言論弾圧のコストは高い

8日、トランプ氏の「ツイッター・アカウント」が永久停止となったのを機に、「フェース・ブック」がこれに同調した。
また、自由投稿を旨とする、新興の「パーラー」に対して、アップルがアップストアでのダウンロードを停止して、まもなくグーグル・プレイ・ストアも同調したから、新規に加入できなくなった。

どうやら、ツイッターから追放されたトランプ氏が、パーラーにアカウントをつくるという情報に対応した措置のようである。
なるほど、こういう手があったのか。
現代の情報社会の構造が、あんがいと各企業の意思によってかくも脆弱なものかと理解できた。

すなわち、ジョージ・オーウェル不朽の名作、『1984年』の「ビッグ・ブラザー」が、現実になっていることを認識できた。
これは、ある意味、不自由があたりまえの国の住人からすれば、なにをいまさら、といわれることではある。

しかし、自由を標榜する国で起きている、というのは、「あたらしい異常」である。
つまり、平然と民間企業による言論統制が実施されたことに、「鈍感」な社会になったことの意味は、あまりにも重大なのだ。

トランプ氏の任期は、20日午前中で終わる。
あと10日あまりにもかかわらず、民主党は二度目の「弾劾」訴追を明日11日にも行うという。
なにを企んでいるのか?

トランプ氏の参政権を将来にわたって奪うだけでなく、「有罪」にすることで、社会的抹殺をしたいのだろう。
それは、トランプ氏の「存在」が、アメリカ合衆国の「安全保障の脅威」だと理由付けていることで明らかである。

これが、「7300万票を得た」大統領候補者に対する、敵対勢力の態度なのである。
「党名」とまったく合致しないことをあえてする、ほんとうの理由はなにか?

まず、議事堂への乱入が、反乱だとして、これを扇動したのがトランプ氏だと決めつけていることにヒントがある。
しかしながら、トランプ氏は事前の5日に「大統領覚書」にサインしている。
それが、「極左暴力集団」による暴動阻止のための注意喚起だった。

つまり、彼は、これら集団による議事堂襲撃を「予測」していたことになる。
実際に現場で撮影されていたおおくの映像からも明らかなように、集団を扇動するひとたちがいて、ガラス窓を割ろうとするのを止めるひとたちが、警官に何人かを突き出している場面もある。

さらに、議事堂内で、上院議員が「チャレンジ(異議申立)」の手を挙げるタイミングで、なんと外のバリケードにいる警備員がこれを解いて、集団を招き入れている場面も撮影されている。
妙に、計画的なのだ。

そして、「爆弾が仕掛けられた」という情報と、じっさいにそれらしきものがみつかったことで、議事が中止され、議員たちは避難をはじめた。
まさにこのタイミングで、大きく二つの「窃盗事件」が発生した。

・「チャレンジ」には、挙手だけでなく、用意したサイン入り(上・下両院議員)の書面がいるけど、避難時に議場においていたこれら書類が盗難にあい、議事再開後、いくつかの州で予定されていた「チャレンジ」ができなくなった。
これで残った「チャレンジ」が有効になっても、票数でバイデン氏勝利が確定したから、議会が死んだ瞬間でもある。

・あたかも、「軍の特殊部隊」とそっくりな装備で暗躍する複数人が、監視カメラの映像に残っていて、彼らは議事堂内にある民主党議員の事務所から、パソコンを奪取した。総数は12台。この中に、ペロシ下院議長の執務室でガサ入れしている映像もある。

これら、パソコンを奪取したのが、うわさされているように、海軍特殊部隊の「犯行」だとすれば、これは、「軍事作戦」である。
アメリカ軍の最高司令官は、いうまでもなく大統領だから、なんとしても「弾劾」したい理由がはっきりする。
彼らからしたら、なるほど、「反乱」にみえるのだ。

つまり、なんらかの「大統領令」が、発動された、ということだ。

なくなったパソコンに、どんなデータが保存されているのか?
軍・情報部での解析なら、すぐにでもレポートされるはずだ。
あり得ない「証拠」が満載だと想像すれば、民主党側の「あわて方」と対応の異常さが理解できる。

恐怖がパニックをよんでいる。

ここで、ふつうなら、証拠は合法的に入手したものでないと、裁判で証拠として認証されないという常識的な反論もあろう。
しかし、場面が、軍事裁判(軍法会議)なら、話は別である。

両陣営による、最後の死闘がはじまっているのだ。
どちらか、負けた方は、この世から永久追放が確定している。

さて、耳目がこれらパソコンにいくけれど、よほど重大なのは、議場内で盗難にあった「書類」の方である。
演説原稿がなくなったのではない。
大統領選出における、各州選挙人投票の有効さを問うための、「公文書」なのだ。

同じ時間に、同じ建物のなかで、三つの場面があった。
a. 乱入を実行したひとたち、b. 議場での窃盗、そして、c. 民主党の各議員事務所にあったパソコンの紛失。
おそらく、ソーシャル・ネットワーク大手による、現職大統領の発信情報遮断は、c. に呼応するのだろう。

さて、議事堂事件後にでてきた、イタリアの「証人」は、昨年のホワイトハウスにおけるクリスマスパーティーに招待されていて、パーティーのさなか、大統領をはじめとした人物たちと、それぞれ別室で面談したという。
『ゴッドファーザー』の場面のようだ。

トランプ氏は、あたらしい政党の立ち上げを示唆し、「独自」の情報プラットフォームの準備を急ぐ、と発言した。

いまさら、巨大テック企業に対抗できるものかと失笑を買っている。
パーラー・アプリのダウンロードができなくなったことがどういうことかがわからない馬鹿者だ、と。

けれども、新政党の立ち上げよりもずっとかんたんだ。

巨大テック企業の経営陣を、カリブ海の無料リゾートへ一生招待して、トランプ陣営のひとたちを経営者にすればいい「だけ」だからである。
トランプ氏がこだわったように見せかけた、通信品位法230条の撤廃や改正は、じつは必要としない。

代償は高くつく。

アメリカの「第二共和制」発進

民主主義の共和国が、壊れた。

三権分立の大原則が崩壊したから、「壊れた」のである。
残ったのは、大統領=行政府の一部、と、軍である。
すなわち、立法府=上・下両院議会(連邦・州)、司法府=最高裁判所(連邦・州)、それに行政府のほとんどが「壊れた」ということだ。

しかし、これらが「壊れた」のは、構造的に民間もかかわっている。
アメリカの主要産業界(新旧ふくめ)が、トランプ大統領の「弾劾」を指示し、支持しているのだ。
この指示と支持をうけて行動しているのが、民主党と共和党の一部だ。

