JRの全体主義

鉄道が先進的技術だったころ、開発独裁の国家として、「鉄道省」を設立したのは、画期的通信システムの「電信」と「万国郵便制度」のための「逓信省」の設立と発想はおなじだったのだろう。

それで、文明社会がかならずおこなう「科学」の導入が、人的機構(組織)をも細分化するのは、科学の本質が「細分化」にほかならないからである。

そうやって、日本交通公社も細分化されて、研究法人としての組織と、旅行エージェントしての組織に細分化した。

それで、あたかも国鉄の営業部隊がJTBのように見えたけど、国鉄が細分化されて「JR各社」になって、JR各社がそれぞれ旅行会社を持つようになったら、今度はJTBが存在意義を失うことになったのである。

なんだか知らないが、むかしのエリート学生がこぞって入社したがった企業が、定年間近になって経営の存在価値が問われることに次々となっているのは、エリート学生の成れの果てともいえるおそろしさを改めて感じざるを得ない。

この人たちは、いったい何を組織内で学んで成長してきたのか?と問えば、あんまり努力せずに過去の惰性で仕事をしているふりをしていたら、とうとう仕事をするとは何か?も忘れてしまったようである。

こんな光景が見えているのに、まだ、むかしながらのエリート学生を欲しがる企業とは、いったい何をかんがえているのか?と問えば、そんなむかしながらの自称エリートが幹部だったりするが、漢字がまちがっていてきっと、「患部」と書くのだろう。

なので、かつての鉄道省が運輸省と国鉄に細分化されて、運輸省が国土交通省に再編されたが、国鉄はJRに再度細分化されて、清算事業団とその他の事業各社になったのである。

ここで、重要なことは、「解雇者がいない」ことなので、細分化のたびに全体は肥大していることなのである。

組織が無駄に肥大化すると、時間をもて余すひとたちが多数生まれる。

これは、あたかも自然現象のようであるが、じつは人為である。
人間は暇だと、ろくなことをかんがえないのだが、厄介なのは、多忙な現場の人材は不足して、閑職にある中間以上の管理職(「マネジメント職」のこと)が、中でもかなりの高級幹部(患部)がとくに肥大化する。

なぜかといえば、細分化によって「必要」と(人為的に)見積もられた数の幹部候補生を確保するという「採用活動」が行われるからである。

しかし、こうした見積もりが甘いのは民間企業も同じで、それをむかしは「窓際族」と呼んでいた。
このいい方とその立場は、比較的低位の管理職だったので、実害が少ない分悲哀に満ちていたものだ。

しかし、細分化の恒常化が、低位の管理職だけでは賄いきれなくなって、とうとう幹部全体が「閑職」となるのである。

こんな組織は、「有職故実」による管理が行われるのだが、たまに、余計なお世話をしだす閑職が「鶴の一声」を演じることがある。

たとえば、北陸新幹線ができたら、関西(大阪起点)から福井・金沢に行くのがやたら不便になったことがそれである(もちろん逆もしかり)。
敦賀までは在来線特急で、ここで強制的に新幹線に乗り換えさせられるのだ。

一度座席に座ったら、目的地までずっとそのままでいい、という旅ができなくなった。

そうやって、新幹線の乗車率を高める、という数字が出来上がるのは、監督官庁の国土交通省の閑職にも役立つので、乗客の不便を無視してよい。

この意味で、アリバイ路線が、伊豆半島に向かう「在来線特急」の存在で、東京から伊豆急下田までの途中にある新幹線駅もある熱海での強制乗換なく、乗客はいったん乗ったら目的地まで行ける路線としているのである。

つまり、人口で多数の関東人には、関西人の不便がわからないような「配慮」がされている、といえるのである。

まったくの全体主義が、北陸路線で完璧に観察できるようになっている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください