カエルに回帰する人間たち

生物進化の過程で、海(水中)から陸に棲家を増やそうとして出てきたのが、両生類であった。
もちろん、その前には、海水から淡水(河川)への適応という「画期」があった。
「浸透圧」がぜんぜんちがうからである。
鮭にしろ鰻にしろ、川と海を行き来するのは、とんでもない「身体能力」だといえる。

むかしは都会でも、ちょっとした植え込みとかには「アマガエル」がいて、梅雨時の雨降りの日は紫陽花の葉の上でじっとしていたものである。
トノサマガエルは、やっぱり珍しかったけど、見つけると男子たちには大興奮の材料になった。
それで、残酷なことが大好きな子供たちは、いろんな「実験」をやったのである。

当時のおとなならみんな喫煙者だったので、家にはタバコがあった。
それを一本失敬してカエルに咥えさせると、「吸う」ばかりで「吐く」ことをしない。
お腹がどんどん膨らんで、とうとうパンクして白い煙が立ち上がるのを、期待しながらじっと見ている。

「命は大切だからやめなさい」とか「かわいそう」という不粋なおとなもいなかった。
そこまで考えていたのかとは思うけど、あんがいと冷静で、「子供時代にどれほど生き物を殺したか」で、正気のおとなになることを知っていたのではないか?
なぜなら、子供は「痛み」を知らないからである。
他人の「痛み」を意識できるようになることを「成長」というのは、植物にせよ動物にせよ、これを食さないと生きていけないからでもある。

つまり、食べるために「殺す」ことを日常的にしているものを、どういうわけか「死とは関係ない」ことが、スマートな暮らしになって、とうとう「偽善」が横行してそれが「善」になってしまったのである。

これを、「きれいごと」といって、むかしは「蔑んだもの」だけど、いまは「きれいごと」をいわないと蔑まされるようになったのである。
「 S D G s」も「脱炭素」も、なぜかL G B Tと対立する「フェミニスト」も、同じ穴のムジナである。

このことは、「お笑い」にも現れて、さいきんの芸人に「芸がない」のではなくて、「毒」がなくなったのである。
よほどのことは許された、ヨーロッパ中世の「道化(宮廷道化師)」が、絶対君主を相手にも「本音」という「毒」を吐けたのは、君主の「気量」の証明でもあったけど、バランスが取れることのメリットもあったろう。
その意味で、身分こそ最低だったが、「気転」と「(文学や故事などの逸話を材料にした)比喩」をむねとするその頭脳は明晰でないと務まらない。

我が国には、「道化」こそいなかったけれど、「猿楽」から「狂言」になって、同じように「毒」を吐いていた。
そして、その「芸」を、為政者たちも自ら演じて楽しんだのである。
信長の「幸若舞」がどんな調子でどんな踊りだったのか?いまでは失われてしまったけれど、戦国武将たちもあんがいと「芸達者」だった。
それが秀吉の小田原征伐で、時間稼ぎの暇つぶしにかこつけた一大「隠し芸大会」になったのであった。

さて、元厚生省の役人で、医学博士の中村健二氏がネットで語るなかに、このブログで主張してきた話がたっぷりある。
P C R検査による「診断」の問題や、その検査のブラックボックス状態への危惧とか、あるいは「死亡者数政府統計」の信頼度のなさとか。
これらの多くが、WHOの「通達=事実上の命令」によるという指摘と、「新しい病気が利権になる」ことは、事実なのである。
この「利権」には2種類あって、学者にとっての「論文」が有利・不利になることの利権と、「新薬」の利権である。

たとえば、既存の薬でも、「効能」に新しい病名を入れれば、それだけで売れるからである。

時間経緯の中で、この「病気」への対処法が「臨床」で理解が進んだという指摘は重要だ。
かつてのドイツ医学が「原因追求」にこだわって、陸軍軍医総監だった森鴎外が、「脚気」の対策に失敗して万人単位の死者を出した。
対する、英国医学は「臨床」重視で、海軍軍医総監だった高木兼寛(東京慈恵医科大創立者)は、とにかく死者数を減らしたのだ。
ために、ドイツ医学を基礎とする東大医学部との対立が終わらない。

そんなわけかどうかは知らないが、慶應医学部出身の中村氏は、もう「5類」にしてもよさそうなのに、という。
「強毒」ならば、隔離が容易なので蔓延は防止できるけど、「弱毒」だと人々の行動が止まらない。
ゆえに蔓延はするけれど、「弱毒」だから死に至る病ではない。

ではなぜゆえに、政府は2類から5類にしないのか?

たった2年ではあるけれど、「前例」ができたからだと、役人の理屈を説明してくれる。
これまで通りの「ぬるま湯」が、いちばん「(役人の)居心地がいい」からである。
そうやって、「茹でガエル」になることを、心配しているのである。

政府は政府のためにあって、国民のためにあるのではなくなった。
カエルになったのである。

行ったことがない県

ふと、日本地図を見ていたら、行ったことがある場所がつくづく「少ないなぁ」と思えたので、書いておく。

全国的に目立たないという、北関東3県(群馬県、栃木県、茨城県)は、さすがに横浜に住んでいるから行ったことはある。
今どきの「テレビのバラエティ番組」で、「ビリの座」を常に争っていることがお気に召さない群馬県知事が、テレビ局に噛み付く、という「事件」があったのは記憶にあたらしい。

むかしから、犬がヒトを噛んでも「事件」にならないけど、ヒトが犬を噛んだら「事件」だといわれるような、「事件」だった。
「ポピュリスト」を絵に描いたような人物だけど、「知事」とは「領主」と同じだという勘違いは、その家庭環境と就職先(朝日新聞、国際協力事業団、国連開発計画に出向)にみることができるけど、職歴は短く、実父のあとを継いで参議院議員となったので、典型的「二世議員」であることも原因だろう。

