SNSで自治体観光宣伝すると2000円

民間でよくある「サクラ(詐欺)」のことである。

この言葉の語源は、歌舞伎関連の逸話からだという。
タダで入館・観劇できるかわりに、掛け声をしたり場を客席から盛り上げるのだが、桜の花見は「タダ」だということと、その場かぎりのパフォーマンスが桜の短い散り際とに掛け合わせた言葉だという。

舞台での演技がイマイチであっても、「客」の一部でも盛り上がっているのを通じて、会場の雰囲気を意図的に変えることができるから、主宰者はコストをかける意味がある。
ただし、あんまり「サクラ」が頑張りすぎるとかえって「やらせ」だとバレてシラケるリスクはある、

「タダ」といえば、むかしのひとは「薩摩守」と言っていた。
これは、『平家物語』の一ノ谷の合戦で散った、平忠度(たいらの「ただのり」=無賃乗車)の官職が、薩摩守だったことにちなんでいる。

「掛詞(かけことば)」とは、和歌の伝統でもあるから、なんだか優美な感じがするけど、いわば言葉遊びでもある。
こうしたことが、庶民にも理解できたし、江戸の庶民なら「連歌」だって楽しんでいる。

弥次さん喜多さんの珍道中で大ヒットした、『東海道中膝栗毛』でも、事あるごとに連歌趣味からの狂歌を捻り出しては笑っている文章を、読者は笑いながら読んでいたのだろう。

また、『平家物語』にしても、一般庶民がしっていたのだから、むかしの日本人の教養は、学校がなかったのにいまよりもずっと高い。

それもこれもラジオやテレビがなかったことのおかげであろう。

しかし、いまの10代から20代の若者たちは、ほとんどテレビを観ていない、という調査結果がある。
「Z世代」があんがいと優秀である,という評価は、テレビを観ていないことが要因になっているのかもしれない。

とはいえ、テレビを観ない時間を勉強にあてているということでもなさそうで、SNSのためにスマホを手放すことがないのである。
それで、短い文章による「会話」を楽しんでいる。

これはこれで「狂歌」の伝統回帰、といえなくもないが、コミュニケーション力が高まっているというほどでもなく、かえって誤解が誤解を生んで、対面するのが鬱陶しいらしい。

こんなトレンドに目をつけた、自治体が、観光宣伝のために補助金予算をあてて、ひとり1本の投稿で、2000円の宿泊補助をくれるところがある。

「サクラ」を引き受ける客はひとりあたり2000円も安くなるが、宿側は客に「サクラ」を依頼する手間がかかるので、役所からの補助金の実態は、2000円だけなのかどうかは客にはわからない。

宿の経営として、自店の「サクラ記事」をSNSにカキコしたらお土産がもらえるとか、ネット通販で、高い評価点をつけてくれたらキャッシュバックがあるとか、業者と客との間での「サクラ」は、企業倫理の問題であってもそこまでのことだ、と割り切ることもできるが、本当の評価ではなくウソの強要なら、これはこれで「詐欺の教唆」となる。

だが、自治体が予算(公費)をつけてこれをやるのは、言論の自由を阻害する「憲法違反」が疑われないか?

ちなみに、客は「投稿」だけでなく、役所への「補助金申請署」の提出もさせられるのである。

これは赤の他人を騙す罪なことだと、客も思わない社会は、弥次さん喜多さんの時代より、やっぱり退化しているとかんがえていい。

フランス左派連合と都知事選の始末

7月7日の「七夕」、パリと東京の選挙結果にある意味の衝撃が走った。
ただし、旧暦では6月2日だから、本来の七夕ならことしは8月10日である。

フランスでは、「極右」ル・ペンの快進撃が、「左派連合」によって止められたようにみえ、東京では、「案の定」小池百合子の三選が決まったかにみえる。

どちらも、「みえる」けど、これからどうなるのか?は、どちらも、「未知数」なのである。

とにかく「左派」ならなんでもよく、もっといえば「グローバル政党」ならどこでも応援するのが、世界のマスコミの潮流である。
なので、わが国のマスコミも、笑いを押し殺して実は「狂喜乱舞」したいのはやまやまだけど、じっとこらえているかに「みえる」のだ。

報道の荒っぽさ、という点で、とにかく表面に「みえる」ことしか伝えない。

とにかく、マリーヌ・ル・ペンの「極右」さえ抑えることができればいい、という「一点だけ」で、一週間しかない決選投票に臨むべく超短期の時間内で「談合」したのが、このたび「左派連合勝利」だと伝えられているけれど、じっさいは「烏合の衆」である。

いまやレームダックのはずの、マクロン派とは、「中道」とのレッテルをマスコミは眉唾つけて報じ立てているけれど、この政権がやってきた政策はぜんぶ「世界経済フォーラムのアジェンダ」に従っている、グローバル全体主義に過ぎないことぐらい、もうフランス人だってわかっている。

