「安心」と「安全」はぜんぜんちがう

安全だから安心だ、とはいうが、安心だから安全だ、とはあまりいわない。

もしいうとしたら、その「安心」に相手への信頼があることを条件とする。

でも単に、安心だから安全とは限らないし、前提の「信頼」も、不祥事が起きたら「信頼を裏切られた」といって、せいぜいの恨み節をいっても落命したり健康被害となったりしたら元には戻ることができないので、ビジネス・モードでいうときには、いまどき全面的に信頼してよいかはかんがえないといけない時代となった。

消費者にしてコレなので、提供するプロ(ドラッカー『プロフェッショナルの条件』で指す意味)の側は、ふつうは神経をつかうものだった。

しかしながら、「売上優先」とか「利益第一主義」という、歪んだ発想をもった経営者たちから、「なんとかコストを下げるのがお前の仕事だ」と押しつけられると、現場も歪んで、心情的にはやりたくなくとも「これでなんとか」という意味のギリギリを追求しだすのである。

それで、その「ギリギリまで」の限界を、もっともっとと経営者に煽られて、とうとう妥協して一線を超えてしまったら最後、今度は「確信犯」に変容して、不具合が出たときのトカゲの尻尾切りをされることだってある。

こんな事例の場合、経営者が「責任ならトップたる自分がとるから」といって、たいがいは説得して、説得されてしまったら、上のように知らんぷりされるのが関の山なのである。

まるで、いま話題のワクチン大臣のごとくである。

そうやって職ごと失ったひとはたくさんいるけど、命を絶つ場合だってある。

むかしはそれでも個人の「泣き寝入り」だったけど、いまは「告発」することが容易になったので、次の段階は会社ごとなくなる、という事態になったのではあるが、だからといって被害者が救われるということはない。

日本経済のために、「規制緩和」がさんざん議論になったけど、緩和されたのは「安全基準」ばかりで、事業についての役所の「許認可」という社会主義=全体主義のための規制は、どんどん強化されていまに至っている。

ここには、役人は絶対に間違えない、という歪んだ発想が前提にあって、これがいわゆる「日本番DS(ディープステート)」を形成しているのである。

「DS」とは、高級行政官僚たちによる、政府の私物化を原点とするのは、世界共通だ。

もちろん若者が起業しようとしても、金融機関を取り締まる金融庁が、担保は不動産でとれと命じるものだから、借りようにも借りられず、結局は起業そのものを諦めることになっている。

ために、政府系金融機関が起業資金提供をする、というのは、マッチポンプなのであって、民間金融機関の役割が小さくなるように「規制」しているのである。

そんなわけで、古い企業ばかりが存続して、経済の新陳代謝がなくなったら、国家経済にとってのダイナミズムを喪失した。

これが相変わらず、若い親世代も子供に高い偏差値を求める理由となって、無難な就職を願うようになり、ひいては無難な人生が最良だという、ないものねだりをするしかなくなったのである。

その典型が、役所に就職が決まったらこれで「安心」だと胸を撫で下ろす風潮なのである。

これが「家畜化」の本質だ。

こうして、食べる物も「家畜化」がすすんで、ガンが死因のトップになった。

レジ前で、たっぷりの買い物をしているひとの購入品を眺めていると、大型冷蔵庫の普及とガンの発症率の推移が正比例しているのではないか?と思いついた。

ならば冷蔵庫は小さいほうがガンにならないのか?
電気屋さんが決してスポンサーにならない研究だろう。

ただしそうなると、日に一度の買い物では足りないかも知れないので、よほどの暇人で余裕がないとできないことになったのである。

これが、安心と安全のちがいで、安心しているのは富裕層ばかりという格差の元なのである。

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