なお、ここでいう「ヒト」とは、県知事という意味で、「犬」とは、テレビ局のことである。

大和朝廷が九州から関西にできるころ、北関東には「王国」があったという説が注目されて、東西文化のちがいの原点とも目されている。
関東平野の境目にある群馬県は、律令制で「上野国」となって、「下野国」がなったのは栃木県である。
元は「毛野(けの、けぬ)」として一緒だった。
なんだか、はるか古代のひとの「区分」の方が、よほど「今様」なのである。

それが、ケンミンショーのショーたるところで、「なるほど」と「アホくさい」がまじわって当然なのである。

ならば茨城県はといえば、「山海の珍味」が豊富な県で、海がない「毛野」とのちがいがここにある。
いってみれば、「自給自足」ができる環境なので、全国的に「目立たない」のではなくて、「内に籠れる」といえる。

困ったときには「歴史をたどれ」というのは、ほとんどすべての事象に通じる。

個人的には、絶対に行く用事がないと思って、福井県に行ってみたら、その一年後にご挨拶した方から呼ばれてまた出かけてしまった。
大雪の中、越前蟹を食しに山を越えることができたのは、地元のひとが運転してくれたおかげだ。
北陸の魅力は、たくさんある。

横浜という立地から、福井県を地図て見たら、本州中部の山岳地帯を挟んで「真裏」にあたる。
これが、絶対に行く用事がない、と思った理由だった。
たまたま「金沢」に出張したとき、北陸新幹線が「開業直前」だったので、行きは越後湯沢から、当時国内最速の在来線だった、「特急はくたか」を利用して、復路は、北陸本線の「特急しらさぎ」で米原にでて、東海道新幹線で新横浜に戻ったのだった。

北陸新幹線が敦賀まで延長で、この「特急」も、敦賀始発(止まり)になることが決まった。
無理矢理、新幹線に乗れ、という利用客の選択肢をなくす政策が「経済的」と判断したことの結果である。
京都からみたら険しい「山越え」をして、ようやくたどり着いた先が「越前」だったのは、わかりやすい言い方だ。
その「先」が、「越中」で、もっと先が「越後」とは、お見事である。

どんなに科学技術が進んでも、「地形」そのものを変えることはできない。

だから、むかしからの「街道」を「拡張」したり、「側道」としての「新道」をつくるしかない。
昨年開通した、「中部横断自動車道」も、武田信玄が「今川攻め」で通った道の「新道」である。

「ディスカバー・ジャパン」を合言葉に、「旅」を主張していた「大赤字の国鉄」が、なんだか「本分」を全うしようとしてあがいていたことが、懐かしくもある。
キャンペーン・ソングとして大ヒットしたのが、山口百恵が歌った『いい日旅立ち』だったけど、武田鉄矢は自身のヒット『思えば遠くに来たもんだ』も国鉄依頼だったと告白している。
確か大御所、加山雄三のキャンペーン曲もあったけど、検索しても出てこない。

「旅」を「移動手段だけ」にした民営化後のJ Rは、こうした意味でぜんぜん「新自由主義ではない」ばかりか、「機能化に特化する」のは共産主義的といえるのだ。
それが、「本分」に忠実だった「国鉄」へのノスタルジーになるのである。
ちなみに、「ディスカバー・ジャパン」には、日本旅行という「旅行」を大切にした旅行会社もからんでいた。
その「会社」も、とうとう「地方創生事業」に特化するというから、「機能化」に負けた感がある。

そんなわけで、行ったことがないのは、次の6県だということに気がついた。
四国の徳島県、愛媛県、高知県。
香川県は、出張で何度も出かけたけれど、それ以外の四国がない。
九州も同様で、佐賀県、大分県、宮崎県がない。

もちろん、行ったことがある県だって、詳しく知っている訳ではない。
ただ、あんがいと「自分の県」にも詳しいひとは少なくて、だいたい「過小評価」か「過大評価」をしているものだ。
それが典型が、たまたま群馬県知事だったということだから、これはこれで「民主主義の地元代表」ではある。

モバイル電源確保の困難

「電源カフェ」というジャンルができたのはいいけれど、あんがいと情報が古かったりして、なかなか悩ましいのである。
大手チェーンのコーヒーショップやファストフード店であっても、こと「電源」となると、「統一サービス」になっていないことがある。

なので、コンセントの有無は、店選びで重要な要件だ。
電車移動ならこれだけでよいけど、車移動になると、駐車場の時間制限や有料・無料のちがいも、大きな要件に加わる。

当然だが、持ち歩くACアダプターの性能も、携帯しやすさ、という点で重要なのはいうまでもない。
出力とポート数、は言うに及ばず、ものによっては高出力だからといっても、低出力に適応しないタイプもある。

あんがいとこれは、「落とし穴」で、充電を要する無線イヤホンなどは、低出力の充電器でないと充電ができないようになっている。
また、ポートも、古くからあるUSBタイプAと、最近のUSBタイプCとがあって、どちらにも「規格」がある。

タイプCなら、「パワーデリバリー:PD)」に適応しているかどうか、タイプAなら、「クイックチャージ」に適応しているかどうかが、最初の確認事項になる。

最新のタイプCは、「PD]に加えて「PPS(Programmable Power Supply )」という規格も登場している。
これは、充電する端末の側に「自動で合わせて」くれる機能だ。
さらに、USB PD 3.0 の給電能力は最大100wだが、最新の3.1では最大240wという大出力に「進化」している。

以上のように、タイプCの「規格」は(データ転送速度やらでもっと)複雑なので、かんたんに「これ」とは決められないから、用途をよく考えてから選択をはじめるという、「絞り込み」をしないと余計な時間コストをかけて失敗する可能性がある。

それに、忘れがちなのが、「ケーブル」という選択肢まである。

USBタイプCのケーブルは、100均で購入できるものから数千円もするタイプまで様々だ。
「充電用」と一口にいっても、ケーブル自体に「何ワットまで」という限度がある。

