「不滅」という概念

漢字表記のそのままに、滅びない、という意味である。

「滅びる」とは、絶えてなくなる、という意味だから、「不滅」には、永遠に継続する、というポジティブな意味も含まれる。
企業活動でいう、いわゆる、「ゴーイング・コンサーン:継続性の原則」も、一種の「不滅」を前提としている。

わたしの好きな映画、『不滅の恋 ベートーヴェン』(1994年)では、恋が不滅なのか、ベートーヴェンの生き様とそこから生まれた音楽が不滅なのかが掛けあわさって、「音楽」に至っては、サー・ゲオルグ・ショルティがロンドン交響楽団とサウンドトラック全曲をこの映画のために録音した豪華さもある。

音楽は作曲家の思想を表現したものだ、という説明をベートーヴェンに言わせるセリフは、そこにすでに「不滅」のタネが仕込まれている。
されど、並み以下もふくめた作曲家の楽曲全部が「不滅」になるわけでもない。

あの大バッハでさえも、歴史に埋もれて、メンデルスゾーンによる復活演奏がなかったら、いまごろどうなっているものか?
この復活演奏会の聴衆たちは、バッハの音楽をすっかり忘れたひとたちだったから、メンデルスゾーンの技倆を信じて参集した「だけ」だったとかんがえるのが妥当なのだ。

そして、その見事な演奏をして、聴衆たちはバッハの「あたらしさ」に感涙したのである。
すると、バッハの音楽さえも、いったん途切れた、という事実に、われわれはもっと注目しないといけない。

インド発祥の仏教だって、その近くのイラン発祥で人類最古のゾロアスター教の影響を受けている。
それが日本に、「大乗仏教」として伝わったけど、最初に灯したのが、「不滅の法灯」で、その灯りの「火」をもって拝んだのである。

信長の比叡山焼き討ちによって、この不滅の法灯が絶えたかどうかは知らないけれど、オリンピックの聖火のように、なにか別のものに移して保持したことも十分にかんがえられる。

前回の東京オリンピックの聖火も、いまだに灯されていて、そのための燃料を絶やさないように管理しているひとがいらっしゃる。
つまり、いったんつけた火を絶やさないことでの「不滅」とは、まことに「人為的」な行為なのである。

すると、人類=人間とは何者か?ということを「定義」しようとすると、「火を扱える動物」となる。
これが、「物理的な火」だけでなく、心のなかにも「灯す」ものがあるのが「人間」となって、他の動物を圧倒するのである。

そして、「心のなかに灯すもの」のことを、「精神」といって、「さまざまな思想を統括する」から、もはや他の動物の能力を完全に凌駕する。
この「精神」が、他の人間にも共鳴して、それが社会的な精神になると、また宗教に回帰して、それを「たましい:魂」と呼ぶのである。

すると、「魂」は世代を超える。
世代を超えるとは、時間を超えることになって、「不滅」となる可能性がでてくる。

モーツァルトやベートーヴェン本人が、いかほどに自分の作曲した音楽が、人類に共感されて、それが、「不滅」になると思って意識していたのか?
おそらくは、そんな意識はうすくて、自分のなかでの一番を「更新する」ことしかかんがえていなかったのではないか?

当時の「宮廷」における、作曲家の立場は、料理人=シェフの配下にあった。

それは、音楽とは、貴族たちの食事の「BGM」だったからである。
室内楽こそがそれで、それから大編成を要する楽曲に移行したけど、「作曲家=芸術家」という職業が社会的認知をされていたわけではなかった。

むしろ、「パトロン」という、スポンサーがいる時代の作曲家こそが芸術家になれたので、パトロンが絶滅した現代では、成功している作曲家も絶滅危惧種になっている。

すると、不滅とは「結果」であって、「原因」ではない。

しかし、人間は、自分の目の前にあるものを「不滅」だと認識する、「癖」があるから、それがおそろしく「流動的」で「うつろうもの」だと気づいたときに「愕然」とするのである。

そもそも社会そのものが、固定的だったむかしとちがって、流動的になってきたので、その「愕然」なるショックに「慣れる」ことが、ニヒリズム(虚無主義)を呼んだ。

すべては「虚無」である、とすれば、なにがあっても動じない。
けれども、それが自己の存在も否定するようになると、「漠然とした不安」になって、とうとう自殺するひとがでてくる。

いま、わが国が「先進国」といえるかどうかは疑問だらけになったけど、一応「OECDの加盟国」としてかんがえれば、「若者の死因」でわが国だけ、「自殺」がトップになっている。

この不幸の原因は、ニヒリズムの蔓延だとおもわれる。

すると、それはもう、「システム」の問題なのである。

 

上記2冊は、「日本」が先進国だったときの話だけれど、このシステムが世界に蔓延したのが、いま、である。
ならば、これは、「不滅か?」を問えば、そんな結果は用意されてはいない。

おおくの人間を不幸にして、一部が幸福になるシステムを、不滅にしたいとするひとたちがいる「だけ」なのである。
よって、「多勢に無勢」の多勢にこそ、チャンスがやってきている。

Twitter買収の「拡散」と「暴動」

あのTwitter社が、あのイーロン・マスク氏によって買収されることが決まった。

既存役員たちがもっと抵抗するかと思ったら、なんだかあっさりとあきらめたことに不信感を持ってしまう。
「出来レース」を疑うからである。

いま、世界情勢に詳しいひとほど、これを「プロレス」と呼んでいる。
ひとつは、「検閲」されて、発言ごと「削除される」ことの「防止」としての「隠語的比喩」だ。
しかし、ほんとうに「事前にシナリオ」がある「プロレス」と、構造が同じだからそう言うのである。

では、これらの「事件」を、事前に計画して実行している、「主催者」は誰なのか?
もちろん、世界的プロレス組織「ではない」けれど、もっと巨大で強権的なトップ集団がいる。
それが、「陰謀論」でお馴染みの、「国際金融資本家たち」なのである。

興味深いことは、このブログでも何度か書いた、「世界経済フォーラム:ダボス会議」や、コロナのことなら、「イベント201」という組織体が、積極的に「公表している」のに、「陰謀論」と決めつけるひとたちがいることだ。
もはや「陰謀論」ではなくて、もっと「あっけらかん」として、主催者たちは「顔出し」して「陰謀」を語っているのに。

これは、「脳科学的」には、自分の思い込みが否定されたときの、「自己防衛反応」だと解説できる。

「陰謀」をまじめに語るのは、「学者」として学会から相手にされなくなる、という社会的恐怖も、自己防衛の中に含まれる。
つまり、「保身」だといえるのであるけれど、それが「一定社会の掟」として、歴然として存在すれば、多くのひとが「保身」を選ぶから、大上段に語っても意味はないのである。

