築地と豊洲で話題にならないこと

「自慢」することの疑問

築地から豊洲に移転しようとしまいが,どちらにしても「世界最大の海産物市場」だとして自慢しているけれど,本当に自慢できるのか?
欧米の外国人が,早起きしてマグロの解体や競りの見学にこぞって出かけるのは,「珍しいから」にちがいないが,この「珍しさ」には二つの理由があることを知らない振りをして「自慢」していないかと疑うのだ.

まず築地を「自慢」する誰もがおもうのは,確かに市場の大きさと働き手の機能的な動き,そして何よりも取り扱われる大量の「鮮魚」が「すごい!」とウケているであろう,と.これらが,渾然一体となっている光景は,生魚を食する文化が希薄な国からきた人々にはまさに新鮮な驚きだろうと容易に想像できる.わたしも,この理由しか知らなかった.
ところが,ある外国人に築地の歴史的説明や見学におけるマナーを話していたら,ふと「なにがそんなに珍しいのか」という話題になった.すると,その人は真っ先にわたしにとって意外な理由を教えてくれた.

「公設」という罠

それは,築地が「(自由)世界最大の『公設』市場」だということだった.一瞬,わたしは何を言いたいのか混乱したが,その人の次の言葉で理解できた.「わたしの国には『公設』市場なんてありません.公務員が流通のかなめをおさえていることが,自由主義で経済大国の日本にあるのがたいへん珍しいのです」と.そして,「かつての社会主義国に少し残っています」といいながら軽く片目をつぶってみせた.

アメリカでは,1970年に『公設』市場は廃止になっている.つまり,流通は民間部門の仕事になった.当然,各地の市場で働く公務員たちは大反対した.まさかの失業をしてしまうからだ.もちろん,公設市場の廃止は「安定供給をそこなう」から「食卓の危機」という主張が優先されたが.ところが,いざふたを開けたら現実はまったくちがっていた.民間の流通業者の熱い視線が,これらの公務員争奪戦に発展したのだ.いわゆる「目利き」と「仕組み運営」の能力が高く評価され,発展途上だった自社内の体制整備に大活躍の場が用意された.そして,会社は急速かつ巨大な発展をし,彼ら元公務員たちの給料は数倍になった.公務員だったらあり得ない収入になった彼らは,最初から民間人だった振りをして生活している.「悪い過去は忘れよう」というわけだ.日本では,もちろん天下るのだが.

米騒動からの「統制」が21世紀にも続く

日本の公設市場の歴史をたどると,大正時代の米騒動がでてくる.瀬川清子の『食生活の歴史』(講談社学術文庫,2001年)によれば,日本人は「米を食べてこなかった」.

人口の8割を占める生産者である農民は,自分がつくった米をめったに口にできなかった.年貢米を食べていたのは,支配階級の武士と都市住民の商工業者であった.この構造は明治になっても基本的にかわらない.かわったのは,工業化であった.工場労働者の供給源は農家だったが,農業では次男以下は「食えない」から工業化は口減らしに都合がよい.そこで,幕藩体制下で開墾されつくした農地面積は増えないのに,米を食べる人口が増えてしまった.明治の軍隊が,たっぷり白米が食べられる,という条件で兵を募集したのも,「食えない」農家があってのことだ.

生産性の向上が追いつかないのに,消費が増大すれば起きることは決まっている.価格の上昇である.慢性的な米不足状態で米騒動の起爆剤となったのがシベリア出兵だった.それで,大阪の商社が米を買い占めたというニュースが引き金となった.
日本人はなにがあっても秩序があり,暴動なんて起こさない,というのが「神話」にすぎないのは,たった二・三世代前に,しっかり暴動を起こしていることからもわかる.しかも,全国規模に発展したのだ.
あわてた政府が例によって「統制」したのがはじまりだ.そして,特別扱いになった米は,米穀法となり,その後「食糧管理法」へとつながっていく.その他の生鮮食品は『公設』市場を通過させなくてはならなくなった.