だから、高出力な最新のACアダプターを購入しても、その高出力に対応していないケーブルを接続したら、ケーブルの最大までしか出力をえることができない。
「もっと速く充電できるはずなのに?」という場合は、まずケーブルを疑うとよい。

たいがいのACアダプターには、どうして?というほどに小さくて読みにくい印刷で出力表示されているので、パッケージを捨てる前に、タックシールに書いて貼っておくし、ケーブル側にも出力表示を書いてタッグを付けている。

とくにケーブルは、出力表示があるものが稀なので、わからなくなってしまうので注意がいる。
できれば、「ブランドもの」を購入するようにすれば、後からでも「確認」できるメリットがある。

最近では、「アンカー製」の、シリコンでよじれないケーブルを愛用している。
色の種類もあって、こちらは、100wまでの能力がある。

充電器のポート数、という選択肢では、多くて4ポートのものがあるけど、大きさと重さという問題が発生する。
「出張」という道具立てではなくて、普段づかいのモバイル、という視点なら、2ポートあれば十分だ。

それで、2ポートともタイプCなのか、1ポートはタイプAなのか?という選択肢がでてくる。
また、出力も、1ポートしか使わないときと2ポート同時に使うときとで、どうなるのか?というのは、遣い勝手に影響する。

従来は、ポートごとに「固定」されているものが主流だったが、すでに「変動」させるものもある。
この場合、「総出力」という「限度」が表示されているし、上述した「PPS」対応かどうかも確認するとよい。

ついでに書けば、出力表示を「w(ワット)」でしているものと、「v(電圧:ボルト)×A(電流:アンペア)」で表示しているものとがある。
理科で習ったように、「w=v×A」を思い出して、自分でワット数を計算する必要もある。

もちろん、充電対象の器機(スマホとか)の入力規格を確認する、ということは、充電器を選ぶ前にしないといけない。
画面の大型化とか、長時間利用のために、器機側の電池容量と「超高速充電」とかの利便性向上ために、高級機ほど「規格」が多様化しているのだ。

そんなわけで、「コンセント」のありかにこだわる必要がない「モバイル・バッテリー」を用いるなら、上記の「充電器」の応用としての選択に加えて、今度は、荷物の「重さ」に辟易することになる。

それゆえに、小さめのモバイル・バッテリーで済ますのが誰もが思うことではある。
とはいえ、「バッテリー」なので、「安全性」という重要な視点も出てくる。

カバンの中で、充電しながら移動しているときに、もしやの事故でも起きたら大変だ。

ちなみに、もはや「日本製」を探すのはほぼほぼ不可能になっている。
せめて、企画・設計が日本企業だということになったのである。
「画期」に挑戦するかのように、「充電器メーカー」を標榜しているベンチャー企業の「CIO」が大阪にある。

そうやって、さらにどれを選ぶべきかでまた悩まされるのである。

「北風」ばかりのウクライナ

「ウクライナ危機」とは、このブログでは、戦争を望むひとたちが仕掛けている「危機」だと書いてきた。

それが、「アメリカ民主党」と「共和党主流派」、そして、オバマ時代に再編整備された「高級官僚(SES:Senior Executive Service)」の産軍複合体であり、「下請け」で同じく官僚支配のEUと、米軍の「下請け」のNATOのことだ。

「対立」という「危機」には、「相手」がいる。
それが「ロシア共和国」なので、ロシア側からみたら「ロシア危機」なのだ。

昨年末に「恩赦」となって、ほぼ5年ぶりに娑婆に出た、韓国の前大統領が、現職のときに発言した、「歴史を忘れた民族に未来はない」という「名言」があった。

わが国が「尊王攘夷」から一転して「開国」になったら、今度は、「富国強兵」にまで変容したのは、周辺を見渡したら、「獲物を狙ってよだれを垂らしている」白人の国々が迫っていたからである。

その中の一つが「ロシア帝国」であった。
「極東を制圧せよ」を意味する「ウラジオストク」を、1860年(日本では万延元年で「桜田門外の変」があった)の北京条約で手中にしたけど、この港は冬に「凍結」する。

それで、「不凍港」を求めて「南下」し、朝鮮半島に目をつけた。

江戸幕府と外交関係があった李氏朝鮮に、新政府に交代したための使者を送っても相手にされず、その対応に呆れたことをきっかけに、「征韓論」となって、「日清・日露戦争」へと変容するのは、ロシアへの恐怖を「明治の元勲たち」が抱いたからである。

このときのロシアは、「帝政ロシア」で、世界最強の陸軍を擁していた。

朝鮮側のグダグダは、「韓ドラの時代劇」が告白しているが、政治勢力になっていた「閔妃(みんぴ:第26代王・高宗の妃)とその実家一族」に、「大院君(王の実父の尊称)」が対抗した、凄絶な宮廷内の主導権争いがあって、これに、日本、ロシア、清国が翻弄される。

なお、高宗は前王からの直系ではなく即位したという事情もからむ。

だから明治人たちは、なにをやっていたのか?と突きつめれば、わが国が「朝鮮半島を緩衝地帯」にしたい、ということの「実現」のための「いろいろ」だったのである。

すると、いまのロシアが、当時のわが国の状況に「似ている」ことに気づくのだ。

ソ連時代、東欧諸国を衛星国として、西側からの「緩衝地帯」としていた。
しかし、30年前の「崩壊と転換」で、「衛星国」がことごとく「EU]に加盟して、「NATO」にも加盟してミサイルをロシアに向けたのだ。
これには、ソ連の一部だった「バルト三国」も含まれる。

それで今度は、ソ連の一部だった、ウクライナが「EU」と「NATO」に加盟したい、と言い出して、ロシアが「待った」をかけたのだった。

これは、明治の日本では起きていない。

わが国の一部が独立して、わが国の敵対勢力側につく、という事態は、戦後の「北」と「千島」とか、「竹島」のことともいえるし、韓国もこれに近いけど、緩衝地帯を失うことが、「領土」を失うことになってきたのだ。
この意味では、「台湾」の「帰属問題」に似ている。