それで、「陰謀」が公表されて、とっくにただの「シナリオ」になっているものを、「陰謀論」として扱うことで、結果的に一般人をミスリードする。
これが一般人をして、専門家への不信となって、ついにはそんな「専門家の意見」ばかりを伝えるメディアも、信用をなくすことになった。
ならば、こうしたメディアの「動機」は何か?
それこそが、「ポリティカルコレクト」(ポリコレ)なのである。

メディアは、メディアの役割をかなぐり捨てて、「活動家になった」のである。

では、どうしていまなのか?
世界革命の千載一遇のチャンス到来、と判断したからに相違ない。
それが、既存メディアにとっては、自己否定にもなる、「ソーシャルメディア」の創始者たちが、「ここ一番」での「活動家」としての顔と牙を剥き出しにしたからだ。
このことだって、ダボス会議はちゃんと「グレートリセット」(世界政府樹立の革命)をすると、「発表」している。

さて、ソーシャルメディア創成期における、「保護」と「育成」をもって、情報産業における覇権を狙ってできたのが、「通信品位法」である。

しかして、まったく不可思議なのは、この法律は、アメリカ合衆国の法であるにもかかわらず、世界中で「適用」されてしまっている。
つまり、アメリカ合衆国の「国内法」が、世界基準になっているのだ。

ゆえに、我が国においても、プラットフォーム企業が勝手に策定する「規約」だけで、もっとも重要な国民の権利であるはずの、「言論の自由」が制限されても、国家はこれを取り締まることを放棄している。
それが、行政権の問題ではなくて、立法府の国会でも議論されないことが、あたかも「常識」にまでなってしまったかのようだ。

そこで、現代の大富豪のひとり、イーロン・マスク氏が自己資金にて「買収」するに至ったので、もしや「氏」が、「言論の自由の回復」をさせるなら、それは、国家権力の上を「個人」が保証する、という「革命」に他ならない。
もちろん、Twitter社が「どうするのか?」は、氏の心根に依存することになったのである。

これは、言論の自由という「普遍的価値」の、富を持つ「個人への拡散」を意味する、歴史的事件なのだ。

さて一方で、マクロン氏が「再選」されたという、フランスでは、早速に暴動が起きている。
これを一切伝えない我が国の既存メディアを見るだけでは、国民は「鎖国状態」に置かれているのと等しい事態にもなっている。

しかして、「予想通り」、グローバリズムの代表選手たるマクロン氏を、全力で支えたのは、世界経済フォーラムを中心にしたひとたちに相違ない。
しかも、開票速報での、「マクロン・ジャンプ」なる、どこかで見たような「票操作」が出現したのは、やっぱり「偶然」でも「陰謀論」でもなくて、しっかり「公表した」ということだ。

フランス大統領選挙の後、というタイミングでのTwitter社買収だって、全体スケジュール調整の結果とも見えなくはない。

世界は、「右」と「左」の対決を装って、「ナショナリズム」と「グローバリズム」の戦いになっている。
この戦いは、「国民主権」と「国民支配」の戦いでもあるから、「国」を越える。

何がなんだかわからない世の中だから、いろいろと考え事が増えるのである。

ローマ教皇の「祈り」

今月4日、バチカンでローマ教皇がウクライナ国旗を掲げて、祈りをささげた。
ブチャ事件を受けてのことである、と解説された。

由々しきことが起きたのだけど、日本メディアのウクライナ応援態勢を支える報道になったのは、まちがいない。
もちろん、わが国にはわずかなカソリックしかいないから、別段、ローマ教皇の話が「直接」日本人の心の琴線に触れることはない。

けれども、「権威」とも「世界的有名人」だらかともいえる、「教皇」のニュースは、信者としてではなくて、「えらいひとが言った」というだけで影響力を発揮するのである。

もちろん、このローマ教皇の祈りは、誰に対してのものなのか?をいえば、第一義的にはウクライナの犠牲者のため、になるのは当然だ。
ならば、きっとカソリック信者の犠牲者を指すのだろう。

しかし、ブチャのあたりは、ユダヤ人が多いのである。

ユダヤ人の定義は、「ユダヤ教を信仰するひと」なので、人種は問わない。
なぜにユダヤ人が多いのか?は、ウクライナの歴史をたどれば明確で、概ね支配地の宗教には「寛容」だった、モンゴル帝国が、唯一厳しかったのがキリスト教だった。

そこで、「国ごとユダヤ教に改宗した」ことの名残なのである。
このときの国とは、「ハザール王国」のことだ。

ここで、いわゆる「バビロン捕囚」で世界に広まった、『旧約聖書』の「民」であるユダヤ人とは、別系統のユダヤ人(教徒)ができた。
もちろん、このころの「キリスト教」も、ローマ帝国といっしょに東西に分裂していた。

西ローマ帝国の滅亡は、国教だった「ローマ教会」にとっては、最大の危機だったけど、国家の庇護を失った不幸が幸いして、独立した「教会組織」の構築に成功した。
それが、教皇をトップに置く、「ヒエラルヒー構造」だ。

「小さな政府」をモットーとする「自由主義」による統治機構の、発想の原点になっているのが、この「ローマ教会の生き残り戦略」なのである。
すなわち、その条件である、国家の庇護をなくす、ことの意義である。

この「論」には、ちゃんと「反面教師」があって、それが、東ローマ帝国とその強力な庇護下にあった「東方教会=正教」だ。
もちろん、東ローマ帝国は、分裂後さっさと崩壊・滅亡した西ローマ帝国よりも、ずっと長生きした。

独立独歩を余儀なくされたローマ教会に対して、この贅沢な国家による庇護の結果は、教会ごとに独立する、という「カタチ」にあらわれた。
すなわち、「激しく分派」して、本家本流がわからなくなったけど、国からの支援で、どこもかしこも生き残ったのであった。

それの典型を、面倒だから大雑把に、「ギリシャ正教」と「ロシア正教」といったり、「東方教会」とまとめてバッサリと呼んでいる。

ローマ帝国が東西に分裂したのは、教会の分裂でもあったので、いまだにローマカソリックと東方教会の仲は「よくない」状態で、ローマ教皇はほとんど東方教会を無視しているし、イスラムによる「ビザンチン陥落」で、ローマ教会に救援を支援しても、一切の支援がなかったこともあってか、東方教会は東方教会で、ローマ教会を逆恨みしているのである。