だから、世界的に「珍しい」のだった

いまも米の輸入保護統制は続くが,食糧管理法は1995年に廃止された.この流れからすれば,公設市場法も廃止されるのが筋というものであろうが,そんな議論はどこにもない.
すでに大手流通業の発展とネット社会の到来で,公設市場のシェアは4割程度に低下している.「4割もある」と考えてはいけない.本来は,全部が公設市場のシェアにならなければおかしい.なにしろ「法律」があるからだ.とっくに公設市場法も有名無実化しているのだ.

別の言い方をすれば,日本の「法治」が成り立っていない.法の廃止も立法府の仕事だが,司法府が無言のままなのはどうしたことか.「三権分立」すら怪しい国なのだ.中央に意見する都知事は勇ましいが,原理原則からはずれては元も子もない.それが,こないだの衆議院総選挙であらわになった.21世紀になっても,大正時代の統制を維持すると発想すること自体が不思議なのだ.ダミ声の築地の競り人が公務員だということを思いだせばよい.

外国人観光客の「ツキジー,サイコウ!」に浮かれている場合ではない.

高校生マーチング・バンドから見える日本の驚異

ビジネス・モデルが完成している

毎年11月になると,大阪城ホールは壮絶な演技で盛り上がる.チケットは発売とほぼ同時に完売するから,一般人では入手困難だろう.

県大会→地区大会→全国大会(大阪城ホール)と関門を突破した強豪校が激突する,といっても野球やサッカーのように「誰が見てもわかる点数」を競うのではない.それぞれが,それぞれのスタイルで完璧さを表現するのだ.

チームの中の自分の位置が決まっている

マーチングの基本は,5mを8歩で進むことだという.つまり,1歩は62.5㎝でなければならない.各人がこれを習得しないと,隊列が必ず乱れるから,県大会も突破できないであろう.当然,楽器を演奏しながらの行進になるから,楽器における演奏のパートと,行進の立ち位置というパートの両方を一致させなければならない.つまり,この二つの一致とは,他人の介在する余地がないので個人の責任範囲になる.

最初から理解している

マーチング・バンドに新加入する個人は,最初から以上の原理を知っている.だから,あたえられた楽器とそのパートの練習は当然だし,歩数を習得する練習も当然である.加えて,地元でのパレードなどのイベントにも多数参加することも知っている.大規模なパレード・イベントだと数キロメートルを行進しなければならない.息を吹く楽器ばかりで演奏しつつ,複雑な隊列変化を魅せるのだから,おそろしく体力を要するのだ.そんなことも新入生は知っている.

労働市場が存在している

自分が果たすべき役割をあらかじめ意識するのは,自分が持っている能力を売る,という行為と同じことだ.つまり,下級生には自己の演奏とおそろしく体力をつかう行進という役割を提供する義務が自動的に発生するのだ.これは労働市場成立の一つの条件である.労働市場が人身売買とちがうのは,自分のすべてが売買の対象ではなく,自分が提供する行為の範囲と質があらかじめ決まっていることが重要なのだ.一方で,その労働を買う立場にある経営者は,やはり提供者と同じに購入する役務を定めている.ここで,需要と供給の原則から価格が生まれる.これをふつう「賃金」という.高校生だから「賃金」はない.しかし,部員が不足すれば勧誘活動で,上級生はさまざまな特典を提示するかも知れない.一方,部員が増えすぎたら,冷たい態度になるかも知れない.

そんなわけで,自分の立ち位置を習得した上級生には,下級生をマネジメントするという役割も必ずまわってくる.だから,下級生だから上級生のマネジメントをただ受身でいれば済む話ではない.必ず,自分たちもマネジメントする側になるからだ.学校生活における一年はとてつもなく大きな段差にみえる.たった一年の差でも,絶対的に立場がちがう.しかし,上級生の引退がスケジュール上ではっきりすれば,いやがおうでも,順番がやってくることは誰だってわかるものだ.