なので、左派連合にマクロン派が「結合する」のは、ほとんど物理学なのである。

しかし、元来がグローバリストたちといっても、急遽あわてて連合したこれらはみんな「温度差」がちがいすぎるのである。
だから、一回目の投票までは、「連合」なんかしていなかった。

いまや「マイルドな左派」といっていい、社会党から「極左=共産主義」あるいは「環境ファッショ」まで飲み込んで連合したのだから、いつまでも仲良くするひとたちではない。

たとえば、マクロン政権が受給年齢を引き上げる「年金改革」をやろうとしているのに、極左は、受給年齢を引き下げる公約で選挙戦を戦ってきている真逆がある。

「数」では、あたかも議会の過半を制覇したかに「みえる」が、単に「反ル・ペン」だけの集合体で、内実はバラバラなのである。
「単独」で過半数を制した政党がないことで、だれが首相になるのか?すら分からなくなった。

今後のフランスは、より一層、「多数派」のヨレヨレが目立ち、ル・ペンの鋭い攻撃は休むところがないだろう。

それで、東京だが、さっそく小池氏リコールが話題にのぼり出している。

しかし、小池氏への公職選挙法違反問題は、すでに検察が「受理」したので、今後の捜査がどうなるのか?がある。

容疑は、半世紀にわたる学歴詐称問題と、公務員の地位利用の二点だ。
「デジタル・タトゥー(公開された証拠)」がある後者の方がより深刻で、検察が逮捕・起訴まで追い込む可能性は高いと、検察OBの弁護士が指摘しているし、告発したのも検察OBの弁護士である。

「辞職」の前に、「選挙無効・失職」の可能性があるということだ。

なお、次点の候補、三位の候補にも公職選挙法違反の疑いとして何れにもデジタル・タトゥーがあるから、都知事選のゆくえはこれからが「本番」なのである。

また、小池氏に翻弄され続けている、「都庁」では、すっかりお通夜状態だという噂もあって、今後、内部告発のラッシュがあるかもしれない。
このなかで、兵庫県知事のパワハラを告発した県庁幹部が、100条委員会での証言前日に自死したという不可思議が都庁職員を萎縮させているだろう。

わが国の闇は深い。

これを、「夜明け前」だというひともいるけれど、わたしには「夕闇」におもえてならない。

そんなわけで、ロンドンでの労働党勝利も、投票行動の分析が進んで、なんと労働党は得票数を前回よりも減らしての「大勝利」だったことが判明した。
パリでも、得票数ではル・ペンの極右が第一党になるのである。

一方で、アメリカでは、討論会で露呈した「老い」が、空前の8000万票を得たはずの「バイデンおろし」に拍車がかかっている。

どこもかしこも、大勝したはずが、そうではない。

これがいまの世界潮流なのである。

痛快『われ、正気か!』

「X(旧ツイッター)」への投稿記事がバズりまくったのをいいことに(笑)、出版社からもオファーがあって本当に出版した一冊のようである。

著者は、広島県出身ゆえに、「広島弁にて執筆する」というのも、なかなかいい。
それに、5児の母というのも、もっといい。

しかして筆者の経歴は、なかなかに「複雑」なのである。

もちろん、この系統立てた理屈を行動にうつしているだろう人物が、自身をどう観ているのか?については、一貫性があるにちがいないし、もしもバラバラならば精神疾患を疑うことになる。

とはいえ、これは、だれにでもいえることなので、決してけなしているのではないので念のため。

わたしがいいたい「複雑」とは、どうして小池百合子氏が創設した「希望の党」から国政に出馬したのか?とか、どうして「日本会議」の会員なのか?という二点をもっても、理由がつかめないからである。

ただ、この度の都知事選では、「田母神俊雄氏に投じた」とつぶやいているのは、「日本会議」会員としての行動だと解釈すれば一貫性はある。
田母神俊雄氏も会員だからである。

先のブログで、都知事選を「疑う」記事を書いた。

蓋を開けて「案の定」という感想を強くしたわたしとしては、本書筆者の一刀両断的な論評を聞きたい。

さてそれで、『われ正気か!』は、たいへん豊富な知識を余すところなく、しかも、広島弁で表記した、関東人には『仁義なき戦い』(東映、1973年)を思い起こさせる粗っぽさで、痛快なる議論を母の語り口としておそらく実子の子供たちに言い残したくて書いたのではあるまいか?

かんで含んで言い聞かせているからである。

ここで語られているのは、一種の「道徳」である。
むかしは、とくに教わることなく自然にほっといても習得できたものであったが、社会が複雑化しただけでなく、個人を分断してアトム化し、果ては共産(全体主義)体制を企む連中のおかげで、この本のように「教わらないと習得困難」という事態になっているのである。

「道徳」がないと資本主義は成立しない、と説いたのは、50年代にアメリカで「国民作家」と評された、アイン・ランドであった。
なので、アイン・ランドは、資本主義を「未来のシステム」と評した。

人類は、資本主義の前提となる道徳社会をいまだに経験していないから、「未来」なのである。

すると、道徳が失われた現在をスタートラインにおくと、「資本主義は永遠に成立しない」ということになる。
ならば、「ポスト・資本主義」とか、「新しい資本主義」とかというのは、ぜんぶ「共産主義用語(=ダブルスタンダード)」に読めるのである。