しかし似て非なるは、ウクライナの歴史が、わが国では考えられない「大陸的な切った貼った」の話だからである。

第一に、ロシアは、もともと「キエフ大公国(キエフ・ルーシ)」だったからだ。
キエフとは、いまのウクライナの「首都」である。
しかしながら、「キエフ大公国」のもともとの首都が「キエフ」なのだ。

だから、日本人には、京都のような存在だ。

第二に、この大公国が「破壊された」のは、モンゴルの侵攻による。
それで、いろいろあってロシア帝国の一部になった。

ややこしいのが、別にできた「モスクワ大公国(北東ルーシ)」が、キエフ大公国の「後継者」を自称したことによる。
ローマ帝国の後を、ローマを首都としない「神聖ローマ帝国」が自称したようなものだ。
それから、「帝政ロシア」となって、「ソ連」になった。

なお、「ルーシ」とは、ギリシャ語化して「ロシア」となったのである。
だからいまだに「白ロシア」を「ベラルーシ」と呼んでいる。

ちなみに、ムソルグスキーの『展覧会の絵』(1874年作曲)の「終曲」が、壮大極まる『キエフの大門』である。
まだ、帝政ロシアの時代であったから、民族の「京都」への哀愁と誇りを表現したのだろう。ただし、オーケストラ用編曲は、フランス人のラヴェルによる。

ロシアが嫌いで、国名まで変えたのが「ジョージア」(元はグルジア)で、こちらも密かに「EU]と「NATO」への加盟を画策していた。
グルジア人のスターリン(ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ)への反発も大きな原因になっているけど、プーチンのロシアはしっかり「制裁」を課した。

そのスターリンを批判した、フルシチョフは、ウクライナ人であった。
ウクライナ語では、ムィクィータ・セルヒーヨヴィチ・フルシチョーウとなる人物は、クリミア半島をロシア領からウクライナにプレゼントした。
あたかも「私物」のような決定をして、プーチンはこれを「原状復帰」した、という理屈である。

ならば、わが北方領土も、というわけにはいかないのは、NATOがやっているように、米軍基地を作るかもしれない、という恐怖を理由にしている。
なにしろ、ロシア人には、日本海海戦とタンネンベルクでの陸戦の、「殲滅(皆殺し)」という、恐怖の記憶があるのだ。

ソ連は、ウクライナに大量の核ミサイルを配備して、NATOに対峙する最前線とし、チェルノブイリ原発まで作っていた。
そのソ連が崩壊したときに、すなわちウクライナが「独立」したとき、この核ミサイルをどうするか?が問題になったのである。

ウクライナが、自動的に世界的核保有国になったからである。
しかし、核ミサイルは、6年で弾頭の核が劣化してしまうので、「交換」を要するから、古い弾頭の処理費を含めた「維持だけ」で莫大な費用がかかるのである。

それでもって、「廃棄」してしまった。
これも、ロシア人が恨んで「ウクライナいじめ」をする原因のひとつなのである。

そんなわけで、「北風と太陽」のような「お話し」には、ぜんぜんなりそうにもないし、「スタン国」の動きのように、「モグラたたきゲーム」の様相を呈しているのである。

とっても忙しいのは、プーチン氏なのだった。
なお、わが国はNATOの事実上の「準加盟国(アメリカの同盟国)」なので、また資金提供をさせられるのを「思案中」だと思われる。

オリンピック後の「台湾危機」があるから、NATOをむげにもできない。

こうして、戦争を望むひとたちが儲かるのである。

善政競争を阻害する「ふるさと納税」

西川一誠氏という、当時現職の福井県知事が「提唱」して、2006年から約2年の議論を経て、2008年にできたのが、「ふるさと納税」制度である。
内閣でいうと、第三次小泉純一郎、第一次安倍晋三、福田康夫という面々の時代だ。

よくある話だから目立たないけど、西川一誠氏は、元自治官僚だ。
「自治省」とは、よくもはばかりなく命名したものだと「感心」するのは、みごとな「ダブルスタンダード」の用語だからである。
本当は、「自治」をさせない、という意味だ。

都道府県や市町村といった、自治体を、国家の「下請け」にするための事務を取り扱う役所だからである。
いまよりはずっと「正直」だった、明治のひとは、「内務省」と名づけたのだった。

それでもって、「欺瞞に満ちた」自民党は、橋本龍太郎という自己中に、どうしてか「郵政省」と「自治省」を合併させて、「総務省」なる得体の知れない役所を作らせて、その「功績」が将来にわたって崇められるようになると、だれかがおだてたにちがいない。

巨大化して、はなから「複雑怪奇」だった役人の世界が、「魑魅魍魎」になったのは、組織で言えば「内閣府」という、もっと得体の知れない役所を作るのに、総務省を「当て馬にした」のではあるまいか?と疑う。

それはそうと、敗戦まであった「内務省」は、「キング・オブ・役所」といわれた存在であった。
戦後の、「大蔵省=財務省」とは、「格がちう」別次元の権力があった。
すなわち、「一番」が解体されて、「二番手」が、「一番」に昇格したようにもみえる。

しかし、GHQが破壊しなかったのは、「役人の人事」であったから、見た目とはちがって、内実はなんら変化しておらず、たとえば、「事務次官会議」の議長は、「自治事務次官経験者」の伝統から「総務事務次官経験者」で変わらない、「内閣官房副長官」となって、いまに至っている。

つまるところ、旧内務省からしか、事務方の「最高峰」、内閣官房副長官になれないのは、総務事務次官経験者というOBが、昇格してさらに、内閣府を牛耳っているといえるのである。

よって、わが国の国家公務員で、エリート中のエリートとは、ほんとうは「内務⇒自治⇒(自治系)総務官僚(元郵政ではない)」なのである。
すると、橋本龍太郎内閣の「省庁再編」における、隠された意図とは「内務省の復活」だったともいえる。

これを画策した官僚は誰だったのか?