完璧な年功序列と容赦ない定年制

高校生なのだから,一般的には,16歳で入学し18歳を終えると卒業する.中学校を卒業したばかりの新入生が,たった三年で「引退」しなければならない.つまり,実社会の10倍以上のスピードで,労働者から経営者に昇格するという経験を積むことになる.ここで,もっともつらい想いをするのは,大人である指導教諭たちだろう.手塩に掛けて育成したメンバーが,たった三年で定年退職してしまうのをただ見ているしかないのだ.しかし,よく考えれば,大会に出場してくる学校名と指導教諭たちは同じでも,中身である演奏者たる生徒たちは,一年毎に新陳代謝して,三年後には全員が入れ替わってしまう.

自分の立ち位置もなければ,入れ替わることもない

実社会を見てみよう.日本企業のばあい,労働力として自分が提供する行為が入社前からわかっているわけでもなく,採用する企業からの要求もない.あるのは「新卒」ということだけだ.だから,「中途採用」がないから「途中入社」もない.新入社員として配属された部署における立ち位置も,とにかく漠然としていることだろう.つまり,このことからわかるのは驚くべきことに,日本という国に「労働市場がない」,ということだ.

すなわち,「社畜」になるしかない.

人生50年が80年になって,強制退職制度だった「定年」が,60歳なのか65歳なのか,はたまた「70歳まで働きたい」となって,いつまでも「上級生」がいるのだ.さらには,年金支給開始年齢の上昇から,75歳までは会社にいないと生活できない可能性もある.「定年」して「再雇用制度」に頼ると,年収はほぼ半減するだろう.労働市場がないからできる荒技だ.自己が提供する労働と会社が購入する労働の間に,市場がないための理不尽である.近年,どちらさまでも「能力主義」とか「成果主義」が導入されたが,そもそも労働市場という基盤がないから機能しない.労働市場がもともとある欧米諸国の表面的まねをしても,すぐにペンキがはげてしまうだけだ.専門家を代表する学者は,ただの翻訳者になっている.

社歴を重ねれば,マネジメントする立場になるはずだが,労働市場もなく弛緩した社畜に,マネジメントとはなにかをかんがえる気力はない.だから,仲間うちで楽ができればよい.ほとんど日本向けかとおもわれるガルブレイスの『新しい産業国家』(1968年)に,書いてある.

せめて学者なら

たった三年で労働市場とマネジメントの本質を習得してしまうマーチング・バンドの高校生を,将来の実社会での指導者にするべく教育する方策を提言してほしいものだ.

もっとも,学者先生ほど実社会でのビジネス経験がないから,何をか言わんや.

カジノ考

本年早々1月12日に、さいたま市の中学校で女子中学生が飛び降り自殺したニュースが衝撃的であった。
遺書には、「楽しいままで終わりたい」とあったという。
わが国の実態を思うと、実に胸が痛む。
いったいこの国はどこへ向かうのだろう?

とにかく楽しい場所

カジノ=統合型リゾート(IR:Integrated Resort)は、情報産業(感情産業)である。
複合施設(CF:Composite Facilies)とは根本的に異なる。
CFが、個々の施設をかけ算によって面積を求め、それを合計して同一区域に納めるイメージなのに対し、IRは、目的合理的に施設配置をする。すなわち積分(integral)なのだからCFとの違いは「次元が違う」という認識が必要だろう。
にもかかわらず、「賭博場がやってくる」程度にしかかんがえていないのであろうか?
誘致を推進する側は、わがまちの「観光の目玉」という認識らしい。それは、従来型のCFのことであろう。
なぜなら、CFであれば、既存の周辺施設にも「あわよくばおこぼれがあずかれる」可能性があるからだ。
しかし、「目的合理的」なIRで、それが通用するのか?はなはだ疑問である。IRには,統一テーマがある.