つまりは、「グローバリスト」たちである。
そして、この「グローバル」の範疇に、中国共産党もふくまれる。
すると、あんがいこの構造は、わが国とそっくりなことに気づくのである。

幸いなことに、アメリカ合衆国では、大統領=行政府の一部と軍がある。
わが国に、決定的に欠けるのが、ここなのだ。

アメリカ国民は、7300万票をトランプ氏に投じた。
もはやだれにも明らかになってきた、バイデン氏が盗んだ票を加えれば、8100万票は「堅い」という、圧倒的な支持は、アメリカ国民のふつうのひとたちが、一部のひとに富が集中することを「おかしい」とおもっている証拠なのである。

しかし、以前から「エスタブリッシュメント」といわれる支配と富を得ているひとたちが、この地位を維持するだけでなく、「もっと」といって無限の欲望をむき出しにしているので、「チェンジ」と叫んだオバマ氏に期待して、みごとに裏切られた。

オバマ氏こそが、エスタブリッシュメントの利益代表者だったのである。

そこで、敢然と登場したのがトランプ氏だった。
日本でほとんど報じられないけど、彼は、敬虔なクリスチャン、しかもアメリカ建国に直結する、福音派(ルター派)のバリバリ信者なのである。
本人は不動産業で富を得た富豪ではあるけれど、エスタブリッシュメントに対抗する珍しい富豪なのである。

これが、エスタブリッシュメントたちの危機感を増幅させた。
一方で、一般国民の期待も増幅させたのだ。

過去のアメリカ政治家で、あるいは大統領で、エスタブリッシュメントの意向を無視することは、不可能だった。
これが、エスタブリッシュメントのエスタブリッシュメントたるゆえんなのだ。

彼らが選んだ人物が、政治家となって、彼らが指示し支持する政策を実行させる。
すべからく、エスタブリッシュメントのロボットであることが、アメリカ政治における常識であり、主流をなす。

この仕組みは、二大政党も呑み込まれているので、党派を超えて「大物」ほど、エスタブリッシュメントに近い人物なのだ。
したがって、今回のアメリカ大統領選挙の歴史的混乱とは、エスタブリッシュメント対ふつうの国民、という「分断の構図」がつくりだしている。

いってみれば、「ふつうの国民たちによる革命」なのだ。
だから、「第二の独立戦争」という表現は、けっして大袈裟ないいかたではない。
もはや「対立の本質」は南北戦争どころではないから、リンカーン大統領をしのぐ偉大な大統領とトランプ氏がいわれているゆえんなのだ。

6日の合同議会による認証で、エスタブリッシュメントたちの犯罪が、「完結」した。
翌7日、謀ったように、「ラトクリフ国家情報長官報告書」が、連邦上院情報委員会に提出された。内容は、機密である。

6日の議事堂での「暴動」に対して、平和的に家へ帰るように促したトランプ氏のつぶやきを、即座に閉鎖したのは、「反乱法適用要件」を自ら満たした。
議会では、ペロシ氏が大統領免職の議決を急ぐ動きがあった。

この期に及んで、勝者のはずのこのひとたちは、なにを慌てているのか?

繰り返すが、トランプ氏は、エスタブリッシュメントたちの犯罪を完結させた。
それが、連邦議会における次期大統領決定の瞬間である。
この瞬間、アメリカ合衆国の共和制は崩壊した。
はたして、ローマ帝国のごとく、これよりエスタブリッシュメントたちの「帝政」が開始するのか?

そうではなく、トランプ氏による「第二共和制」が発進するのだ。
誰が大統領になるかよりはるかに重大なことである。
この変化の過程が、そのまま「歴史になる」から、肝を据えないといけない。

ラトクリフ報告書とは別に、イタリアから宣誓供述書が届いた。
フランクフルトのアメリカ領事館で押収された選挙データのサーバーは、ローマのアメリカ大使館で操作され、軍事通信衛星を経て本国の選挙データを更新したという。

この軍事通信衛星とは、バチカンがレンタルした話もある。
エスタブリッシュメントたちには、外国の要人も、企業もふくまれる。
なんと、カソリック対プロテスタントの対立もあぶり出された。
そういえば、バイデン氏はカソリックだった。

アメリカの歴史的激変に無関心をよそおえるのは、コロナ政治利用のおかげである。
しかし、わが国にも、変化はいやでもかならずやってくる。

けれども、これは、国民にとってよきことなのである。

明るいニュースを探す

赤いちゃんちゃんこを着て、還暦のお祝いをする。
いまどき、満で60歳が「老人の入口」とは思えないけど、ついこの前までのわが国は、55歳「定年」がふつうだった。
体力が重要な自衛隊は、幹部だっていまだに55歳で定年退職する。

人間の寿命がどのくらいだったのか?
むかしは乳幼児の死亡と、産後の肥立ちがわるくて亡くなる若い女性も珍しくはなかったから、「平均」を求めようとするとあんがい元データに乏しい。

火葬ではなく土葬だったのが幸いして、遺骨をしらべれば、年齢が正確にわかるので、何百年前のふつうが見えてきた。
人生30年がふつうだった時代から、だんだん伸びて、「不惑」の40歳となり、幕末ころには50歳となった。

それから「政府統計」がとれるようになったけど、途中に、大戦争があるので、やっぱり「平均」がつかえない。
だから、人生70年から80年になったのは、つい最近だ。

このごろは「人生100年」といいだしたけど、少子ということからの「平均」をいっているようなので、データの使い方が退化している気がしてならない。

そんなわけで、赤いちゃんちゃんこを着たのは、「赤」が「邪気払い」の色とされるからで、人生最後の「厄年」の厄落としを兼ねている。
めでたいときの食べものが、「赤飯」なのも、めでたさを邪気で穢されないために、食べて体内に「赤」を入れるのである。

この色をだすのが「小豆」だから、万病に効く薬として伝来した「茶」とともに、小豆の菓子を食べるという説がある。
1年の半分をおえた6月30日の「夏越(なごし)の祓(はらえ)」という、季節の茶事に欠かせないのが、「水無月(みなづき)」という、赤い小豆の菓子で、やっぱりお祓いをして口に入れる。

すると、赤いふんどしも、赤い腰巻きも、なんだか納得できるのである。
このところ、高齢者に人気の衣料品店に、「赤いシリーズ」があるのは、すこしだけ先祖帰りしているのかもしれない。
だから、「ど派手」といって笑ってはいけないのだ。

何年か前の夏に、台湾に遊びに行ったとき、ほぼ最南端で唯一の海洋国立公園がある墾丁(ケンティン)で海水浴を楽しんだ。
ふだんはかないビーチ・サンダルを現地調達して履いていたら、指の股が擦り切れた。

それで街の薬局を見つけて店内を探索したら、「赤チン」を見つけた。
絆創膏が欲しかったけど、これも買ったら、店主のおじいさんが日本語で「あかちんねぇ」といったのが記憶に残る。
家庭の常備薬中の常備薬だったのが、成分が毒だといって日本から消えてしまった。

こんなのはたくさんあって、「人工甘味料」として、駄菓子の味の主成分だった「チクロ」もすっかり消えて、記憶しているひとの年齢がしれる名詞だから、なんだか楽しくなるのである。
いまは、だいたい55歳以上の秘密の言葉ではないか?