そんな事情からしたら、ローマ教皇が、ユダヤ教徒がたくさんいるはずのひとたちに向かって、さらに御自ら国旗を掲げて祈りをささげたことは、強烈な「政治的」メッセージに見えるのである。

教皇にこんなことをやらせたのは、誰がどんな「喜捨」をしたのか?とかんがえたくなる。

きれい事でできている「宗教団体」も、霞を食って生きているのではないから、「ご寄進」はありがたく頂戴するものである。
その額がおおいほど、「功徳もおおい」ということで、「利用」をかんがえるひとがいるのも、古今東西の歴史なのだ。

だから、宗教の価値が下がった現代でも、それを利用しようするひとがいたって、ぜんぜんおかしくない。

もちろん、戦争には、当事者双方で犠牲者がでるから、宗教としての普遍性をいうなら、「双方の犠牲者に祈りをささげる」のならわかる。
しかし、これを「しない」のは、どういう了見からか?と疑うのである。

つまり、そんな祈りの後に、「戦をやめなさい」と説教するのが、教皇としての「本筋」だといいたいのである。

紙の護摩札を「印刷」して、これを信者に強制的に売りつけて、自分たちは貴族以上の贅沢な暮らしをしていたことが、ルターの宗教改革になったのだった。

これから、ローマカソリックの凋落がはじまったのに、ローマ教皇がやったことは、その反省が微塵もない。

プーチン氏は、敬虔なるロシア正教徒を自称している。
つぎの闘いのステージは、1000年を超える西方教会と東方教会の、正統性を争うことになるかもしれない。

これを、ユダヤ人とイスラム教徒が「傍聴」することになるのだろう。

わが国は、ぜんぜんちがう立場で、不毛な争いはやめないさい、というべきだけど、そんな「宗教家」もいなくなってしまったのである。

ファンタジー作家の司馬遼太郎

「司馬史観」という言葉ができたほどの、「歴史通」が、司馬遼太郎という作家であった。
その「人気」から、「国民作家」とも呼ばれて、1993年の文化勲章受章者となって、96年に没した。

一部に、「わたしは司馬遼太郎のよい読者ではない」という、自己紹介のフレーズがある。
少なくとも、全面的に信用しないで「読む」ことを主張していて、もしや「否定」もしているといいたいのだ。

この意味で、わたしも「司馬遼太郎のいい読者ではない」といえる。

いわゆる、司馬遼太郎ファンのひとたちがいう、「司馬史観」なるものの「あやしさ」は、「史観」なる「マルクス史観」用語をスライドさせた用法であるから、ツンとした危険な匂いがするのである。

こまったことに、「司馬史観」を受け入れてしまうということは、彼の小説(物語)世界があたかも、「事実」であったと思いこんでしまう。
人間というモノは、いったん思いこむと、じつに厄介な頑固さにまで変容して、これをそぎ落とすのは困難になる動物だ。

もちろん、他の動物にはこんなことができないのは、「本能以外の知性」の発達が、脳の構造上の無理だからだ。

想像上の「物語作家」という意味での「小説」を思えば、池波正太郎という恐るべきストーリーテラーがいる。
彼の机の横には、「江戸古地図」がかならずあって、これを観ながら脳内に構成できた立体映像を、そのまま書いた、と書いている。

彼は、古地図の中に、想像だけで暮らしていた。
その想像の暮らしから、物語を書いていたのである。

すると、必然的に物語は、「ミクロ」な世界になっている。
その場、そのときの人間模様の物語になるからで、背景にある「時代の事情」は変化しないのである。

だから読者は、特別に、「池波史観」とはいわないで、「池波正太郎の世界」というのである。
それゆえに、「エンタメ」として読んでいて、「史実」だと読者を思いこませるような仕掛けはない。

これが、池波正太郎の誠実さなのだ。
そして、時代背景を借りながら、人間模様の機微を描くから、人気が絶えないのである。

ところが、司馬遼太郎にはこれがないばかりか、「史観」といわれる「解釈」の押しつけがある。
このことが、読者をして二分させるのだろう。

だから、司馬遼太郎の小説世界が「史実」だと信じる読者と、あくまでも「眉唾」あるいは「作りばなし」だと思って読むひととに分けることができるのだ。

テレビの「歴史物」でいえば、司馬遼太郎はNHKの常連だった。
そこでさまざまな「解釈」を語っていた。
しかし、これは、改めてかんがえるまでもなく、NHKという「作り手」が、司馬遼太郎に「語らせた」という番組構成なのである。

どんな「台本」があったかしらないが、あるいは、この「台本」も司馬遼太郎が書いていたかもしれないけれど、最高学府を出たディレクターが、司馬を「多用」したのは、「制作意図」に合致していたからに相違ない。

『笑っていいとも!』に出演した、橋田壽賀子が、この番組ディレクターが「一橋大学」の出身者であることをしって、思わず生放送中に、「あなた一橋を出ていて、こんなことしていたらダメでしょ」と言ってしまった記憶がある。

「こんなこと」、とは、エンタメ番組の制作のことだろう。
しかし、その、橋田壽賀子が書いた「脚本」だって、「エンタメ」だから、なかなかに「自己矛盾」した発言であった。

もちろん、橋田だって、日本女子大学文学部国文学科卒業で、その後、早稲田大学第二文学部国文科に入学し、芸術科に転科して演劇専修に移り、中退した「エリート」なのである。

しかし、彼女には、一橋大学が別物に思えたのは、「商学」か「経済」の専門家に対するエンタメ側からの「敬意」があったからだろう。
それで、「もっと社会の役に立て」と言いたかったのだと。

話は変わって、GHQが定めた、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム:WGIP:戦犯裁判広報計画」というものがある。
原文は、国立公文書館にあるというけど、アメリカ側にもある。

ウィキペディアが「都市伝説」とした記述を変えないのは、「これぞネットの玉石混交」なのであるし、WGIPが現在も「有効」なゆえんかもしれない。

さてそれで、敗戦までNHKは、いまでいう「一般財団法人」であった。
つまり、一般企業とあまりかわらない存在だったけれども、GHQによって、「公共放送」になったのである。

もちろん。NHK「だけ」でなく、その他のテレビ局も、ぜんぶ「WGIP」に基づく「認可事業」だ。
この「認可権」を、いまは「総務省」が引き継いでいる。

そんなわけで、露骨な「反日放送」をやっているのは、「当時」の世代が物故したことをいいことに、宣伝のギアをさらにアップしたからだ。
これに、司馬遼太郎が加担していた。
もちろん、橋田壽賀子もである。

彼らが「オブラート」に包んでいた「本音の反日」の、オブラートが溶けてむき出しになったのが、いま、なのだ。

そうすると、一橋を出たという『笑っていいとも!』のディレクター氏は、「良心的」だといえるのである。
そもそも、職業選択の自由があるから、橋田の一言は、「お里がしれる」ものだった。

その上の「高度」が、司馬遼太郎なのである。

幕末より悲惨かも

江戸幕府がどうして「倒れた」のか?
あるいは、どうして薩長による明治維新が成功したのか?