ところで、GHQとは、わが国を二度と欧米列強(白人)に歯向かわせないための弱体化、を目的とした組織であったので、かれらが「やったこと」と「やらなかったこと」は、目的合理的に「イコール」の関係にある。

すなわち、内務省を「解体した」ことと、官僚体制に指一本も「触れなかった」ことは、イコールなのだ。

それで、官僚体制が(GHQが目論んだとおりに)とうとうわが国を破壊して、修復不可能地点を越えたのが「平成時代の後期」だったといえる。
だから、事実上の「内務省復活」とは、反GHQというベクトルではなくて、官僚体制による「日本破壊の加速化」を意味するのだ。

このことの「兵器」が、「ふるさと納税」なのである。

およそ、自由圏では、「移動の自由」が保障されている。
たとえば、国家並みの権限がある、アメリカの「州」であっても、合衆国憲法(連邦憲法)と、州憲法の二重制があって、州憲法は連邦憲法に従うことでの「平衡」が確保されている。

だから、ふつうの国なら、「国境を越える」ことと同義の「州境を越える」にも、パスポートを必要としない「国内」という自由が与えられている。
生活の上での「諸制度」が、州によってぜんぜんちがうし、「税制」もちがう「のに」だ。

それで、アメリカ製のシミュレーションゲーム『Sim City』では、政府に不満を持つ住民が増えると、人口が減る、という設計になっているので、プレイヤーたる「市長」は、人口と税収の確保のため、住民の不満足表示に敏感にならざるを得ない。

もしこれが、「対戦型」となったら、市長同士で、「善政競争」に応じなければならなくなる。
たとえば、「減税合戦」となったり、だ。

実際に、バイデン政権になってからのこの1年で、アメリカの「州間移動」が注目されて、一方的な住民の「脱出」がはじまった。

たとえば、オレゴン州から、隣接するアイダホ州やネバダ州へという流れができて、最近では、カリフォルニア州やニューヨーク州からの「脱出」で、テキサス州やフロリダ州への移入が「万人単位」で増加していることが確認されている。

さてそれで、「ふるさと納税」の危険は、自分の住まう自治体の税収を減らしてしまうのが、「返納品の損得」という、「変な善政競争」になったこと「だけ」ではない。

最重要なのは、「本来の善政競争」の余裕となる「原資」を、自分が住まう自治体から「奪う」ことなのである。
すると、この「税制」の本当の目的はなにか?を問えば、「全国平準化」という、田中角栄が主張した「日本列島改造論」の「税制版」であることがわかる。

つまり、全国どこも同じで特徴がないことを「至高」とする、社会主義そのものの実現だ。
「旧社会主義圏」だった、東欧を旅すれば、歴史的建造物以外の「同じ」を実感できる。

それが、「平等の実現」だという、価値観は、まったくの「機械論」なのである。

「ふるさと納税」が「ふるさとを破壊」する。
よくもこんなことを「自慢する」元知事がいて、それを「本」にもしたものだ。

「支離滅裂」を、読解しながら「読む」とよい。
ただし、随所にそれがある。
福井県人は、このようにして欺されたけど、それが「税制」となって、日本国民も「被害者」になったのである。

大統領令13848の延長

前政権の行政令(大統領令)を、就任初日からことごとく否定して、1日で50本を越える大量の大統領令にサインしたバイデン氏であったが、昨年、1本の大統領令を「延長」していたことがわかった。
それが、なんだか「変」で、理由が不明なので書いておく。

2018年9月12日に、トランプ大統領が発した、選挙における外国勢力の介入を調査し、罰するための「大統領令」のことである。

ちなみに、気のはやいひとが、「大統領令」はなんでも発出できる「独裁」を可能とするので、トランプは独裁者だ、という「論」をいうひとがいるけれど、ぜんぜんちがう。
それなら、歴代大統領はみな独裁者になる。

わが国よりずっとはっきりした「三権分立」があるのがアメリカ合衆国だから、完全に機能しているかは「別」として、立法機関の「連邦上・下院議会」が決めた法に従って、その範囲での行政権を行使するのが「大統領の職務」である。

だから、本件の大統領令にも、まず「根拠法」が列挙されて、それらに基づいていることを前提としている。
大統領が「俺が法律だ」ということに、制度上もなっていないばかりか、あんがいと大統領権限は小さいのだ。

気のはやいひとが、「勘違い」してしまうのは、わが国の「議院内閣制」とぜんぜんちがうから、ということもあるけれど、それよりも、日本国民を「麻痺」させているのが、「法案」を行政府がつくることにある。

立法府である、「衆・参両院」が決めた法に、内閣以下の全省庁、それに都道府県・市町村、もちろん国民も従わないといけないのに、立法府に提出されて「審議」される法案自体が、行政府が書いたものという、おどろくほどの「矛盾」に、「慣らされて」しまっているのが、日本国民なのである。

アメリカ合衆国には、「議員立法」しかない。
わが国は、「政府立法=内閣立法」がほとんどで、議員立法は「珍しい」という状態になっている。

なお、わが国だって「(三権分立の)制度上」は、議員立法を旨とする「建前」があるので、「衆・参両院それぞれに法制局」があって、議員からの法案作成補助をもっぱらの業務とする部署があるし、「国会図書館」にいる「調査員」も、議員の法案作成に寄与すべく設置されている。

わが国最大かつ、すべての出版物を納入しないといけない「法」がある、国立図書館が、「国会図書館」なのは、国権の最高機関たる「立法府の議員立法」のためだからである。

それらが、なんだか「ムダ」になっているのは、前に書いたように、わが国最大与党の自民党が、「シンクタンク」の役割を、「官僚組織に依存」している「構造」に原因がある。

もちろん、この構造を、本来の行政府に戻す、ということがわが国存続のための最重要事項なのだけど、ほぼ「できっこない」のは、この構造が「利権」を生みだして、わが国の「政(界)、官(界)、産(業界)、学(術界)」を完全支配しているからである。

