「WALKMAN」のせいなのか?

いつ購入したのかも覚えていないが、まだ新品で販売されている、「NW-A306」という機種をぜんぜん使いこなせないので、以下に恨み節を書いておく。
なお、老人に優しくないSONYさんは、本体背面にある機種名の印字さえも小さすぎて読めない、という意地悪もしでかしてくれている。

スマホが普及してひさしいなか、「ipod」がサッサと市場から消えたが、本来、市場競争として消えるべき「WALKMAN」が残ったのは、決断ができなかったからなのか?それともipodの撤退を奇貨としたのかは、わたしのしるところではない。

しかしながら、マネジメントのセオリーとしてある、あらかじめ設定すべき「撤退条件」があれば、この条件に達してしまったときには、機械的な判断が作動して、すぐに「撤退」を発令するのが、大企業的な「経営計画」の実行というものである。

有名な例は、JT(日本たばこ)の飲料「桃の天然水」であった。

ここから推察するに、SONY社内での状況は、
イ. 撤退計画の策定がなかった
ロ. 撤退計画の作動条件が、アップルipodよりも甘かった
ハ. 撤退計画の実行に躊躇した

以上のどれかだとかんがえられ、とくに「ハ」のパターンで、ウダウダ議論している間に、ipodの撤退が分かって、「独り勝ちになる?」という希望的な意見が大勢となり、とうとう積極的な新製品投入ということになっったのではないか?と、ゲスの勘ぐりをしているのである。

アップルがipodで構築した戦略は、楽曲をダウンロードして販売する、という、およそわが国の官僚の「優秀すぎる頭脳」ではおもいもつかないもので、立ちはだかるのは「著作権」による、「不可能」の三文字であった。

技術専門の「バカ」からしたら、著作権問題を社内の文系法学部出がなんとかするはずと、専門の壁の向こうでは思っていたろうが、社内の超優秀法学部出も、優秀すぎる官僚とは同級生で、もしかしたら、大学の序列ではソニーに入社した者の方が成績では上だったかもしれないのだ。

それでも、超優秀な学生が学ぶ相手の教師は、あくまでもビジネス経験がまるでない、象牙の塔にその優秀さゆえに「院」に進学し、「法学博士号」を取得するのみならず、そのまま大学に残って研究者の道を進むだけの日常を経験してきたにすぎないのである。

よって、「著作権の絶対」は、あたかも所有権の絶対のごとく、金科玉条とするしか、その発想にないから、優秀な生徒ほど教師の言い分を鵜呑みにして、成績にも「優」がつくという次第なのだ。

それゆえに、かのスティーブ・ジョブズが、どうやってダウンロードして販売することができるのか?を、病的に追求したことが、いまでも信じられないに違いない。

そうやって、アップル社は、「メーカー(製造業)のくせして」楽曲販売事業を立ち上げたが、SONYはレコード会社や映画会社を手にする、ぜんぜんちがうビジネスモデルを追求することになったのである。

結局、アップル社は、ipodの製造はやめたが、「Apple Music」を手放す気配は毛頭なく、アマゾンの「Amazon Music」に対抗しているし、相変わらず、わが国の資本で、彼らに対抗できる事業者は存在もしていない。

それでもって、WALKMANは、なんのことはない「アンドロイド」すなわち、Googleのプラットフォームに乗っかった、電話機能のない「端末」すなわち、ipodとおなじ位置付けとなったのである。

しかし、ipodにはApple Musicがあったけど、WALKMANにはこれがない。

そのために、電話ができるアンドロイド・スマホとの差別化は、「音質」だけとなったのだけど、わたしにはものすごく遣い勝手が悪くて、正直、イライラしかでてこない。
唯一メリットを感じるのは、PCとUSBでつないだ、「DAC]による圧倒的な音質のちがいを体感する意外にこれといったメリットを感じないのである。

いったい、WALKMANがいけないのか?アンドロイドOSなのか?それとも、アプリとしての、Amazon Music Unlimitedとの相性なのか?もっといえば、自家用車での場合における、車載のオーディオ機器との接続も、エンジンを切るたびに、「接続自体も、演奏も最初から」になるのはどうするのか?

だったら、むかしCDを一枚ずつ録音した手間をかけた方が、よほどシンプルな遣い勝手であって、もう15年も使っている、「ipod mini」の方が、ケーブルの心配をのぞけばまったくストレスがない。

これを、「名機」というのである。

こんなゴミのようなWALKMANを買ってしまった自分を呪いつつ、みなさん、ほんとうに便利でつかっているなら、どうやって利用しているのでしょうか?

ゴミを他人に売りつけるのも憚れて、「USB DAC」だけしか使いようがないと、もはやあきらめているのである。

「永遠なるもの」とはなにか?