第一に、「経済戦争」に「自覚なく」負けたのだった。
当時の日本人がしらなかった、世界一の金・銀保有国だったのに、幕府の「軍需」によって大量流失した。
それで、国内は「大インフレ」になったのである。

それが、「お陰参り」と「ええじゃないか」という、モラル崩壊にあらわれて、自暴自棄になったのである。

なんと、相手はこの時点ですでに、国際金融資本だったのである。
いまでいう「長州ファイブ:井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)の5人」が、大英帝国はロンドンに留学したのは、国際金融資本の「手先」としての「訓練」が目的だった。

われわれは、学校で、幕末のゴタゴタを習うことは習うけど、なんだかよくわからないうちに、「大政奉還」となって、明治新政府ができる。
それでも、いろんな反乱と政変があって、とうとう西郷隆盛が討ち死にするけど、実弟の西郷従道は偉くなる。

むかしからあった「連座制」が通じない不思議が、明治政府の「あたらしさ」をいうのか?という細かい疑問は、庶民の暮らしに目線をやれば、その「貧乏さ」に唖然とするほどの貧乏なのである。

このどうしようもない「ギャップ」をどうみるのか?

そのたまったエネルギーが、米騒動の「打ち壊し」になったりする。
あくどい商家が襲われるという、物騒なことが全国で起きる「ふつう」も、現代日本では「異次元の世界」になっている。

すると、現代日本の方が「異常」なのかも?ということになってしまうが、「世界標準」が大好きなひとたちは、この異常を「日本的美徳」という。
いまの世界も、暴動が「ふつう」なのだ。

つまり、「日本的美徳」という「むかしから」は、こと暴動についていえば、まちがいなく「戦後」の価値観なのである。
少なくとも、100年前の「大正」までは、江戸期からの「打ち壊し」は「ふつう」だったからである。

江戸期なら、幕府(お上)は、「喧嘩両成敗」をもって裁いた。
打ち壊しの実行犯も、打ち壊された商家も、両方が罰せられたのである。
これができたのは、お上が「経済的無力」だったからである。
つまり、「他人事=第三者」でいられたのだ。

それが、近代ヨーロッパの「所有権の絶対」が輸入されて、明治政府(お上)に、「経済的優位」ができて、納税する余力がある商家のあくどさを免罪するように変化した。
江戸期になかった、「全国規模」の打ち壊しになった理由である。

裁判官も、庶民の暮らしとは別世界の暮らしになったのである。

しかして、打ち壊しの決定的理由は、どうにもこうにもならない「貧乏さ=貧困」だったから、殖産興業が重要政策になったのではあった。
また、ロシア革命が、理論的に「打ち壊し」を支えたので、そんな政府にとって「アカ」が「悪」にもなった。

大学は、別の意味での「権威主義」があったので、教授も学生もロシア革命の「大義名分」に引き込まれた。
それが、「軍」にも伝染して、とうとう、海軍の「5.15」、陸軍の「2.26」になって「破たん」の双子山ピークができたのである。

発展途上国なら、余剰人員(失業者)を吸い込む「働き先」(口減らし先)として、「軍」がある。
軍には指揮をする役割の「将」、命令を実行する役割の「兵」がいて、農業国なら農民の長男を除く男子が兵となる。

就学できないほどの貧乏ならば、陸軍の「兵隊」になって、「肉弾戦」をするための「消耗品」とされた。
読み書き算盤ができたら、海軍の「水兵」になった。
こちらは、艦ごと運命共同体なので、「資産」扱いされたのである。

ゆえに、陸・海軍とは、性格がことなる組織になる。

よって、陸軍の「兵隊」募集での最大特記事項とは、「白米が腹いっぱい食える」ことだった。
海軍の、「世界を股にかける技能集団」とはちがうのである。

けれども、発展途上国・日本の軍隊における「兵力消耗」の最大の敵が、「脚気」になった。
ビタミンが発見される「前」でのことである。

「弱肉強食」の世界で、生き残るための闘いは、本当の戦争だったから、人間の命が軽んじられたのではなくて、ほんとうに「命がけ」だったのである。

それが、「戦後」、もっけの幸いだったのは、強大なアメリカの保護国(属国)として、本当の戦争を回避できたことであった。
それは、戦争が「技術的に」も、「核の傘」という論理で、わが国に「降ってこなかった」からでもあった。

しかし、この「技術」が、おどろくほどに「進歩して」、それに、バイデン政権の「わざと」で、とうとう「核抑止」という論理が、「核保有国」だけのローカル・ルールになってしまった。

だから、即座にわが国も核武装せよといいたいのではない。

わが国は、核武装することで目的が機能する、指揮命令系統ばかりか、「国防」のコンセンサスさえとれない状況にある。
この空恐ろしい「現実」の状況が、「霧が晴れる」ように、ウクライナの問題から見えてきた。

資源高騰時の円安とは、経済戦争の敗北を意味する。
これを、日銀がやっていて、それを政権与党がやらせている。

明治維新と敗戦に加えて、三度目の「売国」が、はじまっている。

激しい選挙の攻防戦

フランスの大統領選挙は、24日が決選投票だ。
定義が不明の「中道」からは、マクロン氏。
同様に定義が不明の「極右」からは、ルペン氏が立っている。

マクロン氏の5年間をみれば、フランスで「中道」とは、「左翼全体主義」を指すことがわかる。
すると、この「計算尺」なら、「ルペン氏」がずっと左にずれて「中道」という目盛りにあてはまってくるのだ。

こんな「計算尺」を、日・米にあてはめると、民主党員でもない「極左」のバーニー・サンダース上院議員が、民主党大統領予備選挙で事実上の勝利者だったことを思い出せば、わが国の自民党は、サンダース氏よりも「左」の目盛りになってしまう。