IRは情報産業である

IRが情報産業のなかでも感情産業に進化したものであるという理解のためには、1994年の文化勲章、2010年物故、梅棹忠夫が半世紀前に発表した「情報産業論」(1962年)収録は『情報の文明学』(中公文庫、1999年)が重要な資料になる。
やや荒っぽいが、梅棹先生がいう「情報産業」とは、なにもコンピュータ関連という狭い範囲だけではなく、現在の脳科学や発生学などを先取りして、特に「観光産業」や「宿泊産業」「飲食産業」がそれにあたると主張されている。それは、人の体験型産業のことである。人は脳によってすべて理解する。その脳は電気信号によっている。だから、これらの産業を「サービス業」とか「接客業」というのは間違いであるという。半世紀も前に「情報産業」として事業を再構築するしかないと強く激励しているが、当人たちはいまでも自らを「サービス業」「接客業」と定義し続けている。

サービス業の強制的な産業転換

政府はずいぶん前から、これら「サービス業」の生産性の低さを問題視してきた。製造業の生産性はいまだに世界トップクラスであるが、全産業で比較するとわが国はOECD諸国で中位クラスに転落する。この大きな原因が「サービス業」である。驚いたことに、わが国の「サービス業」の生産性は、OECD諸国で「ほぼビリ」なのである。(これが、おもてなしの国の実態である)
すなわち、「サービス業」の生産性の低さとその改善にしびれを切らした政府が、外から黒船を引き込んだともかんがえられるのである。
かつて、石炭から石油への転換を図ったときには、大変な痛みを伴う争議となったが、今回の「サービス業」から「情報産業(感情産業)」への転換は、どういうわけか当人たちも「期待している」ようである。しかし、残念ながら、その本来の意味を理解せずに、むしろ誤解しているのではないかと懸念する。
「カジノ」としてやってくるIRが「感情産業」であるというのは、人間のもつ「欲望」や「快楽」を「目的合理的」に産業化したものだからである。

投資額ではない,投資期間が問題なのだ

彼らが予定する投資額は1兆円規模なのだ。(2016年12月3日、日経記事)
それでは、彼らがかんがえる投資の回収期間は何年なのだろうか?
わたしは、ベストパターンで5年とかんがえる。
つまり、年間2,000億円のリターンを目指していると推測する。10年としてでも年間1,000億円だ。
しかも、この数字は、「キャッシュで」である。外国人投資家は、投資先の税制など気にしない。キャッシュでのリターンしか見ないからだ。
この規模の利益を吸い取ることの意味は、「地元観光の『台風の』目玉」となって周辺で既存の観光・宿泊・飲食事業を吹き飛ばすということにならないか?宇宙的にイメージすれば「ブラックホール」である。既存事業をすべて吸い込んでしまう。
つまり、IRの地元は、まっさきに自らを「感情産業」のレベルに引き上げて対抗するか、換金できるうちに廃業するかの選択になる。
アメリカのIRは、ラスベガスもリノも、砂漠の中にある。日本では、IRの周辺が砂漠になりかねない。
しかし、この試練は、結局は(IRの地元以外の)業界人の目を覚まさせることになる起爆剤になるかもしれない。だから、一概に一方的に「悪い」ことではないかもしれない。資本主義では、退場も悪ではない。
一方で、わたしの懸念は、キャッシュで残ったものが「円」として留まるのだろうか?ということだ。
これだけ巨大な金額が、「ドル」として流出するということの意味の方が問題だろう。「円安ドル高」だから輸出産業にとっては確かに追い風であるが、果たして為替レートはいかほどになるのだろうか?
輸入品物価の高騰から、制御できないインフレに陥ることはないのか?
日銀が倒産するかもしれないという環境で、日本経済は耐えられるのか?

IRのテーマは欲望と快楽の追求

「欲望」や「快楽」の提供という目的合理性をもつ「カジノ」であるのに、国内の議論であまり耳にしないもう一つのポイントは、「売買春」の問題である。
世界のカジノで、売春婦がいないところはない。この点は、「個人事業」として放置するのだろうか?
もし、日本経済のコントロールが効かないという状況になったとき、日本女性の職場としての確保ということなのか?この分野でも、確実に外国勢との国際競争になるだろう。
経済社会学的には、日本の資本主義(=前期資本制との「混沌」経済)がいよいよ産業資本主義の本格的攻勢をあびるきっかけになることも間違いないだろう。対象となる「サービス業」「接客業」こそが、前期資本制の巣窟だからである。
IRという近代産業資本の権化が、日本の(欧米先進産業資本国から見て)後進的な資本を洗い流してくれるなら、超長期的には悪いことではない。
しかし、もし、今は「誘致」を決め込んだ、業界人たちの悲鳴が嵐となったとき、まさか政府が規制に動くという事態になることはないか?そのとき、日本政府が「事情変更の原則」を理由としようものなら、外資の国内直接投資に大打撃になるだろう。
すなわち、サッチャー女史が英国病克服のために取り組んだ諸政策のうち外資の導入策が、日本病克服に使えないオプションになってしまう。これぞ、日本の自殺行為である。だから規制はできないだろう。
すると、為替の問題に戻ってしまう堂々巡りである。

