現代の海彦と山彦

自分の国に「神話がある」というのは,あたりまえではない.
自分の国に「神話などない」という国のほうが「ふつう」かもしれない.
それで,「ふつうの国」になりたいがために,自分の国の「神話」を話さなくして忘れるように努力する国がある.
それが,(戦後)日本という国である.

西洋の「God」を「神」と訳してしまった失敗はじつに痛い.
いわゆる「旧約聖書」の「神」は,どうみても「古事記」における「神々」とイコールではない.
これは,古代ギリシャのオリンポスの「神々」ともちがうだろうから,「神」という漢字の「記号」には,ややこしい意味があるものだ.

その西洋だって,キリスト教が普及するまえには,たくさんの「神」や「精霊」がいた.
「白雪姫」の「七人の小人」も,その「精霊」の部類である.
いまはイスラムの国だって,イスラム教前には,「ジン」という「精霊」がいた.
大化の改新は645年と習うが,ムハンマドが大天使ガブリエルとであって「神」からの啓示を受けるのが610年とされている.
つまり,これから前の地球上には,イスラム教は存在しない.

太平洋の西端にうかぶ島国の日本は,緯度と海流という影響をうけて,ユーラシア大陸の西端から離れた英国という島国とも,ちがった環境にある.
梅棹忠夫「文明の生態史観」は,明解にこのあたりを分析している.

山が海を支えている.
山からのミネラルや栄養が,川をつうじて海にいきわたることで,はじめて海の豊かさがうまれる.
わかりやすいのは,「牡蠣」である.
栄養あふれる豊かな川の河口近くからとれたものと,河口からはなれた沖合でつくるものは,「加熱用」と「生食用」として分類されている.残念ながら,河口近くはひとの活動による「汚染」という問題にされされたから,「加熱」が必要だが,その身の大きさは「生食用」の比ではない.

この島国の沿岸で,港ができそうなところにはみな「漁港」がある.
みごとに規格にそったコンクリートでつくられている.
20世紀公共事業の遺産である.
ところが,山が病んできた.

それで,魚がとれなくなってきてもいる.
「乱獲」だけが不振の原因ではなさそうだ.
いろんな工夫が試されてはいるが,残念ながら,成功事例ばかりではない.
しかたないから,海上で取り引きすることも暗黙の了解事項になっているという.

ちいさな漁港でも,価値ある魚は築地にいく.
だから,日常生活での魚だけがのこる.
それではお客にしめしがつかないから,築地の魚を買ってくる.
典型的なのは「マグロ」である.

海抜1000メートルをこえる内陸の山の宿でも,マグロの刺身が提供される.
捕獲後の冷凍技術と運送における保冷技術の恩恵である.
ふしぎなことに,これを客がよろこんで食べる.
近所の山菜には目もくれない.

こうして,山にはひとがはいらない.
「エコ箸」とは,いつのまにか洗って使うプラスチック製をいうようになった.
山の間伐材でつくる「割り箸」が,どういう理由か「環境にわるい」ことになった.
これでは,山の整備もしごとのうちになる「林業」が収入をうしなう.

こうして荒れた山は,ときの大雨で災害だけを引き起こす.
濁流が海にそそいで,海を荒らす.

海彦と山彦は,きっと困惑しているにちがいない.

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