小学生も高学年になれば、新聞を読めるようになるから、「チクロ」が禁止になるとしって、同級生たちと「いましかない」ということで、駄菓子屋にいっては、「チクロちょうだい」といっていた。

どういうわけか、わが家の近所の公園前駄菓子屋の婆さんは、両こめかみにいつも梅干しを貼りつけて、肩にはトクホンを貼っていた。
それで、「うちにはチクロなんてないよ」といいかえすのが、どうにもおもしろかったのである。

学校帰りにその「毒」を毎日のように食べまくった世代が、どっこい、いまでも生きていることの痛快がある。
けれども、たいがいの駄菓子は、どぎつく人工着色されていたので、甘さよりも口のまわりや舌の色の不自然を気持ち悪いと互いに指さして笑っていた。

これらが「禁止」になったのは納得したのだった。

砂糖の代わりになるという「シュガー・カット」がでてきたときに、禁止になった「チクロ」とどこがちがうものかとおもったのものだ。
なので、わたしは飲み物にああしたものは使わない。

あの、直線的な甘さ。
これぞ、「チクロ」だ。
他の人工甘味料の、まとわりつくような邪味はいっさいない。
とにかく、ストレートに甘さだけが即効でやってくるのだ。

もう決して味わえないかとおもうと、なんだか愉快になってしまう。

めったにいかない場所ではあるが、四谷にいけば、ぜったいに「たい焼き」を買わないでは気がすまない。
あのしょっぱい甘さが、やっぱりたまらない。

人工的な開発をした街に住んでいると、昔の街にある当たり前が、うれしいニュースになるのである。
小さな商売をしていても暮らせる。
じつは、これがいちばんなのである。

だから、知らない街のふつうを探すのである。

それは、かならずその街のひとたちを幸せにしているから、明るい発見になる。

すると、あんがい和菓子屋さんが目印になっている。
『男はつらいよ』の舞台となった、おいちゃんの店も団子屋だったのは、広い意味で和菓子屋だ。
1個でもお茶と一緒に一服できた店は、どこにでもあったものだ。

ああ、おいしいお茶を大好きな「黄身時雨」で飲みたくなった。

大荒れの「七草」

毎年思うのは、七草の「はやさ」である。
大晦日から元旦・お正月三が日が、あっという間に過ぎ去ったことを確認するからである。
でも今日は、旧暦では11月24日で、今年は2月12日が元旦、なので、七草は2月18日になる。

つまるところ、明治5年以前の日本人は、まだ正月どころか師走すら迎えていない時分なのである。
自然に生えるはずがないから、温室育ちの七草で粥をつくることになったのだ。

ところが、2月18日前には自然に生える時期になるけど、こんどは、「七草」を手に入れられない。
野菜コーナーは完全無視してしまうし、わざわざ田園に出ても、他人の田畑で勝手に摘みとることもできない。

そんなわけで、いかに伝統的風習だといっても、「自然」との「共生」とは、とっくに人工的になっている。
「旧暦」を利用した、日本旅館がもっとあっていい、というのはこんなところに日本人を「偲べる」からである。

商品としての「七草」をセットで装飾するから、店頭に配置されるわずかばかりの「野菜」が、妙に高価になっている。
だからきっと、これを見て「あゝ、もう七草か」とは思うけど、買わない家庭も多かろう。

なんだか「うさんくさい」からである。
じっさいに七草粥を食べたことがある日本人の方が、少ないのではないか?
と思うのは、以上の理由による。

新年早々の「うさんくささ」は、なんといっても二度目の緊急事態宣言だ。
タイミング的には、遅きに失している感があるけれど、昨日6日のユーチューブ『松田政策研究所』における、主宰者の松田学元衆議院議員と、あの大橋眞徳島大学医学部名誉教授(細菌生物学)の対談が配信されている。

コメント欄にも見られる、「真打ち登場」なのだ。

大橋名誉教授は、ご自身でもユーチューブ番組を配信されていて、一般人にもわかりやすい、細菌生物学者としての「授業」をしている。
しかし、世の中には困ったひとがたくさんいて、「バッシング」に執念を燃やすのを使命にしているようだ。

これが、「活動」やらになり、国立大学法人である徳島大学への攻撃となった。
「名誉教授」の剥奪をせよという要求に、大学はHPで「本学とは関係ない人物」と応じているから驚いた。

上述の対談でも紹介された下記の書籍は、ドイツの事例を紹介したもので、納得できない市民が多数、ベルリンで大規模デモを実行し、一部が暴徒化した事件のきっかけになったという、「ベストセラー」の翻訳なのだ。

一般人はもとより、緊急事態宣言で商売や生活を痛めつけられることになる、「業界人」こそが読むべきだ。

ここには、ドイツ政府による、国民を「恐怖であおる」政策として、会議室での実態も暴露されている。
指示内容が、もしやわが国でも当てはまらないか?と思わせるのは、「政府依存」という両国民の特性が、かつての「同盟国」だったことを示唆するからである。

かつて、ドイツの医学が世界最高といわれ、日本の医師もカルテにドイツ語で書いていたのは、森鴎外を代表にする陸軍省と旧制東京大学が、ドイツ医学を「採用」したからであった。
陸軍に対抗した海軍は、これを拒否して、英国の「臨床医学」を採用した。

「病原解明」にこだわるドイツ医学と、いまそこにある病人を治すことにこだわる英国臨床医学の対立は、いまもわが国の「白い巨塔」の伝統になって、医系学閥を形成している。

 

EUの中核をなすドイツと、EUを完全離脱した英国のどちらも、パンデミックの対処に苦慮しているのは、この「病気」の根本的認識のうさんくささを、ねじれた政府が利用している共通点があるからだ。
さいしょからねじれた発想をするフランスは、戒厳令手前の強制を強行して恥じないのは、フランス革命を正当だと信じる若き大統領の本分である。

