日々世の中は進歩している,とかんがえるひとは多いのだろうが,どっこいそうでもないことがある.
都心部で自家用車を持っていないひとはおおい.地方ならひとが住める金額でも,月契約の駐車場代に足らないからだ.それにカーシェアリングもすすんできだ.そもそも,都心部はどこに行くにでも交通の便がいい.最近では,低床の路面電車が見直されて,地方都市の顔としての新設も議論されている.
トロリーバスの絶滅
わたしが棲む横浜には,路面電車もトロリーバスもあった.東京には,荒川線が残っているから路面電車はあるが,トロリーバスはなくなった.黒四ダム観光の足だったトロリーバスも廃止されるというから,この国からトロリーバスは絶滅する.
ハイブリット車や水素自動車,さらにEVと,「環境にやさしい」とされる乗り物がもてはやされる時代に,どうしてトロリーバスは絶滅するのだろうか?一昨年訪問した,ブルガリアやルーマニアといった,かつての社会主義圏の国では,いまだ運行はしていたが,それでも廃止路線が多いようで,ずいぶんトロリー架線が撤去されずに放置されていた.一部では,切れた架線が道路に垂れ下がっていたが,電気はきていないのだろう.その横で,街路樹の枝も垂れ下がっていたから,整備予算が枯渇したと考えられる.
将来ディーゼル車の販売ができなくなるというヨーロッパで,トロリーバスはどういった位置づけなのか興味深い.本当は,「環境にやさしい」ということが優先ではなく,単純に「産業優先」なのではないかと疑いたくなる.もっとも,電気をつくるのに主に石油やガスを燃やしているから,電気が「完全にクリーン」であると考えるわけにはいかない.まして.原子力は「クリーン」どころではなかった.しかし,ハイブリッドや水素を用いる方法よりは,「環境にやさしい」のではないか.EVも,しょせんは発電所の電気を必要とする.
何年も前のことだが,ギリシャのアテネには何度か行ったことがある.いまでもこの街にはトロリーバスが走っている.路面電車もそうだが,「電車」に分類されるトロリーバスは,はじめて訪れる観光客にもやさしい乗り物だ.路線や停留所を間違えても,終点までいけば必ず戻ってくるはずだし,循環路線もある.地上を走るから,車窓からの景色も楽しめる.
横浜のトロリーバスは,開業が1959年,廃止が1972年だったから,わずか13年足らずの営業運転だった.東京オリンピックによる三ツ沢競技場への足という設置理由が,懐かしくもあり新しくもあり.廃止理由は,市電の廃止による変電設備の撤去と,バス車体交換の購入値段が,ふつうのバスの三倍程度もするということだった.ふしぎなもので,トロリーバスばかりに乗っていたわたしには,ふつうのバスが珍しかった.
市内の交通量増大で,渋滞のもとになったとの判断も廃止理由だ.市電が渋滞のもと,ならまだわかるが,「バス」でもあるトロリーバスが,渋滞のもとだという指摘は子どもにも解せない説明だった.それに,市電の利用者にとっては,渋滞していても,電車が接近すると自動車の方が線路をよけて走ったので,バスよりはやく移動できたから,自動車の増大をにくんだ.だから,これらはそれらしい廃止説明ではあるが,開業前に気づかなかったのか?と今さらにして思うことだ.「オリンピック」という特異なイベントによる大盤振る舞いだとすれば,それから60年たってもおなじことをしているから,残念ながら当時を嗤うことはできない.
むかし市内交通は一体だった
「横浜市営」という経営形態が望ましいかの議論はおいて,路面電車,トロリーバス,ふつうのバス路線は,「乗り換え券」をもらうとその日何度でも乗り換えて,目的地に最初の料金だけで行けた.民間のバス会社でも,自社路線であれば「乗り換え」ができたと思う.これができたのは,車掌さんがいたからだ.おおきながま口カバンに,路線図の切符があって,それに特殊なハサミで穴をあけてくれるのが楽しかった.ワンマン運転になって車掌が廃止されると,「乗り換え」ができなくなった.交通量の増大で路面電車やトロリーバスが廃止されることよりも,「乗り換え」廃止が不評だった.乗り継ぎ乗り継ぎで目的地に行っていたひとには,路線毎のその都度料金支払制度への変更は,ものすごい負担増だったからだ.ぼったくりのような料金変更に絶望したひとを,マイカー所有へ追い込んだ.それで,また自動車の数が増えた.これは.都市交通政策としていかがなものだったのか?まるで,自動車会社のためにしたような政策である.料金支払が電子化されたいまの時代に,これができないのはなぜか?
いまでも市内交通を一体に運用している国
「時間料金」というやり方がある.ポーランドでは,市内交通は時間制の料金だ.20分,60分,半日,一日,と四種類の切符が売られている.券売機は停留所や駅(窓口でも買える)にあり,支払方法は現金,デビットカード,クレジットカードで,接触方式,非接触方式,どちらも利用可能のすぐれものだ.購入した切符は,車内に打刻機があって,これに差し込むと「チン」という音がして日付と時刻が刻印される.20分券なら,この時点から20分間有効となる.検札係に切符なしや時間オーバーがばれると,容赦なく4,000円ほどの罰則金をはらわなければならない.印刷が読めなくなるから,二重打刻も禁止である.制服着用の長距離列車とちがって,市内交通の検札係は私服にバッジをつけて身分をあらわすから,遠目ではだれだかわからない.だから,それなりの緊張感があって「不正」は少ないそうだ.発車寸前に打刻する人がいたのは人情というものだ.ちなみに,降車時の手続きはないから,無事時間切れとなった切符は,そのまま捨てればよい.購入しても,打刻さえしなければ切符はずっと有効なので,ふつうはまとめ買いして財布にいれるようだ.ハイテク機械を乗り物に一台ずつ設置するより,アナログな打刻機の方を設置するのは合理的だ.
遅延したらどうするのだ?という日本人なら気になる議論もあまりないようだ.鉄道が遅延するのは,長距離幹線がおおい.都市近郊路線の電車は,案外しっかりしており,せいぜい数分程度の誤差がふつうだから,目くじらを立てるほどではない.バスなら渋滞によっての遅れは運転手がわかっているから,時間オーバーの対象ではない.よい意味でアバウトなのだ.これがコストをさげている.別の意味で,人間を信じるシステムになっている.
便利だから利用するという原理
日本の都市部にかぎらず,伝統ある国のもともとの都市計画はモータリゼーションを想定しなかったから,どこも渋滞や駐車場の不足に悩んでいる.それで,公共施設には公共交通機関をつかうように案内される.日本では異様な人数の案内係が配置されるが,なんのためにここにいるのかわからないことがある.このひとたちの人件費も,知らないところで負担させられている.近年では,工事現場の案内も過剰である.
ひとは便利だから利用するのだ.近距離の都市交通システムは,わかりやすくてリーズナブルな料金であることが重要で,さらにいえば,だれのためのものかということが最も重要だ.
目的合理性について考えると,外国のやり方が参考になることも,むかしのやり方が参考になることもある.