政府依存の世論調査結果

10月3日の日経朝刊

優先処理してほしい政策を複数回答で聞くと「年金・福祉など社会保障改革」が53%でトップ,続いて,「消費税など税制改革」と「景気対策」が35%だから,なんと88%もの人々が「政府」にこれらをおねだりしているのだ.

多少割り引きできるのは,税制改革を望むことか.アメリカのトランプ政権が大幅な法人税減税を打ち出して実効税率でアメリカが日本より低くなるから,日本の財界が「空洞化」懸念であわてているらしい.日本が追随しようにも,かわる財源がないと,民間人が政府の財源を心配している.

政府には日銀券発行と国債の日銀引き受けという,打ち出の小槌があるじゃいないか!と,いいたいのではない.むしろ,まともな財源のなかでしかまずは活動を制限しろといいたいのだ.

そんなことをしたら,年金支給がなくなって生活できない老人がたくさんでる.これまでの政府の嘘を信じたのがわるいのだが,路頭に迷うのは気の毒だ.そこで,一刻も早く,政府には,万歳宣言をしてほしいのだ.

もはや子孫も,ましてや他人を頼れない

人口が減るのが決まっているこの国で,政府に依存し続けることは,自殺行為である.その威力と無残さは,われわれも戦後の経済混乱で「戦時国債」が紙切れになる経験をし,インフレによる「新円切替」では「預金封鎖」も経験したが,その記憶がある世代ももはや風前の灯火となっている.インフレでは,政府の借金が消えるのであるが,その負担はすべて国民がかぶることになる.

厚生年金危機は,戦中につくられた「積立式」が,敗戦によって崩壊し,「賦課方式」に転換されたことによる.賦課方式は積立ではなく,いま給付を受ける人に,いま働いているひとが差し出す方式だ.わが国の社会保障制度は昭和36年に完成している.この当時は定年が55歳だったから,昭和36年時点で定年退職した明治39年生まれより前の世代は,「掛金」という負担なしで年金を手にしているのだ.

つまり,いまの年金危機の重要なポイントは,我々の祖父以前の世代が先取りした分を忘れて「権利」になってしまったことである.しかし,わずか数年先には,年金原資を払い込む若い現役世代の人口がいなくなるのである.それでも欲しいというのは単なる強欲である.だから,政府は早く年金制度をやめる方法を検討しなければならない.

企業の依存体質も

今朝の記事では,財務省と経産省は来年度に,賃上げした企業と事業継承した企業に税優遇するという.国家がなんでこのような介入をするのか不思議だ.つまり,国家権力が民間企業をコントロールしようという魂胆なのだ.財界は,法人税減税についての財源など余計な心配をせずに,このような国家の介入にこそ懸念を表明すべきだ.国への依存が平常であるということ自体が,日本経済のダイナミックさを奪う元凶である.

