フランスの往年の大女優カトリーヌ・ドヌーヴ(74歳)が,アメリカ・ハリウッドで起きた有名プロデューサーによる女優たちへの「セクハラ事件」について,男性擁護の発言をしたら,グローバル化で袋だたきにあってしまった.
「男性には女性を『口説く』自由がある」
批判を受けて,彼女は「セクハラを擁護したわけではない」と謝罪することになった.
ところが,これに続いてブリジット・バルドー(83歳)も被害者を名乗る女優たちに「売名行為」だと言い放って物議をかもしている.
「プロデューサーをその気にさせて、役をとる女優はたくさんいる。話題になるために、後になってセクハラされたと言いだす」と辛辣だ.
そういえばフランス語には「セクハラ」にあたることばがない.だから,概念がない.
ブリジット・バルドーは「セクハラに遭ったことなどない」,「男性にかわいいお尻だと言われるのは、気分がよかった。こういう褒め言葉をかけてもらうのは快感」と言い切る.
ひるがえって,カトリーヌ・ドヌーヴの発言には,100人の賛同した署名者がいたというし,セクハラ告発の行き過ぎは「女性を保護が必要な子どもにおとしめること」と評したことは,なかなかかんがえさせられる.
これを婆さんたちの世迷い言といえるのか?
ヨーロッパは「おとな中心の文化」が主流だ.
レストランも劇場も,どこもかしこも,おとなのためにあって,子どもは相手にされない.
だから,「自己責任」が問われるのではなくて,さいしょに「自己責任」は当たり前という前提があるから「おとな中心」なのである.
「はやくおとなになりたい」というのがヨーロッパの子どもの言い分なのは,これからきている.
ところが,社会全体が「子どもでいたい」のが日本になった.
全国の自治体などがつくった「ゆるキャラ」を,「子どもだまし」だと発言するのはヨーロッパ観光客の率直な意見だ.
彼らがゆるキャラとのツーショットをうれしそうにとる光景は,たんに珍しいからで,その主旨に全面的に賛同しているわけではない.
「保護が必要な子ども」であれば,楽である.
その「楽」のなかにずーっといたい.だから,おとなになりたくない.
成長によって身体はおとなになっても,頭脳のほうは子どものままでいたいと欲求するから,強いものに守られたいに変容する.
寄らば大樹の陰.
こうして,国家依存の下地もできる.
そのむかし,いまでは当たり前になっている普通選挙権をもとめる政治運動がさかんだったころ,フランスでは女性の参政権付与問題に対して,パリのシャンゼリゼ通りが100万人の女性デモ隊で埋め尽くされたことがあった.
これが,なんと参政権を要求するのではなく,拒否する主張だったのだ.
「政治なんていうズルくて小汚いものに,子どもを産むことができる神聖な女性にかかわれとは,女をバカにした男の身勝手な主張にすぎない.そんなものは,男だけでやれ.」
もちろん,わが国も含め,たいがいの国は,「男尊女卑」だったから,女性の参政権がなかったのは,女は劣るもの,という男のかんがえ方があったからである.
しかし,これを逆手にとったのが,当時のフランス女性たちだった.
これを「エスプリ」といって済ませられるのかといえば,そうはいくまい.なにしろ,女性だけで,100人ではなく100万人の大集団があつまったのである.
「男女同権」という価値感に,小気味よくもある反論の主張ではないか.
「近代」の当たり前の価値感が,ちょっとまえの歴史にさかのぼってみたときに,脆弱でうつろい易いものではないかとおもえる.
いまでは,さらなる逆転で,フランス女性たちの政治参加があるから,やっぱり能動的なのだ.
「男にまかせるとロクなことはない.」
「文化」というれっきとした下地があるところに,女性あっての男だと,フランス女性の矜持をみる.
女性からの保護の対象が,いくつになっても男性なのだ.
そういえば,ジュディ・オングの大ヒット曲「魅せられて」(作詞:阿木燿子)には,「女は海」というテーマがあった.
阿木さん,さすがあなたはわかっている.
いまさらながらに,日本女性の矜持もみた.