけで、あとの教科は、「学術的発見」に満ちているから、どんどん変わる。
すると、学校で習ったことが、どんどん「陳腐化する」ということなのだ。

これにはちゃんとした「仕組み」もあって、そもそも「教科書」の「改訂」がこの変化についていけないようにできている。
だから、世間が知っているあたらしい発見を、学校でちゃんと教わるかは、担任や担当教師の能力に依存しているのである。

しかし、現実は、教師個々の能力だけでなく、学年主任や教頭・校長の意向もあるし、なによりも教育委員会という、得体の知れない機構が命じることを、校長以下はあがなうことができない仕組みもある。

GHQが、「民主教育」のためにつくったという教育委員会には、日本人から日本人意識を奪う、という「戦争犯罪」があったので、「民主的」という名分でこの「犯罪」を日本人に実行させるという、白人による植民地支配の「セオリー」が適用された。

むかしは、なぜかフォックス型のつり上がったメガネをかけて、「ざぁます言葉」をしゃべるイメージの、「教育ママ」がいて、「PTA」でいろいろ発言していたけれど、最後の駆け込み寺が、教育委員会であったし、「教育委員」になるための行動をしていたひともいた。

どんなふうに教育委員が任命されるのか、いまはほとんどのひとが知らないところで決まっている。
GHQの本国アメリカでは、「公職」なので「選挙」が常識だけど、日本では採用されなかった。

ちなみに、「公安委員」だって、おなじようにどうやって任命されるのか?は、ほとんど誰も知らないのとおなじなのである。

つまり、委員会の委員の選び方が、ぜんぜん民主的ではない。

それに、「事務局長」だったはずの、役人の「教育長」が、これまた知らないうちに、事実上の「教育委員長」になったのは、教育委員から「長」を決めるのをやめて、委員長不在の、「世にも珍しい」委員会機構になったのだった。

そんなわけで、子供たちが習う「算数」と「数学」以外の教科が、どれほど「遅れているか?」がわからないまま、おおくが「暗記問題」になって、とうとう「受験」という人生の分岐点に集約されることになったのである。

すると、受験で優秀な成績をおさめる者は、あたらしい学術的発見の情報すら、「暗記の邪魔になる」ということになる。
それでもって、社会に出たら、あたらしい学術的発見を重視することもないのは、「成功体験」がそうさせるからである。

これが、「硬直社会」をつくる、ひとつの仕組みだとかんがえられる。

さてそれで、近年の日本人にとっての、「画期」は、「縄文時代」の「縄文人」が、どんなひとたちだったかが、DNA解析でわかってきたことにある。

DNA解析には、母系をたどる「ミトコンドリアDNA」と、父系の「核遺伝子:Y染色体」とのふたつがある。
ちなみに、ミトコンドリアは、生命の歴史上の画期のひとつで、オリジナル細胞に入り込んだ「他の」ウィルスだということがわかっている。

われわれは、自分とはちがう他のウィルスも一緒になった、「合成生物」なのである。

縄文人は、3万6千年前から日本列島に住んでいたことが判明した。
それで「母系」を調べると、さまざまな民族(30種類ぐらいで主に中国南部やベトナム)の「混血」だったことがわかり、「父系」を調べると、「断絶がない」こともわかった。

これは、虐殺やジェノサイドがないことを示し、連続性の証拠になっている。

さらに、山に住む縄文人と、沿岸に住む弥生人が、千年単位で交わったこともわかってきたのである。
これは、「山幸彦」と「海幸彦」の伝説と合致している。
皇室は、山幸彦の系統にあるから、縄文人を先祖にしている。

また、現代日本人のDNA解析では、半数のひとが縄文人の譜系にあることもわかった。
はるかに「あたらしくなって」記紀(古事記・日本書紀)の時代の人口は、300万人程度だったと推定されている。