彼が最終局面で「辞退」したのは、予備選挙で鳴かず飛ばずだった、バイデン氏を推すための、党本部からの「邸宅寄贈」が理由だった。
日本ではかんがえられないこんな「公然たる買収」を、なにしろ、「本人」が支持者に説明してはばからないのがアメリカの「正直」なのである。

ヨーロッパが、「危機」なのは、ウクライナではなくて、「EUの結束」があやしくなったことをいう。
「EUの結束」が弛むとは、NATOの緩みでもあるのだ。

その「決定打」になるかもしれないので、フランス大統領選挙が注目されている。

もちろん、「NATO脱退を公約する」ルペン氏の勝敗のことだけど、その前に、ヨーロッパを支えるドイツが「転けている」から、フランスがEUをひとりで担ぐことになって、いまやEUの重心はフランスだけにある状況ができた。

なお、「前回」ルペン氏は「EU脱退を公約」にしていたけれど、今回は「マイルド」になっていて、実父の前党首がこれに異議を唱えたら、なんとこのお嬢様は、党創設者の実父を「除名処分」してしまったのである。
ちょっと「家具屋姫」の話に似ている。

ドイツが自爆したのは、「ナチスは悪」を貫いたら、どんどん引き寄せられて、「環境全体主義」に堕ちてしまったからだった。
いまのドイツ人は、ゲーテの『ファウスト』を読んでいないのか?を、ドイツ人に聞いてみたい。

結局のところ、「嫌い嫌いは好きのうち」だった、ということだ。
だからかしらないが、ウクライナの「ナチス」を、いまや正々堂々とドイツが支援している。

いまのヨーロッパのややこしさは、第一次世界大戦後のポーランドが、西ウクライナを攻めて自国領にした経緯があると書いた。
フランス語でいう、「アルザス=ロレーヌ」、ドイツ語でいう、「エルザス=ロートリンゲン」のごとく、「国境線は動く」のがふつうなのだ。

第二次世界大戦になって、ポーランドがドイツになると、西ウクライナ地方もドイツになった。
ドイツはここから、ソ連を攻めてモスクワ攻防戦になったのである。

その間に、西から「本国」が攻められて、「ナチス本部」は、ベルリンから西ウクライナに「移転した」のだ。
よって、こうした事情を、ドイツ人が知らないはずはなく、ひいてはヨーロッパ人が知らないはずはない。

これを知っているハンガリーは、ウクライナ政府に一切の同情をみせないし、ルペン氏も同様なのである。
これを、マスコミは「親ロシア」だと、「宣伝」している。

その「宣伝」を仕掛けているのが、バイデン政権だ。
案の定、アメリカの軍事産業は、空前の利益を「四半期決算」で公開していて、見事な「株高」にもなっている。

けれども、プーチン政権を倒すべし、というアメリカ人よりも、バイデン政権を倒すべしというアメリカ人が「多い」という、衝撃的な「世論調査」も発表されて、さらに、「でっち上げ」がほぼ確定した、トランプ氏にかけられた「ロシア疑惑」の裁判で、窮地に追い込まれているのがヒラリー氏になってきた。

「戦時の大統領は選挙に強い」というのが、なんだか「伝説」になりそうなのは、ウクライナが長期化すると、バイデン氏の支持率も「元の木阿弥」になってきたからである。

11月の中間選挙まであと半年あまり。
それで、今月と来月は、「予備選挙」による各党の「候補者選び」が佳境になってきた。

とくに、野党・共和党の予備選挙における攻防は、かつてない激しさになっている。
党内での、トランプ支持派(保守派:キリスト教長老派)と、「RINO(Republican in name only):名ばかりの共和党員:軍産複合体の代理人」との対立が、「歴史的」なレベルにまでなっているからである。

それが、「選挙資金集め」の攻防になっているのが、アメリカらしい。
テレビのコマーシャル枠を買わないと勝てない、という「テレビ依存」がまだあるのだ。

不幸にも、わが国では自民党をはじめとして「全党」が、「党内予備選挙」という「制度」をもたない、「非・近代政党」ばかりなので、どういった経緯で立候補するのか?を、党員すら知らないひとが「候補者」になる。
これは、「現職」もおなじなのだ。

そんなわけで、夏の参議院選挙の運動が、ぼちぼちはじまっている。
この選挙のあと、わが国は「黄金の3年」という、国政選挙の予定がない状態となって、政権与党には「なんでもできる」状態がうまれる。

「参議院」だから、「関係ない」とはいかないのである。
しかして、フランスとアメリカの選挙の影響を受けないわけにはいかないから、やっぱり「外圧」がないといけないのか?

じつは、今回の参議院選挙が、わが国の運命を決定づけるといって過言ではない、未来の国民生活にとって重大な「選択」となるのだけれども、これを理解できる国民が少数派かもしれない。

自浄ができないのは、残念ながら国民に原因がある。
それが、「民主主義」というものだ。

変な「円安」130円

歴史的なインフレが襲っているアメリカなのに、デフレが続く日本の「円」が一方的に「安く」なっている。

インフレとは、モノの価値よりも通貨の価値が低くなることだから、「物価高」で、デフレとは、モノの価値よりも通貨の価値が高くなることをいうから、「物価安」になる。

だから、二国間でいえば、インフレの国の通貨は、デフレの国の通貨よりも価値が下がって、デフレの国の通貨の価値があがるのが、「ふつう」なのである。

すると、いまの「円安」は、「変なこと」になる。

この「変なこと」を、「理論的」に説明するのは、「通貨量」だけになっている。
つまり、アメリカで発行された通貨量と、日本で発行された通貨量との「比」が、為替レートを決定している、というものだ。

これを、「マネタリーベース」という。

インフレになったアメリカのドルよりも、たくさんの円が発行されている。
日本円の発行体である、日本銀行の意志で決まる、ともいえる。
しかし、それなら日本はアメリカ以上にインフレにならないといけない。
どうしてデフレなのか?