根無し草になったわが国政府=政権は、ただの浮き草だから、いまだに「ヨーロッパ先進国」に右へならえして、やっている感だけでアリバイ作りをしているとは、何度も書いた。

本来ならいつも通り、アメリカにならえするはずなのにしないのは、全米で半数以上になる共和党の州が「一切強制をしない」からである。
ただし、都市部が主体の民主党の州は、最高裁から違憲判決をくらうレベルの「強制」と「分離」を実行している過激があるから、リスクを回避して欧州をまねるのだろう。

全世界が感染した、「PCR検査陽性=感染者」という発想が、いまや都知事は「感染者=患者」と定義を勝手に変更している。
医師でも、感染学者でもない、むしろ学歴詐称がうたがわれるひとが、どうしてこんな重要な「定義変更」をしても、だれも文句をいわないのか?

その定義変更に中央政府が乗りかけるのは、まさか犬の「マウント行動」とおなじか?

こういうものを「エビデンス」というのである。

ワシントンの混乱で、香港の民主派が大量逮捕された。
人間のこころにある「ウィルス」は、時空を飛ぶことを証明したのである。

歴史的な、大荒れの七草となった。

本物の「護憲」のすさまじさ

憲法を護る。

立憲主義の基本中の基本だ。
しかし、明文憲法があってもこれを護り、守る気がなければ、なんにもならないのは、しょせん「紙に書いてあるもの」だからである。

『その時歴史が動いた』というテレビ番組があった。
この、『人類の星の時間』とは、意訳すればテレビ番組のタイトルにひとしい。
すなわち、もとのアイデアはツヴァイクにある。

この本のなかにある、「エルドラードの発見」こそ、アメリカ合衆国にあって、憲法を護ることも、守る気もなかった悲劇の瞬間を描いている。
だから、「護憲」をいうひとこそ、一読すべきものだ。

そして、舞台となったカリフォルニア州(実際は「サンフランシスコ」)が、いまだに「ブルー・ステート(民主党=憲法を軽視する党が支配する州)」であることの根拠に気づくであろう。

今回のアメリカ大統領選挙で、さっさとバイデン氏に決めたカリフォルニア州は話題が乏しいけど、しっかり州内全部の投票用紙が偽造品だったことがバレている。
これを「放置」したままで、州の選挙人確定としたから、「やっぱり感」がたっぷりあるのだ。

そのカリフォルニア州は、世界6位のGDPだ。
4位ドイツ、5位英国に次ぐ。
アメリカが分裂するなら、まっ先に独立できる実力は、この州になるといえるのは、経済力よりも合衆国憲法を護って守る気が薄いからである。

お気づきのように、「護って守る」としつこく書くのは、「護る」ことと「守る」ことを区別したいからである。
何度も書くが、近代民主主義の憲法とは、国民から国家・政府への命令書のことである。だから、民主主義国家では、「最高法規」なのだ。

つまり必然的に、国民自身が、自分たちが命令したことを「護る」気がないといけない。
次に、憲法が「法」として、「守る」べきひとたちは、軍もふくめたすべての公務員になる。

護るひとと、守るひとの、主語がちがうのである。
国民が「護る」とは、国民が国家や政府に、「守らせる」という意味である。
なぜなら、国家権力はかならず肥大化し、国民をいじめるようになるからである。

だから、アメリカ合衆国憲法修正第2条には、憲法を守らない政府を、国民が銃を持って転覆させていい、と書いてあるのだ。
国民からすれば、そんな政府を転覆させることは、はじめから予定された、「権利」なのである。

日本における、「抗議デモ」ではない。

その「権利行使」が、はじまった。
トランプ大統領が呼びかけた、ワシントンD.C.における大規模集会は、当初予想をこえて、空前の200万人規模にふくらみそうな勢いだ。
すでに首都に向かう道路は片側8車線あっても、各地で大渋滞をおこしている。

民主主義国家を土台で支える、選挙、を穢したひとたちに対する国民の怒りが、ちゃんと行動になっているのだ。
すなわち、完全なる憲法違反を絶対に許さない、という民意である。

大統領が用意した「会場」は、主に3カ所。
ここを彼は演説して回るという。
そして、なによりもメインとなる会場は、連邦議事堂と連邦最高裁がある、「丘」なのだ。

ここを、200万人が取り囲む。

いまどき珍しい、「大スペクタクル」が現実となる。
さらに、トランプ氏の選挙演説会場では、すっかりおなじみになった、大画面のモニターも各所に設置されて、未発表の「証拠」を披露する手はずにもなっている。

おそらく、誰もが「唖然とする」ような証拠のはずだ。

すでに憶測を呼んでいて、物品の「証拠」ではなくて、人間の「証人」ではないか?という「期待」も高まっている。
たとえば、解任された大物。
・ウィリアム・バー司法長官
・ジーナ・ハスペルCIA長官 とかの「生出演」。

さては、「人類の星の時間」を目撃することになる。
結果は明らかだけど、この「衝撃波」はどのように地球を覆うのか?

当日、連邦議会では、上・下院合同で選挙人投票の開票が行われる。
これが、通常の「連邦選挙法」による、とかんがえるひとたちがまだいるから不思議だ。
議事堂の周辺がどうなっているのか?

登院する議員たちは、議事堂内に住んでいるなら別だけど、議事堂のはるか手前から、大群衆を目の当たりにすることになる。
大群衆の集合した目的に沿っている思考をする議員には、納得と力を得るのは当然だし、そうでない議員たちには、恐怖すらあたえるはずだ。

この「恐怖」とは、「脅迫」の結果ではない。
自分の心の内にある「邪心」が、勝手に恐怖を呼ぶのである。
それが、まともな人間の精神にある、まともな神経反応なのである。
だから、まともではない人間には通じない。

通じるか通じないか?
このことすら、まともな群衆には、判断基準をあたえることになる。
次の選挙は、2年後の中間選挙だけど、まともでないひとたちの大量落選を、群衆はその心に誓うのである。

間もなく、人類史に刻まれる、アメリカ建国以来最大の「反革命革命」がはじまる。

これぞ、「緊急事態」なのだ。

二度目の緊急事態に思うこと

日本人は宗教を、現代医療的な視点で感じる傾向を持つ民族だ。

これが、「世界的に珍しい」から、日本文化が世界の中で突出するとみられることの原因ではないか?と指摘したのは、『逆説の日本史』シリーズの井沢元彦氏である。

 