すると、ほんとうに、日本人は全員「親戚」にあたることは、まったくうそではない。

こうしたことが、「生涯教育」の場を必要とする理由にもなっている。

すると、なによりも「暗記」による成功体験が、どれほどの害毒を日本人にもたらすかが、わかるのである。

「課題先進国」というチャンス

日本が、国家として、政府として、あるいは、日本国民の生活として、あらゆる「課題」を抱えているのは、その種類の「多さ」だけでなく、「深さ」についても、「世界一」という状況にある。

これを、「課題先進国」という。

しかし、多くの「課題」は、ずいぶんむかしから「わかっていた」ことだ。

たとえば、「超高齢社会」の文字が新聞の一面大見出しで出たのは、わたしが二十歳のころで、大学の同級生や先輩とこの記事の内容について話したことが記憶にある。

記事には、「40年後」と書いてあって、なんだか他人事のようにおもえたけれど、全員が自分の年齢に40を足して、「おい、俺たちのことだ」といって、顔を見合わせたのだった。
それがまた、全員、眉間に皺を寄せていた。

結局のところ、「人口問題」とは、「数学」なので、40年経ってみて、あの記事に間違いはないことが確認できる。
方程式にする計算の前提条件に、変化が「なかった」からである。
だから、当時の方程式通りの「答え」となっただけなのである。

すると、この前提条件とは、いったいなにか?が、「問題」となって反ってくる。

ことが人口にかかわるのだから、最小単位は「夫婦」とか、「結婚」にまつわることになる。
そこから、「家族」ということになる。
また、これらのことの根源に、「人生観」の集合体というものがある。

つまるところ、日本人の人生観が、40年前の「予想」と変化していない、という驚くべき結果が「数字」になっているのだ。

80年代の日本人は、なにをかんがえていたのか?
このときの「日本人」とは、誰だったのか?

「現役世代」の定義も、いまとはちがう。
「定年退職」で、きっぱり「退職」していた(年金受給の都合で、退職できた)し、その定年時期も、まだ「55歳」の時代だった。
60歳になる、「過渡期」なのである。

すると、たとえば、85年当時なら、1930年(昭和5年)生まれまでが「現役」の最高齢となって、高卒から現役がはじまるとすれば、1967年(昭和42年)生まれからの範囲となる。

爺さんたちが仕切るのが、わが国の政財界の常識なので、この時代の爺さんとは何者か?をみると、70歳で現役経営者・政治家としたら、1915年(大正4年)生まれだ。
80歳まで広げたら、1905年は明治38年となる。

ちなみに、明治38年9月に「ポーツマス条約」で日露戦争が終わったけれども、すぐに「日比谷焼打事件」になって、「戒厳令」がひかれた、いまとはぜんぜんちがう日本社会であった。

だから、わが国80年代の「絶頂」も、20世紀のはじめに生まれたひとたちが「つくった」ともいえる。
すると、バブル経済の後始末は、それから「後」の世代による「判断」となっている。

たとえば、トップが10年若返ったとすれば、1925年(大正14年)生まれとなるけど、時代も進むから、90年代はじめの「交代」なら、10年下でも75歳になっている。
それでやっぱり、70歳を選ぶなら、1930年(昭和5年)生まれぐらになったのである。

努力義務として、60歳定年制がいわれだしたのは、86年からで、「法制化」は、94年のことである。

すると、組織としては、この頃に30年代生まれがどんどん定年退職の対象になって現役を退いたから、企業の部長級幹部は、昭和二ケタ世代に移行することになったし、役員会は30年代のひとが昇格したといえる。

そんなわけで、平成の停滞は、大正末期から昭和生まれの仕業、ともいえるのである。

しかして、わが国の「人事」で最重要な出来事は、GHQによる「公職追放」であった。
これによって「排除」されたのは、20万人以上、という「異常」である。

それで、中堅層からトップに据える人事を余儀無くされることになったので、「三等重役」が世にいわれることになったのである。
それが、源氏鶏太の『三等重役』で、映画化もされ、森繁久彌の出世作となる。