本人は「物理学者」だなんて微塵もかんがえたことがなかったのは、アイザック・ニュートンである。
彼の生きた時代、「物理学」なる学問分野がこの世に存在しなかったからだ。

同じように、自身が「経済学者」なんてかんがえたことがなかったのは、アダム・スミスである。

ニュートンも、スミスも、共通なのは「英国人」だというだけでなく、本人が自身を「哲学者」だと認識していたことである。

対象を細かく専門化させることを「科学」と定義できるので、彼らの後の「科学者(自然・天然を細かく専門化させるのが自然科学、社会に状況を細かく専門化させるのが社会科学、人間がかんがえつくことを細かく専門化するのが人文科学)」が、ニュートンを物理学者にして、スミスを経済学者にした。

もちろん、ニュートンもスミスも、この世にいなくなってからのことである。

そのアダム・スミスが生涯に出版したのは、『道徳感情論』(1759年)と、『国富論』(1776年)の、ふたつの大著だけである。

経済学者は、『国富論』しか読まないか、読んだふりをするが、スミスの思考の前提にあるはずの『道徳感情論』を無視するのは、「科学(者)」だからだろう。

ならば、『われ正気か!』も、筆者の著作(つぶやきも含む)を広く読むことが重要なのだとわかる。

近代科学は、たしかにわれわれの生活に多大の影響と恩恵をもたらしたが、昨今では「細かくしすぎ」て、木を見て森を見ずを平然としておこなっても、だれも非難しなくなったのである。

そうしたら、科学が退化をはじめたのだった。

「行動経済学」のいまさら論

アダム・スミスの話(『道徳感情論』と『国富論)から、そもそも論を追いかけたら、「行動経済学」とぶつかった。

経済学の世界も御多分に洩れず、いわゆる「タコツボ化」が久しいようである。

いま、ふつうに「経済学」というと、「主流派経済学」という分野のことで、その分野の学会にいるひとたちを、そのまま「主流派」というのは、「最大派閥」という意味になるからでもある。

この意味で、学者さんも、人間なのであって、寄らば大樹の陰という心理がそうさせるのであろう。

前に、「主流」と「本流」について書いた。

日本の戦後政治で、自民党内の総裁派閥とこれを支持する派閥を、「主流派」といって、それ以外を「反主流派」といって区分けしていたことがある。

対して、「保守本流」なる作家の造語もあって、吉田茂の系統すなわち「宏池会」のことを指した時期もあった。
どうして、岸信介の系統、すなわち「清和会」を指さないのか?それとも何なのか?がわたしにはわからない。

一般的に「保守」とは、伝統主義とか民族主義的な要素があるものだけど、吉田にも岸にも、そのような感覚はなかったから、吉田はGHQのコードネーム「ポチ」になれたし、岸は絞首刑の前にCIAエージェントになる同意書にサインできたのだろう。

そうやって考えると、「保守本流」なる造語の意味は、ないものをさもあるように見せかける「方便」であって、もっといえば「ウソ」である。
この言葉を広めた戸川猪佐武をわたしは信用しない。

しかし、「主流」はあるが「本流」がない、とはこれまたどういうことなのか?

じっさいの「川」で考えたら、変な話である。

しかして、この変な状態が我が国の戦後政治の奇妙なことの本質ではないのか?
徒党を組んで数はあるが、中身がない。

これを、天才三島由紀夫は、「からっぽ」といったにちがいない。

さて、経済学ではなくて経営学の方面では、1922年から「ホーソン実験」で、人間とは感情がある動物であると発見されて再定義されている。
それまでの定義は、「人間は合理的動物だ(ホモエコノミカス)」というものだった。

ところが、経済学の「主流派」は、いまでも「人間はエコノミスト」であると定義して、さまざまな「経済(数理)モデル」をこしらえては各種シミュレーションをやって、これを論文等で発表しているし、学位もそうやってこしらえたモデルの良し悪しで授与が決まるようになっている。

驚いたことに、そんなのおかしい、「人間は感情ある動物だ」と、経営学が100年前に気づいたことを、2017年になって「ノーベル賞」「行動経済学理論発展の貢献」が与えられている。

しかして、アダム・スミスが道徳感情論で述べたことの再発見が「ホーソン実験」だったし、そのまた再確認がノーベル賞になったのである。

道徳感情論は1759年の発表であるから、ざっと260年。
時代も場所もちがえど、徳川幕府の期間とほぼ一致する時間がかかっている。
この意味は、枯れていた経済学にようやく「本流」が見えたことであって、「主流」は今日も本流とは別に流れているのである。

つまるところ、いまさらとはいえ、本流こそが重要なのである。

あらゆる思考の原点に、アダム・スミスがいることも、極めて重要な「発見」だといえる。
ビジネスに関わるならば、アダム・スミスの二冊は必読といってまちがいない。

名誉革命と『権利の章典』再考

英国での名誉革命は、1688年(日本では「元禄元年」)の出来事で、翌年には、『権利の章典』が成立した。

これによって、国王に対して、「議会」が対峙することになって、
・法の廃止
・課税
・常備軍の募集 には、議会の同意が必要になったのである。

上の3点をよく読むと、わが国はどうなっているのか?と疑問に思わずにはいられない。
もしや、わが国は、1600年代の英国よりも「権利がない」のではないのか?