市中にあるはずの円が「ない」からである。

日銀はたくさん刷ったお札で、国内の金融機関に国債を買わせた。
融資先がない金融機関は、預金者から集めた預金につける利子が払えなくなるので、利子がつく国債をよろこんで購入したのである。
こうして、市中のおカネを吸い上げた。

しかしそれから、「異次元」の金融緩和という、「魔法」をつかって、その国債を日銀が「買い上げる」ということをした。
銀行の銀行に当たる日銀が「買い上げる」とは、各金融機関の日銀「当座預金」残高が、「増える」だけのことだ。

当座預金には、利子がつかないので、金融機関の経営はより苦しくなった。
それで、どちらさまも大規模「リストラ」をしないといけなくなった。
行員の人員整理のために、「支店」の整理をしただけでなく、あらゆる「手数料」を値上げして、利用客の利便性を悪化させて不便にさせることをした。

それでも立ちゆかないことをいいことに、外国の資本を導入して、という「言い方」で、わが国の銀行は、事実上の「外資」に買われている。

いまさらだけど、これと似た「手口」が、「郵便局」で実施された。
資金が豊富だった、「郵便貯金」と、「簡易保険」が、それぞれ分離して、永久赤字の「郵便」を別物にしてから、外国資本が購入したのだった。

このときにつかわれた用語は、「提携」だ。
それで、体よく郵便局にあった日本人の金融資産が外国へ移転したのだった。
当時の郵便貯金と簡易保険は、「世界最大」だったのである。

それで、永久赤字の郵便は、日本人のものの「まま」になっている。

つまるところ、日銀は、わが国の「バーゲンセール」をやっているのである。

この「由々しき問題」について、日銀総裁に質問するものがいない。
もちろん、もっと「上」にいるのは、自民党・公明党という「政権与党」であるから、あえていえば「真犯人」は、これらの政党になる。

とくに自民党は、ほとんど言い訳ができない「確信犯」だ。
戦後一貫して、ゆるぎのない「支配」をしてきたからである。
短命だった「細川護煕政権」とか、「民主党政権」に、この「テッパン」を崩す能力も気力もなかったからである。

さてそれで、「マネタリーベース」の話にもどる。
円とドルの為替レートを、マネタリーベースのグラフとつき合わせると、85年以前は、ぜんぜん一致しないで、86年までの一年で急速に「収束」するのである。

これが意味するのは、85年の、「プラザ合意」の威力以外かんがえられない。
すなわち、日本円とドルは、360円の固定制をやめて(71年)も、それぞれが「独自性」を持っていたのである。

「$1=360円の終わり」を決めたのが、71年の「スミソニアン協定」(ニューヨークのスミソニアン博物館で開催された会議)であった。

つまり、わが国の「経済的独立」の、最後の時代が、71年~85年だったのである。
だから、この後の「バブル」すら、「あだ花」なのは、戦後自由経済が終わったことで「咲いた」からであったと解釈すべきなのである。

戦後経済の延長上でバブルになったのではない、ということだ。

それは、「日本買い」開始の派手な「のろし」だった、と解釈すれば、その後の不良債権処理というスピード感ある「叩き売り」の説明がつくし、失われた平成の30年間の説明も可能だ。

「ハゲタカ」が猛烈なスピードで企業を買い漁ったのは、ちゃんとひそかに「準備」して、「狙い」を定めていたからである。
それは、「崩壊時」からではなく、「崩壊前」からの準備なのは当然だ。
そのための「日本法人」をいつ開設したのか?

肥らせて、弱らせて、安く買って高く売る。
ハゲタカとは、究極の「転売ヤー」なのである。

すると、この不可思議な円安とは、「バーゲンセール」だけの意味ではなくて、日本「閉店売りつくしセール」の意味合いが出てくる。
それが、外資による「日本企業買収」であり、「不動産買収」なのだ。

「生産要素」とは、「資本」「労働」「土地」だから、企業買収と不動産買収の意味は、わが国の「生産要素」の買収なのである。
「企業」には、銀行も含まれ、「資本」と「労働」がそこにある。

おそるべき、日本人総奴隷化のはじまりに見える。

残念ながら、全員「逃げ場」はない。

絶滅危惧種・豆腐屋の豆腐

いろんな「当たり前」が、どんどん「絶滅危惧種」になって、気がつけば閉業しているので、その都度寂しい思いをするものだ。
心が寂しくなるのもあるが、うまい豆腐が食べられなくなる「口の寂しさ」もあるのが、わたしにとっては「豆腐屋の豆腐」なのである。

豆腐屋がない、新開発地の街に住んで30年以上が経過した。
引っ越してから気がついたのは、どこにでもあると思いこんでいた豆腐屋が「ない」ことだったのである。

子供のころから近所にはいくつも豆腐屋があって、とくに「町内」の豆腐屋がわが家の「いつも」だった。
小学生のときには、祖父が飲む豆乳を、二日に一度ウイスキーの空き瓶を持っていって買いに行くのが、登校前の仕事だった。

手に握りしめていたのが「200円」だったことをいまでも覚えている。
それからオイルショックで300円になった。
「当時」からしたら、というよりも、「いま」からしたら、あんがいと「高価」だった?

そこで計算してみると、

740㎖で200円だったのを、現代の豆腐屋の豆乳が200㎖でだいたい200円だから、740㎖÷200㎖=3.7倍なので、200円×3.7=「740円」が比較対象の価格になる。

この50年間での物価上昇率を3%とすると、200円×1.03^50=877円となる。(「^」はべき乗)
おなじ計算を、2%ですると、538円。

元値を300円にしたら、3%で1315円、2%で807円。
740円を基準にしたら、当時の値段は「そこそこ」だし、いまのちゃんとした豆乳が、「爆上がり」している、ことにはならない。

ビンに入れるとまだ「熱い」から、布の袋にビンを入れていったけど、店内の蒸気と甘い匂いが好きで、豆乳なるものこそがうまそうに感じたけれど、子供にはそのまま飲んでうまいものではなかった。
「濃厚」すぎたのである。

いまからしたら、「プチ贅沢」というものだ。

子供のころに「味覚」ができる、という話を、ずっと後のおとなになって聞いたときに、思い当たる節があったのはやっぱり「豆腐の味」だった。
スーパーで買う豆腐が、どうしても納得できない。
もちろん、スーパーのパック詰めの豆乳も、「あの味」とはちがうのである。

当然だけど、油揚げだって厚揚げだって、がんもに焼き豆腐も、納得できない。
それゆえに、隣の駅にある豆腐屋まで、往復の電車賃を払っても買いに行っていたけれど、こちらも廃業してしまったのである。

それでわたしは、なんと、「豆腐難民」になったのである。

しかも、実家近くの町内だって、あんなにあった豆腐屋が、とうとう「全滅」してしまった。
ウイスキーの空き瓶で買っていたお店が、最後の砦だったけど、数年前に力尽きた。

そんなわけで、町歩きをして、豆腐屋を見つけると、買わずにはいられない。
なので、リュックには「保冷バック」を入れている。
いつ何時でも、豆腐屋を発見したときの準備だ。

豆腐の材料は、大豆とにがりと水である。
だから、味の決め手は、これらの組合せとなるけれど、凝固させるときの加減が食感を決めるから、素人がかんたんに作れるものではない。