宇宙がいつどうやって生まれたのか?について、鉄板だとかんがえられてきた「ビッグバン」が、ほんとうに起きたのか?という、いまさらタブーなはずの疑問が、いきなりハッブル宇宙望遠鏡から代替わりした、ジェイムズ・ウエッブ宇宙望遠鏡で撮影された一枚の写真から大騒ぎになった。

膨張する宇宙の逆をたどれば、極小の一点にたどり着く、という説の大前提になる「膨張」が疑われる写真が撮れてしまったからである。

それでもって、ループする宇宙とかナンとかと「新設」なのか?「珍説」なのか?素人にはわからない議論が巻き起こって、なんのこっちゃ状態になっているのである。

とにかく、宇宙をあつかう学問で用いる「単位」が、大きすぎるので、人間の生活時間の感覚とは一致しない。
もしも、人間の寿命が大幅に伸びて、たとえ100年となっても、宇宙の単位からしたら、一瞬どころの瞬間にもならないだろう。

たとえ5000年の歴史を誇っても、宇宙時間からしたら、やっぱり一瞬にすぎない。

その一方で、物質の最小形が、「素粒子」だということがわかって、こちらは逆に、おそろしく極小の世界にある。
物質は、原子レベルだとえらく「スカスカ」なのも、人間の生活からはかけ離れている。

それで、物質をあつかう「化学」や、「物理学」は、もう、「ダイヤモンド」やら「石炭」やらあるいは「砂糖」を見ても、ぜんぶ「炭素である」という判断をして、目に見える「もの自体」からなにかをかんがえることはとっくにしなくなったのである。

ところで、一般的にいう「恒星」は、太陽のように核融合反応をして光っているのであるが、結局は「鉄」をつくりだしてその一生を終えることになっている。

すべての生物は炭素をふくんでできあがっている(「有機物」という)ので、超新星爆発で飛び散った、鉄にいたらなかった炭素が惑星の材料になってくれないと生命は誕生しないし、なにせ「水」もないといけない。

こうやって改めてかんがえてみると、「永遠なるもの」とはなにか?とは、宇宙における「循環」をいうので、いまさらに「持続可能」とかという意味なし言葉の非科学をいわれても、なんだかわからないのである。

それでもって、今日は5月1日で、いわゆる「メーデー」という年に一度、世界の労働者の祭典の日だ。

わが国において、「主権回復の日」をどうして「国民の祝日」にしないのか?とか、戦後にあって、メーデーを祝日にしなかったのは何故か?に思いを馳せると、4月28日は前に書いた通り、わざと当時の「天皇誕生日」の前日にした嫌みがあるし、メーデーを公認したら、あたかもソ連のようなイメージになるのを嫌ったからだろう。

しかし、メーデーの主賓に、総理大臣が出席する時代になって、会場からの激しいヤジに、連合会長が遺憾の意を表するまでに時代は変わって、わが国の「国体」は、とっくにかつての社会主義国のようになっている。

かつての社会主義国とは、公式には労働者の国といいながら、ぜんぜんちがう国のことをさす。

そこで、あり得ないほどあからさまに、アメリカ民主党(という名の共産党)のいいなりの政策を、なにかに取り憑かれたように実行してやまない岸田政権のおぞましき姿に、労働組合や労働者たちはどうかんがえているのか?を問うと、ほとんど無反応になっていることに、さらなるおぞましさを感じるのである。

世界は、左右の対決というかつての図式から、グローバル全体主義と反グローバル全体主義(ナショナリズム)に分かれていて、はげしい対立構造ができている。

こないだ政府が募集をはじめた、実質的言論統制への「パブリックコメント」についても、はたして労働組合はどのような見解なのか?
「自由と民主主義」という「国是」が、溶けてなくなろうとしてしているさなかの、歴史的メーデーなのに、だ。

世界の小麦需要を支えたウクライナの穀倉地帯も、なんとすでに半分の農地が、グローバル企業に買い取られている。
アメリカでは、最大の農地保有者が、あの、ビル・ゲイツ氏となったことは、周知の事実だ。

食料の争奪戦で、貧困化するわが国はすでに「買い負け」しているのである。

あたかも、「飽食」と「食品廃棄」が同時におきて久しい国ではあるが、カロリーベースの自給率を厳密に計算すれば、1割もないのが、ほんとうのこの国の「脆弱性」なのである。

武器を買うだけが防衛ではなく、食料の自給という根本がすでにない、砂上の楼閣がわが国の飽食なのである。
それでも、豊富な食材がスーパーには永遠にあるのだと信じて疑わないのが、わが国滅亡の原因と後世の歴史家は書くにちがいない。

いまどきの賃金取得者が、どこまで自分を「労働者」だと認識しているのか?が薄まったから、労働組合の組織率はもうかつてのようなことはなくなっている。

しかし、80年代の日本でのベストセラー、『選択の自由』(原著は1962年)におけるフリードマン夫妻の議論は鋭く、消費者団体は消費者のためにあるのか?とか、労働組合は労働者のためにあるのか?を説いている。

ただし、これらの指摘は、一方では本来の目的(合理性)が組織マネジメントする者たちによって簡単に誘導されて、歪められるという意味でもあった。

もちろん、ハイエクの『隷属(隷従)への道』と双璧をなす、「新自由主義」の名著であるが、「新自由主義」という用語そのものが、都合よくグローバル全体主義者たちの巧妙な論理(欺瞞)によって、まるでコロナウィルスのごとく忌み嫌われる悪だという扱いとされている。

なお、『隷属への道』(春秋社版ハイエク全集)には、フリードマンによる「序文」がある。

個人的に、ハイエクの深淵に比べるとフリードマンの浅さが気にはなるが、こうした論を現代現役の識者が同時代として語ることもなくなっている。

そうやって、ケインズ的なるもの(実は共産主義)を、永遠なるものとして、これ以外を排除することが、すでに暗黙の了解事項になっている。

連合会長は、共産党の排除は熱心だが、共産化した自公政権には擦りよっているかに見えるのも、永遠なるものへの依存という病理なのだと、あえてメーデーの今日、指摘しておく。