「現代医療的」というのは、祈祷が病気治癒に「効く」か「効かない」かで、その「宗教の有用性」を判断することをいう。
その原点にある思想が、「穢(けが)れ」であり、「怨霊(おんりょう)」から逃れるための、「禊(みそ)ぎ」だという。

そしてこれらを取り持つのが、「言霊(ことだま)」信仰なのであると前に書いた。

だから、日本のオリジナル宗教は、神道「ではない」のだ。
もっといえば、神社=神道ではないということだ。
むしろ、目に見えない、言霊信仰にこそ原点がある「神秘の感情」だとかんがえた方が「合理的」なのだ。

よって、外国から輸入した宗教が、これらをベースにふるいに掛けられる。
仏教も、儒教も、道教も、キリスト教も、ぜんぶ、「穢れ」を払って、「怨霊」を退治し、自らの清浄化で潔白にする「禊ぎ」に効くか効かないか?が採用の判断基準になるのである。

つまり、日本人は外来宗教を「機能」としてみていた。
これは、宗教心がないからではなくて、深層の奥深くに、「神秘」の言霊を基盤とした他民族に類をみない「弱い」宗教心があることを意味する。

このときの「弱さ」とは、現代物理学でいう「弱い力」のイメージと合致していることに注意がいる。
原子が原子のままでいるのは、原子核をとりまく「電子雲」のおかげであって、原子核(+電荷)が電子雲(-電荷)とバランスする力を「弱い力」というのだ。

もしも、原子が勝手にばらけたら、われわれの肉体もなにもかも、すべての物質は雲散霧消する。
これを原子1個1個のレベルで阻止しているから、「弱い力」というだけだ。

そして、原子を無理やり分裂させるには、強大なエネルギーを外から与えないといけない。
この典型が、原子爆弾(このとき発散されるエネルギーを「強い力」という)だから、「弱い力」を「弱さ」でもってバカにできない。

すると、上述の「弱い」宗教心がなくなったら、日本人は日本人でなくなって雲散霧消することになるのだ。
じつは、日本人とは心の奥底に、「原始」ではなくて、「原子」の物理的特性をもった、稀有な民族なのである。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」は、孫子の兵法の重要な一節だ。
日本人は、古代中国語という外国語を、そのまま「読み下す」という、荒技を開発して自国語にしてしまった。
途中翻訳を必要としない画期がここにある。

しかし、外国人には日本語習得は困難だということが、「できっこない」に変容したので、この言葉を外国人が知っているとはかんがえなかった。
英語では、「If you know your enemy and you know yourself, there is no danger of a hundred battles」という。

しかも、戦争中に「敵性語」として、外国語の使用を禁じる、という愚挙がまかり通ったのは、孫子を暗誦していても、「門前の小僧習わぬ経を読む」がごとく、意味を解しなかったのだ。
よくもこんな国を、「軍国主義」といえたものだ。

軍国主義は、戦争における絶対的勝利なくして存在できない「主義」だから、孫子を無視する態度を当然とした国を軍国主義というのは、論理矛盾もはなはだしい。

この意味で、民主党政権のアメリカ合衆国は、まごうことなき「軍国主義」である。
そんなわけで、戦争前から、「仮想敵国」としての日本研究に力を注いだ。
その成果が、たとえば帰化した、コロンビア大学のドナルド・キーン氏の存在だ。

このひとの素晴らしい研究成果は、その前の世代の日本文化研究を土台にしている。
それこそが、「孫子の兵法」を真剣にやった、アメリカ合衆国の「軍国主義」の成果なのである。

そして、それが、そのまま占領政策の基礎になったのだ。

すなわち、千載一遇の日本人の弱体化戦略である。
そこで、日本人の稀有な宗教心を攻撃する、「無宗教化」作戦を用意周到に実施した。
「弱い力」の中心核にある「日本教=天皇」に、人間宣言をさせたのだった。

独立しても、こうした占領政策を引き継いで「自粛」したのが自民党であったし、NHKだった。
もちろん、官僚もこれに加わるのは、東京大学を「曲学阿世」そのものの占領政策の思想で染めあげて、これを、「東大神話」というオブラートに包んでいまにいたっている。

大統領選挙の混乱の合間、1984年に放送された人気ドラマ、『オレゴンから愛』で日本人には好印象が刻印されたけれど、そのオレゴン州で、元旦に民主党知事の自宅が怒った群衆に包囲された。
じつは、昨年暮れには、武装した民衆がオレゴン州議会を包囲して警察と対峙している。

ことの発端は、昨年11月に州知事が出した声明にある。
それは、「感謝祭のお祝いで近隣者がパーティーなどを開いたら、警察に通報すべき」、といったことにある。
つまり、コロナを材料にした、信仰の自由への妨害と密告奨励だ。

人間にとっての自由の最深部は、信仰心であって、なにを信じるかの自由の保障こそが核心なのである。

これで、すさまじいリコール運動となっているのだ。
ニューヨーク州では、教会で密集するのを禁じた州政府に、宗教弾圧として憲法違反を告げたのは州最高裁判所だった。
コロナ感染よりも、はるかに信仰の自由を保障することが優先なのである。

さて、日本では、昨年から夏や秋の祭礼も、年末からの初詣と新年のさまざまな伝統行事があいついで「中止」となっている。
しかし、日本人の心の最深部にある「信仰の自由=神秘への畏敬」が失われたことへの反発すら、もはやだれも感じない国民になったのである。

神社仏閣が、率先して無意味な感染症対策をやっている。
神前でもマスク着用とは、脱帽のマナーを失わせ、手袋をしたままの柏手と同様に、手水場の水を止めてアルコール噴霧器を置いたり、鈴や鐘を鳴らさせないのではなく、綱に触らせない。

宗教者自身の信仰心が、エビデンス無き対策に負けているのである。

自粛を強制させて「自粛」ということに、最高裁は無反応だということも知っておくべきことではあるが、日本の場合は優先事項がちがうのである。

「緊急事態宣言」を知事たちが求めるのは、彼らの権力志向だけが理由であって、国民や住民をけっして考慮しているものではない。
この宣言の法的意味は、中央政府=首相権限を知事に委譲することだ。
昨年の宣言では、解除になっても委譲された権限を返上する知事はいなかった。

そんな状態なのに、なにがしたいのか?
やった感をアピールするだけの、飲食店つぶしが「合法化」され、個人の行動の自由をなくしてその権力に陶酔したいだけではないか。

むしろ、コロナは祈祷の効果のごとく、インフルエンザをはじめとした感染症を「激減」させた、「よきもの」である。
「よきもの」を、まるで「敵性語」のように、「あしきもの」として逆転しておそれるのは、つまるところ、われわれは「無宗教=共産化」されてしまったということだ。

