暦どおりの「雨水」

「春の嵐」は、季節の変わり目のいつもの気象現象である。
それを、24節季では、「雨水」と書く。

今年は、19日がその日であった。

わたしが暮らす横浜も、みごとな春の嵐ではあったが、雷鳴が轟くことはなかった。
こないだの大雪で轟いたのは、かなり珍しい現象であったと、ネットの気象予報士が言っていた。

地上でなにがあろうが、まったくお構いなしに自然現象というものは、物理法則に基づいて生じるから、今度は人間が勝手にそこに「神」を感じるのもまた自然なのである。

いまはいわなくなった、「ミュータント」だけど、『続・猿の惑星』で核戦争の放射線を原因とする、奇形となって生き残った人間たちが、会堂に集合して祈りを捧げる対象が、核ミサイルであったので、変だなとおもったものだ。

このとき、超未来なのに、パイプオルガンの宗教曲が鳴り響く。
あたかも、西ドイツの「ポスト・モダン建築」のような、装飾のないあっさりとしていて丸味のある会堂のつくりが、妙にプロテスタント的なのに、流れる音楽がカソリックを思わせたのも、「さすが」だったのである。

そうして、皆で、ご本尊たるミサイルの「お姿」を拝んでいるのは、妙に日本的でもあった。

旧約聖書で、偶像崇拝の禁止を強調しているのに、キリスト教は十字架のイエス像とマリアの肖像を拝むことになったけど、これを完全否定したムハンマドに従って、幾何学模様をもってモスクの装飾とした。

ついでに、アラビア文字の書道も発達して、文字を美術化した。
あちらにも、楷書、行書、草書に匹敵する書法がある。

教養教育を一切受けないで成長する、現代の我われは、そんなわけで、行書も草書も読めないので書けない。

江戸時代の大福帳さえ、何が書いてあるのか?

そうかんがえると、「平等主義」の不平等が、人間社会を不幸にしている。
みんなで平等に、教養を得ることなく一生を終えるのである。

また、驚くことに、そんな無教養な大多数が子息を大学に進学させれば教養人になるという、思い込みをしている「まさか」がある。

ここで「まさか」というのは、おそらくそんなこともかんがえないのは、親世代にほんとうに教養がないからで、ただの生涯所得を得るためだけの教育投資が唯一の理由になっているからだ。

それに、もうひとつの「まさか」とは、大学教員の無教養で、こちらはどうやら本気で、自分たちは教養人だと自負している節があるから、よほど深刻な病理がある。
その病理の巣窟が、「文系」で、無教養なまま卒業証書がもらえて、たとえば無教養で解ける国家総合職試験という難関をつくって、合格者のパラダイスを構築した。

国家総合職=高級官僚の採用なら、「国家観」とか、「歴史」や「古典」とかの人文的な教養が不可欠だろうが、そんな分野での設問は一切ない「編集」が試験問題に行われて、徹底的に「実利」だけの知識が問われるのである。

この意味で、中国の「科挙」をはるかに下回るレベルなのである。

それをまた、あろうことか「民間」でもやっているのは、どんな人材が欲しいのか?について、経営者が本気でかんがえていないからである。

こうして、社会全体で劣化が進行する。

雨風の合間をぬって、食料品を買いに出たけど、高級車で駐車場に乗り付ける無粋なひとたちは何者なのか?とおもうのは、その態度と行動に「品」がないからである。

季節の変わり目には、またいつも通りの「キ印」が、それなりに世間を驚かすから、あんまり人出の多い場所は避けた方がよさそうだ。

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