この「三等」ぶりが、経営者となって「威張った」ので、真性の亜流人物たちが社会を牛耳るという、マンガがリアルになって、呆れた「元同僚たち」が、「労働争議」を起こしたのだった。

故渡辺昇一教授は、これを、「敗戦利得者」と呼んだ。

そんなわけで、わが国のエリートたちの「譜系」は、公職追放という「断絶」を無視できない状況にあったものが、「三等重役」によって、「低レベル育成」されて、平成時代を過ごした。

これが過ごせたのは、前の世代がつくった「遺産」の「食い潰し」であったけど、とうとうかじるものがなくなってきたのが、「令和」なのである。

「堕ちよ、堕ちよ」と「底入れ」を意図した、坂口安吾のごとく、いま、「底入れ」なのか「底割れ」なのかの「分岐点」に立っている。

底入れならば、大チャンス到来。

世界の混沌も、底入れをすべく動きだしている。
それが、「ナショナリズム」で、底割れさせて一部が支配する世界をもくろむのが、「グローバリズム」だと、だんだん霧が晴れて明確になってきた。

世界一の課題先進国とは、裏返せば「リーダー国」になることを意味する。

こんどこそ、三等重役ではない「一等」を据えないといけないのである。

「読解力」がないから

もう常識になった、あたらしい表現に「K・Y(空気・読めない)」がある。

その場の「空気」が何事も、「決める」という日本人の特徴を分析したのが、山本七平の名著、『空気の研究』であった。
たしかに、外国人に「空気」は通じないけど、一概に「空気を読める」日本人が劣っているとはいえないこともある。

その外国人たち、とくに「欧米人」が重んじるのは、「論理」だ。
これには、言語的に「そうならざるを得ない」特徴があるために起きることがわかっている。
彼らの言語は、論理構成そのものが「文法」になっているからである。

だから、「空気を読める」ような訓練を幼少時より受けることは、「あり得ない」ので、何が何でも「論理」を追及することになっている。
これが、「個人主義」になるのだけれども、欧米人も「人間」なので、「自己」の都合が強くなると、「利己主義」という別物に「変化(へんげ)」する。

この「変化(へんげ)」は、たとえば、肉を焼くと色が変わって香りがたつ、「メイラード反応」のように、あんがいと「脳内化学変化」でもある。

なので、いったん「利己主義」に堕ちると、焼いた肉が生肉に戻らないように、もとの「個人主義」に戻れなくなる、「一方通行」なのだ。

これを、「せき止める」のは、強い道徳であり倫理で「しか」ない。
ゆえに、悪魔は「甘言」をもって誘惑し、道徳と倫理を貶める。

そうやって、ヨーロッパでは、「強者」は、「弱者」から奪い取ることを、なんと「権利」だという当然の「論理」に行き着いた。
これが、「絶対主義」の時代に、「絶対君主制」になったのだった。

もちろん、「重商主義」だって、なんのことはない、「掠奪」を合理化させたものだから、後に「帝国主義」に「変化(へんげ)」するのも「必然」なのであると、「論理」づけることができる。

そうかんがえると、帝国主義の「首都」だった、ロンドンに留学して、「神経を病んだ」夏目漱石の「まともさ」とは、日本人「ゆえ」の発病であって、当時の英国人が決して「発病」しなかったのは、全員がとっくに利己主義の「中毒状態」だったからである。

それが証拠に、大英帝国を成した最大の「商品」が、アヘンだったことだ。
国家がその危険性を熟知している、「麻薬」を他国人に売って、利益を貪り、被害国政府がこれを排除しようとしたら、武力で対抗した。

まさに「アヘン戦争」の「大義」とは、「利己主義の中毒」に堕ちた国家が編み出した「屁理屈」に過ぎないものだが、その「廃人」状態とは、阿片中毒の比ではない「害毒」を世界にもたらした。