混沌経済体制の国ニッポン

「混合経済」という言葉は,かのサミュエルソンが言った.
資本主義自由経済と社会主義経済を混ぜ合わせてできる,一種の理想型であったし,それを実現しているのは唯一日本だと思われていた.
しかし,明治以降の日本の歴史をみれば明らかなように,日本はそもそも完全に資本主義自由経済を基盤とした国にはなっていなかった.つまり,前期資本と資本主義が共存するレベルだった.
そこに,マルキシズムが注入された.
70年代の日本の成功は,混合経済だったからではなく,単純に冷戦構造と安い石油のおかげだった.
しかし,専門家には混合経済が魅力にみえたのだろう.
バブル崩壊後の日本だけが,世界経済のお荷物になってしまったのは,前期資本が温存され,さらに,役人主導の混合経済の成功体験という幻想に惑わされた結果だとかんがえられる.
昨今話題の「ブラック企業」の所作は,あきらかに前期資本的であって,これを行き過ぎた資本主義だと批判するのはそうとうにお門違いである.行き過ぎたのではなくて,あまりにも古くさいのである.
それは,従業員を使用人だとかんがえるパターンが共通に見えることからもわかる.
これは,江戸のお店(おたな)における使用人と同じで,身分意識にもとづいているからだ.
つまり,資本主義になりきれない経営感覚が,ブラック企業を作りだしているのだ.
あまりにマルキシズムの影響を強く受けたため,資本主義が嫌いという社会が日本であるが,資本主義になりきれていないという観点から見れば,実は,日本人は資本主義とは何かを学ぶ必要があるのだ.
すなわち,ベースに前期資本がしっかり残り,その上にマルキシズムの薄い層が広く塗られ,一部にシミのように資本主義自由経済が浮かんでいるのが日本経済の構造ではないか?
マルキシズムの薄い層が広くあるというのは,官僚支配のことである.
すると,これらをまとめれば,混沌経済国であるという結論になるのである.

なんちゃって資本主義

仕事柄、経営者の皆さんと話していると、とくに会社を破綻させた経営者の方々は、資本主義を理解しているのかわからなくなることがあります。おもいをめぐらせば、小学校の社会や中学校の公民で、資本主義というよりも「株式会社の仕組み」としてだけしか資本主義を学んでいません。ですから、資本主義を知らない、ということはこの国では普通のことかもしれません。
いわゆる、戦後の日本は、占領軍によって「民主化」され「自由な社会」になった、といわれていますが、戦前が民主化されていなくて不自由だったのかといえば、じっさいはそうでもなかったようです。お金がなくて貧乏であることを「生活が不自由」といったり、財布に現金がすくないことを「手許不如意」などといういいかたがあります。戦前の日本社会は、貧乏だったという意味での不自由でしたが、自由主義ではなかったという意味での不自由ではなかったとおもいます。もっとも,いまではかんがえられないくらい,みんな「貧乏」だった.このことも,いま,みんな「忘れている」ことです.
過去をふりかえりますと、日本が驚異的に経済成長をとげたのは二回あります。明治の初期と昭和の終戦直後です。これら二回には共通項があります。どちらも、旧い日本を棄てた背景があるなか、爆発的に資本主義の条件が満たされた時期なのです。ここに、現在の低迷のヒントがかくされているのではないか?とおもわれます。

実は資本主義をしらない

資本主義は、自然発生的なようでいてそうでもない、実に不可思議なものです。過去にはマックス・ウェーバーや近年ではアラン・マクファーレンの研究がありますが、「発生源」についての理論的決着がいまだにありません。しかし、この両人の共通点は資本主義の成立には「精神」が必要要素だということで一致しています。それは「正直に儲けることの正統性」です。
なんであれ、資本主義は18世紀に英国で発生したことは間違いないのですが、この時点から勘違いが起こります。それは、「産業革命によって資本主義になった」という説明で、ウィキペディアでもこうした説をとっています。しかし、「資本主義が成立したから産業革命になった」という順番でないとおかしいとおもうのです。それが清教徒によって北米大陸に渡るのですから、「英・米」が資本主義の宗家筋になるのは当然です。以来、英米の国民は、産まれてからずっと資本主義の精神がある空間で生活していますから、とくに教わることがなくても資本主義があたりまえに体に吸収されるのでしょう。だから、ノーベル経済学賞は欧米の研究者ばかりが受賞しています。最近では「経済学」といえば、暗黙に「アメリカ合衆国の経済分析のこと」ではないかとおもわれるように、アメリカが近代資本主義の宗家となりました。
ところで、18世紀までの人類は資本主義を知らなかった、だからこの時期までの人びとは資本主義社会では生活していないということが案外忘れられがちです。物々交換であったろう原始時代を除くと、つまり、貨幣があって物流があったという時期がおそろしく長いのです。四大古代文明から江戸末期までになるからです。これを「前資本」とか「前期資本」と呼ぶそうです。この時期の特徴は、冒険や掠奪という手段がかなり一般的な「商行為」であったことです。びっくりするほどの資産家は、古今東西あまた存在しました。しかし、それは、現代的ビジネスでの成功によるものよりも、冒険や掠奪だったというわけです。シンドバッドの冒険や、地中海の海賊たち、さらに紀伊國屋文左衛門もその部類です。そしてこれは、基盤となるルール「所有権」がはっきりしない時代だったという意味でもあります。