法の廃止

いったん法制化された法律が、わが国で「廃止」になることがどれほどあるのか?
たいがいの法律は、「改正」という手段で生き残っている。

課税

わが国に税理士が必要なのは、税務が簡単でないからだ。
加えて、公認会計士が必要なのも、会社法における決算が簡単でないからだ。
もちろん、税法も、国会で定めるのは「法だけ」で、「施行令:政令」や「施行規則:省令・府令」は、内閣や各大臣の行政府が定めるものだ。

よって、施行令や施行規則は、国会のチェックを要しないので、行政府が「匙加減」できるようになっている。

常備軍の募集

わが国には、常備軍は存在しないことになっている。「自衛隊」は常備軍ではないけれど、国際的には「軍扱い」を受けている実際がある。
ただし、たとえば海上自衛隊の艦艇が外国に寄港する場合に、軍港への寄港が許可されればまだしも、一般港湾を指定された場合には「接岸料」を請求され、払えない場合には寄港も物資補給もできない扱いとなる。

少子化による定員割れはすでに自衛隊でも発生しているが、強制的な兵員募集が行われる可能性は、国会次第、なのは意外と世界共通になっている。
なお、現状、アメリカ連邦議会では、アメリカ軍の徴兵登録(18歳から25歳までの男性は義務化されている)に女性を加えることが議論されている。

男女同権をいうフェミニストは、これをどうおもうのか?
もちろん、米軍はLGBTQについて積極的寛容である。
対して、ロシアではLGBTQは、個人のことなので、他人にカミングアウトしたり主張することは禁止・逮捕される。

なお、あんがいとしられていないことだが、世界共通の常識に、大学における「軍事学の必修」がある。
わが国では、まず同様の「必修」があってもいい。
講師は、自衛隊左官経験者以上が望ましい。

さて、英国で二院制ができたのは、上院が聖職者や大貴族、下院が地主貴族やジェントルマン層と、歴史的背景がある身分で分けたからである。
わが国もこれに倣ったが、敗戦後の華族廃止で上院たる「参議・院」が浮き上がってしまった。

アメリカ人からなるGHQは、アメリカ方式の上院の役割(外交・条約、政府高官人事承認)と下院の役割(連邦予算)を、日本の議会に当てはめることはしないで、上院を下院(衆議院)のただのコピーとして、さらに下院の優先を認めたので、参議院は一層浮き上がったのである。

それで、仕方がないから、マスコミは「参議院は良識の府」なる持ち上げをしたが、選挙制度改革という自民党の永久支配制度の導入で、ほとんど意味のない二重議会という存在の軽量化を図り、比例区なるごまかしの導入で復活当選を可能にすべく衆議院にコピーしたのだった。

こうして、国会議員=衆議院議員という定義になって、どのように選挙区を相続するのか?になり、平安時代以来の「新しい殿上人」という身分制度ができた。

これが、いま、国民に上から目線で平然と語れる状態をつくったのである。

絶対に落選しない仕組み、があると信じて疑わないからだ。

しかし、ロン・パリを見よ!なのである。

マスコミの社会調査はゴミ生産

都内に暮らしていないので、わが家に都知事選の調査協力依頼がくることはないのは当然としても、このところ固定電話に自動音声での「アンケート」が何回かかかってきている。
そのまま応答せずに切ることがおおいけれど、どんな質問なのかに興味があるときは、「回答協力」をやっている。

ただし、ただで他人の時間を奪う一方的な電話がコトのはじめだから、その回答について、わたしがおもうこととは真逆に対応する番号を押すことにしている。

それで、その調査の信頼度がどうなろうとしったことではないのだが、そもそもサンプル数やら、有効回答数など調査の信頼性のための基本データすら公表しない「アンケート結果」がふつうなので、まともにそうした結果を見聞きする価値もはなからないということで、こころの痛みを消しているのである。

ようは、ゴミである。

統計をちょっとでもかじったひとならしっている、ゴミデータをどんなにいじくっても、ゴミからはゴミしか出てこない、のが統計の「いろは」の「い」である。
ホンモノのゴミからは、資源が回収される「かも」しれないが、ゴミデータからはぜったいに不可能である。

いまでは、学習指導要領から、中学校や高校の数学で統計を習うので、いまどきの中学生や高校生の方が、よほどこの基本をしっている。

なので、しらないのはアンケート調査をやっている者たちか、調査専門会社に丸投げ発注依頼した側のおとなたちの方なのである。

だから、専門会社が、ちゃんと基礎的な表記をして「納品」したのに、その重大性に気がつかないで「編集」して省いている可能性が高い。

これはもう、報道資料として自殺行為であるけれど、ぜんぜん気づかないのは、読者が理解できないとタカをくくっているからにちがいない。

かかし、上述のように、中学生や高校生は、習ったばかりという新鮮さでその重要性をしっているのである。

わたしが社会の教師なら、これほど役に立つダメ資料はないと、大手マスコミの記事をもって生徒に教え、いかにおとなが阿呆かを批判的に観察させて、他山の石とする。
かしこいおとなになってほしいからである。