さてそれで、大統領令の話である。
当然に、当初、トランプ大統領が発した理由は、「2年後」の2020年大統領選挙を意識したものだった。

選挙後、「不正問題」を調査するために、国家情報長官の「報告」を前提とするが、なんだか「曖昧」になってしまって、この大統領令は「不発」に終わった感があった。

その理由が、オバマ氏が拡大再編した、アメリカ合衆国における「高級官僚制度」(SES:これを「DS」ディープステートという)で、超エリート官僚たちが、「報告執筆」の「非協力」をしたと、当時のラトクリフ長官が述べている。

結局、トランプ氏はホワイトハウスを去っていったけど、この大統領令は、「いつまで有効なのか」といえば、3年経った昨年の、9月11日で終了、というはずだった。

ところが、ホワイトハウスのHPに、昨年9月7日付けという「期限の直前」で、「継続のお知らせ」があったのである。
オリジナルとちがう部分は、「外国勢力による選挙への介入は現在までのところ確認されていない」が含められていることだが、なんとそのまま「1年間延長」をしたのだ。

これは一体どういうことか?
今年11月の中間選挙「前」に期限になる。

2年の延長ならわかるけど、どんな意味があるのか?
「アリバイ」か?
それとも、今年の9月になったら、「再延長」するのか?
だったら、最初から2年にしないのはどうして?

ちなみに、この書類には、バイデン氏の名前はあるけど、署名はない。
さらに、バイデン氏の名前の前に「肩書き」がない。
トランプ大統領が発出したときは、ホワイトハウス内で撮影したとみられる「写真」も公開されて、サインした書類を掲げて笑っていた。

はたして、「本物」なのか?
まさかホワイトハウスのHPが、何者かに乗っ取られている?
あるいは、ボケてしまったバイデン氏は、自分がなににサインしているのかほんとうにわからないのか?

などなど。

本物なら、誰がサインさせたのか?
「天に唾する」ことになるのかと、妙な期待がふくらんだけど、1年じゃあ、とため息が出るのであった。

悲惨な「五公五民」

江戸時代の「五公五民」は、悲惨な重税だったと習う。

いまと違って、江戸時代は(同時期の産業革命前のヨーロッパもそうだが)、農業国だった。
人口構成の8割が農民で、この比率はそのまま明治に引き継がれた。
なお、武士と商人の人口比が、両者の中で相殺できるのは、金銭欠乏で商人から「苗字」と引き換えに金を得たからである。

江戸が天下の中心になったとき、地方から大量の人口流入があったことは知られている。
すると、農民がやってきた、としかあり得ない。
そしてそのひとたちは、都市計画に基づいた土木工事から建設工事の人足として働いたのである。

また、男性ばかりだったというから、「一代限り」という条件が自動的についていた。
いつの時代も、どんな国でも、労働供給の「源」は、農村なのである。

一口に「農民」と言っても、土地を所有する自作農と、小作人では話がちがう。
この「小作人」を指して、日本的「農奴」だという学説が「定説」になっている。

本稿では、このこと自体を議論しない。
元は、イエズス会の宣教師による「発見」であったけど。
それに、なんでもヨーロッパの歴史に日本の歴史を「おっかぶせる」ことの「安易」もあるけど。

「農奴」とは、「封建制」のロシアやヨーロッパの農民を指している。
このひとたちは、土地に縛りつけられていて、もしも土地所有の移転があったら、農奴も漏れなくついてきたのだ。
それで、身体だけの「奴隷」とは、区別する。

大震災以来「絆(きずな)」が、日本人の精神的支柱になったかのような「スローガン」が街にあふれたけど、同じ字に「し」をつけると、「絆し(ほだし)」になって、番犬のように首輪につながれている状態になる。

「社畜」とは、このことか?

ひるがえって、GHQがやった「農地解放」とは、「農奴解放」だったともいえる。
「先祖代々の土地」が、都会のひとには宅地になったけど、「出自」についてはむかしからの地元の住民が、今でも厳しく区別している。

あそこの「家」は、~だから、とか、やたら詳しいのだ。

これを、ぜんぜんわからなく「した」のが、ペストで全滅したヨーロッパの「村」で、生き残って「流民」のようになったひとたちが、家ごと、農地ごと住みついてしまった「歴史」があるから、ずっとむかしからここに住んでいるという「歴史」をつくった「歴史」がある。

徳川家康の有名な言葉に、「百姓は生かさず殺さず」がある。

どんな計算で、「五公五民=税率50%」としたのか?は、さておいて、これは「ひどい」と学校で繰り返し(小中高と3回)習うのである。
それに、「用語」として試験に出るから覚えるのは、あくまで「五公五民」であって、「税率50%」とは習わない。

ついでに、「六公四民」とかという、もっとひどい事例も先生は説明してくれる。

農民は、基本的に「米」という「現物」で納付しないといけなかった。
米は、作物であり、食糧である。
収量の半分が税ならば、残り半分が自由になるかと言えばそうではない。
その中から、来年植えるための「種」を確保しないといけないからだ。

すると、自分たちで食べる分はその残りか?
そうではなくて、これから生活必需品の購入代を捻出しないといけない。
大方のものは自作したり村内で物々交換したりするけれど、「どうしても」は必ずある。

そうやって、米を作りながら米を滅多に食べられない、ということになった。
部品を作りながら、その部品は「作るだけ」ということができる遠因かと思われる。

実は、日本人のほとんどは、米を食べてはいなかったのである。

米をふつうに食べていたのは、人口にすればわずかな比率のひとたちである。
こんななかで、「豪農」がいたのは、「網元」と同じ構造があったからである。

たとえば、捕虜収容所で、収容されたひとたちから「リーダー」を指名して、このひとたちに「監視」させるのが、支配者にはもっとも「効率がいい」方法なのだ。

さてそれで、いまは、「国民負担率」というものがある。
これは、税負担だけでなく、あらゆる「公共」への負担を足し込んで、平均収入と割り算したものだ。
「所得税」の計算方式とはちがうので注意したい。