自由の意味

資本主義の要素には「精神」のほかに「法」と「自由」がなければなりません。「法」のなかでも最重要な概念が、所有の絶対制です。このルールがあって、はじめて掠奪は正当なビジネスではないと決めることができます。ここから、詐欺行為も不当に他人の財産を奪うルール違反として犯罪に認定されるのです。つまり、わたしたちが一般的に知っているビジネス取り引きの基礎になるかんがえが「所有権の絶対」です。そして、取り引きをするものは、お互いに「自由」でなければなりません。脅迫によって、相手方の意志に反することを強制する取り引きも正当ではありません。ましてや、だれかの命令によるなどということもありえないのです。注意しなければならないのは、ここでいう「自由」とは、なにをしてもいい、という意味での「自由」ではないということです。あらかじめ存在するルール(法)に基づいて、自分の意志決定が、他人から強制されないという意味の「自由」です。だから、自分のその決定の結果については、本人が責任をとるということもふくまれています。
以上のように、資本主義が作動する条件は、社会の参加者全員が、「法」と「自由」の概念を共通にした「精神」がなければならなず、この三つのどれか一つを欠いても、資本主義社会は成立しないということをあらためて認識したいとおもいます。
 前期資本の時代でも、おおくの巨大な資産家がいたのですが、もう少しくわしく見ると、彼らのビジネスモデルは単純です。それは、「安く仕入れて高く売る」ということにつきるのです。ものづくりニッポンのビジネスモデルも、伝統的に安く仕入れて高く売る、ということですから、一見、現在の   高度な技術をもちいているものづくりと同じように見えるかもしれません。前述のように、「安く仕入れる」ことが掠奪であれば、奪った品を現金にするだけでも儲かります。江戸の大店は、旦那様から番頭さん、手代に丁稚というように、組織階層はあるのですが、すべての労力が、「安く仕入れて高く売る」という行為に集約されることが特徴です。もちろん、この階層は身分と連結しているので、家来型の主従関係になります。
これが、資本主義になると大変化をとげるのです。会社の外から見れば、「安く仕入れて高く売る」ことに変化はないようなのですが、組織内部では、従来とはまったく違うことがおきているのです。それは、経営者と労働者とが、それぞれに別々の目的をもちながら、協力しあって働くことで、確実に付加価値をつくり出すように意識的に行動するということです。

経営の目的

経営者の目的は、会社に利益をもたらすことです。一方、労働者の目的は、労働力を提供するかわりに、合理的な賃金を得ることです。この二者が協力しあって働くというのは、経営者は経営の役割を、労働者は労働という役割をもって、合理的に協力するのです。ここで、重要なのは、経営者と労働者は対等であるというかんがえかたです。それは、経営者は労働者の労働を買っていて、労働者は経営者に自分の労働を売っている、という意味での対等です。これが、「労働市場」の基本的なかんがえかたです。つまりこれは、労働者は自分のなかの技能を商品として認識できている一方、経営者は労働者の技能を商品として買っている、という諒解があって成立するということです。
そして、両者が、組織内で「確実に付加価値をつくる」ことを意識している状態があることが重要です。ですから、基本的に資本主義では、「赤字経営」はありえないのです。「確実に付加価値をつくる」なら、赤字になるはずがないからです。そこで、「確実に付加価値をつくりだすことができない」という事業であれば、容赦なく退場するのが資本主義のルールであり、一方、こうしたら「確実に付加価値をつくりだすことができるはずだ」ということが合理的で納得できるとなれば、出資者があらわれて、あたらしいビジネスが登場するのも資本主義のルールになるのです。