そして、コロナが為政者たちの「おもちゃ」になったのである。

「部活」がない国

どちらが教育的なのか?
少なくとも、「二択」にしないで、「中庸」はないものか?ともおもう。
日本の常識が、世界の非常識なことがあっても、それはすぐさま卑下することなのか微妙なことだってある。

中学校にあがれば、何部に入部するのか?が真っ先にやってくる選択肢だ。
運動部と文化部があるけれど、むかしは総じて運動部に人気があった。
それでまた、個人競技か団体競技かに選択が分かれるものだ。
はるかむかし、父から団体競技を勧められて、バスケットボール部に入部した。

高校に上がれば、またおなじような選択肢がやってきて、こんどは「帰宅部」というやる気のない選択も加わる。
ただし、情報がある生徒には、中学や高校自体の選択に、「部活」が優先されることがあって、やりたい部にいきたいために学校を選択するという順もある。

こうした、「看板」が「部活」にあると、その競技なりの専門性と伝統とで、「名門」といういい方をされるようになるから、学校を運営する「おとなの事情」と絡み合って、無視できない「学校ブランド」となる。
いわば、全国大会の常連かつ、常勝ということがこれを裏付けるのだ。

すると、学校生活における配分が、「部活中心」となるのは否めない。
したがって、学業とのバランスをどうするのか?という問題になる。
しかし、本人も、また保護者(むかしは「父兄」といった)も、期待しているのは「部活」での実績となることがあるので、「二兎を追う者は一兎をも得ず」の原則としての割り切りも必要となる。

課外授業とはいえなくなるのは、こんなところに日本人の「真面目さ」がでるのである。
そして、これが、「教諭」たちの過労問題として話題になっている。

つまり、「教育問題」という範疇に、「労務問題」が含まれるということで、じつに「戦後」らしい問題が、ずいぶんな時間差でやってきたようにもみえる。

ここで、重要な指摘をしたいのは、「常勝の部活」には、かならず「優秀な指導者」が存在することである。

では、優秀な指導者の「優秀さ」とはなにか?
「指導者」とは、リーダーのことだ。
けれども、中学・高校の「部活」では、唯一の「おとな」を指す。
年長の学年にだって、生徒のなかに「リーダー」は生まれるのだ。

わたしは、完成されたおとな、だと定義したい。
前に、高校生のマーチングバンドの話を書いた。
チーム内に、すばらしいリーダーが生まれて、生徒たちを引っぱる。
これを、「おとな」の指導者が、遠目でちゃんとみているのである。

「中高一貫校」にだって、メリットとデメリットはあるだろう。
6年間をおなじメンバー構成の中で生活しないといけない。
ふつうなら、3年ごとに「卒業」して、あたらしいメンバー構成のなかでの生活になる。

生徒は全員が「10代」なので、1年の学年のちがいは人生の1割に近似するから、学年差が「絶対支配」となる傾向があるのは当然である。
すると、高校3年生から中学1年生を眺めれば、まったくの子どもにみえるだろうし、その逆は、汎用的な言葉遣いすら通じないかもしれない。

だから、「完成されたおとな」の「絶対」は、生徒から学年をとっぱらって水平化したうえでの「絶対」となる。
これは、明治(1868年)から昭和の敗戦(1945年)までの77年間、わが国に君臨した、「天皇」とおなじ構造なのだ。

当時だって、「現人神(あらひとがみ)」という「虚構」を、しらないひとはいない。
子どもだって、人間だというくらいはしっていた。

これをしっていながら、天皇を「現人神」をもって批判するのは、日本人ではないのだけれども、日本人ではない日本人が、GHQにおもねって、「おかしい制度」だと大声をあげても、支配者のGHQはこれを叱ることはなかった。

内心は、いかに下劣かとおもっても、一切顔に出さないのが支配者というものだ。

アメリカに、キリスト教の信仰があるように、日本にも天皇への信仰(これを「日本教」という)がなければならない。
しかし、戦後最大の侮蔑的政策が、「天皇の人間宣言」だった。
かくも、日本人を虫けら同然としたのは、種類の違う原爆を二発も投じた、アメリカ民主党政権である。

「札幌学派」を主宰する安濃豊氏は、ナチスが禁止されて何故アメリカ民主党が禁止されないのか?と、きわめて当然な主張をされている。

さて、英国の学校での課外授業に、ミリタリースカウトがあると書いた
ならば、「部活」はどうか?
なんと、日本的専門分野に特化する「部活」は存在しない。

若いうちは「広く浅く」。
なんでも経験することを優先させるから、「専門特化」はありえない。

「グランドツアー」の伝統でもあるのだろう。
貴族の子弟がローマへの物見遊山旅行した習慣が、大卒就職者たちの入社を数年間猶予する国柄だ。

わが国で、専門特化してはばからず、より先鋭化するのは、もしや、「天皇信仰」を失った反動なのやもしれぬ。
そうでもしないと、精神的にも肉体的にも安定しない。

すると、日本教の復活が、学校教師の過労を救うのである。
そして、日本教を理解していた年齢層が財界人だった頃の絶頂が、どうしてここまで衰退したかの理由も判明する。

なるほど。
天皇、おそるべし。

トランプ「三選」は正夢か?

合衆国憲法の擁護者を自称するトランプ氏のことだから、誰もが「三選」はないとおもっているはずである。
その前に、まだ「二期目当選」を果たしていないから、新年早々の世迷い言に聞こえるかもしれない。

しかし、現地では6日、日本では七草か翌8日には、何らかの決定があると予想されている。
もちろん、今月20日正午の大統領就任式までには動きがあるのは確実だ。
もはや実態として、トランプ氏の再選は決まっていると思われるので、バイデン氏の「敗北宣言」が先に発表されるかもしれない。

昨年末、トランプ氏は「コロナ対策予算案」に、条件付きで署名した。
国民ひとり600ドルの給付金を2000ドルにする条件のほかに、いくつかの条件をつけ、これを下院民主党のペロシ議長が呑み込んで、再決議したというけど、条件全部を呑んだわけではない。

それで、下院を通過したこの案に、上院の共和党院内総務が待ったをかけた。
彼は、バイデン氏に祝意を送ったことで、家族の背景からあちらの国との疑惑が吹き出した人物だ。