しかして、いまの日本は、高校を卒業する18歳で選挙権を得るので、あんがいとはやく学校で得た知識を実践できる環境に投げ込まれるのである。
むかし、尋常小学校をでてすぐさま働きに出たのとはちがう、もっと重い意味の社会的責任を負わされることに、とうとう親世代も気づかないでこれを許した。

さてそうやって構成されている社会を眺めると、たとえば、都知事選の「有力候補」についての報道が、どのような調査に基づいているのか?について、明らかにしながら報じる者がいないことに注目すると、「開票速報」ですぐさま表示される「当確」の意味が、ぜんぜん信用おけないことに気づくのである。

マスコミは、建設業と役所の「官製談合」をずいぶんと叩くキャンペーン記事を書きまくってきたけれど、大手ほど建設業がコマーシャルのスポンサーになることがないからで、役所の広報予算もたいしたことがなかったことが原因だったとかんがえられる。

ようは、おねだり、だったのだ。

しかし、いまや、政府広報の「定価」でいける比重が、「おいしい」という営業上の理由から、政府(地方自治体も含む)のいいなりプロパガンダ機関になるしか、生き残りの術がなくなった。

あたかも、航空券が「正規」で売れたようにであるが、飛行機に正規料金で乗るものが皆無になって、ガスを燃やして噴射して空を飛ぶ飛行機が、電気でモーターをまわす新幹線よりも安くなる、「原価通り」になったのである。

地上に空港設備があれば、どこでも飛んで行ける飛行機には、線路や架線そのメンテの保線のみならず、トンネルや橋梁を作るコストがいらないからである。
火力発電が主電源の電車は、走るときだけ排ガスをださないだけで、発電とメンテに多大のエネルギーおよび資源を要するのだ。

超伝導で超電気食いのリニア(品川-名古屋で専用の大型原発が一基、大阪まで伸延すればもう一基要る)が、世界でどこも採用しないのは、ぜんぜんエコノミーでもエコロジーでもないからである。

そんなわけで、外国のエージェントと化したNHKを筆頭に、「当確談合」を選管といっしょにやれば、もうそれで「民主主義」の完璧な選挙が一丁上がりとなるのである。

すると、いまの体制下において、もっとも怪しい役所は、「選挙管理委員会」なのである。

なるほど、財務省やらを悪者にして、選管の闇を隠している。
選挙管理委員会の親玉は、総務省=旧自治省=「キング・オブ・役所」だった旧内務省だ。

そういえば、中学校の生徒会役員選挙も、職員室が「選挙管理」を主導していた。

ゴミデータからはゴミしか出てこないが、「選管の闇」というゴミがでてきた。

あたらしい『二都物語』がはじまった

チャールズ・ディケンズの『二都物語』は、1859年(安政6年)に発表された。

日本的には、「ロン・パリ」の話であるが、けっして斜視のひとがでてくることはない。

物語の時代は、パリではフランス革命の前夜からで、ロンドンでは英国保守主義の父とされるエドマンド・バークが冷ややかな目で観察していた。
このバークの親友に、かの、アダム・スミスがいる。

さいきんになって、アダム・スミスが見直されてきている、という。

そのきっかけとなった一冊が、現役の英国保守党国会議員、ジェシー・ノーマン氏の著作、『アダム・スミス 共感の経済学』(2022年)だ。
ここで、ノーマン氏は、アダム・スミスが長年、まともに読まれていない、誤解だらけだと指摘している。

これはなにも、アダム・スミスに限ったことでは無くて、たとえば、ハイエクの『隷従への道』(日経BPクラシックス、2016年)の「序文」で、ハイエク全集の編者ブルース・コールドウェル教授は、「読んでいないのに批判するひとがいる」と批判している。

ちなみに、上の二冊は、翻訳が村井章子女史だという共通がある。

アダム・スミスなら、経済学徒でなくとも有名な、「見えざる手:invisible hand」と原文で書いているのに、これを「(神の)見えざる手:invisible hand(of God)」と、勝手に「神の」をつけ加えて、意図的な誤解の上塗りをしているのである。

ここから、アダム・スミスは、自由放任主義者である、という一般的な誤解が、そのまま専門家たる学者間でも通用するようになってしまった。
おそらく、こういったひとたちは「読んでいない」のだ。

さらに、アダム・スミスには、この『国富論』よりも前に、『道徳感情論』を執筆し出版しているから、この二冊をセットで捉えなければアダム・スミスを理解できない。
そして、幻の『法学講義』原稿が発見されて、アダム・スミスの論は少なくとも「三部作」で構成され、全体での理解が要求されることがわかってきた。

これを、いまさらの2022年になって活字になったのを、我われはどう考えるべきなのか?