日本の「なんちゃって」さ

さて、ひるがえって、わが日本国のばあいはどうでしょう。
所有権の絶対から、あやしいのです。たとえば、民法162条では、占有時効として20年間他人の土地を占有すると所有権が占有者のものになるという規定があります。この規定は、あの御成敗式目(貞永式目:1232年)にみられるかんがえかたです。わが国の民法は、鎌倉時代の条文が生きているのです。当然ですが、鎌倉時代は「前資本」の時期にあたりますから、21世紀のわが国は中世の感覚が通用する社会という奇妙なことになります。「占有」と「所有」の概念が混在して、区別がつかないということは、他人から借りた本を返却しないとか、その本に傍線やメモを勝手に記入するとかいった例でも確認することができます。所有権が絶対の感覚からすれば、ありえないほど野蛮な行為です。
「自由」についても、日本では「他人に迷惑をかけなければなにをしてもいい」ということが平然といわれて、多くの人がこれをおかしいとはおもいません。他人が迷惑とおもうかどうかを「自分が判断している」ことに気づけば、さきほど注意をしたように、「あらかじめ存在するルールに基づく」ということとの違いがわかるかとおもいます。電車の車内で床に座り込む人は、きっと「別に他人に迷惑をかけているわけではない」と決めつけているに違いありません。車内で化粧をする人たちも同様でしょう。そういった行為を見せつけられる側の不快さを意識しないだけの結果ですが、あらかじめ存在するマナーというルールを忘れて、それが「自由」と勘違いする「精神」がはびこってしまいました。

労働市場がない国

さらに、「労働市場」というかんがえかたが、日本ではかなり希薄ですし、「確実に付加価値をつくりだす」という意識も希薄です。
 このように、わが日本国では、資本主義の成立要件が満たされていないことが観察できます。ですから、基本的に日本は「資本主義ではない」という驚くべき結論がでてきます。株式会社がちゃんとあって、証券取引所もある、だれもが自由な生活を享受している、という反論がありましょう。しかし、資本主義の成立要件が満たされないということは、「なんちゃって資本主義」である、といえばご納得いただけるでしょうか。

日銀の支配

昨年2016年12月末時点で、日銀が東証上場株式全体の筆頭株主になっているのは冗談ではなく事実です。これはもはや「資本主義の仮面をかぶった社会主義」としかいいようがありません。
わたしはこの「なんちゃって資本主義」こそが日本経済低迷の原因とかんがえています。ノーベル経済学賞受賞者の著名な経済学者たちが、日本経済の処方についてトンチンカンなのも、日本が資本主義であるという前提の誤解からではないかと疑うのです。ソ連が崩壊したとき、アメリカの経済学者がこぞってソ連経済の自由化にコミットしましたが、うまくいきませんでした。資本主義は、社会に資本主義の精神がないと成立しない、という根本をうっかり忘れていたともいわれています。アメリカでは、その精神は空気のようにあたりまえですが、ソ連社会にそんなものは存在しなかったからです。そうかんがえると、むしろ東欧の旧社会主義諸国がいかにして自由化したかの方が、日本にとって有用ではないかとおもいます。むりやりソ連圏にされた東欧諸国は、戦前には一度、資本主義を経験していたからです。
本当は、いまこそ従来の体制を棄てる時期になったというシグナルが鳴り響いているとおもいます。
戦後の高度成長は1973年の石油ショックで潰えたといわれていますが、真実はちがいます。1973年のGDP月次統計は、第四次中東戦争の勃発(10月)前の6月に急速に減速しているのがわかります。つまり、中東戦争が引き金になったということの「アリバイ」が崩れているのです。
 「1970年体制」ということばがあります。これは、日本がみずから選んだ選択として、「成長より安定」があったという意味です。このおおきな選択をしたのは田中角栄首相です。田中角栄こそが、日本の成長を止め、いまにつながる停滞をつくった張本人です。そして、田中内閣以降の自民党は、「安定した社会」を建設することを目的とする政党となりました。「安定した社会」とは「福祉国家」のことです。ふくしこっかとは、社会主義国家のことです。