「財務省のHP」にもあるけれど、「公共」に含まれないNHK受信料とかの「公共料金」があるし、「財政赤字を加えると」という、プロパガンダも表記している。
「財政赤字」は政府の負担であって、国民には「資産」だ。

そんな中途半端な数字だけど、「信頼ある」財務省が発表している「国民負担率」は以下のとおり。
令和元年度(実績)    44.4%
令和2年度(実績見込み) 46.1%
令和3年度(見通し)   44.3%

気がつけば、もう既に我が国は、「五公五民」の世の中になっている。

高齢化と出生数の減少は、「福祉」を支える若者層の激減もあって、その統計的将来予測は、「七公三民」という驚愕の数字を算出している。
財務省が、「財政赤字込み」にしているのは、いただけないけど、
令和2年度(実績見込み) 66.5%

おおむね、上段の「七公三民の予測」と合致する。

これでまともな生活ができるのか?
ただ、ここでいう「まとも」とは、昭和末期の「ふつう」を指す。

もしや、二度と「昭和のふつう」に戻れないかもしれない。
可処分所得が、せっかく稼いだ内の3割しかないまでに減ると、およそ経済をささえる「消費」を、したくともできない。
サラリーマンなら、容赦なく7割が自動引落で「源泉徴収」されてしまう。

政府には、奴隷制社会の理想的境地だ。

国民は、江戸時代の農民負担がうらやましいことになる。

観光は「産業連鎖」の頂点

「食物連鎖」の頂点に君臨する、のは百獣の王「ライオン(肉食動物)」だと習う。

むかし、テレビで散々やっていた「大自然もの」(もちろん今でもやっているらしいけど)は、各社が独自製作のものと外国から買ってくるものと、いろいろあった。
その中で、重要なフレーズが、「人間が食物連鎖を壊している」だった。
悪いのはぜんぶ「人間」だから、これが嵩じて「機械に人間が殺される」というS Fがたくさんできた。
それでか知らないけれど、ウィルスを利用して人間の虐殺を実行する人間が出てきたのは、ただの「金持ち」ではなくて、「良心」だということになったのである。

まぁ、とりあえずこないだ書いた、英国の弁護士が、首相以下をI C C(国際刑事裁判所)に提訴して、受理された件がそれである。

今回の話は、昨日書いた「観光立国はあり得ない」ことの補足だ。
それが、「産業連鎖」の頂点に君臨するのは「観光業=人的サービス業」である、ということだ。

ライオンをはじめとする、肉食動物「しか」いない状態になったら、野生の動物界は成り立たない。
これと同じで、すべての産業からの恩恵を受ける、「観光業=人的サービス業」だけでは、産業界が成り立たないのである。
だから、結論をはじめに言えば、重要なのは「産業の裾野」だと言いたいのである。

これは、「六次産業」という概念を意味する。
「産業分類」のことである。
食糧や食料に深く関するのは、第一次産業たる「農林水産業」である。
文明の利器を生産しているのは、第二次産業の「鉱工業」だ。

「鉱工業」に「鉱」の字があるのは、材料を「鉱山」とかの「資源」に求めるからである。
また、その「資源」を採取するにも、「工業力」の賜物である機器がないといけない。

我が国は、明治のむかしから資源がない国とされてきたけど、たとえば、世界最大だった「佐渡金山」を江戸時代だけで掘り尽くしてしまった。
それに、「国際海洋法」ができて、「領海」と「排他的経済水域」を足せば、極東の小国どころか、世界6位の面積となるのである。
もっと言えば、メルカトル図法の「歪み」を修正するソフトを用いて、たとえばヨーロッパ大陸に日本地図を移動させたら、実は我が国の「巨大さ」、逆に言えばヨーロッパ(旧大陸)の「狭さ」が確認できるというものだ。

つまり、「小さい」「狭い」国土だという思い込みを、子供のときから刷り込まれている。
これは、一種の「危機感」を煽って、「努力せよ」というポジティブな発想ならまだ良いけれど、卑下するようなことになったら現実逃避になってしまう。

小さくて狭い、という思い込みが、海洋資源を放置して、本来の国際取り決めである、「資源管理義務」まで放ったらかしにしているのである。
それで、思い出したように「南鳥島の水没阻止」とか、外国船による勝手な資源採取を問題にする。
前提となる常識が、ズレているから、そのときそのときの「都度、都度」になるのは、「法治」の概念からしたら異常なのである。

そんなわけで、一次産業と二次産業は、分かりやすい「分類」となっている。
逆に、第三次産業が分かりにくいのは、第一次産業と第二次産業「以外」という、荒っぽい分類だから、第三次産業「自体」のせいではない。
どうしてこうなったかは簡単で、今でこそ「三次産業」と言われる「産業」が、産業分類を作るときに「産業」とは言えないレベルだったから、「その他」になっただけである。

ところが、今や「先進国」の産業構造は、就労者の6割、産出価値の「7割」を、第三次産業が担っている。
それで、もっとも効率よく稼いでいる「金融」と「I T」を除いて、「人的サービス産業」と再分類している。
そして我が国では、国際比較でのその生産性の低さ、が問題視されているのである。

一次産業+二次産業+三次産業=六次産業 これを「掛け算」にしてもいい。どちらにしても、「全産業に君臨する」という意味は、「六次産業」ということでもわかる。

しかし、よくよく考えれば、食物連鎖の頂点に君臨する肉食動物の生産性は「高い」のか?
草食動物の数を適正化させる、という意味での「生産性」という意味だ。
基本的に「大自然」というときの「自然」は「放置」の意味だから、人間の価値観である「生産性」はあてはまらないけど、「かわいそう」だからと言って草食動物しかいないのも、「自然破壊」になるだろう。

すると、ライオンのような観光産業を持ち上げるのは、「百獣の王」と同じで、「産業の王」といえばそれでいい、としか意味はない。
けだし、ライオン自身がそんなことを「思考する」能力を持ち合わせてはいないだろうけど。