そのノーマン氏も、英国保守党の国会議員にして、この度の「歴史的大敗北」を喫したことの責任の一端が問われるのである。

21世紀の「ニ都物語」は、2024年の7月というほぼ同時に、ロン・パリで実施された総選挙で、ディケンズの話とは真逆の結果となったのは、なぜか?

ロンドンでは、グローバル全体主義に落ちた保守党に代わって、より確信的で強固なグローバル全体主義・労働党を選択せざるを得ないように追い込まれた(過去からの選挙制度が効いている)国民からしたら、労働党政権では英国の没落に歯止めがかかるばかりか加速することが決まったも同然なのである。

これを、BBCが煽って国民を洗脳せんと活動しているのだ。

よって、圧勝なのに、あんがいと労働党政権は脆いはずなので、英国に再度嵐のような政治の風が吹くのか?が今後わたしが注目したい点なのである。

一方で、パリでは、グローバル全体主義の嚆矢となった、フランス革命が大反省されて、あたかも、シャルル・ド・ゴールの再来のようなナショナリスト政党が、「極右」と「極左」からレッテル貼りをされながら第1党になったのである。

70年代からさえも、真逆なのだ。

ロンドンでは、ハイエクの『法の支配』を掲げながらも、わずかな閣内経験しかないサッチャー女史が大勝利し、パリでは、社会党が推すミッテランが大統領になってより強力な社会主義政策を実施したのだった。

まさに、エドマンド・バークがいう、フランスの失敗が再びはじまったのだが、それは本当に、理論通りの絵に描いたような結果になったのである。

しかして、保守党はサッチャーを失脚させた時点から、何らの進化も、思想体系の塗り替えもせず、ただグローバル全体主義にはまり込んだのは、帝国の繁栄に陰りが見えてからはじまり、労働党との競争(バラマキ合戦)になった、「揺り籠から墓場まで」を狂ったように実行したのと同じ、先祖還りをした結果とも言える。

ならば、アダム・スミスを理解する、若いノーマン氏に期待したいところだ。

ところで、「東京」はどうなのか?

保守党よりも悲惨な自民党に、英国労働党よりも筋が通らない野党が、ふらつきながらいるだけの状態なので、ノーマン氏のような理論武装ができる議員もひとりとして存在しない有様なのである。

それにこの都知事選の不毛が重なる。

もはや東京は、「三都」にも数えられないことになるだろう。

負け犬の自民党総裁選に意味はあるのか?

どうやら岸田氏は衆議院の解散総選挙を「やらない」と決めたから、先に9月に任期切れとなる「自民党総裁選挙」の方が先に行われるようである。

岸田氏が無風のまま再選されればいいものを、あたかも岸田内閣に楯突くふりをしてみせて、国民に妙に日和るのも今更無駄だといいたいところだ。
挙党一致で、かつ、閣内一致の政党・政権で、せいぜい反旗らしき発言をふだんから言うのは、参議院議員の青山繁晴氏ぐらいしかみあたらないからである。

世界潮流として、「極右:反グローバリズム=ナショナリスト」が伸びているのは、グローバル全体主義の弊害とその奥にある狂気に多くの国の国民が気がついて嫌気を感じているからである。

グローバル全体主義とは、「酸」のようなものなので、それぞれの国家の「国体」を溶解・破壊する。
ここでいう「国体」とは、各国家が持っている歴史や民族の文化に基づく「国のありよう」のことだから、なにも日本のことだけではない。

すると、勘のいいひとは、こうした「酸」の働きをする思想の本質が、共産主義であることに気づくのである。

この人為しかない思想の毒は、人類を支配者と被支配者とに分類し、被支配者には人権すら認めない。
そこにあるのは、物質として生きている動物としての人間であって、「唯物史観」とは、一個の人間すら物質とみなすことで成立している。

ようは、支配者だけに人権が認められるが、その支配者は常に「ひとり」しか存在しないのが理論的にも結論となる。

その「ひとり」が神と同格になるので、共産主義は宗教を禁止する。

自ら、「共産主義という宗教」であることを知っているからで、あらゆる宗教の中でも最も排他的なのが共産主義となるのは、こうした理由からの結論なのである。

さてそれで、共産化した自民党の総裁選挙に河野太郎氏が立候補に意欲を出しているという。

この方の「本籍」が、北京にあると知られるようになっているなか、1日、自民党総裁で総理になれなかった父の洋平(87歳)が、その本籍地に財界人というカネの亡者90人を引き連れて里帰りした。

すると、一家でこうした人物たちが、果たして衆議院議員であることも、公職選挙法に触れないか?
それは蓮舫の国籍問題どころの話ではない。

4日の総選挙で英国保守党が、どこまで議席を減らすのか?がとっくに世界の話題になっていて、フランスではいまやマクロン氏の政党が話題にも登らなくなっているし、カナダのトルドー政権も風前の灯火状態にある。