待ったの内容は?といえば、なんと、トランプ氏のいう条件をぜんぶ呑み込む案への修正要求なのである。
これには、TEC企業への優遇措置としてしられる、通信品位法230条の撤廃問題が含まれている。

一体全体、この手のひら返しの意味は?
すでに、トランプ大統領側との、「司法取引」の噂が広がっている。
加えて、ホワイトハウスは、暮れにいったん1月4日までの「引っ越し」の準備と1月の給与は日割りだと内勤者に発したが、その翌日に「全面撤回」して年を越している。

大統領選挙における介入の証拠が相次いで発覚したアジアの大国では、これだけでも頭痛の種だが、この「予算案」には別の法案も忍ばせてある。
チベットのダライラマ選定へのあちら政府の不介入と、台湾への武器売却通常化に関する法案で、さらにチベットの首都ラサに領事館設立を法で要求している。

なんだかもう、あちらの足元を見据えたかのような一方的な「法案」なのだ。
もちろん、「内政干渉」だというお決まりの反応があるけれど、その国のトップが脳動脈瘤で入院という情報もはいってきた。
よほどの頭痛が発症させたのか?

しかも、入院前にはロシアの大統領と電話会談したとか、入院中の対策室設置の話には、政治局常任委員がひとりも関与しないで、党序列も知れぬ本人の弟が任命されているなどの不思議情報がある。

もしや、すでに「失脚」したやもしれぬ。

党の命運をかけた、アメリカ大統領選挙介入という一大作戦の失敗の責任をとらされたとすれば、辻褄があう。
すると、とんでもない権力闘争が、彼の国ではじまったということだ。
東京での年越しのジルベスター・コンサートが『運命』だったのは偶然か?

一方の首都ワシントンD.C.は、トランプ大統領が初めて自ら発起して、新年6日午前、上下両院合同議会での選挙人投票の開票前に、大規模集会を実施することになっている。
すでに、150万人という「推定」が出ていて、史上空前の規模となる。

トランプ陣営のHPには、集会参加者のための「連絡掲示板」に多数が投稿している。
一緒に車に乗るひとの募集や、ガソリン代支援の申し出、あるいは、自州からのパレード出発情報などなど。
はやくもニューヨークに、支持者たちの車が集結しているともいう。

ワシントンD.C.には、こんな多数が泊まれるホテルはない。
周辺の州の宿泊施設は、さぞや大賑わいかと思いきや、民主党政権の州ばかりで、みごとな「妨害」を州政府がやっている。
レストランさえ店舗営業させないということだから、ホットドッグ屋台が繰り出して一儲けするチャンスと見るのがアメリカ人だ。
古今東西、左派政権というモノが民衆の味方ではなく、弾圧をするモノだという証拠が、ここにもある。

ライブ放送は「必見」なのだけれど、わが国のマスコミは、いつものように無視するのか?それとも手のひら返しをするのか?
150万人を前にして、「千人以上」とか「1万人以上」と特派員が現地報道するのか?が目撃できる楽しみがある。
群衆の映像に無言で通す「案」もあるだろうから、エンタメと化している。

日本国憲法にはない条項がアメリカ合衆国憲法にはあって、政府がおかしなことをしでかしたら、国民が銃をとって、そんな政府を転覆させてよいことになっている。(修正第2条)
わが国のちっとも進まない、憲法改正論議に、だれもかんがえたことがない条項があるのだ。

そんなわけで、トランプ政権は二期目も続くことが「正義」になっている。

どういうわけか、年末のBSプレミアムで、『ゴッドファーザー』三部作を28日から連夜で30日まで放送した。
これからはじまる、「ワシントンの沼の水抜き作戦」を暗示して、NHK的面目を保ったのか?と疑う。

反トランプの急先鋒、CNNでさえ、「今年最も尊敬された男性」のトップにトランプ氏を挙げて、妙な雰囲気をつくりだしている。
彼らはこれまで、オバマ氏を連続選出しているのだ。
8000万票を自称するバイデン氏が、3位に挙がったのはご愛敬か?
すでに、トランプ氏はリンカーン大統領をしのぐ「偉大な大統領」といういわれ方をしだした。

ならば、「三期目」はあるのか?

前にも書いたが、フランクリン・ルーズヴェルト政権は、やたら長かった。
空前絶後の「4期」もやって、任期中に死去して副大統領から昇格したトルーマンは、再選してもう1期を務めた。
とはいえ、戦後の1947年に可決して、51年に成立した、『憲法修正第22条』で、大統領の任期は2期までとなったのだった。

つまり、この憲法修正条項は、トルーマン政権下にあって可決・発効したのである。
それまでも、2期とされていたのは、初代ジョージ・ワシントンが、3期目を固辞したことによる。

この不文律を、戦争を名目に伸ばしたのがルーズヴェルトだった。
いまでは、「狂人」という評価が定着しつつある。
だが、むしろ、スターリンと手を組んだ、悪魔的な戦略家なのであった。

もう1期4年で、「ワシントンの沼」を掃除できても、宿敵の「党」を壊滅させることができるのか?
もしや「三選」というのは、アメリカ人はもとより、我々にとっての重大な「正夢」なのである。

もう「大本営発表」を笑えない

「エビデンス」という言葉を口にしても、「エビデンス」という言葉の意味をしらないか、無視して、あたかもそれっぽく語るのは、「詐欺」である。
むかしから、詐欺師は「かっこいい」姿をしているもので、これも詐欺の道具立てに欠かせない。

年が明けて、感染症が「流行りだして」もうすぐ1年になる。
ところが、いつまで経っても、肝心な情報が提供されない不思議がある。
それは、この「病気」の「実態」についての、「国内データ」のことだ。

なにしろ、これまでとちがって、「無症状」でも「検査陽性」なら、「患者」扱いされる、「初めて」が起きたのだ。
ふつうに「おかしい」とおもうのは、無症状なのに医者にいって、風邪薬を処方してもらうことが、「ふつう」になったことに、だれも「おかしい」と思わなくなったことである。

とくに、テレビを観ているひとに、顕著にみられる現象だから、一部でこれを「テレビ・ウィルス」といっているのは、冗談ではない。
このウィルスは、人間の「脳を冒す」からである。

それで、昨年の師走あたりから、急速にテレビ離れがはじまったのか、ネットの情報番組の視聴回数が爆発的に増加しだした。
「第三波」とかと大騒ぎしているのを、やっぱり、「おかしい」と感じるまともなひとがまだたくさんいるのだ。

そんなわけで、元旦に新春特別番組として、『武田邦彦の「ホント」の話』が配信されている。
現役の医師をゲストに対談をしているので、ご覧になるといいだろう。
このなかで、医師も「困った」という「無い」データとは、以下の4点である。

・PCR陽性者の有病率
・無症状PCR陽性者の経過観察後の発症率
・重症者の転帰(病気進行後の状態)、後遺症率
・クラスター認定の集団の中の有病率

報道されないとは知っていたが、まさか現場の医師にも情報提供されていないとは、いったいどういうことか?
保健所や厚労省などが、これらデータを把握していないはずがない。

すなわち、人為的にわざと、秘匿していることになる。
すると、政府の専門家会議の専門家は、これらの「極秘データ」にアクセスできるのか否か?