結果的に、「票が欲しい」というだけになるのは、就業者がたくさんいるからだ。
観光業を「補助金漬け」にするのは、公的「買収」だといえるし、業界ごと網掛けされた「奴隷化」ともいえる。

これが、「観光立国」の正体なのである。

魚が目的ではない沼津観光

この期に及んで菅前首相が、「観光で地方創生を!」との世迷い言をネット番組で発言していて、これを、「持ち上げる」ひとがいる。

ホテルに就職してから独立してもずっと、この方面に携わってきたから何度も言うけど、「観光立国」というのは、「うそ」である。
もっといえば、日本人は「観光では喰えない」のだ。

それが証拠は、世界最大の「観光立国=スイス」とか「フランス」の、主要産業は、ぜんぜん「観光業」ではない。
あの、ピラミッドがあるエジプトだって、主要産業は「観光」ではなくて、「農業」なのだ。

いってみれば、「観光」は、オマケの「追加分」にすぎない。

だから、オマケに依存するように仕向けるのは、まったくの「愚策」だし、けっして国民を豊にしない。「国富」の話と観光は、まったく別のことである。

にもかかわらず、わが国が衰退をはじめると「反比例」して、それまでなにもしていなかった政府が、「観光局」を「観光庁」にして、どんどん予算を増加している。
それで、観光業が栄えたかといえば、単なる「インバウンドの効果」でしかなかったので、やっぱり「衰退」を加速させている。

ところが、他人の成果を「盗む」ことに長けている役人は、「インバウンドの成果」すら、自らの「手柄」として、さらなる「予算どり」の根拠として、権限の拡大と同じ意味の「天下り先の確保」をしっかりやって、本当の「成果」には興味を示さないのである。

旅行業とかホテル・旅館などを主たる就職先としてきた、大学の「観光学部」とかの卒業生は、すっかり採用がなくなったから入学希望者が減るかと思いきや、あんがいと「健闘している」のは、政府が予算をたれ流す「地方創生」の名の下にある「地域活性化事業法人」への就職が人気になっているからである。

この「カネ蔓」に目をつけて、大手旅行会社が「コンサル」とか、「アドバイザー」として、従業員を派遣して、高額な人件費負担を減らす努力をしていたら、とうとう「専門事業」として「本業の転換」をさせると発表した有名旅行会社まで登場した。

政府観光庁の「下請け」になるというのが、果たして「事業転換」といえるのかは怪しいけれど、社会主義体制下にあっては、ありえる「経営判断」であるし、これを「株主」が反対しているという話を聞かない。

もちろん、観光庁からの天下りをたっぷり採用することが、事業基盤の強化につながる一番重要な「政策」となることは想定の範囲にある。

そんなわけで、何度もいうけど、政府の予算がある限り、という「持続可能」な事業となって、表向きに大学生の新規採用もあるだろうとの「予測」から、高校卒業前に進学先を決めている、ということだろう。すると、本人の希望もしかりだけれど、「親」(いまは「保護者」という)の「意向」もないはずはないから、一家の方針として、という意味もある。

世の中を「泳ぐ」ということを推奨する両親という「おとな」の影響が、多分にあるという証拠なので、これが我が国の「社会主義化」を促進させる原動力なのだった。

さて、旅行会社の経営が傾いたのは、コロナによる旅行需要の激減があったのは承知しているけれど、その「前」から危ぶまれていたことを忘れては議論にならない。ホテルや旅館の経営者たちも「しかり」なのは、自分達の商売の「本質」を考えたことがない、という共通があることだ。

このことは、「深刻」な問題だけど、誰も気づいていない。

驚くことに、例えば旅行会社は、いまだに自分達は「旅行商品を売っている」と思い込んでいる。もちろん、宿泊事業者は、「部屋を売っている」と思い込んでいるのだ。

この目線で「しかない」ことを一切反省しないから、どんなアドバイスも役に立たないで、どこの観光地も発展しないのである。

ちゃんとした旅行をしたい消費者は、旅行会社で「旅行商品なんて買っていない」からである。もちろん、ちゃんとした消費者は、ホテルや旅館の「部屋を買っている」なんてことはない。

このタイプの旅行希望者は、旅行会社で「圧倒的な情報」を買っていたのだし、ホテルや旅館だって、「利用目的」に応じた選択をしている。

それを旅行会社が提供しなくなったので、本当は「困っている」のだけれども、「大手」ほど、どこも解決の手を差し伸べてはくれないのだ。

「人件費コストに見合わない」というのが、もっともらしい理由なのに、社内で「A B C(Activity Based Costing)]とかを導入したという話も聞いたことがない。

そんな状態でどうやって「人件費コストを営業成果」と比較評価しているのか?

わかる「はず」がないなのに、あたかも知っている「ふり」をして、社員と株主ともども「誤魔化している」のである。だから、社員と株主は「誤魔化されている」ことになる。

しかし、一方で、なんとなく生きている圧倒的多数のひとは、「条件反射」という繰り返し訓練をさせられているから、例えば「沼津」に旅行に出たら、「魚を食う」ということが頭から離れない。もちろんこれが「焼津」とか、はたまた「三浦」でも、漁港ならどこでもいい。

「生ウニ」に「イクラ」や「サーモン」がどっさり乗った「どんぶり」が人気らしいけど、沼津は北海道にあるのではない。ましてや、「人気」だというサーモンは、寄生虫が必ずいて天然ものなら決して「生食」はできないから、「養殖もの」を好んで食すという頓珍漢をやっているのに、これを不思議に思う消費者が少数派になっている。

氷点下の寒風ふきすさぶ中に、天然ものの鮭を何日もさらして「ルイベ」を作ったのは、寄生虫を凍結・殺虫させて「安全に食べる」ための工夫であった。

さては、沼津グルメは、「魚」とは別ジャンルにあるのだ。

教えてあげない。