これらの現象の共通に、それぞれ大統領職や首相職にある人物が、世界経済フォーラムのシュワブ氏「肝入り」があって、河野太郎もその中にあるひとりなのだ。

すなわち、これらの人物が信じる情報源は、世界経済フォーラムというコップの中にある。
日本人で、この組織のトップ階層にいるのが、竹中平蔵だ。

河野太郎も岸田文雄も、竹中を通じてシュワブ氏を見ているが、国民を見ることはない。

支配者にとって、被支配者に気を取られるのはムダだとシュワブ氏に仕込まれたのだろう。

しかし、その国民たちが投票しないという行動をとって、選挙不正が間に合わない状況を作っている。

次の衆議院議員選挙では、自民党はどれほど議席を減らすのか?が、世界の目線になる中で、今更の河野太郎の立候補は、もはやピエロの足掻きにしか見えないのだがいかに?

日本の首相に免責特権はあるのか?

英国人やアメリカ人を構成していた、アングロサクソン(ゲルマン人の一部)は、元来働くことが嫌いなので、戦闘によって獲物にした奴隷に働かせて、自分たちは安穏と生きることを好んだが、いつどこから襲われて奴隷の身に落ちるかわからないので、労働ではなく体を鍛えることはやっていた。

それが後に、「ノブレス・オブリージュ」へと昇華していく。

どうやら、作物が育たない寒気のヨーロッパにあって、肉食にならざるを得なかったことが、彼らの野蛮性を育んだらしい。
彼らが安定した糖質の、「ジャガイモ」を食べるようになって、まだ500年しかない。

南米原産のこのイモ(トマトも)が、一般人の食卓に並ぶには大航海時代が必要だったのである。

日本人の祖先、縄文人はこれとは真逆に、地球上で唯一の「温暖帯にある島国」という、奇跡的に豊かな環境があったので、人間も温和でどんな遺跡からも、あるいは墳墓からも、戦闘のための武具が発見されていない。

武装した人物像がでてくるのは、ずっとあたらしい古墳時代の「埴輪」からである。

さいきん、こうした時代の変化の要因に、「地球環境」が無視できないことがわかってきて、温暖化と寒冷化のサイクルになかで、物騒になるのは寒冷化がつくりだす時代だとハッキリしてきた。

もちろん、石油を使う時代はずっと後なので、炭素が原因の温暖化でも寒冷化でもない。
地球という宇宙空間にある惑星の、宇宙環境や地球自身の活動による結果である。

ヨーロッパ大陸は、わが国よりもはるか高緯度に位置するから、寒冷化の影響も厳しく、ざっと400年前にはテムズ川も凍結して、農作物ができずに飢饉になっている。
これは、わが国も同じで、戦乱の世の中の原因になったのである。

さてそれで、アメリカは日本の4月ととちがって、新年度は9月からだ。

連邦最高裁判所は、6月末から9月まで「年度末の夏休み」になる慣習があって、重大判決のおおくは、6月末に集中して、それからゆっくり休むのである。

なんだか優雅だが、そもそも裁判官は国王にかわって貴族がやっていた。
それでも、このひとたちの粗っぽさは、さっさと判決を出すことで、日本のようにダラダラと何十年も裁判を行うことはしない。

しかしながら、ことしは重要案件が多すぎて、6月末までには間に合わず、おそらく7月4日の独立記念日前、つまり3日まで、次々と重要判決を言い渡すに違いないことになっている。

そんななか、1日、大統領免責特権に関する重要判決が出た。

トランプ氏を狙い撃ちにして、彼以外の大統領職にあったものや将来の大統領には遡及しない、という「特別な判決」が下級審でくだされたのを、ちゃんとひっくり返したから、まともな判決だろう。

これで、大統領選までにどれかひとつでもトランプ氏を有罪にできればいい、という目論見の粉砕につながった。
ニューヨーク州地裁ででた、「有罪評決」が唯一となったが、当然だがトランプ氏側は控訴することが決まっているし、多くの疑義が裁判官にも及んでいる。

腐ったわが国のマスコミは、この裁判の意義すら日本国民に伝えない。

アメリカ連邦最高裁は、三権分立を遵守したのである。
連邦議会で決まった「法」を、執行するのが大統領職で、そこに軍をふくめた行政府の長としての務めがある。

この「務め(公務)」に関しては、免責特権が与えられることを確認した判決だった。
なので、「私事」についての免責特権はない。

一連のトランプ魔女狩り裁判とは、公務と私事との区別なく、とにかく主体がトランプだから有罪という下級審の判断を差し戻したのである。

ついでに、トランプ氏を起訴している「連邦特別検察官の身分」について、判事のひとりが意見種を出した。

「連邦特別検察官」とは、連邦上院で、「連邦検察官」が「特別」に指名・認証されてはじめて就任する立場にあるが、トランプ裁判を担当する「連邦特別検察官」は、連邦検察官でもなかったひとが、司法長官の指名だけで就任しているのである。

それで、この判事は、「この連邦特別検察官」を正規とするには、あらたな立法を必要とする、と書いた。
すると、無資格な人物が検事となっているこれらの裁判は、はたして成立するのか?という問題となったのである。

そんなわけで、トランプ氏は選挙に間に合うはずがなくなった今後の裁判日程から、「勝利した」と言ったのである。

さてそれで、わが国の首相や大臣あるいは内閣全体の場合はどうなのか?