なんでこんな豆腐マニア的になったのか?を自己分析すれば、20代前半における、エジプト・カイロ暮らしの2年間も大いに影響しているにちがいないと思い当たるのである。

彼の地で豆腐を食したのは、2年で1回だけ。
日本から持ってきた、『ほんとうふ』というインスタント・豆腐の素をつかった豆腐をいただいたときだけだ。
食べ方は、「湯豆腐」だった。

それに、材料の「水」は、「エビアン」だった。
そのまま飲めない、「水道の水」を使うわけにはいかない。

大豆があっても、にがりがあっても、清涼なる「水」がないと作れない。
だから、日本の当たり前は、世界では「貴重」なのである。
「エビアン」で作るのは、ミネラル豊富なために、たとえインスタントの「素」でもうまくいかないことがある。

日本の「軟水」を使うことが、最初から想定されているからだ。

じつは、ミネラル(「酸素、炭素、水素、窒素」の主要4元素以外の「無機質」)がほとんどない、「軟水」が身近で豊富な地域は、世界的に「珍しい」のである。
石灰質の土壌でできているヨーロッパも、「硬水」だらけになる。

中国の豆腐と日本の豆腐の決定的なちがいは、ここにある。
大豆の「ちがい」だけではない。

神奈川県には、「県内産の大粒大豆」を使う豆腐屋は3軒しかない。
これ以外にないのは、この種の大豆の生産量がないためだ。
だから、なるべくこの3軒で購入したいけど、「いつも」はやっぱりスーパーになる。

ただし、この3軒以外だって、「名店」はある。

横浜の中心部は、ぜんぶ幕末からの「埋めたて」なので、「周辺部」の河岸台地付近に井戸水が出る。
丹沢・相模川水系の近代水道という恩恵もあるけれど、横浜以外の県内には豆腐屋の名店がいくつもあって健在だ。

これらの豆腐を、地元の旅館や飲食店が使っている。

付け合わせに出てくる豆腐がうまいと、思わず仕入れ先をきいてしまうのである。
うまい豆腐をつかう旅館や飲食店の料理がまずいはずがないのは、うまい豆腐に負けない料理を作っているからである。

さて、新年度の今月1日から、さまざまな「制度」もはじまって、「食品表示」もあたらしくなった。
「遺伝子組み換え」に関しては、「若干の」変化だと政府はいうけれど、一般人の生活からしたら、来年の23年からは「一新される」とみてよい。

興味深い説明に、「安全が確認された遺伝子組み換え」という「分類」があることだ。
大量生産される弁当などの食品に使われている、「ph調整剤」なる「防腐剤」も、「安全が確認され」ていることになっている。

もちろん、原子力発電所も、「安全が確認された」ら再稼働することになっている。

食品の場合、どんな基準で「安全が確認」できるのか?という問題は、新開発の添加物や遺伝子組み換え品を、長期間にわたって食べたひとが「いない」ことから、ほんとうは「わからない」のではないか?という根本的な疑問がある。

「時間」という、人間にはコントロール不能な要素があるからだ。

町の豆腐屋さんの事業継続が困難になるような、原材料管理の厳格化という手間が準備されているけど、一体全体「誰のため」なのか?という問題があるのであった。

そんなわけで、消費者は、無農薬だけでなく、遺伝子組み換え品やら添加物やらと、「化学知識」が必須となったが、高校における「化学」を選択をする生徒は、もう1割程度なのである。

これも、政府の都合で「仕込まれ」ている、のかもしれない。

削除されたゼレンスキー発言

「録画」が普及して、いったん放送された内容が、あとから削除されても不死身のように「復活」する時代になった。
もちろん、ネットでも、「痕跡」を全部消去することはできない。

だれかがダウンロードの「手間」をかけていたら、容易に復活が可能だからだ。
この「手間」とは、クリックの手間よりも、ストレージ容量を消費することの「覚悟」のことをいうし、ネットにアップする「手間」をいう。

また、ネットにあげても「バン」されるリスクもあるので、「バン」されたときの被害も「手間」のうちに入る時代になった。
場合によっては、アカウントごと消されるので、そのときの「手間」は、取り返しがつかない意味となる。

アメリカでは、「一応」保守系ということになっているのが「FOXニュース」だ。
「一応」というのは、「完全」にという意味ではないからである。

しかも、アメリカにおける「保守」とはなにか?というと、これが「古い国」ならまだしも、人為で建国されたアメリカという国での「定義」は、あんがいと簡単な概念ではない。
なぜなら、「建国の理念」だって、いくつかに分類できるものが「統合」されているからだ。

だから、なにを保守するのか?というのは、アメリカ「ゆえに」かえって難しくなるのだ。
「自由」の保守「だけ」では、範囲が広すぎる。

たとえば、英国から独立したので、アメリカの保守は英国の保守とおなじはずがない。
ましてや、わが国でいう「独立戦争」とは、オリジナル英語表現を直訳すれば「独立革命」すなわち「レボリューション」なのだ。

日本人は、「革命」というと、英国の「名誉革命」を習っても、その意味が複雑なので、クロムウェルを暗記する程度でよしとして、次の「革命」は、もっと複雑な、「フランス革命」を習い、アメリカ革命を飛ばして「ロシア革命」になっている。

アメリカ革命の「アンチテーゼ」がロシア革命ともいえるけど、共産党内の権力闘争に敗れた「トロツキー一派」がアメリカに移民して、民主党を「乗っ取る」ことに成功したことも習わない。
なお、トロツキー本人は、メキシコに亡命している。

この意味で、アメリカ民主党は、ソ連共産党の継承者であるから、アメリカをソ連にしたい政策の「源流」がわかるのである。
この「歴史」を「知っている」はずの、プーチン氏をなんとしても失脚させたいとかんがえるのが、民主党の一致した「汚点」なのだ。

さてそれで、国際政治系YouTuberで有名な及川幸久氏(幸福実現党国際局長、幸福の科学の宗教家)が、FOXニュースが削除したゼレンスキー氏へのインタビューを取り上げている。

英語も話すはずのゼレンスキー氏は、英語のインタビューにウクライナ語かロシア語で答えているために、英語の通訳が入っていることに「違和感」なしとはいえないけれど、ここできわめて重要な発言をしているように聞こえる。