もし、アクセスできるのなら、どうして「発表せよ」と専門家として進言しないのか?
旅行に行くか行かないかを進言するより、よほど重要なことである。

もし、これら専門家会議の専門家も、データ秘匿をされたままで議論しているというなら、専門家としての判断など、できっこない。
だから、旅行に行くか行かないかを進言するしかなく、議事録も「ない」のはそういうことか?

上記4点のデータは、なにも専門家でなくても、一般人だって知りたいものばかりだ。
とくに、無症状PCR陽性者の経過観察後の発症率は、重要なデータだ。
2週間も隔離されて、まさかほとんどが発症しないとなれば、はなしが違うことになる。

また、クラスター認定の集団の中の有病率は、症状のある人が何人そこにいたか?ということだから、これがはっきりしてくれば、飲食店などの通り一遍な営業自粛も、不要になるかもしれない。
まさに、店と従業員にとっては、死活問題のキーとなる情報だ。

すると、とかく営業自粛をさせたがる「首長」も、もしやこれらのデータを知らずに「エビデンス」を語っている可能性がある。
ひとりぐらい、「データを発表する」といいだしたっていい。
それが、誰もいないのは、やっぱり秘匿されたデータにアクセスできないからではないのか?

だとすれば、負けを勝ったといった「大本営発表」を、われわれはもう笑えない。
もっとひどい情報統制をやられていることになる。
その統制のお先棒を、マスコミがやっているから始末が悪い。

アメリカでは、疾病予防管理センター(CDC)のHPで、年間死者数の統計が発表された。

2015年:2,712千人
2016年:2,744千人
2017年:2,814千人
2018年:2,839千人
2019年:2,855千人
2020年:2,819千人

17年、18年、19年と比較してみれば、なんと、18年、19年よりも「少ない」のであって、大きな変化があるのでもない。
こうしたデータをみれば、どこが「パンデミック」なのか?という疑問と議論が、アメリカでも起きはじめたのは当然で、小学生にもわかることだ。

はたして、わが国の人口統計では、どんな数字が発表されるのか?
まさか、どこかの国のように、基本統計を改竄することはしないとおもうが、最近は政府統計の間違いを放置していたことが発覚もしたので、信用できるか?

ひとびとの判断をうながす基本的なデータを秘匿するのは、全体主義・専制国家のやる常套手段である。

わが国は、専制国家になっている。

スターリンや毛沢東は、自国でもっともか弱い農民を「粛正」したけれど、21世紀のわが国では人的サービス業がその対象に選ばれた。
しかも、粛正される側が、真顔で粛正するひとたちをこぞって選挙で投票するのだから、より一層「みじめさ」をかもし出すのである。

都知事が緊急事態宣言を要請したというのには、こんな意味がある。

正月から、気が滅入るけど、変えるべきことがはっきりしたのは、よきことである。

【2021年頭】道徳と倫理を問う年に

謹賀新年

今年は、いつになく「道徳」と「倫理」を問う年にしたい。

じつは、「倫理」と「道徳」にはちがいがある。
「倫」には、「人の道」という意味があるから、道徳の「道」でつながる。
それで、ちがいがあることをうっかり忘れてしまう。

「道徳:moral(モラル)」は、善悪をわきまえるために、守るべき規範のこと。
「倫理:ethics(エシックス)」は、生きていく上で、人として守るべき道のこと。

だから、道徳は広く社会的であるから、義務教育のなかで教えられていた。
ほんとうは、子ども相手だから「修身」の方が正しいとおもうけど。
一方、高等学校では、「倫理社会」がある。
「倫理」は、道徳に対して外向きで、特定組織内とかが対象になる。

つまり、道徳は個人の「内的な自発性」を重視するのに対して、倫理は「客観性」を重視するのである。
よって、「交通道徳」とはいっても、「企業道徳」とはいわず、「企業倫理」というのである。

また、「倫理」は、守らないと「罪」に問われるのは、客観性があるからだ。その典型が、「政治倫理」である。
だから、いわゆる「ブラック企業」も、「企業倫理」が問われて、一歩まちがうと社会的制裁を受けることになる。

道徳は、人間内面のモラルだから、ここには「善」と「悪」、「正」と「邪」を自分で認識できることが重要だ。
一方で、倫理は、倫理観というように、個人でも他人に発信することを意味している。

今年が、これら二つを問う年になるのは、人類社会に重大な影響を与える、二つの勢力が、「対決」を露わにする年になるからである。

すでに、昨年からのアメリカ合衆国大統領選挙における混沌が、だんだん霧が晴れるように見えてきた。
日本における七草(アメリカの6日)に、首都ワシントンにおける決定的な動きがあるのは、昨年末から書いてきたことだ。

対峙する側は、今年「結党100周年」という節目をむかえる。
まさに、正と邪の双方で、大イベントが予定されている。

こうした、一見、個人ではどうにもならないようなことでも、第一に「道徳」で、第二に「倫理」をもってあたれば、おのずと答はみえてくるものだ。
個人が参加する、企業には、「企業倫理」としての責任が問われる年になるということでもある。

すなわち、人権を蹂躙する行為に、企業として加担していないか?
たとえば、昨年は「ナイキ」や「アディダス」の靴が、これに触れて、倫理観の強いひとたちから不買運動を受けている。

「SDGs」に道徳も倫理もないと、わたしが批判するのはこのことだ。
むしろ、人々の道徳と倫理を悪用しようという魂胆が、より一層、邪悪なのだと確信させるのである。

そんなわけで、さまざまな観点から、「道徳」と「倫理」が問われる年になる。
だから、自分から、「道徳」と「倫理」を問う年にしないと、翻弄されることになるだろう。

すでに、コロナの政治利用で、わが国も「政治倫理」が狂ってしまい、煽るマスコミはさらにあおり続けているではないか。
つまり、もはや道徳までも壊れだしたのである。

気を確かに!

正月・元旦に、あらためて思うのである。