最高裁の力量が問われることは当然だが、それよりも三権分立の遵守がわが国最高裁をして覚悟があるのか?

残念ながら「不安」としかいいようがないのである。

EU三役の阿呆レベルで自滅はあるか?

EU議会選挙が終わって、フォン・デア・ライエンEU委員会委員長の二期目がスタートすることが確実になっている。

各国代表の「極右が台頭」したとはいえ、ライエン氏の再選を阻止するにはいたっていないからだ。

何度も書くが、EUとは、かろうじて「二権」(立法&行政と司法)分立をしている、おかしな国際機構である。
しかしながら、立法と行政がセットになっている、EU委員会という巨大権力機構を牛耳るのは、ひとりの委員長なのである。

もちろん、人間の能力や24時間しかない時間配分のムリから、EUにも委員長を支える「二役」が用意されているので、委員長を加えて「三役」というのである。

この手の情報発信の第一人者、『ニキータ伝』さんが伝えているのを、以下に超要約する。

ひとつが、外務・安全保障政策担当上級代表だ。
いってみれば、外務大臣と国家安全保障会議議長を兼務したような重職である。
現在は、スペイン外務大臣だったジョセップ・ボレル氏がその職にあるが、今年の11月までで、後任にはエストニア首相のカヤ・カラス氏ときまっている。

日本では岸田内閣の支持率が歴史的な低さで話題になっているが、バルト三国の北方にあって、バルト海の香港と呼ばれるほどに経済発展したエストニアを、任期中に失速させたために、不支持率70%という驚異の実績をたたきだしている。

このひとの父親は、ソ連崩壊時に大儲けしたオルガルヒ(新興財閥)で、エストニアにあっては、財務大臣から首相も務めていた。
わたし的には、ニュージーランドの首相で、世界経済フォーラム総ツ者シュワブ氏の秘蔵っ子だった、強権政治をやり抜いたアーダーン元首相を彷彿とさせる人物だ。

そのシュワブ氏も、引退して権力を失ったらいきなりセクハラで複数から訴えられている。

まともなコメントが楽しい、ロシア外務省は、このEU人事に、「狂気の度合いは更に増すだろう」とまともに発表している。

もうひとつが、欧州理事会議長の人事で、こちらは、ポルトガルの元首相、アントニオ/コスタ氏である。
この人事も、フォン・デア・ライエンのご指名らしく、「お仲間」を脇に抱えるのは、盤石に見えるが、じつは脆い体制づくりの悪手である。

ようは、ライエンは両脇に阿呆を配したのである。

ドイツに生まれた、ハンナ・アーレントは、若くして『ファウスト』を暗誦していた。
むかしの武士の子供も、『四書五経』の素読を通じて暗誦することができたのは、子供の脳細胞がインプットに適しているからだ。

なので、子供時分に暗誦できたものは、一生忘れない。

英国の傀儡となった明治政府が推進した、「学制」による学校教育が、素読の伝統を廃止したので、わが国に伝統的な教養人が絶えたのである。

ここであらためて、ウルズラ・ゲルトルート・フォン・デア・ライエンの誕生日をみたら、1958年10月8日生まれという、典型的な「戦後生まれ」なのだ。

すると、あたらしく白紙から建国された「東・西ドイツ」にあって、とくに西ドイツではどんな教育がされたのか?あんがいと日本人はしらない。
むろん、第二次大戦の敗戦国として、アメリカによる制度設計はその国を衰退させることはあっても、発展させるようなことはしない。

この両国の、戦後の経済発展は、日本でいえば明治生まれの頑張りによるし、その後の衰退は、戦後世代によるからわかりやすいのである。
いまのドイツも、わが国同様に「お困りのポリコレ」ばかりなのは、戦後教育の成果にちがいない。

なので、この人物も、与えられた範囲での勉学はできたけど、アーレントのように自分でかんがえることができないのは、「素地」に古典がないからだと推察するのである。

おそらく、『ファウスト』も読破したことがないのではないか?
あるいは、『ローマ帝国衰亡史』も。

わが国の議員でも、こうした古典をしらない人物が入閣して大臣になって権力行使の快感を味わっている。

いまや「G7」が阿呆づらばかりなのは、似たような境遇の人物たちが、真の支配者たちから都合よく利用されているからだろう。

バイデン降ろしが、本当に「予期せざる結果」であったなら、エリートと目されるひとたちの浅はかさだけが目立つのである。

さて、フランスでは「極右」が大勝利し、ソロスから命じられてカネをもらった左翼が大暴れしている。
あたかも、アメリカで「BLM]や「アンティファ」がやったのとおなじパターンである。

かんがえることができないフォン・デア・ライエンのチームは、これからなにをやらかすのであろうか?