これを、「喧伝」したのが、「共産主義・全体主義者たち」という「害毒」であったので、利己主義の害毒を「濃塩酸として」、共産主義・全体主義の害毒を「濃硝酸として」これらを「混合」させれば、「王水」のように、なんでも「溶かす」液体のごとくに、知識人の脳を溶かしてしまった。

すなわち、「利己主義から資本主義が生まれた」という「デマ」が、「信仰」にまでなってしまったのである。
マックス・ヴェーバーがいう、「激烈なる清貧の信仰」を、みごとに「すり替えた」のである。

ハイエクが指摘した、「資本主義」とは、共産主義・全体主義のアンチテーゼであって、先に共産主義・全体主義をかんがえたひとたちが「つくった架空」のものだ、と。

彼らは、存在していない「資本主義」を、あるものとして「批判」することで、共産主義・全体主義の到来を「歴史の必然」だと勝手に定義した。
このあたらしい「教義」をもって、あたらしい「一神教」を立ち上げたから、既存の宗教を否定して「無宗教」としたのであった。

まったくの「不寛容」なる、絶対的一神教が共産主義・全体主義だ。

これを、自然崇拝という原始が残る「八百万神」のわが国で、「たくさんある=限りなく透明にちかくて薄い=ゼロ」という「変化(へんげ)」をもって、日本人は「無宗教」だと植え付けた。

マックス・ヴェーバーが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表するはるか「前」に、わが国では「天皇」を、「現人神(あらひとがみ)」だと規定したのは、西洋のあるべき「精神」=「個人主義」を国民に植え付けて、天皇のもとに、「全員平等」を達成させるための「方便」とするのが目的だった。

神世の古くからの天皇をわざわざ、「現人神」だと言葉(言霊)にしたのは、「四民平等の絶対社会」を急いでつくるひつようがあったからだ。
江戸期までの「常識」だった、表面上は身分制の絶対社会を「壊す」ためであるけれど、もう一つの重大事は、「個人主義」の確立だった。

個人を尊重する主義だから、そこでようやく、「お互い様」の概念が生まれる。
これが、「自分だけ」の、利己主義との決定的なちがいだ。

おなじ「身分内」で通用していた日本人の常識、「お互い様」を、身分を超えてもっと強化するためなのである。

「四民平等」が必須だったのは、帝国主義に堕ちた西洋で、「完成するはずのない資本主義」を、世界で唯一完成させることができるのが日本「だけ」であることを、幕末の志士=明治人が、気づいたからである。

日本人にとっての、「アヘン戦争の衝撃」とは、利己主義がなす「弱肉強食」の理不尽がまかり通る、野蛮そのものの世界が「リアル」だったことだ。

これを、「橋本左内」が見抜いて、書き残している。

さては、戦後教育の「反日」は、日本人から「読解力を奪う」ことを目的にした。
それがまた、空気を読めない、劣化という意味の欧米化なのである。

ローマ教皇がゼレンスキー氏との面談を拒否しながらも、ロシア正教会の大主教との歴史的ズーム会談では、一方的に大主教がプーチン氏擁護を語って、「お手上げ」になったけど、なんだかモジモジとロシア擁護(=反NATO=反バイデン民主党政権)を表明している。

バイデン氏が、カソリックだからからなのか?
残念な欧米人たちは、この空気を読める読解力に欠けているのか?

6日、国連安保理事会非公式会合では、フランス人が、ウクライナ人を「人間の盾」にして虐殺しているのは、ウクライナ軍だと「証言」した。
なお、国連はすべての「会議」、「会合」を動画にして、ネット配信している。

9日、「対ドイツ戦の戦勝記念日」に、プーチン氏が何を語ったのか?
それでも、マスコミが「伝えない」から、読解力の範囲を超えている。