だから、「眉唾物」ともいえなくはないと、念のため書いておく。

それは、アゾフ大隊とウクライナ軍が、「ナチス」だということを認めていることなのだ。
「ネオナチ」ではなくて、「ナチス」である。

FOXニュースがこれを放送して、ネットで削除した理由は、想像に難くないけど、正式に理由を発表していないから、「想像」になる。

状況証拠はたくさんあるけど、アメリカ議会をはじめ日本の国会でもやった、各国議会での「ゼレンスキー演説」は、特に、イタリアとギリシャ議会の反応が注目される。
これをまた、ぜんぜん報じないのがわが国マスコミの悪辣がある。

この両国の国会議員たちの「ほとんど」が、実質的に「ボイコット」したのである。
その理由は、「ナチの言い分」を聞く意味がない、というものだった。

国会議員のボイコット、という点では、韓国もおなじような事態になったけど、どうやら理由がちがうので参考にならないし、主催者はいまの「与党」だったから、「国会演説」と同列に扱えない。

日本では、まちがいなく「衆参両院」の主催であった。

それに、ロシアがわが国を「ネオナチ認定」したと発表したのも、自民・公明両党の主催ではない「国会の公式」だったからだといえる。
ナチスをもっとも憎むはずのドイツも、ゼレンスキー演説を受け入れたけど、ムッソリーニを処刑したイタリアの反応は、妙に「冷静」なのである。

わが国では、共産党までゼレンスキー演説を評価したので、「挙国一致」してナチスを支持しているようにみえるのは無理もないどころか、「ふつう」だといえる。

冷静さを失って、感情でロシアを一方的に批難し、威勢のいいことをいうのは、知性のかけらもない愚行である。

だから言ったことではない、と「ハンガリー」がいうだろうから、ブダペスト在駐の日本大使は、どんな報告を本省に送っているものか?
送っていても、本省で握りつぶしているなら、それは「誰」なのか?
国民には知る権利がある。

これを、国会で質問してくれる勢力が、外国からナチス扱いされる国民の「死活問題」として重要になっている。

利他主義と個人主義

難しい話である。

利他主義の反対語は、「利己主義(egoism:エゴイズム:エゴ)」で、これから「利他主義(altruism:アルトゥルーイズム)」を造語したのは、フランスの哲学者にして社会学者、数学者でもあるオーギュスト・コント(1798年~1857年)である。

「社会学」というのも、彼自身の造語であるから、当然に「社会学の祖」だ。

ちなみに、パソコンの「Altキー」は、「Alternate key」の略で、「Alternate」とは、「交互」や「代用」を意味している。
接頭辞の「Alt]は、ラテン語 altus、印欧祖語 al- が由来で、「高い」という意味だった。

さて、「利他主義」には、「エゴ」のような日本語がない。

これは、「altruism」が日本語訳されるとき、仏教用語の「利他」をあてはめたからで、これがそのまま「利他主義」ということになったからだ。
つまり、ぜんぜん「いわれ」がちがう語をあてはめた。

このときの「いわれ」とは、自動的に、「仏教」に対する「キリスト教」になる。
しかも、キリスト教の、『旧約聖書』に起点を置くことになるので、ユダヤ教やイスラム教とも共通する。

それが、日本人にはなかった、「原罪」の概念なのである。

「原罪」とは、アダムとイブが、禁断の木の実を食べたこと、であって、これが原因で、「楽園追放」となり、人類は「労働」をしないと「いけない」ことになったのである。

そしてそれが、さらなる「悲劇」を生んだ。
アダムとイブの二人の息子、カイン(農耕者)とアベル(牧畜者)の間で起きた、「殺人」である。

人類の祖先は、アダムとイブである、という「教え」とは、「系図」でいえば、殺人者カインの子孫であることを示す。
これが、旧約聖書を原典とする宗教の、根本概念になっているから、旧約聖書をしらない日本人と、「根本的なちがい」となるのである。

しかしながら、いつの時点で計画されたのかわからないけど、「日本占領」の基本プランに、「原罪」を埋めこんだのである。
それが、「戦争の絶対悪」という概念で、日本国憲法「前文」と「第9条」に「書き込んだ」のである。

明文憲法を、日本人にとっての「旧約聖書」にしたから、憲法改正ができないのは当然で、だれが聖書を書き換えることができようか?も、同時に埋めこまれたのだった。

つまり、「利己主義」に、「エゴ」という日本語をあてて、これを、道徳として「憎む」ようにしたのは、「個人主義(individualism)」を憎むようにすることの「本音」を隠蔽するためでもある。

「individualism」は、ラテン語の「individuus(不可分なもの)」に由来するから、「利己主義(egoism)」とは、まったく「いわれ」がちがう別物なのに。

したがって、戦後の日本人は、「利己主義=個人主義」にされてしまったことにも気づかないでいる。
つまり、隠された「個人主義」の「独立心」を日本人に持たせないための、「しかけ」がいまでも有効な証拠なのだ。

そして、「原罪」だけは有効だ。

すると、「利他主義」の本質とは、この「原罪」につながって、「他人のため」という道徳が、おどろおどろしい「全体主義」に結びつくことも、隠されていることに気づくのである。

自分のためから、他人のために変質すると、為政者にとって「コントールしやすい社会」になる。
しかも、「自分のため」すら、「個人主義」をいうのではなくて、「エゴ」のことにするので、より一層、「他人のため」が道徳だと勘違いする。

占領政策で、なぜこんな「ややこしい仕掛け」をしたのか?
日本を占領する計画者は、日本人以上に日本人を知っていたにちがいない。
すさまじい「日本研究」を、戦前からしていないとできっこないのだ。

この点、現代日本人は、すさまじい「アメリカ研究」をしていない。

日本人は古来、「お互い様」という概念で、「個人主義」を知っていた。
「自分は自分」だから、「相手も尊重」することが道徳だった。

そのことの言語システムが、「尊敬語」の用法だった。
尊敬語がフラット化したのは、「平等主義」だからではなくて、日本人から「個人主義」を奪うのが目的だ。

日本人に個人主義があること、それが、占領目的にとって「まずい」のである。
たとえば、民間人を虐殺した、日本各地への「空襲」や、その究極の「核」の使用だって、「お互い様」を言われたら論理破たんする。

重要かつ必須なのは、「個人主義」に起点をおいた、「利他」であることを意識しないといけないことだ。

自分や自分の子孫のため、という「個人」の優先が、「お互い様」となればいい。
ただ自分を棄てて、他人のため、を言うと、為政者は「国家のため」を金科玉条に、都合よく支配することを可能にする。

まさに、「個人」が壊されるから、全体主義になるのである。

ここに「紙一重」の難しさがある。
だから、意識しないと「いけない」のだ。